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川柳的逍遥 人の世の一家言
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控えめに生きておりますしつけ糸  新川弘子



「淀の方」 永禄12年(1569)~慶長20年(1615)

本名は茶々。妹に(常高院)(崇源院)がいる

織田信長の妹・お市浅井長政の三姉妹の長女である。
             ひろい
文禄2年(1593)(秀頼)を産んだ。

秀吉に正室・ねねや他の側室は豊臣秀吉の子を生んでいないため、

秀吉政権で「お世継ぎの母」となり、力を持つ。

秀吉から淀城を与えられたため茶々は「淀の方」と呼ばれるようになる。

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、秀頼が天下人の地位を受け継ぐが、

秀頼はまだ6歳。

当初は秀吉の正室ねねとともに秀頼の後見に当たったが、

翌年ねねが身を退いて大阪城を退去して京へ移住したことで、

淀が豊臣政権のトップとなった。

答出たのね靴ひもを結ぶふり  森田律子

しかし、この女性主導ともいうべき豊臣政権は政治・軍事面で遅れをとり、

次第に豊臣家臣団の筆頭に過ぎなかったはずの徳川家康の台頭を許す。

豊臣家臣団の内部分裂で「関が原の戦い」が起きるが、

淀は秀頼の出馬を許さず、中立の立場をとった。

慶長19年(1614)「大阪の陣」が勃発する。

その頃には、大名で豊臣家に味方する者はなく、

大阪城へ馳せ参じたのは「関が原の戦い」で家を失った浪人衆のみだった。

嗄れた耳は明日を培養中  河村啓子

淀は自ら甲冑を着込み城内を歩いて閲兵、督戦を行なう。

「秀頼は乳飲み子なり、お袋専制なり」

と評されたように、秀頼には意見を言わせなかったとされる。

幸村たち浪人衆の意見を退けて籠城を決する、

秀頼を出陣させないなど、
淀の判断は消極策に終始した。

一方で秀頼への愛情を何より優先した。

大阪城のトップとして采配を振るうには、いかにも力不足といえた。

ガラパゴスへ帰りたがっている背中  新家完司

後世の人は「大阪の陣」の結果をよく知っている。

大阪方が和議に応じたから負けた、

秀頼が出なかったから負けた、

とその敗因をいくらでも分析することができる。

だがそれは過ぎたことだから言える事で一分先のことも読めないのが現実。

幸村が「さだめなき浮世、明日のことはどうなるかわからない」

手紙でも述べているように、豊臣軍の武将たちは、

「まだまだ勝機はある」
と信じて戦っていた者が多かったはずだ。

豊臣軍の諸将は諦めず、家康を倒すための一手を考えていた。

徳川軍は総大将の家康と息子の秀忠が最前線近くまで出てきている。

「もう」言うな水はしばらく止められん きゅういち


 秀頼出馬を願う幸村

しかし豊臣軍の大将・秀頼はといえば開戦から一度も城内から出ていない。

幸村は秀頼の出馬を何度も願ったが、

その度に淀や首脳陣に渋られ、
実現せずにいた。


秀頼本人も血気盛んな23歳、

前線へ出て采配を振るいたいとの思いは
あったようだ。

だが側近が、淀の気持ちを慮って、それを留めた。

もし秀頼がそれを振り切るほどの気概を持っていたら、

まだ勝敗の行方は分からなかっただろう。

カラフルな画鋲握り潰してる  岩根彰子

敢えて擁護するならば、淀は大阪の陣が始まって以降、

城内では、家康の調略による「秀頼暗殺」の報が飛い謀反の噂が絶えず、

常に疑心暗鬼に陥っていた。

そのために淀は「秀頼を一歩も外へ出さない」という選択をせざるを得ず、

側に置いて離さなかったという。

その状況を打開できるような、頼りになる譜代の家臣が少なかったことが、

豊臣家と淀にとっては、不幸であった。

「定め無き浮世にて候へ者、一日先は不知事候。
 我々事など浮世にあるは おぼしめし候まじく候」

木霊響く振り向かないと決めたのに  加納美津子

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足裏は今日の復習しています  合田瑠美子

(各画像は拡大してご覧下さい)
   真田丸奮戦

大坂の陣直前に幸村が築いた真田丸、その存在は以前から知られていたが、

近年、そのその構造や役割について見直しが進んでいる。

従来、真田丸は大阪城の弱点である南東平野口の防御を固めるべく、

あくまで惣構えの補強として設けられた「曲輪」だとされてきた。

しかし実は、およそ南北220m、東西140mにも威容を誇る、

惣構えの外に築かれた「独立した城」であった。

最新の研究によれば、真田丸の周囲には水堀ではなく空堀が巡っていた

ことが明らかになっている。

また南東口は地形的にも弱点というより、むしろ、

天然の要害であったという。


悲しみを瞳の底に書き留める  小池正博


松江歴史館で見つかった真田丸絵図(上が南)

「真田丸最古の絵図見つかる」

今回見つかった真田丸の絵図は、元禄年間(1688〜1704)頃のもので、

真田丸を詳細に描いたこれまで最も古い絵図は、


広島中央図書館所蔵の「摂津・真田丸」宝暦3年(1753)とされてきた。

大坂冬の陣(1614)で豊臣方の武将・真田幸村が大坂城南側に

築いた出城「真田丸」の江戸時代の絵図(縦28センチ、横41センチ)が、

2016/10月12日、松江市の松江歴史館で見つかった。

真田丸の絵図は、戦時の布陣を示す略図が多いが、

今回のものは跡地で写実的に描かれたとみられ、専門家は、

「謎が多い真田丸の姿に迫ることができる重要な発見」としている。
                       (各紙掲載文参照)
三日月の欠けた部分がわたしです  岩田多佳子

今回の絵図は、江戸時代の武士が研究に用いた城の絵図集で、

松江市の男性が市に寄贈した「極秘諸国城図」(74枚)の1枚。

絵画集の包み紙には作製時期を示すとみられる

「元禄」(1688〜1704)
文字が書かれていた。

絵図の北側には「出丸 廿五(二十五)間程」と記載があり、

真田丸に「本丸」「出丸」があったと解釈できる。

絵図の調査を担当した奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)は、

「真田丸自体に出丸と本丸があったとすれば、

 大坂城から独立した軍事拠点といえる」 と話している。

屋台にはガラスの騎士の席がある  ふじのひろし


 大坂冬陣備立図 (大阪城と真田丸の位置関係)

真田丸の北側には大坂城があり、当時は防御の必要性が低かったと
                              こしぐるわ
みられるが、出丸の東側には側面を防御する「腰曲輪」も描かれている。

また真田丸の南側に一番外側の堀を意味する「惣構堀」と記れた堀があり、

堀の底に下りるようなスロープが描かれている。

こうしたことから、「真田丸の独立性がうかがえる」というのだ。

真田丸は、幸村が1614年の「大坂・冬の陣」で築いた砦で、

戦いのあとすぐに取り壊されたため、大坂城の中にあったのか、

独立した出城として建てられたのか解明されていなかった。

サランラップで包む私の急所  雨森茂樹

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非常口いくつかあってまだこの世  清水すみれ


    真 田 丸

「幸村の出城」

慶長19年初冬、豊臣秀頼を中央に大野治長ら豊臣の重臣に有楽斎

加わり、真田
幸村以下、五人衆との間で「軍評定」が開かれた。

徳川軍を迎え撃つ戦の方針を巡って討議は紛糾する。

大野治長をはじめとする秀頼の側近たちは、大阪城の堅固さを利用した

籠城を主張する一方、戦働きによる武功を望む五人衆は積極的に


徳川勢の出鼻を挫く策を主張した。

散々、議論が交わされたが、結果は、淀君の一言で方針が決まってしまう。

「これだけの城と兵を有しながら、上様自らが野に出て、

 戦う必要がどこにありましょうや」 

つまりは籠城だった。


それを見越していた幸村は、すかさず秀頼に出丸の造成を進言する。

風穴をあけて言いたいことを言う  平井玲子

「敵方は城の南側に主力を配すると考えまするが、一点に城攻めの狙いを

 定めるならば南惣構えの黒門と平野口の間が構えの薄き場所かと、

 そこに攻守両用の出丸を造ってはいかがにござりましょう」

「出丸とは、いかなるものか」 

と怪訝な面持ちで秀頼が問う。


 「黒門と平野口の間に丸馬出の形で幅10間(約18メートル)の砦を築き、

 正面に三日月の如き水掘を置きまする。そこから両端までを空堀とし、

 三段の土塁を盛り、三重の柵にて囲みまする。ただし、両側には馬出を

 設け、その外側に柵列と逆茂木を巡らせばよいかと。この出丸を造ります

 れば敵が背を見せた時に南側への出足を失うことはありませぬ」

幸村の意外な策に皆は驚いたが、秀頼と大野治長はそれを採用した。

能書きを端折ると笑う寒牡丹  オカダキキ

翌日から大阪城の東南角に槌音が響き始める。

幸村自らが人工や足軽を指揮し、突貫で出丸の造成が進められた。

その間に徳川勢は進軍を続け、各地で与力の将兵を加え、

総勢20万に膨れ上がった。

出城は何とか敵の布陣までに完成し、その物見櫓に立った幸村は、

やがてこの出城を取り囲むだろう徳川勢の旗幟を想像しながら、呟いた。

―何とか間に合ったようだ。これで少しは戦らしくなろう。

そしてこの出城が、いつの間にか「真田丸」と呼ばれるようになる。

守りから攻めに入った猫のひげ  松宮きらり

幸村は初陣となる息子の幸昌(大助)に言った。

「戦の方針は、籠城となった。

 されどわれらの狙いは、籠城に見せかけた出戦である。

 ここから戦いに持ち込み、この出丸に秘めた策をすべて解き放つ。

 そして、徳川に一度も負けたことのない真田の武名を、

 ふたたび世に知らし目ねばならない」

幸村は敢然と己の決意を伝える。

慶長19年12月4日、今まさに、「冬の陣」が始ろうとしていた。

【余談】
突貫工事で造られたという真田丸だが、近年の調査研究により、
この「真田の出城」は従来の説より精巧な要塞で、

また、かなり険しい地形に築かれたことが分かっている。

昨日今日守り明日への歩は変えぬ  上田 仁


   真田大助

「真田幸昌」

父・幸村が配流された九度山で生まれた。

母は大谷吉継の娘・竹林院。


慶長19年、父とともに大阪城に入り、

同年、冬の陣では、真田丸に攻め寄せた
幕府軍に突撃をかけたと伝わる。


翌年、夏の陣が起こると、5月7日天王寺・岡山の戦いで父の前陣を務め

奮戦、負傷した。

その後、父から秀頼の側を固めよと命じられ城内に戻り、


翌日、秀頼・淀君母子に殉死。弱冠14歳の最後であった。

畳みじわついたまんまで河口まで  笠嶋恵美子

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生きてますとんがらし煮ています  河村啓子


    江戸城

「時の流れは徳川に」

関が原の戦いの3年後、慶長8年(1603)家康征夷大将軍に任命された。

これによって、名実ともに徳川氏による江戸幕府を開かれることになった。

秀吉「関白」であったのに対して、家康は「征夷大将軍」の道を選んだ。

家康が選択したこの位は、武家にしてみれば伝統的な官職である。

しかも絶対的権威の象徴である。

家康の将軍職就任によって、豊臣秀頼との関係が微妙に変化した。

それまでは正月元旦の年賀のため、豊臣の家臣たちは,

大坂城の秀頼に年賀拝礼に登っていた。


それが新将軍誕生によって、大坂城に年賀の為に登城する大名の数が減り、

江戸城に登城する大名たちは以前よりも増えた。

クラゲとも握手ができる器用な手  新家完司

それでも大坂城には秀頼がおり、

大坂方では家康が将軍になったことに
ショックを覚えたが、

それでもまだ「天下の家老」という受け止め方をしていた。


「秀頼が成人した暁には、政権を返すはず」という思いがあった。

そうした思惑を完全に打ち砕いたのは、その2年後である。

家康が突然、将軍職を辞し子の秀忠が二代将軍になった。

これは「江戸幕府は徳川氏が世襲する。政権はもう秀頼には返さない」

という意思表示である。

「秀頼が成人すれば」あるいは「家康が死ねば」と考えていた大坂方は、

たとえようもないショックを受けた。

関節を外して挑む睨めっこ  上嶋幸雀

武家の棟梁になる方向へと楫をきった家康は、上洛を繰り返した。

2年後に息子秀忠が将軍になると、その頻度はさらに高まる。

慶長4年3月から家康は、約半年間を伏見城に滞在し、

そして慶長5年から慶長11年までの6年間、大半を伏見で過ごした。

理由は、豊臣方への牽制以外の何物でもない。

将軍が家康から秀忠に替っても、豊臣方との緊迫関係は依然として続き、

また朝廷の動きも、家康としては気になるところがあった。

関ヶ原の戦い後の大名の編成変えを行っても、

裏で豊臣に気脈を通じた有力な諸大名が西国を固めていた。

これら外様の諸大名たちの静けさが家康には気になる。

あざとさをトッピングしたプロフィール 美馬りゅうこ

そうした静けさを潰すため、家康は城造りに手をかける。

西国の大名たちに余分な時間を与えないためである。

手始めに江戸城を天下普請とし、西国の大名たちに工事や作業を命じた。

東西七十余りの大名たちは、家康の命令で神田山の開削や入江の埋立て、

更に江戸城域拡張のための敷地確保などを行った。

埋立地には江戸の町の元となる町屋を集め、そこに商工業者が移された。

西国の29の大名たちは、石船で遠くから石材を江戸まで運搬した。

慶長3年に始った工事は、本丸や二の丸や三の丸を造り終え、

江戸城天守が完成したのは、慶長12年であった。

シリカゲルの太る音 人潰す音  岩田多佳子

これで全てが終わったわけではない。

将軍職を引退し駿府に居を移していた家康は、江戸城増築と同時進行で

駿府城やその城下町の建設も外様大名に命じて造らせた。

さらに拡張工事は、二代将軍・秀忠や三代将軍・家光へと引き継がれ、

こうして江戸城や江戸の町は大きく拡張された。

将軍職引退後に大御所となった家康は、

今度は駿府城やその城下町の建設もこれら外様大名に命じて造らせた。

こうなると、西国の大名たちにとっては、家康に反撃を挑む余裕などない。

家康は強かに、大名たちの爪を削いでいったのである。

天麩羅のコロモに書いた長恨歌  井上一筒

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考えがまとまらぬまま滝になる  嶋沢喜八郎


 後藤又兵衛・真田幸村(太平記英勇傳)

大阪城に入った幸村は、周囲の攻め落とす作戦を唱える大野治長に対し、

「兵とは詭道なり」ゲリラ戦で機先を制する戦法を主張した。

「大阪城内・戦評定」

慶長19年(1614)10月初旬には名のある武将が大阪城に入り、

15日前後には、「戦評定」が行われた。

『難波戦記』によれば、片桐且元の摂津・茨木城を落とし、

「京都を占拠して所司代の板倉勝重を虜にしよう」大野治長が主張した。

これに対して真田幸村は、時間のかかる城攻めをしている間に、

「徳川方に宇治、勢多を押さえられてしまう」と異を唱えた。

幸村に後藤又兵衛が同調し、

「自分と幸村に1,2万の兵を与えてもらえば、


宇治、勢多を占領し、石部より手前を焼き払って幕府方の居所を奪い、

勢多橋を焼き、舟を壊し、雑説を流せば敵の士気はくじける。

かみ合わぬ話がレール走り出す  中川隆充

その後、木村重成か大野治長が京都に向かい、明石全登と長宗我部盛親が

大和を押さえ豊臣七手組(秀吉が創設した精鋭部隊)が大津に出張り、

柵や土居を築くべきだ」、と強弁した。

治長が否定するので、幸村は、

「宇治、勢多で敵を止め、
大河を渡河させなければ、

必ず徳川方に加担する大名が変心するはず。


さらにこれから厳寒の冬になるので、敵は川を渡るだけでも困難。

兵が使い物にならなくなるので、これは奇襲をかければ打ち破れる」

と持論を説いた。

大根の背中どこだと思います  山本早苗

すると徳川方の密偵として入城していた小幡景憲が、

「源平の昔から、
宇治、勢多での防衛戦で勝利したためしはない」

と反論したので、
豊臣家の重臣たちは、景憲の意見に賛成し、

籠城策に決定した。


これにより幸村らの出撃策は取り上げられなかった。

ただ、出撃していても成功したかは疑問である。

15日には、伏見、二条、膳所城には幕府方の兵がすでに入っていたので、

やすやすと進撃を見逃すはずがない。

これらの城は堅固なので、攻略するには相当の犠牲を払わねばならない。

おそらく幸村も十分把握していたはずである。

あいのてはココに入れろとあるト書  藤井孝作



「木村重成」

文禄2年(1593)~慶長20年(1615)
       しげこれ
木村定重、重茲(山城国淀18万石)から続いた秀吉の忠臣の家に生まれる。

母が秀頼の乳母となった縁で、幼少期から秀頼の側近を務めた。
ただす
豊臣と徳川の関係が悪くなると、大野治房渡辺糺と共に開戦を主張する。

「大阪冬の陣」では後藤又兵衛とともに「今福の戦い」に参加。

和睦が決まると秀頼の正使として秀忠本陣へ出向いて誓書を受け取った。

夏の陣の「若江の戦い」で激戦の末に討死。23歳だった。

首級が届けられると、頭髪に香が焚きこめてあり、

その覚悟に家康が感心したという。

落ちてゆくときも新調の靴で  笠嶋恵美子



「小幡景憲」

小幡勘兵衛の名で知られ、「甲陽軍鑑」の成立に関わった兵学者として有名。
          おばたとらもり
景憲の祖父は、小幡虎盛で武田二十四将のいひとり。

武田氏滅亡後、景憲が11歳の頃、徳川秀忠の小姓を一時務めるが出奔し、

諸国を回り武芸や兵学を学ぶ浪人生活をした。

後に井伊直政の家臣として、関ヶ原合戦に参戦。

大坂の陣では参謀として豊臣氏に与したが、内実は徳川氏のスパイで

徳川方である板倉勝重に豊臣方の情報を流していたと言われている。

大阪城を離れた後は、富田重政隊に属し真田丸攻撃に加わったとされ、

「大坂の陣」後には、1500石の御使番として徳川に召抱えられている。

さみしさの類語辞典にいた夕陽  中野六助

【余談】「兵とは詭道なり」とは、

 戦は騙しあい、いかに有利に戦えるかを考え、相手を攪乱する作戦。
  しばい
「司馬懿に攻められて、撤退を余儀なくされたした孔明は、

僅かな兵を率いてまさに「風前の灯」の状態だった。

しかし司馬懿が遠方から孔明の城の様子を見ると、城門は大きく開かれ、

道には障害物一つなく、さらに城壁の上では孔明が、

香を焚いて琴を弾いている。

城門近くまで進んできた魏の騎馬隊は、この異様な光景に驚き、

司馬懿の指示を仰いだ。

司馬懿は、罠がしかけてあると読み、敢えて攻撃をしなかった。

相手の隙を見た孔明は、夜半に難なく撤退してしまったという」

 敵の戦力が充実しているときは、敵の攻撃に備えて防禦を固める。
 敵の戦力が強大なときは、敵軍との接触を回避する。
 敵が怒り狂っているときは、わざと挑発して敵の態勢をかき乱す。
 敵が謙虚なときはそれを驕りたかぶらせる。
 敵が安楽であるときはそれを疲労させる。
 敵が親しみあっているときはそれを分裂させる。
 敵が自軍の攻撃に備えていない地点を攻撃する。
 敵が自軍の進出を予想していない地域に出撃する。

メンタムを塗って出易くしておいた  井上一筒

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