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川柳的逍遥 人の世の一家言
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それ以来意地も明日も揺れている  通利一遍





                               「赤穂義士真観」 長安雅山著 (赤穂市立歴史博物館蔵)

殿中松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた場面が描かれる。
内匠頭の後ろから慌てた様子で駆け寄るのは梶川与惣兵衛。





【政治・経済】 「江戸のニュース」
「元禄十四年三月十四日辛巳」 
赤穂藩主浅野長矩 江戸城松の廊下で高家吉良義央に刃傷




播磨赤穂五万三千五百石の藩主で、勅使饗応役(馳走役・館伴役ともいう)の
浅野内匠頭長矩(ながのり)は、公式行事の最終日にあたるこの日の午前十一
時頃、高家肝煎の吉良上野介義央(よしひさ)に江戸城本丸御殿の松の廊下で
「この間の遺恨 おぼえたるか」と、いって小刀で斬り付けたが、留守居番の
梶川与惣兵衛に抱き止められ、義央の額と背中に傷を負わせただけであった。
 義央の傷の手当と長矩への事情聴取が同時に行われ、事の次第が側用人柳沢
吉保から将軍綱吉に伝えられた。
綱吉は勅使・院使の勅諭奉答式直前の刃傷事件に激高し、長矩の陸奥一関藩主
田村右京大夫建顕に預けることと、饗応役を下総佐倉藩主戸田能登守忠真に変
えることを指示した。また義央にはお咎めなしということで呉服橋内の居屋敷
に午後一時頃、平川門から戻された。
 長矩は平川門から出されて、愛宕下の田村家上屋敷に午後4時頃、着いた。
勅使・院使の公式行事が終わり、幕閣との協議の場で綱吉から長矩の即日切腹
という強い意向が示された。午後六時頃、大目付庄田安利と目付大久保権左衛
門忠鎮・多角源八郎重共が赴き、長矩の切腹が執行された。享年三十五歳。
赤穂大石邸に事件の第一報が、早水藤左衛門、菅野三平によって知らされたの
は、十八日の午後十時頃であった。




石をける以後の絵具が乾かない  前田芙巳代




        松 の 大 廊 下





「松の廊下の刃傷」~「赤穂浪士討入事件」まで



元禄15年(1702)12月に起った「赤穂浪士の仇討」は、江戸の庶民の
みならず、将軍幕閣をも驚愕させる重大事件だった。
事件は、前年の元禄14年に、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家旗本の吉良上
野介義央「遺恨」を持ち、江戸城松の廊下で吉良を斬りつけ、切腹・改易に
処されたことを発端とする。
この「忠臣蔵」と呼ばれる一連の事件には、分からないことが多い。
その一つが、「松の廊下の刃傷」に至った経緯。
大石内蔵助良雄らが討ち入りした際に、幕府に提出した「浅野内匠頭家来口上」
は名文だが、刃傷については「当座遁れ難き儀御座候か」と、あるだけで家臣
ですら、主君の心中はわかっていなかったことが知られる。




息詰まるシーンにびっしりの毛玉  山本早苗





浅野を取り押さえた留守居役の梶川与惣兵衛の日記によると、
この日の朝、御使の刻限(勅使登城の時間)が早くなったと聞き、梶川は高家
肝煎の吉良上野介義央を探して奔走する。
やっと見つけた吉良と立ち話をしている時に、吉良の背後から「この間の遺恨
覚えたるか」と、言って斬りつけたのが、勅使饗応役の浅野内匠頭長矩だった。
「この間の遺恨」とは何か。
浅野は取り押さえられた後、大声で「上野介のことはこの間から遺恨があった
から今日打ち果たしてやったのだ」と何度も叫んでいる。
また、田村邸での切腹にあたっては、側近の家臣に宛てて、「この段 兼ねて
知らせ申すべく候えども、今日やむを得ざること候ゆえ、知らせ申さず」との
言付けを番人に託している。
意味不明だが「この間の遺恨」「今日やむを得ざること」の両方が重なった
ということなのか。ともあれ、浅野は、本気で怒っていた。
そして周囲の誰も怒りの内容が理解出来ないまま、浅野は切腹をしたのである。





余白まで炎で埋める日記帳  蔵原希和






          「討 ち 入 り 絵 馬」

事件の13年後の正徳5年に、但馬の織物屋たちが天橋立の智恩寺に奉納した
絵馬。討入りの様子が生々しく描かれている。



「お家断絶から討入りまで、家臣団は一丸ではなかった」
とりわけ弟・大学による「浅野家再興」を第一に考える大石内蔵助らと江戸在
住で仇討決行を急ぐ堀部安兵衛らは、戦術をめぐって対立する。
ここで重要な役割を果たしたのが、吉田忠左衛門だ。
吉田は、堀部らに自重を求めるため大石の意を受け、一足先の元禄15年3月
には江戸に入り、芝松本町の前川忠太夫店に身を寄せていた。
ここには前年11月に、大石が最初に江戸入りした時も投宿している。
吉田は、7月に新麹町6丁目に転居し、ここが次々と江戸入りする同志の取り
敢えずの落ち着き先となる。




片足が抜けないままの迷い道  宇治田志寿子






       町人に姿を替えて潜伏する赤穂義士



赤穂浪士らの、江戸での主な潜伏先を見てみると、
吉良邸に一番近い本所相生町には、前田伊助(小豆屋五兵衛)神崎与五郎。
本所林町には、堀部安兵衛(長江長左衛門)の道場。
本所徳右衛門町には、杉野十平次ら。
両国橋を渡った西側の米沢町には、堀部弥兵衛。
新麹町6丁目には、吉田忠左衛門(篠崎太郎兵衛、後に田口一真ら)
新麹町5丁目には、富森助右衛門(山本長左衛門)一家。
新麹町4丁目には、中村勘助(山彦嘉兵衛)ら、
南八丁堀湊町には、片岡源五右衛門ら。そして、
日本橋石町大石内蔵助(垣見五郎兵衛)らが変名を使い隠れ住んでいた。
こうして商人に化けたり、公事(訴訟)での長期滞在を装いながらの潜伏は、
本当にうまくいったのか。
8月に同志を離れた酒寄作右衛門の大石宛の手紙によると、
吉田忠左衛門のいた柴松本町には、上杉家の忍びもいたという。
大きな衝突があったという記録はないが、両者が地下で、火花を散らしていた
ことを物語る。




メビウスの帯の局面として生きている  内山雅子





           大石内蔵助の手紙  (正福寺蔵 赤穂市立歴史博物館蔵)
討入り前夜の元禄15年12月13日に、内蔵助が、赤穂の花岳寺恵光和尚、
神護寺に宛てて書いた暇乞い状。
江戸での経緯、近々討入ること、同市は48人であること、討入りの正当性
の主張など、本文だけでも104行が書かれた長編である。




仇討決行前へ話を転じると、
大石が求めたのは、このころ上杉邸にいることが多かった吉良義央の在宅情報
である。
やがて、お茶会が催される日には、本所の屋敷に戻ってくることがわかる。
お茶会の宗匠は、山田宗徧で、吉良義央とは茶の師匠を共にする間柄である。
宗徧は老中・小笠原長重に仕えていて、この小笠原家と吉良家も礼法を司る
家同士で交流があった。
宗徧には、中島五郎作という町人の弟子がいたが、中嶋の借家には羽倉斎
(荷田春満)という国学者が住んでおり、羽倉は、和歌の添削で吉良家に出
入りしていた。
こうした吉良人脈に大石三平大高源五という浅野人脈がつながってくる。
大石三平は、大石一族の一人で、中嶋五郎作の友人であり、羽倉とも交流が
あった。また大高源五は、宗徧の弟子になっていた。




奴は役者舞台裏でも表でも  木村良三




最初のお茶会の情報は、12月5日だったが、これは将軍の柳沢邸御成りに重
なって直前に中止される。しかし、次の情報はすぐ来た。
14日の昼、大石三平が羽倉の手紙に「彼の方の儀は、14日の様にちらと承
り候」とあったことを伝える。
また大高源五吉良がお茶会開催の準備に帰宅するとの情報をもたらす。
大石内蔵助は、2つの情報から判断して、14日夜の討入りを決断した。




人生の横にもちゃんとある手すり  宮本美致代






    炭置き小屋に隠れていた上野介を召し捕った義士





【事件・災害】「江戸のニュース 十二月十四日壬午」 
十四日の夜頃から赤穂浪士本所松坂町吉良上野介邸に討入る





旧家老で四十四歳の大石内蔵助良雄の指揮のもと、七十六歳の堀部弥兵衛金丸
から、十五歳の大石主税良金までの四十七人の旧赤穂藩出身の浪士は、この日
の夜から、翌十五日の早暁にかけて本所松坂町の吉良邸に表門・裏門の二手に
分かれて討入り、吉良義央の首を取り、当主左兵衛義周に傷を負わせ、吉良家
家臣十六人を斬り殺し、二十人に手傷を負わせた。一方浪士側には一人の死者
も出さなかった。 火消装束の出で立ちは、三十年前の、寛文十二年に起きた
「浄瑠璃坂の敵討」を見習ったものという。


         泉岳寺への道のり

主君故浅野長矩の恨みを晴らした一行は、徒歩で品川の泉岳寺を目指した。
途中で吉田忠左衛門富森助右衛門の二人を、大目付千石伯耆守久尚の屋敷に
派遣し「浅野内匠家来口上」を持参させた。
一行は泉岳寺に到着すると、長矩の墓前に義央の首を供え、討ち入りの報告と
焼香を済ませた。大目付から報告を受けた幕閣は、上杉家に討ち手を出すこと
を禁止するとともに、泉岳寺に待機していた浪士四十六人(足軽寺坂吉右衛門
は除外)を肥後熊本藩細川家と伊予松山藩松平家と長門長府藩主毛利家と三河
岡崎藩水野家の四家に分けて預けた。
ともあれ、大石内蔵助ら47人の赤穂浪士は、1年9カ月の雌伏の末、本所の
吉良邸に侵入し、上野介を討って主君の無念を見事はらしたのである。




首一ッ五万石余のカタに取り  江戸川柳




浪士への処分は幕閣内でも意見が割れていた。識者の意見も二分した。
朱子学の室鳩巣「武士道の清華である」と賛美し、大学頭林信篤『復讐論』
を著して義士を評価した。古学派の伊藤東涯、水戸学の三宅観蘭なども同意見で
あった。
一方、柳沢吉保のブレーンでもあった荻生徂徠「この事件は、この事件は仇討
事件ではなく、主君の恥をそそぐものであっても、私の考えでしたことであり、
大義名分からいえば不義である」と述べた。
将軍綱吉や柳沢ら幕閣首脳部は、「喧嘩両成敗」の論理も戦国時代の遺風であり、
平時の幕藩体制下には古い考えとみなし、徒党を組んだ復讐を否定する法治主義
の立場から切腹と結論付けたのである。





伸び切った輪ゴムの様だと見る政治  杉浦多津子





【政治・経済】「江戸のニュース 元禄十六年二月四日癸未」 
吉良邸に討ち入った赤穂義士に切腹の沙汰






           浪 士 切 腹 の 図




幕府はなぜ、赤穂浪士を切腹させた?」
将軍のお膝元である江戸市中を騒がせ、松の廊下事件についての幕府の裁定に
異を唱えた、などと理解されている。
しかし、このとき幕府が問題視したのは、47名の浪人が武器を携えて集まり、
大石内蔵助の指揮で組織的に行動した点にある。
江戸の治安機構で、大名や高家の監督役は大目付であった。
討入り後、赤穂浪士は内匠頭の墓がある高輪・泉岳寺へ向かう途中2名が隊を
離れて、大目付の仙石伯耆守久尚の元へ報告に向かっている。
仕組みと手続きを十分承知していた大石の差配である。
仇討ちは、儒教道徳にかない賛美できる一挙だったが、先に「浅野切腹吉良お
咎めなし」という処分を下した手前、死刑か助命か幕府は頭を悩ませた。
結局、仇討は認めなかったが、浪士に配慮した切腹に落ち着いたのである。




風船の誘ってくれた川向こう  みつ木もも花

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月が綺麗です 帰ってきませんか  平井美智子





             光源氏が「北山のなにがし寺」で出逢った少女
病の加持祈祷のため、北山の寺(鞍馬寺)を訪れた光源氏は、多くの僧房の
中でも、目立って綺麗に小柴垣が廻らせられ庭の作りも凝った家を見つけ、
そこで密かに思いを寄せている藤壺に似た少女を垣間見ます。
この少女は、藤壺の兄の娘で、祖母である北山の尼君のもとで育てられて
いましたがその後、尼君が亡くなり、身寄りをなくします。
光源氏は少女を引き取り、理想的な女性として育てます。
この少女が「紫の上」でした。

血縁も絶えて古さと風ばかり  靏田寿子





          紫 式 部  (谷文晁筆)





【紫式部は「源氏物語』を生涯のいつごろに書いたのか?】
この点については古来様々な説があり、起筆の時期にかぎっても、藤原宣孝
の結婚以前ないし、結婚生活中、あるいは、宣孝死後から宮仕え以前、そして
宮仕え以後の三説が存在。
擱筆(筆をおくこと)に関しても、より細かな推定がなされていますが、
「紫式部日記」の1008年(寛弘5)に「かの上(紫の上のこと)との記述
があることから、この時点で、紫の上を「上」と述べるあたりまで物語が進ん
でいたのは、ほぼ間違いありません。
その一方、、通説とされてきた出仕後の起筆には疑義が呈され、現在では夫の
死後、宮仕えまでに書き起こされた物語が、出仕後に見聞した宮中の出来事で
肉づけされ、1009年(寛弘6)から1013年(長和2)に、ひとまずの
完成をみたと推定されています。
なお紫式部は、源氏物語完成の翌年1014年(長和3)死去しています。

蜘蛛の巣も魚取る網も会者定離  田中博造

式部ー光るの君、おしまいの章





                       『源氏物語画帖 若紫』
源氏は義母藤壺と密通し、その結果、不義の子・冷泉帝が誕生。
一方で藤壺ゆかりの女性、紫の上を二条院に引き取り大切に慈しむ。




       病気が重くなって、やつれては行くもののなお美しい~紫の上~

光源氏の正妻・葵の上の亡き後、正妻格となった紫の上藤壺の姪。
数多い源氏を取り巻く女性の中で、源氏が、もっとも愛したのは、「紫の上」
でした。読者の人気投票でも、紫の上が堂々の一位に輝いています。
さて、紫の上の最後を看取った源氏はどうなるのか。

ラストシーンからはじまっていく物語  岩田多佳子





                             『源氏物語画帖 玉鬘』 土佐光吉筆
外は雪。年の暮れを迎え光源氏紫の上と、女君たちに贈る新年の衣装を選び、
年配の女房たちが衣装箱から衣を出して、整えている。
紫の上はまだ会ったことのない源氏の女君たちの人柄を想像しながら、女主人
としての細やかな心づかいを示す。
源氏の前にあるのは柳襲で、末摘花のもの。
右側の御簾の前で女房が捧げ持つのは淡票に虹の取り合わせで花散里のもの。




   碁盤の上にのる幼い紫の上





【紫の上をめぐる出来事とそのときの源氏】
10歳ー北山で源氏に見いだされ、二条院に引き取られる。
 源氏はー藤壺と密通。夕顔急死後、末摘花に懸想する。
14歳源氏と新枕を交わし結婚する。
 源氏はー六条御息所と正妻・葵の上の車争いが起る。
     葵の上は夕霧を出産の後、死去。
18歳源氏が須磨に下向し、平安京で寂しく暮らす。源氏と明石の君との仲
    を知り、不安にかられる。
 源氏はー須磨下向。その後明石の地で明石の君と出会い、契る。
23歳明石の君の娘、明石の姫君を養女として愛育する。
 源氏はー二条東院落成。
     明石の君に上京をすすめ明石の姫君を二条院に引き取る。
28歳源氏との末永い契りを願って歌を詠み交わす。
31歳明石の姫君入内。後見役を明石の君と定め、交代する。
 源氏はー准太政大臣に任ぜられる。この世の栄華を手中に。
32歳女三宮が降嫁すると知り、動揺するが平静を装い支度をする。
 源氏はー藤壺の姪にあたる女三宮を正妻にする。
     しかし、女三宮の幼さに失望する。
38歳源氏への失望から出家を願うが叶わない。
 源氏はー明石の女御が皇子を出産。権力基盤はますます堅固とばる。
39歳ー人生への絶望と心労から発病。危篤状態になるが、蘇生。
 源氏はー正妻、女三宮柏木と密通、懐妊。
43歳ーなお病重く、出家を望むが源氏に許されない。
    明石の中宮匂宮に後事を託し、死去する。
 源氏はー柏木女三宮の密通を知り衝撃を受ける。
     柏木は病死し女三宮は出家。紫の上の死去に悲嘆し人生を述懐する。
心ってなんだろう淋しいのです  足立玲子






         紫の上、死の前の歌の交換



紫の上が亡くなる前、少しだけ体を起こし、庭の萩の上露をみて歌を読みます。
源氏明石の中宮がそれに答えます。
明石の中宮は、源氏と明石の君の子ですが、小さい時から紫の上が育てました。
最後に手をとるのは、明石の中宮です。
三人が同じ萩の葉の上の露を見て、はかない命を歌にします。
源氏物語の中でも、一番悲しい場面になりました。
おくと見るほどぞはかなきともすれば 風に乱るる萩はぎの上うわ露
(起きては見ましたが、私の命は 風に乱れる萩の上露(うわつゆ)のように
 儚いものです)
ややもせば消えをあらそふ露の世に 後れ先だつほど経ずもがな 
(ともすれば、先を争って露のように死んでゆく世の中ですが、私も一緒に、
死にたいものです)
秋風にしばしとまらぬ露の世を たれか草葉のうへとのみ見む 明石の中宮
(秋風に吹かれ、とどまることのない露を 誰が草の上だけのことだと思うで
しょうか 明石の中宮)



姉さんはときどき造花っぽく笑う  くんじろう





 
                             「源氏物語画帖 松風」


光源氏、娘との初めての対面の場面




光源氏と関わった女君のうち、紫の上は、明石の君、玉鬘、女三の宮らと対面
しています。さて、紫の上と女君の仲は…?
明石の君とは、紫の上も、はじめは嫉妬にかられていましたが、対面してから
は素晴らしい女性と認め、打ち解けています。
紫の上と明石の君、ふたりのヒロインが顔を合わせたのは、明石の君の娘の
明石の姫君が入内した時のことでした。
明石の姫君に付き添って参内した紫の上が退出する際、入れ替わって参内した
明石の君と対面します。
紫の上は、明石の君に対して「うとうとしき隔ては残るまじくや」
(あなたとはもう、他人行儀な遠慮はありませんね)
と、優しく言って世間話をはじめます。そして明石の君の物言いや物腰に、
「大臣(源氏)がこの方を大事になさるのは、もっともなこと」と、受領の娘
とは思えないほど感心すれば、明石の君も、紫の上の気高い容姿を、いかにも
立派と感じ入り「大勢いらっしゃる女君のなかでも、格別に寵愛を受けている
のももっともなこと」と、深く納得するのでした。 (「藤裏葉」の帖より)



蒟蒻の裏と表の間柄  新海信二





          女三宮と光源氏




女三宮とは「若菜の帖」で、幼さの残る女三の宮に、母親のような態度で優し
く接する。女三の宮は、紫の上になじみ、以降、文のやりとりなどをして親密
に交際するように…。
玉鬘とは、「胡蝶の帖」で、男踏歌(おとことうか)の折に対面。以後、しば
しば文を交わす仲に…。



正しい位置に直す二つ目の鼻  蟹口和枝










「紫の上と明石の姫君の関係------その後」
「実の母君よりも、この御方をば睦ましきものに頼みきこえたまへり」
紫の上もまた明石の姫君を、実の娘のような気持ちで慕い続けます。
実の母・明石の君からも「紫の上様の親切を忘れぬように」と諭され、父源氏
からも「紫の上を大切に思うように」訓戒されていました。
そして、紫の上が法華経供養を行った際には、中宮として助け、彼女が病に臥
してからは、見舞いに訪れ、臨終の折にも立ち会います。
その後も、紫の上のことをわすれることはなかったようです。(若紫 上の帖)



ゆるキャラのような海月にいやされる  大内朝子










※ 【参考書】 「ソロモンの審判」 どこかで聞いたような…
8年間、母親のように立派な娘に育てた紫の上と実母の明石の君の娘をめぐっ
てふたりの小さな争いがありました、が紫式部は次の審判の結末を知っていた
のでしょうか?
『旧約聖書』には、ひとりの子供を巡って、争うふたりの女性を見事に裁いた
ソロモンの話が記されています。
「ソロモンの審判」という名前で有名なこの話は、2人の女性が、ソロモン王
の前に現われて、ともに自分の子だと言い張るところから始まります。
実は、片方の女性は、添い寝しながら誤って乳房で子供を殺してしまったため、
もうひとりの女性から赤ん坊を奪ったのです。  王は即座に言いました。
「では、この赤ん坊を真っ二つに切り裂いて分けよう」
すると片方の女性が、「それだけはやめてください。この女にやってもいいで
すから命だけはとらないで」と、叫びました。
そこで王は、こちらの女性こそ母親と判決を下し、ことを収めました。



それはもうとてもせつない嘘でした  吉松澄子



紫の上没後源氏紫の上藤壺のことをうっかり語った際、それを恨み
源氏の夢枕に立ったりもしている(「朝顔」)。
また源氏が紫の上を見出したのも、そもそもは、紫の上が藤壺の姪で彼女
に瓜二つの美貌であったためであり(「若紫」)後に、朱雀院から女三宮
降嫁の話を持ちかけられた折も、女三宮が、紫の上同様に藤壺の姪である
ことにも心動かされて承諾してしまう(「若菜上」)。
源氏の生涯を通じて、彼の女性関係の根源に紫の上は深く関わり続け、
永遠の恋人といえる存在であった。



思い出の嫌な部分がきえてゆく  竹永博義





                           源氏物語画帖 幻 土佐光則


亡き紫の上を偲ぶ日々、源氏の心を慰めるのは、紫の上が死の直前まで手塩に
かけた明石の中宮の子三ノ宮(後の匂宮)だけだった。
光源氏 晩年ー光源氏52歳の正月から12月の晦日までの一年間。
紫の上が世を去り、また新しい年がめぐってきた。
新春の光を見ても、悲しさは改まらず、源氏は、年賀の客にも会わずに引き
こもっている。そして、紫の上に仕えていた女房たちを話相手に、後悔と懺悔
の日々を過ごしていた。
明石の中宮は、紫の上が可愛がっていた三の宮(匂宮)を、源氏の慰めに残し
宮中に帰る。
春が深まるにつれ、春を愛した故人への思いは募る。
しかし、女三宮や明石の御方のもとを訪れても、紫の上を失った悲しみが深ま
るだけだった。



自らを削るしかない消去法  鮒子由嘉子





                                            源氏物語手鑑 御法 (土佐光吉筆 和泉市久保物記念美術館蔵)


極楽曼荼羅の供養の準備をする光源氏。
病に臥した紫の上は、二条院で行った法華経供養に列席した明石の君に死を前
にした心細い気持ちを認めた文を送る。
明石の君は、紫の上の気持ちを察し、あたりさわりのない文を返した。



4月花散里から衣替えの衣装と歌が届けられる。
五月雨の頃、夕霧紫の上の一周忌の手配を頼む。
8月の命日には、生前に紫の上が発願していた極楽曼荼羅の供養を営んだ。
年が明けたら、出家を果たす考えの源氏は、身辺を整理しはじめる。
その途中、須磨にいたころに届いた紫の上の手紙の束が出てきた。
墨の色も今書いたかのように美しく、寂寥の念はひとしおだが、すべて破って
燃やしてしまう。
12月、六条院で行われた御仏名の席で、源氏は久しぶりに公に姿を現した。
その姿は「光る君」と愛でられた頃よりも一層美しく光り輝いており、昔を知
る僧並びに、出席した貴族たちは涙を流した。
晦日、追儺に、はしゃぎまわる三の宮を見るのもこれが最後と思う。
源氏は最後の新年を迎えるための準備をした。
”もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に 年もわが世も今日や尽きぬる”



ビビンパのおこげのようにやさぐれる  笠嶋恵美子





                                  源氏物語画帖 幻 土佐光吉


源氏の晩年、出家へ向けて心の整理をつけるべく、源氏は手もとに残した
紫の上からの文を気心の知れた女房たちに破らせ、ついにはそのすべてを
焼かせてしまう。

「来るべき出家の暗示を最後に、終りを迎える光源氏の物語」
この「幻」の帖と、続く「匂兵部卿」の帖との間には、巻名のみあって本文の
ない「雲隠れ」なる帖を置くのが、通例とされてきました。
すなわち「雲隠る」とは、死を比喩的に表す表現で、帖名自体が出家、そして、
薨去へといたる源氏の行く末を暗示している、と思われますが、その本文は、
もともとなかったのか、中途で失われたのか…それ以前に、こうした趣向その
ものが作者の意図したものだったのかなど、解釈は実にさまざま。
ともあれ、「幻」の帖のラストで神々しいばかりの姿を、読者の脳裡に焼き付
けた源氏は、その最期を描かれることなく、「匂兵部卿」の帖の冒頭では、
「光隠れたまひにし後-------」 光のごとき源氏の君が、前帖から8年を経て、
新たな物語が幕を開けることになるのです。



梯子ですかいいえおぼろ昆布です  酒井かがり





       源氏物語執筆中の紫式部の檜扇





【千年後の皆様へ】 
こうして私なりに、宮中での日々を思い起こしておりますと、心ならずも足を
踏み入れた別世界に、ふさわしくないと思いながらも、馴染んでしまった…、
そんないくばくかの歯がゆさ、そして、私のような内向きの性格の者が宮仕え
という、晴れがましいお勤めをさせていただいたことの、運命の不思議さを感
じてしまいます。
でもお陰さまでこうして、後の世の皆様に千年も昔の「働く女性姿」をわずか
ながらでもお伝えできたということだけで、ものを書くことを何より楽しみと
する身としては光栄至極といえましょう。
さて、ずいぶん長々とお喋りしてしまいました。
このあたりで昔語りも終わりにしましょうか。
えっ?私が無事に出家を果たして聖の道を歩んだか?
それはあくまで、皆様のご想像におまかせしたいと存じます。
                              紫式部より



手の甲の秋はさ行になっている  井上恵津子

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上げ底の地下一階にある作為  前中知栄






             加冠の儀の場面

帝から今まさに御衣が下賜されたところ、命婦がそれを加冠役の
左大臣のもとへ運んでいる。光る君は向かって右に居並ぶ年上の
親王方の末席に連なっている。原典の『源氏』ではこの時すでに
元服は終わっているはずなので、光る君がここおではなぜ、まだ
角髪姿なのかは不明。






        光源氏17歳




「光源氏はマザコンだったのか?」
『源氏物語』最大のヒロインといえば義母でありながら、光源氏が人生で忘れ
ることのなかった恋をする相手、藤壺の宮だろう。
「光源氏の母桐壺更衣に似ている」という理由で、藤壺は桐壺帝の中宮となる。
しかし、思いがけず桐壺帝の息子である光源氏に愛されてしまいます。
源氏は、藤壺の宮に懸想するあまり、自分の邸宅のリフォームが完成したとき
ですら、「あー、こんな家に藤壺の宮と住めたらいいのになあ」なんて思って
いた。もうすぐ結婚する妻(葵の上)がいるにもかかわらず…。である。
幼くして母を亡くした源氏にとって、<母にそっくり>と聞けば……、
「自分の母親的存在に恋をしたマザコン」ともみられる。
しかし、源氏と藤壺の年の差は、6歳しか違わない…のにである。




網に目をするりと抜けるナルシスト  前田芙巳代






         源氏物語色紙絵
奥には桐壺帝が座り、源氏の前に座るのが加冠役の左大臣、
右が理髪役の大蔵卿




式部ー藤壺--白鷺 ②




【前月号までのあらすじ】
顔も知らぬ母、桐壺更衣の面影を求めてか、義理の母である藤壺に憧れをつの
らせる源氏の君。人も羨む睦まじさのふたりですが、元服の前夜「明日からは
もう大人」という藤壺のことばに、源氏はとまどいを隠せません。
同じころ、添臥(結婚)の相手には、左大臣の娘・葵の上が選ばれていました。




さすが役者で車間距離はとっている  桑原伸吉



女性にも、いろいろなキャラクターがいるのは、今も昔も同じこと。
同じ名家のお姫様でも、藤壺は非の打ち所のない女性として描かれていますが、
さて、源氏の最初の妻になる葵の上とは、どんなタイプなのでしょう?
母は桐壺帝の妹、父は、左大臣という貴族中の貴族という申し分のない家柄。
そのなかで大切に育てられた葵の上は、美しく上品でありましたが、気位が
高くどこか冷たい感じの女性でした。




飲み込んだキミは確かに苦かった  高橋レニ




光源氏元服の儀の前夜の左大臣家
「ひどいわ 父上も母上も、これは私のことよ」
左大臣「葵よ、帝のお言葉だから私はお受けしたのではないよ。
    葵にとって、女にとって何がより幸せか考えての上なんだよ」
「でも 私は光る君より四っも年上よ」
左大臣「4っ位の年の差が何じゃ。15も20も年上で入内された女御もおい
    でだ…大きな声では言えないが、光る君と東宮の差、弟君なのに光る
    君のほうがはるかに優れ器も大きい」




雲ちぎって獏一頭を編みあげる  岩田多佳子






        光源氏12歳





身分の高い男子が元服した夜、添い寝する女性が添臥です。
男性への性教育の意味もあり、年上の女性がつとめ、そのまま正妻になること
が多かったのです。光源氏に添臥、葵の上は、源氏より4歳年上で家柄もよく
申し分のない組み合わせなのですが、当事者の気持ちとなると、どうだったで
しょう。世紀のプレイボーイとなる源氏も、なにせまだまだ12歳。
当時の恋愛に欠かせない和歌の贈答も、ないままの結婚です。




わたしに送ることばを歌うてくれますか  森本夷一郎





【参考書】 貴公子の就職事情
元服したら、男性はいよいよ就職。
しかるべくポストを得るには、家柄とコネがものをいいました。
エリートの家に生まれた上級官人の場合、まずは参議、中納言、大納言といっ
た閣僚クラス、最後には大臣になるのが共通の目標です。
なかでも、若いうちに天皇側近の蔵人頭、武官であれば、近衛中将などを経験
するのが、出世コースのナンバーワン。
源氏の親友で葵の兄・頭中将は、この二つを兼務、まさに憧れの的でした。




消えそうな波紋に怯えている器  くんじろう






             頭中将と葵の上




左大臣邸。
光源氏の親友であり、葵の兄でもある頭中将が、光源氏の素晴らしさを語り、
葵の上を説得します。
頭中将「父上のおっしゃるとおりだよ」
葵の上「兄上」
頭中将「その上 光る君は男から見ても惚れ惚れとする」
葵の上「そんなにお美しい…?」
頭中将「ああ たしかにお美しい。光る君と並びたてるのは、藤壺女御さま
    くらいだろうね。それに女房達も、藤壺さまを輝く日の君といって
    いるくらいだからね」
葵の上「女よりも美しい方、なにもかも完璧な方、そのようなお方は気が疲れ
    ます。私はいやです」
頭中将「心配ないよ、葵もなかなかのもの、いいとこをいっていると思うよ。
    この兄が言うのだ間違いはない」
葵の上「この兄が…って?」
頭中将「うっ…いやなに、その女を見る目はあるということだよ」




三叉路の先に答が二つある  宇治田志寿子




葵の上の兄、頭中将は、やがて光源氏にとって欠かせない無二の親友、恋の
ライバル、後には、政治の敵同士になります。
(彼はすでに、左大臣の四の宮と政略結婚していますが、華やかな恋愛体験
を重ねていて、その女性観は、有名な「箒木」の帖「雨夜の品定め」でじっ
くりと語られることになります)
さて、どこか生真面目なところがある左大臣
右大臣深謀遠慮にやっと気がついたようです。
------今にして思えば、まず直房、つぎにを東宮妃に…は、弘徽殿の女御と
右大臣の計画だったんだ。誰の目にも、東宮より光る君を愛しておいで
になる。私の妻は、帝の御妹だし葵が光の君の添臥しになると帝と我が家は、
より強く結びつく。右大臣側はそれを恐れて阻止しようとしていたのだ。




消しゴムがこんなに欲しい夜がある  田中博造




宵の左大臣邸の庭にて右大臣の欲の深さを知る左大臣と頭中将の会話。
頭中将「源氏君は、私にも大事な無二の親友だ。妹の婿としてこの邸へ通って
    おいでになれば、私も嬉しいよ」
葵の上「…」
頭中将「弘徽殿の女御の一の皇子の東宮妃より絶対にいいぞ」
邸の庭へ下りる階段で、右大臣の欲の深さを知る左大臣がそれを聞いて。
左大臣「直房(頭中将)よ、お前は右大臣の姫のひとり四の宮の婿じゃ。
    立場が悪くならなければよいがの」
頭中将「父上 大丈夫です。葵のことは父上から願い出たことじゃなし。
    ただどうも、私は右大臣家も四の宮とも性があわなくて」
左大臣「そこを堪えて たまには通ったほうがよいのではないか」
頭中将「わかってはいるんですが、どうも馴染めなくて…」
左大臣「右大臣も弘徽殿もあの一派は、腹が黒すぎる」
頭中将「父上がきれいすぎるんですよ」




うふふという答えうつむくという答え  徳山泰子






   宮廷の序列 右大臣と左大臣、どちらが偉かったのでしょう?

朝廷の官職では最高位が「左大臣」、その次が「右大臣」だった。 
これは、不動の北極星に例えられる天皇が南を向いて民を見守る
との政治思想に由来する。 日が昇る縁起の良い方角である東は、
天皇の左手側なので、格上の大臣は左に立つのがならわしになった。




なぜは、光源氏と左大臣の娘・葵の上を結婚させたかったのでしょう?
帝とすれば、どちらの大臣が力をもちすぎるのも、避けたいことです。
今のところ、妃の弘徽殿皇太子も右大臣側の人間。
しかし、可愛い源氏を左大臣の姫と結婚させれば、左大臣の妻は自分の妹だし、
つながりも濃くなり、いいバランスです。
左大臣というしっかりとした後見もでき、弘徽殿から守ることもできます。
熟考のうえに下した帝の選択でした。




正解は最後のページの下の方  杉浦多津子




気性が激しく意地の悪い弘徽殿は、「源氏物語」のなかで、欠かすことのでき
ない悪役です。柄にもなく、母を亡くした光源氏を憐れに思い、可愛がる時期
もあったのですが、桐壺更衣そっくりの藤壺の登場や、自分の息子である東宮
の妻にと考えていた葵の上が、光源氏の添臥になってしまうなどあって、
結局は憎しみが再燃します。
一方、藤壺は、源氏の元服がふたりの間におよぼす意味を理解していました。




中二階天狗の鼻が浮遊する  井上恵津子






  元服後の美しい光源氏




元服を迎えると、その日から、姿形はすっかり変わります。
子供時代の髪(角髪)を切り、冠を着用し、装束も子供用から大人用に。
そして何より、もう大人の男になるのですから、光源氏といえども、今までの
ように、後宮の女たちの御簾のなかに、自由に出入りできなくなります。
もちろん、藤壺の局にも、あの美しい源氏に気軽に逢えなくなると思うと、
藤壺もなぜか、ほろ苦い思いです。
<あんなに角髪の似合う童を私は見たことがない。御髪上げのお役は、大蔵卿
加冠のお役は左大臣が…添臥しも左大臣の姫にお決まりとか…。
どのようなお姿におなりであろう。明日の加冠のお式のどよめきが、私には聞
こえてくるような気がする>
「角髪結ひたまへるつらつき、頬のにほい、さま変へたまはむこと惜しげなり、
上は 御息女の見ましかはと忍し出づるに たへがたきを心つよく、念じかへ
させたまふ…<一目でいいから、亡き桐壺更衣に見せたかった…>と念じなが
らも、今にも零れそうな涙をこらえる帝であった。




ひとりにはひとりの美学寒牡丹  柴田園江




いくら元服を迎えるとはいえ、光源氏は12歳とまだ幼い身です。
角髪を解き、冠をかぶせてしまえば、輝くばかりの器量も見劣りしてしまうの
ではあるまいか…。そんな帝の思いも杞憂に終わります。
むしろ幼年の時以上に凛々しく、神々しい美しさは増したかのようで、参列の
人々は感激の涙、涙です。
思えば、桐壺更衣の亡き後、常に側に置き、目をかけて育てた大切な君。
が感無量なのも無理はありません。




雨の日に無償の愛をくれた人  村山浩吉




【参考書】 加冠役
元服の際の立会人である加冠や理髪、能冠の役は、とりわけ、徳望のある人物
を選ぶのがならわしです。
例えば、帝の場合、能冠には多く内蔵頭があたり、理髪役は左大臣、もっとも
重要な加冠役には太政大臣が選ばれました。
これは臣下でも同様で、加冠役には、氏長者を頼んだり、摂政関白の邸に赴き、
そこで儀式を行うことも。高位の貴族の子弟になると、光源氏の場合のように
清涼殿で式を行い、時には帝自らが加冠を引き受けるケースもあったようです。




バケツにはバケツに似合うもの入れる  宮本美致代





                                        『車争い図屏風』 (狩野山楽画 東京国立博物館所蔵)
牛車をとめる場所をめぐって争う葵の上と六条御息所の下人たち。
『源氏物語』のなかでもよく知られたこの「車争い」が原因で、
六条御息所の生霊は葵の上に取りつき、その命を奪います。




「葵の上の悲運」
東宮妃といえば、貴族の娘の憧れの的でした。
それにもなれたであろう葵の上は、はじめて源氏を目にしたとき、「美しい方」
と思わず息を呑みます。
それはほとんど一目惚れにも似た感情で、一目で源氏に恋したのです。
東宮妃の地位など、すっかり忘れさせる出逢いでした。
ところが、われに返った時、自分が年上であることが、無性に恥ずかしく思えた
のです。4歳年上ということが高ぶる気持ちに水をかけます。
源氏にふさわしい妻ではないのでは、この思いが、その後の葵の上を縛っていく
のです。





笑いたくなくて造花のふりをする  みつ木もも花






     画像の左上が光源氏 几帳を挟んで右が葵の上




ふたりの結婚は、はじめからぎくしゃくしたものでした。
深窓育ちの姫君らしく、葵の上は教養もあり、立ち居振る舞いもきちんとして
いるのですが、夫との会話は弾みません。
源氏にはそれが不満でした。もう少し打ち解けてたまには相槌のひとつも打っ
てほしい、と思うのです。そしてつい、「この間の患いの折、あなたの見舞い
のことばを聞きたかったのに」と、愚痴をこぼします。
それに対して、葵の上は、古歌をひいて、「尋ねられない私の胸の苦しみを、
ご存知っでしょうか」と答えます。
その歌は、忍んで通い合う恋人たちの間で歌われたものでしたから、源氏は
「夫婦の間で何をいまさら」と腹をたてます。
こんな具合に擦れ違う結婚生活でした。




少しづつ小皿に分ける愚痴  東おさむ




葵の上はけっして冷たい妻ではありませんでした。
源氏との結婚がうまくいかなかった理由の大半は、源氏に原因があるのです。
早くから葵の上は気づいていました。
この年若い夫の心には、自分以外の女性がいることに。
源氏を愛しているからこそ、それは感嘆に見破れることでした。
事実、源氏の心は葵の上から離れていました。
藤壺こそ、彼の想いを寄せる女性、新妻がいるにもかかわらず、
藤壺のような方こそ、妻にしたいと思っていたのです。




フジツボやない歴とした目玉や  酒井かがり




一夫多妻の結婚制度、そのうえ愛人がいるのが当たり前の世の中とはいえ、
これはひどすぎます。
新婚早々から、一目惚れした夫に年の差を感じる苦しさに加え、
愛されていないと悟った哀しさのなかで結婚生活を続けていくのですから、
そして、結婚9年にして子供を得たというのに、夫の愛人の生霊が取り憑き、
出産後急死してしまうのです。
(紫式部は、まるで、葵の上の悲運を楽しむかのように、冷淡に、その短い
一生の幕を閉じてしまうのです)




夜を作ったのは神様の誤算  上砂眞笑

拍手[2回]

あたふたとオセロの恋は裏返る  内田真理子






                                   元服を控える光る宮


「前号までのあらすじ」
源氏の心をとらえた「桜の精」こそ、先帝の姫、藤壺
亡き桐壺更衣に生き写しという、姫の入内を帝は熱望します。
嫉妬うずまく後宮にしりごみする藤壺も「あの御子に会えるかも」という淡い
想いに入内を決意。しかし、の前で再会した2人を待っていたのは、義理の
母子というあまりにつらい宿命でした。




「こんなはずじゃなかった」を陰干しに  きゅういち






        藤壺の局を訪れる光源氏




式部ー藤壺--白鷺




桐壺更衣がまだ生きていたころ、宮中のお妃や女房たちが、余りにひどい苛め
をするので、帝は自分の住む清涼殿の西側にある局を、更衣の控えの間として
与えました。
そこは後涼殿と呼ばれる建物で、もともと別の更衣が住んでいました。
その更衣が、今は出家してここに登場する後涼院です。
(原作では、局を追い出された後涼殿更衣が、桐壺更衣をひどく恨んだという
 くだりがあります)




羊羹をバナナのみたいに剥いて食う  山本さくら





華やかな内裏を去り、郷里に旅立つ鈴鹿が、お仕えした後涼院の庵にお別れの
挨拶に訪れる。
後涼院「遠い伊勢の鈴鹿まで供は、あの者ひとりですか」
鈴鹿「いいえ 後涼院さま。郷里の父からの伝言では洛中では供はひとり、
   でも何人かの見えつ隠れつの警護をつけてあるからと…。羅城門を出て
   からはまとまって鈴鹿へ向かいます」
後涼院「ああ それなら安心。近頃の火付け・夜盗のひどいこと、耳に入るの
    は恐ろしい噂ばかり」
鈴鹿「私のようにお仕えしていた女房たちも、ひとり去りふたり去り、内裏の
   昔を思えばこんな山の中に」
後涼院「いいえ 私は今の方が幸せですよ。帝の愛を我こそと競り合った内裏は、
    彩りだけは華やかでも闇の日々でしたもの。私が出家の決意をしたのは
    あの雪の夜です。
鈴鹿「桐壺更衣さまがお倒れになったあの時に…?」
後涼院「ええ桐壺更衣の控えの間にするからと、私が清涼殿から出された時です」




針山の中はふんわりやわらかい  山田 雅子




※ 蘊蓄
都として栄え、華麗な王朝文化が花開いた平安京も、その治安は決して安全
とはいえませんでした。昼間こそ賑やか大路小路も、夜ともなれば、真の闇、
その中を夜盗や魑魅魍魎の群れが跋扈していたといいます。
なかでも「袴垂(はかまだれ)」という名の男は、狙った獲物は絶対に逃が
さないという大盗賊が出没しました。






          「藤原保昌月下弄笛図」 月岡芳年 





 『今昔物語』には、有名な豪傑の藤原保昌をそれと知らずに襲い、逆に
圧倒されてしまう話もあります。
笛を吹き悠然と歩く保昌に襲いかかろうとする袴垂だが落ち着き払った相手
の気迫にどうすることもできない。
一喝され、邸へついていくと「欲しければまた来い、気心も知れぬ者を襲っ
てケガなどするなよ」と、立派な着物を与えられたという。藤原保昌は音に
聞こえた大豪傑で、恋多き女和泉式部の晩年の夫となった。




世の中を斜にながめるねぎぼうず  吉岡 民



桐壺更衣を忘れられず、どんな女性にも心を動かさなかったですが、藤壺
入内してからはすっかり様子が変わります。
それにしても、宮中では、相変わらず女たちの、どす黒い思惑が渦巻いている
ようです。帝の動向に一揆一憂し、一族繁栄のためには、ほかの女御や更衣を
陥れても帝に愛されなければならない。そんな強迫観念から解放された後涼院
は、今、むしろ、すがすがしい気持ちです。




鏡の中で消えた笑窪を探します  宇治田志寿子




後涼院の庵から伊勢の実家へ旅立つ鈴鹿。
後涼院「だからといって すぐ出家ではあまりにも直截すぎてかえって惨め、
    出家の時機を待っていたのですよ」
去るものは日々に疎し。あれほど愛された桐壺更衣なのに、その形代に入内
した藤壺女御ひとりには、もう心を移している。
後涼院「弘徽殿の女御でさえ、もう影は薄い。ましてや私などは」
鈴鹿「後涼院さま、そんな!」
後涼院「慰めはいりません。今、私は幸せなのですよ」
<この光、風、小鳥のさえずり、野山の四季…内裏の御簾と几帳の中では分ら
 ぬこと…>
後涼院「内裏で見たこと聞いたことは、鈴鹿のこれからに役立ちましょう。
    受領の父御のもとに帰ったら、健やかな若い男と幸せな日々を過ごす
    のですよ」



残された時間を人として生きる  井本健治





    建礼門院が庵を結んだ大原の寂光院



※ 【蘊蓄】
平清盛の娘として高倉天皇に入内し、安徳天皇を産んだ建礼門院も、平家滅亡
の後、鄙びた山里洛北の大原にひとり隠棲し生き永らえた。栄華を極めた御所
での暮らしとは、似ても似つかぬ詫び住まいでした。




鈴鹿は何年も前に野で見かけた、まるで絵のように美しい母子をずっと忘れる
ことが出来ませんでした。秋の野で出逢ったその母子は、ありし日の桐壺更衣
と幼い光源氏。偶然にも、故郷へと発つ日に、鈴鹿は光源氏に再会します。
そして、形見の布とともに、桐壺更衣の心根の優しさを伝えます。
源氏の心のなかには、顔さえ覚えていない母の伝説が、またひとつ増えていく
のです。




少年の一途に恋の矢がささる  河相美代子





京を去る日、鈴鹿桐壺更衣光る君にはじめて会ったありし日の野に,光る君、
惟光、大輔の3人の屈託なく遊ぶ子どもたちを見かけます。
惟光「ひばりの卵見つけたよ、三つも」
大輔「わたしはすみれよ」
光る君「母鳥が嘆くよ 返しておいで」
鈴鹿「まさか、あれは 光る君では!」
鈴鹿、子どもたちの近くへ寄って
鈴鹿「光る君さま!鈴鹿と申します。都の最後の日にお目にかかれるとは!
   桐壺更衣さまのお引き合わせでしょう…」
「…?」 鈴鹿は
「この布は、光る君の母上桐壺更衣さまの衣の布です」といい、小さな布を
光る君に手渡しします。
鈴鹿「私がこの野で指を怪我をしたとき、ご自分の衣を裂いて手当てをして
   くださった布です。今まで、私のお守りにしていた布です」
光る君「ぼくの母上の…? 全然ぼくは覚えてないな」
鈴鹿「あの時、光る君は、まだお小さくて。その母上さまの布です、これか
   らは、光る君のお守りです。お渡ししますね」
といい、軽く会釈を残し、伊勢へむかって発っていく鈴鹿でした。
光る君「ありがとう。 鈴鹿」




お別れの際は細く息を吐く  酒井かがり




物を贈るセンスも抜群の光源氏です。子供ながら、花や紅葉など季節の自然の
趣を贈り、そのタイミングもじつに心得ていました。
後には、気の利いた歌を添えたりもするようになります。王朝貴族たちは何に
つけても、とにかく自然の移ろいに敏感で、その繊細な感覚を持つ人こそが、
「雅」でした。うまれついての上質の雅を、身につけている光源氏は、やはり
時代のヒーローなのです。

春の野から光の君らは内裏へ戻ってきます。
「そんなに急いでどこへ行かれる」光る君が渡り廊下を歩いていると、弘徽殿
の女御に出くわし、訝しい口調で声をかけてきます。
「あっ!弘徽殿の女御さま。藤壺女御さまにこのすみれを差上げようと思って
 きれいでしょう。弘徽殿の女御さまにも半分あげましょう」
「あ-----ありがとう」弘徽殿のそばについていた女房ふたりが「かっわいい」
目を細めると「なにが!?」と弘徽殿の女御は、相変わらず嫌ごとを吐いている。




削りすぎた芯も心もたあいなし  荒井慶子





        『源氏物語画帖 箒木』 土佐光吉



※ 【蘊蓄】 絵巻物を読み解く
絵巻物をはじめ、日本古来の「大和絵」には、雲のようなものが多くえがかれ
ています。これを「霞または金雲」といい、場面の転換や連続しない、いくつ
もの空間を一画面に描くために用いられました。
ほかにも銀泥で描かれて「夜」を象徴するなど、霞はいろいろに工夫され効果
をあげています。




芒よりバラを飾れとお月さま  近藤北舟




弘徽殿の愛息・一の皇子が元服の式を行ったのは3年前のこと。
いよいよ今度は光源氏の番です。皇太子より格は落としますが、がどの皇子
よりもかわいがった光源氏の元服式です。
形式ばった心のこもらない儀式にならないよう、帝みずからあちこちの役所に
声をかけておきます。光源氏の美しい元服姿を見たい、という人々の思いも、
あいまって内裏は浮き立っていっました。
こうなると、面白くないのは弘徽殿女御です。






    光る君元服の前日



光る君が元服する前日、その準備に内裏があわただしい。
弘徽殿「何をしている?」
女房達「あ--弘徽殿の女御さま! 清涼殿の東廂(ひさし)の間へ光る君さま
    の初冠のお式の調度を運んでおります」
弘徽殿「東廂の間ねぇ」
弘徽殿の心の声が聞こえてきます。
<東宮になった私の第一皇子の時は紫宸殿…格は落としてある。でもあの調度
の出しっぷり唐櫃の多さ、禄も帝のお声がかりで、下々までも行き届くお気の
入れようとか…東宮の時より賑やかで宮中がもう華やいでいる。チッ>



※【蘊蓄】
元服の儀など、大きな儀式や行事の折には、主催者は、参加した人に贈り物を
するのが常でした。とよばれるこの品には、衣類や布類があてられることが
多く『源氏物語』でも、「白き大袿(うちき)に御衣一領」が通常用いられた
禄であったと記されています。




今どこに位置しているかあなたのことば  姫乃彩愛




光源氏藤壺といるのが楽しいのです。
なんとか喜んでほしくて季節の花をプレゼントしたりもします。
亡き母にそっくりだという藤壺を見て、”母”とはこういうものかと思う源氏
もっともっと慕って甘えたいのに、元服してしまえば、親子といえ、もう今
までのように、藤壺の御簾のなかに自由気儘に入っていくことはできません。
口にこそ出しませんが、それが寂しい源氏です。




溝の無いネジを回している独り  稲葉 良岩





元服を明日に控えた光る君は、藤壺の局で藤壺女御と花鎖を交換します。
<ぼくは藤壺さまに花鎖を…藤壺さまも、ぼくに花鎖を…明日からは「ぼく」
ではなく、「私」になるんだ…>
藤壺「光る君 一曲合奏しましょうか 最後の夜ですもの」
光る君「最後の…?」
藤壺「<ぼく>といえる最後の夜ですものね」
光る君「…?…?」




豈はからんや胸襟は開きっぱなし  山口ろっぱ





            光源氏(筝)と明石の入道(琵琶)のセッション





※ 【蘊蓄】 雅楽について
平安時代に盛んに演奏された音楽は、日本人好みの室内楽的なものになり、
大きな音の出るものはなくし、三管笙、篳篥(ひちりき)二鼓琵琶
三鼓鞨鼓(かっこ)太鼓、鉦鼓)で編成されました。
(雅楽は、儀式の場では、専門の楽人が演奏しましたが、『源氏物語』では、
むしろ貴族たちによる私的な場での演奏が多くみられます)



音楽は当時の貴族にとって必須の教養、女性は弦楽器、男性は管楽器を嗜なみ
ました。光源氏藤壺、どちらもたしかな腕前のうえ、お互いに特別の気持ち
を持っているのですから、その音色が人の心を打たないわけがありません。
さては、源氏をとにかく立派に元服させてやりたい一心で、打ち合わせにも
余念がありません。婚姻相手となる添臥も、左大臣の姫に決まり、すべてOK
といきたいところですが…。




愛一途こころの殻が割れる音  渡辺幸子




源氏の笛に、藤壺の筝。心寄せあった者だけに奏でるハーモニーが美しく内裏
に響きます。清涼殿で、光る宮の元服の打ち合わせをしている、大臣らの
耳にもその音色が届いてきます。
「あの筝は藤壺女御だね。笛は光る君だね」
左大「よう合うておいでだ」
右大臣「まるで母子のようなお気の合いよう」
「光る君の身内はこの私だけ、外戚に後見もいない。
  それだけに、明日は立派な式を挙げてやりたい。東宮元服の時、加冠の役
  は祖父の右大臣であったな」
右大臣「はい いかにも」
「では明日はその役を、今度は左大臣に頼もうか」
左大臣「光栄です。よろこんで」
「ついでに加冠は成人のしるし、添臥しも決めてやらねば…、少し年上の姫が
よいな。左大臣家の姫はどうかな?」
左大臣「葵ですか、光栄です」




桜花賞にはシマウマを走らせる  くんじろう





         「扇面古写経の模本」 (東京国立博物館所蔵)

起き上ろうとする女性の横で男性が、女性の腰を支えている。
貴族の男女の優雅な添い寝の情景である。




※ 【蘊蓄】 添臥(そいふし)
成人した東宮皇子が、その夜をともにする添臥の女性には、いくつかの条件
がありました。まず、それなりに身分が高いこと。つぎに添い臥しの手ほどき
ができること。こうしたことから公卿の娘で年長者が選ばれることになります。




桜咲く日を夢に見て一歩ずつ  新家完司




左大臣の妻は、桐壺帝の妹です。そこえ左大臣の娘(葵の上)とが寵愛する
源氏が、結婚すれば、帝と左大臣家は、さらに太いパイプで繋がれることにな
ります。帝は、権勢欲の強い右大臣を牽制する意味でも、結婚を推し進めます。
葵の上を自分の孫(東宮)の妻にと、考えていた策略家の右大臣はあてが外れ
ました。葵の上は光源氏より4ツ年上。深窓で大切に育てられたお嬢様でした。




指示通り岡持さげてまちぼうけ  山本早苗




その夜、左大臣家。
光る君の正妻に左大臣の長女を!の決定にあてが外れ、焦る右大臣
<私の娘・弘徽殿の産んだ東宮の妃に、あの娘(紫の上)をもらう約束を…
左大臣の北の方とは、もうしてあったんだが、こんなことなら左大臣にもさっ
さと話しておけばよかたった。もう手遅れだ、帝のお言葉は変えられない>
一方の左大臣家では、北の方の約束事に揉めている。
左大臣「なんだと!こともあろうに、知らんかったのは儂だけ!」
北の方「だっていつもあなたは堅すぎて…右大臣とは水に油の仲、まとまる話
    も壊れます」
左大臣「……」
北の方「東宮妃とはやがては中宮、女にとっては、最高の位なのですよ。
    右大臣家からの申し出を受けるのは、当然、だから私は、葵をそのつ
    もり育てたのです。それを何もわざわざ、臣籍に下られた光る君煮など」
左大臣「言葉が過ぎるぞ!」




ハイハイとあなた真面目に聞いてるの  太下和子





   こんな例も------嫉妬して道長を追いかけまわす倫子

倫子の母親は、祭りや行列で見る道長の姿に「並の男ではない」と判断、倫子に
道長との結婚を勧めたという。




※ 【蘊蓄】 娘の結婚
平安時代、娘の結婚は、婿の身分や地位が家の存続にも影響するので、親にとっ
ても一大事。最終決定権は、一家の大黒柱たる父親にありましたが、母親がその
決定におよぼす力も、小さくはなかったようです。
当時、正妻格の女性は、その家の不動産をはじめとする財産や夫の人間関係まで、
管理する役割を担っていました。
その力は娘にも及んだようで、母親は普段から、娘の結婚相手を吟味し、気に入っ
た相手がいれば結婚へと導きました。




モニターの癖に暑いとか言うな  森 茂俊

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丁度旬です哀愁がでてるでしょ  きゅういち






        『源氏物語色紙絵 蛍』 (土佐派筆)

前庭に咲き乱れている朱赤の百合は、鬼百合だろうか。
物語の季節が、夏であることを知らせてくれる。美しい玉鬘に執心の兵部卿宮
が忍んできたところへ、源氏が几帳の陰からたくさんの蛍を放った瞬間である。
蛍の光は、赤い点で示されている。




「兵部卿宮、源氏と仲違い」
兵部卿宮という人物、優雅な外見の下に、なかなか計算高い俗な一面を持って
います。それが原因で互いを認め合ったかに見えた源氏とのふたりの間は険悪
になります。桐壺帝の譲位、そして、崩御と世の中が進むにつれて、宮中では
弘徽殿女御右大臣が力を強め、源氏と左大臣のグループを圧迫していきます。
そうした中でおきた源氏の須磨退去は、源氏側の敗北ともいえる事態でした。
源氏のこの苦難に際して、兵部卿宮は、見舞いの手紙一本書こうとしません。
宮の目には、右大臣側の勝利と映ったのでしょう。この際源氏と付き合うのは
得策でないと考えたようです。計算高く右大臣側にすり寄るのですが、
それが結局、宮の不運と失意を招きます。
許されて都に帰った源氏は、
栄達を重ね、その一方で兵部卿宮は、源氏に疎まれ宮中では軽んぜられていく
ことになります。



小首傾げて九官鳥は黙秘する  笠嶋恵美子










式部ー藤壺-花陽炎②




【前月号迄のあらすじ】
父帝の配慮で臣籍として生きることとなった光源氏の君。
執念深い弘徽殿女御の手から逃れるため、乳母の大弐命婦は、すべての秘密と
ともに出家する決心をかためます。そんな折、乳母子の惟光とともに内裏の外
へ遊びに出た源氏は、舞い散る花吹雪の下、この世のものとも思えぬ美しい女
性に出会うのでした。




意外なと美人でしたと噂され  岡本遊凪





      藤壺雪の朝帰り




 

桐壺更衣そっくりの四の宮とは…。



成人した女性が男性に顔を見られるのはタブーだった時代。
結婚の決め手は、噂や人づての情報でした。
「あの桐壺更衣にそっくりな女性がいる」と、その情報をもたらしたのは三代
の帝に仕えた信頼のおける典侍(ないしのすけ)で、しかも御簾の中の姫の姿
を実際に見ていうのですから、が心を動かされるのも無理はありません。
噂の姫君は、先帝と后の間にもうけられた、4番目の皇女。家柄も申し分あり
ません。




姫君のうなじにも蚊の刺した跡  筒井祥文




典侍の情報に、すっかりその気になった、四ノ宮入内を丁重に申し入れ、
立派な贈り物を届けます。
しかし、四の宮はまだ少女と呼んでもいいような年ごろ。
当時の女性は、12歳から14歳で成人の儀式を行いましたが、まだまだ
年若い少女の部分を残していました。母親の庇護のもと素直でシャイに育
った四の宮にとって、父親ほど年の離れた帝との縁談など、まるでピンと
こないことでした。




美人だと担ぎ出されて人柱  宮井いずみ






        兵部卿宮と四の宮(藤壺)




先帝の里邸に四の宮、王命婦とともに戻る。
古参の女房「姫さま!どこへいっておいでだったのですか?」
 王命婦!軽率ですよ。入内前の姫に何かあればどうするのです」
王命婦 「申しわけありません」
女房「兵部卿宮がずっとお待ちですよ」
四の宮「兄上が?」
兵部卿「どこへ行っていたのだ。帝から贈り物が届いたというのに」
入内を待ちかねるから、立派な贈り物が届いていたが、なぜか四ノ宮の顔は
浮かない。
兵部卿「主上さまは、入内は明日でもいいと…それほどお待ちのようだよ」
帝は、まだ見ぬ四ノ宮に弘徽殿より立派な藤壺の局を用意して待つという。
四の宮「私はいやです。参りません」
兵部卿「今になって何をいう」
四の宮「兄上!私はやっぱりいやです。内裏にはあの恐ろしい弘徽殿の女御が
   いらっしゃるわ。桐壺更衣さまの死はあの女御のせいでしょう?
   そのはかにも大勢の女御さまがいらっしゃる。
   競いあって生きていくなんて、私はいやです。それに主上さまは亡くなっ  
   た父上ほどのお年…私はいやです」
兵部卿「だからね、主上さまも女御というより娘を迎えるつもりだから、気を楽
   にしてとの仰せだよ」
女房「賜ったお局も、弘徽殿よりずっと立派な飛香舎です。飛香舎はお庭の藤が
   美しい藤壺でございます。姫さまにぴったりだと…」





重力の重さなんでしょ秋の鬱  銭谷まさひろ





      現在の京都御所にある藤壺

藤壺は渡殿で天皇の住む清涼殿にもっとも近い場所にある。
手前の大屋根は飛香舎、その右手は若宮御殿、姫宮御殿の屋根。




※ 参考書
藤壺の住んだ飛香舎は、藤の花の館。
内裏の清涼殿の後ろには、妃の住む「後宮」12舎ありました。
弘徽殿をはじめとする7つの殿と5つの舎がそれにあたり、殿の方が舎より
格が上だったといわれています。
入内した四ノ宮が住むことになった飛香舎は、5つのなかで一番大きな舎で
南に面した壺(中庭)に藤が植えられていたことから藤壺と呼ばれています。
「源氏物語」ではこの藤壺女御(四ノ宮)をはじめ、今上帝(朱雀帝の皇子)
の女御が飛香舎に住んでいます。




ええ氏の家やな襖があるなんて  岡田陽一




弘徽殿女御の陰湿ないじめが桐壺更衣を死に追いやった。
と、世間では噂しています。四ノ宮を宝物のように育ててきた母君は、
帝たっての願いとは言え、そんな怖いところに娘をやるわけにいかないと
考えていました。しかしその母君も亡くなり、誰も反対するものはいなく
なります。
先帝桐壺帝の系譜は不明なので、帝と四ノ宮の血縁もはっきりしません
が、当時は、叔父と姪の結婚もごく当たり前でした。
兵部卿宮は、四ノ宮に入内を説得する。
四ノ宮「兄上だって母上も入内に反対だったのは、御存知なのに」
兵部卿「知っているよ。でも母上も亡くなった。兄の私としては妹を寂しい
    ひとりぼっちにさせたくないのだよ」
四ノ宮「……」
兵部卿「私たちは先帝の子だからね。姫には誰一人…あの弘徽殿の女御でさえ
    も指一本ふれさせないよ」
入内しないのなら仏門にと、兵部卿は脅迫めいた言葉で四ノ宮に迫る。
女房達「それは あんまりな」
兵部卿「姫がとは言ってはいない。後見のなくなった先帝の姫にはよくある話だ。
    それしか生きていきようがないからだ」




月冴える反旗は微笑絶やさずに  新川弘子




あんなに姫君のことを思ってくれた母君が亡くなると、もう己を捨ててまで守
ってくれる人はいません。そんな四ノ宮「自分の娘と同じように扱う」
から、早く入内するようにと申し出ます。
女房たちも、後見人も、兄の兵部卿宮さえそれぞれの思惑から、四ノ宮に入内
をすすめます。この兄の兵部卿宮は、いずれ登場する紫の上の父親で、先帝の
息子ですが、けっこう、世俗的な欲にまみれた人物なのです。




一色の紫陽花としてきえてゆく  高橋レニ






           塗り籠事件

騒がしい閨室 塗籠に籠り続ける源氏
兵部卿宮 や 中宮大夫 も参上して、「僧を呼べ」「御祈祷を」と騒がしい。
源氏は塗籠の中で、為す術もなくひどく苦しい思いで室内の喧騒を聞いている。




※ 参考書
あまりにみじめ…後見のないお姫様
女房など周囲の者の流す噂が、殿方を惹きつける何よりの手段だった平安時代
のお姫様。それだけに経済力の要となる後ろ盾を失い、頼りの女房たちが離散
してしまうと、その生活はみじめなものでした。日々の収入は閉ざされ、守っ
てくれる男性も噂が流れないことには寄ってきてはくれません。
どんな美しい姫君でも、誰にもその存在を知られなければ、どんどん落ちぶれ
てしまうのが道理。
(『源氏物語』の「末摘花」の帖にも、宮家の姫に生まれながら、あばら家同
然の邸に住む哀れな末摘花の姫が登場しています)




サボテンはサボテンとして雲にのる  酒井かがり



どうやら恐ろしい噂ばかりが聞こえてくる宮中への参内は、逃れようもありま
せん。四ノ宮は孤独と不安の渦のなかにいました。
弘徽殿女御のように一族の繁栄を背負い、目的意識と上昇欲の強い女性ならば、
喜び勇んで宮中に参ったのでしょうが、この深窓の姫君は違います。
容貌ばかりでなく、そういう控え目な性質も、帝が、今なお忘れられない桐壺
更衣に似ていたのかもしれません。




泣き止まぬ自分を追い出せないでいる  本多洋子




 
たしかに触れ合った。確かに” 何か "はあった。でも、それは…。
源氏の君も、池のほとりで出逢った姫君のことが忘れられず、眠れぬ夜を過ご
します。 <…幾度となく甦るあのシーン。何故だろう? あの女性は確かに
この手を受け止めたのだ>
「夢…か。誰だったのか、どこの姫君なのか…あの姫君も私に手をさしのべて」
そこへ乳母子の大輔が顔をのぞかせて、
「やっぱり、光る君はおやすみになれませんか」
源氏「大輔! やっぱりって?」
大輔「御存知ではないのですか? 明日、新しく女御さまが入内なさるそうです。
   それが桐壺更衣さまに生き写しのお方ですって」
源氏「亡くなった、ぼくの母上に…似ていると」
大輔「似ていることを典侍が主上さまにお話ししたそうです」
源氏は新しく入内するお妃が、母の桐壺更衣にそっくりだという話を耳にするが。
源氏「でもぼくは母上を知らない」
母の顔すら覚えていない源氏。
その女性を、いったい、どう受けいれていくのでしょうか。
運命の女性の入内を前に、源氏は思い悩みます。




唐紙の向こうへ冬の蝶ふわり  森田律子






     『源氏物語図屏風 紅葉賀』 (狩野氏信筆)
老女、源典侍が琵琶を弾き、その美しい音色に聞き惚れる源氏
典侍とは、律令制に基づいて置かれた後宮12司のうちのひとつ。
内侍司に務める高級女官で、天皇の側で世話をするほか、掃除や点灯などを行
う女嬬を監督したり、尚侍がいないときには天皇のメッセージを伝達する役目
をはたす。




※ 参考書
主上をお世話し、女官を仕切る典侍(ないしのすけ)
典侍とは、律令制に基づいて置かれた後宮12司のうちのひとつ、内侍司に
務める高級女官です。長官である尚侍(ないしのかみ)に従って、主上の側で
世話をするほか、掃除や点灯などを行う女孺(にょうじゅ)を監督したり、
尚侍がいない時には、主上のメッセージを伝達する役割も果たしました。
(『源氏物語』では桐壺院に仕える源内侍が登場し、身分も才気もあって上品
ですが、本気で若い光源氏に恋をする好色な老女として描かれています)




とんがった耳はどこでもドア越えて  富山やよい




ビデオも写真もない時代のこと、三歳で失った母の面影を追うには、人づてに話
を聞くか、あとは自分の想像力で思い描くしかありません。
亡くなった人は年齢をとりませんから、光源氏のなかにいる母はいつまでたって
も若く美しいままでした。
ぼんやりと思い浮かべてきた母のイメージが、今、目の前に、現われようとして
いるのです。四ノ宮との対面を前に、源氏の期待はいやでも高まっていきます。




目をつむる微笑む君が見たいから  岸井ふさゑ




四ノ宮の入内の儀式が終わって…。
大輔「入内の儀式が終わればきっと、主上さまがお招きになるわ。
   だって…主上さまだって桐壺更衣さまのお形代としてお召しになった方
   ですもの」
<お形代…。母上にそっくりな女…、どんな方だろうか>
形代とは面影をうつした人のこと。四ノ宮との初体面に、どんな方が、と源氏
の胸は高鳴るばかり。
源氏「父上、参りました」
貴人の前に進み出る場合、礼を重んじるには数歩手前で一度着座し、膝立ちの
まま進まねばなりません。光は礼に従い主上の近くへ膝行します。
主上の横には、袖で顔を隠した四ノ宮が控えています。
主上「私の二の皇子、光る君だよ」
新しい母は、前に出逢った女性でした。幾たびも夢にでてきた女性。
運命の歯車が今、回り始めます。
主上「光る君よ、この女御母と思い…いやいや母子というよりまるで姉と弟、
   まぁどちらでもよい、仲良くな」
何かの縁があるとは感じていた。しかし、よもや母と子になろうとは!
母と子、2人の指先が触れ合うほどの、あの日の小川が…今、ふたりを隔てて
滔々と流れる大河に変わったのを、光る君も藤壺女御も感じた。




怖い美しい切ない放さない  徳山泰子










入内した四ノ宮、つまり藤壺女御は、源氏物語にあまた登場する女性のなかでも、
最高の理想的の女性として描かれています。
姿形はもちろん、身分も先帝の御子ですからあの弘徽殿よりも上、気品も高く、
後宮でも、誰も彼女を貶める余地がないほどでした。
そして光源氏と藤壺の年の差はわずか4,5歳。
この素晴らしく美しい女性を " 母 " と呼ばせるのは、あまりにも酷なことだった
かもしれません。




ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて  太田のりこ










※ 蘊蓄
愛された紐飾り、総角
髪を左右に分け、耳の上で巻いて輪をつくる男の子の髪型は「総角」「みずら」
と呼ばれました。そして元服前の源氏がつけていた髪飾りに似た、紐の結び方に、
やはり総角と呼ばれるものがあります。
これは両端を軽く一結びにし左右の輪を結び目の間に通して固く締めたもの。
源氏物語の帖名にもその名が認められます。




陽炎まとうシャイな人間  武智三成

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