忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[202] [203] [204] [205] [206] [207] [208] [209] [210] [211] [212]

世の中の仕組みをみたり髑髏  前中知栄


46b3bfae.jpeg    4abebc31.jpeg

秀次はこよなく書物を愛した。 日本紀と河内本・源氏物語

「武功夜話」

武功夜話とは、蜂須賀小六などと一緒に、

早くから秀吉に仕え、

秀次のお目付け役だった前野長康の一族が、

子孫から子孫へ、語り継いできたものが、史書として、

土蔵から伊勢湾台風の風が、めくったものである。

そしてここに書かれている、「秀次事件」の経緯は、

秀次に近い立場の人たちの、子孫から出てきたものでありながら、

秀次に厳しいものになっている。

かみ合わぬ話がレール走り出す  中川隆充

それによると、前野長康は、

「秀吉の実子で、織田家の血をも引く若君(拾君)に、

 天下が返るのは、仕方がないのでありますまいか」

と秀次に進言した。

ところが、長康の子・景定など若い側近たちが、

秀次を守ろうとして、妥協を阻止し、

また、軍事教練まがいのことをしたとある。

男の椅子の座り心地は聞かぬもの  森中惠美子

断罪の直接の引き金は、

朝鮮遠征費用の捻出に困った毛利輝元が、

秀次に借金の申し出をしたところ、

「忠誠を求める書き付け」

を要求されたことが不安になって、太閤殿下に提出したことにある。

現に、太閤の年齢を考えれば、

秀次に近づいておく方が、将来、有利だと考える大名たちは、

(伊達政宗、最上義光、浅野幸長、細川
忠興ら)

秀次に取り入ったりもしていた。

呑むために生きると決めて恙無い  山本芳男

石田三成前野長康

「豊臣政権安泰のためには、

 なんとか殿下と関白には、仲良くあって欲しいのだが、

 どちらの側にも、へつらうものがいる。

 殿下は弱きになって、

 徳川家康前田利家の屋敷に、足繁く通うなどしているが、

 両者はいずれも野心家で、朝鮮遠征でも渡海を免れた。

 一方、西国の大名たちに恩賞を与えるために、

 全国で検地を行って、財源を探しているのだが、簡単でない」

という趣旨のことを武功夜話言っている。 

味方だと言うが斜めに構えてる  籠島恵子   

b635af39.jpeg

       水争い裁きの像

≪天正14年(1586)、農業用水・生活用水を日野川の恵みに依存していた

    日野川下流側の郷と上流側郷の両村で、渇水による「水争い」が起こった。

    その事態を憂慮した秀次が、家老の田中吉政を伴って自ら現地を視察し、

    双方の言い分に耳を傾け、お互いが納得できる裁定を下したという。

同年7月24日のことである≫

ともかく、秀次に近い者たちからすると、

秀次さえあわてて

「将来はお捨君に譲る」

などと約束せずに、時間を稼げば、

いずれは、太閤の寿命も尽きるという思案があった。

未来図は黒一色で事足りる  井丸昌紀 

hide-2.jpg    


羽柴秀次の像(八幡公園)

≪商都・近江八幡の礎を築いた秀次は、地元で名君として慕われる≫

茶々やお捨君に近い立場からすると、だからこそ、

「秀次を早々に、処分して欲しい」

ということになる。

もしも、秀次の弟であり、お江の夫である秀勝が生きていたら、

茶々たちの立場も、少し違ったのかも知れないが、

今となっては、秀次と茶々たちを繋ぐ絆は、細くなっていた。

絶滅を危惧するあまりビニールの傘  酒井かがり

お捨君がまだ幼少なので、将来を危惧した太閤は、

同年代の徳川家康前田利家の二方を、

信頼して力を持たせ、

しかも、いずれか突出しないようにと考えた。

利家はもともと、織田家のなかでの序列はあまり

高くなかったが、

柴田、丹羽、明智、滝川、佐々、堀秀政らが亡くなったために、

織田家の家臣の中で、最長老になっていた。

茶々や江ら織田家に連なる者は、

信雄も失脚してしまった以上、

利家がもっとも、頼るべき存在だった。

カジキマグロの嘴は仕込み杖  井上一筒

4404be97.jpeg

人柄が見える日野川桐原新橋の秀勝像


こうして、太閤による関白の包囲網は狭まっていく。

それでも、太閤が聚楽第を訪ねたり、

秀次が伏見で能を上演して、太閤を招待したりしたしているのだ。

いくらでも修復のチャンスはあったが。

秀次に欲が出てしまった、のか、

秀吉の心配を払いのけるような、思い切った行動がとれなかった。

その間にも、太閤のもとには、

秀次周辺の不穏な動きが報告される。

胸の底図太い鬼に居座られ  牧浦完次       

茶々やその周辺の者が、

「お捨君の将来への不安を取り除いてください」

と太閤に迫った。

これに対し秀吉は、家康と利家に、秀次のことを密かに言う。

「太閤殿下の好きにされれば、

  あとは、我々がお捨君をお守り致します」

と2人は答えている。

そして家康が、江戸に帰国するとき、

京都に残る秀忠に、

「秀吉と秀次の争いになったら、秀吉につくように」

とも言い残している。

悲劇だな影まで人間だったとは  谷垣郁郎 

もともと、身分の低い階層の出である秀吉は、

上流の権力者とは違って、家族に対しての愛着は、

現代の人間と似たものを持っている。

また秀吉一族の人たちの心にも、

権力者になった太閤に対して

「まさか、自分に悪いようにはしないだろう」

という甘えがあった。

当然、秀次にもそうした気持ちが多分にはたらいたのだろう。

頷いただけでひまわり枯れてゆく  森田律子

e57c263d.jpeg 

       八幡堀

≪八幡城主・羽柴秀次(豊臣秀次)が、城を防衛するために築いた≫

しかし、それぞれの家来たちは違う。

自分たちの浮沈は、

それぞれが仕えている主の運命にかかっている。

主人がいったん失脚すれば、身内でもないだけに、

命も危ないということになるのだ。

しかも、むかしからの武将たちには、

若いころから豊臣家興隆のために、頑張ってきた恩情もあるが、

第二世代には、若者らしいドライさに加えて、

親密だったころの思い出がないから、

どうしても、極端に走ることになる。

体内を夜明けの貨車が過ぎていく  嶋澤喜八郎

いよいよ7月3日、

石田三成増田長盛が、秀次に行状を詰問した。

それを受けて、秀次は朝廷に銀五千疋を献上して、

救援を求めたが、

これは、悪あがきであった。

「関白を辞める」

とでも太閤に申し出ればよかったのだろうが、

秀次の若い側近達は、それを許さなかった。

まだまだの端がほつれてきた誤算  山本早苗

91fc7c45.jpeg

   秀次一族の墓

こうして関白が、無為に時間を過ごすうちに、

太閤は一計を案じた。

いまでいう女性秘書として重宝していた孝蔵主を、

聚楽第へ派遣して、言葉巧みに、

「単身で伏見に来れば、太閤殿下も納得する」

といって、関白を連れ出した。

そして、このまま高野山から切腹へとつながっていく。

住みにくくなった話も聞くあの世   中村幸彦            

拍手[5回]

PR

通過するカメレオンなら雨上がり  蟹口和枝


hidetugu.jpg

    豊臣秀次像

≪画面下部に描かれているのは、時計回りで、

秀次のもとに殉死した玄隆西堂、山本主殿(19歳)、雀部淡路守、

山田三十郎(19歳)、不破万作(17歳)である≫

「秀次の悲劇」

文禄元年(1592)3月26日、

秀吉はかねてより、計画していた大陸侵攻のため、

肥前名護屋城に入るが、

同行した淀殿が、第二子を懐胎する。

大坂城に戻った淀殿は、

文禄2年8月3日、再び男児を出産した。

狂喜した秀吉は、今度の子には、鶴松の幼名「捨」とは反対の

「拾(ひろい)」と名づけた。

翌年、秀吉は、伏見城築城工事現場から、

「おひろいさま」宛てに自筆で手紙を送っている。

水で酔えるのも血液型のせい  井上一筒

「先日は工事現場まで見送ってくれてありがとう。

 でも、あの時は、まわりにたくさんの人がいたので、

 あなたの口を思いっきり吸うことが出来ず、

  たいへん残念でした。

 未だにそのことが、心残りでなりません。

  まもなくそちらへ行って、今度は誰に気兼ねすることもなく、

  そなたの口を吸います。

  油断してお母さん(淀殿)に口を吸われないよう、

  くれぐれも気をつけてください」

と述べている。

秀吉の溺愛ぶりがよく分かる。

梅雨空を剥がすと好きが溢れ出す  和田洋子

17c56825.jpeg

淀殿が第二子・拾(秀頼)を産んだことで、

関白太閤の関係は、きわめて微妙なものとなった。

文禄2年(1593)9月20日、

秀吉は新たに築いた伏見城へ移り、

10月1日、拾と秀次の娘との婚約を、秀次側に申し入れた。

翌年の正月には、諸大名を動員し、

伏見城の外郭内に、

それぞれ屋敷を営むように命じた。

企みを図りかねてる風の向き  太田芙美代

秀吉の拾への溺愛により、

豊臣家中の空気は、少しづつ変わっていく。

秀次も、不穏な空気を察知したのか、江に、

「関白を返上した方がいいのではないか」

と聞いてくる。

それに対して、江は、

「気にしなくてもいいのではないか」

と答えた。

それが、悲劇の始まりだった。

開幕ベルだったのか河馬のしゃっくり  森田律子

d2c23b7f.jpeg

ところで、秀吉が、指月山伏見城の工事を始めたのは、

経済開発としての意味もあったが、同時に

「京都を関白・秀次の勝手にはさせない」

という意思表示でもあった。

自らの本拠地であり、

拾と茶々も、この伏見城に呼び寄せた。

政や軍事に関する求心力は、

秀次から離れ、
秀吉と拾の身辺へと移動していく。

絵の具からサッカーボールへ乗り替える  岩根彰子

そして、秀吉は、秀次との折り合いを何とかつけようと、

努力をする一方で、

秀次との対決に備える根回しに、

京都で有名大名の邸宅を、盛んに訪問し加えて、

また、御所で能を上演するなど、朝廷との交流も積極的に行い、

また諸大名に、伏見に屋敷を建てさせたりした。

そのころから、秀次の生活は乱れ始めた。

政は放ったらかしで、狩りに熱中し、

酒びたりになった。

引き出しの中からそっと波の音  高橋謡子

hide-jijin.jpg

    秀次自刃の間

≪高野山金剛峯寺にある柳の間≫

そんなとき、秀次に謀叛の疑いが起こった。

三成は、「謀叛の企てなどはない」 

という誓紙を書かせたが、

それですべてが、終わったわけではなかった。

点す部屋消す部屋風の階のぼる  田中博造

当時の状況を、ルイス・フロイスは、

「関白は、優れた才能を有し、気前のよい人で多くの資質を備え、

 機敏・怜悧、かつ稀にみる賢明さの持ち主であり、

 特に親切であった」 

と絶賛する一方、

「拾の誕生で、秀吉との関係は『破壊』された。

  なお秀吉は、(秀次に対して)関白の座を拾に譲るよう,

 画策し始め、城内においてだけでなく、城外においても、

  『今に関白殿が太閤様に殺される』

  という噂は、日一日と弘まるばかりであった」

と、伝えている。

カラオケとカンオケの因数分解  黒田忠昭


hide-haka.jpg

        秀次の墓(瑞泉寺)

≪秀次の首は、30余人の妻子ととも、にここに葬られ、

    かっては、「秀勝悪逆塚」が建っていたというが、

    今は瑞泉寺が手厚く弔っている≫

フロイスの言う、その噂は、まさに現実のものとなる。

江は後悔したが、時すでに遅かった。

秀次は、秀吉に直接の弁解も出来ないまま、

文禄4年7月8日、秀次は「高野山に追放」された。

その後、秀吉は前田玄以をして、

朝廷に、「関白の追放」を奏上し、

15日には、福島正則を高野山に派遣して、

「切腹」を命じた。

その一か月後の、8月2日には、

彼の妻・妾・子女30余名が、
京都・三条河原で虐殺され、

聚楽第も破却の憂き目を見た。

≪余談ー秀頼を産んだことで間接的に、秀次を自刃させた淀殿は、

  夢枕に秀次が立つのを見たという≫

こうして、豊臣政権は、

伏見城の秀吉のもとに、一元化された。

昼の月ぬるい男を消去する  たむらあきこ

bd25aba6.jpeg

大河ドラマ・第28回-「秀忠に嫁げ」  あらすじ

秀吉(岸谷五朗)は、京の南・伏見に築いた新たな城に移った。

「その城は権力の中心は自分である」

と改めて示すかのような、立派なものだった。

そうなると、穏やかにおられないのが、

秀吉から関白の血を継いだ、秀次(北村有起哉)だ。

聡明な彼は、拾が生まれた今、

自分は邪魔者であると理解している。

自らの立場の危うさに不安を募らせ、

関白の仕事にも身が入らない。

風が止む木の葉一まい置いてある  佐藤美はる

aeff0626.jpeg

秀吉の拾への溺愛ぶりを、知っている江(上野樹里)も、

秀次の身の上を、案じていた。

なんといっても秀次は、亡き秀勝に、

「好きになってほしい」 と頼まれた義兄なのだ。

江は、家康(北大路欣也)から、

「関白としてほころびを見せないことが大事」

と助言をもらったこともあり、

秀次の乱れた暮らしぶりを、改めさせようとする。

だが事態は、彼女が考えているよりはるかに、

深刻だった。

いかなごとクロスワードを埋めている  赤松ますみ

f64eddcf.jpeg

秀吉から、「秀次を排除したい」という思いを、

それとなく伝えられた三成(萩原聖人)が、

すでに、秀次を失脚させるべく動いていたのだ。

数ヶ月後、秀次は謀叛を企てたとされ、

突然三成らに拘束される。

江は、罪をでっち上げて、秀次を追い込む三成をなじり、

「すぐに秀吉と話をさせてほしい」

と申し入れるが、三成は承知しない。

芯が腐っている住民票は枯れていく  壷内半酔

go-27.jpg

逆に、「秀次が切腹の処分を受け入れたことこそ、

     企てが存在していた証拠だ」

と開き直り、

「彼に会うことも、まかりならん」 

と取り付く島もなかった。

切腹と聞き、とにかく秀次に会おうと決意した江は、

素早く三成の脇差を抜き、

自らの喉に突きつけていい放つ。

「死ぬなど怖くはない。秀次様に会わせよ」

その断固とした態度に、三成はたじろぐ・・・。

ご機嫌は斜め蛇口が閉まらない  谷垣郁郎

f8d37df1.jpeg

一方、家康は、拾の誕生によって、

豊臣政権がどう変わるのか見極めるため、

秀忠(向井理)を従えて京に来ていた。

そしてすぐに、秀次失脚は遠くないと悟る。

家康は、江のもとに立ち寄った際、

秀次の今後について意見を求められ、

「真面目に政務に励むことこそ肝要」

と答えたものの、

そのぐらいで、情勢は変わらないとわかっていた。

消しゴムという味方ならいてくれる  杉本克子

15ccf875.jpeg

江の前から離れると、

秀忠は、彼女に気休めを言った家康を非難する。

だが、家康はそれには答えずに、

「ワシは江戸に帰るので、お前は残って様子を知らせよ」

と命ずる。

そして、秀吉と秀次の間に、

「事が起きたときは、迷わず秀吉に味方するよう」

申しつけるのだ。

猜疑心ばかり生まれる言葉尻  籠島恵子

拍手[5回]

ふうぅっと倒立前転 夏木立  河村啓子


94b29004.jpeg

『このたび造る伏見の屋敷は、利休ならどのようにするか よく考えて普請せよ』

「指月伏見城」

文禄3年(1594)、

伏見に太閤秀吉が築いた城ができあがる。

伏見城である。

伏見の町は、

京都から、奈良に向かって下っていく街道が、

宇治川を渡るところにある。

西へ西へ行くと浄土があるそうな  森中惠美子

214cc809.jpeg

            指月伏見城

いまは宇治川の南の広い平野には、

田畑や住宅があるが、

昭和の初めまでは、”巨椋池”という大きな沼で、

いま観月橋がある側の、指月山という丘は、

”月見の名所”として知られている。

嗅ぐだけにする50年目の梅酒  井上一筒

中世までは、琵琶湖から流れ出していた瀬田川は、

山城に入って宇治川と名を変え、

巨椋池にいったん流れ込み、

そこからまた、流れ出て、木津川や桂川と合流して、

淀川となり、大阪湾に繋がっている。

その合流点の少し下流にあるのが山崎で、

瀬戸内海から航行してきた船も、

ここまで遡ってくることが出来る。

≪ちなみに、紀貫之が土佐から帰京するときに、上陸した場所である≫

半径をのばして夢とすれちがう  たむらあきこ

74788c46.jpeg

 洛中洛外図屏風[一部]

≪伏見城はもともと秀吉が隠居所として建造した館。

  地震や戦災による度重なる再建で、

  豊臣期の伏見城が描かれた資料は皆無に近い≫

指月山はもともと、

宇治の平等院を建立した藤原頼道の所有であったが、

中世には、持明院の持ち物になり、

やがて、伏見宮家の邸宅になった経緯がある。

秀吉は、聚楽第を秀次に譲ったあと、

伏見宮邸を京都御所の北に移して、

この地を買い取り、京都に近い邸宅とした。

風流な別荘であったが、

文禄3年、佐久間政家に命じて、

本格的な城を築き始めたのである。

輪を書いて僕の陣地は踏ませない  奥山晴生

45bb69ed.jpeg

伏見城本丸跡地に造営された明治天皇の「伏見桃山稜」

同時に、大土木工事を起こし、

宇治川と巨椋池の間に、堤を築いて分離し、

大きな船が伏見まで、遡れるようにした。

また、淀川左岸の堤を強化して、

伏見と大坂のバイパスのようにして、

伏見は、「京都港」というべき機能を持つようになったのである。

≪幕末の坂本竜馬で知られる船宿・「寺田屋」はここにある≫

炎天を青いジョッキで退治する  谷垣郁郎

拍手[3回]

やがてポップコーンは途方に暮れる  酒井かがり

0c460726.jpeg

    羽柴秀勝の墓

「文禄三姉妹年表2年」

文禄元年(1592)

お江 羽柴秀勝に嫁ぐ(二月)。
文禄の役ー秀吉 茶々・肥前・名護屋城へ出陣。
秀勝ー出陣(三月)。
秀吉の母・大政所没(七月)。
秀勝朝鮮の巨済島で病死(九月)。
お江 完子出産。

文禄2年(1593)

茶々 大坂城・二の丸で秀吉の第二子(お拾)を出産(八月)。
浅井長政・21回忌供養を営む(九月)。
この冬、茶々 疱瘡を患う。
初の夫・京極高次 庶長子・忠高誕生。

おたおたと追うニュースの影法師  阪本きりり

「茶々懐妊」

文禄2年(1593)、朝鮮遠征は、

最初のうちは、漢城(ソウル)を電撃的に占領するなど、

戦国で鍛えられた日本軍は、向かうところ敵なしの勢いで、

太閤秀吉茶々を伴って、

名護屋城に入り、

6月には、自ら渡海する準備をしていた。

心中の虫は寝る暇ないらしい  オカダキキ

そんな折、

京都・聚楽第から大政所(秀吉の母)が危篤との報せが入る。

秀吉は、急ぎ京都に戻ったが、

残念ながら、死に目にあえなかった。

この出来事で、秀吉の渡海も先延ばしになった。

≪この戦いで、お江の夫・秀勝は、巨済島で戦病死をしてしまう≫

かげろうが残ったシャボン玉消えて  籠島恵子

「大政所の供養がすんだら、今度こそ渡海する」

と、秀吉はいい続けていた。

ところが、年が明けると、

なんと、茶々がまたもや、

肥前の名護屋で、懐妊していることがわかった。

乳牛の道は牛乳だすことだ  井上一筒

喜んだ秀吉は、茶々を大坂へ返す。

そして8月3日、男子が誕生。

お拾君(秀頼)と名付けた。

秀吉はさっそく大坂に戻り、関白・秀次に、

「お拾に日本の五分の一くらいはやって欲しい」

と望んだ。

天下は、大事な姉の子である秀次にやったのだから

「返せ!」 とは言えない、これは、

「関白秀次としては、拾の将来についてどう考えてくれるのか?」

という問いかけであった。

口笛でオートロックを開けている  杉本克子

01aa3b40.jpeg

       秀次

ところが、関白・秀次の反応はにぶいかった。

このとき、関白は、秀吉に嫡子が出来たのだから

「お拾君を養子にして、成人の折は関白を譲る」

くらいのことは言うべきだった。

まして、お拾君は、織田家の血も引いているのだ。

「のちのち、拾君が関白を継ぐ」 と思う人も多かった。

借景が牙剥く鳶から啓示  岩根彰子

それなのに秀次は、この年の暮れに太閤が、

「将来、拾君と関白の姫を娶そう」

という提案をしても、すぐには承諾しなかった。

これでは、太閤も安心ができない。

それ以上に、茶々は、疑心暗鬼であった。

太閤に、もしものことがあれば、

拾君は関白秀次にとっては、邪魔者になる。

母子ともに、命の危険すら感じなければならない、

事態になるからだ。

両手で触るもうすぐこれがデスマスク  田中博造

takatugu.jpg

       高次

余談ー「初の子ども」

この年の9月、

の夫・高次が、名護屋に連れて行ったが懐妊し、

聚楽第に近い安久院(大宮)の京極屋敷で、

男児を産んだ。

結婚5年以上も、子どもができなかった初にとって、

悔しい思いもあるが、仕方なかった。

かごめかごめ今日はどうやら蚊帳の外  北原照子

夫の裏切りに対し、邪推した「徳川実紀」は、

「初がこの子を殺そうとした」 と書いている。

それは家臣・磯野信隆が、八瀬・沖ノ島・菅浦など、

京近江各地を転々としながら、

子どもを匿ったことから起因している。

しかし、この子は3歳のとき、京極家で引き取られ、

初は大事に育てた。

この子が熊麿、のちの忠高である。

≪磯野信隆は忠高の代になってから京極家に帰参している≫

渦ふたつ擦れ合いながら生きている  たむらあきこ

go-27-16.jpg

大河ドラマ・お江-第27回・「秀勝の遺言」 あらすじ

秀勝(AKIRA)の死を知らされてから数ヶ月後、

江(上野樹里)は、無事に元気な女の子を出産した。

しかし、夫を失った悲しみが大きすぎ、

彼女は完と名付けた娘の誕生を、手放しで喜べない。

とにかく、事あるごとに秀勝を思い出し、

泣いてばかりいる日々。

夫とともに抱きたかったという思いに縛られ、

いとしいはずの我が子を、

抱くことすら出来ないありさまだった。

零れ落ちてしまいそうこの世から  平尾正人

go-27-21.jpg

心配した初(水川あさみ)は、江のもとを訪れ、

何かと励まそうとするが、

いっこうに、江の気持ちは晴れない。

「秀勝様のおそばに参りとうございます」

そんなことを言って、いっそう初を不安にさせるのだ。

点滴の時間マクベス不眠症  墨作二郎

go-27-5.jpg

そんな時、秀吉とともに、

九州に滞在していた淀(宮沢りえ)が、大坂城に戻ってきた。

それを知った初は、江を連れて大坂城へ。

かくして江と再会した淀は、憔悴した妹に、

「無理にでも希望を持て」

と助言する。

自分が鶴松を失ったとき、希望を持つことで、

立ち直った経験があるからだ。

忘却が私の今の救世主   井丸昌紀 

go-27-18.jpg

江は、「今はとても希望など持てない」 と思う。

だがその一方で、淀こそ、

「自分の心の内をいちばん分かってくれている」

とも感じるのだ。

もちろん江の不幸に胸を痛めているのは、

初や淀だけでなく、

龍子(鈴木砂羽)ガラシャ(ミムラ)も、

それぞれの言葉で、彼女を慰める。

元気出しなさい再生紙のように  壷内半酔

go-27-4.jpg

江が夫を失ったと知り、慰めの言葉をかけにきたガラシャは、

「本能寺の変」後に、自身が辿った苦難の道について、

初めて詳しく語る。

謀反人の娘として、

山深い地に幽閉されていた折の苦しみ、

許されて、細川家に戻ったあとも続く孤独・・・等々。

おかげで、江の心は少しずつ解れていくが、

やはり悲しみは、去ることはなかった。

喪服着て少し不幸な顔をする  山本昌乃

go-27-22.jpg

そんなある日、遠く朝鮮から、秀勝の遺髪と形見の小刀、

そして、江に宛てた手紙が届く。

遺髪と刀をしっかり抱きしめ、涙を流す江。

続いて彼女が手に取った文には、

自らの死を覚悟した秀勝の、

江に対する赤裸々な思いが、綴られていた。

人はみな一管の笛にすぎない  居谷真理子

拍手[7回]

海が泡だつ人間はいくさ好き  森中惠美子

to-saizu.jpg

 東菜府殉節図

小西行長の軍に取り囲まれる東菜城。

東菜城は、その進路上にあったため、釜山城に次いで攻撃を受けることになった≫

「朝鮮出兵」

朝鮮出兵の緒戦において、渡海した兵力は15万8千余人だった。

軍は9陣に編成され、

秀勝は殿(しんがり)の9陣を、細川忠興軍3千5百とともに任され、

まず壱岐に在陣した。

先鋒の小西行長加藤清正は、釜山に上陸すると、

朝鮮側の攻撃をほとんど受けず、

競うように漢城(ソウル)をめざし、わずか20日で無血入城する。

破竹の日本軍は、北上し6月15日、

平壌(ピョンアン)をも制圧した。

テロリスト回転ドアをすり抜ける  岡谷 樹

sunsinn3.jpg

 イ・スンシン

 しかし、朝鮮側も義兵が蹶起し、ゲリラ戦で日本軍を攪乱し、

 海には名将・李舜臣(イ・スンシン)が現れ、

 釜山の西南西にある巨済島(コジェド)の周辺海域で、

 藤堂高虎、脇坂安治が率いる水軍を、次々に破り、

 日本の制海権が危うくなる事態となった。

山頂を極め遭難したらしい  小山紀乃

ac7a4827.png

       巨済島

文禄2年(1593)、釜山海を進む日本水軍。

秀吉は日本水軍の非力を悟ると、”巨済島”に城を築いて、

陸伝いに、朝鮮水軍を討つことを決めた。

当時、日本の将兵は異国の水が合わず、

また気候にも、なじめなかった。

夏まではよかったが、

秋になると、寒さが将兵を苦しめる。

薄皮を剥いで尻尾を切り忘れ  谷垣郁郎       

羽柴秀勝も病んで、陣中に臥す。

病状は重く、戦地だけに大した治療もできぬまま、

病状は悪化、ついに9月9日、24歳の若さで没した。

戦場での不名誉な病死、

しかも、お江から「稚児(やや)ができた」との、

うれしい知らせが届いていただけに、

秀勝の無念は、やるかたなかった。

この世にはこの世の掟切符買う  小川一子

kannbei.jpg

       官兵衛

この時、ちょうど黒田如水(官兵衛)が釜山に来ていた。

秀勝の死の後始末を如水がし、

秀勝の兵は、周辺諸城の諸大名に分散して、

再配属された。

そして、秀勝の遺体は海を渡り、京都に戻った。

糸切り歯つらい話しを聞きすぎた  本多洋子

hidekatu-4.jpg

        秀勝         

秀勝の遺体の帰還と、

お江が娘・完子(さだこ)を産んだのはどちらが先か、

それを知る史料はない。

しかし涙の中で、

お江は完子を、秀勝の生まれ変わりだと信じた。

≪お江は姑・ともと京都亀山の地に葬る。

   ともは、そこに善正寺を建立したが、

   後に彼女自身が、京都市街の岡崎に移した。

  いま善正寺に秀勝の墓は現存する≫

貼り付けたままの笑顔が続く夜  平尾正人

お江は聚楽第の秀勝屋敷を去って、大坂城に戻った。

そして名護屋での姉・淀殿の妊娠を知る。

大坂城に戻って姉は、秀頼を産んだ。

お江は秀勝に死なれ、徳川秀忠に嫁ぐ間の3年間、

大坂城で過ごした。

お江は、わが娘をあやし、

ひとつ違いで生まれた秀頼と、遊ばせるなどしながら、

子育ての喜びを姉・淀殿と、大坂城で共有したのである。

青い鳥のあくびにつきあっている  桂晶月

拍手[4回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開