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川柳的逍遥 人の世の一家言
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人間味少し甘くてしょっぱくて  津田照子
 


     中山道・69次木曽街道 (渓斎英泉画)

 
宿場は、街道の拠点となった所。宿駅ともいい、「駅」の語源でもある。
宿場は、家康入府に伴い「宿駅伝馬制度」が定められ、街道が整備され
るとともに発展した。東海道では慶長6年(1601)に品川から大津
まで53駅(東海道五十三次)を順次整備し、寛文元年に(1624)
45番目の宿場である、庄野宿が出来て53駅が出揃った。
因みに、中山道には69次がある。そのため宿場では、公用人馬継ぎ立
てのため、定められた人馬を常備し、不足のときには、助郷(労働課役)
を徴するようになった。


     
       問 屋 場                                               
 
 
  また、公武の宿泊、休憩のため問屋場、本陣、脇本陣などが置かれた。
これらの公用のための労役、業務については、利益を上げるのは難しか
ったが、幕府は地子免許、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典
を与えることで、宿場の保護育成に努めた。他に一般旅行者を対象とす
旅籠、木賃宿、茶屋、商店等が建ち並び、その宿泊、通行、荷物輸送
等で利益を上げた。また、高札場も主要な駅に設けられた。


ト書きから転げ落ちたら生まれたわ  河村啓子


「徳山五兵衛」 将軍・吉宗に見初められた男ー⑥



        三 島 宿

三島宿は、東海道五十三次11番目の宿場。この三島宿は南へ下田街道
、北へ佐野街道(甲州道)が分かれる交通の分岐であり、また、箱根の
山越に1日かかるため、足休めとして多くの旅人が泊まり、旅館数も多
く賑わった。


三島宿・酒匂川の茶店でお縄にした越後浪人・佐藤忠右衛門の懐中から
出て来た紙片には、「遠州まいかの村、金兵衛」とある。紙片を指し示
しながら徳山五兵衛は、
「日本左衛門一味の連絡(つなぎ)の場所、盗賊仲間でいう盗人宿であ
 ろう。いかが思うな磯野」
与力・磯野源右衛門に質した。
「はい、さように思われまする」
「先ず、これから手をつけねば相なるまい」
「では、私めがこれより、すぐさま出立いたしまして…」
「いや、急くことはない。明朝でよい。遠州みかの村とあるのは、見附
 宿の半里ほど手前にある三カ野村にちがいない。
 そこで金兵衛といえば、だれもが知っていよう。どうだ磯野」
「いかにも」
 といい、この説に磯野源右衛門は頷いた。


気散じな椅子に座っている明日  桑原伸吉


三島から見附迄は、約25里。徳山五兵衛は、二日で進むつもりだ。
「苦労をかけるが磯野、明朝は、馬を仕立てて発足してもらいたい」
「心得まいた」
磯野源右衛門が早朝に三島を発し、馬を替えつつ疾走していけば、明日
の夜には見附へ到着できる。だが、盗賊改方の本拠は、見附より1里半
手前の袋井宿へ置くことになっている。気取られぬためであった。
一方、強行軍の旅に疲れてか、眠りこける柴田用人の倅平太郎をそのま
まに寝かせておいて、夜も明け切っていない刻限、五兵衛と小沼治作は、
江尻をあとに足を速め、府中・丸子・岡部と過ぎ、袋井宿へ向かっていた。


K点を少し手前に置いてある  池田貴佐夫


「今日もよい日和でございますな」
「なによりじゃ」
「なれどこのように早く、手がかりを得ようとはおもいもしませなんだ」
「わしが若いころの放埓も、あながち無駄ではなかったわ」
「なれど、あの頃の殿には、つくづくと手を焼きましてございます」
「わしを諫めんとして、腹へ刀を突き立てたのう」
「そのことは、もはや…」
「いや忘れるものではない。かたじけなく思うている」
「またしても、何を仰せられますことやら…」
「小沼がいてくれなかったら、いまの徳山五兵衛もいなかったであろう」
 徳山五兵衛は、しみじみと言った。小沼治作の声が絶えた。
五兵衛と小沼は途中で馬を使いもしたが、夜更けになってから、袋井宿
の本陣・田代八郎左衛門方へ到着した。


風を切る肩に一片のはなびら  下谷憲子



   旅籠  
(夕餉を食する者、湯につかる者がみえる)

一般旅行者用の食事付き宿泊施設。江戸時代になって,諸国産物の流通,
公用,商用などの交通量の増大に対応したもので,食事や沐浴が可能に
なり,現在の旅館にみる1泊2食付き料金も,元禄時代から始った。


東海道・袋井は、江戸から59里12町。京都へは66里9町のところ
にあり、掛川と見附の大駅の間にはさまれ、小さな宿場である。宿場へ
入る手前に川が流れており、宇天橋という橋がかけられている。この川
を宇刈川といい、宿場の東側から北面をまわって西へ流れている。
すでに到着していた盗賊改方の一行は、分散して袋井宿の旅籠に泊って
いたが、その中で同心・辻駒四郎と4名の密偵たちは、1里半先の見付
宿へはいり込み、岡田屋という旅籠に泊っている。密偵のうちの2人は、
浮浪の徒に変装し、岡田屋へは姿を見せない。辻駒四郎と2人の密偵は、
備前岡山藩士の家来と奉公人という触れ込みで、<江戸より西上する主
人を待っている> 態で岡田屋に滞在している。


点と点気ままに繋ぐ今日と明日  大西將文
 
 

      見 附 宿

日本左衛門一味が、このあたりに蠢動していることは、すでに見込みが
ついているが、これまで、新五郎以下4人の密偵が、宿場の内外を探っ
てみたけれど、手がかりはまったくなかった。見附宿の家数は約850、
本陣も2軒あり、脇本陣もあって、旅籠は42軒、住民も多く種々雑多
な旅人の出入りもはげしいので、監視の目になかなか入りにくいのだ。


夢ばかり走り膝頭が笑う  松本あや子 


ところが昨日の夜半、馬を駆って袋井の本陣へ到着した与力・磯野源右
衛門によって、三ヶ野村の金兵衛なる者が浮かびあがった。
「それで金兵衛は、三ヶ野村に、今も住み暮らしておるのか?」
袋井宿の本陣に旅装を解いた五兵衛の問いに、
「まさに、住み暮らしておりまする」
与力の岩瀬半兵衛がこたえた。
「して金兵衛とは何者じゃ」
「百姓にございますが、女房ともども、まったく田畑へは、出ておらぬ
 ようでございます」
金兵衛は、見付や掛川、ときには府中などを回り歩き、博打を打ったり、
娼家へ女を世話したり、品物の仲買いをしたりしているらしい、と近辺
から聞き込んだものだ。


朗報に思わず声が裏返る  清水久美子


 
                            木 賃 宿


三ヶ野村の金兵衛宅の見張りは、与力・岩瀬半兵衛が指揮し、辻駒四郎
山口佐七の2同心と、密偵の新五郎・由蔵が受けもっていた。
金兵衛宅へ男女の2人が入ったのを、知らせに駆けつけたのは、新五郎
であった。2人とも旅姿ではなく、ぶらりと近辺へ出かけていたような
風体だという。男は40前後の、小太りの体つきだが、みるからに敏捷
な足の運びで、油断ならない奴と見た感じのままを五兵衛へ報告をした。
「いかがなされます?」
「うむ…」
しばらく沈思して五兵衛は、
「よし、夫婦ともひっ捕らえよ。誰にも気づかれぬようにな。引っ立て
たら、こちら本陣の土蔵に放り込んでおけ。主の八郎左衛門殿には、話
を通しておく」
と言った。


さりげなくという形を取っている  谷口 義
 


          袋 井 宿

 
金兵衛夫婦を捕え木箱に入れ、盗賊改方が袋井本陣へ引き上げてくると、
「それでよい。余人に見られてはいまいな?」
徳山五兵衛が、磯野源右衛門へ念を入れた。
「幸い雨も降っておりましたから、誰の目にも留まってはおりませぬ」
「よし。では、金兵衛夫婦を、別にして、押し込めておくがよい」
と、五兵衛は、言い。さらに本陣の主・八郎左衛門に本陣の人々の暫時
の外出を禁じた。そして金兵衛は、土蔵へ、女房おろくは、物置小屋へ
監禁し見張りをつけた。


童謡で唄う程度の雨が良い ふじのひろし
  
 
 
                               茶 店 風 景

  
酒匂川の茶店で捕まえた老爺の寅吉佐藤浪人は、小田原藩の町奉行所
が預かってくれている。この間に、与力の磯野源右衛門岩瀬半兵衛が、
土蔵の金兵衛を取調べ、与力の中島三郎右衛門が女房を訊問しはじめた。
夜に入って雨はいよいよ激しくなってきた。五兵衛は、本陣の戸締りを
厳重にさせ、内部にも見張りを置いた。
五ツ頃(午後8時)先ず、中島与力と辻同心が五兵衛の部屋へあらわれ、
「なかなか強情な女にございます」
「さもあろう」
「緩やかに調べよと仰せゆえ、だましだまし、吐かせようといたしまし
 たが、なかなか…。そこでいささか痛めましたところ…亭主の金兵衛
 は、掛川宿の古手呉服を商う孫市という申す者を訪ねるため、三ヶ野
 村の家を出たということにございます」
「ほう…」
「その他のことは、知らぬ存ぜぬの一点張りで…」
「よし、よし」
「いかがいたしましょうか?」
「山口佐七をこれへ」
そこで五兵衛は、山口佐七ほか2名の同心へ、密偵の源六をつけ、古手
呉服・孫市の見張りを命じた。


背は縮む耳は騒ぐし眼はかすむ  宮井元伸


山口以下4名が、本陣を出ていってから間もなく、金兵衛を取り調べて
いた磯野源右衛門があらわれ、
「まことにもって、しぶとい奴にござります」
「吐かぬか」
「緩やかにせよとのお言葉ではございましたが、少々痛めつけました。
 なれど吐きませぬ」
「では、わしが調べてみようか」
「おんみずから…」
「何か…心張棒のようなものを借りてまいれ」
「はっ」
五兵衛は、側にいた小沼治作
「どうじゃ、来てみぬか?」
「かまいませぬか?」
「よいとも」
五兵衛が小沼と磯野を従え、本陣奥庭の土蔵へ入ると、
大分痛めつけられた形で、金兵衛は土蔵の柱にくくりつけられている。


多面体君の素顔が掴めない  小林すみえ
 


       江戸の拷問


徳山五兵衛磯野源右衛門から心張棒を受け取るのを見て、
金兵衛は、またまた無駄なことを>と、はっきりと嘲笑した。
金兵衛を見つめている五兵衛の眼の色は、冷ややかであった。
「こやつに猿轡をかませよ」
五兵衛が磯野に言った。
 源右衛門が布で金兵衛の口を塞いだ。
そうしておいて、尚も五兵衛は、正面から金兵衛の顔に見入っている。
金兵衛の眼の色が、やや変わってきた。
土蔵の中に、雨の音がこもっている。
磯野と岩瀬半兵衛が顔を見合わせ、小沼治作は、微笑を浮かべている。
それはかなり長い時間であった。
金兵衛の眼から、もはや嘲りの色が消えている。
そのかわり、微かな怯えの色が滲みでてきた。
冷然と五兵衛は、金兵衛を見つめつづけている。
ついに、金兵衛が眼を伏せてしまった。


凄いとはあまり思わせないキリン  橋倉久美子


徳山五兵衛の心張棒が、そろりと動いたのはそのときである。
磯野源右衛門と岩瀬半兵衛は、いよいよ、長官の拷問が始まると思った。
五兵衛が掴んだ心張棒は、唸りを生じて、金兵衛の躰へ撃ち込まれると
おもった。まさに、五兵衛は金兵衛を、痛めつけにかかったのである。
しかし、心張棒が激しく揮われたわけでなく、先端が、わずかに金兵衛
の躰のどこかに触れたような…としか、2人の与力には見えなかった。
また、五兵衛の右手がわずかに動く。
金兵衛の顔が、苦痛に歪んだ。


これは序の口ここからがすごいのよ  竹内ゆみこ


「打つ音も、突く音もせぬのだ。いかにも軽く、ちょいちょいとお突き
 なさる。あれは、よほどに躰の急所をご存じなのであろうか……?。
 ともかくも金兵衛の苦しみ様といったら、大変なものであった」
のちに2人の与力は、同心たちへ、そう語っている。
強く烈しく打ち据えられるときの人間の躰は、むろん、それ相応の苦痛
を受けるが、これが連続して行われると、しまいには、神経が鈍くなり、
痛みを感じなくなる。さらに強烈な打撃を加えると、気を失ってしまう。
五兵衛の棒先は、耐えがたい苦痛を与えても、金兵衛を失神させるよう
なことはない。だが、金兵衛の両眼は哀し気に曇り、精いっぱいの憐れ
みを乞うている。


形容詞はいらぬリンゴ丸かぶり  靏田寿子


それからの金兵衛は、もう、長くはもたなかった。
五兵衛が土蔵に入ってから半刻ばかり、ついに金兵衛は口を割り始めた。
それから五兵衛は、昂奮覚めやらぬ、磯野岩瀬
「本陣の内外の見張りに念を入れよ、見張りのほかの者を、すぐにわし
 の許へ集めよ」
と命を下し、部屋へもどり、近くに控える小沼治作を見て、
「見たか…」
「いや、恐れ入りましたございます。さすがに殿…」
「ほめるな。気味がわるいわえ」
「いや、まことにもって…」
「若いころの修行も、無駄ではなかったようじゃな」
「それはもう、申すまでもございません」
「それにしても、しぶとい奴であった」
「いかにも」
「いまどきの侍どもより、骨が太いわえ」
「なれど、思いのほかに早うございましたな」
「そのことよ そのことよ」
五兵衛は満足気に笑って、
「何と、明日の夜とは、な…」


重力が捻りの技にみとれてる  長坂眞行
 


            掛 川 宿


「こうなれば、掛川宿の古手呉服を営みおる孫市と申す奴、一時も早く
 召し捕ってしまわねばならぬな」
「私が、掛川へまいりましょうか」
「行ってくれるか」
「柴田平太郎殿を連れてまいりたいと存じます。いかが?」
「よいとも、平太郎めも少しは働かせておかねば、父の勝四郎へ土産話
 もできまい」
すでに掛川へは、山口佐七以下4名が、見張りに先発している。
「では、行ってまいります」
小沼治作柴田平太郎は、すぐに本陣を出て行った。
「召し捕った孫市などは、袋井へ連行せず、そのまま掛川の本陣・沢野
弥三左衛門かた土蔵へ<押し込めておけ」
と、五兵衛は小沼に言い含めておいた。
そのうちにも、与力・同心たちが五兵衛の部屋へ集まってきて、
五兵衛は、こう言った。
「みなの者、日本左衛門召し捕りは、明夜になろう」
いよいよ五兵衛は、大詰めの日本左衛門との直接対決にはいる。


今日の夢続きは明日見る予定  下林正夫

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誰ですか洗面器に顔をわすれた人  舟木しげ子



江戸名所図会 「天枢之部 湊稲荷神社」
左下・稲荷橋 その上、左中央・高橋 左上の長い橋・永代橋
中央手前が湊稲荷神社
  


       高 橋
千石船から荷を積み替えた平舟が高橋を潜る図。

亀島川にかかる「高橋」は、江戸時代に江戸城と深川を結ぶ道にかけら
れた橋で 赤穂浪士堀部安兵衛が渡ったとか。この橋が出来た当時は、
亀島川を物資の輸送で、行き来する船舶が多く、そうした船舶の運行を
支障なくするため橋桁を高くしたので「高橋」という名前がついたと伝
えられる。大型の千石船の荷は、平舟に載せ替えた後、亀島川や八丁堀
経由して、日本橋や京橋など江戸の商業中心地の蔵へ送られた。
もちろん、徳山五兵衛秀栄も江戸城勤番の折に、また伴格之助に江戸城
で会う時も、八丁堀につなぐ稲葉橋から高橋
を渡っていたものだろう。


使い古しの地図に印した僕の位置  高浜広川


 「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー⑤



東海道53次・28番宿へのルート

品川   2  川崎   3  神奈川   4  保土ヶ谷   5  戸塚   6  藤沢   7  平塚  
8  大磯   9  小田原  10  箱根  11 三島  12 沼津 13  原 14  吉原 15  蒲原
16  由井 17  興津 18  江尻 19   府中  20   鞠子  21 岡部  22  藤枝 23 
嶋田  24  金谷 25  日坂  26  掛川  27  袋井  28  見附 29 浜松 30 舞阪 


 「品川宿から見附宿まで」
駿府は、かつて徳川家康の本城があったところで、家康が関東へ移り、
後に江戸幕府を興して初代将軍となってのち、一時は松平忠長の居城と
なったが、いまは、幕府が城代を置き、奉行が市政を執っている。
ということは、大盗・日本左衛門は、駿府における犯行によって、徳川
将軍と幕府をも恐れぬ姿勢を示したことにもなる。
「これは捨てておけぬ事」だと、徳山五兵衛は思った。
<それで、大御所様はこのわしを頼みにされ、かの盗賊を捕えさせよう
との思召しであったか。だが、たかが盗賊を捕えるために、2年前の自
分が引退する直前に、わざわざ「御先手組」に任じて、今日に備えたの
であろうか…それほどに慎重な配慮があるならば、何も老いた徳山五兵
衛を頼まぬとも、旗本にはいくらも人材が揃っているはずなのだ。
五兵衛は自問した。


老いること入れてなかった見積書  梶原邦夫
 

「では、この五兵衛に、件の怪盗を捕えよと、大御所様がおおせある
 のか?」
こころみに訊くと、内山弓之助
「その通りでござる」
と強く、うなずいて見せた。
「大御所様が、このお役目を、是非とも御貴台へと仰せられますまする
 には、理由がありまする」
「ほう…?」
「実は、その日本左衛門なる盗賊は、尾張家の御七里をつとめておりま
 した浜島友右衛門の倅にて、本名を浜島庄兵衛と申します」
「なに、尾張家の御七里じゃと…」
「はい」


1+1はたいがいビブラート  くんじろう
 


     七里飛脚


はっと、五兵衛の脳裏へ閃くものがあった。「御七里」とは、いわゆる
御家門大名と呼ばれた将軍の親類にあたる、大名家が設けた一種の通信
機関のようなものだ。尾張藩では、東海道に十三ヶ所の七里役所を設け、
国許の名古屋と江戸との間の、特別通信の受発の敏速をはかっている。
七里役所につとめる者は、足軽にせよ飛脚にせよ、足の速さを誇り、心
の利いた、しっかりした男でなくてはならない。
※ 彼らは、御状箱の扱いのみではなく、藩主の行列が通りかかれば、
先に立って案内もするし、藩士の旅行にも、いろいろと世話をやく。
また、担当の近辺に起った出来事については、絶えず目をひからせて、
これを藩庁へ報告しなければならない。そのため、たとえ身分は軽く
とも、この御七里を務める者は、「なかなかの威勢がある」と、五兵衛
は耳に挟んだことがある。



舌二枚これさえあれば大丈夫  楠本晃朗


日本左衛門こと浜島庄兵衛の亡父・友右衛門は、遠江・金谷の宿場の七
里役所にいた尾張家の足軽であった……そうなると、
<これは単なる盗賊一味ではない。徳川将軍へかける尾張家の恨みが、
まだ尾を引いているのであろうか>
前将軍・吉宗は、蜻蛉組や締戸番に命じ、長年にわたり、尾張家の反抗
と暗躍の実態を探り、これと闘い、密かに弾圧をおこなっている。
いまの尾張家は、完全に、将軍へ恭順の姿勢をとっているが、尾張家を
飛び出した者たちの反抗というのなら、頷けないことはない。


針はもう千本以上飲んでいる  新家完司


吉宗は、若き日の五兵衛が、京都へ上る途中で体験した事件や、尾張屋
源右衛門・佐和口忠蔵などとの関係を知っているわけではあるまいが、
何といっても五兵衛は、蜻蛉組と共に将軍暗殺を計る曲者たちを探り、
ついには、将軍の身代わりにもなった。
通常の旗本の中で、「御意簡牘」ぎょいかんとく)の所有を許され、
尾張家との秘密の事件に働いたのは、五兵衛ひとりだけだろう。
ゆえに吉宗は、日本左衛門一味の殲滅について、
「五兵衛秀栄なれば、万事、心得ていよう」
と、内山弓之助に洩らしたのである。そして吉宗は暗に
「天下を騒がせることなく…密かに始末せよ」
と、言っているのだ。


未解決のままで集めた綿ぼこり  郷田みや



     日本左衛門


内山弓之助は、日本左衛門一味が犯行の折に<押込み先の女に、乱暴を
はたらき始めるようになった>五兵衛に告げた。
これは首領の日本左衛門がするのではない。
その手下どもの何人かが暴行をはたらくらしい。
自ら「義賊」と称するだけに、押込み先で、人を殺傷することはないが、
代官所や陣屋の役人などへは、些かの容赦もなく凶刃を揮(ふる)う。
「それで、日本左衛門の面体は知れてあるのか?」
「それは、もう……」
何しろ覆面もせずに押込み、指図をしている上に、被害者を殺さないの
だから、顔も見られている。<見かけは30前後、背丈は六尺にもおよ
ぶ大男で、色白の鼻筋の通った、なかなかの美男子だ>という。さらに
<額に一寸あまりの引疵がある>、と、内山弓之助は語り終えて、
「では、わたしくしこれにて」
というところへ
「いま少し、過ごしてまいられよ。酒でも酌もうではないか」
と、徳山五兵衛が引き留めると、内山弓之助は
「は…いま一度か二度、お目にかかるかと存じます。その折にゆるりと
 馳走になります」
と、言葉をのこし帰っていった。

 
 祝膳仏壇閉じてから食べる  浦上恵子
 
 
内山弓之助の帰りを見届け小沼治作が入ってきて
「なんぞ出来いたしましたか?」
「小沼、どうじゃ、わしと共に旅に出てくれるか」
「旅に…?」
「ちょっと骨が折れる旅じゃ。この老骨には面倒なれど、出かけねば
 なるまい」
「お上の御用にて…」
「さよう、大御所様直々のお頼みらしい」
その後、半月ほども、内山弓之助からは何の連絡もなかった。
また、幕府から特別の下命があったわけでもない。
しかし徳山五兵衛は、小沼治作と共に、連日のごとく邸内の道場へ出て、
配下の与力・同心たちへ剣術の稽古をつけはじめた。


これも定めそう割り切って雲を追う  新井加寿



        品 川 宿


延享3年(1746)7月21日に、御先鉄砲頭の加役である盗賊並火
付方御改いわゆる「火付盗賊改」のお役についてから、一月と19日も
過ぎた9月9日、徳山五兵衛は、老中・堀田相模守から呼び出されて、
「遠州へおもむき、日本左衛門一味を捕えよ」
と、命じられた。
火付盗賊改方への下命は、若年寄から達せられるのが、通例なのだが、
わざわざ老中から五兵衛へ申し渡したのは、幕府も、この事件を重く
視ているからに相違ない。
五兵衛は、筆頭の磯野源右衛門以下3名の与力と、同心は堀口十次郎
以下10名を選び、ほかに小沼治作柴田用人の倅・平太郎が加わり、
五兵衛の身の回りを世話をする足軽の長井禄蔵と小者の丈助を連れて
行くことにして、18名ということになる。
さらには締戸番に所属している密偵を4人、内山弓之助がさしむけて
くれた。総勢22名となった。
 
 
包丁を研いで明日を整える  菱木 誠
 
 
翌朝、4人の密偵が先発した。午後になると与力・岩瀬半兵衛と、同心
辻駒四郎が旅装をととのえて徳山屋敷を出発した。これは、宿泊その
他のことを、打ち合わせと狂わぬようにするためであった。
その翌日には、与力1名、同心7名が、前後して江戸を離れた。
いずれも火付盗賊改方という役目は、あくまでも、隠して行動せねばな
らない。徳山五兵衛は帰国する備前岡山藩士大沢甚太夫一行というふ
れこみで、与力・磯野源右衛門に同心2名、それに小沼治作以下4人の
付き添いの者を従え、最後に江戸を離れた。延享3年9月13日である。
  
  
初期化した脳味そ連れて旅の空  杉本光代
 
 

        戸 塚 宿


徳山五兵衛は、日本左衛門追捕の隊を作り、西へ向かった。
両国橋へさしかかったとき、五兵衛が振り向き、
「小沼、大丈夫か」
「大丈夫かと仰せられますのは、何のことで…」
「いや何、今日は一気に戸塚までまいるゆえ、な」
東海道・戸塚宿は、江戸から10里半(約42㌔)、男の旅にしても、
出発第一日目の行程としてはきつい。
「何の…」
と、小沼治作は不機嫌に
ようも仰せられることよ」
 <そちらこそ 大丈夫なのか>との言葉は飲んだ。
この隊の中で最も若い柴田平太郎は、ついていくのがやっとである。
日本左衛門一味の逮捕に向う、火付盗賊改方一行の本拠は、
遠州の袋井に置くことになっている。
東海道・袋井宿は、江戸より59里余り(約232㌔)。
これを4日で到着するつもりの五兵衛であった。


順調な加齢と悟るどっこいしょ  美馬りゅうこ


「40年前に回顧して」
あの朝、戸塚の宿を出て、一里ほど行った所にある松林で、五兵衛は、
曽我の喜平治・お玉の父娘に出会った。父娘は、3人の旅姿の男たちの
脇差に囲まれ、まさに危険な状態だった。そこへ五兵衛が通り合わせて、
曲者を追い払い、父娘を救ったのだ。いま小沼治作たちを従えて、千本
松といわれる松林へさしかかると、五兵衛の足が止まった。
小沼治作が訊いた。
「いかがなされました」
「いや何、40年前のことを思い浮かべていたのじゃ」
「あ……あの折の」
「この松林で、わしは、喜平治とお玉を助けた」
40年前の、あの時、喜平治・お玉の父娘を救った五兵衛は、森の中の
百姓家へ導かれた。<道中切手もなしに<これから大阪へ行く>つもり
の五兵衛へ、喜平治は、老爺の伊之蔵を付き添わせて、小田原の手前の
酒匂川(さかわがわ)の茶店へ送り届けてくれた。あの時、お玉は15,
6歳の小娘であったから、今も生きているとすれば、54,5歳の老女
になっているはずだ。
 
 
ザリガニが一匹耳の中に棲む  井上一筒
 
 
あのとき、徳山五兵衛を案内して小田原へ向かう伊之蔵が、
「喜平治殿は、いったいどういう人なのだ?」
と、不審を抱いた五兵衛へ、
「これお頭のことは、何も訊きなさるなよ」
と、きびしく、窘めた。
そのとき、「お頭」という呼び方が、18歳の五兵衛の脳裡へ、異様な
響きをもって刻みこまれた。その後、酒匂川畔の茶店へ導かれ、老婆の
おとき、寅吉の母子に引き合わされ、さらに、小田原城下の針屋堺屋
太兵衛へ連絡をつけてもらい、太兵衛の案内で、暗夜の山越えに熱海へ
送りこまれた過程において、<徒の、お頭ではないな>感が増大した。
 
 
もやもやとしたまま畏まりました  岸井ふさゑ
  
 

    小田原宿の一駅手前・大磯宿
 
 
喜平治太兵衛が、日本左衛門につながる盗賊ではないかという疑念を
もつ五兵衛は、その夜、小田原城下の本陣・保田利左衛門方へ旅装を解
いた。針屋太兵衛については、この夜のうちに、凡そのことが分かった。
「20年ほども前になりましょうか、折角に商いも繁盛してきたという
 のに、京のほうへ引き移ってしまいましたよ」
堺屋太兵衛の店舗は、すでに城下から消えていたのである。
20年ほど前といえば……、五兵衛が将軍・吉宗の身代わりをつとめた、
あの事件の前夜ということになる。

 
 シャッター通り同じ顔して店仕舞い  竹中ゆみ
 
 
夜が更けて五兵衛は、一行を本陣の奥間へ集め、与力・磯野源右衛門へ、
「明日は箱根を越え、三島泊りのはずじゃな」
「はい。本陣・樋口伝左衛門かたにござります」
「明日、わしはちょっと寄り道をいたしてまいりたい。それゆえ一同は
先に発ち、三島にてわしの到着を待ってもらいたい」
「お供は、いかがいたしましょうか」
磯野源右衛門がいうと、五兵衛は
「足軽の長井禄蔵と小者の丈助のみでよい」
と答えた。そしてひとり残った小沼治作へ、
「酒匂川の小屋は、今もあるそうじゃ。老婆はすでに死んでいようが、
 息子の寅吉は、64,5になろうか。行ってみて確かめたい」
といった。


イエスともノーともとれる咳をする  嶋沢喜八郎
 


       小田原・酒匂川の渡し


五兵衛が足軽の長井禄蔵と小者の丈助を供に、本陣の安田利左衛門方を
出たのは昼近くになってからである。
昨日の夕暮れに、小田原城下へ入ったとき、五兵衛は、件の茶店の有無
を確かめておこうとも考えたが、<ま、急くこともあるまい>と、思い
直したのである。
酒匂川の堤にでると、川向うに見覚えのある茶店の藁屋根が目に入った。
<茶店は、いまも店を開いているではないか>
「ゆるせよ」
と聲をかけ、塗笠をとって五兵衛は、茶店へ入っていった。
「おいでなせえまし」
奥から、躰つきの逞しい男があらわれ、頭を下げた。
「いた、まさに寅吉じゃ」
寅吉は、注文の茶と団子を、五兵衛と2人の従者の前に運びおえると、
そくさくと奥へ引っ込んでいった。
40年前の、おとき婆の倅の面影を、五兵衛は老爺の顔のなかに、はっ
きりと見出していた。
 

生き様を皺の深さに漂わす  小原敏照
 
 
本陣へ戻った五兵衛は、すぐさま2人の同心を奥の間へ呼んだ。
「このたびの日本左衛門一味に関わる男、と申しても、60を越えた老
 爺
じゃが、夜に入ってから召し捕りにまいる」
驚いたのは同心よりも、同行の長井禄蔵丈助であった。
「茶店には、その老爺ひとりのみでござりましょうや」
「いや、上に誰かいたような…」
長井と丈助が顔を見合わせ、またまた驚いた。
<殿様は縁台から少しも、動くこともなさらぬというのに…
よくも上の
ことが、わかるものだ>と、思ったのである。


三つ指をついてても猫の目の動き  一階八斗醁


その夜の五つ時(午後8時)
「さて、そろそろまいろうか」
五兵衛は、樋口、横山の二同心と足軽の永井緑蔵を従え、本陣の裏口から
外へ出た。城下の商家はほとんど大戸を下してしまっている。
堤の道へ出たとき、五兵衛が同心たちへ
「相手を斬ってはならぬぞ、必ずひっ捕らえるのじゃ」
戸の前へ立った五兵衛が、長井の手から龕灯(がんどう)を受け取り
「長井、戸を蹴破れ」
と命じた。
長井は茶店の戸へ体当たりをくわせた。一度の体当たりで、戸が外れた。
五兵衛は、すぐさまがんとうを長井へわたし、
「ぬかるなよ
言うや、ずいと茶店の中へ踏み込んで行った。


落葉の季節遺言書を書かす  小林満寿夫


暗い土間から飛び出して来た人影が、
「誰だぁ!」
喚き声をあげ、五兵衛へ掴みかかった。寅吉であった。
右手に提げた樫の心張棒を揮うこともなく、五兵衛の左の拳が、寅吉の
胸下へ突きこまれた。気を失った寅吉を長井緑蔵が外へ引きずりだした。
その時、外にいた丈助が「殿様ぁ!」と、叫んだ。
中二階の雨戸を叩き外した人影が、堤の道へ飛び下りてきたのだ。
すかさず走り寄った五兵衛の足を、飛び下りて片膝をついた男が、抜き
打ちに薙ぎはらってきた。浪人風である。
跳躍してこれをかわした五兵衛が、心張棒を浪人の肩先へ打ち込んだ。
数刻、男は抵抗を試みたが、勝ち目がないことを悟った浪人は、身を転
じて逃げにかかった。
五兵衛が腰を沈め、手にした心張棒を投げつけた。
心張棒は、見事に浪人の両足にからんだ。
前のめりに浪人が転倒したところへ、五兵衛は浪人の顎を蹴りつけた。
そして、仰向けに倒れた男の胸下へ、五兵衛の拳が突き入れられた。


天国の天気予報はいつも晴れ  新家完司
 
 
 
                                  三 島 宿


翌朝、五兵衛は単身、小田原を発し箱根を越えて三島の宿駅に入った。
三島宿の本陣・樋口伝左衛門方には、先着の与力の磯野源右衛門、小沼
治作、柴田平太郎の三名が、じりじりしながら五兵衛の到着を待ち構え
ていた。五兵衛が着いたと聞き、三人が飛び出してきて、磯野が、
「いかがでございましたか?」
「先ずはうまくいったようじゃ」
次に小沼が
「で、どのように相成りましたか?」
五兵衛はこみあげてくる笑いをおさえて、
「一味の者を二人ほど、ひっ捕らえたわ」
五兵衛は、越後浪人・佐藤忠右衛門の懐中から出て来た紙片を広げ
「ここに遠州みかの村・金兵衛方とあるのは、おそらく日本左衛門一味の
 連絡の場所、盗賊仲間で申す盗人宿であろう。浪人へ盗賊一味から、
 この紙切れが来たのは、金兵衛方へ集まれとの事とみてよい。先ずここ
 から手をつけねばならない」
三島から見付までは約25,6里ある。
五兵衛はこれを2日で進むつもりでいる。
「苦労をかけるが磯野、明朝、馬を仕立てて発足してもらいたい」
「畏まりました」

磯野は即答した。だが、盗賊改め方の本拠は、見付より1里半手前の袋井宿
へおくことになっている。
 
 
尻尾にも尻尾の意地がありまっせ  前中一晃

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一聞いて二つ返事で引き受ける  津田照子







           江戸百万都市の治安
木戸と自身番所と番人小屋。大木戸の内側は、町ごとに自身番屋と番小
屋を両脇に設けた木戸で仕切られ、さらにその仕切りの中を裏長屋
毎の
木戸で区切った…。自身番屋には、地主家持の使用人が詰め、火の見

子(約8m)と消火・捕物道具などが備えてあった。番小屋には、大家に

われた独身者が住み込んで、町内雑務をこなしながら、駄菓子や草鞋

などの日用品も売っていた。


悲しみの交差点にも虹は出る  市井美春
 
 

        輿の人は8代将軍・吉宗



「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー④

 
「五兵衛の新しいお役目・火附盗賊改方」
「火附盗賊改」の実際は、「町奉行」に比べ日陰の立場にあった。だが、
強盗・放火といった凶悪犯罪が多発した百万都市・江戸で、火附盗賊改
ほど、頼りにされた組織はなかった。謎多き存在感と相まって、町人は
もちろん武士たちも、畏怖と同時に畏敬の念を抱いた。
延享3年(1746)、突然、徳山五兵衛に幕命が下り、おもいがけぬ
役目に就任することになる。徳山五兵衛の新しいお役目とは、火付盗賊
改方であった。これには、将軍・吉宗の特別な意向がふくまれていた。


市場から猫が咥えてきた明日  くんじろう
 

むかし、徳山五兵衛が13歳の頃、亡父の繁俊は65歳で「盗賊追捕の
役目」を仰せ付けられることがあった。40数年前の当時は、この盗賊
方とは別に、火附改方という役目があり、それぞれに盗賊と放火犯を
取り締まっていたのだが、いまは、この二つの役目を合わせて【火付盗
賊改方】となった。将軍家の御膝元の大江戸は、町奉行所その他があり、
警察と市政に携わっているが、そこは官庁だけに、それぞれの管轄があ
って諸般の規則や手続きに縛られ、緊急の処置が出来かねる場合もある。


権力は大風呂敷を畳めない  美馬りゅうこ


世の中が平穏ならばそれでもいいのだが、近年は、ことに江戸に流れ込
んでくる無宿の者や浮浪人が増加し、物騒な犯罪も、それに従って増え
るということだ、ここ数年は、火付盗賊改方の役職を廃していた幕府が、
このたび、徳山五兵衛秀栄をもって復活させたことになる。この役目は
先手組同頭就任は、今日の事を幕府が慮ってのことであったのだろうか。
いずれにしても、ありがたい役目ではない。
「ああ、このようなお役目は1日も早くやめさせていただかなくては」
と、諸方へ辞任の運動を行ったほどだし、また就任してからも、まった
く熱が入らず、配下の与力・同心にすべてをまかせていた。


光が射すと腐り始める居場所  森田律子



          四谷大木戸
 
大木戸は江戸時代、 人間や物品の出入りを管理するのが目的で、東海道
(高輪)、甲州街道(四谷)、中山道(板橋)の3ヶ所に設置された。
「木戸」とは、江戸市中の町境などにあった防衛・防犯用の木製の扉で、
その大規模なものとして「大木戸」と呼んだ


自分の屋敷を役宅として、犯人を押しこめる牢屋を造ったり、取り調べ
のための白洲やら、与力・同心たちの詰所など、屋敷内を大改築しなく
てはならないし、犯人の探索や市中の見廻り、警戒、などのためには、
随分と金がかかる。幕府から役料が支給されるけれども、それほどのも
のでは到底まかないきれない。しかも、懸命に役目を遂行するとなれば、
兇悪の徒を相手にするだけに、こちらも一応は、命を張らなければなら
ない。しかも、同じ犯罪に関わる役目でも、町奉行所は「檜舞台」とい
われ、火付盗賊改方は「乞食芝居」などと比較されている。
だから五兵衛は、このお役目が心底から嫌なのだ。


亀の背に飽きて明日からサブマリン  森 茂俊


このお役目が下ったとき、むろん五兵衛秀栄は、謹んで受けたわけだが、
「はて?」と、不審にも思った。これまで自分へ対しての前の将軍・
の思いやりから推してみると、57歳にもなった老年の自分へ、盗賊
や無頼の徒を相手に、忙しく立ち働くばかりではなく、個人としては、
損失の多いお役目を命じられるということが、解せなかったのである。
それとも、吉宗が隠居してしまったので、幕府の方針ががらりと変わっ
てしまったのだろうか。いや、そのはずはない。いまも吉宗が、大御所
として、現将軍・家重の後見をつとめ、幕府の閣僚たちへも睨みを聞か
せていることは事実であった。


ドーナツは穴残しては食べられぬ  宮井元伸



           高輪大木戸
 明暦大火の翌年(1658)4代将軍・家綱の治世下。一町に一軒、「髪
結い床」を定め、株数が八百八となり「江戸八百八町」と呼んだ。

その後、明暦大火の焼け太りの効果か、インフラが進み江戸が成熟す
と1700年代には九百町を超え、1800年代半ばには千七百町以上に
なった。

 
「ちょっと知恵蔵」
八代将軍・吉宗は、将軍職を長男・家重に譲った。延享2年(1745)
9月25日のことである。だが、九代将軍の座についた家重は、言語不
明瞭で政務が執れるような状態では無かった。そのため、吉宗は、自分
が死去するまで、「大御所」として実権を握り続けた。
なお、病弱な家重より、聡明な2男・宗武や4男・宗尹(むねただ)を
新将軍に推す動きもあったが、吉宗は、宗武と宗尹による将軍継嗣争い
を避けるため、あえて家重を選んだと言われている。
※ のちに次男・宗武は田安家、4男・宗尹は一橋家、また後々、家重
の次男・重好は清水家として創設されて「徳川御三卿」とした。


てにをはを省き小骨を抜かれてる  山本昌乃


「せめて10年前のことならば、わしも喜んだやも知れぬ」
火付盗賊改方の長官ともなれば、自ら変装して、江戸市中を巡回するこ
とも、当然、許される。身分に関わることなく、自由自在に市中を歩き
回ることが出来るのだ。だが60に近い老齢となった。今の五兵衛には、
それも億劫なことになってしまった。

しかし「やらねばならぬ」。五兵衛は、本所の自邸の改築に取り掛かった。
あまり熱心にはなれない五兵衛に引きかえ、小沼治作は見違えるばかりに
生気を取り戻し、大工や左官の指図に大わらわとなった。


蛇行する川に重ねてみる人生  宇都宮かずこ


そんな折、珍しい訪問客が単身で徳山屋敷を訪ねてきた。徳山五兵衛
火盗改を拝命してより、10日ほどのことである。
<まだ生きていたのか>五兵衛は瞠目した。その客とは神、田永田町に
屋敷を構える八百石の旗本、内山弓之助であった。ちょうど20年前の
あのとき、将軍・吉宗から、五兵衛秀栄へ秘命が下った折、藤枝若狭守
を間にして、秘密裡に連絡がとられ、五兵衛を江戸城内吹上の庭へ案内
したのが内山弓之助であった。内山弓之助は、吉宗が紀州から連れて来
た隠密の1人で、亡き伴格之助が、
「内山殿は、締戸番の一組を束ねているのでござる」
と紹介されたことを五兵衛は思い起こした。
「締戸番」とは、後年の御庭番でかの「蜻蛉組」とは別の、将軍直属
の隠密組織である。蜻蛉組は吉宗個人の隠密ゆえ、吉宗が隠居した今は、
おそらく解体したにちがいない。


再会のほとぼり知っていた釦  柴本ばっは
 

 
          板橋大木戸
江戸の裏長屋の勤め人は、明け六ツ(AM6時)に仕事へ出掛け、その
女房たちは家事に取り掛かり、そして暮れ六ツには出掛けた者は仕事を
終えて家路につく。夜鳴き蕎麦屋や按摩なども夜四ツ(PM10時)まで
に仕事を終え帰宅しなければ、木戸は閉められてしまう


「おお。めずらしき人の見えられたことよ」
と、懐かしげによびかけて、五兵衛は、内山弓之助を迎えた。
「久しゅう無音に打ちすぎまして、申し訳ありません」
内山弓之助は、20年前と少しも変わらぬ丁重な物腰で挨拶をし、
「此度の徳山殿のお役目のことで、一昨日、突然、吉宗様に呼びだされ
 まして…」
と、話し出した。
70を越える内山は、5年前に隠居の身となっていたが、そこは長らく
締戸番を勤めてきただけに、時折は、吉宗の呼び出しを受けることもあ
った。


再会のほとぼり知っていた釦  柴本ばっは


「このたびが、はじめてでありました」
吉宗が将軍職を辞し、隠居してからのことである。
「上様 いや 大御所様にはお健やかにおわしますか」
「は…それが…」
内山弓之助が口ごもるのを見て、五兵衛は眉を顰めた。隠居してからの
吉宗の健康が、思わしくないと密かに耳に届いていたからだ。
一昨日、西の丸へあがった内山弓之助に大御所・吉宗は、
「いま、こうして来しかたを振り返ってみると、予は将軍となってより、
かく西の丸へ入るまでの、およそ30年の間に、将軍として、為さねば
ならぬことの半分も為すことが出来なんだわ」
弱弱しく漏らし。
「予に、あと20年の命があればのう」
と、吉宗は、内山弓之助に言って、寂しげに笑ったそうだ。


続編は媚薬に任す気の弱り  上田 仁


「大御所様の御胸の内には、さまざまな目論見が、まだ一杯に詰まって
おわすのか」
と、呟く五兵衛の声を聞こえぬ態で、内山弓之助は、
「さ、その折に、大御所様が仰せられますには」
「ふむ…?」
吉宗は先ず、五兵衛の近況について、内山へ問いかけたのち、
「先年、五兵衛を御先手組筒頭に任じたのは、今日のためである」
と言った。
御先手筒頭」とは、江戸市中に事変が起こったり、暴動があったり
すれば、真先に「お先手出役」となり武装に身をかためて、諸方の警備
にあたる。だが、世が泰平ならば、静かなものであった。
尚、五兵衛秀栄は、寛延3年(1750)にお先手筒頭に任じられ、そ
の4年後の宝暦4年
1754)には、「西の丸持筒頭」となっている。


無理な姿勢で空白を塗りつぶす  佐藤正昭


つまり、
「火付盗賊改方へ、五兵衛を就任させるためであった」
と、将軍・吉宗がいう。何故なら、火付盗賊改方は、御先手組から選ば
れることになっているからである。
「大御所様が、そのようにおおせられた…?」
「はい」
「はて…?」
盗賊や放火犯人や、博打の取り締まりをさせるために、大御所様は何故、
選りによってこのわしを…。 吉宗は内山弓之助
「これは何としても、五兵衛秀栄に務めてもらわねばならぬ」
と、いい。
「わしの目の黒いうちに、いま一度、五兵衛には、働いてもらわねば
 ならぬ」
といった。内山からそう聞かされても、五兵衛には呑み込めなかった。
「わしの目の黒いうちに…」
とは、いったい何を指すのであろうか。
「お分かりでありましょうか?」
「いや分からぬ。この老骨を、大御所様は、今さらに何と思し召されて
 おらるるのか…」
57歳の五兵衛秀栄の眉毛の半分は、いまさらに白くなり、したがって
頭髪も同様であった。


掌で転がしている句読点  笠嶋恵美子


「なるほど、大御所様より、よくよく承りましたところ、まさに、この
度のお役目は、そうではならぬところ、と相わかりましてござる」
「ほう…」
内山弓之助は、話を前に進める。
「実は…いや、それよりも先ず、近ごろ、三河・遠江一帯を荒らしまわ
っている盗賊のことどもを、お聞きおよびでありましょうや?」
「いや存ぜぬが」
江戸市中のことではない。三河や遠見・駿河へかけて、盗賊が跋扈して
いることを、五兵衛は初めて聞いた。もともと火付盗賊改方に就任した
ばかりで、無理もないといえる。が、しかし、すでに江戸の人の耳へも、
この大盗の名は聞こえていたようである。
五兵衛のような大身の武家は、市中の噂にどうしても疎い。


人伝に聞いた話が歩き出す  田崎義秋



         日本左衛門


「その盗賊の首領は、日本左衛門と名乗りおりましてな」 
内山弓之助がいった。
日本左衛門と聞いて、五兵衛は、思わず笑った。
「それはまた大きく名乗ってものじゃ。盗賊めが、名乗りをあげて盗み
 をはたらくのか」
「さようでござる」
「したたかな奴ではないか」
「そのとおりなので…」
日本左衛門には、30名ほどの配下がいるらしい。
この盗賊一味が激しく連続的に跳梁するようになったのは、去年の秋に
前の将軍・吉宗が引退した直後からであるという。
大仰にいえば、その以前から数え切れぬほど犯行を重ねており、
しかも、盗賊の1人も捕えることができぬ、という。
五兵衛も「何たること」と、いささか呆れた。


嘘みたいな本当の話冬の月  藤本鈴菜


ともかくも人目にふれぬよう、密かに押し入るというのではないらしい。
目ざす商家や物持ちの屋敷へおしかけ、いきなり大槌をふるって戸を叩
き壊し、堂々と押込み、金品を強奪して引きあげる。大胆な盗賊なのだ。
例えば、この夏の初めに、駿府の豪商、近江屋八右衛門方へ日本左衛門
一味が押し入ったときのこと。首領の日本左衛門は、顔も隠さず、近江
屋前の表通りを見据え、これに腰をおろし、「それっ」手にした采配を
打ち振るのが合図で、盗賊どもが近江屋の戸を打ち破り、一斉に押し入
った。


昨日の余韻煮凝りごりのビブラート  宮井いずみ


これをちょうど、夜回りの役人が通りかかって見つけたので、すぐさま、
捕物の手配をした。そこで20名ほどの捕り手が、近江屋へ駈け向かっ
たのだが、
「おお、来たな」
日本左衛門は、床几から腰もあげず、銀の煙管で煙草を吸いながら、
「かまわぬから、蹴散らせ 蹴散らせ」
といった。
すると10名ほどの配下が、刀を引き抜き、捕り手へ立ち向かう。
この手下どもが大変強いのだ。捕り手たちは、日本左衛門に近づくどこ
ろか、たちまち7,8名が斬り倒されてしまった。遠巻きにして、加勢
が駆け付けてきたときには、大金を奪った盗賊どもが、近江屋から引き
揚げて行く。


芳香は腐り始めた林檎から  合田瑠美子


それを見て日本左衛門が、ようやく床几から立ち上がり、
「さ、早う引け、おれが殿(しんがり)をする」
いうや、肉薄する捕り手へ、己から突進し猛然と斬りまくった。
夜の街路に日本左衛門が、まるで<怪鳥>のごとくに飛びまわると、
捕り手が2人3人と切り倒される。
「早く目つぶしを」
捕り手が用意の目潰しを投げようとするや、日本左衛門の配下がいち早く、
先手を打って目潰しを投げてくる。
「これでは、どちらが盗賊なのかわからぬではないか」
その折も、盗賊どもを一人もお縄にできなかった結末を聞き、あきれ果て
五兵衛だが、新しく就任した火付盗賊改方の頭として、尋常では手にお
えぬこの盗賊どもを、
「五兵衛秀栄に捕縛させよ」
と、大御所様が、いったという。


一難去って又一難へ出来ぬ無視  細見ちさこ

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レレレレレ浴びて三年坂下る  森田律子
 

  
           遊 楽 図 屏 風     (桃山期  雲谷等顔画)
左隻「武家の鷹狩」/  右隻「庶民の花見」が描かれている。


「鷹狩」は放鷹とこ鷹野とも呼ばれ、特別に飼いならした鷹を拳に乗せ、
鷹狩場で放して、野鳥を捕まえる行事であり、武士の嗜みのひとつであ
った。その歴史は古く、大和朝廷時代からすでに行われていたという。
天正一八年(1590)関東に居を定めた徳川家康は、生涯に千回以上
の鷹狩りを行ったというが、鷹狩りにことよせて、未だ不安定な幕藩体
制固めとして、大名領の情勢を探り、領地の要所要所に、御殿や茶屋
を設置して脆弱な体制基盤の拠点とし、併せて農民の暮らしを視察し、
また、同行する家臣の武術の訓練の度合いを把握する狙いも持っていた。


 
駿府城本丸前で鷹狩り姿の家康



8代将軍・徳川吉宗も崇敬する家康に倣い、次のように言っている。
武家の遊楽には「鷹狩」が何よりである。それは狩りの獲物の多少を
競うからではない。いまのように、戦もしらぬ泰平の世に、家来たちの
心を確かめ、知略を知ることにおいても大いに役立つ。又、それよりも
尚、百姓たちの暮らしぶりや、野良仕事の苦労を目の当たりに知ること
ができて、何よりのことじゃ」と。


改行をきれいに終える平和主義  清水すみれ


「徳山五兵衛」 吉宗に見初められた男③


将軍御狩りの日、暗殺の陰謀を防ぐべく徳川・吉宗の身代わりとなった
徳山五兵衛は、危うく取りとめた一命を静かに養っている。
五兵衛は、10も20も、年をとったような気持ちになっていた。
医師の手当てを続け、日毎に五兵衛の傷所は回復しつつあったが、何と
も言えぬ深い疲労が消えずにいた。そういえば、あの頑強な小沼治作も、
事件直後に突然、高熱を発して、10日ほども寝込んでしまっていた。
小沼はようやく床を払い、五兵衛の寝所へあらわれた。
「もはや、よいのか?」
「大丈夫にございます。誠にもってだらしない始末で」
「なんの、わしを見よ。まるで死人のように疲れておるわ」
「殿には、まったくもって、大変でございました」


毎日が出たとこ勝負今日の無事  掛川徹明


それにしても伴格之助が指揮する蜻蛉組の活躍は、見事なものだった。
その活躍の実態を、五兵衛は、知る由もなかったけれども、自分があの
日のあの場所で、曲者どもに確実に狙撃されるところまで事を運ぶまで
には、並々ならぬ苦心があったろう。
その後、伴格之助からの連絡は絶えたままであった。
「お役にたてた」その安堵と疲労は別にして、これまでの息詰まるよう
な日々に、「もう出会うこともあるまい」
そう思うときの寂しさは、一体どういうことなのか。


まあいいかそんな言葉で今日もまた  津田照子



         竹橋御門跡
 

 
 
そのときから、一年に近い過ぎたころ、伴格之助から呼び出しがあった。
その翌々日、五兵衛は単身、江戸城へ赴いた。むろん「御意簡牘(ぎょ
いかんとく)」を懐中にして竹橋御門から城の内へ入った。北詰橋御門
の濠端に、ずんぐりとした体つきの、禿頭の侍が五兵衛を待っていた。
伴格之助だ。それと見て五兵衛が近づいて行くと、伴格之助も気づき、
「おお」と言うように口を開け、小走りに近寄ってきた。
「伴格之助殿」
「徳山五兵衛殿…」
おもわず互いに呼び合い、手と手を握り合った。


枯れるならこんな日がいい秋日和  下谷憲子


伴格之助は、徳山五兵衛が、「かほどに窶れていようとは…」思わなか
ったらしい。
「うっかりしておりました。お駕籠をさしむけるのでござった」
「いや、なに…」
「お一人にて?」
「さようでござる」
「まことに、気づかぬことを」
「何の。もはや大丈夫にござる」
などと言葉を交わしながら、伴格之助は、吹上の庭の一隅にある上覧所
の別棟へ、五兵衛を導いた。


それはもう昨日のことで秋の雲  前中知栄


今の度の伴格之助との会見は、将軍・吉宗の意向であったが、
「殿は、五兵衛殿に会うことを楽しみにしておられたが、折悪しく風邪
 をこじらせ、発熱が去らず、病間に引きこもっておられる」 という。
「それは、大事ありませぬか?」
「いや、ご案じなさるな。ただの風邪でござるゆえ」
「はあ…」
「いずれにせよ。近きうちに、上様へお目通りなさることも、めずらし
 きことではなくなりましょう」
「それがしが…」
「さよう」
「と申されるは?」
「新しきお役目に就かれましょうゆえ」
と、微笑を浮かべて、格之助は言った。
「どのようなお役目に…?」
思い切って、五兵衛は問いかけてみた。
「いや、それはそれがしも存ぜぬこと。総ては上様のお胸の内にござる」


沈黙のあなたに合わす周波数  御堂美知子


「さて徳山殿」
「何でござる」
「御意簡牘の木札を、御所持でありましょうな」
「持っております」
「お返しを願いとうございます」
「あっ…」
隠密のお役目が終わった後も、五兵衛が御意簡牘を所持しつづけるいわ
れはない。
「これは気づかぬことを」
懐中から、銀に葵の紋を彫り付けた桜材の小さな木札を、白絹に包んだ
まま取り出し、五兵衛は、伴格之助の前に置いた。
「ご苦労でござった」
この言葉を聞いた瞬間、五兵衛は何とも言えぬ寂寥を覚えた。


日が落ちて森も私も深呼吸  黒田るみ子


このあと例の狙撃事件の結末や首謀者について五兵衛は、伴格之助に思
い切って聞いてみた。
「それが浪人でござってな」
「浪人…」
「さよう、佐和口忠蔵と申し、その父親は、伊勢の桑名の浪人にて一刀
 流の剣客でござった」
そのことは佐和口忠蔵は剣術の師であるから、五兵衛もわきまえている。
「その佐和口は、父親の代から、尾張、屋源右衛門と懇意の間柄にて、
 それが縁になったのでござろう、佐和口忠蔵は源右衛門と心を合わせ、
 上様のお命を狙いたてまつることになったように、思われます」
むかし、恩師・堀内源左衛門道場にいたころからは、想像もつかぬ変貌
を遂げた佐和口忠蔵の心境の推移については、さすがの五兵衛も判断が
つかなかった。


絵にかいた餅を延々論じてる  西尾芙紗子
 




「さて徳山殿、名残り惜しゅうござるが…」
「格之助殿。ではこれにて…」
「あ、いや」
言葉は絶えていたが伴格之助は、名残り惜しげに一ツ橋御門外まで付き
添い、見送ってくれた。不思議なもので、五兵衛が伴格之助との関係を
持ったのは、わずか一年に満たぬ月日であったが、徒事ではない明け暮
れを過ごした所為もあってか、その印象は強烈であった。


歩きながら話そうサヨナラは辛い  西山春日子 


それからひと月ほど過ぎたころ、徳山五兵衛は新しいお役目に就くこと
を命じられた。その役目は「御書院番頭」であった。
この書院番というのは、戦時ともなれば小姓組と共に将軍を護る、つま
り将軍の親衛隊であって、平時は江戸城中の要所をかため、儀式に際し
ては小姓組ともども、将軍の介添えを務める。
そして将軍が外出の折は、駕籠の前後を固めなくてはという重い役目だ。
五兵衛はまさか、このお役目に就こうとは思ってもみなかった。
書院番の頭ともなれば、将軍吉宗の側近く仕えるわけで、五兵衛の胸は
躍った。だが五兵衛は自戒をした。今年の春、吹上の庭での伴格之助の
言葉を思い起こしたからである。
あの事件は、「闇から闇へ、葬り去られた」ことになっているのだ。


ふわり来てふわり戻っていくいのち  松延博子


いざ役目に就いてみると、吉宗の方でも、まるで新しい五兵衛に接する
ような態度でのぞんできた。去年のことは、気振りにもださぬ。それで
いて、何かの拍子に、五兵衛を見る吉宗の眼の色には、特別の親しみを
こめた感情がわずかに表れることもあった。
そのたびに、五兵衛は感激した。
<当然ながら、上様はあのときのことをお忘れになってはいない>
なればこそ尚更、五兵衛は身をつつしみ、心して役目を務めた。


気休めの言葉ときどき欲しくなる  成田智子


徳山五兵衛が、書院番頭を務めた期間は、足掛け5年にわたり、役目を
解任せられたとき、42歳になっていた。この5年間の短さは、五兵衛
にとって、これまでに覚えがないほどで、懈怠もなく、懸命にお役目を
務めるうちに経過した5年の歳月の、果敢なさをおもい、五兵衛は憮然
となった。また、この5年の間、将軍・吉宗としても緊迫の明け暮れが
つづいていたようである。
例えば、かの「天一坊事件」などというものが起こったりした。
もちろん、これも幕内で処理され、表に出ない事件であった。


波風を立てずに生きて顔がない  西谷 公造

無役となった徳山五兵衛は、特例をもって、「寄合組」に列せられた。
三千石以下の幕臣が、無役となったときは「小普請組」へ入るわけで、
五兵衛も父・重俊亡き後、家督したおり折には、小普請へ列していたの
である。それが今度は「寄合」入りとなった。
これは明らかに、五兵衛のこれまでの実績を認め、幕府が格を上げてく
れたくれたことになる。


木もれ日やハートマークのそこかしこ   松浦美津江


享保17年(1732)に、「本所深川出火之節見廻り役」を拝命した
翌年、徳山五兵衛44歳のときである。上野山下を小沼治作と散策して
いると、対面から歩いてくる蜻蛉組の片桐平之助を、小沼がみかけ五兵
衛に促すと。五兵衛は「おおー」と言い、「久しいのう」と声をかけた。
懐かしさに思わず声をかけてしまってから、五兵衛は、片桐が徒(ただ)
の侍でないことに気づいた。「何の 何の…」片桐は、別に困った様子
でもなく「おなつかしゅうございます」と応じてくれた。


海が凪ぐ君が笑っただけなのに  糀谷和郎


意外に片桐平之助は、そういう、どちらでもいいことに拘わらない人物
のようで。こうなると、どうしても尋ねたいことがある五兵衛は、片桐
を道角にある蕎麦屋へ誘ったところで、椅子に坐すなり五兵衛は訊ねた。
「ときに、伴格之助殿は、お達者か」
何気なく問いかけたのに対し、片桐の顔が沈んだ。
「いかがした、片桐ど…。何か伴格之助殿に変事でも?」
言いさした五兵衛へ、片桐が呻くようにいった。
「身罷りました」
「何…亡くなられた、と…」
五兵衛の手から盃が落ちた。
「そ、それは、あの…病にかかられてのことか?」
片桐は声もなく、かぶりを振った。
「では、では、お役目の上のことにて…?」
片桐平之助が頷いた。
もはやこれ以上の問いかけに、片桐が答えてくれぬことを、五兵衛は、
わきまえている。


ひと言が過ぎたようです遠花火  津田照子
 

 秘図絵に没頭する五兵衛 秘図

 
それから4年、享保20年の秋、21歳の長男・頼屋が妻を迎えた。
3千50石の旗本服部保貞の養女・が17歳で、徳山家へ嫁いできた。
享保が改元されて元文元年となった翌年、早くも琴が頼屋の子を生んだ。
男子であったから五兵衛「でかした でかした」と、大喜びであった。
こうして五兵衛は、47歳にして初孫を得たことになる。
 琴は温順で美しい嫁であったが、病勝ちで子を生んだ翌々年に病没し
てしまった。気に入りの嫁だっただけに、五兵衛の落胆は、非常なもの
であった。
五兵衛は琴を失った悲しみを紛らわすため、ふたたび秘戯図を描くこと
に没頭しはじめた。五兵衛の秘戯図の制作は、なおも数年の間、続けら
れていくー。


何もかも忘れたいときフラメンコ  秋山博志


寛保2年(1742)の年が明けて、徳山五兵衛は、53歳になった。
そして、この年の正月早々に、おもいもかけぬ台命が、五兵衛に下った
のである。五兵衛は「お使番」に任ぜられたのだ。
このお役目は、戦場へ出れば将軍直々の命令を伝えたり、戦功者の監査
にあたってりするのだが、平時は、諸大名の治績や動静を視察したり、
将軍の上使をつとめたりする。徳山屋敷では久しぶりの慶事であるから、
親類方はじめ、諸方からの祝いの声や贈り物が次々に寄せられ、賑やか
な事になった。これで五兵衛は、ふたたび江戸城中において将軍・吉宗
に接することもあるようになった。


満月に叱咤激励されました  奥山節子


吉宗は59歳になっていた。60に近い老躯にしては、実に逞しいが、
さすがに鬢髪も薄く、白くなり16年前のこの将軍の全身に満ち溢れて
いた精気は、ほとんど感じられなかった。
将軍は五兵衛を見ても、往年の事件について「 曖気(おくび)」にも
出さぬことは、以前、五兵衛が「書院番頭」を務めたときと同様である。
それでいて、五兵衛をみる眼差しは、優し気で、微笑は暖かい。そして
五兵衛に「布衣(ほい)着用」が許された。幕府の許可する布衣の着用
、「六位相当叙位者」と見なされることである。将軍と幕府が、いか
に五兵衛を重く視ているかの表現である。
久しぶりに、五兵衛の顔が崩れたのも当然であった。


ふんわりと生きてカボチャもタコも好き  平井美智子


そして、寛保4年は、延享元年(1744)正月11日。
徳山五兵衛54歳、「御先手組・筒頭(鉄砲頭)」に再任する。
その再任の役目とは、「火付盗賊改」であった。
このお役目が五兵衛の晩年を思いがけぬ激動の日々が見舞うことになる。


いずれ死ぬ時を悟らず生きている  清水久美子

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理科室に落ちていたバッハのメガネ  靏田寿子
 


        将軍の鷹狩りの行列の図 (歌川国貞)

 「鷹将軍」と呼ばれた吉宗は、鷹狩りに行くときは、将軍家の権威を
見せるために、派手に行列をつくった。
 
紀州藩主・吉宗が、時の老中・間部詮房の抜擢で徳川第8代将軍になっ
た後も、「将軍暗殺」の企みは続いていた。
吉宗と将軍直属の隠密・蜻蛉組を束ねる伴格之助の狙いは、何としても
近いうちに、暗殺者を捕まえることに尽きる。吉宗が将軍の座に就いて
から、これまで、5度にわたる奇襲の折にも、暗殺者を捕らえることは
できず、相手は風の如くに、「消え去った」という。
これは吉宗自身の放胆さもあって鷹狩りや野駈けの折の警備や警戒が
軽かった所為もあった。このため近年の吉宗は、大好きな鷹狩りにも野
遊びにも、気軽に出かけられないでいた。


自問から自答へ低く飛ぶツバメ  佐藤正昭


「徳山五兵衛」将軍・吉宗に見初められた男ー②
 


鷹狩りの図ー2


将軍が正式に堂々たる行列をもって、江戸城外へ出るときは、曲者も現
れない。ともかくも曲者どもの1人でも2人でも捕まえないことには、
何者が将軍家の命を狙っているのかが、分からないのである。
「あれか、これか…?」の、見当はついても、それは、証拠とはならず、
どこまでも憶測の域をでないことになる。
「上様御存念はさておき、われらといたしては、何としても曲者どもの
正体を暴かなくてはなりませぬ。これは、直参の徳山殿にも御同意のこ
とと存ずる。いかが?」
「申すまでもないことでござる」
徳山五兵衛が、そう答えたのも当然である。


信念の人もアキレス腱はある  柳川平太


五兵衛は今日の吹上のお庭で、間近に目通りをした将軍吉宗「これぞ、
まさに天下人」と畏敬の念を新たにした。吉宗が型破りの将軍であるこ
とは、五兵衛も亀戸村の名主屋敷で、はからずも目撃している。同時に、
自分のどこを吉宗が見込んだのか知らないが、将軍の旗本としての役目・
見廻り方を務めていたときの勤めぶりをよく看ていて、このような重大
な秘命を与えてくれたことに、五兵衛としては、感奮せざるをえない。
伴格之助は、まだ腹を撃ち割った話を控えているところがある。それが
五兵衛は、もどかしいような思いがするが、万事はこれからなのだ。


正論でちょっと冷たい決まりごと  津田照子


「五兵衛殿は、およそ3ヵ月ほどのちに、ふたたび本所見廻り方へ就任
することになるであろう
と、伴格之助が言った。
それから五兵衛の秘密の御役目が、はじまることになる。
「その秘密の任務を遂行するためには、是非にも、本所見廻り方を務め
て頂かねばなりますまい」
と、格之助は言い足した。
「なれど、その前にも、働いて頂かねばならぬかと存ずる」
「それは何の役目でござろう」
「いずれ吾らより連絡(つなぎ)をつけまするが、いずれに、これより
は何事にも、御油断なきよう致されたし」
「承知つかまつった」


頷いてみただけなのにもう仲間  穐山常男


それから10日程して、伴格之助の使いの士が「お迎えに参上いたしま
した」と徳山屋敷にあらわれた。五兵衛は、あれから一歩も屋敷を離れ
なかった。小沼治作へも「屋敷をはなれるな」と命じてあった。
用人・柴田勝四郎小沼治作。それに奥向きでは、妻の勢以に老女の
この4人のみへは、それとなく、新しいお役目について念を入れてある。
これは、伴格之助の承認を得てのことだ。これからは、格之助の声がか
かりしだいに、それこそ単身で外出をすることもある、ということだし、
隠しておいては却って、奉公人たちに怪しまれることにもなる。
もっともお役目の内容については一言も漏らしてはいなかった。


沈黙のあなたに合わす周波数  御堂美知子




             吹上の庭


翌日、羽織袴の姿で徳山五兵衛は屋敷を出た。一ツ橋御門から丸の内へ
入り、さらに江戸城・内堀の竹橋御門へすすむ。御門の番士に、伴格之
から与けられた、城中を自由に往き来できる天下御免の「御意簡牘」
(ぎょいかんとく)を出して見せると、一も二もなく頭を下げ、五兵衛
を通してくれた。わけもなく五兵衛は、城内本丸の裏手へ入ることがで
きた。
「徳山殿。ご苦労に存ずる」
両手を膝のあたりまで下げ、格之助の挨拶は丁重だった。将軍吉宗の股
肱の臣であるのに、伴格之助には、些かの奢りも高ぶりもなかった。


月のようにあなたは見せぬ裏の顔  櫻田秀夫


五兵衛を自らの部屋へ導いて、伴格之助は用件を切り出した。
「実は…このたび、徳山殿に本所見廻り方のお役目へまわっていただい
たのは、ほかでもござらぬ」
「…?」
「この秋の終わりに、将軍様は久方ぶりにてお狩りをあそばされます」
「お狩りを…」
前もって、警備のことに当たらせようということなのか…。
だが、それだけのことならば「御意簡牘」の異例な特権を与えなくとも
よいはずだ。
「徳山殿は、このお狩りを何とおもわれますかな」
「……?」
「こたびのお狩りは、相手方を誘き寄せるためのものでござる」
「相手方と申すのは…?」
「何者なりと断じかねますゆえ、そのように申したのでござる」
「では、では、上様のお命を狙う曲者…」
「その通りでござる」


デコボコの運命線を踏み締める  中村牛延
 


     鷹狩りの図ー3


「おわかりになられましたかな」
「それがしが、上様の御身代わりとなるのでござるな」
「いかにも」
「もとより覚悟をいたしております」
「かたじけない。なれど、むざむざ徳山殿を死なせりようなことはいた
しませぬ。そのように、此方も出来える限りの備えをいたしますゆえ」
徳川幕府は吉宗一代で終わるわけはない、将軍を暗殺しようとするから
には、当然、徳川幕府そのものに反抗し、これを潰滅させることにある
と看てよい。なればこその相手が何者であるか、
「突きとめねばならぬ」ことになる。


四万十の水で地球を洗いたい  前田恵美子


面貌こそ似ていないが、将軍吉宗徳山五兵衛の体格は、よく似ている。
背丈も同じ、肉づきも同様であることを、この前に、吹上の庭で吉宗に
目通りをしたとき、五兵衛は察知した。ゆえに五兵衛はこの日のことを
薄々感じないでもなかった。
「そこで徳山殿。上様お狩りのことが、それとなく世上へ洩れるように
 取りはかろうていただきたい」
「心得申した」
「ひそかに、しかもそれとなく…」
「相わかりました」
「お狩りは、いまのところ10月7日ということに…」
「はい」
「手筈を充分整えるからには、むざむざと、そこもとを死なせはいたし
 ませぬ。それはまた、上様の御内意でもござる」


なりゆきの嘘に乱れる脈拍数  山内美則
 


        鷹狩り・野狩りの図


「将軍吉宗、お狩りへ」
「ふうむ、余にくらべて、よほど将軍らしい」
将軍・吉宗に扮した五兵衛を見、その姿に吉宗が言った。
背丈や体格はよく似ている五兵衛であったが、むろん相貌は似ていない。
切れ長の両眼は、似通ってないこともないが、吉宗のいかにも逞し気な
太い鼻筋や顎のあたりまで、垂れて見えるといってもよいほどの巨大な
耳は、五兵衛のものではない。五兵衛のお役目とは、「吉宗の身代わり」
いわゆる吉宗の影武者になる、ことである。


本物は欠伸をしても品がある  西澤司郎


ところで、伴格之助が率いる「蜻蛉組」は、すでに山城屋惣平方に目を
つけていた。今このとき、蜻蛉組が監視しているというのは、将軍吉宗
の命をねらう曲者どもと山城屋が、関わり合いがあるということになる。
「曲者どもは、江戸市中に、これまで、5ヶ処の隠れ家を設けておりま
してな」 
五兵衛はおもわず膝を乗り出して耳を傾けた。
 「それに伊勢屋藤七方を加え、合わせて六ヶ処。これで、すべてが判明
いたした」
 「徳山殿。これにて後は、上様お狩りの日を待つのみでござる」
「蜻蛉組」とは、吉宗が紀州から江戸へ移した隠密組織で、伴格之助は
紀州藩士だったころから、吉宗の側近くに仕え、「蜻蛉組」を束ねている。
また蜻蛉組とは別に、将軍直属の隠密である「締戸番」というのがある)


一尋の波を褥として生きる  平井美智子 


五兵衛の若き頃の剣術の師であった佐和口忠蔵が……。その恩師が尾張屋
源右衛門殿たちに与し、鉄砲を構え、上様の命を狙っているという。
数年前、久しぶりに吉宗が、小梅の辺りへ狩りに出たとき、これを鉄砲で
狙い撃った曲者がいると、岳父・藤枝若狭守から耳にしたことがある。
そのとき、運良く、吉宗に弾丸は命中せず、供の者が一人、撃ち倒された
という。そして曲者は逃げた。そのときの曲者が、あの佐和口殿なのだろ
うか。


遠い日の忘れ物なら川にある  黒田るみ子




        鷹 匠


狩りの日、将軍吉宗は行列をととのえて江戸城を出発し、狩りをしながら
亀戸村の名主宅へ向かった。名主の隠居所で昼食取った吉宗は、そけで着
替えをすませ、塗笠をかぶって普通の侍姿となり、護衛の武士団に守られ
て城へ戻った。
 一方、待ち構えていた五兵衛は将軍になりすまし、馬に乗って狩りを続け、
牛田の薬師堂へ向かった。立石の南蔵門へ差しかかったとき、突然、銃声
が響き、五兵衛の躰が馬上に大きく揺らいだ。  五兵衛への弾傷は、幸いに
も急所を外れ、大怪我を受けたが一命はとりとめた


だいじょうぶトマトの赤で切り抜ける  山本早苗


供の侍たちが一斉に寺の山門へ突き進み、対岸の木立からも捕手の人数が
走り出て、曲者の捕縛にあたった。また、伴各之介の蜻蛉組は、六ヶ処の
隠れ家を襲撃し、曲者の一味を捕縛した。  将軍吉宗を狙撃したのは、
佐和口忠蔵で、彼は捕らえられ吟味を受けた後、首を打たれた。
やがて徳山五兵衛は、新しい御役目に就くことを命じられた。その役目は
「御書院番頭」であった。2240石の身分としては、異例とまではいい
きれぬが、相当の昇進であった。そして享保2年(1717)、33歳の
とき五兵衛は、「御使番」に任ぜられ、その翌年には、「御手先組筒頭」
(鉄
砲頭)となった。



存分に歩いたか花咲かせたか  田口和代

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