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川柳的逍遥 人の世の一家言
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サイコロに化けた狸をさしあげる  前中知栄

「大阪城に駆けつけた牢人5人衆」



「真田幸村」

永禄10年(1567)~慶長20年(1615)

浅井家の厳しい監視の目をくぐり九度山を脱出した真田信繁は、

名を幸村と改め、秀頼の密使・明石全登の案内を受けて大坂城に入城。

大坂にはすでに豊臣に味方をする牢人衆が多数集まり、

その数は10万を超えていた、が秀頼と淀殿が頼りにしていた豊臣恩顧の

大名の参陣はなく譜代家臣と 雑駁な浪人衆ばかりの寄せ集めであった。

それでも牢人衆の中には、元大名やその子弟、大名家の重臣など、

身分の高い者や、戦において兵を統率する能力のある人物が数人いた。

三人衆と呼ばれた真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永の三人の元大名に、
                                 てるずみ
元・黒田家重臣・後藤又兵衛、宇喜多家重臣・明石全登の二人を加えた

「牢人五人衆」の面々である。

うまい話求めぐるぐる回る首  新家完司


右側中央が勝永と思われる

「毛利勝永」 

天正5年(1577)~慶長20年(1615)

秀吉の家臣・森勝信の嫡男。

父は秀吉の九州征伐に功があり、豊前6万石を得た森から、

「毛利」に姓を改めている。

これは中国地方の雄・毛利家が九州北部でも影響力を持っていたためで、

秀吉の勧めと毛利輝元の許可受けての改姓で、

勝永も森勝永から毛利勝永となった。

「関が原の戦い」では、九州に留まった父に代わって出陣して西軍につき、

伏見城攻略に戦功を挙げる。
         あんこくじえけい
しかし本家の安国寺恵瓊の指揮下に置かれたため活躍の機会がなかった。

恵瓊は石田三成とともに西軍の主謀者だったため処刑され、

勝信・勝永も敗軍の将となって徳川家に領地を没収された。

砂噛んだこと思い出す遠花火  笠嶋恵美子

その後、山内一豊に匿われて土佐で暮らすうちに父を亡くし、

妻子とともに過ごす。

「大阪の陣」が勃発すると豊臣秀頼の招きで土佐を脱し大坂城へ入る。

勝永が土佐を出る際、妻子と涙ながらに交わしたとされる美談がのこる。

「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、一命を捧げたい。

   しかし自分が大阪に味方すれば、お前たちに難儀がかかるだろう」

勝永が覚悟を告げると、それに応えて妻は次のように返したという。

「主君の恩為の働き、家の名誉です。私たちは波に沈み一命を絶ちましょう」

その後、勝永は山内家に対して「徳川家に加勢する」と偽って、出奔した。

ぼんやりと遠い岬のその先の 山本早苗

特に「大阪夏の陣」における勝永の活躍は目覚しく、

「道明寺の戦い」では後藤又兵衛などの敗残兵を勝永隊が収容した。

翌日の「天王寺の戦い」では、本多忠勝の二男・本多忠朝らを討ち取り、

幸村とともに家康本陣を脅かした。

勝永隊の強さを見た徳川軍の黒田長政は、

「子供のように思っていたのに、さても歴戦の武将のようだ」

と驚き賞賛したという。

戦後、土佐に幽閉されていた勝永の妻子は京へ送られ、

妻と娘は保護されたが、10歳の息子・太郎兵衛は斬首された。

木洩れ日に遺恨の過去を消去する  上田 仁



「後藤又兵衛」 

永禄3年(1560)~慶長20年(1615)

本名の基次の名でも知られる。

播磨・別所長春の家臣であった後藤基国の子。

別所家が滅んだ後、黒田官兵衛に仕え、次いで息子の黒田長政に仕えた。

朝鮮出兵では海を渡って黒田家中で随一といわれる活躍を見せる。

「関が原の戦い」でも存分に槍を振るい、黒田隊の活躍に貢献した。

しかし、主君の長政と対立して出奔。

多くの大名家から声がかかるが、先君の長政の妨害で仕官できず、

10数年の貧しい浪人生活を過ごす。

「大阪の陣」勃発で大坂城へ入り、冬の陣・夏の陣ともに活躍した。

決戦前日の「道明寺の戦い」で徳川軍を一手に引き受け奮戦するが、

討死を遂げる。

カマキリの姿でルビコンを渡る  森田律子



「長宗我部盛親」 

天文8年(1539)~慶長20年(1615)

四国の覇者、長宗我部元親の4男。

「関が原」後、徳川家に領地を没収され浪人となって京都に隠棲していた。

「大阪の陣」で秀頼に招かれ、豊臣軍の主力の一人として活躍する。
                                       やりぶすま
盛親は「八尾・若江の戦い」で活躍し、東軍の藤堂高虎隊を槍衾で苦しめ、

大きな痛手を負わせたが、彼の軍勢の損害も小さくはなく、

翌日の「天王寺岡山の戦い」では前線へ出向けず、京橋口を守備した。

豊臣軍が敗色濃厚になると、戦場を離脱して逃げ落ちる。

しかし大阪落城から3日後の慶長20年5月、京の山地に潜んでいた所を

徳川軍による残党狩りに見つかって捕らわれてしまう。


その後、盛親は二条城の門外に縛りつけられた。

その姿を目にした井伊直孝は足を留め、互いの戦いぶりを讃えあったという。

そして捕縛から4日目の5月15日、京都の六条河原で処刑されたが、

盛親は少しも見苦しさを表に出さず、見る者を感心させたという。

同じく捕らわれていた秀頼の遺児・国松(8歳)と、

その守役の田中六郎左衛門らも同日に刑場の露と消えた。

さよなら三角そんなかたちの雲がある  田中博造



「明石全登」

生没年不詳。九度山で謹慎中の真田幸村を大阪城に招いた秀頼の密使。

本名は「全登」と書いて「てるずみ」「たけのり」と読まれることが多い。
                かもん
また通称は掃部で、明石掃部とも称された。

宇喜多直家に仕えた備前・保木城主の明石行雄の子として生まれ、

後に宇喜多家のお家騒動が起き、有力な家臣がいなくなったため、

全登が宇喜多家の筆頭となる。

その後、秀吉の直参となったため備前に10万石の所領を得る。

関が原の戦いでは若き宇喜多秀家を盛り立て、

西軍主力として戦うが、奮戦虚しく西軍は敗退。

岡山城には戻れずに落ち延び浪人となる。

スイッチは首のうしろにあるはずよ  竹内ゆみこ

慶長19年(1614)、大阪の陣が起きると豊臣軍に加勢する。

「道明寺の戦い」に参戦し、後藤又兵衛の戦死後も踏み留まって戦った。

翌日の「天王寺・岡山の戦い」では、手勢300名の精鋭を率いて待機し、

家康本陣を突入する機会を窺った。

しかし真田隊が壊滅して毛利隊も崩れたためにタイミングを失し、

包囲をかいくぐって戦場を離れた。

その後、討死したとも伝わるが、徳川軍による残党狩りにもかからず、

消息も生死も不明のまま、時間が彼の名を消していくこととなる。

かすり傷のままそおっと分かれます  山本昌乃

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後ろからいつも鳴ってる非常ベル  河村啓子


  幸村と後藤又兵衛

実戦経験が豊富な後藤又兵衛は、大阪城へ入った浪人衆のリーダー格で
あった。
大野治長が後藤又兵衛に幸村が敵に内通している恐れがあること
相談すると、又兵衛は一笑に付し、疑われる幸村に同情したという。


「大坂城で」

真田信繁は、九度山脱出の際、家康に反抗した父親の諱「幸」を名乗る

ことを
憚り兄が「信之」と改めたように40年馴染んだ「信」の字を捨て、

名を「幸村」と改め
「ここには戻らない」という覚悟を決め大坂に入った。

大坂へ行く以上は、勝つつもりでいたであろう。

豊臣家には、まだその可能性をわずかに残す財力と求心力があった。

豊臣はその財力を使い各地に散らば武士たちを集めた。

結果、大坂城には10万もの兵が集結した。

しかし集まった者は、浪人ばかりで大名の参陣は一家もなかった。

カサブタの下から覗く秋の色  藤井孝作

だが、万石を得ていた元大名はいた。
              あかしたけのり      ちょうそかべもりちか
毛利勝永、後藤基次、明石全登、中でも 長宗我部盛親は一国一城の主で、

土佐の旧臣は1千も集まり一番の主力と期待された。

浪人のなかで3人衆といわれたのが、

長宗我部盛親、毛利勝永、
それに幸村だった。

幸村は大名ではないが、
徳川軍を二度敗走させた昌幸の後継者と

目されたからである。


集まった浪人たちの有様を見て、幸村は愕然とした。

さらに評議に出てみると、豊臣家の重臣たちはろくに戦場に出たことのない

者たちばかりがもっともらしい意見を述べている。

持ち場さえも決定できず、浪人たちは勝手に布陣している始末。

鎖骨から錆びたナイフがヌッと出る  くんじろう

開戦にあたって軍議が開かれ、幸村は出撃策を進言する。

「東軍を近江の瀬田川あたりで迎え撃ち、冬の川を渡る敵に銃撃を浴びせて、

   足止めをする。その間に諸大名の中には寝返るものも出てくるだろう」

それは九度山において、晩年を迎えた父の昌幸が幸村に授けたとされる

戦略だった。


しかし大野治長を中心とする豊臣家の首脳陣は幸村の意見を不採用とし、

大阪城に籠城して敵を待ち受けるという消極策がとられることになった。

時系列に追う迷路の出口  山本早苗


大坂城と真田丸の位置

出撃策は退けられたが籠城と決まったからには、

そこで全力を尽くすほかない。


幸村は、「独自の戦いをするしかない」と割り切り、

総構えの外の南東に
真田丸」を構築した。

これだけ目立てば敵も主力を投入し、家康の本陣も近づく可能性が出てくる。

家康の首さえ取れば、大坂城の全兵が戦死しても勝利となる。

この時、大阪方には幸村に疑いの目を向けるものが多かった。

なぜなら徳川方に兄・信之がいるからである。

幸村がいつ徳川方に寝返るか、危惧する声も少なくなかった。

一方、幸村は「真田丸」見つめながら、開戦を心待ちにした。

丹田へ華厳の滝をお取り寄せ  岩根彰子

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簡単に指の匂いは消せませぬ  岡谷 樹


真田信繁をはじめとする浪人衆が集まった大坂城。
その城内には総大将・豊臣秀頼を支える人々がいた。

「豊臣を支えた人々」




「片桐且元」

浅井長政の家臣の家に生まれ、淀君大野治長とは旧知の仲だった。

若くして秀吉に仕えたが、前半生は際立った功績を立てていない。

所領も摂津茨木1万石に過ぎなかった。
                                   よしみ
秀吉の死後、自邸に家康を宿泊させたことを契機として誼を通じる。

「関が原の戦い」では、西軍につくが本戦には参加していないため、

家康の元へ娘を人質に出すだけで許され大和竜田2万4千石を与えられる。

彼は豊臣方の諸大名や官僚と親しく、大坂城内の事情にも通じているため、

家康の計らいで豊臣家の家老に任命された。以降、

大坂城内と家康との間を取り持つパイプ役として活躍、東奔西走した。


たくさんの把手がついている私  川田由紀子

しかし徳川と豊臣の関係が悪化すると、

双方それぞれに恩義のある且元の
立場は、微妙なものに追いやられていく。

方広寺の再建工事を総奉行として指揮していたために、

家康から抗議を受け、
その報告を大坂城に届ければ、

彼ら豊臣首脳陣に非難の声を浴びるという
板挟みの状況に陥った。
結果、

大坂城内で且元の暗殺計画が持ち上がるに及び、退去を余儀なくされる。


この一件は家康が契機「大坂の陣」を起こす口実となった。

以後、且元は徳川家の武将として大坂城を攻める側に回る。

陽のあたる方にやっぱり豆のつる  山本昌乃

大阪城の本丸が落城した時、

且元は秀頼らが蔵の中に潜んだであろうと悟り、
徳川家に報告している。

結果的に豊臣家滅亡に手を貸す側となった且元だが、

その心中は後悔に満ちていたようだ。

「夏の陣」の終戦から20日後の慶長20年(1615)5月28日、

京の屋敷で突然の死を遂げるのである。60歳であった。

なんとまあ刹那に生きてきたのだろう  清水すみれ



「大野治長」

丹後(京)の地侍の子として生まれる。

淀君の乳母を務めた大蔵卿局の実子で、淀とは同い年にして乳兄弟の間柄。

その関係で秀吉に重用され、1万石の大名となる。

「関が原の戦い」では家康暗殺計画に加わった疑いを持たれ、

止む無く東軍に味方し罪を許された。

その後、大坂城内の政務を主導する立場となり、

片桐且元の追放後はさらに権力を増大させた。

大坂の陣では戦いを避けて講和への道を模索したため、

弟の大野治房真田信繁ら抗議派と対立した。

大坂城落城に際し、千姫を城外へ出して徳川に秀頼助命を嘆願するが、

聞き入れられず秀頼と運命をともにする。

B面の舌がときどき 縺れだす  桑原伸吉



「大野治房」

生年不詳。大野治長の弟で母は同じく大蔵卿局

兄弟で秀吉・秀頼に仕えた。

兄と異なり、豊臣家の威信を重んじて徳川家には断じて屈せず、

決戦を主張する「主戦派」の代表格。

真田信繁毛利勝永らと連携し、「冬の陣」では船場方面に陣取り、

治長から撤退命令が出されるも無視して戦う。

「夏の陣」でも紀州攻略や樫井の戦い、岡山口など多くの戦いに参加。

豊臣譜代の将として意地を見せ、秀忠の本陣に奇襲して窮地に陥れた。

撤退後、本丸から秀頼の遺児・国松を連れて脱出したが、

徳川方に捕らわれて斬首された。

糸くずを取った背中が行ったきり  伊藤玲子

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その宴船着場まで連れてゆく  酒井かがり


信繁らが暮らした九度山の庵(イメージ)

「九度山脱出」

九度山で真田昌幸が死ぬ三ヶ月前の慶長16年(1611)3月28日、

家康は二条城で豊臣秀頼との会見に臨んだが、これは母親の淀や

大坂城首脳陣に拒否されており、ようやく実現にこぎつけた格好となった。

形式はどうあれ、この会見は家康の呼び出しに秀頼が応じたものであり、

豊臣が徳川に臣従したと視る者は多かっただろう。

そして、二条城会見から3年後、天下を揺るがす大事件が起きた。

世に名高い「方広寺鍾銘事件」である。

そのことに触れると手鏡が割れる  笠嶋恵美子

戦の口実を探していた家康は、「秀頼は駿府と江戸へ参勤させる」

「淀を江戸詰め(人質)とする」「秀頼は大坂城を出て他国に移る」

という3つの厳しい条件を提示した。

案の定、豊臣首脳陣は拒絶反応を示し、

そのうえ片桐且元を「徳川に内通している」として追放する。
         
家康は豊臣家による挑発と受け止め、宣戦布告を行なった。

こうして徳川と豊臣は手切れとなり、ついに「大坂の陣」が開幕する。

地球儀を反転 風は六角形  佐藤正昭


   浅野長晟

浅野長政の二男。幼少のころから豊臣秀吉に仕えたが、関が原後
徳川の家臣に。兄・幸長が嗣子なく死去したため、家督を継いで
紀州藩主となる。

大坂城内は俄かに慌ただしくなった。

慶長19年10月2日、豊臣家は秀吉が残した豊富な財力を活かして兵糧や

武器を買い入れ、つながりが深い大名や全国に潜む浪人たちに使者を送り、

兵を集め始める。

浪人衆はたちまち10万人近くまで膨れ上がった。

そして九度山の信繁のもとにも使者がきた。

支度金として黄金200枚、銀30貫(現在の価値で約9億円)で大坂城内へ

入ってくるよう頼まれたのである。

山中に果てる覚悟もしていた信繁には、願ってもない話だった。

早速、上田にいる父昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、兵を雇うと、

自らは大助らを引き連れ浅野長晟の監視下にある九度山脱出を試みた。

今日こそはと今日あたりとが逢うたので 雨森茂樹


九度山から大阪城へのルート

あらかじめ高野山中に目印をつけておき、これを目当てに脱出した。

先に家臣を出発させた後、高野山で談笑中に厠に立つふりをして脱出した。

周辺の庄屋を宴に誘い、酔いつぶして脱出した。

昌幸の法要と油断させ、その隙に乗じたなどの、逸話が残るが、

実際ところは不明である。


騙しや強行突破というのは、逸話の域を出ない。

おそらくは夜陰に乗じてといったところであろう。

信繁にとって幸いしたのは九度山が紀伊という国にあったことである。

天下が統一される前の紀伊には大きな大名はおらず、国人衆が割拠。
     ねごおろ さいか
なかでも根来、雑賀衆は権力者に従わず、

信長秀吉をさんざん苦しめた存在であった。

目を閉じてピリオドを打つ長い日々  三村一子

浅野氏が拠点を築いた和歌山は雑賀衆の本拠であった地で、

浅野氏は新たな秩序の下に年貢の強制収集などを行い、

国人衆たちからは反発を招いていた。

ということから監視を任されていた庄屋や豪農たちは、

信繁の脱出に目をつぶったという考え方が、正解ではないだろうか。

またそのあたりの経緯を信繁は読んでいたことだろう。

まさか浅野氏も黙認したとは思えないが、後を追っても険しい山中から

信繁一行を探すのは困難だったはずである。

鬼さんこちら誰も本気で探さない  下谷憲子

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倉庫から出す頑丈な雨の束  井上一筒



「九度山町の遠望」
九度山西方に位置する雨引き山の山道から九度山の市街を一望する。
写真中央、密集地の中ほどに真田庵がある。写真左は紀ノ川。

そらみみになるまで風を聴いている  清水すみれ



「真田庵」
昌幸屋敷跡に建てられた真言宗の寺院。寛保元年(1741)に大安上人が
堂宇に地蔵菩薩を安置したのが創建とされる。
本堂は八棟造りと呼ばれる城郭風の形状をしている。

あの時のあの三叉路に戻りたい  美馬りゅうこ



「真田昌幸の墓」
左の碑が昌幸の墓。周囲には信繁や家臣たちの供養碑も残る。

涙粒昇華せぬまま綴じる章  上田 仁



「真田古墳」
柵で囲まれた石組みの穴。遠く大坂城まで通じていて、
信繁はここを通って大坂城に馳せ参じたとの伝承が残る。
実際は、古墳時代に作られた横穴式石室。

糸が揺れて鳥になる魚になる  酒井かがり



「真田の井戸」
信繁の屋敷跡とされる場所に残る真田家ゆかりの井戸。

墓標など建てず穴だけ掘ってくれ  くんじろう



「慈尊院」
空海を訪ねてきた母が女人禁制の高野山に入れずここに滞在。
その死後、空海が建立したのが慈尊院。
信繁が将棋をさしにここを訪れたとの伝承も残る。

引き出しにあなたを開ける鍵がある  桑原伸吉



「丹生都比売神社本殿(にうつひめじんじゃ)
九度山から高野山の参詣の道にあり、参詣客の多くはここに立ち寄った。
蓮華定院の和尚に、この神社の祭礼に誘われた信繁が、
体調が悪くて断った手紙が残っている。



紀伊国一ノ宮で高野山との関係も深い丹生都比売神社には、
国宝の神宝や重要文化財指定の建造物が残っている。
写真の右から二番め丹生都比売神社本殿の軒下にある「象」の意匠。

アルファ波のカプセル貰う秋の夜  河村啓子



「善名称院」
真田昌幸・信繁が関が原の戦い後蟄居した屋敷跡に建てられた寺。
境内には昌幸の墓や真田宝物資料館がある。

不都合な過去などきいて下さるな  瀬川瑞紀



「蓮華定院」
昌幸・信繁が最初に蟄居した高野山の寺院。

六文銭が至るところに見られ、真田家墓所がある。

女郎花むかしの事は口にせず  新川弘子



「奥の院」
壇上伽藍とともに高野山の二大聖地。約2kmの参道には、織田信長や
武田信玄、豊臣家などの名だたる戦国武将の墓碑、供養碑が立ち並ぶ。

足して引くそして苦味を残さない  嶋沢喜八郎



「真田淵」
丹生川(にうがわ)との合流点近くに位置する紀ノ川の淵。
信繁が息子・大助とここで水練や馬の調練をしたと伝わる。

残念ながら今日はこんな日おろし金  森田律子



「真田紐」
太い木綿糸で平たく厚く編んだ組紐。
 チベットの山岳民族が家畜の獣毛を染め腰機を用い織った細幅織物が
仏教伝来と共に海路日本に入ってきたものが、停泊地の沖縄地方では、
ミンサー織りになり、本州では綿を草木で染め織った細幅織物となり
後の「真田紐」になったと言われている。
真田紐は真田打ともいい、ひらたく組み、または織った木綿の紐のこと。
九度山に蟄居していた昌幸・信繁父子とその家族が作製し、
生計を立ていたという俗説がある。

貫いた道とくるぶし自負してる  三村一子

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