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川柳的逍遥 人の世の一家言
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あしたが見たくて地球儀を回す  森中惠美子

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坂本龍馬の柩が登った坂

「龍馬から坂の上の雲へ」

歴史上の人物で、「誰が好きか?」と聞くと、必ず上位にいる坂本龍馬

しかし龍馬は、明治という新時代を迎えたときは、それほど有名人でもなかった。

明治37(1904)年2月8日、「日露開戦前夜」のこと、

葉山の御用邸に昭憲皇后が滞在していた時に、

37歳ほどの武士が、白衣で皇后の夢枕に立ち、

「日本を勝たせて差し上げます」

と日本対ロシアの戦いの際の海軍勝利を誓ったという。

その話を聞いた、宮内庁長官だった伯爵・田中光顕が龍馬の写真を見せて

「この人でしょう?」

と問うと、皇后は、「間違いなくこの人物だ」と語った。

枕元に立って私を呼びにくる  谷垣郁郎

真偽のほどは判らないが、この話が全国紙に掲載されたため、

”坂本龍馬の評判”が全国に広まる事となった。

≪日本海海戦で大勝したことで、

皇后の御意思により京都霊山護国神社に、『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』が建立された≫

ということは龍馬は、

それとなく、「坂の上の雲」にも登場していることになる。

困らせてみてよたまには好きですと  森田律子

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桂浜を望む龍馬像

高知県の桂浜には、龍馬の巨大な銅像が建てられ、

いまや県を代表する観光名所になっている。

その銅像が建てられ、お披露目されたのは、昭和3年5月27日のことである。

5月27日は、当時、「海軍記念日」だった。

明治38年(1905)のこの日、

東郷平八郎率いる「日本連合艦隊」が、

対馬沖でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、

日露戦争における日本の勝利が決定的となった。

「龍馬像の除幕式」は、この記念日に合わせて行なわれたのである。

引き際のよさで喝采受けている  八木 勲

すでにその頃、龍馬と海援隊の”幕末の活動”が再評価され、

人々にもかなり、知られるようになっていた。

龍馬の海援隊は、「日本の海軍の先駆者」としてあつかわれ、

海軍からは、駆逐艦・「浜風」が祝賀のため、来航した。

島国に今一斉のオーケストラ  徳山泰子

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四国は伊予松山に三人の男がいたー(ドラマ・スチール写真)

「坂の上の雲」-スタート

「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている」

あまりにも有名な『坂の上の雲』の書き出し、この長大な物語は松山から始まる。

作者である司馬遼太郎氏は、

主人公に松山出身の正岡子規、秋山好古、秋山真之の三人を選んだ。

子規は、俳句・短歌の革新者として文学史に不滅の名を残し、

好古は、日本の騎兵を育成し、日露戦争で史上最強のコサック騎兵を破り、

真之は、連合艦隊の参謀として、日本海海戦の作戦をたて、

バルチック艦隊に完勝した。

血の努力は伏せラッキーと言う謙虚  大堀正明

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秋山兄弟生誕地

≪空襲で焼失した生家を忠実に復元している≫

この三人が、松山市内の、歩いてもほど近いところに生まれ育ち、

子規と真之は、無二の親友であるというのは、明治日本の面白さだろう。

司馬遼太郎氏が書くように、

秋山兄弟がいなかったら、日露戦争はどうなっていたかわからない。

しかし、もともと好古は、学費の要らない師範学校から教師になり、

真之は、子規とともに文学を志し、東大に進学する予定だった。

違う時代に生れていたら、三人ともまったく異なる人生を送ったことだろう。

 ただの山やろか応神さんの陵  井上一筒

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    巨人と小人

明治は、国の運命と個人の運命が、分かちがたく結びついた時代だった。

国家予算、常備兵力が、十倍近い超大国ロシアを相手に、

日本は外交、経済、軍事すべて、すれすれの際どい交渉や、戦いを積み重ねて、

「ひやりとするほどの奇跡」を成し遂げた。

時代が彼らを、「日露戦争」という祖国防衛のための、

”奇跡の演出者”として招きよせたのかも知れない。

幕末には、坂本龍馬を求めたように、

いつの時代も、「必要な時に必要な人材が登場してくる」ようになっているようだ。

最高の神のジョークで生きている  鶴田遠野

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 昭憲皇后

『余談』

皇后の夢の話が載った新聞は、明治37年4月13日付の「時事新報」である。

タイトルは「葉山の御夢」。

龍馬のことでなくても、興味を引くタイトルだな( iдi ) ハウー

夕もや向うに姫が立っている  壷内半酔

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龍馬像除幕式に参加した”浜風”

『豆辞典』-「浜風」

日本海軍の、陽炎型・13番駆逐艦・浜風は、

「武蔵」「金剛」「信濃」の沈没に立ち会い、

自身も昭和20年(1945)坊ノ岬沖海戦で、「大和」と共に戦没した。

「陽炎型」は開戦時、「夕雲型」は中盤から海軍の期待をになって使用された。

が、本来の任務である「敵艦隊の雷撃」には、殆ど使用されず、

空母や輸送船団の護衛、

ガダルカナル島を初めとする島々への、輸送作戦に従事する。

≪艦隊決戦を主目的に計画/建造されたために、

 対空・対潜能力が優れているとはいえず、それらの作戦で、

次々と失われていったため、
終戦まで生き残ったのは”雪風”のみである≫

いつも唯笑って君の傍にいる  森吉留里恵          

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土瓶蒸しすすり終えたら自首します  井上一筒

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「阪本氏を斬りたるは拙者なり」と書かれた紙面

「龍馬暗殺の真犯人は」

龍馬暗殺の実行者が京都見廻組であるとわかったのは、

見廻組隊士であった今井信郎の自供によってである。

見廻組で龍馬暗殺にかかわった隊士は、

「鳥羽・伏見の戦い」
でほぼ討ち死にするものの、

今井だけは生き延びて、会津で戦い、「箱館戦争」にも参加する。

ここで、旧幕府軍は完全に敗れ、今井の身柄は東京の刑部省に移され、

龍馬殺害を自供するにいたった。

レタス剥ぐ軽い秘密を剥ぐように  井上裕二

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    今井信郎

不思議なのは、その後の今井である。

本来なら、明治維新の立役者を暗殺したのだから、

その報酬として、厳罰が待っていそうなものだ。

ところが、今井に科せられた刑は、「静岡藩預かりの禁固」と軽かった。

時の刑部大輔・佐々木高行は、

土佐藩出身で、龍馬と面識があったにもかかわらずだ。

そして、明治5年(1872)には、今井は恩赦によって赦免されている。

 手管なんだろうか本意なのかな  山口ろっぱ

そんな不思議な成り行きとなった背景には、薩摩の西郷隆盛がいた。

西郷が裏で動いたため、今井に厳罰を与える事ができず、

また早期に、赦免されることになったという。

≪西郷が動いたことについては、今井の子孫も証言している≫

このあたりから、"龍馬暗殺の黒幕に西郷がいた"という説が生じているだ。

≪なぜ西郷がそういう動きをしたのか、その意図はいまもよくわかってない≫

歳月やひとりの面の裏おもて  森中惠美子

今井はその後、静岡県の初倉村で、名を 「吉野五郎」 と変え、

キリスト教に入信、かつて人を斬った者とは思えぬほどの、

穏やかな人物となった。

今井は初倉村に学校を建て、晩年には村長までつとめ、大正8年(1919)に没している。

豆を煮る時間 童話を書く時間  本多洋子

その一方、今井は晩年、

龍馬暗殺について、かつての自供を一部ひるがえした。

明治3年(1870)の初の自供では、

今井の役割は、階下での見張り役にすぎなかったのだが、

その後、「龍馬を斬ったのは自分本人である」 と語りはじめたのである。

これにたいして、龍馬に私淑していた谷干城は、

「売名行為である」と非難している。

今井がなぜ自供の一部を変えたのかは、わかっていない。

死去する前に、真実を洗いざらい語っておきたかったのか?、

売名行為だったのか?

当人のみぞ知るところである。

満月へ喉の手入れを念入りに  浜 純子

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   坂本一家(龍馬姻戚)

「余談ー今井の暗殺者説の疑問」

明治11年(1878)、龍馬の養子・高松太郎(龍馬の姉・千鶴の子)から、

「父(龍馬)の法要をするから出席してほしい」

という手紙が届き、

出席すれば、「命はない」という覚悟で、今井は法要に足を運んでいる。

高松はこの出会いを喜び、

「過去を忘れて新しい日本のために働こう!と言われた」

と今井の妻が語ったといわれる。

もし今井が、龍馬暗殺に関わっていないのなら、

殺されるかも知れない法要に、出かけるとはとうてい思われない が・・・。

尖ってはならぬと花筏に学ぶ  たむらあきこ

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撮影クランクアップの龍馬・福山雅治と岩崎・香川照之

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 龍馬伝・終了記念写真

呼んでごらんよ振り向いたのが犯人だ  八田灯子     

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はまぐりが吠えると田螺まで吠える  井上一筒

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加茂川の下部・高瀬川沿いに並ぶ龍馬関連京町絵図

③ 長州藩邸 ④ 池田屋 ⑤ 酢屋 ⑥ 土佐藩邸 ⑦ 近江屋

「龍馬暗殺の真犯人は・・・?」

龍馬を暗殺したのは、当初、近藤勇率いる新撰組みと思われていた。

その近藤勇は明治元年(1868)、

下総流山で新政府軍に捕れえられる。

このとき、近藤は、龍馬暗殺を断じて拒否したため、

真犯人は、いったん闇の中に消える。

その後、明治3年(1870)になって、「自供者」があらわれる。

箱館戦争で敗れた旧幕府軍に、元見廻組の今井信郎という人物がいた。

彼が兵部省と刑部省の尋問に対し、龍馬暗殺を自供したのだ。

吹っ切れてあの空白の日を語る  大堀正明

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京都見廻組・屯所跡

≪現在の千本中立売交差点の近くに「中立売屋敷」と呼ばれる屯所を構えていた≫

今井の証言によれば、龍馬を倒したのは、

彼の属していた「京都見廻組」である。

見廻組は、京都で発足した幕府の治安維持機関だった。

幕府は、すでに治安維持機関として、京都に「新撰組」を送り込み、

その実績を評価していたが、、

内ゲバの多さや行動に一抹の不安を覚え、

新たに新撰組よりも、規律ある組織として見廻組を設けた。

見廻組と新撰組のちがいは、その出自である。

人が人を選ぶ危険なものがたり  森中惠美子

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   松平容保

新撰組が郷士、浪士中心の集団であるのに対し、

見廻組は旗本、御家人クラスから募った。

幕府は、幕臣で組織することによって、

見廻組を信頼のおける治安機構に、育てたかったのだ。

見廻組には、”御所九門内の警備”が命じられていたが、

これは新撰組が受け持ったことのない任務だった。

それだけ幕府は見廻組に、信頼を寄せていたといえる。

見廻組を預かるのは、

新撰組と同じく京都守護職であり、会津藩主の松平容保である。

魂の一部になった黒である  立蔵信子

新撰組にとって、見廻組はライバルであり、

見廻組もまた、新撰組以上の実績づくりを目指した。

見廻組みも新撰組も、

ともに龍馬を狙い、見廻組が成功したのである。

見廻組による龍馬暗殺は、

京都の治安を預かる彼らにすれば、職務を忠実に実行したまでのことである。

月並みを破って明日へ夢繋ぐ  鈴木栄子

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京都見廻組長・佐々木只三郎寓居跡とされる松林寺

龍馬は、前年(慶応2年)の寺田屋事件の際、

伏見奉行所の捕り方のひとりを、ピストルで射殺、逃走している。

≪現代でいえば、指名手配中の危険人物だった≫

見廻組の使命は、龍馬の捕縛にあったが、

ピストルを所持している龍馬の捕縛を目指すのは、

リスクが高いと考え、隙をついての殺害に切り換えたのである。

彼らは、重要人物の暗殺とは考えず、危険人物の排除と考えていた。

≪このころ、大政奉還が成ったこともあって、

 その発案者・龍馬の罪を免じようという指令が、幕府から出ていたといわれる。

 その指令が見廻組には浸透せず、龍馬は斃されることになったのだ≫

ぎりぎりのところで黒糸が足りぬ  山本早苗

「暗殺犯人説は他にもある」

龍馬が暗殺されたとき、ほとんどの海援隊士が京都に不在のなか、

陸奥宗光は京都にあって、すぐに駆けつけている。

紀州藩説ー

この陸奥をはじめとする海援隊士や陸援隊士らは、

龍馬暗殺の下手人を”いろは丸事件”の関連から、紀州藩と決めつけた。

そして陸奥は先頭に立って、

紀州藩の三浦休太郎の宿泊する天満屋を襲撃した。

≪しかしこれは、新撰組の護衛もあって失敗に終っている≫

人並みに腹立つ脳でありがたい  櫻崎篤子

土佐藩としては表向き、後藤象二郎が大政奉還の立役者になっている。

福岡孝弟は維新後、龍馬が、

「それほどの役目を果たした事実さえ初めて知った」

と述べている。

後藤は、その事実を自分だけのものにしていたのだ。

その功績がなくなるのを恐れた後藤による暗殺かなど「怪説」がある。

武力討幕を邪魔されたくない「薩摩」(西郷隆盛)「黒幕説」。

龍馬が暗殺される直前、大久保が京に入っているんところから、

相性の悪かっ「大久保利通説」

その事は企業秘密という極意  和泉冴子

「暗殺の主役が龍馬とは限らない」

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伊藤甲子太郎(いとうかしたろう)

≪元新撰組参謀で、分離して御陵衛士(ごりょうえじ)を組織した伊藤は、

慶応3年7月、中岡に対し、「新撰組が命を狙っている」 と忠告している。

さらに同年10月18日には、龍馬とも会談し龍馬にも警告を発したとされる。

≪なお伊藤は、龍馬暗殺の三日後、新撰組によって暗殺されている≫

近江屋事件で龍馬は暗殺されるが、

実際のところは、中岡慎太郎を狙ったものと考えられないだろうか?

慎太郎は長州の奇兵隊にも所属し、高杉晋作とも深い交流があった。

恨みを買う行動も多々あり、長州との関係は、龍馬より深い。

慎太郎は、薩摩藩主・島津久光の暗殺をも企てた人物である。

また上記の伊藤甲子太郎の忠告を、まっすぐに読み取れば、

龍馬より慎太郎が、刺客に狙われていた感が伝わる。

考えれば、中岡慎太郎を狙う動機は、いくらでも出てくる。

黒だったから目立たなかったのね きっと  山本昌乃

ともかく、龍馬のいる近江屋へは、慎太郎の方から訪ねている。

刺客は、慎太郎をつけねらっていた。

刺客は、龍馬が一人でいるときを狙わず、

慎太郎が近江屋に到着してから、まもなく突入している。

一方、龍馬を殺害するための、動機は浅い。

龍馬自身、この時点では「明治新政府」に未練は持たず、

もっぱら商売人として生きることを決めていたのだ。

慎太郎が龍馬の道連れになって死んだと、言うのも不自然なのである。

守るものあって刃を抜きました  あいざわひろみ

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火を逃げて五年十年火をくぐる  森中惠美子

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  暗殺・激闘のあった部屋

『「暗殺の日」-②  ≪~①からのつづき≫』

間髪を容れず、2人の刺客が奥の八畳に躍り込む。

1人が、「コナクソ」と一声もろとも慎太郎の後頭部を斬り、

もう1人が、龍馬の額を横に払った。

龍馬は、背後の床の間に置いた佩刀を取ろうと、中腰で後ろに向いたところを、

右の肩先から左背まで、袈裟懸けに浴びせられる。

怯まず刀を摑んで振り返る。

そこへ、三の太刀が襲ってきた。

刀を抜く暇がなく、鞘のまま受け止める。

刺客の刀勢は、猛烈だった。

寺町や紫陽花の首猪の首  石田柊馬

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龍馬が受け止めた鞘の2えぐれ”

衝撃で鞘の鐺が、天井を突き破り、

鞘越しに刀身に食い込んで、刃を九センチほど削り、

さらに流れて、龍馬の額を鉢巻なりに、ザックリと斬り割った。

血しぶきが飛び、白い脳漿が露出した。

龍馬は悲痛な声で、

「石川(中岡の変名)、刀はないか、刀はないか」

と叫びながらその場に昏倒する。

凍音に変わるロクサーヌのブルース  山口ろっぱ

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   鴨居に残る刀傷

慎太郎も短刀で必死に戦ったが、全身に11ヶ所の傷を負って気絶した。

敵はなおも、臀部に二太刀斬り付ける。

反射のありなしで、生死を確かめるのである。

慎太郎はその痛みで、意識を取り戻したが、死んだふりをしていると

「もういい、もういい」

という声がして、

一団は風のように、すばやく段梯子を駆け下りて、消え去った。

きみはもう雲と遊んでいるだろうか  あいざわひろみ

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龍馬の激死を見ていた暗殺の額

しばらくすると龍馬も蘇生したと見え、

刀を抜いて、行灯の前ににじり寄り、
刃を火光に照らして、

「残念、残念」

と呻くように呟いていた。

「慎太、慎太、どうした。手は利くかー」 

「手は利く」

龍馬は行灯を提げて、次の六畳までにじり進み、

「新助、医者を呼べ」

と階下に声を掛けたが、何の応答もない。

声もしだいに弱まり、

「慎太、僕は脳をやられたから、もうだめだ」

その言葉を最後に、ガックリと落ち入る。

慎太郎は、裏の物干しまでいざってゆき、大声で助けを呼んだが、

近江屋の家内はシーンと静まりかえっていた。

つま先はそんじょそこらの貝である  井上一筒

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龍馬のために鶏鍋の具を買いに出かけていた峰吉

龍馬殺しの実行者7人のうち、

渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・桜井大三郎は、

翌・慶応4年早々、鳥羽伏見の戦で戦死し、土肥仲蔵は行方不明。

佐々木只三郎は、淀で重症を負い、それがもとで間もなく死んだ。

明治まで生き残ったのは、今井信郎だけで、

この男は後に、妄想か売名か、自分が龍馬を斬ったと≪告白≫して、

世の話題になった。

近江屋の外に出ると、十五夜の月が、雲を割って明るく町を照らしていた。

佐々木は、”その時、義経少しも騒がず”

と『船弁慶』の一節を高らかに謡いながら、落ち着き払って現場を立ち去った。

鴨川がわずかに憶えている竜馬  黒田忠昭

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すれすれを吹き抜けてゆく男の訃  たむらあきこ 

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エジャナイカの集団     

冬の京都は、底冷えがきつい。

地面の下から這い上がる寒気が、骨を凍てつかせる。

慶応3年(1867)11月15日、午後8時頃、

先斗町の料理屋を出てきた”七人の男”が、辻々で踊り狂う

"エジャナイカ"の人波を避けて、急ぎ足に道をたどり、

河原町通蛸薬師下ルの「近江屋」という、「醤油屋」をめざして歩いていった。

数珠をもつ遠く近くの死を思う  森中惠美子

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中央に近江屋の名前が見える名簿

男たちは、京都見廻組」の一団だった。

新撰組と並んで、幕末の京都で活躍した”治安組織”である。

幕府旗本の子弟だけで、構成されていたので、

農民上がりと蔑む新撰組との対抗意識も強く、功名手柄を焦っていた。

この日も組頭の佐々木只三郎は、

配下の今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥仲蔵・桜井大三郎を呼び寄せ、

「これから重罪犯の逮捕に取り掛かる」

と差図を与えた。

耳よりも指揮振る人に目が走る  ふじのひろし

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龍馬が放ったピストルの弾痕(寺田屋)

「土佐藩の坂本龍馬に不審の筋があり、先年、伏見で捕縛しようとしたところ、

 敵はピストルを発射して抵抗。

 伏見奉行所同心2人を射ち倒して脱出し、残念ながら取り逃がした。

 その坂本が、今夜、近江屋に滞在中である。

 今度ばかりは、逃がさずに捕縛すべし。

 万一手に余ったら、討ち取ってよろしい」

狙われた坂本龍馬は、幕府側から見れば、指名手配中の凶悪犯であった。

綿菓子の死角でちょっとしたスリル  山本早苗

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龍馬を斬ったといわれている、小太刀の名手・見廻組・肝煎桂早之助の脇差

「室内の闘争を予期して、小太刀の名人のみを二階に闖入(ちんにゅう)させた」

 実行者の間で、手筈が整った。

7人のうち、渡辺・高橋・桂の3人は二階に踏み込む。

今井・土肥・桜井の3人は、台所辺りを見張り、必要があれば助太刀する。

首領の佐々木は、家内に入らず、離れて立って成行きを見届ける。

近江屋はもう、大戸を閉ざしていたが、家内では人声がしていた。

表戸を叩き、出てきた男に

「拙者共は、松代藩の浪士でござる。

ごく内々の用件で、至急坂本先生にお目に掛かりたい。

夜分失礼とは存じながら推参致しました」

と取次を依頼する。

希望という名刺カオスへ散布する  唐木浩子

意外にも相手はまったく怪しまず、今井ら3人を店内に入れてくれた。

当の龍馬は、近江屋二階の奥座敷で、

同志の中岡慎太郎と国事を論じていた。

頑健な大男のくせに、寒がりの龍馬は、

その日、風邪気味で、真綿の胴着の上に舶来絹の綿入れを着込み、

さらにその上に、黒羽二重の羽織を重ねて、

火鉢を抱え込むように座っていた。

目の前にあるけど見たくない未来   岡田陽一

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事件当夜の近江屋二階・間取り図と暗殺者の進路。

黒線は刺客の襲撃経路、右下が階段、上右が床の間

火鉢を真ん中に、龍馬・慎太郎へ刺客はまっすぐに忍び寄った。

応対に出た男は、藤吉といい、相撲取りをしていた肥大漢だった。

「松代の旦那でござんすかい」

と、人を疑わず、巨大な体躯を運んで取次のため二階に上がる。

それに付け入って、足早に階段を駆け上がり、

襖を隔てた奥座敷に、名刺を通じて出てくる藤吉を、いきなり斬り倒した。

バッタリ倒れる大きな音に、

奥から、「ホタエナ!」

と、土佐弁で
叱責する声が聞えた。

暗殺の日-1-②へ・・・つづく

お茶室で太極拳をしています  井上一筒      

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