ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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清盛と後白河の提携
さあ今日も私が地球回さねば 高橋謡々
「清盛と後白河の提携関係の結実」
仁安3年
(1168)
2月9日、
清盛
が重病に陥った。
11日には死を覚悟したのか出家し、
妻の
時子
もあわせて出家した。
また、熊野詣に出かけていた
後白河院
も急ぎ帰京するほど、
清盛の病がいかに重篤であったかがわかる。
後白河院は、清盛と、
「憲仁親王を即位させること」
で提携しており、
万が一清盛が没すれば、有力な支持者を失い、
さらに、
六条天皇
を擁立する勢力が、盛り返すことで、
憲仁の地位が危うくなると、考えたのかもしれない。
この先を読んで闇夜のカラス描く 谷垣郁郎
以仁王
後白河院が
憲仁天皇
の即位を急いだ理由は、
ほかにもあった。
それは、後白河の第2皇子
・以仁王
の存在である。
以仁王は六条を推す
八条院
の養子となっていた。
さらに以仁王は、出家を拒否し、
憲仁の親王宣下の直前に元服している。
即位を狙っているためと噂された。
すでに成人をむかえ、
八条院という強力な支援者を得ていた以仁王の存在は、
憲仁を即位させ、
自身の院政強化を目論む後白河院にとって
大変な脅威であった。
疑えば針の先まで恐くなる 森中惠美子
そして2月16日、六条天皇が即位し、
憲仁親王
(高倉天皇)
が践祚
(せんそ)
した。
ついに、清盛と後白河院の提携関係が実を結んだ。
これにより、後白河院の権力は頂点に達したといえよう。
その後、清盛は病を克服、高倉天皇の即位を機に、
清盛と後白河院の関係は、
「提携から協調」
へと変化した。
空白を埋めるゲームだ終れない 岩田多佳子
しかし、突然の譲位、高倉天皇の即位に対して、
不満を抱く者も少なくはなかった。
即位した六条天皇を擁立していた勢力だけでなく、
一般の貴族でも、反発する者がいた。
その要因は、
高倉天皇の母・
滋子
が平氏の出身だったことである。
平安時代に入ってから、
皇女や藤原氏以外の国母は誕生しておらず、
「平氏出身の国母の誕生が忌避された」
からである。
虹をあおぐ前頭葉に残る足あと 湊 圭司
平氏一門内でも、六条天皇の即位、
高倉天皇の即位に対して、反発する動きをみせる者もいた。
それは、清盛の異母弟・
頼盛
である。
頼盛は
忠盛
の正室・
池禅尼
を母とする。
池禅尼が保元の乱における平氏の去就に、
大きな影響を与えたように、後家としての力は、
家長である清盛でも、無視することができなかった。
その子である頼盛は、平氏一門の中で、
清盛や重盛に次ぐ力を有しており、
その動向には清盛も、注意する必要があった。
上座とはなんと寂しい指定席 こはらとしこ
仁安3年
(1168)
11月11日、大嘗会が行われた。
大嘗会とは、天皇の即位後、
初めて行われる新嘗祭
(にいなめさい)
のことである。
そこで頼盛の子・
保盛
は、
五節の舞姫
を献上しておきながら、
何度も催促されたにもかかわらず、
出仕しないなど不手際が多く、
譴責
(けんせき)
は5度に及んでいた。
鼻詰まりの忍者 天井で屈む 井上一筒
ついに、後白河院は頼盛・保盛父子を解官した。
頼盛が就いていた太宰大弐は、
藤原信隆
に代わり、
知行国の尾張は没収され、
成親
に与えられた。
頼盛父子がこのような態度をとった背景には、
頼盛が、八条院の女房を妻とし、
八条院領の預所を務めるなど、
八条院と政治的に近い関係にあったからだ。
山芋のぬるぬる少し甘えるか 山口ろっぱ
六条天皇を支える有力な勢力である八条院と
その周辺に仕える者たちにとって、
六条天皇を強引に即位させた後白河院、
それにより、即位した高倉天皇、母后・滋子に対する反発は強く、
頼盛がこのような行動をとるに至ったと考えられる。
≪なお、頼盛は同年12月30日には還任している≫
このように、清盛の意思とは裏腹に、
独自の行動をとる存在は、平氏一門とはいっても、
一枚岩ではないことを表している。
薄皮を残して今日は墓参り 酒井かがり
平氏一門内には、頼盛のように、
高倉天皇即位に対して、反発した行動をとる者もいれば、
高倉天皇の即位によって、地位を後退させた者もいた。
清盛の嫡男・
重盛
である。
高倉天皇の即位は、清盛の念願だっただけに、
その嫡男である重盛の地位が後退するとは、
どういうことだろうか。
除籍入籍 椿ぽたぽた落ちる中 時実新子
その最大の要因は、
重盛
は嫡男であったが、
母は
高階基章
(たかしなもとあき)
の娘と、
高倉天皇の母・滋子の姉・時子の所生ではなかったことにある。
重盛と対照的なのが、時子の所生の
宗盛
である。
宗盛は、滋子の猶子となり、その妹、つまり叔母を妻とし、
その間には
清宗
が生まれていた。
清宗は、重盛と成親の妹・経子との間に生まれた、
清経
よりも、年少にもかかわらず、
官位の上で超越し、序列が逆転していた。
五円玉よりも尊い五百円 新家完司
こうして高倉天皇の即位を契機として、
時子所生の子達の地位が上昇し、
重盛やその子たちの地位が後退することになった。
これは、重盛の嫡男の座を脅かし、
嫡流と庶流の交代が起こりかねない事態である。
これにより、重盛はさらに後白河へ接近し、
院近臣の中心人物・藤原成親との連携を、
強化する動きをみせている。
つまり、重盛と時子の子たちとの間には・溝が存在し、
それが対立に発展する可能性もあった。
抜けない棘忘れよう忘れよう 杉谷佳子
重盛 宗盛
「重盛と宗盛ー人物像」
『平家物語』
は、有能な
重盛
と無能な
宗盛
と、
両者を対比して描いているが、これは事実ではない。
宗盛の官位昇進過程をみていくと、
仁安2年
(1167)
に宗盛は、
実務能力を必要とする参議に就任している。
もし宗盛に実務能力がなく、
『平家物語』にみえるような無能な人物であったならば、
公卿昇進の過程は、
実務能力を必要としない非参議従三位となるはずである。
ワンタンの皮で事実を覆っても 岩根彰子
しかし、宗盛は参議という、
実務能力を伴う昇進コースをとっている。
このことから宗盛の無能説は否定され、
能吏としての顔も見えてくる。
さらに、嘉応元年
(1169)
に宗盛は平野祭の上卿を務め、
その実務能力を発揮している。
重盛は、保元・平治の乱における戦功により、
官位昇進を果たしたが、
一方の宗盛には、
実務能力による官位昇進の道が選択されていた。
『平家物語』で宗盛が、無能な人物として描かれた背景には、
平家滅亡の責任を、
宗盛の優柔不断な性格に負わせるねらいがあったのだろう。
微調整している秋の鍵かっこ 永原潤子
[2回]
PR
y2012/09/13 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
清盛伝説-①
その紐を引くと雷落ちますよ 西田雅子
伝説化された清盛の姿
(画面をクリックすれば拡大されます)
雷となって
清盛
を襲った
悪源太義平
の怨霊
清盛の生涯は、さまざまな伝説に彩られ、
人々に語り伝えられた。
「清盛ー布引の滝にまつわるエピソード」
時は仁安3年
(1168)
7月7日。
出家して福原の別荘で暮らしていた
清盛
は、
名勝として知られる
布引の滝
へ遊覧に出かけた。
ところがその帰り道、突然空が曇ったかと思うと、
雷が清盛の近くに落ち、
家人の
難波経房
が雷に打たれて惨死したのである。
お知らせが回るかなしいことばかり 森中惠美子
実はこの雷は、
「平治の乱」
で処刑された
源義平
の怨霊であった。
義平は
源義朝
の長男で、
「悪源太」
の異名を付けられたほどの勇将である。
ここでの
「悪」
とは、
優れた力量の持ち主に対して、
「恐るべし」
という意を表した、一種のほめ言葉だ。
イメージを壊さぬように落し蓋 桑原伸吉
平治の乱でも義平は奮戦したが、義朝軍は敗れた。
義平は潜伏して、清盛の命を狙ったものの、
果せずに
難波経房
に捕らえられ、
六条河原で処刑された。
処刑される際、義平は処刑役の経房に向かい、
「死後には雷となり、
清盛からお前に至るまでみな殺しにしてみせよう!」
と言い放ったという。
「悪源太」
の異名に違わぬ、気概に満ちた逸話である。
持国天グイッと突き出す股関節 岩根彰子
当時の人々は、雷に打たれた経房の死に様を、
怨霊となった義平の祟り
によるものと考えた。
その祟りはなぜ、清盛に降りかからなかったのか。
『平治物語』
によると、その理由は、
清盛が身につけていた
"あるお守り"
のおかげであった。
雷が鳴ると冷酒に切り替える 井上一筒
空海自筆・金剛般若経開題残巻
清盛は首からかけた袋の中に、
弘法大師・空海
の自筆の御経を入れており、
これを振ると雷は、鳴り止んだというのだ。
空海の霊力の加護で、
「清盛は祟りから逃れた」
と信じられていたのである。
それからのことはふれまい明日は晴れ 小林のこ
数々の戦乱を乗り越え、
貴族社会の頂点に登りつめた清盛。
その幸運の源を当時の人々が、
どのように考えていたのかをうかがわせる、
伝説の一コマと言えよう。
コバルトになるまでヘドロに届くまで 山口ろっぱ
[5回]
y2012/09/06 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
清盛病む
立ちつくすしかなくて立っているのです 河村啓子
六波羅の自邸で出家のため剃髪する清盛
(画面をクリックすれば拡大されます)
(平家物語・「禿童事」)(林原美術館)
清盛、寸白を煩い、その2月11日出家し、青蓮と称す。
妻・時子も出家する。
途中下車尻尾の有無をたしかめる 嶋澤喜八郎
「清盛倒れる」
仁安2年
(1167)
2月、
清盛
は左右大臣を飛び越えて、
律令国家最高の従一位・太政大臣に就任した。
ところが、そのわずか3ヶ月後、
突如、清盛は太政大臣を辞任する。
太政大臣は人臣最高の官職ではあるが、
これといった職務はなく、
摂関以外の上級貴族が晩年に賜る、
名誉職としての性格が強かった。
実権を伴わない官職なら不要であるが、
平家の官位を高めるために、
「肩書きだけは頂戴しておこう」
ぐらいの気持ちだったのだろう。
それからの清盛は、前大相国
(しょうこく)
として、
これまで以上に、国政に影響力を及ぼすようになる。
死を視野に入れると動きそうな今日 平尾正人
その清盛が突如病に倒れたのは、
翌仁安3年2月2日のことであった。
「寸白」
(すんぱく)
という寄生虫の病気にかかり、
一週間後には
「危急」
といわれるほどの、
重体に陥ったのである。
六波羅の清盛邸には、後白河の女御である
滋子
をはじめ、
多くの人が見舞いに訪れたが、回復の兆しは見えず、
死を覚悟した清盛は、妻・
時子
とともに出家する。
弱点を攻めてくるのは青とかげ 本多洋子
法名は
静蓮
(じょうれん)
のち
浄海
と改めた。
平家に批判的な
九条兼実
すら、
「清盛の病気は天下の大事であり、
万一のことがあれば、国家はいよいよ衰えるであろう」
と日記
「玉葉」
に記している。
ほらあれが密に溺れた黄昏よ 森田律子
15日には熊野詣に赴いていた
後白河上皇
が、
予定を切り上げて、
清盛
を見舞った。
このとき、後白河は近臣に
「大赦」
を行うよう命じたという。
摂関以外の臣下の病気や出家で、
大赦を行う例はなかったが、
国家の重臣であるという理由で特例とされたという。
そして病床の清盛と話し合い、
5歳の
六条天皇
を退位させ、
高倉天皇
を即位させることを決め、4日後には、
早くも天皇位を継ぐ
「践祚
(せんそ)
」
の儀式が行われた。
(ここに平家と血縁関係をもつ初めての天皇が誕生した)
黄昏の群れは儀式の帰り道 壷内半酔
出家の功徳か、
はたまた、高倉の即位に安心したためか、
清盛の病状は回復に向かった。
清盛の政治スタイルに、
大きな変化が現れるのはこのころである。
仁安4年、六波羅の邸宅を
重盛
に譲ると、
摂津国・福原に山荘をつくって隠棲した。
古語辞典心の傷の名をさがす 黒田忠昭
これ以後、日常の政権運営は、
京にいる一門や親平家公卿にゆだね、
清盛自身は必要に応じて上洛し、
政局を収拾すると福原に戻るという政治スタイルを貫く。
中央政界から距離をおくことで、
かえって存在感を高めようとする、
清盛一流の人心掌握術であった。
これからは5度傾いて生きてみる 中嶋智子
もっとも、清盛の福原引退はそれだけではない。
出家して自由になったのを機に、
本格的に
「日宋貿易」
に乗り出そうと考えたのである。
平家は忠盛の時代から、日宋貿易に携わり始め、
保元2年
(1157)
に清盛が太宰大弐に就任して以後、
さらに積極的に関与するようになった。
鳥の影一途なものを追っている 赤松ますみ
それをさらに大規模に推し進めるために、
福原の外港である
「大輪田の泊」
を修築し、
「ここに宋船を向かえ入れよう」
と考えたのである。
宋船を福原まで安全に導くための、
瀬戸内航路の整備も進められ、
貿易船の寄港地となる瀬戸内各港の整備、
「音戸の瀬戸」
の開削などが行われた。
前年には厳島神社の造営にも着手していた。
(海中にたつ大鳥居や回廊でつながれた華麗な社殿は、
この時に造営されたものである)
風の音カーテンコールくりかえす 久恒邦子
平家物語・「禿童(かぶろ)」から
清盛
は仁安三年十一月十一日、五十一歳のとき病に冒され、
延命のためにすぐさま出家し、入道した法名は[浄海]と号した。
その効験か、病はたちどころに癒えて天寿を全うする
出家の後も栄華はなお衰えを見せなかった。
人々が心を寄せ従うさまは降る雨が国土を潤すがごとく、
世間があまねく敬い慕うさまは、
吹く風が草木をなびかすがごとくであった。
痛点が笑い出したよ花水木 小川一子
六波羅殿の一家の公達と言えば、
清華家や英雄家さえも、肩を並べ、顔を向けられる者はいなかった。
清盛の小舅・
大納言平時忠
は、
『平家にあらざる者は人にあらず』
と豪語した。
そのため、誰もが縁故を結ぼうとした。
烏帽子の被り方から、衣文の指貫の輪に至るまで、
何事も六波羅風とさえ言えば、世の人は皆これを真似た。
赤黒いもの躙りよる華氏3度 井上
[2回]
y2012/09/02 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
忠度・エピソード
何色で向き合いましょうあなたとは 合田瑠美子
平忠度
(画面をクリックすると画像が大きくなります)
「忠度エピソード」
"さゞ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな"
この歌は、
忠度
が、
「今後勅撰の歌集が作られるようなことがあれば、
この中から一首でも載せてほしい」
と平家都落ちの際に
藤原俊成
に託した歌集の中の一首。
その後、
「千載和歌集」
の選者となった俊成は、
この一首を選んだが、
忠度は、朝敵として死んでいたため、
「詠み人しらず」
として載せらたという。
急きなさい影が半分消えている 森田律子
「平家物語⑨-『忠度最期』」
平忠度
は、一の谷の西の手の大将軍でした。
その日の出で立ちは、紺地の錦の直垂、黒糸縅の鎧、
太い黒い馬に
"い懸け地"
の鞍を置いていました。
100騎ほどで源氏に囲まれていました。
しかし、少しも騒がず、防ぎ、防ぎながら退却していました。
そこに、武蔵の国の住人で
岡部六弥太忠純
が、
「よき敵」
と目をかけ、馬を駆けさせて追いかけました。
白黒をはっきりさせたがる右手 清水すみれ
「あれはいかに。よき大将軍とこそ見える。
見苦しくも敵に後ろを見せるものかな。返せ、返せ」
岡部六弥太がそう声を掛けると、
忠度は振り返って
「味方ぞ」
と声を掛けましたが、
振り向いたその甲の内を見ると、
歯を黒く染めていました。
後ずさりしながらジャブをくり返す 三村一子
岡部六弥太は、
「あれ味方に、お歯黒をした者はいない。
いかようにも、これは平家の公達に間違いない」
と馬をおし並べて組みました。
それを見た忠度の兵たちは、
諸国から集めた借りものの武士でしたので、
1騎も戦おうとせず、われ先に皆、逃げていきました。
見なかったことにしますか果たし状 新川弘子
忠度は熊野育ちのうえに、噂に聞こえた怪力で、
屈指の早業の持ち主。
岡部六弥太をつかみ、
「味方といっているので、
味方ということにしておけばよいものを」
と、引き寄せ馬の上で二太刀、落ちていく時に一太刀、
合計で三太刀、突きました。
二刀は鎧の上なので通りませんでしたが、
一刀は内甲へ突き入れました。
しかし、浅傷なので致命傷にはならず、
取り押さえて、首をかこうとしました。
ひとことの棘で沼底にしゃがむ たむらあきこ
そこに岡部六弥太の童が遅ればせながらやってきて、
馬から飛び降り、太刀を抜き、
忠度の右ひじを、根元から切り落としました。
忠度は、もはやこれまでと思ったのでしょう、
「しばしのけ。最後の念仏を十回唱えさせろ」
と岡部六弥太をつかんで、弓の長さ程投げ飛ばしました。
その後、西へ向かい、
「光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不拾」
と唱えているときに、念仏が終わってもいないのに、
岡部六弥太が後ろから、忠度の首を取りました。
枇杷の樹と夾竹桃に割って入る 岩根彰子
岡部六弥太は、よい首を取ったとは思いましたが、
名前を誰も知りませんでした。
しかし、えびらに結び付けられた文をほどいて、
見てみると、「旅宿花」という題の歌が一首、
詠まれていました。
"行き暮れて木(こ)の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし"
そこに、忠度と記されていました。
ポップコーンになって診察室を出る 小川佳恵
岡部六弥太はようやく、
薩摩の守・平忠度を討ち取ったことを知りました。
すぐに首を太刀の先に貫き、高くかかげ、
大声で、
「このごろ、日本国に鬼神ありと聞こえた薩摩の守殿を、
武蔵国の住人・岡部六弥太忠純が討ち取った」
と名乗りました。
敵も味方もそれを聞き、
「ああ残念だ。
武芸にも歌道にも優れ、よき大将でもあった人を」
と皆、鎧の袖を濡らしました。
カチリっと鍵 別れの音ですね くんじろう
「忠度ーその他の代表句」
(平家物語)
別れ路を何か嘆かん越えて行く関も昔の跡と思へば
月を見し去年の今宵の友のみや都に我を思ひ出づらん
ポケットに溜ってしまう日の欠片 佐藤美はる
忠度供養塔 忠澄墓・石碑
「岡部六弥太忠澄のこと」
岡部六弥太 が平忠度の菩提を弔うため、
「清心寺」(埼玉県深谷市萱場)内に建てた供養塔。
また清心寺から約2キロほど離れた普済寺には、
岡部六弥太の墓と
「行きくれて木の下陰を宿とせば 花やこよひの主ならまし 忠度」
と書かれた平忠度の句碑がある。
「岡部六弥太忠澄の墓」
(
案内板)
(画面をクリックすれば画像が大きくなります)
「忠度を討った岡部六弥太忠澄は、
源義朝の家人として保元・平治の乱に活躍した。
その後、源氏の没落により岡部にいたが、
治承4年
(1180)
、頼朝の挙兵とともに出陣し、
はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。
特に一の谷の合戦では平家の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。
恩賞として荘園5ケ所および伊勢国の地頭職が与えられた。
その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の、
譜代の家人313人の中にも、
六弥太の名が見える。
忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、
自分の領地のうち一番景色のよい清心寺に平忠度の墓を建てた」
膝の水を抜く空海的な意味 井上一筒
[4回]
y2012/08/30 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
清盛 50歳を祝う
葬儀屋の事務所に置けぬ招き猫 ふじのひろし
平忠度
(画面をクリックすると大きく見れます)
「清盛の五十歳を祝う宴」
名の
"ただのり"
から無賃乗車のことを、
「薩摩守」
(さつまのかみ)
という隠語にもなった、
平薩摩守忠度
は、
天養元年
(1144)
平忠盛
の六男として生まれる。
母は
藤原為忠
の娘ともいわれ、いわゆる、
種も畑も違う、
清盛
の一番下の弟にあたる。
忠度が生まれたとき、忠盛は49歳、
長男の清盛は29歳であった。
そして謎として、何故か正盛・忠盛一族で、
"盛"
の字がついていないのは、忠度だけである。
≪清盛の長男・
重盛
(1138生)は、6歳年下の忠度を、
やはり
”叔父上”
と呼んだのだろうか≫
いい名前つけてもらった黄金虫 新家完司
忠度は、文武両道に優れ、ことに
「歌人」
としては、
当代随一といわれた人である。
このような素質を持った忠度の、DNAを見てみよう。
父・
忠盛
は、武家の棟梁としてのみならず、
和歌や音楽の道でも一流であることをめざした。
特に和歌は
『金葉和歌集』
に入集するほどの、
名手であった。
『平家物語』
にも備前から帰ってきた忠盛が
鳥羽院
に
「明石浦はどうであった」
と聞かれて、即座に
"有明の月も明石のうら風に 浪ばかりこそよるとみえしか"
(残月の明るい明石の浦に、風が吹かれて波ばかり寄るとみえました)
とよんだエピソードが残る。
広重の雨は45度に降る 井上一筒
管弦では笛をよくした。
小枝という笛を鳥羽院から賜り、
それを子の
経盛
に譲り、さらに孫の
敦盛
に伝わったことが、
同じく『平家物語』の
「敦盛最期」
にある。
舞は元永二年
(1119)
の
「賀茂臨時祭」
で舞人を務め、
見物の公卿に
「舞人の道に光華を施し、万事耳目を驚かす」
と称えられた。
生まれつき器用だったのであろうが、
朝廷における平家の地位を高めるために
、
血のにじむような努力も、重ねていた人なのである。
飛躍するためにしゃがんでいるのです 嶋澤喜八郎
一方、忠度の母親は、
平家物語①
「鱸
(すずき)
の事」
で、
忠盛の
「最愛の女房」
だったとある。
ずっと以前に、このブログに記したことだが、
忠盛が月の絵が描かれた扇を、
この女性のもとに忘れ、ほかの女官たちが、
「これはいづくよりの月影ぞや、出所
(いでどころ)
覚束なし」
とふざけると、女房は機転よく、
”雲居よりたゞ盛り来たる月なれば おぼろげにては云はじとぞ思ふ”
と返した。
というように、忠度は、父からも母からも、
和歌の名人になるべく、その才能を受け継いでいる。
酒も背も追い越した子に期待する 松本綾乃
「本編へ」
藤原摂関家の
基房、兼実
の兄弟は、
武士である
清盛
が、
「貴族を蔑ろにして、国のことを決めている」
と苛立ちをおぼえていた。
なんとか、
「目にものを見せてやりたい」
と、
その機会を狙っていた。
その時は、すぐにやってきた。
六波羅の清盛の館で、
清盛の
「五十歳を祝う宴」
が催されたのだ。
犬猿の三水偏と二水偏 筒井祥文
宴には、平家一門はもとより、
源頼政
と、その嫡男の
仲綱
など平家に仕えるものたちや、
今は公家の
一条長成
に嫁いだ
常磐
も、
我が子の
牛若丸
と共にやってきた。
牛若丸は、五歳の頃まで清盛の館で生活していたからか、
清盛のことを父と慕っていた。
清盛としても、友であり、ライバルだった亡き義朝の、
忘れ形見の牛若丸が可愛かった。
新しい形の愛を模索中 三村一子
そんな和気あいあいとした雰囲気の中、
摂政・
基房
と、右大臣・
兼実
の兄弟も宴にやってきた。
二人は、最初こそ儀礼的に祝いの言葉を述べたが、
言動は挑発的だった。
「政とは、花鳥風月、雅を解する目と、
心があるものが行うのが、道理であり、
長い間、太刀を振り回すばかりの王家の番犬に、
その才があるとは思えない」
と言い放ったのだ。
継ぎ足した言葉が致命傷になる 平尾正人
しかし、清盛は二人の挑発には乗らず、
「客としてもてなそう」
と家来に命じて膳を運ばせた。
その膳は、貴族並みの豪華なもので、
二人は驚いたが、ある企みを実行に移した。
兼実がもてなしの祝いにと、
得意の舞を舞って見せたのだ。
ふらふらと湯立て神楽の湯を浴びる 岩根彰子
その返礼にと
経盛、重盛、宗盛
が舞った。
それは、
兼実
に勝るとも劣らない立派なものだった。
面目を潰した格好の兼実は、
次に和歌で挑む。
清盛が指名したのは、
今日の宴に出るために熊野から都に出てきた、
清盛の末の弟・
忠度
だった。
教室に鶴を呼んではいけません 湊 圭司
「兼実 VS 忠度ー歌合戦」
”帰りつる名残りの空をながむれば 慰めがたき有明の月”
(あのひとが帰ってしまったあとの、なごり尽きない空を眺めると、
ただ有明の月が残っているだけ・・。なんの慰めにもなりはしないわ)
兼実がこの句で挑むと、忠度は次の歌で返す。
”たのめつつ来ぬ夜つもりのうらみても まつより外のなぐさめぞなき”
(期待させながら、来ない夜が積もり積もった。
津守の浦ではないけれど、いくら恨んでみたところで、
結局、松ならぬ待つよりほか、私には慰めなどないのだ)
つよ気とよわ気はしる稲妻もて余す 桜 風子
さらに、兼実が
”行きかへる心に人の馴るればや 逢ひ見ぬ先に恋しかるらむ”
(いつもあの人のもとに通っている私の心に、
あの人も馴れ親しんだのではないか。 だからきっと、
実際に逢う前からもう、私のことが恋しくてならないことだろうよ)
と詠うと忠度は、負けずに
”恋ひ死なむ後の世までの思ひ出は しのぶ心のかよふばかりか”
(私はもう、恋に焦がれて死んでしまうだろう。 そうして来世まで、
持ち越す思い出といったら、ただお互いに堪え、
隠し通した恋心だけなのか)
と受けた。
寿限無じゅげむ今日はなんだか暇だなあ 河村啓子
清盛
は初めて会った弟が、どれほどの力量があるか
わからなかったが、自分の勘に賭けたのだ。
その賭けは、見事に清盛の勝ちだった。
忠度は、そのがさつなみかけからは、
想像できないくらいの和歌の才能を発揮し、
見事、兼実を打ち負かしてしまったのだ。
一本のロープと揺れている小舟 笠嶋恵美子
さらに清盛は、
二人に厳島神社の完成予想絵図を見せた。
それは海に浮かぶ社ともいえる、
「雅やか」
なものだった。
二人は逃げ出すようにして帰っていった。
くちびるをふさぐ とどめの五寸釘 上嶋幸雀
(画面をクリックすると拡大されます)
清盛は、気分よく飲み酔った。
酔って、ふらつきながら立ち上がると、
懐から扇子を取り出して陽気にいう。
清盛
「ああ、愉快じゃ。愉快じゃ。かように愉快な日が、
終わってほしゅうない。おもしろや、おもしろや・・・」
そういうと、沈みゆく夕陽を扇子であおいでみせた。
すると、あろうことか夕陽が再び昇り、
清盛を照らしたのだ。
この話が都中に知れ渡ると、
清盛の世が未来永劫に続くと人々は噂した。
着地まで夢を見る長い睫 酒井かがり
[4回]
y2012/08/26 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
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