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川柳的逍遥 人の世の一家言
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最小サイズの断頭台がある  井上一筒

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後三年の役における戦闘を描いた絵巻

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弓の名手と言えば、源為朝(鎮西八郎)那須与一

中でも「保元の乱」において、三尺五寸の太刀を差し、

五人張りの強弓を持って、西河原面の門を守った、

為朝は、七尺ほど(210㎝)の大男で、

目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だった。

また「強弓」の使い手で、左腕が右腕よりも、

4寸(12㎝)も長かったといわれる。

酒も背も追い越した子に期待する  松本綾乃

「八郎伝説」

そんな源為朝は、弓の名人として、

天下に名の知られた武士であったが、

保元の乱では、負けた崇徳上皇方として戦ったため、

乱の収束後、

弓が引けないように、肘の筋を切られた上で、

八丈島に流されてしまった。

しかし、17歳だった為朝は、傷の癒えるのも早く、

八丈島でも強弓を引くようになる。

その強弓の威力というのが・・・弓の練習のため、

「1里(約3.9㎞)先の岩を的にして矢を射たところ、

  矢が当たると的の岩は、木っ端微塵に砕け散った」


という。

尾根を毀して版画家が見る時間  筒井祥文

「弓こそが平安末期の主力武器」

武士たちの弓を引く姿からもわかるように、

弓術には当時、馬上から射る「騎射」と、

地面に立って(あるいは片膝をつけて)引く「歩射」と、

いわれる、2通りの方法があった。

焼酎とメザシで出来ている翼  新家完司             

それぞれの弓矢の操作の、基本的なところは同じで、

また弓具にも,変わりはなかった。

しかし、騎射の場合には、馬上であることから、

射術の細かなテクニックを要求することは、

無理となる。

そのかわりに、馬の機動性を存分に発揮して、

射る目標に接近し、近距離から矢を発射する。

狙い撃ちしたいお方は皆の的  松村里江   

騎射による当時の戦法は、

「馬も人も敵を左手に向けて戦え。

  敵の兜のすき間を見つけて、十分に狙い、

  無駄な矢を射るな。


  内兜(兜の内側の額にあたる所)を敵に見せるな。

  敵が一の矢を放った後、

  二の矢を番
(つが)えようと弓を上げた時に、

  真向
(まっこう)、内兜(うちかぶと)、頸(くび)のまわり、

  鎧の継ぎ目などに、必ず隙間ができるので、

  そこを狙って射よ。


  鎧に隙間ができないよう鎧突よろいづき)を常におこなえ」

というものであったようだ。
(『源平盛衰記』)

 ≪鎧突=激しく動き回っていると、鎧の鉄札(てっさつ)を綴った、

  威糸(おどしいと)や鎧板などをつなぐ紐がゆるみ、

  間に隙間ができるので、ときどき鎧をゆすり上げて隙間をなくし、

  防護力を回復する必要があった≫


雨天につき第二関節まで決行  酒井かがり

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   那須与一

兜を着用して弓を射るには、現在のような引き方とは異なり、

(つる)は、兜の吹返(ふきかえし)のところにあたり、

それ以上引くことはできない。

また、「騎射」では、弓を射る姿勢は、

通常歩射で引く場合と比べると上半身を前傾させて射る。

≪これは騎射ばかりではなく、船上においても同様である≫

動揺の激しいとこらから、弓を引く場合には、

このような姿勢におのずとなる。

≪トップの画面の騎馬武者には、そのあたりの事情が、

   生き生きと描かれている≫


その紐を引くと雷落ちますよ  西田雅子

それに対して、「歩射」の場合には、

精密な技術を尽くして、比較的遠い目標物を射中てること、

また目標物を貫き通すような、矢の威力の必要があった。

日本の弓は長く、当時の弓の長さは、

現在の弓の長さとほぼ同じで、

七尺三寸前後(約2メートル20センチ)といわれる。

また、日本弓の特徴として、弓を握る位置が、

他の民族の使用する弓のように、中央ではなく、

上部から約3分の2のところに位置している。

≪このことは、銅鐸(どうたく)や埴輪などにみられるばかりではなく、

  『魏志倭人伝』に「短下長上」と記されていることからも、

  古い時代からの特徴であったと言える≫

  
神様はいかが蓋も付いてます  中岡千代美

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後三年の役における戦闘を描いた絵巻

射られた数多くの矢から、

さまざまな矢羽が使用されていたことがうかがえる。


弓矢の威力について語る場合、

いくつかの面からみなければならない。

第一に、弓矢を扱う射手の技量により、

その威力は雲泥の差が生じる。

創意によって大きく異なる。

そして最後に弓矢をどのような目的のために用いるか、

ということから鏃(やじり)の選択が必要となる。

戦闘場面では、目標物を破壊する、

射切る、貫通させる、衝撃を与える、飛距離を競う、

などのことが想定されるからである。

目立つのが好きでキリンの首になる  中博司

現在の射手の射る矢のスピードは、

上級者で、初速が毎秒・60メートルくらいである。

軍記物語などの弓射場面の記述は、

多少の誇張が含まれるとしても、

現代人の技量とは、かけ離れていると推定される。

これは、たとえば弓術伝書のなかの「遠矢」に関する、

記述をみても明らかである。

「遠矢射様の事」という箇条には、

「町の準」という項目があり、

これは四町(約436メートル)に矢が達したら。

「矢羽の一部をはぎ取り、さらにもう一度試みる」

ということをいっている。

巻尺を出てくる忘れていた時代  岩田多佳子

矢羽が小さくなればなるほど、

矢を真っ直ぐに飛ばすことは、難かしくなる。

最終的には、

矢羽の茎の部分だけを残した矢を用いて、

四町の距離を飛ばすことを、目標としている。

遠矢は、戦場では通信手段として必要であり、

また非常に高度な技術が必要とされたことから、

射手の技術のレベルを試す、手段としてもおこなわれた。

≪現代の射手では四町を飛ばす記録は達成されていない。

   最高記録は385.4メートルである≫


好奇心また引き出しを増やさねば  美馬りゅうこ

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  強弓に弦を張る

≪この時代に弓に弦を張るには3人が必要であった≫


「鎮西八郎為朝と鎌田正清」 (保元物語より)

・・・さて、夜がようやく明けたころ、

主を無くした放れ馬が一頭、義朝の陣へ駆け込んで来た。

鎌田正清がこれを捕らえて見みると、

鞍壷くらつぼ(またがる所)に血が溜まって、

前輪(まえわ)は壊れ、尻輪(しりわ)には、

10㎝もある大きな矢じりが、半分ほど突き刺さっていた。

鼻の差を逃げ切った馬の静脈  森田律子
 
正清は、この鞍を義朝に見せた。
 
「これは、筑紫の御曹司(鎮西八郎)がなされたことでしょうが、

 なんとも強い弓の腕前のようですな」

 
「なんの、為朝はまだ十八、九歳だろう。

 いまだ力量も定まってはおるまい。

 この馬も、きっと敵を脅さんとて為朝が作って、

 放したのであろう。


 臆するに足らず。正清、汝が行き、一戦交えてみよ」
 
「承りました」
 
尼寺へ行けと言われるレバニラ炒め  岩根彰子

正清はさっそく兵を集め、百騎ほどで攻め寄せた。
 
為朝は、崇徳上皇のいる北殿の最も重要な門である、

西河原面の門を守っていた。
 
「下野守・義朝の郎党、相模国の住人鎌田次郎正清っー!!」
 
と大声で名乗ると、

それを聞いた為朝は怒鳴った。
 
「ならば我が一門の郎党ではないか。

 こちらには六条判官(為義)殿がおられる。

 一門の大将に矢を向けるとは何事か。退け」

 
「ひるむな。もともとは一門のご主君ではあるが、

 今は謀叛を起こされた敵でござる。

 勅命に逆らう人々を討ち取って、者ども名をあげよ」

 
と言い終わらぬ内に、

正清は引き絞った矢を為朝めがけて、

ヒョウと放った。
 
その矢は、為朝の兜の金具にバシッと当たって、

兜のしころ(兜の側面に垂れて首を保護する部分)を射抜いた。

暴言を吐き捨て風は横殴り  石橋芳山 
 
為朝はこれに激怒し、この矢をかなぐり捨てると、
 
「おのれの様な者に、矢を使うのは無益なり。

  組み打ちにせん」

 
と言って、馬に飛び乗るや、駆け出て来た。

そのあとに、

九州から連れて来た為朝二十八騎が、

ドッと続いて来た。
 
オタケビヲアゲテオノレノカオをミロ  熊谷冬鼓

<しめた。為朝を誘きだせば、北殿は空き家同然だ>

正清は、為朝に恐れをなした風をよそおい、

百騎の軍勢を引き連れて、

川原を下り二町ほど一目散に逃げた。
 
為朝は弓を小脇に抱え、大手を広げて、

何処までも追っかけて来たが、

正清の策略に気づき兵を止めた。
 
「待て。深追いはするな。六条判官・為義殿は、

 心は勇猛ではあるが、すっかり老いられている。

 北殿を守る残りの人々も、口こそ達者だが、


 心許無い者ばかりじゃ。

小勢にて門を破られては大変だ。者ども引き返せ」

 
と、元の門まで引き返した。

勝利まで残り5分の長いこと  ふじのひろし

さて、戦いに敗れて、

上皇側についた為朝の父・為義や、

他の兄弟は捕らえられ、ことごとく首を刎ねられた。
 
為朝は、ひとり落ち延び、近江に潜伏していたが、

やがて捕らえられた。

英雄の名を惜しんで、断罪はまぬがれたが、

腕の筋を切られて、伊豆大島に流罪となった。

悪役の美学なきごとは言わぬ  森廣子
 
大島に流されたあとも、

為朝の相変わらず粗暴な性格は静まらず

やがて、伊豆諸島を従え国司に反抗するようになった。
 
そして、追討軍を迎え撃ち、

大島で敵船の船腹を浜辺から、

一本の大鏑矢(かぶらや)で、射通して沈ませ、

その後、自ら腹を切ったと伝えられる。

本懐を遂げ表札を書き替える  上野勝彦

また、生き延びて琉球に渡り、

琉球王朝の祖になったという伝説もある。

≪琉球王国の正史・『中山世鑑』や、

   『鎮西琉球記』/『椿説弓張月』 などで、

   その子が琉球王家の始祖・舜天になったという、

   伝説にもなっている≫

悪名も無名にまさることもある  木村良三

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