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川柳的逍遥 人の世の一家言
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友情は昼の月にも似てぬくい  津田一江

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「それぞれの幕末ー半平太 龍馬 そして以蔵ー」

2006年(平成18年)8月17日、高知新聞朝刊を読む。

三浦夏樹氏執筆、”それぞれの道、貫いた3人”

新聞には、次のような内容が書いてありました。

改革を抱く青雲の志  住田英比古

土佐藩の下級武士の家に生まれた、坂本龍馬、武市半平太、岡田以蔵の3人は、

日本を守るため、短い人生を全力で駆け抜けた。

龍馬は、33歳で暗殺され、

半平太は37歳で切腹した。

以蔵は、28歳で斬首の刑を受けた。

死に方は違うが、みな若くして命を落としている。

形状記憶の黒ネクタイが忙しい  木村良三

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半平太が切腹に使ったと伝えられている短刀

半平太
は、手紙(個人蔵)の中で、

「人は男でも女でも、道を守らねば役には立たない」  

と書いている。

江戸時代には、身分制度があり、身分や立場によっては、

守るべき道が全く違ってくる。

武士の中の武士である、半平太にとって、

”守るべき道は、主君に対する忠義と、親・先祖に対する孝行が、一番だった”

「天皇や日本のために、脱藩する若者が多い中、

半平太はぞれぞれが、主君に忠義を尽くす事が、真の尊王だ」

と主張した。

「脱藩して活動することは、主君や親・先祖に対して不忠・不孝にあたり、

 それに勝る忠義は行なえない」

とも書いている。

レンジでチン反戦論を更迭す  山口ろっぱ

しかし、郷土の次男に生まれた龍馬にとって、

”守るべき道は、家や土佐藩よりも、朝廷や日本そのものだった”

さらに、龍馬の場合は、自分の夢の実現のためにも動いた。

半平太が、土佐藩を勤王でまとめる「一藩勤王論」に、

命を懸けたのに対して、

龍馬は、藩という枠組みを脱し、身分すらも無くそう、と考えていた。

薬かも知れん爆弾かも知れん  谷垣郁郎

以蔵については、資料が少なく、明確には捉えられない。

しかし辞世の句には、

「君がため 尽くす心は水の泡 消えにしあとは 澄みわたる空」

とある。

これを読むと、無学で、信念も無かった人間とは、思えない。

以蔵もまた、信念を持って、剣を振るい続けたのでは、ないだろうか。

また、意外に思うかもしれないが、以蔵は、ピストルを持っていた。

弟のご子孫宅に、伝わるものだ。

ゆっくりと人の字書いてかみしめる  前田洋子

現代の日本は、将来に対する、希望を見出せない若者が、増えている。

やりたいことが見つからず、無気力な若者が多くなっている。

それに比べて、龍馬、半平太、以蔵は、短い人生ながら、

自分の「守るべき道」のために信念を貫き通した。

それゆえに、三人は、死に直面する危険に、追い込まれる事もあったが、

死に、怯えることはなかった。

このように、死をも超越し、信念を貫こうとする姿は、人を感動させる。

誰の考えが正しい、というのではなく、

それぞれが、信念を持って行動を起こしたことを、

資料を通じて知って欲しい。

ファイティングポーズ豆腐が立っている 岩田多佳子

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以蔵が所有していたという、フランス製のピストル

「どのようにして、岡田以蔵は、ピストルを手にいれたのだろうか?」

郷土の岡田家は、以蔵の弟が継ぎ、一族は代々農業を営んできた。

現在は、84歳の岡田義一さんが末裔である。

その義一さんが、語っておられる言葉。

「京都で勝海舟の護衛をしている時に、

『刀の時代は終わった、これからは、ピストルの時代じゃきに』

と、龍馬から渡されたそうです」

龍馬の米製ピストルは、

長州藩の高杉晋作から、護身用と贈られたが、

以蔵は、龍馬から、ピストルを譲り受けていたというのだ。

朝が来たなら人間になりなさい  壷内半酔

「龍馬は、人を殺める以蔵に対し、

『こんなことしてたら いかんきに』

と、心配していましたが、、以蔵は、義理堅く一途な性格だったんです。

龍馬より、3歳年下ながら、

2年も早く砲術を習うなど、実は以蔵には、先見の明があった。

龍馬に導かれていたら、

歴史に違う形で、功績を残していたかもしれませんね」

と、伝説を意味深く聞かせていただいた。

坊さんを引き摺る知恩院の鐘    井上一筒        

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さみしくてコンビニの蛾になっている たむらあきこ
 
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「龍馬とおりょうの恋人時代」

おりょう、龍馬と知り合って間もない頃、

妹が騙されて、大坂の女郎屋に売られる事件が起きた。

この時、おりょうは一人で、女郎屋に乗り込んで妹を救出している。

「死ぬる覚悟にて刃物をふところにして喧嘩をいたし・・・」

と、龍馬も手紙にその詳細を書いている。

彼女の大胆な行動に、よっぽど感心したのだろう。

その痛快な行動は、龍馬が恋に落ちるに、充分な衝撃だった。

センサーの休日知っているカラス  山口ろっぱ

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『おりょうというのは、遊芸は大好きだが家事は苦手、

政治向きのことには、口を出したがる・・・』 と、

当時の男たちには、敬遠されるタイプだった。

だが、女性を男の所有物ではなく、同じ人として向き合う

龍馬には、そこが魅力だったのだろう。

龍馬という男は、むしろ大人しい良妻賢母では、退屈してしまう。

手に負えぬ内弁慶の閉じこもり  薮内直人

龍馬とおりょうは、夜ごとに、鴨川べりをデートしたというが、

男女が寄り添って一緒に歩くなど、当時としては珍事に等しい。

そんなデートの最中にあった”怖い事件”を、おりょうが述懐している。

特ダネを黙っといてと言われても  太下和子

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[新撰組の話]

『伏見に居た時分、夏の事で暑いから、

  一晩龍馬と二人で、ぶらぶら涼みがてら、散歩へ出かけまして、

 段々夜も更けたから、話もって帰って来る途中、5・6人の新撰組と出会いました。

 夜だからまさか、坂本とは知らぬのでせうが、

 浪人と見れば、何でも彼でも叩き斬ると云う、奴らですから、

 故意 私らに突き当たって、喧嘩をしかけたのです。

 すると龍馬は、ぷいと何処へ行ったか、分からなくなったので、

 私は困ったが、ここぞ臍の据え時と思って、平気な風をして、

 「あなたら大きな声で何ですねえ」 と懐手で澄まして居ると、

 「浪人は何処へ逃げたか」などと、ブツブツ怒りながら私には、

 何もせず行き過ぎてしまいました。

目を凝らすとざわざわ白い物が見え  島田握夢

 私は、ほっと安心し、3・4丁行きますと、

 町の角で、龍馬が立ち止まって、待っていてくれましたかね、

 「あなた私を置き去りにして、あんまり水臭いぢゃありませんか」 

 と云うと、

 「いんにゃそういう訳ぢゃないが、きゃつらに引っかかると、
 
 どうせ刀を抜かねば済まぬからそれが面倒で隠れたのだ。
 
 お前も、これ位の事はふだんから、心得ているだろう」

 と云いました。』

口髭に隠してキャビア食べている  井上一筒

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『龍馬伝』・第24回‐「愛の蛍」 あらすじ

京の池田屋に向かった龍馬(福山雅治)は、

亀弥太(音尾琢真)の死を目の当たりにする。

池田屋を襲撃したのは、新選組だった。

怒りに震える龍馬は、引き上げていく新選組に挑もうとするが、

居合わせた桂小五郎(谷原章介)に止められる。

桂は、池田屋で殺された者たちの無念を、いつか必ず晴らすと誓う。

では海はしばらく蓋をいたします  酒井暁美

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龍馬は、新撰組から逃れるため、お龍(真木よう子)の家に身を隠す。

そこには、病弱な母親と4人の弟妹がいた。

お龍は父親亡き後、女手ひとつで一家を支えていたのだ。

そんな彼女に、龍馬は、

「自分は家を捨てた身、好き勝手なことをやって家族に申し訳ない」

ともらす。

横向いて居てくれボクの泣くあいだ  太田扶美代

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反面、亀弥太の死を防げなかった自分自身にも、いらだっていた。

そんな龍馬に、お龍は、

「亀弥太が志を貫いて死んだのだから、誉めるべきだ」 

と龍馬を諭す。

その言葉を聞き、龍馬も自分の志を取り戻す。

こうして、すこしづつ変化をみせる2人の仲。

弱気になった天狗の鼻を撫でられる  奥山晴生

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一方、勝(武田鉄矢)は、

操練所の訓練生だった亀弥太が、池田屋の策謀に加わっていたことで、

幕府の老中に呼び出され、詰問される。

その頃土佐では、以蔵(佐藤健)が厳しい拷問を受けていた。

吉田東洋殺しの犯人を吐かせようという、

後藤象二郎(青木崇高)の追及が、続いていた。

武市半平太(大森南朋)は、以蔵が拷問で苦しむ声を、間近に聞きながら、

じっと堪え忍ぶしかなかった。

消しゴムで消せぬ一行過去一つ  横山達矢

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だが、苦しんでいたのは、獄中の彼らだけではなかった。

半平太の妻・冨(奥貫薫)もまた、夫の苦しみを、我がことのように受け止め、

誰にも助けを求めることなく、それに耐えていたのだ。

それを知る、坂本家の伊與(松原智恵子)は、

武市家を訪ねて、冨を慰める。

幕末期、奔走する男たちの陰で、女たちもまた闘っていた。

ひとりじゃないよとさすりつづけた部屋  浜田さつき

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わが影を撫ぜれば地べたあたたかし  後藤柳允

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   菅菅しい笑顔

新首相・菅直人氏の尊敬する人が、『高杉晋作』 なのかどうかは、知らないが、

菅氏の座右の銘は、高杉晋作の名言で、

『人生 ただ一度』 だ。

高杉晋作が、数多残している名言の中に、次のようなのがある・・・

『苦しいという言葉だけは、どんなことがあっても、言わないでおこうじゃないか』

”人間、窮地におちいるのはよい。

 意外な方角に活路が、見出せるからだ。

 しかし、死地におちいれば、それで、おしまいだ。

 だから、おれは、困ったの一言は吐かない”

≪菅氏が、言いそうな言葉でもある≫

人肌のことばじんわり効いてくる  森吉瑠里恵

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 市川房枝(中央)と菅直人

「菅直人新首相は、高杉晋作化していく・・・か?」

少し、菅氏に触れてみる。

菅直人氏は、政界入りを志してから、3回の国政選挙の落選を、経験している。

女性の地位向上に尽くした市川房枝参院議員の、選挙事務長を務め、

80年に、市民運動家から衆院議員に転じた。

民主党内で見ても、鳩山首相小沢幹事長のような世襲議員でも、

岡田外相のような、官僚出身でも、

興石東参院議員会長のような、労相出身でもない。

運命を知っていたのは流れ星  杉本克子

菅氏の父は、会社員。

1994年6月、村山富市(漁師の父)以来、橋本竜太郎~鳩山由紀夫前首相まで、

16年間・8代続いた世襲議員を考えれば、よい意味で、、

「変り種」 かもしれない。

民主党で何度か代表を務めるうちに、「変わり身の早さ」 を身に着け、

「バルカン政治家」、になぞらえて「バル菅」とも、呼ばれるようにもなった。

≪「バンザイとダルマの目玉入れは、市民的ではない」

として、「拍手とVサインと胴上げ」 に替えたことや、

今も呼ばれる、「イラ菅」 というあだ名を、

早くも選挙の運動員から、つけられていることなどが、

初当選の直後の、

「市民ゲリラ国会に挑む」(読売新聞社・1980刊)という本に紹介されている≫

一日一生今日の主役はにぎり飯  板尾岳人

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「高杉晋作とは、どんな男だったか?物語」

高杉晋作の松下村塾入門は、さして思想的にどうこういうものではなかった。

むしろ、のうのうと生きている現状からの脱皮が、高杉の心をとらえた。

そういう心の動きは、

後の、高杉の変節する生き方に、表れてくる。

特定の思想なり考え方をもって、変革にかかわるのではなく、

変動する社会状況に合わせた考え方を、切り開いて幕末の舞台に上り、

いつの間にやら主役を演じている。

そのような巧みさが高杉晋作にはあった。

触れ合いの中で学んだ生きる知恵  広岡栄二

身の危険を感じれば、とにかく逃げる。

変装もする。

髷を剃り落とし、東行と名のり、武士から僧侶の姿に、変身するのも、

高杉はいとわなかった。

四国にも、田舎侍の夫婦を装って、愛人・おうのを連れ出して逃亡する。

今は、自分の出る幕ではないと判断するや、

あらゆる手段を使って、自分の命を守った。

”西へ行く 人を慕いて 東行く 我が心ぞ 神や知るらむ”

≪西行法師を慕って、頭を丸めたのだが、私の心は東に行くのだ。

 その心は、神だけがしっているだろう≫

月光の曲が流れる窓を持つ  山本早苗

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 日和山に立つ高杉晋作

高杉晋作の変節は、環境適応の巧みな生き方に、通ずる。

激動の幕末社会にあって、節を曲げず、

信念なり、思想を貫いた志士たちの、

多くは、志を遂げることも少なく、遭難しやすかった。

そんななかで、

”変節を、いわば生き方の手段とする高杉は、抜きん出て、異端ではあったが、

 賢明だった。”

まだ魅力あってこの世の世話になる  笹山あつ子     

「黎明に臨んで斃(たお)れる」 

とは志士が好んだ、標語であった。

いわゆる、武士の美意識にある「男の死に方」としては、格好よいのだろうが、

高杉は冷めていた。

「武士の死に方がどうこうなんぞ、そんなもん、斬って捨てちゃる。

 よく生きて社会の変革にかかわり、事を成すことこそ、大事ちゅうもんじゃ。

 今や、藩とか殿さんなんぞ頼りにならん時代になりよる。

 松陰先生もそう言うておられる」

≪直情の久坂玄瑞を代表する尊攘派の急先鋒として、知られていた長州藩だったが、

藩士のすべてがそうだったわけではない。

なかには、高杉晋作や桂小五郎のように、外国の情勢を知るにつれて、

内心、「攘夷は不可能」と悟っていたものもいた。≫

タイムカプセルあの日の吐息まだ保留  山口ろっぱ

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  奇兵隊姿の高杉晋作

松門グループの動きを眺めていると、過激なところが目立つあまり、

一面で、”命知らずの集団”であるかのように、思えてくるが、

松陰、「よく生きてことを成せ」 とばかり言っている。

「命を散らせ」、などとはひとことも言っていない。

ただ、「人生、四季を悟れ」 とは言っている。

「若くして、人生を終えることがあっても、それはすでに四季を終えているのであり、

 悲しむべきことではない」 

と四季の意味を解説。

背中の傷に縫い込んであるむかし  井上一筒

村塾のもうひとり、久坂玄瑞、『直 の志士であった。

玄瑞は、高杉より一つ年下であったが、はやくから時代の動きに目覚め、

信ずるところを、そのまま押し通す、青年らしい多感さがあった。

そのため、尊皇攘夷運動に足を取られ過ぎ、

既成の秩序を破壊しようと京に乗り込んだものの、

薩摩と組んだ幕府勢力の長州狩りにひっかかった。

そして、ついに「禁門の変」で玉砕した。

方向音痴さっぱり私が見つからぬ  岩田多佳子

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 『風の預言者・高杉晋作』

対して、高杉は、『曲』 の志士である。

『維新』 という大業をなしていくには、

「時節の変化を読み切り、自分の節を、その変化に合わせて修正し、

行動の鉾先も差し替えなければならない」

と考えていた。

相対化した立場で、自らの方向性を客観視できたのが、

「高杉晋作」であった。

そして、維新の目的を、日本の改革より、長州の発展にこだわり続けたのが、

高杉の特徴なのである。

あんなことこんなことあり そしていま  有田晴子

「同志・伊藤博文が高杉晋作を評した言葉」

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。

 これ我が東行高杉君に非ずや」

おもしろき こともなき世を おもしろく  高杉晋作

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「菅氏の貢献をひとつ紹介すると」

1996年の「薬害エイズ問題」で、被害の拡大に対し、

「国の責任を明確にすべきだ」

とする菅氏に、官僚は抵抗した。

官僚が、「ない」と言っていたエイズ対策の重要資料が、

菅氏の指示で探した結果、役所のロッカーなどから、

見つかったこともある。

「世間向けのパフォーマンスが多い」 と冷ややかに見る官僚に対し、

菅氏は

「何を言われようと私は仕事をしにきている」
 と突っぱねた。

その姿勢が、厚生官僚の根深い隠蔽体質に、

風穴を空けたことは確かだろう。

≪菅氏が、今年最初に書いた言葉は、「志」である。≫

右足が右向いていてどこ悪い  合田瑠美子

『豆辞典』-「バルカン政治家」

小国家が反目し、駆け引きに明け暮れた東欧のバルカン半島の政情になぞらえ、

少数政党や小派閥を率いて政界を巧みに動き回る政治家を指す言葉。

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ともだちをかぞえる右手さむくなる たむらあきこ

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   「近藤勇」

近藤勇が、率いる「新撰組」は、当時最強の武闘集団だった。

京に潜伏する龍馬にとって、最もおそろしい敵である。

龍馬と新撰組が、直接対峙することはなかったが、

「池田屋騒動」では、同志である望月亀弥太などが、

近藤らによって、斬られている。

「戊辰戦争」が勃発すると、新撰組は、鳥羽伏見や甲府勝沼などで、

官軍と戦うが、近代兵器の前に敗退。

そして、近藤は、下総・流山で捕らえられ斬首刑に処せられた。

さびしげな影がボスライオンにある   西山春日子

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 「土方歳三」

新選組・副長。

土方歳三は、捕らえた志士を、凄惨な拷問にかけることで知られ、

味方からも「鬼」と恐れられた。

京に潜伏していた頃の龍馬にとっては、もっとも出会いたくない男だったろう。

近藤が捕らえられ処刑されたあとも、

各地を転戦して、新政府軍に徹底抗戦。

その戦いぶりはまさに「鬼神」のごとく、局地戦においては、不敗を誇った。

「函館戦争」では、敵の大軍に突撃して、壮絶な最後を遂げている。

一度だけ主役になれる箱がある  松田俊彦

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     「永倉新八」

新撰組・二番隊組長や撃剣師範を務めるなど、中枢を成した。

芹沢鴨と同じ神道無念流の免許皆伝の持ち主。

剣術が、よっぽど好きだったようで、写真(前列中央)を見てもわかるとおり、

刀を常に、身のそばにおいている。

性格は、近藤局長の「非行五ヶ条」を、会津藩主・松平容保に訴え出たり、

「近藤を局長と認めるが、家臣ではなく、同志だ」 と主張するなど、

唯一、近藤を恐れなかった勇猛な人物。

「池田屋事件」では、近藤勇沖田総司らと共に奮戦。

沖田が倒れ、藤堂平助が負傷する中、一番の働きをみせた。

脇役の毒に食われている主役  菱木 誠

この永倉新八は、新選組結成前からの仲である、幹部13人のうち、

ただ1人生きのこり、76歳まで生きた。

その新八は、新選組に関する回想録を、数多く書き記している。

「二十人ほど残らず抜刀」

「容赦なく切り捨てる」

「沖田総司 病気にてひきとる」

「藤堂平助 深手負い」

「三度も危なきことこれあり」       永倉新八・「浪士文久報国記事」

ばらすつもりじゃ無かったのにかんにんえ 山口ろっぱ

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『新撰組として一番最初の仕事が”池田屋事件”―「真夜中の戦闘」』

新八の報告書・・・

テロを計画していた長州藩士を、中心とする過激派の藩士たちを、

新選組が斬り捨て、幕末動乱のきっかけを生んだー『池田屋事件』。

実は、池田屋にいた勤王の志士たち、二十数人に対し、

当初、邸内に突入した新選組は、総勢34名のうち、

近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助のわずか4人だった。

”近藤勇の斬り込み時の言葉”

「御用改め、手向かいいたすにおいては、容赦なく斬り捨てる」

請け負った刺客はネコに化けていく  井上一筒

そんな少数のなか、沖田総司は、戦闘中に持病の喀血で、戦線から離脱。

藤堂もまた、汗で鉢金がずれたところに、太刀を浴び、

額を斬られ戦線を離脱した。

かたや、倒幕集団の土佐藩の望月亀弥太らは、

裏口から必死に脱出をはかり、

そこを守っていた新選組み浪士たちと、斬り合いになった。

3名の浪士(安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門)は、倒したものの、

望月亀弥太も深手を負う。

そして、長州藩邸付近まで逃げたものの、追っ手に追いつかれ、

望月は自刃した。

ヤッホーが向こう岸から戻らない  嶋澤喜八郎

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一方、新撰組側は、一時は近藤・永倉の2人となるが、

土方隊が応援に入り、戦局は新選組に有利に傾き、

9名討ち取り、4名捕縛の戦果を上げる。

勝利の背景には、

武士身分でないが故に、手柄を挙げて、

「武士になりたい」 

という隊士たちの悲壮な、思いがあった。

真剣になるまで研いでいる竹光  板野美子

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戦闘後に、会津・桑名藩の応援が到着した時、

土方は、手柄を横取りされぬように、

一歩たりとも、近づけさせなかった。

そして、新撰組の面々は、闇討ちを警戒し、翌日の正午になって、

壬生の屯所に帰還、沿道は、見物人であふれていた。

≪この戦闘で、数名の尊攘過激派は逃走したが、

 新撰組は、続く翌朝の市中掃討で、会津・桑名藩らと連携し、20余名を捕縛。

 市中掃討は激戦になり、会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の即死者を出した≫

出来たての殺意でふんわりしています 太田扶美代

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『龍馬伝』・第23回‐「池田屋に走れ」 あらすじ

龍馬(福山雅治)、勝(武田鉄矢)ら勝塾の面々は、

近藤長次郎(大泉洋)と、大和屋の娘・徳(酒井若菜)の婚礼を祝う。

そして、いよいよ待ちに待った「神戸海軍操練所」が完成した。

「ついにこの日が来たぜよ!」

大坂の勝塾で、学んでいた龍馬たちは、

全国の各藩から、送り出された訓練生たちとともに、

操練所での訓練をスタートする。

操練所に航海術、砲撃術、操練所は、新しいことを学ぶ意欲に、

満ちあふれていた。

血と汗と油絵具が塗ってある  牧野芳光

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しかし、そんな中、亀弥太(音尾琢真)だけは違った。

ついこの間まで、土佐勤王党の志士として、

半平太らと、行動をともにしていた亀弥太は、

かつての仲間たちが、「土佐でひどい仕打ちを受けている」 と耳にし、

思い悩んでいたのだ。

操練所に身を置くことが果たして正しいのかー。

苦悩の末、亀弥太は、ついに操練所から姿を消す。

長州の攘夷派とともに、決起するため、京に向かったという。

ライオンの昼寝に出会う現在地  菅野泰行

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今、ことを起こすのは、あまりにも無謀。

龍馬は焦るが、ほかの訓練生たちは、

海軍よりも、攘夷派を選んだ亀弥太に、冷ややかな態度だった。

「おらんでもええいう仲間らあ、ここには1人もおらん!」

そう言い残し、亀弥太を追って、京へ向かった龍馬は、

お龍(真木よう子)から、攘夷派の集会が「池田屋」という宿で行なわれると聞く。

亀弥太を死なせるわけにはいかない!

祈るような思いで、池田屋に駆けつけた龍馬を待っていたのは・・・、

想像を絶する悲惨な光景だった・・・。

指めがねあの世も細い雨が降る  梅崎流青

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「新撰組」は、この池田屋事件で名を上げるが、

逆に、幕末騒乱の火薬庫に引火させたといってもいい。

この事件から時代は、物凄い勢いで流れていく。

まずは、長州から火の手はあがった。

長州の三田尻港から、

藩兵・浪士を満載させた軍艦が続々出港して京に向かい。

薩摩藩と会津藩らによって、

京を追われた久坂玄瑞(やべきょうすけ)たちは、

帝を攘夷派の手に、奪い返そうと企んでいた。

手の届く範囲で凶器置かないで  杉山ひさゆき

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  獄中の半平太と以蔵

一方、土佐では、後藤象二郎(青木崇高)による、

武市半平太(大森南朋)への尋問は、厳しさを増していた。

そして、時代の流れから、ひとり外れた岩崎弥太郎(香川照之)は、

妻の喜勢(マイコ)との間に長女が誕生し、幸せをかみしめていた・・・。
 
人生を斜に渡ってきた男  小山紀乃

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プチプチをつぶして難問はあすに  奥山晴生

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石碑が残る、「池田屋事件」があった場所

「池田屋事件」が起きるのは、

神戸操練所の開設(元治元年{1864}5月29日)が、

布告されてから、わずか、一週間後の、6月5日のことである。

京都・三条小橋の旅籠・池田屋で、”京都占領”を謀議中だったとされる、

尊攘過激派を、新撰組が襲撃した。

多数の死者や捕縛者が出た。

その中に、望月亀弥太北添佶摩という、

二人の操練所訓練生が、含まれていたこともあって、

10ヶ月後の元治2年3月に、操練所は解散の憂き目にあうことになる。

鳥になれなんだ肩甲骨削る  井上一筒

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大海への船出を夢見ていた、訓練生たちはどれだけ、悲しんだことだろうか?

少なくとも、龍馬もその結果に、歯ぎしりをしたに違いない。

訓練をしているときの、充実感を垣間見る手紙がある。

事件が起きる丁度一年前。

龍馬は、操練所に抱いた夢を、姉の乙女に次のように語っている。

とびきりの夢を見たくて鏡拭く  小山紀乃

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  海連実習する訓練生

『エヘンの手紙』

坂本乙女宛  文久三年(1863)五月一七日 

『此頃ハ、天下無二の軍学者・勝麟太郎という大先生に、門人となり、

 ことの外かわいがられ候て、先、きゃくぶんのようなものになり申候。

≪訳― 最近は、天下一の軍学者・勝麟太郎という、大先生の門人となり、

   ことのほか、かわいがられて、客分のようなものになりました≫

近々大坂より十里あまりの地にて、

兵庫という所にて、おおきに海軍をおしえ候所をこしらえ、

又、四十間、五十間もある船をこしらえ、でしどもにも四五百人も、諸方よりあつまり候事、

私、初、栄太郎なども、其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗のけいこもいたし、

けいこ船の蒸気船をもって近々のうち、土佐の方へも参り申候。

その節、御目にかかり申しべく候。』

近いうちにと言われて会ったことがない 井丸昌紀    

≪訳― 近いうちに、大坂から、十里あまりの兵庫というところで、

   大きな海軍のことを教える所をつくり、

   また四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子たちが、四五百人も各地より集まるので、

   私はじめ、栄太郎(高松太郎=龍馬の甥)などもその海軍所で稽古学問し、

   時々、船乗りの稽古をし、練習船の蒸気船で近いうちに、土佐の方へも参ります。

   その時は、お目にかかりましょう≫

『私の存じ付は、このせつ兄上にも、おおきに御どういなされ、

 それはおもしろい、やれやれと、

 御もうしのつごうにて候あいだ、いぜんももうし候とうり、

 軍さでもはじまり候時は、それまでの命。』

感傷に耽って手帳見ています  森口美羽

≪訳― 私の考えについては、この頃、兄さん(権平)もおおいに御同意され、

   『それはおもしろい、やれやれ』  と言って下さるというようなわけで、

   以前にも言ったように、戦いでも始まればそれまでの命≫

 『ことし命あれば、私、四十歳になり候を、むかしいいし事を御引合なされたまえ。

 すこしエヘンにかおして、ひそかにおり申候。

 達人の見るまなこは、おそろしきものとや、つれづれにもこれあり。

 猶エヘンエヘン、   かしこ 』

すっぴんで家が一番落ち着くわ  樋口百合子

≪今年命あれば、私が四十歳になる時のことを、前に言ったことを思い出してください。

   すこし”エヘン顔”して、密やかにおります。

   達人(勝海舟)の見る目は、大したものだとか、徒然草にも、書かれています。

なおエヘンエヘン、   さようなら≫

 『龍馬  五月十七日   乙女姉御本

 右の事は、まずまずあいだがらへも、すこしもいうては、

 見込のちがう人あるからは、おひとりにて御聞おき。

 かしこ 』

≪龍馬   五月十七日   乙女姉みもと

   右の事は、まずまずの間柄の人でも、少しでも言うと、誤解する人があるから、

   姉さんお一人で聞いておいてね。

   さようなら≫

書き出すと言いたいことが裏返る  藤井正雄

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  浪人狩りをする新撰組

操練所閉鎖に伴い、龍馬ら脱藩浪人は、京都や大坂に身を隠して潜伏した。

ただ龍馬の夢は果てず、外国船を借り入れて航海する計画を持った、

が、外国船の借り入れがうまくいかず、

海舟の配慮で、薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらう事になる。

≪閉鎖に先立つ8月中旬、海舟は、すでに身の危険を察知し、

龍馬を、京都・伏見の薩摩藩邸に向かわせた。

西郷隆盛と面会させ、万一、操練所閉鎖という事態になれば、

龍馬や脱藩浪士をかくまってもらおうと、根回しをしていたのである≫

通り雨皆どこかに居なくなる  津田照子

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