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川柳的逍遥 人の世の一家言
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まちがいなく顔だ眼がある虚ろがある  中野六助

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     馬上の義朝

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「保元物語よりー義朝の弟たちの誅殺」

左馬頭(義朝)に重ねて宣旨が下って、

「お前の弟たちを、みな捜して連れて来い。

  とくに為朝とかいう奴は、

  主上の鸞輦に、矢を放とうなどと申した不届きな奴である。

  捕らえて誅せよ」


とある。

問答無用ト短調の夕陽  酒井かがり

義朝は畏まって、ほうぼうに武士を遣わして捜されたので、

ここそこから,弟たちを捜し出した。

為朝は敵が寄せて来ると見たので、

どちらともなく失踪した。

四郎左衛門頼賢、掃部助頼仲、六郎為宗、七郎為成、

九郎為仲、
以上の五人の人たちを、都の中には、

入れてはいけない、とご命令なので、

すぐに舟岡山へ連れて行った。

五人みなで馬から下りて並んでいた。

赤い糸今更白に変わらない  森 廣子

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末期の水を与えると、

おのおの畳紙(たとうがみ)でこれを受けたその中で、

頼仲がこの水をとって、唇を拭ってから申したには、

「私は幼少から人の首を斬ったことが数多くある。

そうした罪の報いだろうか、

今日の私の身の上になるのだろう。

兄でいらっしゃるから、頼賢殿が先立って、

お供申すべきでしょうが、


戦においては君命はなく、戦場でも兄の礼なしと申すので、

死を先にする道も、強いて礼を守らないでもよいでしょうか」


散りかたを教えてくれたのは木の葉  佐藤美はる

「そのうえ(先にしたい)仔細がございます。

  日頃皇后宮の中で、言い交わしている女がある。

  昨夜も来て目通りしたい ということを申しましたが、

  叶わないことを、心を鬼にして申して返しました。

  きっとまた,今日も訪ねてくるでしょうと思われます。

  最期のありさまを見ても仕方なく、

  また不覚にも涙を流すのも本本意ではありませんので、

  先にさせていただきます」


「六道のちまたで、必ずお会いいたしましょう」

と申して、直垂の紐を解いて、首を延ばして斬られた。

花束の絶叫おくり付けられる  真田義子

その後、四人みな斬られた。

みな立派に見えた。

次の日に陣へと首実験のため持たせて差し上げた。

左衛門尉信忠がこれを実験する。

獄門にはかけられないで、

穀倉院の南にある池のほとりに捨てられた。

これは、故上皇のご中陰であったらである。

生涯は一度落花はしきりなり  大西泰世


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「保元物語よりー孝・忠・信・義」


「死刑復活」、その中でも義朝に父を斬らせたことは、

前代未聞のことではないだろうか。

一方では、朝廷のご判断の誤りであるし、

また他方では、義朝自身の不覚である。

勅命に背くことはできないということで、

父を誅するのは、『忠』というのだろうか。

朝日にかざすサムライの行方  酒井かがり

『信』というのであろうか。

もし、『忠』だというのであれば、

忠臣を、『孝子』の門に求めるといえるのだろうか。

また、もし『信』だというのであれば、

「信を義に近くしろ」といえるのだろうか。

『義』に背いてどうして、「忠信」に随(したが)えるだろうか。

ヤツデの葉の先に解答が八つ  井上一筒

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     源為義

古い文章に

「君はいたって尊いけれども、いたって近くはない。

  母はいたって親しいけれども、いたって尊くはない。

  父だけが、尊く近しいものである」


と言う。

だから、母よりも尊く、君主よりも親しいのは、

ただ、父だけなのだ。

冬という茶鼠色の父のこと  河村啓子

どうしてこれを殺そうか。

「孝」を父にとり、「忠」を君主にとる。

もし
「忠」を主として、父を殺したらば、

「不孝」の大逆、「不義」の至りである。

だから、すべての行為の中で、

「孝行」を先にするといい、

また、三千の罪の中で、

「不孝」より大きいものはないという。

こめかみに降りしきる軽佻浮薄  山口ろっぱ

しかし、まさに大きな罪を犯した者を、

父だからといって、助けたらば、

政道を汚すことになるだろう。

天下は、彼一人の天下ではないのだから。

もし、政道を正しくして刑を行えば、

またたちまちに「孝行」の道から背くことになる。

明君は孝行でもって、天下を治めている。

「だからただ父を背負って、位を捨てて、去るのがよいのだ」

と判じた。

判決を言います第九唱います  花森こま

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まして、義朝の身においては、尚更である。

まことに助けようと思ったならば、

どうしてその方法がなかったろうか。

恩賞に申し替えても、

たとえ我が身を捨てても、

どうして父を救わないだろうか。

他人に命令されたのであれば、力及ばないことである。

ほんとうに「義」に背いたために、

並ぶもののない「大忠」であったけれども、

とりたてて恩賞があるわけでもなく、

結局いくばくもしないで、

その身を滅ぼしたことこそ、呆れてしまう事である。

六道の是非すべからく荒物屋  きゅういち

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嘘に嘘まぶしてかぎりなく濁る  たむらあきこ

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  保元物語絵図ー2

「為義VS信西」

義朝もまた、信西から父・為義と弟の頼賢、頼仲、為宗、

為成、為仲の斬首を命じられた。

「・・・おそれながら。わが父と弟たちがそこまでの罪を

 犯したとは思えませぬ」


おずおずと申し出た義朝に、信西はすげなく告げた。

「戦場であいまみえても、父と命のやりとりをする、

  "武士に二言はない"と申したはそなたぞ。

 そしてその代わりに、昇殿を許されたを忘れたか」


「巧みに踊らされたー」   

そんな思いが、義朝の胸中を駆けめぐった。

蹴った樹のしずくに濡れる自己嫌悪  有田一央

「戦はまだ終わっておらぬ」

そう言い置いて、信西が立ち上がった。

義朝に背中を向けて歩き出したとき、

信西のあとに従おうとした師光が、不穏な気配を察した。

義朝が今にも、信西に飛びかかろうとしている。

師光はとっさに信西をかばい、

控えていた武士達が、義朝を押さえつけた。

マンツーマンで斬り死にすればよし  井上一筒

「お許し下さりませーっ!恩賞もなにもかも返上致す!

 返上致すゆえ、命ばかりはなにとぞ!なにとぞ・・・」


義朝は押さえつけられたままもがき、

抗議の声を張り上げた。

「成功を上げれば破格の恩賞を与えると言うたは、

  そなたではござらぬか!

 それが親兄弟を斬れとは、あまりに無慈悲な仰せ。

 なにゆえにござりまするか。

  なにゆえにござりまするかーっ!」


遠吠えが聞こえましたかお月さま  立蔵信子

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信西が振り返り、義朝の前に数歩近寄った。

「清盛は叔父とその子らを斬る。

  むろん、そなたと同じく、身内を斬りとうないと抗っておった・・・・

 だが斬るであろう」


打ちのめされてからが始まりである  森田律子

信西は自分が下した裁断など、忘れたかのように、  

算木を並べてなにか計算している。

夕方、師光が報告を持って現れた。

「忠正、党五つ、為義、党六つ、合わせて十一の首、

 確かに斬られました由にござります」


「さようか。大路にてさらすがよい」

信西は計算を続けたまま応えた。

「ふふふ・・・、ははは、ふははははは!」

師光が笑い出し、信西が不快そうに振り返った。

潮目が変わりここからは喜劇です  筒井祥文

「まったく、わが殿ながらお見事にござりまするな!

 忠正にせよ為義にせよ、

 死罪にまでせねばならぬほどの咎があるとは、

 あなた様とて、思うてはおらぬはず。


 もとよりあなた様にとって、忠正一党はどうあってもよい。

 だが為義一党に生きておられては困る。

 ここで藤原摂関家の力をすっかり、

  削いでおくためにござります。


  平氏が身内を斬るとなれば

 源氏もまたそうせざる得ぬ。

 播磨守の気性、下野守の気性、見事に見抜いてのご采配。


 思えば戦のさ中より、いやその前より、

  あなた様はこうなるように仕組んでおられた」


行ったり来たりひとり芝居で悪を練る  柴本ばっは

信西は否定せず、かすかな笑みを浮かべた。

師光も応えて、したたかそうに笑った。

「殿の苛烈ぶり、亡き悪左府様の比ではござりませぬ。

 師光はどこまでもついて参りまする」


モノクロの下着をつけている思想  中野六助

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頼朝産湯の井戸

あれから義朝は、どこかに魂を置き忘れた、

抜け殻のようになって日々を過している。

そんなところへ、鬼武者が元服したいと申し出てくる。

数日後、鬼武者は髪を結い、加冠されて、


凛々しい若武者姿となった。

「本日より頼朝と名乗るがよい」

頼朝誕生、鬼武者は強い男子に成長していた。

生き残り賭けて鬼とも手をつなぐ  菱木 誠

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「保元物語よりー為義誅殺の事」

「為義法師の首を刎ねなければならない」

と、義朝(左馬頭)に命令が下った。

義朝は、「ご赦免されるよう」にと、

さまざまに二度まで、奏聞したが、

「清盛はすでに叔父を誅している、

  どうして、のろのろとさせているのか。

  甥はやはり子どものようなものである。

  叔父はどうして父と違うだろうか。

  早急に誅戮せよ。


  もしそれでも違背するのであれば、

  清盛以下の武士にご命令する」


と主上の逆鱗に触れた。

空き部屋でぐずぐずこねる哲学書  北原照子

勅命は重いので、力及ばず涙をおさえて、

義朝は、

「陛下のお言葉はこのようなのだ。

  これに従って、判官殿(為義)を討ち申しあげたらば、

  親殺しという五逆罪の第一を犯すことになるだろう。

  しかし、その罪を怖れて宣旨に背けば、

  すぐに違勅の者となってしまう。


  どうしたらよいものか」

鎌田正清に心中を述べた。

切れかけの尻尾をずっと握っている  青砥たかこ

それに対し、正清はかしこまって、

「申すには憚られますが、愚かなことをおっしゃいますなあ。

  私戦で討ち申し上げなされば、

  そのような咎もございましょう。

  そのうえ観音経には、世界の初めよりこのかた、


  "父を殺す悪王は、1万8千人であるといっても、

  まだ母を殺す者はいない" と説かれています。

  こうした諸々の悪王は、

 位を奪おうとしてのことでございます。


三日月に腰かけている物語  杉本克子

  こちらの例では、父上は朝敵となられたのですから、

  結局は誅殺は免れない運命でございます。

  たとえ、殿がお引き受けされなくとも、

 月日をこれ以上延ばすことのできるお命では、

  ございませんので、味方なさって、

 人手にかかるよりは、せめて殿のお自らの手で、

  後のご孝養をよくよくなさいませ。

  どうして悩まれることがありましょうか」


と正清が述べると、

 「それならば、お前が準備をせよ」

と言い、左馬守は泣く泣く内に引き下がられた。

影までが情けないねと前かがみ  泉水冴子

まもなく正清は、入道為義のもとへ参上し、

「現在都は平氏の仲間が権威をとって、

  左馬頭殿主人は、

  石の中にいる蜘蛛とかいうようでございますので、

  東国へ下られます。


  判官殿は先にお立ち下さいますよう、

  お迎えにあがりました」


と車を寄せた。そこで為義は、

「それならばもう一度八幡に参って、

  お暇を申しておけばよかった」


と言い、為義は南の方を拝んで、車に乗り込んだ。

七条朱雀に白木の輿をかきすえてある。

ここで車から輿にお乗り移りになられるところを、

討ち申し上げようというはらである。

ガラスを走るかすかな月のひび割れ  前田咲二

その時、秦野延景が、正清に向かって、

「あなたのご計画は誤りでしょう。

 人間は人生の最期が一番大事です。

 それをだましだまし殺し申そうというのは、

 情けないことでございます。


 ただあるがままにお知らせして、

 最期のご念仏もすすめ申し上げ、

 また言い残されることも、どうしてないでしょうか」


と言う。

土砂降りの中で素数になっている  和田洋子

それを受けて正清は、

「それももっともなことだ。 

  余計なことを患らわすまいと思って、

 このように計画したのだが、本当に私の誤りだ」


と考えを変えたので、

延景が入道のもとに行き、

「本当は関東ご下向では、ございません。

 左馬頭殿が宣旨を承って、正清を太刀取りとして、

 入道殿をお討ち申し上げようと、いうことなのでございます。

 殿は再三お嘆き申しなさったのですが、


 勅命が重くございまして、力及ばずご命令なさいました。

心しずかに、ご念仏なさいませ」


ひけ目でもあるのか雨がそっと降る  嶋澤喜八郎

それを聞いた為義は、

「悔しい事だ。為義くらいの者を、騙さずに討てばよいのに。

  たとえ陛下のお言葉が重くて、助けることが叶わなくとも、

  どうしてありのままに知らせないのか。

  また、心底助けようというのであれば、


  自分の身に替えても、どうしてご赦免を申し受けないのか。

  私だったら、義朝が私を頼って来たならば、

  自分の命にかえても助けたろう」


終焉のローソクほのか身を正す  磯部義雄

続けて、

「諸々ノミ仏ハ、衆生ノコトヲ思ウガ、

 衆生ハ、ミ仏ノコトヲ思ワズ、

 父母ハ、絶エズ子ノコトヲ思ウガ、


 子ハ、父母ノコトヲ思ワナイ、

 と説かれているからには、

 親の思うようには、子は親のことを思わないのが,


慣いであるので、

 義朝一人の咎ではない。

 ただ恨めしいのは、

 このことをどうして、始めから知らせないのか」


つまらない池だ底まで見せている  都司 豊

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そして、念仏を百遍ほども唱えながら、

為義は、命を惜しむ様子もなく、

「時間が経つと為義の首を斬るのを見ようと、

  下々の者たちが立てこむだろう。早く斬ってしまえ」


と言うので、正清は、太刀を抜いて後ろに廻った。

しかし代々の主人の首を斬らねばならない畏れと無念に、

涙にくれながら、太刀を当てるところも失念し、

一度斬ろうとして持った太刀を、人に託すのであった。

落丁の月光ガラス窓に卍  蟹口和枝

その時、為義は、

「願諸同法者、臨終正念仏、見弥陀来迎、往生安楽国」

と唱えて大声で念仏を数度繰り返し、ついに斬られた。

首実験の後に、義朝にその首は下され、

孝養するようにとの、主上の言があったので、

正清がこれをいただき、

円覚寺に収め、墓をたてて檀を作り、卒塔婆などを作られて、

さまざまの孝養を尽くされた。

折り合いを「南無阿弥陀仏」阿弥陀籤  岩根彰子

さらに為義のほうぼうに残した子ども42人や

頼憲の郎等4、5人、

能景配下の多くの武士たち。源平の70人以上が、

この19日に、自害があったり、首を斬られた。

まことに驚き入るばかりのことである。

線を外れる自分で書いた線  植野美津江

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れんげ菜の花この世の旅もあと少し  時実新子

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  保元物語絵図

「清盛VS信西」

まさか叔父・忠正に死罪が言い渡されるとは、

清盛は予想すらしていなかった。

「・・・い・・・、いかなることにござりますか」

「帝に背き奉ったは大罪。命をもって償うほかはない」

「わが叔父が上皇側に与したは、

  帝への背信からではないと申したはず!」


「武士の本分は帝への忠誠。

  それを忘れたはれっきとした罪ぞ!よう考えよ。

 世の乱れが行きつく所まで行きついたがこたびの反乱。

 生ぬるい処分をすれば世の中の乱れは収まらぬ」


聞こえない耳の笑えない耳朶  黒田忠昭

清盛は、なんとしても処分を撤回させようとする。

「古にはあった。死罪が廃されたは、

  世がそれを要さなんだため。

 それに値する罪を犯す者あらば執り行うが道というもの」


「・・・だからと言うて、身内を斬れとは非情に過ぎる。

  もとは王家、摂関家の争いに巻き込まれ、

  命賭けで戦うた武士が、なにゆえこのうえ、

 さような苦しみを背負わなければならぬ!」


声にして強い呪いに変えなさい  広沢 流

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必死に食らいつく清盛に、信西は冷笑を浮かべた。

「なにゆえじゃと?

 それはそなたちが武士であるゆえじゃ。

 世の乱れを正すため、武士が命賭けで戦うは道理、

 逆ろうた者を斬るも道理」


「いつまで武士を犬扱いするおつもりか!」

声帯を地割カオスが漏れだした  墨崎洋介

「これがあの信西か」

と、清盛は裏切られた思いがする。

亡き忠盛を三位に昇任させようとしない朝廷に失望し、

「道理」が通じぬ世を嘆いて、出家したのではなかったか。

「従わぬなら官位を剥奪するのみ。

  先だって与えた播磨守の職は無論のこと、

 土地財産もみな没収じゃ・・・!!」


「卑怯ぞ・・・!!」

腕力で信西をねじ伏せるのは容易だが、

清盛は一門のためにと懸命にこらえた。

「こたびの沙汰は、帝の御名にて下されたもの。

 私を卑怯と罵るは、帝を罵るに同じと心得よ。

 二度と申してみよ、

 平氏一族郎党、女、子供たちに至るまでみな死罪ぞ」


信西の恫喝は、鋭利な刃物のようだった。

すり寄って蹴っとばされたことがある  安土理恵

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[保元物語よりー忠正誅殺の事]

平忠正は、浄土の谷というところで出家して、

深く隠れていた。

が、為義入道「降参してしまった」

と噂に聞き、子どもたち四人を引き連れて、

ひそかに、甥の播磨守・清盛を頼って出てきた。

背泳ぎをみごとこなして山笑う  前中知栄

が、しかし、

平忠正(馬助)、嫡子・長盛、次男・忠綱、

そして、三男・正綱、四男・通正の五人を、

勅命により清盛は、六条河原にて斬首した。

忠正は、当時の別当花山院中納言・藤原忠雅と同名で、

具合が悪いからと、

忠員(ただかず)と改名した上での処刑であった。

時申刻頃(午後4時ごろ)であった。

わが死後の乗換駅の潦  大西泰世

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この忠正と言う人は、桓武天皇11代の末裔、

平貞盛から六代の孫にあたる、

讃岐守・平正盛の次男である。

そして、この平忠正と言う人は、軍を解散してから、

出家入道し身を隠していたのですが、

清盛を頼って行けば、

「そうはいっても命だけは助けないことはまさかあるまい」

と思って出頭し、降伏したのであった。

断捨離といっても五欲握りしめ  片山かずお

本当に忠正を助けようと思うならば、

それなりに何か出来たでしょうが、

本当に叔父を助けようとすれば、

このような結果にはならなかったのに、

叔父と甥の間柄が不仲であったうえ、

自分が忠正を斬れば、

義朝にもきっと、父・為義を斬らせることになるだろう。

もし、誰かが寛大にも、叔父・忠正を許そうとしても、

この理屈を楯に反対をしようと、

悪い知恵を持たれることも、恐ろしい限りだった。

ネストリウス派のどくだみの煎じ方  井上一筒

また一族を率いて、崇徳上皇方に参加した平家弘は、

味方の敗戦が決まり、総崩れとなると、

子の光弘らとともに、上皇を警護して戦場を脱出したが、

源義康に身柄を確保され、

長男・安弘、次男・頼弘、三男・光弘

そして正弘の五人とともに、大江山で処刑された。

また家弘の弟、平度弘和泉信兼が主上の命を受け、

六条河原で斬首した。

泣ききって早く日めくり明日にしよ  喜多川やとみ

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「保元物語よりー信西の事」

「今改めて死刑を行うべきではない。

 とりわけて、故上皇の御中陰である。

 それぞれご赦免なさればよろしいであろう」


と、多くの主上が、おのおの一同に意見をあわせ、

死刑反対を唱える中で信西は、

「この言上(過去の例)に随うべきではありますまい。

 多くの兇徒を諸国に分けて、遣わしましたらば、

 きっとまた兵乱のもととなるでしょう。

 そのうえ非常時の決断は、


 人君がしたいようにせよという文章もございます。

 世の中のことが尋常ではないことには、

 君主の命令によって、判断するということです。

 もし慣例に従って間違いが起きた際に、


後悔してもなんの役に立ちましょうか」

と立ちはだかったので、

謀叛に加わった者は、皆斬られた。

嵐の中で泣きたいの二乗  蟹口和枝

まことに国に「死刑」を行うと、

「かえって天下に謀叛人が絶えないと申すのに、

 多くの人を誅殺なさったことは驚くべき事だ」


 実に弘仁元年に、藤原仲成が誅されてから、

 帝王26代、年にして347年、

 絶えていた死刑を行ったのは、ひどいことだった。

カサコソと抱いた骨壷から返事  桑原伸吉

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猫死んで現場に月がある未明  筒井祥文

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    白河南殿跡

≪白河南殿は白河院が造営した御所。

    保元の乱で崇徳院が白河北殿と合わせ、白河殿と称された≫

「保元物語に描かれた合戦の様子」 と

              「保元の乱・史跡の京都を歩く」


7月11日未明、天皇軍が内裏・高松殿を出陣した。

清盛は最大勢力を率いて二条大路を進む。

従うのは経盛、教盛、頼盛、重盛、基盛など一門のほか、

有力家人の平家貞、貞能(さだよし)伊藤景綱、

難波経房(つねふさ)瀬尾兼康(せのおかねやす)など、

総勢300騎。

虹をあおぐ前頭葉に残る足おと  湊 圭史

義朝は、200騎を率いて、

大炊御門大路(おおいみおかどおおじ)を、

源義康は、100騎を率いて近衛大路を、

それぞれ東へ進軍する。

双方に純ななごりを纏う騎士  兵頭全郎


白河殿ではすでに、源為義、平忠正以下、

崇徳方の軍勢が守りを固めていた。

やがて、清盛軍が白河殿に近づくと、

伊藤景綱が名乗り出て、

「ここを固めるのは誰だ」

と大音声で呼ばわった。

切り口は緯度か経度か今日の玉葱  黒田忠昭


名乗り出たのは、

強弓で知られた源氏一の勇者・鎮西八郎為朝である。

「お前の主である清盛すら ふさわしい敵とは思われない。

  景綱なら引き退け」


と相手にしない。

怒った景綱は白河殿に向けて、矢を放ったが、


為朝は動ぜず、

「後生の思い出にせよ」

といいながら、得意の強弓をひきしぼる。

為朝の手元を離れた矢は、

たちまち景綱の子の伊藤六忠直(ろくただなお)の胸板を、

甲冑ごと貫き、


並んでいた兄の伊藤五忠清(ごただきよ)の鎧に突き刺さった。

ゲームセンターから持ち帰る駄目押し  高橋 蘭


これを見た平家軍は、

聞きしにまさる為朝の強弓におののいたが、

このときの清盛の台詞がふるっている。

「清盛がこの門を承って攻める必要はない。

  何となく押し寄せてみたまでのことだ。

  北の門へ向かおう」  


と撤退を命じた。

安全靴履くよう言われる家庭ゴミ  小林満寿夫

それに真っ向から反対したのが嫡子・重盛だ。

この年19歳の血気盛んな若者だった。

「勅命を賜った者が敵を恐れて退くなどということがあろうか。

  続けや若者ども」


と駆け出そうとする。

慌てた清盛が、

「あれ制せよ 者ども」

といい、郎党たちが立ちふさがったので、

やむを得ず、父とともに撤退したという。

うつぶせの空の左胸の勇気  酒井かがり


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      高松殿跡

≪鳥羽院の院御所であり、後白河院はここで即位して里内裏となった。

    保元の乱では、
「後白河天皇方」の拠点となった≫

合戦を勝利に導いたのは、

やはり意気盛んな義朝であった。

清盛に続いて、義朝の軍勢が為朝の守る門を攻めたが、

為朝の弓の勢いの前に、攻め手を欠いた。

勝報が届かないことに焦った後白河陣営は、

第二陣として、源頼政、平信兼らを白河殿に派遣したが、

それでも勝負がつかない。

セイタカアワダチソウの圧巻  山西佳子

そこで義朝が内裏に使者を派遣して、

許可を得たうえで白河殿に火を放ち、


ついに崇徳・頼長を敗走させた。

合戦からわずか4時間、

戦いは後白河方の、圧倒的勝利で幕を閉じた。

摘み取った火を回廊へ解き放つ  きゅういち


この戦いで清盛は終始消極的だった。

最大兵力を有する清盛には、

ここでわざわざ、命をかけなくても、

戦後の恩賞は、保証されているという余裕があった。

それが傍目には、臆病に見えたかもしれない。


武士としての名誉よりも実利をとる、

合理主義者の清盛の性格を垣間みる一幕である。

戦後、清盛の目論見通り、

最大の恩賞を手にしたのは、平家一門だった。


そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子

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      権現寺

≪保元の乱で斬首された源為義の墓と伝わる石塔。

    もともとは千本七条にあったが明治時代に京都停車場によって、

    現在の地に移転された。

    為義の墓は、山門の外にある≫


敵方の処罰は、勝者である清盛義朝にとっても、

つらいものになった。

7月28日、清盛が、

叔父・忠正とその息子たちを六波羅の近くで斬首した。

のに続き、
その二日後、

義朝も自らの手で父・為義と5人の弟を処刑した。

このとき、為朝は逃亡中であったが、

のちに捕らえられて、伊豆大島に流された。

幅寄せをしても線条痕がある  井上一筒


さして仲のよくない叔父一族を斬った清盛に比べて、

実の父や年若い弟たちに手をかけた義朝の心痛は、

大きかったはずだ。

「保元物語」によると、

清盛は自分が忠正を斬ったならば、

義朝も為義たちを斬らざるを得なくなることを見越して、

進んで叔父の処刑に踏み切ったという。

この死刑復活を主張したのは、

後白河の側近・信西だった。

こののち信西自身が、

処刑獄門にさらされるとは、知るよしもなく。


米粒のひとつひとつに遺言書  くんじろう

「その他、保元の乱の跡地ー京都を歩く」

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       成勝寺跡

崇徳院の御願寺で「勝」の字がつく六勝寺のうちの1つ。

応仁の乱で廃絶する。

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    崇徳天皇御廟

保元の乱で敗れて讃岐に配流された崇徳院が祀られている。

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       源氏六条堀川館跡

源頼義、義家、為義、義朝と代々源氏の館があった地と伝えられる。

屋敷の境内の井戸・「左女牛井」の跡を伝える碑が残る。

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            安井金比羅宮

崇徳院を祀った神社で、

後白河院が慰霊のために建立した光明院観勝寺が前身と伝える。

「縁切り神社」としても有名。

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相国寺(藤原頼長首塚)

保元の乱を起こして敗死した藤原頼長の首塚と伝えられる五輪塔。

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   得長寿院跡

鳥羽院の勅願を受けて、

清盛の父・
忠盛が造営した白河南殿に付随する御堂の一つ。

清盛の造営した三十三間堂は、この得長寿院跡を模している


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六波羅密寺(清盛首塚)

平氏の本拠地があった六波羅にある寺院。

 六波羅密寺境内にある清盛の供養塔。

 六波羅には平氏一門の
池殿泉殿などの邸宅が集中していた。

これら 史跡の一直線上に、

八坂神社・建仁寺・清水寺・三十三間堂、後白河天皇陵・法住寺、

があります。

見つめすぎたのか石の眠り  阪本きりり

「保元の乱・マップ」

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最小サイズの断頭台がある  井上一筒

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後三年の役における戦闘を描いた絵巻

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弓の名手と言えば、源為朝(鎮西八郎)那須与一

中でも「保元の乱」において、三尺五寸の太刀を差し、

五人張りの強弓を持って、西河原面の門を守った、

為朝は、七尺ほど(210㎝)の大男で、

目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だった。

また「強弓」の使い手で、左腕が右腕よりも、

4寸(12㎝)も長かったといわれる。

酒も背も追い越した子に期待する  松本綾乃

「八郎伝説」

そんな源為朝は、弓の名人として、

天下に名の知られた武士であったが、

保元の乱では、負けた崇徳上皇方として戦ったため、

乱の収束後、

弓が引けないように、肘の筋を切られた上で、

八丈島に流されてしまった。

しかし、17歳だった為朝は、傷の癒えるのも早く、

八丈島でも強弓を引くようになる。

その強弓の威力というのが・・・弓の練習のため、

「1里(約3.9㎞)先の岩を的にして矢を射たところ、

  矢が当たると的の岩は、木っ端微塵に砕け散った」


という。

尾根を毀して版画家が見る時間  筒井祥文

「弓こそが平安末期の主力武器」

武士たちの弓を引く姿からもわかるように、

弓術には当時、馬上から射る「騎射」と、

地面に立って(あるいは片膝をつけて)引く「歩射」と、

いわれる、2通りの方法があった。

焼酎とメザシで出来ている翼  新家完司             

それぞれの弓矢の操作の、基本的なところは同じで、

また弓具にも,変わりはなかった。

しかし、騎射の場合には、馬上であることから、

射術の細かなテクニックを要求することは、

無理となる。

そのかわりに、馬の機動性を存分に発揮して、

射る目標に接近し、近距離から矢を発射する。

狙い撃ちしたいお方は皆の的  松村里江   

騎射による当時の戦法は、

「馬も人も敵を左手に向けて戦え。

  敵の兜のすき間を見つけて、十分に狙い、

  無駄な矢を射るな。


  内兜(兜の内側の額にあたる所)を敵に見せるな。

  敵が一の矢を放った後、

  二の矢を番
(つが)えようと弓を上げた時に、

  真向
(まっこう)、内兜(うちかぶと)、頸(くび)のまわり、

  鎧の継ぎ目などに、必ず隙間ができるので、

  そこを狙って射よ。


  鎧に隙間ができないよう鎧突よろいづき)を常におこなえ」

というものであったようだ。
(『源平盛衰記』)

 ≪鎧突=激しく動き回っていると、鎧の鉄札(てっさつ)を綴った、

  威糸(おどしいと)や鎧板などをつなぐ紐がゆるみ、

  間に隙間ができるので、ときどき鎧をゆすり上げて隙間をなくし、

  防護力を回復する必要があった≫


雨天につき第二関節まで決行  酒井かがり

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   那須与一

兜を着用して弓を射るには、現在のような引き方とは異なり、

(つる)は、兜の吹返(ふきかえし)のところにあたり、

それ以上引くことはできない。

また、「騎射」では、弓を射る姿勢は、

通常歩射で引く場合と比べると上半身を前傾させて射る。

≪これは騎射ばかりではなく、船上においても同様である≫

動揺の激しいとこらから、弓を引く場合には、

このような姿勢におのずとなる。

≪トップの画面の騎馬武者には、そのあたりの事情が、

   生き生きと描かれている≫


その紐を引くと雷落ちますよ  西田雅子

それに対して、「歩射」の場合には、

精密な技術を尽くして、比較的遠い目標物を射中てること、

また目標物を貫き通すような、矢の威力の必要があった。

日本の弓は長く、当時の弓の長さは、

現在の弓の長さとほぼ同じで、

七尺三寸前後(約2メートル20センチ)といわれる。

また、日本弓の特徴として、弓を握る位置が、

他の民族の使用する弓のように、中央ではなく、

上部から約3分の2のところに位置している。

≪このことは、銅鐸(どうたく)や埴輪などにみられるばかりではなく、

  『魏志倭人伝』に「短下長上」と記されていることからも、

  古い時代からの特徴であったと言える≫

  
神様はいかが蓋も付いてます  中岡千代美

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後三年の役における戦闘を描いた絵巻

射られた数多くの矢から、

さまざまな矢羽が使用されていたことがうかがえる。


弓矢の威力について語る場合、

いくつかの面からみなければならない。

第一に、弓矢を扱う射手の技量により、

その威力は雲泥の差が生じる。

創意によって大きく異なる。

そして最後に弓矢をどのような目的のために用いるか、

ということから鏃(やじり)の選択が必要となる。

戦闘場面では、目標物を破壊する、

射切る、貫通させる、衝撃を与える、飛距離を競う、

などのことが想定されるからである。

目立つのが好きでキリンの首になる  中博司

現在の射手の射る矢のスピードは、

上級者で、初速が毎秒・60メートルくらいである。

軍記物語などの弓射場面の記述は、

多少の誇張が含まれるとしても、

現代人の技量とは、かけ離れていると推定される。

これは、たとえば弓術伝書のなかの「遠矢」に関する、

記述をみても明らかである。

「遠矢射様の事」という箇条には、

「町の準」という項目があり、

これは四町(約436メートル)に矢が達したら。

「矢羽の一部をはぎ取り、さらにもう一度試みる」

ということをいっている。

巻尺を出てくる忘れていた時代  岩田多佳子

矢羽が小さくなればなるほど、

矢を真っ直ぐに飛ばすことは、難かしくなる。

最終的には、

矢羽の茎の部分だけを残した矢を用いて、

四町の距離を飛ばすことを、目標としている。

遠矢は、戦場では通信手段として必要であり、

また非常に高度な技術が必要とされたことから、

射手の技術のレベルを試す、手段としてもおこなわれた。

≪現代の射手では四町を飛ばす記録は達成されていない。

   最高記録は385.4メートルである≫


好奇心また引き出しを増やさねば  美馬りゅうこ

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  強弓に弦を張る

≪この時代に弓に弦を張るには3人が必要であった≫


「鎮西八郎為朝と鎌田正清」 (保元物語より)

・・・さて、夜がようやく明けたころ、

主を無くした放れ馬が一頭、義朝の陣へ駆け込んで来た。

鎌田正清がこれを捕らえて見みると、

鞍壷くらつぼ(またがる所)に血が溜まって、

前輪(まえわ)は壊れ、尻輪(しりわ)には、

10㎝もある大きな矢じりが、半分ほど突き刺さっていた。

鼻の差を逃げ切った馬の静脈  森田律子
 
正清は、この鞍を義朝に見せた。
 
「これは、筑紫の御曹司(鎮西八郎)がなされたことでしょうが、

 なんとも強い弓の腕前のようですな」

 
「なんの、為朝はまだ十八、九歳だろう。

 いまだ力量も定まってはおるまい。

 この馬も、きっと敵を脅さんとて為朝が作って、

 放したのであろう。


 臆するに足らず。正清、汝が行き、一戦交えてみよ」
 
「承りました」
 
尼寺へ行けと言われるレバニラ炒め  岩根彰子

正清はさっそく兵を集め、百騎ほどで攻め寄せた。
 
為朝は、崇徳上皇のいる北殿の最も重要な門である、

西河原面の門を守っていた。
 
「下野守・義朝の郎党、相模国の住人鎌田次郎正清っー!!」
 
と大声で名乗ると、

それを聞いた為朝は怒鳴った。
 
「ならば我が一門の郎党ではないか。

 こちらには六条判官(為義)殿がおられる。

 一門の大将に矢を向けるとは何事か。退け」

 
「ひるむな。もともとは一門のご主君ではあるが、

 今は謀叛を起こされた敵でござる。

 勅命に逆らう人々を討ち取って、者ども名をあげよ」

 
と言い終わらぬ内に、

正清は引き絞った矢を為朝めがけて、

ヒョウと放った。
 
その矢は、為朝の兜の金具にバシッと当たって、

兜のしころ(兜の側面に垂れて首を保護する部分)を射抜いた。

暴言を吐き捨て風は横殴り  石橋芳山 
 
為朝はこれに激怒し、この矢をかなぐり捨てると、
 
「おのれの様な者に、矢を使うのは無益なり。

  組み打ちにせん」

 
と言って、馬に飛び乗るや、駆け出て来た。

そのあとに、

九州から連れて来た為朝二十八騎が、

ドッと続いて来た。
 
オタケビヲアゲテオノレノカオをミロ  熊谷冬鼓

<しめた。為朝を誘きだせば、北殿は空き家同然だ>

正清は、為朝に恐れをなした風をよそおい、

百騎の軍勢を引き連れて、

川原を下り二町ほど一目散に逃げた。
 
為朝は弓を小脇に抱え、大手を広げて、

何処までも追っかけて来たが、

正清の策略に気づき兵を止めた。
 
「待て。深追いはするな。六条判官・為義殿は、

 心は勇猛ではあるが、すっかり老いられている。

 北殿を守る残りの人々も、口こそ達者だが、


 心許無い者ばかりじゃ。

小勢にて門を破られては大変だ。者ども引き返せ」

 
と、元の門まで引き返した。

勝利まで残り5分の長いこと  ふじのひろし

さて、戦いに敗れて、

上皇側についた為朝の父・為義や、

他の兄弟は捕らえられ、ことごとく首を刎ねられた。
 
為朝は、ひとり落ち延び、近江に潜伏していたが、

やがて捕らえられた。

英雄の名を惜しんで、断罪はまぬがれたが、

腕の筋を切られて、伊豆大島に流罪となった。

悪役の美学なきごとは言わぬ  森廣子
 
大島に流されたあとも、

為朝の相変わらず粗暴な性格は静まらず

やがて、伊豆諸島を従え国司に反抗するようになった。
 
そして、追討軍を迎え撃ち、

大島で敵船の船腹を浜辺から、

一本の大鏑矢(かぶらや)で、射通して沈ませ、

その後、自ら腹を切ったと伝えられる。

本懐を遂げ表札を書き替える  上野勝彦

また、生き延びて琉球に渡り、

琉球王朝の祖になったという伝説もある。

≪琉球王国の正史・『中山世鑑』や、

   『鎮西琉球記』/『椿説弓張月』 などで、

   その子が琉球王家の始祖・舜天になったという、

   伝説にもなっている≫

悪名も無名にまさることもある  木村良三

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