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川柳的逍遥 人の世の一家言
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さあ今日も私が地球回さねば  高橋謡々

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「清盛と後白河の提携関係の結実」


仁安3年(1168)2月9日、清盛が重病に陥った。

11日には死を覚悟したのか出家し、

妻の時子もあわせて出家した。

また、熊野詣に出かけていた後白河院も急ぎ帰京するほど、

清盛の病がいかに重篤であったかがわかる。

後白河院は、清盛と、

「憲仁親王を即位させること」で提携しており、

万が一清盛が没すれば、有力な支持者を失い、

さらに、六条天皇を擁立する勢力が、盛り返すことで、

憲仁の地位が危うくなると、考えたのかもしれない。

この先を読んで闇夜のカラス描く  谷垣郁郎

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     以仁王

後白河院が
憲仁天皇の即位を急いだ理由は、

ほかにもあった。

それは、後白河の第2皇子・以仁王の存在である。

以仁王は六条を推す八条院の養子となっていた。

さらに以仁王は、出家を拒否し、

憲仁の親王宣下の直前に元服している。

即位を狙っているためと噂された。

すでに成人をむかえ、

八条院という強力な支援者を得ていた以仁王の存在は、

憲仁を即位させ、

自身の院政強化を目論む後白河院にとって

大変な脅威であった。

疑えば針の先まで恐くなる  森中惠美子

そして2月16日、六条天皇が即位し、

憲仁親王(高倉天皇)が践祚(せんそ)した。

ついに、清盛と後白河院の提携関係が実を結んだ。

これにより、後白河院の権力は頂点に達したといえよう。

その後、清盛は病を克服、高倉天皇の即位を機に、

清盛と後白河院の関係は、「提携から協調」へと変化した。

空白を埋めるゲームだ終れない  岩田多佳子

しかし、突然の譲位、高倉天皇の即位に対して、

不満を抱く者も少なくはなかった。

即位した六条天皇を擁立していた勢力だけでなく、

一般の貴族でも、反発する者がいた。

その要因は、

高倉天皇の母・滋子が平氏の出身だったことである。

平安時代に入ってから、

皇女や藤原氏以外の国母は誕生しておらず、

「平氏出身の国母の誕生が忌避された」からである。

虹をあおぐ前頭葉に残る足あと  湊 圭司

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平氏一門内でも、六条天皇の即位、

高倉天皇の即位に対して、反発する動きをみせる者もいた。

それは、清盛の異母弟・頼盛である。

頼盛は忠盛の正室・池禅尼を母とする。

池禅尼が保元の乱における平氏の去就に、

大きな影響を与えたように、後家としての力は、

家長である清盛でも、無視することができなかった。

その子である頼盛は、平氏一門の中で、

清盛や重盛に次ぐ力を有しており、

その動向には清盛も、注意する必要があった。

上座とはなんと寂しい指定席  こはらとしこ

仁安3年(1168)11月11日、大嘗会が行われた。

大嘗会とは、天皇の即位後、

初めて行われる新嘗祭(にいなめさい)のことである。


そこで頼盛の子・保盛は、

五節の舞姫を献上しておきながら、

何度も催促されたにもかかわらず、

出仕しないなど不手際が多く、

譴責(けんせき)は5度に及んでいた。

鼻詰まりの忍者 天井で屈む  井上一筒

ついに、後白河院は頼盛・保盛父子を解官した。

頼盛が就いていた太宰大弐は、藤原信隆に代わり、

知行国の尾張は没収され、成親に与えられた。

頼盛父子がこのような態度をとった背景には、

頼盛が、八条院の女房を妻とし、

八条院領の預所を務めるなど、

八条院と政治的に近い関係にあったからだ。

山芋のぬるぬる少し甘えるか  山口ろっぱ

六条天皇を支える有力な勢力である八条院と

その周辺に仕える者たちにとって、

六条天皇を強引に即位させた後白河院、

それにより、即位した高倉天皇、母后・滋子に対する反発は強く、

頼盛がこのような行動をとるに至ったと考えられる。

≪なお、頼盛は同年12月30日には還任している≫

このように、清盛の意思とは裏腹に、

独自の行動をとる存在は、平氏一門とはいっても、

一枚岩ではないことを表している。

薄皮を残して今日は墓参り  酒井かがり

平氏一門内には、頼盛のように、

高倉天皇即位に対して、反発した行動をとる者もいれば、

高倉天皇の即位によって、地位を後退させた者もいた。

清盛の嫡男・重盛である。

高倉天皇の即位は、清盛の念願だっただけに、

その嫡男である重盛の地位が後退するとは、

どういうことだろうか。

除籍入籍 椿ぽたぽた落ちる中  時実新子

その最大の要因は、重盛は嫡男であったが、

母は高階基章(たかしなもとあき)の娘と、

高倉天皇の母・滋子の姉・時子の所生ではなかったことにある。

重盛と対照的なのが、時子の所生の宗盛である。

宗盛は、滋子の猶子となり、その妹、つまり叔母を妻とし、

その間には清宗が生まれていた。

清宗は、重盛と成親の妹・経子との間に生まれた、

清経よりも、年少にもかかわらず、

官位の上で超越し、序列が逆転していた。

五円玉よりも尊い五百円   新家完司

こうして高倉天皇の即位を契機として、

時子所生の子達の地位が上昇し、

重盛やその子たちの地位が後退することになった。

これは、重盛の嫡男の座を脅かし、

嫡流と庶流の交代が起こりかねない事態である。

これにより、重盛はさらに後白河へ接近し、

院近臣の中心人物・藤原成親との連携を、

強化する動きをみせている。

つまり、重盛と時子の子たちとの間には・溝が存在し、

それが対立に発展する可能性もあった。

抜けない棘忘れよう忘れよう  杉谷佳子

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   重盛          宗盛

「重盛と宗盛ー人物像」

『平家物語』は、有能な重盛と無能な宗盛と、

両者を対比して描いているが、これは事実ではない。

宗盛の官位昇進過程をみていくと、

仁安2年(1167)に宗盛は、

実務能力を必要とする参議に就任している。

もし宗盛に実務能力がなく、

『平家物語』にみえるような無能な人物であったならば、

公卿昇進の過程は、

実務能力を必要としない非参議従三位となるはずである。

ワンタンの皮で事実を覆っても  岩根彰子

しかし、宗盛は参議という、

実務能力を伴う昇進コースをとっている。

このことから宗盛の無能説は否定され、

能吏としての顔も見えてくる。

さらに、嘉応元年(1169)に宗盛は平野祭の上卿を務め、

その実務能力を発揮している。

重盛は、保元・平治の乱における戦功により、

官位昇進を果たしたが、

一方の宗盛には、

実務能力による官位昇進の道が選択されていた。

『平家物語』で宗盛が、無能な人物として描かれた背景には、

平家滅亡の責任を、

宗盛の優柔不断な性格に負わせるねらいがあったのだろう。

微調整している秋の鍵かっこ  永原潤子

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