忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1] [2] [3] [4] [5] [6]
春はあけぼのくらくらしてはおれませぬ  山本昌乃






「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」の一文を踏まえ庭の雪を見るために
 御簾をまく清少納言。





9世紀後半の宮廷では、歌合わせや管絃といった遊芸が盛んになり、
後宮の妃たちにも、和歌や琴などの教養が必須となった。
10世紀の摂関時代には、こうした傾向が高まり、妃を中心に
「文化サロン」が生まれた。
そのため女房には世話係のみならず、中宮の教育係としての役割も
求められ、藤原定子清少納言に、藤原彰子紫式部にと、高い教養
を持つ女性が抜擢された。 例えば、藤原定子は、女房の清少納言に
「香炉峰の雪はどんなであろうか」という問いをした際、
清少納言は漢詩の知識を生かして、『白氏文集』白居易)にある
「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」という一文を踏まえ、
簾をかかげて庭の雪を見せられたという。





彩りに笑顔挟んでおきました  川畑まゆみ





式部ー藤原定子





           儀 同 三 司 母

定子は才媛の母高階貴子の娘として生まれた。






藤原定子は、976年(貞元元)父・藤原道隆・母・高階貴子の間に
長女として誕生した。
父・道隆は、藤原道長の兄で、高い身分にもかかわらず冗談好きの
気さくな人柄で、美男子としても評判の人だった。
母・高階貴子は、高才と謳われた学者・高階成忠の娘である。
貴子自身も漢詩文に造詣の深い才媛であり、円融天皇に仕えた。
(赤染衛門の『栄花物語』・「さまざまのよろこび」には、高階貴子を
『女性ではあるが、漢字などを実に見事に書いたので、内侍に任命され、
 高内侍と呼ばれた』と、記されている)
また、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)の名で、小倉百人一首でもし
られる。
”  忘れじの行く末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな "
(「いつまでも忘れはしない」と、おっしゃるあなたのお言葉が、将来
 いつまでも期待できるものとは、思えませんから、今日を最後の命と
 したいと思います)
この母から高度な教育と優れた血を受け継いだのが藤原定子である。




まだ誰も見たことのない色で咲く  河村啓子





989年(永祚元年)10月に着裳(成人式)をすませた翌年、一条天
皇へ入内する。この時、定子は15歳であった。
一条天皇は、円融天皇藤原詮子を両親に980年(天元3)6月に生
まれ、花山天皇を継嗣して7歳で即位している。
990年(正暦元年)、14歳で3歳年下の一条天皇に入内。
因みに一条天皇の生母・詮子は、藤原兼家の長女であり、
定子の父である道隆は、兼家の長男である。
いわゆる一条天皇と定子は、従姉弟の関係になる。





レシピからはみ出す朝の作り方  中野六助






       仲睦まじい一条天皇と中宮定子





990年(正暦元年)正月5日一条天皇が、11歳で元服すると25日
定子は、15歳歳で入内、翌月11日に女御の宣旨を受ける。
同年、藤原兼家は、定子の入内から4ヶ月後に、関白となったが、
病のため出家し、7月2日に62歳で没した。
兼家のあとを継いだ兼家の長子・藤原道隆は、権力基盤を固めるため、
父の喪中にもかかわらず、娘の定子の立后を急いだ。
当時「中宮」とは皇后の別称であり、円融の中宮・藤原遵子(じゅんし)
がいたが、道隆は遵子を皇后とし、定子を中宮とするという、前代未聞
の手段を強行した。(「一帝二后」のルールが突如としてできあがる)





斜めから吹く風斜めから躱す  岸井ふさゑ






          定 子 サ ロ ン





強引な立后であったが、一条天皇中宮定子を厚く寵愛された。
二人の睦まじい様子は、清少納言「枕草子」の中で、うるさく証明
している。
姉さん女房であり、才女が好きな天皇は、定子の下に清少納言以下才女
を集め、文化的な「定子サロン」を開かせた。
また道隆は、嫡男・藤原伊周(定子の兄)を内大臣に任じるなど、
定子を取り巻く環境は、まさに絶頂期を迎えた。





神様が総出と思う日本晴  山口文生






           藤原道隆  (前賢故実)

摂関家の定例行事賀茂詣のときの事、土器に注がれた御神酒を三杯
飲むのが通例のところ、酒好きの道隆は7,8空けたという。
この酒が道隆の命を縮める原因となった。





ところが、その5年後の長徳元年4月10日、糖尿病という病の悪化に
よって死没する。道隆が没すると4月27日、道隆の弟・藤原道兼
関白を継いだ。が、その道兼も関白就任から間もない5月8日流行り
病に倒れ、あえなく没してしまう。
突如、高貴な後ろ盾の父を失った定子の周辺は、一条天皇の威光を
頼むことなく、揺るぎ始める。
その間に。定子の叔父・藤原道長「内覧」に任じられ、政権の中心に
躍り出る。 道長の姉で一条天皇の母・藤原詮子の意向だった。





四拍子ハミングしつつ杖をつく  岸田万彩





996年(長徳2)正月、定子の兄・藤原伊周が弟の隆家に命じて、
花山院に射かけたことにはじまる「長徳事件」が勃発する。
事件は関白の座を巡って伊周と叔父の藤原道長との対立に端を発した
ものだったが、定子は、内裏を出て「二条北宮」と称される、定子が
里邸としていた邸宅に退出した。
兄と弟が不祥事を起こしたことによる、自主的な謹慎であった。
事件を重くみた一条天皇は、伊周と隆家は、二条北宮の定子のもとに
身を寄せていた為、同年5月1日、懐妊中であった定子を牛車に移した
うえで、検非違使を二条北宮に突入させた。
隆家は捕らえられ、伊周もいったんは逃げたものの、やがて捕まり、
(伊周を)太宰権帥に、(隆家を)出雲権守として左遷し、事実上の
流罪とすることを裁決した。





兄ちゃんがティッシュ抱えて泣いている  宮井いずみ





         吾 子 を 抱 く 中 宮 定 子





このとき、定子は自ら髪を切り落とし出家をした。
『小右記』は定子が出家したことを記している。
『栄花物語』にも「浦々の別れ」として綴られている。
長徳事件の年には、定子は懐妊しており、一条天皇が見放すわけもなく、
その12月16日、定子は、一条天皇の第一皇女となる
脩子内親王を出産している。
その後も一条天皇は、出家しても定子を愛し続け。
999年(長保元年)11月7日、定子は一条天皇の第一皇子となる
敦康親王を出産している。





居心地のよい椅子一つあればよい  佐藤 瞳





このとき、何を思ったか道長は、同じ長保元年11月1日に娘の彰子
入内させ、1000年(長保2)彰子の立后を決行し、定子を皇后に、
彰子を中宮とする、『一帝二后』(一人の天皇に正妻が二人)を現出さ
せた。ところが、それでも一条天皇の定子への寵愛は変わらなかった。
まもなく、定子は、第三子を懐妊する。
だが12月15日朝、定子は子内親王を出産する、も、後産が下りず、
この世を去ってしまう。25歳の若さだった。





水平線が傾く神は死んだのか  上島幸雀





定子はいつごろのことか自分の死を悟り、寝室の御帳台の紐に、天皇
思いを寄せた辞世の句・3句結びつけてあった。
" 夜もすがら契りしことを忘れずは 恋いむ涙の色ぞゆかしき "
(―夜通し愛を誓ったことを忘れていなければ、恋しいと血の涙を流し
 てくれるでしょうか。 あなたの涙の色が知りたいのです)
                       (『後拾遺和歌集』)
定子の葬儀は、親しかった人々の姿すらない、寂しいものだったという。
一条天皇は身分の高さゆえに、葬儀に参列することができなかった…、
そこで天皇は葬送の時刻に喪服を纏い、返歌を詠んだと伝えられている。
" 野辺までに心ひとつは通へども 我が行幸とは知らずやあるらん "
(あなたが葬られる野辺まで付き添うことはできないけれど、心だけは
 雪のなかを一緒に歩いてゆきます。けれどあなたはもう、私が一緒に
 いると知ることすらないのでしょう)
                       (『後拾遺和歌集』)





人生を迷い続ける春霞  靏田寿子






 




「定子辞世 2句」
” 知る人もなき別れ路に今はとて  心細くも急ぎたつかな "
(誰も知る人のない死出の旅路に今はこれまでと、心細くも急ぎ出で
 立つことです)
" 煙とも雲ともならぬ身なりとも  草葉の露をそれとながめよ "
(煙や煙となって空に漂う身ではなくても、草葉の露を私と思って、
 眺めてください)
これらすべて一条天皇に手向けたうたである。





雲間から別離の序曲合わせ貝  通利一遍





       笑いの絶えない中宮定子のサロン





枕草子
清少納言定子に仕えた約7年間の出来事などが綴られている。
「笑ひ給ふ」という言葉が頻繁に出てくるのは、定子が主催する宮廷
サロンが、いつも「笑顔にあふれていたこと」を物語っている。
実は、清少納言が枕草子が書いたのは、藤原道長が台頭し、藤原定子が、
宮廷で孤立しはじめてからのこと。
だが枕草子には、定子の苦境や実家の没落については一切触れていない。
それどころか、定子を賛美する言葉があふれ、明るく楽しかった思い出
だけが書き連ねられているのである。
定子が亡くなるその日まで。





にっこりとできるあなたがいるだけで  掛川徹明

拍手[4回]

PR
正直に生きたいと言う磨りガラス  宮井いずみ





      「春光結実」 (松岡映丘筆 山種美術館蔵)

色鮮やかな十二単をまとった女性が、春の花と美しさを競う、艶やかな
王朝の春を描いた作品である。
清少納言の鋭い感性は、宮廷生活を通して一層研ぎ澄まされ「枕草子」
という文学作品に結実した。




『枕草子』は、996年頃~1008年頃にかけて成立したもので、
日記風に回想した章段。「自然や人生への随想を綴った章段」
「もんはづけ」による「類想的章段」から成る。
「もおはづけ」とは、枕となる題を提示してそこから連想する事柄を
列挙するもの。  例えば
遠くて近きもの=娯楽。舟の道。。男女の中
かわいらしいもの=ウリに書いた子どもの顔、赤ちゃんが抱きついて
寝たところ、何もかも小さなものは、とてもかわいい。
うんざりするもの=昼吠える犬。
よくできたと思う和歌を人に出したのに返事がこないときなど。
いらいらするもの=急ぐことがあるときに来て、長居をする客。
眠い時に顔のまわりを飛びまわる蚊など。
あわれなもの=親孝行な他人の子ども。ニワトリが卵を抱いて寝ている
ところ、…など。




好奇心生命線が少し伸び  日下部徳子




式部ー枕草子 ものはづけ <興ざめなもの>





              「絵師草子」 酒を飲み乱舞する人々 (宮内庁三の丸尚蔵)

絵は、元主人の任官を期待して集まり、食べたり飲んだりして、
大騒ぎしている人々を彷彿させる。
この任官は春の県召で、正月半ばに行われた。国司は中間管理職で、
位としてはそれほど高くないが、任官されるかどうかで、
生活が大きく違ってくる。




「興ざめなもの」

何だかしっくりせず興ざめなもの。
昼間に吠える犬。時期ではない春にしかけてある網代。
冬から春先ときまったものなのに、初夏のころ着ている紅梅襲の衣。
乳呑子の産屋。火おこさぬ火鉢。牛が死んだ牛飼。
「博士」は、学問を以って代々仕える官吏であるが、これは男子のみの
世襲である。
しかるに、その家でうちつづき女の子を生ませているのなども。
方違えに行っているのに、もてなしてくれないところ。
節分の日の方違えは、まして興ざめ。
地方からこちらへはるばるよこした手紙に、贈りもののついてないもの。
京からの手紙も、そう思うかもしれないけど、何て言ったってこちらは、
都の面白いニュースや噂を書いてやるのだもの。
田舎の便りとは、一緒にならない。




可も不可もなくてのっぺらぼうである  柴田桂子




人のもとへわざわざ美しく書きあげて遣った手紙の、返事を今か今かと
待って、いやに、遅いなと思っていると、待たせた手紙を汚らしくして、
そのままに持って帰ってくる。
紙をけばたたせ、結び目の上に引いてあった墨まで消えていて、
「いらっしゃいませんでした」とか「物忌みで受け取られませんでした」
などというのは、まことに興ざめである。
また、必ず来るはずの人のもとへ牛車を迎えにやって待っていると、
入ってくる音がするから、「いらしたわよ」人々が出てみると、
何ということ、車庫に牛車を入れ轅(ながえ)をぽんとおろしている。
「どうしたの」というと、「今日はいらっしゃいません、こちらへこら
れません」と、さっさと牛だけを引き出していってしまう。
これも興ざめ。
また、家中大騒ぎして迎えた婿の、通ってこなくなったのも、つまらぬ
ことだ。





耳だってたまには歩きたいのです  藤井寿代





                                               乳母 (東京国立博物館蔵)


子を置いて帰ってこない乳母は興ざめなだけでなく、「憎らしくさえ

思われる」清少納言はいう。
古来貴族は、赤ん坊のために授乳する女性を置くのが普通で、初めて
乳を含ませる乳付けも、乳母が行い、幼児はほとんど乳母の手で養育
されていた。




乳呑子の乳母が、「ちょっと出てきます」といって出たのを、赤ん坊が
泣いてさがすので何かとあやしながら、「早く帰って」といいやると、
「今晩は帰れそうにありません」と返事をよこすなど、
興ざめなだけでなく、憎らしくさえ思われる。
待つ人のある女、夜更けにほとほと門を叩く者があるので、胸をどきど
きさせ、召し使いに尋ねさせると、つまらぬほかの人間が名のりをあげ
たりする、これも興ざめの中の興ざめ。
修験者を、物の怪を調伏するのに頼んだが、ちょっとも効き目がなく、
「だめだなあ、さっぱり」などといい、頭をかきあげて、欠伸をして
やがて眠ってしまったりする、これも白けたものである。
待っている人がいる女の家で、夜が少し更けてから、そっと門を叩く
ので、胸が少しどきりとして、人をやって尋ねさせると、別のつまら
ない男が名乗って来たというのは、まったく興ざめなどという言葉では
とても言い尽くせない。




大声よりささやき声の好きな耳  山田順啓





                         「申文を書く橘直幹」 橘直幹申文絵巻 出光美術館蔵

申文は、希望する官職を得るための上申書。
任官の儀式のことを除目というが、人々は除目の前に申文を持って
任官運動に明け暮れたようである。





除目に官職を得ぬ人の家。
「今年はきっと任官する」というので、以前に仕えていた人たちで、
散っていたのや、田舎に帰っていた者など、みんな集まり、出入りする
訪問客の車のひまなく、食べたり、飲んだり、大さわぎして前祝いして
いるのに、除目が済んでしまった翌朝まで、門を叩く音もしない。
「おかしいな」と、耳をすましていると、前駆おう声がして除目に列席
された公卿がみな、退出されてゆく様子である。
様子を聞くため、前夜から、役所の前で、寒さに震えながら控えていた
下男などが、しょんぼり歩いてくるのを見ただけで、邸の人間はもう、
聞く気もしない。
よそから来た人々が「殿は何におなりになったか」と聞く、そんな時の
答えはきまって、「もと何々の守ですよ」などという。
主人の任官を心から宛にしていたものは、ほんとうにがっかりしている。




前世で何をしたのかまた転ぶ  筒井祥文





    薬玉図

薬玉は香袋に菖蒲などの造花をつけ五色の糸を垂らしたもので、
魔除け
とされる。5月5日の端午の節句に用いられる。
清少納言は、薬玉や卯槌など、ちょっとしたものを持ってくる使いにも、
相応の心づけはするものだという。




翌朝になると、びっしり詰めていた人々も、しだいに一人二人と去って
行く。古くから仕えているもので、そうはいっても出ていけないという
ような人々は、来年次官になる予定の国々を、もう今から指を折って数
えたりして、うろうろしている。
そんな様は、哀れで、さむざむしたながめである。
出産の祝宴や、旅立ちの餞別などの使いに、ご祝儀を与えないの。
ちょっとした薬玉や卯槌などを持って歩く者などにも、やはり必ず与える
べきである。思いもしなかったのにもらったのは、
<使いのしがいがあった>と、思うにちがいない。
必ずご祝儀がもらえるはずだ、と胸とどろかせてきたのに、何も呉れない
のは、がっかりして、白けはてる思いであろう。




タケノコの御礼を言うとまた呉れる  酒井かがり





まあまあ良く詠めたなと思う歌を、ある人に送ったのに、返歌をしないの。
恋をしている人なら、返歌が来なくても仕方がないが。
でもそれだって、季節の風情がある時に贈った手紙に返歌をしないのは、
思っていたより劣った人と、思ってしまう。




少しだけ笑ってくれた梅の花  靏田寿子

拍手[4回]

てのひらの雪の苦さを確かめる  くんじろう





       香炉峰の雪 (冷泉為恭筆)


『枕草子』の中でも有名な「香炉峰の雪」の場面を描いた作品。
中宮定子「少納言よ、香炉峰の雪 いかならむ」との問いかけに、
それが白居易の漢詩「香炉峰ノ雪ハ簾ヲ揚ゲテ看ル」による謎で
あることを見抜いた清少納言は、即座に、御簾を高く巻き上げた。
同僚の女房たちは、さすがにこの中宮にお仕えするのにふさわしい
人だと清少納言を褒めた。




ふるさとの海にあふれる褒め言葉  福尾圭司




清少納言が、その豊かな教養を買われ、一条天皇の中宮・藤原定子
私的な女房として仕えるようになったのは、993年(正暦4)の冬頃
のこと。博学で勝ち気な清少納言は主・藤原定子の恩寵を受け、互いを
認め合う、仲睦まじい関係に発展した。
清少納言が藤原定子の後宮で過ごした日々は、その生涯において、
最も華やかで輝いていた時期であった。
『枕草子』には、その楽しかった頃の思い出が書き記されている。






      「枕草子絵巻」 雪山を作る役人と清少納言 (逸翁美術館蔵)

師走の10日ごろに大雪が降り、主殿司や中宮職の役人たちが集まって
大きな雪山を作った。その雪山がいつぐらいまで保(も)つかと中宮定
清少納言を含む女房たちが予想しあった。




遺したいものは私の笑い声  新家完司





式部ー枕草子ー「雪の山」




「雪の山」
十二月の十日あまりのころ、雪が大変降った。
女房たちが物の蓋に盛り上げたりしているうち、
「同じことなら庭に雪の山を作らせましょう」
ということになって、中宮定子さまのお言葉として侍たちに命じると、
大ぜい集まってきた。
主殿司(とのもりつかさ)の人々は、お庭の掃除をしていたが、その人
たちまで加わり、一緒になって、大へん高い「雪の山」を作り上げた。
中宮職の役人までやってきて、横からいろいろ指図などする。
非番の侍まで使者をつかわして、
「雪山を作る人にはご褒美が出るはずだ」
と、言わせるとみんな参上してきた。




雪の白苦心の跡の絵の具皿  佐藤正昭




たいへんな雪の山ができた。役人に命じて、絹を二括りしたものを、
みんなに褒美としてお取らせになる。
「この山はいつまであるかしら」
と、中宮さまが仰せになると、女房たちは
「十日ぐらいはありましょう」
そのへんの期間をみな申し上げた。
中宮さまは、「どうお?」と、私にお尋ねになったので、
「正月の十五日までは、ございましょう」
と、申し上げると中宮さまは、
<まさか、それほどまでは>とお思いになるようだった。




どうどうと嘘ついている雪の白  平井美智子




女房たちはみな、
「せいぜい年内いっぱい、月末ごろまでも保ちますまい」
とばかり言う。それで私も、
<あんまり遠い先のことにいってしまったかしら。
 なるほど、皆の言うようにそれほど保たないかもしれない。
 月のはじめくらいに言うのだったわ> 
と内心思ったけれど、
<まあいいわ、それほどまでなくても、いったん言い出した以上は>
と頑固に押し通した。




明日のこと分かるはずない笑っとこ  高瀬照枝





「石山寺縁起絵巻」 出家姿の道長(石山寺蔵)


大雪が降った日に雪山を作ったのは、清少納言のいる中宮定子のところ
だけではなく、藤原道長の京極殿でも作っていた。
道長は、この後天下を握り、栄華をほしいままにする。
これは栄華を極めたあとの、出家したすがたである。




二十日のころに雨が降ったが、消えそうな様子もなかった。
すこし丈が低くなっていくようだ。
<加賀白山の観音さま、これを消えさせないで下さいませ>
と祈るのも、いつもの私らしくないことだ。
所で、先日、その雪山を作っている日、主上(おかみ)のお使いで式部
丞忠隆が来たので、敷物を出して話などしているのに、
「今日の雪山は、お作らせにならぬところはありません。
 主上の御殿の中庭にも、作らせられました。
 東宮にも弘微殿にも、作っていられます。
 京極殿(道長邸)でもですよ」
などというので、私はふと歌をよんだ。
” ここにのみめずらしとみる雪の山  ところどころにふりにけるかな ”




春はあけぼのくらくらしてはおれませぬ  山本昌乃




忠隆は感嘆し、
「へたな私の返歌で、せっかくのお歌をけがすのはやめましょう」
としゃれて言い、
「御簾の前で、みなさんにご披露しましょう」
と立っていった。
忠隆は、歌が大層好きだと聞いていたのにおかしなことだ。
中宮さまはお聞きになって、
「とりわけ上手に詠もうと思って、却って出てこなかったのでしょう」
と仰せられた。




控え目な本音やっぱり上滑り  宇都宮かずこ




雪の山は、平気なさまでそのまま、年を越してしまった。
一日の日の夜、雪がたいへんひどく降ったのを、
「うれしいこと、またつもったわ」
と見ていると、
「これはだめ、初めのはそのままにして、新しく積もったのは、捨て
 なさい」
中宮さまはおっしゃる。
雪の山は、さらに越路の山のように消える様子もない。
黒くなって、見る甲斐もない姿はしているが、私の予想通り、勝った
気がして、何とかして、十五日まで保たせたい、と祈るけれど人々は、
「七日をさえ、過ごすことはできますまい」
とやっぱり言う。




ライバルがにやっと一度だけ笑う  みつ木もも花




どうかして、最後まで見届けたいとみんな思っているうち、
急に中宮さまは三日の日、内裏へお入りになることになった。
「まあ残念、この山の最後を見届けないなんて」
と思っていると、
<ほんとうにそれが知りたかったわ>
などと言う。中宮さまもそう仰せられる。
同じ事なら、言いあててごらんに入れたいと思っていた甲斐もないので、
御道具運びにたいへん騒がしいのにかこつけ、木守を呼んだ。




俄雨わわわ さっきの話なんやった  河村啓子




彼は土塀の外に廂(ひさし)をさしかけて住んでいる。
「この雪の山をよくよく番をして、子どもたちに踏み散らさせず、壊さ
 せず、十五日まで残しておくれ、その日まで残ったら、
 すばらしいご褒美を下さるはずです。私からも十分なお礼はします」
などとねんごろに言い、いつも台盤所の女房が、下男などに与える物を、
果物やなにかと、たいへんたくさん与えたところ、
木守は喜んで、にこにこして、
「たやすいことです。たしかに番をしましょう。
 子どもたちが、上ることでしょうからね」
というので、
「それを叱って止めてください。もし聞かない者があれば、
 申し出なさい」
と、言い聞かせた。




白という理由でいじめられてます  月波与生




中宮さまが、内裏に入られたのについて私もお供し、七日まで伺候して
のち、里へ下った。
その間も、雪の山が気がかりで宮仕えの者、すまし(便器掃除の女官)
長女(女官長)などに頼んで、たえず注意させにやる。
正月七日の御節供(せっく)のお下りも与えたので、木守は拝んでいた、
などと使いは帰って言い、みんなで笑っていた。




ゴキブリ仰向き お天道様拝む  藤本秋声




里にいても私は、夜が明けるとすぐに、これを重大事として、
人をみせにやった。
十日の頃には、「五、六尺ばかりあります」というので、
うれしく思っていると、十三日の夜、雨がひどく降ったから、
<これで消えるのじゃないかしら>
と、たいへん残念で、
<もう一日なのを保たないで>と、
夜も起きて坐り、溜息をつくので聞いている人は、なんという騒ぎなの
と笑っていた。
早朝、人が起き出したので、私もそのまま起きて、召し使いを起こさせ
たが、一向に起きないから、憎らしく腹が立ってくる。




視野の端のアリ一匹を押しつぶす  前中知栄





京都御所の雪景色


京都は盆地であるため、夏の暑さ、冬の寒さが厳しい。
京都御所でも、時折こうした雪景色が見られ、その景色は
平安の時代と変わることなく、現代人の目を楽しませてくれる。




やっと起き出したのをつかわして見させると、
「円座ぐらいになって残っています。
 木守が大そうきびしく子どもたちをよせつけぬよう番をしまして、
 『この分ではあす、あさってまでありましょう。
 ご褒美を頂きますよ』と言っておりました」
というので、私はとてもうれしかった。
早く明日になればよい。
早く歌を詠んで、何かに雪を盛って、中宮さまにお目にかけようと、
思うのも待ち遠しくじれじれする。




嬉しくてコップに頬をあてている  木戸利枝




当日は暗いうちから起き、折櫃(おりびつ)など持たせて、
「これに雪の白そうな所を入れて持ってきなさい。汚らしい所は捨てて」
と言って聞かせたところが、たいそう早いこと、持たせたものをさげて、
「とうになくなっていました」
と言うではないか。私はおどろいて呆然とした。
おもしろく歌を詠んで、世間の評判にもなりたいと、苦しんで創った歌
なども、全くその甲斐もなくなってしまった。
「いったいどうしたのかしら、昨日はあれほどあったものを……。
 昨夜のうちに消えてしまうなんて」




ハンマーは愚痴向け 釘は寝言向け  中野六助




と、愚痴を言ってしょげていると、使いは、
「木守が申すには『昨日はたいそう暗くなるまでございました。
 ご褒美を頂けると思っていましたのに』と、
 手を打って残念がっていました」
と、残念そうに言いさわいだ。
そこへ宮中から、中宮さまのお言葉で、
「どうなの、雪は今日までありましたか」
と仰せられる。
たいそう残念で悔しかったけれど。
「年内、新年のはじめまでもありますまい、と申された雪は、私の予言
 したように、昨日の夕暮れまではちゃんとございました。
 われながら、これはたいしたことだと存ぜられます。
 今日までは余分のことでございます。
 夜のうちに、人が憎らしがって捨てたのではないかと推察しています…
 と、申し上げてください」
とお使いの人にいった。




希望的観測はさくら餅の葉  山本早苗





    庭で雪遊びをする童女たち 土佐光起筆


『枕草子』と並び称される王朝文学の名作『源氏物語』にも、
雪は度々登場する。この場面は、光源氏が、童女たちを庭におろして、
雪遊びをさせているところ。




その後、二十日、参内したときにも、まっ先にこのことを中宮さまの前
でいった。
蓋だけをぶらさげて、使いの者が帰ってきた姿の意外だったこと、
物の蓋に雪の小山を美しく盛り、白い紙に歌をりっぱに書いて、献上し
ようとしたことなど申し上げると、中宮さまはたいへんお笑いになった。
御前にいる人々も笑うと、中宮さまは仰せられた。




泣き崩れる前に膝かっくんを  酒井かがり




「こんなに執心していたことを、食い違わせてしまって、仏罰を受ける
 かもしれないわね。
 あなたの推察通り、十四日の夕暮れ、侍たちをやって取り捨てさせた
 のです。
 あなたの返事に、それを言いあてていたので、おかしかったわ。
 木守の老人が出て来て、たいそう手をすって、頼んだけれど、
『お上のおいいつけなのだ。清少納言の方から来る使いには、このこと
 は黙って居れ。でなければ家を壊してしまうぞ』 と言って、
 左近の司の南の土塀の外にみな、捨ててしまったの。
『たいへん高く、かさもありました』と言っていたから、ほんとうに
 二十日まで保ったのでしょう。
 どうかすると、今年の初雪も、その上に降り添ったかもしれません。
 主上もお聞き遊ばして、
 『どうも、誰も考えつかないほど遠い先の期日をいいあてて、争った
 ものだね』と、殿上人にも仰せられました。




春だから面白がるを全力で  上坊幹子




 それにつけても、その歌をご披露なさい。
 今、こうやってほんとのことを言った以上は、あなたが勝ったのも
 同じでしょう」
などと中宮さまは仰せられ、人々もうながすが、
「まあ、そんなことを承りながら、どうして歌が申し上げられましょう」
と、私はしんそこ、しょげて言った。
そこへ主上もお渡りになって、
「ほんとに、年来、中宮のお気に入りの人だと見ていたのに今度はふし
 ぎに意地悪をなさる、とへんに思っていたよ」
などと仰せられるので私は辛く、泣けてしまいそうな気がした。



向こう意気もうこのへんでお茶にしよ  安土理恵




「まあ ほんとになさけない。
 あとから降り積んだ雪をうれしいと思って居りましたのに…、
 それは不都合だ。かき捨てよ…。などとおおせられましたっけ」
と申し上げると、
「それは、勝たせまいと思われたのだろうね」
と、主上もお笑いになった。




八代亜紀あした天気にしておくれ  田口和代

拍手[4回]

見返り美人とすれ違った戻り橋  新井曉子





  この美しい女性が安倍清明のお母さん(安倍王子神社蔵)





「安倍清明」
安倍晴明とは、史実では「天文博士」と、記されている。
天体を移り行く星や雲の動きを観察し、天変地異を事前予知する専門家、
いわゆる今の気象予報士のようなものである。
一方で、呪術を学び、占術や呪術を使う「陰陽師」といわれる。
安倍清明が陰陽師として、歴史の表舞台に登場するのは、
978年(天元元)で、このとき、清明は57歳くらい。
この天才陰陽師が、それ以前に何をしてきたのか、正史には一切記録に
残されていない。
そして正史に登場するや、天皇や藤原道長に重用された記録がつづくの
である。
あまねく正史に登場したのが57歳としたが、実際には、年齢も本物か、
両親は誰なのか、いつどこで生まれたのか、などなにも分かっていない…
「謎から生まれた謎の人物」なのである。
とりあえず「どんな謎がある」か伝わる説をみてみよう。




良い運だけ教えてくれる占い師  山本さくら











式部ー安倍清明 幻の実像
  



平安時代、絵巻物にみる華やかな王朝貴族のその裏には、目をそむけた
くなるような忌わしい闇があった。
「人が人を呪い、死にいたらしめ、人が人を怨んで祟り、
 それは、人にあらざる鬼を呼び、物の怪をこの世に生みだす」
藤原実資(さねすけ)日記『小右記』ゟ
こうした時代に闇と闘い活躍したのが、陰陽師・安倍晴明である。
だが、この安倍晴明には謎がいっぱい。





外れかけの顎 桜貝のボタン  井上一筒




謎-① 両親は誰なのか、?
1,父親は人間で、母親は狐、とする説。
2,清明そのものが人間ではない、とする説がある。




父さんは毛蟹だったと聞かされる  榊 陽子




謎ー② 幼少時代の悪食伝説。
1,クモやゲジゲジを好んで食べた。
2,竜宮城を訪れたことがある。
3,カラスの話を理解した。
4,人に見えない鬼を見る力があった。




宇宙服つけず大気圏突入  宮井いずみ




謎ー③ 陰陽師として発揮した力の数々
1,花山天皇の前世を見抜いた。    『古事記』
2,式神という鬼を自在に操った。   『今昔物語集』
3,死者を甦らせることができた。   『今昔物語集』
4,花山天皇の譲位を予知できた。   『大鏡』
5,人の感情を操ることができた。   『北条九代記』
6,どんな呪いをも打ち返した。    『宇治拾遺物語』
7,在原業平の家を災害から封じた。  『無名抄』
8,藤原道長の命を眼力で救った。   『古今著聞集』
これらは公卿の日記に残されおり、清明の秘術に関する証言でもある。




焼け跡をベールのように覆う雪  花篤洋二




謎ー④ 悪鬼怨霊と戦った清明。
平安時代は、怨霊が続々と現れた時代であると述べた。
清明は知っていたのだろうか? なぜ怨霊が現れるのか?…を。
怨霊は、朝廷や天皇を、大臣や公卿を祟り、次々と、病死や狂い死に追
い込んだ、と記録はつたえている。
なぜ鬼が現れるのか?…を。
勇猛で知られる渡辺綱ですら、倒せなかった”大江山の酒呑童子””九尾の
狐””一条戻橋の鬼女”など、悪鬼妖怪は、安倍清明をおそれたという。




富士山を見たことがない天保山  森 茂俊










謎ー⑤ 清明の母親は白狐ー葛の葉伝説
伝える内容はこうである。
ある日のこと、稲荷の境内で安倍保名は、数人の狩人に追われた一匹の
白狐を助けた、が、手傷を負ってその場に倒れてしまった。
命を助けられた白狐は、葛の葉という美しい女性に化け、保名を介抱し
て家まで送りとどけ、その後も、保名を何度も見舞った。
やがて互いの心が通じ合い、夫婦になり安倍童子という子供をもうけた。
しかし、その子が五歳のとき、ふとしたことから、葛の葉の正体が狐で
あることが露見して、狐は泣く泣くその子を置いて、信太の森へ帰った。
別れ際、葛の葉が夫と子に、口に筆を咥えて障子に書き残した一首がある。
 「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉」 
その時、残された子(童子丸)が、後の陰陽師、安倍晴明だと伝わる。
(安倍保名=清明の父のひとり)




馴れ初めをそれからそれと聞き上手  前中一晃





謎ー⑥ 安倍晴明、出生の謎







     信太森葛葉稲荷神社。
葛の葉伝説にまつわる白狐が祀られている。
白狐は葛の葉という人間に化身し、安倍保名と結ばれ、男の子を授かり、
仲良く暮らしていたが、ふとした気のゆるみから、葛の葉は、子に狐の
姿を見られてしまった。これを恥じた白狐は、泣く泣く夫や子供を残し、
信太の森に帰った。





零れた濁点は天使になりました  市井美春





         稲荷大明神の井戸。
境内にある「姿見の井戸」は、白狐が葛の葉に化身した時、鏡に代えて
自分の姿を映していたという。
狐の姿を見られ夫と子供のもとを去った葛の葉が、無事にこの森に帰り
ついたことから、この井戸に自分の姿を映しておけば、再び無事に帰っ
て姿を映すことができると言い伝えられており、交通安全や旅行安全の
ご利益スポットとして信仰を集めている。




さよならが下手です深くお辞儀する  山本昌乃




謎ー⑦ 安倍晴明の生誕地?
清明の出生地については諸説あるが、大阪説が最も有力か。
清明が「白狐の子」という話が有名になったのは、江戸時代の古浄瑠璃
『信太妻釣狐付安倍晴明出生』(しのだつまつりぎつね)からで、これ
が大人気となると、仮名草子歌舞伎でも『信太妻』ものが次々と作ら
れるようになった。
江戸時代の作品のほとんどが、清明の出生地を阿倍野としているのは、
いずれも<しのだつまつりぎつね>に倣ったものとされている。が、
『あべの今昔物語』には、清明の父とする安倍保名が物語だけではなく、
実在の人物であったという伝説が記されている。
大阪府豊能郡能勢町には「信太の森」と呼ばれる場所があって、近くの
稲荷神社には室町時代初めのころの石塔と、二つの供養碑が建っていて、
いずれも安倍保名であると、同書で指摘している。
さらにこの地には「塩谷湯」という冷泉があり、そこに保名が葛の葉
傷を治すためにやって来たという言い伝えも残っている。
これらから保名と葛の葉が一緒に暮らしていたと考えるなら、能勢町で
清明が生れたと考えられることができる。




脳内グラフを埋めつくすめとぬの字  きゅういち






            『泣不動縁起』
「不動利益縁起」や「泣不動縁起」に、それらしい「式神」の姿を見る
ことができる。疫病神を鎮めようと、呪文を唱える清明のうしろにいる
のが赤い鬼神と緑の鬼神である



     赤い鬼神 と 緑の鬼神





「清明に正体を見破られた酒呑童子」
「酒呑童子」は大江山に住む鬼で、数多くの人を殺して食ったり、貴族
の姫君をさらったりして、都を荒らしまわっていた鬼である。
当初は何者の仕業か、まったく分かっていなかった。
その正体を言い当てたのが、安倍晴明であった。
清明が一条天皇に呼び出されると、
「これは大江山に住む鬼の仕業です。このまま捨ておけば、都はおろか、
 諸国にまで仇なすこと、間違いありません」と、
陰陽道の力で酒呑童子の存在を明らかにした。
そこで天皇は、源頼光に酒呑童子の退治を命じた。
源頼光は、渡辺綱ら四天王を連れて大江山に向かった。
いっぽう清明のほうは、「式神や御法童子」を京の都のあちこちに放ち、
酒呑童子が都に入ってこおれないように守りを固めた。
そして歯噛みして悔しがる酒呑童子の前に、鬼のふりをした頼光たちが
現われ、酒呑童子は、騙されて毒酒を飲まされ、退治されてしまった。
(式神=陰陽師が呪文で呼び出し、自分の手足として使う鬼神)




はたき掛け始まる終演五分前  宮井元信






         斬られた腕を咥えた戻り橋の鬼女 (豊原国周画)





「一条戻り橋の鬼女」
「一条戻り橋の鬼女」は、夜更けに美しい女の姿で橋のたもとにたち、
「家まで送ってほしい」と、言っては食い殺す恐ろしい鬼である。
源頼光の四天王といわれた武者・渡辺綱が、子の鬼の右腕を切り落とし、
その報告を受けた源頼光が安倍清明に相談すると、それに清明が
「鬼の祟りを避けるために、綱には七日の間、物忌みさせるように」
と、答えた話が伝わる。




画鋲とび散るイタチごっこのイタチ  湊 圭伍

拍手[4回]

ノックして下さったのでしょうか春  前中知栄






          「源氏物語図 真木柱」 (土佐光吉筆 京都国立博物館蔵)

お仕えする姫の魅力を、それとなく触れまわるなど女房たちには、気働
きが大切。ひとたび、素敵な貴族の男と結婚したとしたら、今度は姫が
不幸にならないようにも、心を砕いたという。




「恋はいつでも噂で始まる」
顔の見えない平安の恋愛は、男性が女性の噂を聞くことから始まる。
「音に聞く」と、いって、どこそこの娘は、器量よしであるとか、教養
があるとか、噂で情報収集してイメージを膨らませる。
噂を流すのは、お付きの女房で、彼女たちは、自分の仕える姫にすばら
しい男性が来るよう、しばしば誇大広告することもあったとか。
世の男性にアピールするため、年ごろの娘のいる家では、才気ある女房
をひとりでも多く抱えようとしたという。




タケヤブヤケタカと言えますか姫  酒井かがり





   清涼殿上御局の復元模型 (京都文化博物館蔵)





式部ー後宮の恋愛




「王朝の恋は恋文から」
顔を知らぬ者どうし、愛の手紙を交わすことから始まるのが、平安時代
の恋愛。そのため、印象的で女性が好感をもつような手紙を送ることが、
男性の嗜みだった。
書かれる和歌や文字の優美さはもちろんのこと、便箋(料紙)の選び方
にも、心を配っていた。
恋文には、厚いしっかりした紙よりも、薄く柔らかな紙が好まれたよう
で…『源氏物語』にも雁皮紙(がんぴし)を薄くすいた薄様、柔らかく
繊細な高麗の紙、もろさのある唐の紙などが、料紙として用いられた。




楷書よりすこし崩した字がやさし  荒井加寿





          「矢田地蔵縁起」

仏教が厚く信仰された平安時代後期から鎌倉時代には、仏や社寺の由来
を題材にした縁起絵が、数多く残されている。
これは満米上人が閻魔に招かれ、地獄見物に案内された説話。
満米上人は地獄で猛火の中の亡者を救っている地蔵を見る。




「王朝貴族は運命の恋に身を焦がす」
源氏物語には、宿世(すくせ)という言葉がしばしば登場する。
これは、現世での出来事は、前世からの因縁で決まっている…という
仏教の考えをもとにした運命感である。
「さるべき(そうなるはずの)契り」「さるべき宿世」といった言葉を
王朝人は好んだ。恋愛には欠かせない「運命の出会い」
王朝人は、宿世という仏教の教えを、ロマンチックな情愛に結び付け、
わが恋の炎を燃え上がらせていたのである。




飴色の竹の耳かきこする音  野口 裕





        貴人の御帳台
昼のひと休み用の間 夜はベッドルームに。
昼間は帳を巻き上げ、その代わり三方に几帳を立てた。




「帝の恋に、純愛はご法度」
は、つねに桐壺を手元に置き、寵愛の限りを尽くされる。
桐壺が「更衣」という女御よりも、低い身分の女性と承知の上だから、
まさに純愛のラブストーリーである。
しかし、たった一人の女性を愛することは、天皇にはあるまじき行為。
天皇は、後宮すべての女性に、満足を与える存在でなければならない。
仕える女たち全員に情けをかけることも、天皇の義務の一つなのである。
他の女御や更衣たちが、桐壺に憎悪を抱くのも、無理のないことだった。




風が煽ってくるわたくしの熾火  岸井ふさゑ




「帝のお召しのない夜は…」
毎夜のようにに呼ばれ、清涼殿へと向かう桐壺
そんな彼女に嫉妬心を燃やす後宮の女たち…。
しかし、そうかといって後宮を去り、違う男を探すわけにもいかない、
一族繁栄の期待を背負って入内した女たち…。
ライバルの動向に目を光らせ、不安と孤独に悩まされながら、帝に誘わ
れる夜を待つほかないのである。
夜の誘いが途絶えることを「夜離れ(よがれ)」といい、貴族の結婚の
場合は、そのまま離婚にいたることもあった。




淋しさを要約すれば小夜しぐれ  宮井いずみ





        朧月夜の姿を垣間見て見初める源氏
このあと二人は慌ただしく逢瀬のひとときを過ごし、その証に扇を取り
かえて「後朝の別れ」をする。




「後朝(きぬぎぬ)の別れ」
王朝貴族の女性は、初対面の男性に直に顔や姿をみせてはならなかった。
付き合ったり結婚する間柄になって、初めて顔を見せることが許された。
逢瀬は闇の中。
朝、明るくなってから男が出ていくのは、実に無作法とされ、夜が明け
る前に帰るのが習慣だった。
当時、脱いだ二人の衣を重ねて、布団代わりに体に掛けていた。
明け方重ねていた自分の衣を、身につけ帰って行く……なんとも切ない
情景である。




まだ少し未練が残りふり返る  山本昌乃





          「源氏物語絵巻 宿木二」
翌朝の匂宮と六の君




「三日夜餅が愛のあかし」
平安貴族の結婚式は、三日間かけて行われる。
初日は新郎が新婦の家を訪れ、初夜を過ごし、翌朝、新郎は家に帰って
愛の和歌を詠み、ラブレターを送る。
二日目も同じことをおこない、三日目の夜には、新婦の親が、「露顕」
(ところあらわし)と呼ばれる結婚披露宴が行われる。
このとき新郎新婦に「三日夜餅」が供され、夫婦として認められる。
結婚が成立すると、夫は妻の元へ通ったり、妻の家で暮らし始める…。




この先は何かありそな曲り角  靏田寿子



「夫が妻の家に通う結婚生活」
平安貴族のカップルの妻は、結婚しても、自分の実家から離れず、夫が
妻の実家に通った。この結婚形態を「妻問婚」といった。
やがて妻の実家に夫が同居することもあるが、夫の実家に妻が同居する
ことはない。妻にとっては楽なようだが、当時は、一夫多妻が一般的。
男性は複数の女性と結婚できるので、夫が来ないと思っていたら、別の
妻の家に通っていた、ということもあったようだ。




グルメ猫たまに草の葉食べに出る  松 風子

拍手[4回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開