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川柳的逍遥 人の世の一家言
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そこにいるあなたの声が聞こえない  河村啓子

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信繁が義兄・小山田茂誠とその息子の之知に宛てた手紙 (真田宝物館)

「信繁の家族への手紙」

「第二次上田合戦」で徳川軍相手に勝利を収めたものの、

父・昌幸とともに
高野山・九度山に蟄居の身となった信繁

以降、関が原合戦の際に徳川方についた兄・信之や姉の村松殿など、

信州上田の地の家族とは別の道を歩むことになるのだが、

それでも真田一族は心を通わせ続けていた。

関が原後、信之が家康に対して、父と弟の赦免を嘆願したのは有名な話。

一方の信繁も家族への想いを抱き続け、故郷に幾度も手紙を出している。

その中でも、信繁が認めた「人生最後の書状」が、

信之が江戸時代に治めた松代町の小山田家に伝来する。

ふるさとの波の話が尽きません  安井茂樹

慶長20年(1615)3月19日付けで「真田丸の戦い」で活躍した

「大坂冬の陣」「夏の陣」の間に書かれたものだ。
                    しげまさ        ゆきとも
宛先は信之の家臣である小山田茂誠とその息子の之知

茂誠は姉・村松殿の夫で、信繁にとっては義兄にあたる。

「遠路、御使者から手紙を預かりました。

   そちらは変わったことがないこと、
詳しく承りました。満足しています」


信繁は手紙の中で、このように上田の家族のことを気にかけつつ、

自身の近況も報告している。

「こちらも無事でおりますのでご安心ください。

   私たちの身の上は殿様(豊臣秀頼)の信頼も並大抵ではありませんが、

   色々気遣いが多く、一日一日と暮らしております。

   お目にかかっていないので詳しくお話しすることができませんが、

   なかなか書面でも詳しくは書けません。

   様子を使者からもお伝えいたします」


寂しさを味わい尽くすまで生きる  阪本こみち



書状が記された時期は、冬の陣終結から3ヶ月余りが経ち、

豊臣方の主戦派が再び戦闘準備を整え始めた頃だ。

そうした緊迫する情勢とともに、

秀頼から、ひとかたならぬ寵愛を受けていたことも窺える。 

背景には、
やはり冬の陣での真田丸における戦いぶりもあったことだろう。

この後、信繁は書状で

「当年中も静かであるならば、

   何とかしてお会いしてお話ししたいと存じます」


と家族への想いを吐露するとともに、

義兄に胸に秘めた悲壮な覚悟を伝えている。

うすくれないの詩です晩夏です  山口ろっぱ

「心ひかれることがたくさんありますが、定めなき浮世ですので

   一日先のことはわかりません。

   我々のことなどはこの世にあるとは思いなされますな」

恐らくは叶わないであろう再会を願いつつも、

自分のことは必要以上に気にかけないで欲しい。

そんな信繁の複雑な心境と家族への心配りが見てとれる。

同じく冬の陣後に信繁が村松殿に宛てたものでは、

「お会いしてお話ししたいものです」と記している。

筋書きは斜めで階段の途中  山本早苗

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波乗りの男が帰らない晩夏  山本早苗



「真田昌幸の最期」

「第二次上田合戦」昌幸関が原は終り、高野山への流罪に決した。

昌幸は思惑通り生き延びたが、行先の望みを断たれた失意の旅たちだった。

昌幸と信繁は慶長5年(1600)12月13日、

青柳青庵ら旧臣・16名をお供に高野山へ向かった。

一行はかねてより真田家が宿坊と定めていた高野山蓮華定院に入り、

のち九度山村に屋敷を構え移った。

真田庵(善名称院)がその屋敷跡という。

右目から涙 左目から鱗  高田まさじ

お供の者は真田屋敷の周囲に居住したが、

大所帯の生活は金銭に事欠く有様で昌幸はその都度しかも頻繁に国許に

無心して凌いだ。

そして困窮に苦しみながら、昌幸はひたすら放免の沙汰を待った。

国元、信鋼寺宛てに放免の期待をつづり、

旧臣などには老いゆく愚痴を書き送った。

歳月は昌幸を老いさせ、信繁は村人に焼酎をねだる体たらくで、

武将の意地意地をすっかりなくしてしまった。

空っぽの頭揺すって酢の匂い  佐藤正昭

配所暮らしから11年目の慶長16年6月4日、下山も叶わぬまま、

昌幸は信繁を呼び、「三年を過ぎずに関東と大坂が合戦に及ぶ」と予告し、

もし徳川と豊臣がふたたび戦になった場合、

「わしならば…」と、徳川軍を混乱させて寝返りを誘発する秘策と、

息子が講じるにあたっての難点も授けた。

死の直前までも徳川を倒す執念を捨てきれない昌幸なのである。

それからまもなく、昌幸は65歳で真田屋敷に没した。

出がらしを出したらそれでさようなら  森田律子



「三成の最期」

関が原の開戦から4時間を経たころ、

家康小早川秀秋が陣を張る松尾山へ大砲を打ち込んだ。

「約束通り、早く寝返りせよ」との催促である。

秀秋自身、そのころまで、


「このままで西軍として戦うべきか、寝返るべきか」

と去就を決しかねていたが、家康からの威嚇の大砲に恐れをなし、

意を決して山を下り、麓に布陣する西軍・大谷吉継隊に攻めかかった。

この秀秋の寝返りがきっかけで三成率いる西軍は、総崩れとなり、

午後3時ごろに勝敗が決した。

三成は伊吹山に逃げ、逃亡6日、ついに21日に捕らえられ
              あんこくじえけい
10月1日、小西行長、安国寺恵瓊と共に京の六条河原で処刑された。

関節の右の産業廃棄物  井上一筒

処刑の直前、三成は、いったん家康のもとに送られている。

そこで家康は多くを語らず、「さらばでござる」の一言だけを残し、

三成の身を本多正純に預けた。

そこで正純は、三成に静かに言った。

「秀頼公が年若くいるうちは、

   平和を保つ道を考えるべきでございますものを、


    理由もない戦を起こしたがために、あなたはこうして、

    縄目の恥辱を受ける羽目になったのですよ」

この正純の言葉に三成は冷静に応じた。

「自分にとっての太閤殿下のご恩は、とてつもなく大きいものである。

    内府を討たねば豊臣家のためならずと考え、軍を起こしたのだ。

    しかし、いざ合戦となって裏切り者が出て、

    勝つべき戦を落としたのは、口惜しいことだ。

   とはいえ、かの源義経公でさえも、

    天運に見放されたが故に衣川で滅びた。


    それがしの敗戦も天命であろう。 是非もない」

自分のこと猫と思っていない猫  片岡加代

この三成の言葉を受けて正純は、言った。

「智将というものは、人情をはかって時勢を知るものだ。

    諸将が裏切ったのは、心から同心していなかったからで、

    そんな状態で軽々しく兵を挙げ、敗れても自害すらせず、

    捕らえられて、こうしておるとはなんたることだ」 

この言葉に三成は日頃の平静さを失い、

「汝は武略を露ほども心得ておらぬ。

    敗けて腹を切るなどは、葉武者の所業よ。


    源頼朝公が石橋山の敗戦後、朽木の大洞に身を潜めた。

    その心が汝にはわかるまい。

     頼朝公があの時、大庭景親に捕らえられておれば、


    汝らはわしと同じように、頼朝公をも嘲ったことであろうな」

と応答したという。

命を惜しむは、ひとえに我が志を達せんと思うがゆえなり (三成辞世)

節穴からのぞく天国らしきとこ  田口和代

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泣ききれず忘れきれずに風のまま  桑原すゞ代

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「真田庵」

昌幸が暮らしたとされる屋敷跡には現在「善名称院」という高野山真言宗の
寺院(尼寺)が建つ。明治27年に描かれたこの絵と変わらぬ佇まいで残る。

「九度山蟄居」

関が原の合戦から6日後の慶長5年(1600)9月21日、

伊吹山中で石田三成が捕らえられた。

24日には、大坂城から西軍総大将の毛利輝元が退去し、

徳川家康に大坂城を明け渡す。上方は完全に東軍に制圧され、

上田城の真田昌幸のもとにも、
信之の使者が訪れる。

「一命は助けるゆえ、紀伊・高野山へ蟄居すること」

という家康の口上が伝えられた。

信之は父と弟の一命だけは助けるべく、

舅の本多忠勝とともに家康に嘆願を繰り返し、晴れて認められたのだ。

ありがとうの形に曲がりかけている  三村一子

画面をクリックすれば拡大されます)
真田父子に従って高野山へ下った家臣たちの名簿


池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞
関口角左衛門・関口忠右衛門・川野清左衛門・三井仁衛門ら16人が従った。

それを聞いた昌幸は、抗戦を諦めて城を明け渡し、高野山行きを

受け入れたのである。


年も暮れようかという12月13日、昌幸は正室・山手殿を上田に残し、

信繁は妻子を伴いそのほかに6名の家臣が随行して高野山へと向かう。
                   れんげじょういん
高野山には真田家を檀家とする蓮華定院があったが、

当時の高野山は女人禁制であった。

信繁に妻子が同行したため滞在は許されず、

蓮華定院のとりなしで逗留が山麓の「九度山」に変更された。

許せない場所に〆縄張っておく  橋倉久美子

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昌幸が信之宛に出した手紙

信之からしばらく音信がないことを心配して、昌幸が出した内容に、
信之との再会を望んだが叶わなかったことが認められている。
筆跡から信繁が代筆したとされる。

しかしただの流人と違い、腐っても大名である。
                                  あさのながあきら
徳川家から真田親子の監視を命じられた和歌山城主・浅野長晟は、

昌幸・信繁とその家臣らのために十数件の屋敷を造営したという。

素朴な山村に過ぎなかった九度山は、小さな城下町のようになった。

浅野氏は九度山および紀ノ川対岸の橋本の住民に監視を命じ、

時々役人を寄越す程度であった為、昌幸主従の暮らしは比較的自由だった。

蟄居中の昌幸は川で釣りをしたり、

京都や和歌山城下にも顔を出したという記録も残る。

プチプチつぶしに命かけてはる  雨森茂樹

九度山に来た翌年、信繁と妻・竹林院の間に長男・大助が生まれ、

その大助は成長した後に紀ノ川で川遊びに興じている。

九度山と橋本の住民たちもいつしか真田親子に親近感を抱き、

緩い監視を続けたようだ。

また当初、昌幸は九度山に長く棲む気はなかったようで、

何年か経てば赦免されるはず、という希望を持っていた。

しかし、徳川家は昌幸を許すつもりはなかった。

特に煮え湯を飲まされた徳川秀忠にしてみれば、

「命があるだけでも有り難く思え」
とでもいうべき思いだったのだろう。

振り向けば悔い点々と水溜り  新家完司

 (画面をクリックすればかくだいされます)
九度山で読書中の昌幸 (常山紀談通俗挿画)

「近頃は気力もない。くたびれた。長く山に暮らしていると
   不自由な事ばかりだ」
という内容の手紙を信之に送っている。


結局、赦免はなかった。

そんな九度山生活も11年が経ち、昌幸はとうとう病に倒れた。
     おおくたびれもの
自分が「大草臥者」になったとする信繁に手紙を書かせ、

自虐的な近況を信之に伝えている。

そして慶長16年(1611)6月4日、昌幸は65歳で世を去った。

昌幸の亡骸は火葬され、信繁や家臣が九度山に埋葬。

分骨されて国許・上田にも運ばれた。

あとひとつ泡が消えれば旅に立つ  上田 仁

翌年に一周忌がすむと、

上田から従ってきた家臣の多くが国元へと帰り、
信之に帰参。

九度山には、高梨内記、青柳清庵らわずかな共が残るだけとなった。

この時、信繁45歳、当時40歳を超えれば初老の域である。

武将として一番脂の乗る時期を山奥で過ごさねばならなかった彼の心境は、

いかばかりであったのだろう。

鏡の中に他人のような私  ふじのひろし

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牛乳を少し垂らせば方丈記  くんじろう

(画像は拡大してご覧下さい)
信政が家康から 拝領した粟田口吉光の短刀
 (真田家宝物館蔵

関が原の戦いの際、人質となっていた4歳の信政が拝領。
松代藩主真田家の重宝として代々伝えられた。
信政は、松代城主を父・信之から継いだ後急死した。

「真田魂を継ぐ松代歴代藩主」

明暦3年(1657)真田信之は91歳になってやっと隠居を許された。

これまで再三の隠居願いに対して四代将軍・家綱は「真田は天下の飾り者」

としてその願いを許さなかった。

幕府の許可を得た信之は、真田領13万石のうち、

長男・信吉が早世していたため、二男の信政に松代10万石を、

信吉の二男・信利に沼田3万石を与えた。

ところが六ヶ月後、信政が急逝する。
                       うえもんのすけ
残ったのは2歳である信政の五男・右衛門佐(幸道)だけであった。

 飾り者とは武士の鑑のこと。

吐息もれ朝の吊り革揺らしてる  木口雅裕

真田家に相続争いが起きる。

信吉の長子・信利が松代城主の座を狙ったのである。

信利の母は下馬将軍といわれた幕府の実力者・酒井忠清の叔母にあたる。

背後に実力者を持つ信利は、強く松代藩主の座を要求したのだ。

こうした事態に信之は「歴戦の強者」ぶりを発揮した。

「真田の魂、武門の意地に掛けても松代は右衛門佐に譲る」

とする信之に圧力をかける忠清であったが、

信之の覇気と真田魂が家臣団をも動かした。

信之が後見となることで、幕府も家督相続を許した。

そして、信之は死の間際まで後見でありつづけた。

サメの抱き心地マグロの抱き心地  雨森茂樹


  真田信政

真田信之の二男、母は小松姫。
大坂の陣では、病気の父に代わり兄・信吉とともに出陣している。

「松代藩歴代藩主」

真田信之の生涯には派手さはないものの、

隠忍自重した行動と、
徳川家の忠臣の立場で真田本家を守った。

いわば信之は「守成の人」である。

信之が基礎を築いた松代藩10万石はその後、跡目争い、火災、

厳しい財政を抱えながらも、一応は安定した統治を保ちつづけた。

なお、松代領主の座を望んで信之とぶつかった沼田城主で孫の信利は、

その後、不行跡のゆえに改易処分とされている。

信之の慧眼が見事に当たったことになる。

改易処分とは、信利が後継者の座を狙って失敗したあと、
幕命によりそれまで松代藩の分領であった沼田領は分離独立。
信利は沼田藩主となったが、江戸・両国橋の用材を期限までに
納入しなかったことや、困窮した農民による直訴が起こるなど、
統治不良の責任を問われ、改易となった。

体内を夜明けの貨車が過ぎていく  嶋澤喜八郎


   真田幸貫

幕府老中となり、その翌年には海防掛も兼任。
幕末期に産業開発や人材養成などを進め、富国強兵をめざした。

信之が松代藩に遺した財産は、30万両に及んだという。
                                 のぶなり
三代・幸道の跡を継いだ信弘は二代・信政の庶子・信就の7男である。

以後、信安、幸弘と信弘の血筋がつづき、ここで男児が絶えたため
                    ゆきたか
井伊家から迎えた養子が七代・幸専であったが、やはり男児に恵まれず、
                           ゆきつら
養子になったのが八代将軍・吉宗の曾孫・幸貫である。

幸貫は、寛政の改革で知られる老中・松平定信の二男でもある。

天保12年(1841)に真田家としては初の老中に就任する。

 「庶子」とは、正室以外が生んだ子。

とりあえず午後から雲の動くまま  山本昌乃

幸貫は、幕末に「世界の中の日本」を意識し「日本の国防」を見据えて、

人材の登用と殖産興業、藩政改革、軍制改革を果たした。

この幸貫に感化され、世界を見据えるようになったのが佐久間象山である。

幸貫35歳、象山15歳という出会いが、

君臣を超えた信頼と互いを認めることに繋がった。

象山の「海防八策」などは幸貫の思想から出たといっても過言ではない。

象山の門には吉田寅次郎(松陰)、小林虎三郎という二虎がいて、

後世に名前を残すことになる。

名月はまだかと鯉が口あける  森田律子


    真田幸民

最後の松代藩主。
9代藩主・幸教が病弱であった為、養子に迎えられ17歳で藩主となった。
       ゆきのり
幸貫の孫・幸教が九代藩主になり、藩校文武学校をつくる。
                           だてむねなり      ゆきもと
しかし、またしても男児がなく宇和島藩・伊達宗城の長男・幸民

十代藩主として迎えた。

幸民は戊辰戦争には新政府軍として、2271人の藩兵を

飯山・会津などに
派遣して幕府方と戦った。

幸民は最後の真田藩主でもあった。

その後、松代藩知事となり廃藩置県で辞し、明冶24年に伯爵となった。

肩を貸そうか口笛でも吹こか  酒井かがり

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背開きの方があの世で顔が利く  板垣孝志


小県の所領を与えると約した家康の書状

(書状書き下ろし文)
今度安房守(昌幸)別心の処、その方忠節を致さるの儀。誠に神妙に候。
然らば、小県のことは親の跡に候の間、違儀無く遣わし候。
その上身上何分にも取り立つべきの条、その旨を以って、いよいよ
如在に存ぜらるまじく候。仍て件の如し。
慶長5年  七月二十七日    家康
                         真田伊豆守殿

「真田信之」

関が原合戦の敗戦で、西軍の将はいずれも処刑された。

徳川軍本隊を引き付けて10日間を無駄にさせ、

関が原の合戦に間に合わなくさせた昌幸・信繁も厳罰の対象であった。

しかし、信之の父親・弟への家族愛が発揮される。

自身の処罰を覚悟しながらも信之は、家康に懇願した。

「父と弟を助命して下され、

    そのために私自身が連座しようとも構いませぬ」


舅の本多忠勝「忠孝の道こそ武士の道。伊豆守(信之)は武士の誉れ、

孝行をいう苦衷の心をお察し下され」 と援護した。

ジャンケンポングーの中身はなんだろう 岡谷 樹

家康は、昌幸を許したくないのだ、という内心を顕わにしながらも、

信之と忠勝の要請に頷くしかなかった。

「伊豆、これでそちへの賞罰は終わった」 

という家康に、信之は涙ながらに感謝した。

父と弟の命が助かるならば、武功への褒賞などは不要。

そうした気持ちであった。

隙のない男の影を踏んづける  高浜広川

結局、昌幸と信繁は九度山に流された。

監視つきの隠棲生活のようなものである。

しかし、家康はこのように昌幸・信繁を処置しておき、

前言を翻すように信之に6万8千石の加増を命じた。

信之は2万7千石の沼田城主から上田領を加え9万7千石の大名になった。

これはひとえに信之の才能と忠孝の深さを理解した家康の好意であった。

信之は、家康のこの措置に感謝するしかなかった。

もちろん、家康と徳川家への深い忠誠を信之が誓ったことは当然であった。

号泣の仕方を思い出せぬまま  中野六助



以後、信之は徳川幕府を支える大名として、家康・秀忠・さらには家光

家綱まで、4代の徳川将軍家に仕えることになる。

信之は、三代将軍・家光の老中でもあった酒井忠勝から

「信玄公の兵法」
ついて尋ねられ

「武田兵法とは譜代の臣を可愛がることである」と答えた。


さらに真田兵法を聞かれ「礼儀を乱さないことが軍法の要」とのみ言った。

酒井はその答えに、「真田の武人らしい」と感嘆したという。

聞きたがる耳をなだめている両手  小原由佳

元和8年(1622)10月、信之は上田から江戸に呼び出されて、

松代(松城)への転封を命じられた。突然の命令である。

信之には意外以上に不満であった。

上田は父祖伝来の地である。

しかも上田城は父・昌幸の「作品」でもある。

家臣団も不満を顕わにした。

だが幕府の命令には従わなければならない。

信之は心の裡は隠して

「真田家として面目も立ち、外面・内実とも良いことである」と伝えた。

爪たてるほどのことでもないでしょう 竹内ゆみこ

転封といっても松代は上田から峠ひとつ越えただけの隣藩。

善光寺や姥捨といった名所も領内にあり、信濃の中心地である場所を

所領したのだと前向きに捉えるように、家臣団に諭したのである。

しかも松代の前身は、武田信玄高坂昌信に築かせ、

川中島合戦の
主要地でもあった海津城である。

こうした経過から、実は幕府は松代をきわめて重要な場所としていた。

そこで3万5千石を加増され、これで信之は13万石になった。

この後、真田家は江戸時代から明冶まで松代を支配しつづけた。

その基礎こそ、信之はつくり上げたのである。

秋の隙間にむらさきを炊き込める  雨森茂樹

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