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川柳的逍遥 人の世の一家言
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萌え系のウツボのぼんのくぼの垢  井上一筒

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      若一神社(にゃくいち)

”歴史の記憶”

清盛の居住地といえば、まず六波羅、次に福原が浮かぶが、

もう一つ京の西八条を見落としてはならない。

清盛は都の南西部に位置するその地にも、邸をかまえ晩年を過している。

「平氏盛衰の流れ」

平氏は、源氏とともに、その武力を院に重用されて朝廷に仕えたが、

「保元・平治の乱」で源氏が衰退すると、

平氏の棟梁・平清盛は急速に勢力をのばし、

朝廷での高位高官を独占し、

1179年、後白河法皇を幽閉して、

クーデターを決行、「平氏政権」を樹立した。

平氏が朝廷内で台頭するきっかけになったのは、

清盛祖父・正盛白河上皇に領地を寄進し、

院の近臣に取り立てられたことにあった。 

青空をぎゅっとつかんで立ち上がる  竹内ゆみこ

 

やがて正盛は、「追捕使」として武名をあげ、

その子・忠盛「海賊の征討」で勇名をはせ、

白河上皇の側近として仕えた。

忠盛はその後、鳥羽上皇に寵愛され、

武士としては、異例の昇殿を認められた。 

象がやってくるうらうら昼下がり  山口ろっぱ

 

父祖の遺産を継いだ清盛、「保元・平治の乱」に勝利して、

後白河法皇のもとで「公卿」に就任、

それからわずか数年で

「従一位太政大臣」にまで駆けのぼった。

それにしても、異常な昇進スピードである。 

水を得た魚がパンを焼いている  神野節子

 

これには理由があった。

実は、清盛忠盛の子ではなく、白河上皇「御落胤」というのだ。

忠盛は、上皇から祇園女御の妹を賜るが、

そのとき彼女は、上皇の子をはらんでおり、

それを知りつつ、忠盛は彼女をもらいうけ、

生まれた子(清盛)をわが子としたという・・・?。 

街に男がいましたとさ おしまい  中野六助

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『清盛御落胤説』

元永元年(1118)、平清盛忠盛の長子として生れたとされる。

はたして、清盛は忠盛の実子なのか・・・?、

一方で白河法皇のご落胤という説がある。  

「祇園女御説」

  

『平家物語』の語り本系の諸本は、

白河天皇の寵姫・祇園女御を清盛の母親とする。 

「女御は三千の鍾愛、一人のみなりけり、ただの人にはおわせざるべし」

 

といわれるほど法皇の愛情を一身に受けていた。『今鏡』 

≪女御は、法皇の乳母二位・藤原親子の娘で、

   夫は、源仲宗の子・惟清と推定されている≫

 

女御は不妊であったらしく、

法皇とのあいだに子を儲けることはなかった。

そのため、待賢門院(崇徳・後白河天皇の母)や仁和寺の僧禅覚

清盛を猶子とした。 

湧き水できれいに洗う両目蓋  井上しのぶ

 

「祇園女御の妹説」

滋賀県好胡宮神社の「仏舎利相承系図」によれば、

女御の妹が、法皇に召されて懐妊し、

忠盛が賜って生れたのが清盛で、

女御が清盛を猶子にしたとする。 

≪またその後、「姉」・「妹」が後筆で作為があることがわかり、

    姉妹であることを簡単に肯定できなくなった≫

おもい思いの想いを混ぜて日が昏れる  黒田忠昭

彼女が母なら、清盛は3歳で母と死別したことになる。

清盛の御落胤説は、

こうした白河法皇との関わりのなかから生れた説で、

清盛が平治の乱から10年にも満たない期間に、

武家として初めて、人臣の最高官位である「従一位太政大臣」

昇りつめたことなど、

その立身出世が背景にあったと考えられる。 

出生地いまだにどこか分からない  新家完司

 

「清盛クーデター」

治承3年(1179)11月14日、

清盛は福原から、数千騎の軍兵を率いて上洛し、

クーデターを励行、平氏政権を樹立する。

関白・藤原基房を罷免、配流に処し、院近臣ら39名を解官、

後白河法皇「鳥羽殿」に幽閉、全権を掌握する。 

汗一つかかず獲物をかっさらう  三村一子

 

翌・治承4年2月、高倉天皇が譲位し、

3歳の安徳天皇が皇位を嗣ぎ、「高倉院政」が始まった。

こうして高倉院政を基軸に、安徳天皇の「外祖父」として

摂政・基道を補佐し、一族を議政官に配置し、

全国の半ば近くの国々を手中に収め、

独裁的な政権を作り上げた。 

≪このクーデターが、清盛悪人説となった理由だろう≫

 

沈黙を破って椅子の叫び声  山本芳男

「何故、清盛はクーデターを起こさなければならなかったのだろう?」

清盛は武門の出身である。

祖父・正盛、父・忠盛は院の北面として、

京都の治安維持に活躍し、

一方、「海賊追討」を通して、西国の在地武士との間に私的な

支配関係・主従関係を作り上げた。

平家は西国武士の棟梁として、

その多くを家人にして、武士団の統合を進めていた。

その西国の地盤を引き継ぎ、

「保元・平治の乱」に勝利したのが清盛であった。 

うしろ髪自分で引けば気持ちいい  湊 圭史

 

武家が公卿に列することさえ異例の時代、

清盛は、従一位太政大臣に叙任され、

娘・徳子が高倉天皇の女御として入内、

ついで、「中宮」となっている。

このような栄達は、貴族たち、とくに院近臣たちの平家に

対する反感を高める結果となった。 

≪これは、武家である平家が、古くからの「貴族政権」のなかに入り込み、

  栄達を求めたことに起因する、歴史的必然であったと考えられる≫

 

謎かけのもぐら競わす西日部屋  阪本きりり

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西大路通りに面して聳え立つ若一神社前の大樹

≪中央の楠の大樹は清盛お手植えと伝えられる神木≫

 

「盛衰」

こうして極官についた清盛は、

平氏一門をどんどん高位高官に取り立てた。

結果、公卿16人、殿上人30余人に達し、

平時忠などは、「平氏でなければ人ではない」 と豪語した。

また、平氏一門の知行国は30ヵ所を超え、

所有する荘園は、500ヵ所以上におよんだと伝えられ、 

日本の半分以上が、平氏の持領となり、盤石な経済的基盤が確立された。 

 

* 知行国=朝廷から与えられた国

 

花園を探しに行った春眼鏡  清水すみれ

くわえて、宋(中国)との貿易を積極的に行い、

莫大な富を手中におさめた。

さらに清盛は、摂関家同様、

娘の徳子高倉天皇に輿入れさせ、

念願の皇子(のちの安徳天皇)が誕生すると、すぐに皇太子とし、

1178年に帝位につけて、外戚として権力をふるった。

同時に、摂関家の反感を買わぬよう、

娘の盛子関白・基実の妻にしている。 

目の前の小鳥を掴む前祝い  筒井祥文

 

ただ、平氏は朝廷での栄進に強く執着したため、

武士としての性質が薄れて貴族化し、

地方武士とのつながりが弱まってしまった。

清盛はこの弱点を補うため、

諸国の荘園・国衙領(公領)の地頭の任免権を獲得、

畿内や西日本の武士たちを地頭に任命して、

組織化をはかったが、

鎌倉幕府のように徹底されなかったために、

「治承・寿永の乱」で源氏に敗れ去り、

わずか数年で、平氏政権は崩壊してしまった。 

くしゃくしゃとぐちゃぐちゃ車庫入れの時間  岩根彰子

 

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戒名へ人のランクがまだつづく  たむらあきこ

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      六波羅蜜寺

六波羅蜜寺は、往時、栄華をなした平家の本拠地にある。

その清盛像といい、戦火をくぐったらしき供養塔といい、

ここには、清盛の確かな存在感がうかがえる。 

「一介の武士にすぎなかった清盛が、何故短期間のうちに、

  あれほど出世できたのか。

  実はこの疑問を軸に据えると。

  清盛にまつわるいろいろな伝承の意味がみえてくる」

 

                           (甲南大学田中教授)

もろともにあわれと思えあんた誰  山田ゆみ葉

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  経を読む入道姿の清盛像

「少年貴族・清盛」

大治四年(1129)三月、京都・岩清水臨時祭の当日。

舞人に選ばれた貴族の少年たちの中で、

ひときは人々の目を引いた公達がいた。

身の回りの世話をする雑色たちの、美しい装束もさることながら、

源有仁(ありひと)という、身分の高い貴族の従者が、

馬を引いていたことも人々を驚かせた。

この貴公子こそ、武士として始めて、

律令制最高の官職である太政大臣にのぼりつめ、

初の武家政権を樹立した「平清盛」その人であった。

2周半して大鹿の角となる  井上一筒

「臨時祭」における清盛の雄姿に、

人々が驚きの目を向けたのも無理はなかった。

何しろ、源有仁は、

政界の最高実力者である白河法皇「猶子」であり、

当時、内大臣という高い官職についていた。

それに対して、清盛は12歳。

この年1月に元服し、

従五位下・左兵衛佐(さひょうえのすけ)に任じられ、

貴族の仲間入りを果たしたばかりであった。 

≪猶子=形式的な養子関係≫

 

小走りが続くよ春の土の上  井上しのぶ

*「源有仁」とは?

元永元年(1118)、白河院の猶子として臣籍に下り、源姓を賜わる。

才も容姿も優れ、若くして詩歌管弦に堪能で、

「光源氏などもかかる人をこそ申さまほしく覚え給ひしか」(今鏡) 

まっすぐで切れ味のいい人だった  河村啓子

 

父・忠盛は白河法皇の近臣で、

法皇から厚い信頼をよせられていたものの、

そのころは内裏への昇殿すら許されていない

一介の地方官に過ぎなかったのである。

清盛の任官も、一般の武士に比べて、格段に優遇されていた。

武士の子供が朝廷の武官に任じられる場合、

普通は三等官である「尉」から始まることが多いが、

清盛は、二等官である「佐」からのスタートであった。 

しがらみを蹴ると小物は生きられぬ  中村牛延

 

しかも近衛佐という官職は、

上流貴族の公達が任じられるものであり、

内裏・清涼殿への昇殿が許される「殿上人」への最短コースだったのだ。

事実、この人事は貴族たちを大いに驚かせ、

ある貴族は「人耳目を驚かす」と日記に記したほどだった。

それにしても、

武士の子に過ぎない清盛が、なぜ、ここまで優遇されたのだろうか。

そこには、清盛が「生まれ育った環境」が大きく影響していた。 

獅子の血の半分はまだ白いまま  小嶋くまひこ
 
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『因みに蛇足』-「清盛スピード出世」

元永元年(1118)、平忠盛の嫡男として清盛生れる。

大治4年(1129)、清盛12歳の正月6日、従五位下叙任。

            正月24日、左兵衛佐に任官。

天承元年(1131)、清盛14歳、従五位上に叙任される。

長承元年(1132)、清盛15歳、”殿上の闇討ち事件”。

保延元年(1135)、清盛18歳、正月5日、正五位下に叙任。

                    八月、従四位下に叙任。

   2年(1136)、清盛19歳、四月、中務大輔に任官。

   3年(1137)、清盛20歳、肥後守に任官。(22歳の時、重盛誕生)

   6年(1140)、清盛23歳、従四位上に叙任。

永暦元年(1160)、清盛43歳、正三位に叙任。

応保元年(1161)、清盛44歳、中納言に昇任。

    2年(1162)、清盛45歳、従二位に叙任。

永万元年(1165)、清盛48歳、大納言に任官。

仁安2年(1167)、清盛50歳、従一位・太政大臣に叙任。 

*太政大臣=令官制の中で最高の役職。定員1名。

 

   名誉職として職掌自体はとくにはないが、最も重く扱われる。

ひらめきを武器に階段駆け登る  根岸方子

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                              平成二十四年一月一日


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        新年を迎えると私たちは、寺院で除夜の鐘に耳をすまし、

    初日の出を拝み、神社で拍手を打つ。

        思えば、仏教,神道、自然崇拝と日本人は、

        なんと信仰心の厚い、大らかな民族なんだろう。

神様は入口に 仏様は出口に

        昨日が今日になっただけの年の明け。

        何なのだろう、それでも元日が来ると新鮮な気持ちになる。

    一瞬に暮れを慶賀にする神の力なのだろうか。

神様のアドリブ風を裏返す  

    毎年毎年、性懲りもなく立てる一年の計。

      たぶん今年も新たな決意は、”三日坊主”の刑に処せられるだろう。

四日目の日記に書いた四字熟語

        デンマークではこの秋、”脂肪税”が施行された。

       ゼイゼイの呼吸を連れてくる脂肪。

        朝昼晩飲んで怒られないのが正月ですが、くれぐれもご注意を。

ついついを食べてメタボの春が来る

     「いい正月でしたか?」

   なんて、意味のわからない挨拶が行き交う正月の街角。

   あちらこちらに落ちている穿ちの材料。

   このブログに載せるたくさんの川柳を、今年も期待しております。

家政婦は見た どじょうの書初め

                           ロンパリ考える椅子 茶助

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気の重い話真二つにしよう   杉本克子

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【おさかなすきやね】

正月が来て一番心配なのが、知らぬ間に体重が増えていること。

太ることは簡単で、3キロから4キロなど”あっ”と言う間。

そこで、食べても太らないような食べ方を、おしえてもらった。 

「食べながらダイエット」

太るのは血糖値の急上昇が原因とか。 

野菜などの(食物繊維)→ 味噌汁など(汁物) →

肉・魚など(タンパク質)→
米・パンなど(炭水化物)
 
の順番で、
食べることを心掛けよという助言。 

あたたかい助言に出直しを決める  泉水冴子

 

炭水化物や甘いものを最初に食べると、

血糖値が急激に上がって、インシュリン分泌量が増加し、

食べた栄養分が脂肪として、

蓄積され、「太りやすくなる」 のだ

食物繊維は、キャベツなど大盛野菜を食べ、

炭水化物や糖分の摂取量を、少なくするのがコツ。 

三面鏡なにもおびえることはない  牧浦完次

 

食品では血液改善に効果があるといわれる、  

「お茶・魚・海草・納豆・酢・キノコ・野菜・ネギ」

  

を積極的にとるようにする。

そして、食品名の頭文字をとって、

「おさかなすきやね」 と覚えておく。

縦縞の余白ばかりが裏返る  酒井かがり

後は1日、一万歩と2・5㍑の水分補給を心がける・・・

ここのところが難しい!

少しづつ始め、ストレスにならない程度に、

徐々に増やしていけばよい。

『継続は力』 なり。

四十代きれいに脱皮してみせる  山口美千代

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なかんずくスプーン一杯の肝っ玉  山口ろっぱ

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         「埋へ工夫」

『 口は禍いの門。旅順口という口は禍いの門口だ。

   この口さえ、こっぴどいめに締め付けてしまえば

   すっきり息の根を止める艦(勘)定だから、

   港口を塞いで、やつらの鼻毛を抜いてやろうじゃないか。

   おっと渡りに船、ここに適当な船がある。

   戦(善)は急げど、ヅドンヅドン、

   轟沈轟沈(ゴウチンゴウチン)

   と打ち込んだからたまらない。

   とても世間に面出しができなくなった。

   するとこれを見ていた露艦が「ああ口惜しい」 』

退屈をさせないように雨が降る  下谷憲子

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   「強兵の戦任力」 

『 ロシアの侵攻におびえる中国人と朝鮮人。

二人に対して日本兵士は、

「何をいってるんだ、

  ロシアの弱武士が二千や三千いたからって、

  ちびりちびりのなし崩しじゃあ、手数ばかりかかって、

  かえって面倒くさいから、

  なるたけ沢山寄り集まっているところを、

 

  いっしょくたに ズドンとやっつけるつもり・・・」

  と、ロシア兵が集まっている九連城と鳳凰城を、

  多年鍛え上げた銃剣で一度に吊るし上げた。

吸って吸って吐いた圧搾の流儀  酒井かがり

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   「手酷い潰し形」

『 ロシアは国が広いの、人間が大きいのといいしも、

   いざ腕比べとなってみると、

   日本は世界のうちでも屈指の強国。

   これをたとえてみれば、大きな手を広げて、

   上のほうから一掴みに握り潰すようなものだ。

   まず鴨緑江のほうから、九連城、鳳凰城、

   あるいは、遼東半島のほうで金州、南山、南関嶺。

   しかし、この勢いで一掴みしたら、

   ロシアの不恰好さはどんなになるだろう。

   そりゃしれたこと。

   残らずいびつな形になるのさ。

手の蛍握りつぶせば死ぬけれど   時実新子

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