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川柳的逍遥 人の世の一家言
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わが影を撫ぜれば地べたあたたかし  後藤柳允

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   菅菅しい笑顔

新首相・菅直人氏の尊敬する人が、『高杉晋作』 なのかどうかは、知らないが、

菅氏の座右の銘は、高杉晋作の名言で、

『人生 ただ一度』 だ。

高杉晋作が、数多残している名言の中に、次のようなのがある・・・

『苦しいという言葉だけは、どんなことがあっても、言わないでおこうじゃないか』

”人間、窮地におちいるのはよい。

 意外な方角に活路が、見出せるからだ。

 しかし、死地におちいれば、それで、おしまいだ。

 だから、おれは、困ったの一言は吐かない”

≪菅氏が、言いそうな言葉でもある≫

人肌のことばじんわり効いてくる  森吉瑠里恵

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 市川房枝(中央)と菅直人

「菅直人新首相は、高杉晋作化していく・・・か?」

少し、菅氏に触れてみる。

菅直人氏は、政界入りを志してから、3回の国政選挙の落選を、経験している。

女性の地位向上に尽くした市川房枝参院議員の、選挙事務長を務め、

80年に、市民運動家から衆院議員に転じた。

民主党内で見ても、鳩山首相小沢幹事長のような世襲議員でも、

岡田外相のような、官僚出身でも、

興石東参院議員会長のような、労相出身でもない。

運命を知っていたのは流れ星  杉本克子

菅氏の父は、会社員。

1994年6月、村山富市(漁師の父)以来、橋本竜太郎~鳩山由紀夫前首相まで、

16年間・8代続いた世襲議員を考えれば、よい意味で、、

「変り種」 かもしれない。

民主党で何度か代表を務めるうちに、「変わり身の早さ」 を身に着け、

「バルカン政治家」、になぞらえて「バル菅」とも、呼ばれるようにもなった。

≪「バンザイとダルマの目玉入れは、市民的ではない」

として、「拍手とVサインと胴上げ」 に替えたことや、

今も呼ばれる、「イラ菅」 というあだ名を、

早くも選挙の運動員から、つけられていることなどが、

初当選の直後の、

「市民ゲリラ国会に挑む」(読売新聞社・1980刊)という本に紹介されている≫

一日一生今日の主役はにぎり飯  板尾岳人

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「高杉晋作とは、どんな男だったか?物語」

高杉晋作の松下村塾入門は、さして思想的にどうこういうものではなかった。

むしろ、のうのうと生きている現状からの脱皮が、高杉の心をとらえた。

そういう心の動きは、

後の、高杉の変節する生き方に、表れてくる。

特定の思想なり考え方をもって、変革にかかわるのではなく、

変動する社会状況に合わせた考え方を、切り開いて幕末の舞台に上り、

いつの間にやら主役を演じている。

そのような巧みさが高杉晋作にはあった。

触れ合いの中で学んだ生きる知恵  広岡栄二

身の危険を感じれば、とにかく逃げる。

変装もする。

髷を剃り落とし、東行と名のり、武士から僧侶の姿に、変身するのも、

高杉はいとわなかった。

四国にも、田舎侍の夫婦を装って、愛人・おうのを連れ出して逃亡する。

今は、自分の出る幕ではないと判断するや、

あらゆる手段を使って、自分の命を守った。

”西へ行く 人を慕いて 東行く 我が心ぞ 神や知るらむ”

≪西行法師を慕って、頭を丸めたのだが、私の心は東に行くのだ。

 その心は、神だけがしっているだろう≫

月光の曲が流れる窓を持つ  山本早苗

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 日和山に立つ高杉晋作

高杉晋作の変節は、環境適応の巧みな生き方に、通ずる。

激動の幕末社会にあって、節を曲げず、

信念なり、思想を貫いた志士たちの、

多くは、志を遂げることも少なく、遭難しやすかった。

そんななかで、

”変節を、いわば生き方の手段とする高杉は、抜きん出て、異端ではあったが、

 賢明だった。”

まだ魅力あってこの世の世話になる  笹山あつ子     

「黎明に臨んで斃(たお)れる」 

とは志士が好んだ、標語であった。

いわゆる、武士の美意識にある「男の死に方」としては、格好よいのだろうが、

高杉は冷めていた。

「武士の死に方がどうこうなんぞ、そんなもん、斬って捨てちゃる。

 よく生きて社会の変革にかかわり、事を成すことこそ、大事ちゅうもんじゃ。

 今や、藩とか殿さんなんぞ頼りにならん時代になりよる。

 松陰先生もそう言うておられる」

≪直情の久坂玄瑞を代表する尊攘派の急先鋒として、知られていた長州藩だったが、

藩士のすべてがそうだったわけではない。

なかには、高杉晋作や桂小五郎のように、外国の情勢を知るにつれて、

内心、「攘夷は不可能」と悟っていたものもいた。≫

タイムカプセルあの日の吐息まだ保留  山口ろっぱ

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  奇兵隊姿の高杉晋作

松門グループの動きを眺めていると、過激なところが目立つあまり、

一面で、”命知らずの集団”であるかのように、思えてくるが、

松陰、「よく生きてことを成せ」 とばかり言っている。

「命を散らせ」、などとはひとことも言っていない。

ただ、「人生、四季を悟れ」 とは言っている。

「若くして、人生を終えることがあっても、それはすでに四季を終えているのであり、

 悲しむべきことではない」 

と四季の意味を解説。

背中の傷に縫い込んであるむかし  井上一筒

村塾のもうひとり、久坂玄瑞、『直 の志士であった。

玄瑞は、高杉より一つ年下であったが、はやくから時代の動きに目覚め、

信ずるところを、そのまま押し通す、青年らしい多感さがあった。

そのため、尊皇攘夷運動に足を取られ過ぎ、

既成の秩序を破壊しようと京に乗り込んだものの、

薩摩と組んだ幕府勢力の長州狩りにひっかかった。

そして、ついに「禁門の変」で玉砕した。

方向音痴さっぱり私が見つからぬ  岩田多佳子

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 『風の預言者・高杉晋作』

対して、高杉は、『曲』 の志士である。

『維新』 という大業をなしていくには、

「時節の変化を読み切り、自分の節を、その変化に合わせて修正し、

行動の鉾先も差し替えなければならない」

と考えていた。

相対化した立場で、自らの方向性を客観視できたのが、

「高杉晋作」であった。

そして、維新の目的を、日本の改革より、長州の発展にこだわり続けたのが、

高杉の特徴なのである。

あんなことこんなことあり そしていま  有田晴子

「同志・伊藤博文が高杉晋作を評した言葉」

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。

 これ我が東行高杉君に非ずや」

おもしろき こともなき世を おもしろく  高杉晋作

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「菅氏の貢献をひとつ紹介すると」

1996年の「薬害エイズ問題」で、被害の拡大に対し、

「国の責任を明確にすべきだ」

とする菅氏に、官僚は抵抗した。

官僚が、「ない」と言っていたエイズ対策の重要資料が、

菅氏の指示で探した結果、役所のロッカーなどから、

見つかったこともある。

「世間向けのパフォーマンスが多い」 と冷ややかに見る官僚に対し、

菅氏は

「何を言われようと私は仕事をしにきている」
 と突っぱねた。

その姿勢が、厚生官僚の根深い隠蔽体質に、

風穴を空けたことは確かだろう。

≪菅氏が、今年最初に書いた言葉は、「志」である。≫

右足が右向いていてどこ悪い  合田瑠美子

『豆辞典』-「バルカン政治家」

小国家が反目し、駆け引きに明け暮れた東欧のバルカン半島の政情になぞらえ、

少数政党や小派閥を率いて政界を巧みに動き回る政治家を指す言葉。

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