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川柳的逍遥 人の世の一家言
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立ちつくすしかなくて立っているのです  河村啓子

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六波羅の自邸で出家のため剃髪する清盛
                      (画面をクリックすれば拡大されます)
(平家物語・「禿童事」)(林原美術館)

清盛、寸白を煩い、その2月11日出家し、青蓮と称す。

妻・時子も出家する。


途中下車尻尾の有無をたしかめる  嶋澤喜八郎

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「清盛倒れる」

仁安2年(1167)2月、清盛は左右大臣を飛び越えて、

律令国家最高の従一位・太政大臣に就任した。

ところが、そのわずか3ヶ月後、

突如、清盛は太政大臣を辞任する。

太政大臣は人臣最高の官職ではあるが、

これといった職務はなく、

摂関以外の上級貴族が晩年に賜る、

名誉職としての性格が強かった。

実権を伴わない官職なら不要であるが、

平家の官位を高めるために、

「肩書きだけは頂戴しておこう」

ぐらいの気持ちだったのだろう。

それからの清盛は、前大相国(しょうこく)として、

これまで以上に、国政に影響力を及ぼすようになる。

死を視野に入れると動きそうな今日  平尾正人

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その清盛が突如病に倒れたのは、

翌仁安3年2月2日のことであった。

「寸白」
(すんぱく)という寄生虫の病気にかかり、

一週間後には「危急」といわれるほどの、

重体に陥ったのである。

六波羅の清盛邸には、後白河の女御である滋子をはじめ、

多くの人が見舞いに訪れたが、回復の兆しは見えず、

死を覚悟した清盛は、妻・時子とともに出家する。

弱点を攻めてくるのは青とかげ  本多洋子

法名は静蓮(じょうれん)のち浄海と改めた。

平家に批判的な九条兼実すら、

「清盛の病気は天下の大事であり、

  万一のことがあれば、国家はいよいよ衰えるであろう」


と日記「玉葉」に記している。

ほらあれが密に溺れた黄昏よ  森田律子

15日には熊野詣に赴いていた後白河上皇が、

予定を切り上げて、清盛を見舞った。

このとき、後白河は近臣に「大赦」を行うよう命じたという。

摂関以外の臣下の病気や出家で、

大赦を行う例はなかったが、

国家の重臣であるという理由で特例とされたという。

そして病床の清盛と話し合い、

5歳の六条天皇を退位させ、

高倉天皇を即位させることを決め、4日後には、

早くも天皇位を継ぐ「践祚(せんそ)の儀式が行われた。

(ここに平家と血縁関係をもつ初めての天皇が誕生した)

黄昏の群れは儀式の帰り道  壷内半酔

出家の功徳か、

はたまた、高倉の即位に安心したためか、

清盛の病状は回復に向かった。

清盛の政治スタイルに、

大きな変化が現れるのはこのころである。

仁安4年、六波羅の邸宅を重盛に譲ると、

摂津国・福原に山荘をつくって隠棲した。

古語辞典心の傷の名をさがす  黒田忠昭

これ以後、日常の政権運営は、

京にいる一門や親平家公卿にゆだね、

清盛自身は必要に応じて上洛し、

政局を収拾すると福原に戻るという政治スタイルを貫く。

中央政界から距離をおくことで、

かえって存在感を高めようとする、

清盛一流の人心掌握術であった。

これからは5度傾いて生きてみる  中嶋智子

もっとも、清盛の福原引退はそれだけではない。

出家して自由になったのを機に、

本格的に「日宋貿易」に乗り出そうと考えたのである。

平家は忠盛の時代から、日宋貿易に携わり始め、

保元2年(1157)に清盛が太宰大弐に就任して以後、

さらに積極的に関与するようになった。

鳥の影一途なものを追っている  赤松ますみ

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それをさらに大規模に推し進めるために、

福原の外港である「大輪田の泊」を修築し、

「ここに宋船を向かえ入れよう」と考えたのである。

宋船を福原まで安全に導くための、

瀬戸内航路の整備も進められ、

貿易船の寄港地となる瀬戸内各港の整備、

「音戸の瀬戸」の開削などが行われた。

前年には厳島神社の造営にも着手していた。

(海中にたつ大鳥居や回廊でつながれた華麗な社殿は、

  この時に造営されたものである)


風の音カーテンコールくりかえす  久恒邦子

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平家物語・「禿童(かぶろ)」から

清盛は仁安三年十一月十一日、五十一歳のとき病に冒され、

延命のためにすぐさま出家し、入道した法名は[浄海]と号した。
    
その効験か、病はたちどころに癒えて天寿を全うする

    
出家の後も栄華はなお衰えを見せなかった。
 
人々が心を寄せ従うさまは降る雨が国土を潤すがごとく、

世間があまねく敬い慕うさまは、


吹く風が草木をなびかすがごとくであった。
    
痛点が笑い出したよ花水木  小川一子

六波羅殿の一家の公達と言えば、

清華家や英雄家さえも、肩を並べ、顔を向けられる者はいなかった。
    
清盛の小舅・
大納言平時忠は、
    
『平家にあらざる者は人にあらず』

    
と豪語した。
    
そのため、誰もが縁故を結ぼうとした。
    
烏帽子の被り方から、衣文の指貫の輪に至るまで、

何事も六波羅風とさえ言えば、世の人は皆これを真似た。


赤黒いもの躙りよる華氏3度  井上

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