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川柳的逍遥 人の世の一家言
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出られない回転ドアに惚れられて  岡田幸男




            本多忠勝vs加藤清正


徳川四天王の本多忠勝と秀吉子飼いの加藤清正による一騎打ちは、なか
なか決着が付かず、最終的には槍を手放しての組み打ちになった。
そこへ馬を駆って「それまで!」と叫ぶ者があった。それは清正の主君
羽柴秀吉だった。



  
              甲   冑
   本多忠勝        榊原康政      井伊直政




徳川家康「徳川四天王」をはじめ、多くの優れた家臣に恵まれている。
故郷である三河国からの家臣団は、特に忠義に篤いことで知られる。
三河武士達は、命も惜しまぬほど家康に最大の忠義を持って仕え、
家康も家臣団に対して、最大の誠意を示していた。
あるとき、豊臣秀吉が諸大名を集めて
「自分は天下の宝というものの大半を集めた」
と、自慢をし、徳川家康に対して、
「どのような宝物を持っているか尋ねた」
これに対して家康は、
「自分は田舎者だから、これと言って秘蔵の品は持っていない」
と、答え、続けて
「自慢といえば、私のために命を懸けてくれる部下が五百騎ほどおり、
それを1番の宝と思っている」と返したという。




笑い声の高さを競い合う遊び  平井美智子



家康ー徳川四天王ー② 本多忠勝・榊原康政




--
      本多忠勝            山田裕貴




本多忠勝 直轄軍の司令官
天文17 年(1548)~慶長15年(1610)
『徳川家康いるところに 平八(本多忠勝)あり』と、言われるほど、
本多忠勝は、主人家康と信頼が厚い主従関係を築いた。
徳川家臣団でも比類のない猛将。
鹿角の兜をかぶり、初陣以来57回の合戦を経験しながら、一度も刀傷
を負ったことがないという天下無双の槍使い、武勇の士であった。
忠勝の家系は、松平家臣の本多氏のなかでも宗家に近いといわれる。
忠勝は、幼少の頃から家康に仕え、永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」
の前哨戦となる「大高城の攻防戦」で初陣を飾った。
このとき家康は18歳、 忠勝は11歳。



人参を抜くとき無無と声がする  斉尾くにこ




     天下の名槍 「蜻蛉切」・天下三名槍


忠勝が愛用した槍 「蜻蛉切」ー その名は、 「刃の上にとまったトンボ
が真っ二つになって落ちた」と、いう逸話に由来し、 「福島正則の日本
号」「結城晴朝の御手杵(おてぎね) 」とともに「天下三名槍」のひとつ
に数えられている。 当初は、柄の長さが6メートルあったが、忠勝が
晩年になって3尺 ほど切り詰められている。




       本 多 忠 勝

忠勝は生涯で何人の敵を斃してきたのか?
肩からかけた大数珠は、自らが討った敵を弔うためのものである
 



「忠勝の武勇伝ー①」
一言坂の戦い忠勝25歳。元亀3年(1572)10月、遠江国二俣城を
めぐり、武田信玄徳川家康の間で偶発的に起こった戦いである。
これに徳川方は敗走。このとき武田方の猛将・馬場信春がしつこく追撃
してきたが、忠勝は殿を務めて一手に引き受けると、坂下という不利な
地形であったにもかかわらず、忠勝の奮闘で武田勢を押し返し、家康の
本隊は難を逃れることができた。一言坂の戦いのあとに「家康に過ぎた
るものが二つあり 唐の頭に本多平八」
という本多忠勝の武功を称える
狂歌・落書が登場したのである。
「忠勝の武勇伝ー②」
天正10年(1582)6月、忠勝35歳。信長明智の奇襲によって本能寺
に倒れた折には、窮地に立った家康が、放心状態で、「京都に戻り明智
光秀の軍勢と戦って切り死にする」と、言いだした。
そのような家康を忠勝「ここは一度、三河に戻り、態勢を整えてから
明智を討ちに出るのが得策」と、諫め、体制を立て直すために帰国を進
言したが、家康は、その進言を聞いてもなお、落ち着かない状態だった。
それでも忠勝は、主人を励まし続け、服部半蔵の助勢を得て、わずかな
兵士とともに「家康の伊賀越え」を成功させている。



足跡をわざと残した骨密度  靏田寿子




「忠勝の武勇伝-③」
以後、家康が経験した戦のほぼすべてに参加し、戦功を重ねた。
とくに天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」での奮闘ぶりはよく
知られるところである。
小牧山の家康本陣で、留守居役を任されていた忠勝は、秀吉勢の本隊が
小牧山を狙っていることを知ると、僅か五百の手勢を率いてこれを妨害。
堂々たる忠勝の姿を見た秀吉勢は進軍をあきらめたという。
(戦後、秀吉までが忠勝の働きを称賛している)
同18年の小田原戦役後、家康が関東へ移封となると、忠勝は房総半島
の抑えとして上総大多喜城 10万石を与えられた。



今ここが居場所と思うよき目覚め  津田照子
  





      「桶狭間の戦い」  歌川豊宣
桶狭間の戦いの前哨戦「大高の攻防」が忠勝13歳のときの初陣だった。
忠勝辞世の句。それから50年。猛将にも死は訪れる。

「死にともな嗚呼死にともな死にともな深き御恩の君を思えば」


「忠勝の武勇伝-④」
慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、戦目付 (軍監・監査役) として
四百余名の兵を引き連れて参戦、家康本陣のある桃配山にも近い後方に
陣取った。しかし,
西軍の猛攻により前衛が崩れ始めると、みずから最前線に赴いて指揮を
執り、自兵を連れて敵陣へ突撃するなど、獅子奮迅の活躍をみせた。
東軍の最前線に陣取っていた福島正則は、戦後に忠勝の見事な采配ぶり
を絶賛している。
戦後、10万石は据え置きで伊勢桑名へ移封となる。
が、その抜群の貢献ぶりに応えるため、次男の忠朝にあらためて大多喜
5万石が与えられた。晩年は病を得て隠居し、同15年に桑名で死去。
63歳だった。



海色に染みゆく散骨が希望  中野六助



【余計なひと言】ー「おつむ」の方はいまひとつ
戦場での働きは抜群だった忠勝だが、学問は苦手だったようだ。 
家康に招聘された朱子学者の林羅山に、忠勝は「学者というと天神様と
どちらが賢いのだ」 と尋ね、苦笑された。
それを家康に伝えると、家康もまた苦笑したという。
真偽は不明だが、忠勝が「武勇一辺倒の人物」として知られていたこと
がよくわかる。



のどの奥あれこれそれが出てこない  長谷川崇明




    
                        榊原康政                                   杉野遥亮



榊原康政=右筆も務めた秘書
天文17年 (1548) ~ 慶長11年 (1606)
家康の側近中でも際立った勇武で知られ、「徳川四天王」の一角に数え
られる。榊原家の出自は源氏に連なるという。 康政の祖父が伊勢国から
三河に移住したといい、康政は、最初に松平家の臣・酒井忠尚に仕え、
その後、酒井が松平家を離反すると家康に召し抱えられた。
そして、永禄6年 (1563) の「三河一向一揆」で初陣を果たし、家康の康
の字を与えられる。
その活躍により、翌年には本多忠勝・鳥居元忠とともに旗本先手役(部
隊長) にとりたてられた。


                 小牧・長久手の戦いでの榊原康政(楊洲周延) 
       
榊原康政の旗印の「無」の意味は?




元亀元年(1570)の「姉川の戦い」では、縦に伸びた浅井・朝倉の軍勢を
側面から衝き、勝利に大きく貢献したとされる。
同4年の「三方ヶ原の戦い」では、家康を浜松城 に逃がした後、夜襲を
成功させたという。その後も「長篠・設楽原の戦い」などでも戦功を挙
げるなど、本多忠勝らとともに、常に戦場で先頭に立って躍動した。



額縁を突き破ってくる黒豹  徳山泰子



天正18年 (1590) に家康が関東へ移封されると、北方の抑えとして上野
館林10万石を得た。そして2年後には家康の嫡男・秀忠付きとなった。
慶長5年 (1600) の「関ヶ原の戦い」では、その秀忠が率いる中山道勢に
参加。しかし真田昌幸・信繁親子が守備する「上田城の戦い (第二次) 」
で秀忠は苦戦し、関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態をみせる。
康政は補佐役としての責任から、自ら家康に陳謝し、秀忠への勘気を和
らげたという。また戦後は、論功行賞を補佐するなど、政治的な面でも
家康の信頼が厚かった。その後、秀忠は康政の娘を養女とし、 徳川家と
姻戚関係を結ぶまでになった。
しかし、康政はあくまでも武断派と目され、太平の世になると次第に政
治の第一線から遠ざかっていく。 晩年には本多正信・正純親子ら文治派と
対立、秀忠らに惜しまれつつ館林で病死。59歳だった。



完走の一歩手前で蹴躓く  大島美智代



【知恵蔵】ー「その後の館林藩主家」
康政は、館林藩の藩祖として数えられているが、 嫡子の康勝は継嗣なく
死去したため康政の系統はまもなく断絶。 康政の功績により、 その孫に
あたる大須賀忠次が藩を継承した。 やがて忠次は、陸奥白河藩に移封と
なり、館林は幕府直轄地となった。 そしてその後、この幕領館林から、
徳川綱吉が輩出されることとなる。


吉報なのに鈍行でやってくる  東川和子




番外ー鈴木久三郎




     
    軍配              家康の旗印



「軍配の軍配」
長さは44センチ、幅19センチ。団扇部分は皮で、漆の下地に金泥を厚く
塗り、表に朱色で日を、裏は銀箔で月を表す。
柄は竹を2枚合わせて漆を塗り「三葉葵」の紋が鍍金で施されており、
握りには藤が巻かれている。



「ここにも一つ、どうする家康」
鈴木久三郎ー岡崎城にいた若い頃(17-27) の家康に切り捨て覚悟で
物申した家臣がいた。
家康は、信長から貰った酒や鯉などを大切な客人をもてなすために大事
に保管していた。
 徳川家康が岡崎城に在った頃、勝手に鷹場で鳥を取った者や城の堀で
を取った者たちが家康の怒りを買い、牢に閉じ込められてしまった。
これを聞いた鈴木久三郎は、勅使に馳走するための鯉や織田信長から貰
った酒を、家康から拝領したものとして勝手に持ち出し、皆に振舞って
しまった。家康は烈火の如く怒り、薙刀を手にして久三郎を呼びつけた。
すると久三郎は、「魚や鳥を人に替えて、天下が取れるか」と吠えた。
これに家康は心を打たれ、久三郎や捕らえていた者たちを赦したという。
トップとボトムの間にも「刎頸の交わり」がここに生まれた。                                            (岩淵夜話別集)


尖らずに正道をゆくいい笑顔  宮原せつ

鈴木久三郎に、窮地に陥った家康の軍配を奪い、身代わりとして敵軍へ
突っ込み家康を救い、その後、無事生還した話が伝わる。
武田軍と徳川・織田軍が激突した「三方ヶ原の戦い」で…。

ア行から始まる地球の歩き方  笠嶋恵美子




     窮地の家康の前に敵と対峙する鈴木久三郎




「鈴木久三郎&家康の物語」
鈴木久三郎は「殿っ!」と叫び、窮地に陥った家康の元へ駆けつけ家康
が手にしている采配を指し示し、
「それがしが三河守 (家康) を名乗り、殿が逃げる時を稼ぎ申す。采配を
私目に御貸し下され」
采配は、軍勢を指揮する道具。これを持っていれば、敵も「こいつが総
大将の家康だ」と勘違いするだろう、言うのだ。
「何を申すか。そなた家臣を見捨てて逃げるなど、出来ようものか!」
渋る家康を、久三郎は叱りつける。
「このどたぁけが!殿がご無事なればこそ、捲土重来も叶いましょう」
久三郎は、下級武士で教養もあまりないから言葉遣いがあらっぽい。
「しかし……」 
躊躇する家康に
「えぇから寄越さんかい!」
興奮と緊張で久三郎は、上下見境のない言葉を連発し、家康から采配を
引ったくって、武田軍に向かって駆け出して行く。
「久三郎、必ず生きて戻れよ!」
「任せとけ!、えぇからクソ漏らさんウチにとっとと帰れ!、このどた
 ぁけが!」
このとき家康も30歳になっていたが、久三郎は自分の倅に話しかけて
いるように言葉遣いも無礼千万、滅茶苦茶だ。



いつだってあなたの杖になる覚悟  広瀬勝博


浜松城へ戻った家康は、音のない声で呟いた。
「今ごろ久三郎は、武田の兵らに膾切りにされているだろうのぉ」
悲しみにくれている家康の頭上から、聞き覚えのある声がした。
「…どたぁけ」
家康が顔を上げると、ボロボロで傷だらけの久三郎が立っていた。
「すわっ、亡霊か!」
「どたぁけ。ちゃんと足はついとるわい。殿が『必ず生きて帰れ』と
 言うただろうが」
「…よくぞ戻った!」
感涙にむせぶ家康に、久三郎は采配を渡しながら、
「あんな連中、大した事はないわい…それはそうとこれで『借り』は返し
 たからな!」
家康が受け取った采配は、ボロボロだ。
久三郎の潜り抜けてきた死闘を代弁しているように…。


今が今であればそれでいい夕陽  市井美春

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茹であがる刹那の蛸の溜息  酒井かがり




   東大寺四天王ー広目天・多聞天・増長天・持国天
仏教に由来する東西南北の守護神である持国天・増長天・広目天・多聞天
「徳川四天王」は、本家四天王から総称を引用されたものである。



「徳川四天王」
本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は、1590年(天正18)の徳川
氏の関東移封から、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いまでの時代に
徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となっ
て活躍し、幕府の基礎固めに功績があり、又1586年(天正14)9月
に、徳川家康の名代として上洛した上記の3名を、上方の武将たちが、
「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。(『榊原家譜』
その後、本多・榊原・井伊の3名は翌月、徳川家康上洛に随行していず
れも叙位され、これに徳川家最古参の家臣である酒井忠次を加えた4名
「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになった。


それはもういい人でした知らんけど  加藤田君子



家康ー徳川四天王ー井伊直政・酒井忠次



ーー
   井伊兵部少輔直政         直政-板垣李光人




「徳川の赤鬼・井伊直政」
永禄4年(1561)ー慶長7年(1602) 
裏切り、寝返りが、当たり前に行われていた戦国時代に、鉄の団結力を
誇ったのが徳川武士団である。
直政は、今川氏の家臣だった直親の子である。
直親が、家康信長に内通した嫌疑をかけられて殺されたとき、直政は
2歳だった。今川氏政は直政も殺そうとしたが、助命を願う者が現れ、
以後家康に取り立てられるまで、寺から寺への流浪の生活を送っている。
そして天正3年 (1575)、浜松城下で家康に謁見。
自身も今川の人質となり、8歳で父を暗殺された家康に親近感をもたれ
たのか、直政は家康に小姓として仕えることとなる。
このとき直政15歳。その翌年には、遠江・武田勝頼勢を相手に初陣を
果たすなど、「新参の譜代にも拘らず、屈指の忠臣ぶり」と、勇猛さが
評価され、のちに「徳川四天王」の1人に数えられる出世を遂げた。


すごーく泣いて湖ができた朝  福尾圭司

その後は、本多忠勝・榊原康政らとともに旗本先手役(常備軍の部隊長)
に任じられ、常に最前線に立って躍動した。
同10年の天正「壬午の乱」の後、武田の遺臣の処遇が問題となるが、
直政はその解決に奔走する。
これが家康に認められ、22歳にして直政は、他の重臣を差し置いて、
家康が採用した武田の遺臣74騎と名のある坂東武者43騎、それに
武田の「赤備え」を継承することを命じられた。
直政の、政治と軍事の手腕を高く評価した家康が、子飼いの臣を持たな
い直政のために、戦国最強軍の遺臣をつけたのである。


巡りくる春へと命立ちあがる  平井美智子


その力量は「小牧・長久手の合戦」ですぐに表れた。
なんと敵方の秀吉が、「赤備え」で戦場を駆けめぐる直政と、榊原康政
本多忠勝の3人を絶賛したのである。
これを伝え聞いた家康が、「彼らが喜ぶだろう」と、3人に伝えると、
一人直政だけが、
「股肱之臣を貶め敵将を褒めるのは主将たる人の道ではない」
と、秀吉を批判し、秀吉に自分たちを誘惑する底意があることを指摘、
さらに
「たとえ天下を賂うとも、この兵部(なおまさ)は他人の禄を貪るべく
 もござらぬ」
と、言い放ち、家康を感激させたという。


9号線筋の通った話です  斉尾くにこ


そして、同18年に家康が関東移封になると、上野箕輪城12万石を与え
られている。30歳にして家臣団中最高の石高を得たのであった。
その後は、次第に最前線から遠ざかり、慶長5年 (1600) の「関ヶ原の戦
い」では、家康の四男で、直政の娘婿でもある松平忠吉の後見人として、
参戦する。忠吉は、東軍の最前線で福島正則と先陣を激しく争い、関ヶ原
の本戦が開始された。
このとき、西軍奥深くに陣取っていた島津勢が、形勢をみて強引な敵中
突破を図る。直政はこれを見るや追撃し、島津勢の若き猛将・島津豊久
を討ち取った。
この功績により、近江佐和山城18万石に栄転となるが、追撃戦の際に
受けた銃創が災いし、2年後に佐和山城で死去した。享年42。

シャッターを下ろす時計を駆けあがる  高橋 蘭




井伊直政所用と伝わる甲冑。 (彦根城博物館蔵)
戦国最強といわれた武田軍の「赤備え」は、井伊軍に引き継がれ、常に
徳川軍の先鋒を務めて「井伊の赤備え」と恐れられた。


「直政の赤備え」
旧武田領をめぐって勃発した「天正壬午の乱」の際、直政は小田原北条
氏との交渉役となり、家康は、信濃と甲斐 を得た。
この功績により家康は、武田遺臣120名を直政配下に所属させるととも
に、山県昌景「赤備え」を継承させた。 以後、 井伊家(彦根藩) 当主
の戦装束は、 常に赤で統一されることとなる。


齧りかけのりんごが何か言いたそう  みつ木もも花


井伊家と 「城」 のその後
直政が得た佐和山城といえば、前の城主はあの石田三成であり、中世的
山城の印象が濃かった。 そのため直政は、新たな城と城下町を整備しよ
うとしたが、 志なかばで早逝。 事業は後継の直孝が引き継ぎ、 彦根城
を新造した。
城は彦根藩の藩庁となり、 彦根藩主はときに大老職を担いつつ、明治の
世まで栄えた


間食に風のうわさの二つ三つ  清水すみれ




ーー
   酒井右衛門尉忠次          忠次ー大森南朋



徳川軍団のリーダー 酒井忠次 
大永7年(1527)~慶長元年(1596)
忠次の妻は、家康の祖父母の娘で、家康とは叔父・甥の関係になる。
初期徳川家第一の宿老。家康と苦楽をともにして、その覇業を支えた家
臣団のなかでも別格の存在であった。
忠次は家康の父・松平広忠に仕え、1549年(天文18)幼少の家康が
今川・織田の人質となった際にはそれに同行している。
そのまま、幼少期、青年期の家康の側近をつとめ、東三河の旗頭として、
荒ぶる忠勝・康政・直政や三河の猛将らをまとめた。

精進を重ねゴリラになれました  きゅういち


1560年 (永禄3) の「桶狭間の戦い」で、今川義元が敗死し、家康
独立すると、忠次は筆頭家老となった。
同6年の「三河一向一揆」では、酒井一族の多くが、一向一揆勢に付く
なか、窮地に陥った家康にあくまでも付き従っている。
同7年には、今川氏支配下の「吉田城攻め」に参加、城将の小原鎮実
降伏させる功を立て、代わって吉田城主となり東三河の旗頭と称された。
民族のガチンコの音骨の音  峯島 妙

その後家康は、織田信長の同盟者として、数々の戦闘に参加するが忠次
は,そのすべてに同行し、多大な戦功を挙げることとなる。
1570年(元亀元) の「姉川の戦い」では、先陣を切って浅井・朝倉
合軍に突撃、同3年の「三方ヶ原の戦い」では、劣勢のなかで小山田信
の部隊と戦い、これに勝利した。
1575年(天正3)の「長篠・設楽原の戦い」では、信長「鷲ヶ巣
山砦の早期奇襲」を提言して採用され、信長からも絶賛された。


不可逆な時間のなかの無知無害  斉尾くにこ


こうして順調に武勲を重ねていった忠次だが、同7年に家康の長子・
が謀反の嫌疑を受けると、忠次は、交渉役を担うも、その弁明に失敗。
(この一件が後々まで響き、晩年の不遇に繋がったといわれる)
同12年の「小牧・長久手の戦い」では、鬼武蔵の異名で知られる猛将・
森長可を敗走させている。
こうした武勲によって、豊臣秀吉からも激賞され、京都・桜井に屋敷を
拝領するなど厚遇を得たが、康家からは次第に冷遇されるようになった。
晩年は眼病を患い、同16年には、嫡子の家次に家督をゆずり隠居。
1596年(慶長元)に京都・桜井の屋敷で病没。享年70歳。


見つめないでください私の嘘の裏表  柳本恵子


「年齢のうえでも別格だった忠次」 
歴史上の人物たちの人間関係を計る際に失念しがちなのが、 その年齢差
である。 忠次の場合は、家康より16歳年長であり、四天王と呼ばれる
宿老のうち、 もっとも若い井伊直政にいたっては、34歳もの開きがあ
った。 晩年は、他の家臣たちとの不和も目立った忠次だが、 世代格差も
大きな理由だったのだろう。
因みに、本多忠勝・榊原康政より21歳上になる。
「世代間に生ずる、知識・関心・考え方などの違い」いわゆる、ジェネ
レーションギャップは、今も昔も変わらず存在したようだ。
【一筆知恵蔵】
(天正7年 (1579) 、家康の長子・信康が、信長への謀反を企んだという
嫌疑をかけられ、 忠次が弁明のため安土城の信長のもとへ赴いた。
このとき忠次があっさりと嫌疑を認めたために「信康は切腹を命じられ
た」と、いうのが通説となっていたが、近年は 「濡れ衣である」という
異説も多く唱えられている)


ア行から始まる地球の歩き方  笠嶋恵美子

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ドライフラワーだったとしても薔薇に刺 美馬りゅうこ




           「家康及び徳川十六将図」 久能山東照宮博物館蔵
鉄壁の結束を誇ったといわれる三河武士団だったが、「石川数正出奔」
という「あり得ない事実」に動揺が走った。



家康ー石川数正の背信





        石 川 数 正
石川数正とは、剃刀のような切れ味鋭い頭脳の持ち主で、遠慮なく正論
をぶち、 外交役も務め、戦国武将と渡り合う度胸の持ち主。家康独立
の後も股肱の臣として支えた
家康が最も信頼する古参の家臣である。




「数正のヘッドハンティングに走る秀吉、秀吉に奔る数正」
石川数正は、主君・徳川家康が今川家の人質だった時代から、随従して
いた譜代の重臣だ。彼は家康が自ら行った徳川軍団再編成のとき、三河
東部の旗頭である酒井忠次と並び、西三河の旗頭に任じられた。
この2人は「両家老」と呼ばれ、徳川家臣団の双璧として三河譜代衆の
尊敬を集めていた。



友達のまんまで鬼灯は熟す  安藤哲郎





   戦場を馬でかける数正




その石川数正が、1585年(天正13)11月13日の夜、妻子や一族、
家臣など100余名を引き連れて岡崎城を脱出し、大坂城へ赴いて豊臣
秀吉に臣従した。
家康にとって、重要拠点である岡崎城代を務めるほどの数正が何故、また
突如出奔し、敵対する秀吉に臣従しなければならなかったのか。
「二君に仕えず」という、儒教一辺倒の考えが定着する江戸時代と異なり、
戦国の世は、むしろ複数の主君を渡り歩く武将の方が優秀であり、美徳だ
とされてはいた。
しかし、それにしても、三河衆の柱石である石川数正の出奔は、鉄壁の団
結を誇る徳川家臣団にとっては、衝撃的な出来事だったのである。



岩盤のひびわれ仄かな反逆  森井克子



数正が出奔した直後、家康は小田原の北条氏直に書いた手紙のなかで、
数正の背後には、「秀吉の勧誘の手が伸びていた」と、言明している。
数正は秀吉の誘いに篭絡され、家康を裏切ったというのだ。
この裏切り行為によって受けた損害は、計り知れないものがあった。
家康が最も恐れたのは、三河軍団の戦術軍法が、敵側に筒抜けになるこ
とである。そこで家康は、急遽、武田信玄の軍法を研究させ、武田家の
軍法を取り入れた、新たな徳川軍団を再編成せざるを得なくなる。



蘭鋳は忘れぬ黒子だった過去  森山盛桜






数正は家康からの贈り物「初花肩衝」を秀吉を届けにきた。



「両雄の板挟みに苦しんだ数正」
数正が初めて秀吉に接触したのは、1583年(天正11)5月21日の
ことである。賤ケ岳合戦の戦勝の賀詞を述べるために近江坂本を訪れ、
家康からの贈り物「初花肩衝」の茶壷を持参した時だった。
秀吉はこれを喜び、数正を厚遇した。
『…十一年五月豊臣太閤に初花の茶壷を贈りたまふのとき、数正於使を
つとむ。十二年四月長久手合戦のとき、仰によりて酒井忠次、本多忠勝
とともに小牧山の御陣営を守り、六月前田甚七郎長種が前田の城をせめ、
城兵降をこふて引しりぞく…』



海 海 海 現場から以上です  兵頭全郎



2度目は、翌年の3月、「小牧山の陣」においてであった。
数正の部隊が掲げる金の馬蘭の馬標(うまじるし)を望見した秀吉は、
それを気に入り、使者を遣わして譲ってほしいと所望する。
数正が請われるまま馬標を秀吉に贈ると、秀吉は返礼として黄金を届
けてきた。
数正にそのことを告げられた家康は、「もらっておけ」と答えたが、
結局、数正は返却したという。



ノーヒントですとほほえむ地蔵さま  新家完司





       家康が秀吉と信雄の仲立ちをした書状
1584年の小牧・長久手の戦いでは、秀吉、家康の両雄が激突した。
書状は翌年10月14日付で、家康が重臣を秀吉へ派遣したことに関し
「今後について相談することはとても結構なことだ」と記述。
「秀吉も慎重に事を進めるだろうから安心してほしい」として、
再戦を避けて秀吉に従うよう望んでいる。




つぎの会見は同年11月16日。
「小牧長久手の合戦」において、家康の形式的な主将である織田信雄
秀吉と講和したとき、家康は数正を遣わして「和議」の成立を祝賀させ
たのである。
このとき、家康との「和議」をはかろうとしていた秀吉は、家康の子を
養子にしたいと申し入れてきた。この場合の養子とは、実質上の人質と
考えてよいだろう。家康の2男で11歳の於義丸(のちの結城秀康)を
差し出すための使者もまた数正であった。
同年12月12日、数正は自らの子・勝千代(のちの康長)らを同伴し
大坂城へ向かったのである。



記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗




家康・秀吉の板挟みに悩む数正・松重豊




1585年(天正13)秀吉は、紀伊の根来衆雑賀衆を討ち、四国の
曾我部元親、越中の佐々成政を降伏させ、家康を孤立無援に追い込んで
いった。その上で秀吉は、まず数正を上洛させ、彼を通じて家康の上洛
を求めてくる。
しかし、長久手での実質的な勝利で自身を持っている三河衆は、「秀吉
との手切れも辞さず」と、主張するばかりで、数正は、天下の情勢を説
いて「和議」を唱える。
『…秀吉天下の半を領して諸将おほく其下風にたつ。今御麾下の士彼に
 比すれば其なかばにもたらず、かつ北に上杉あり東に北條あり、三方
 の敵を受ば、たとひ一旦利を得るとも永く敵しがたし…』




手の平で豆腐を処刑して  ひとり  平井美智子




秀吉に洗脳されてしまったという声が囁かれ始めた頃、ひとり浮き上が
ってしまった数正は、悩みを解き決意をするのである。
『…十三年十一月数正かつてより岡崎の留守たるのところ、ゆへありて
 岡崎を出奔し、大坂にいたりて太閤につかふ。のち、従五位下に叙し、
 出雲守にあらたむ。十八年七月小田原落城の後、信濃国松本の城主と
 なり八万石を領す。文禄二年卒す』
そして同年12月12日、数正は自らの子・勝千代(のちの康長)らを
同伴し大坂城へ向かったのである。
1585年(天正13)53歳の時、徳川家を去り、秀吉に仕える。
1590年(天正18)信州松本に8万石を与えられ大名になる。
1593年(文禄2)61歳で死去。



はじかれてスマートボールの一日  中野六助





     法螺を吹く秀吉 (月岡芳年)



「秀吉の人心収攬術」
数正の背信行為の真相はなお謎とされているが、これまで、その出奔に
ついては、さまざまな憶測が語られてきた。
 数正は家康が秀吉のもとへ送り込んだ、というスパイ説
 秀吉強硬派である本多忠勝らが、数正が秀吉と内通していると猜疑
  し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したため、という説。
 秀吉との間で「秀吉のところに行けば家康との戦を回避する」とい
  う密約があった、とされる説。
 わが陣営に来れば1、0万石の知行をとらせると度々、秀吉に言われ
  数正がその気になった、という説。
 家康が他の大名と別格であることを見せつけるため、つまり「数正  
  ほどの者が出奔して、やっと腰を上げた」と見せつけるために仕組
  んだ芝居だった、という説。 等々である。




封筒の厚さにころり軟化する  木口雅裕




数正の本心は、彼自身に聞いてみなければ分からないが、1つ確かなこと
は、秀吉「人心収攬術」に数正が嵌ったということだろう。
秀吉は敵陣衛のキーマンに狙いを定めると、その人物と友好的情報交換
を繰返すうちに戦わずして、隠れた味方変身させるという高等戦術を編
み出していたからだ。一種の洗脳である。
さすがの石川数正も「人たらし」と呼ばれる秀吉の前では、冷静にいら
れなかったのでは……ないだろうか。



胸奥を覗きましたねラフロイグ  宮井元伸






    優しく理知的な御面相の結城秀康



【一筆知恵蔵】 結城秀康の奔放ライフ
家康の二男・秀康は「小牧長久手の戦い」の後、人質同然の身で秀吉の
養子となった。しかし案に相違して秀吉は、この養子を可愛がっている。
下総の名家・結城家を継いだのも秀吉の計らいによる。
関ヶ原の時は、宇都宮に軍を止めて上杉勢を牽制。
その功で越前国67万石の太守に任じられた。しかし秀忠が2代将軍と
決まったころから、秀康にわがままな行状が多くなる。
「徳川より太閤に受けた恩のほうがずっと深い」と公言して、大坂方を
贔屓にしたり、鉄砲を持ったまま関所を押し通ったり。
家康は秀康を責めなかった。
誰が見ても、弟の秀忠より優れている秀康を、将軍にしなかったことを、
すまないと思ったのかもしれない。
家康にしてみれば、器量抜群の秀康よりは、親の言うことを何でも素直
に聞く秀忠の方がコントロールし易かったのである。
秀康は、慶長12年(1607) に34歳で急逝した。
容態を案じた家康が、「病気が治ったら百万石やるぞ」と、励ましたが
その知らせは間に合わなかった。



薄味に慣れて性格まで変わる  瀬戸れい子

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美しい言葉にもあるうらおもて  津田照子





         小田原城屏風絵
城下の人々の賑わいが描かている小田原城は、城郭内に田や川、
町までを備えており、兵糧攻めが不可能と思える程に巨大で、
難攻不落の様相があった。




「episod 1」 「猿の放った一芝居」
秀吉が死ぬまでは面従腹背の「タヌキ」ぶりを発揮していた徳川家康
家康と秀吉との戦いは心理戦だった。小牧・長久手の合戦を契機とした
エピソードが伝わっている。
『戦いの後、秀吉との和議に応じた家康と信雄だったが、家康が本心か
ら秀吉に臣従しているか』、疑う声も多い。
そこで秀吉は、のちに北条氏の小田原城攻めへの途上、先鋒として出陣
していた家康と信雄を訪ね、やおら刀を抜くと、
「信雄・家康に逆臣有りと聞く、一太刀まいらん」
と、叫んで斬りかかる格好をした。
秀吉にすると相手の反応を見るための演技だったが、動揺したのは信雄。
真に受けてオロオロと逃げ回ったが、家康は全く動じず秀吉の供の者に、
「殿下が軍始に御太刀に手をかけられた。めでたいことだ。みなお祝い
 なされ」
と、軽くいなし、その場を丸く収めたという。


かき揚げにするとお酒にあう台詞  西澤知子





           タ ヌ キ と サ ル



家康ータヌキはサルに化かされた 


戦いに利のないことを、互いに悟って和議を結び、終戦とした小牧・長
久手の合戦。これによって、それまで、三河の一地方勢力にすぎないと
見られていた家康の名は、一気に天下へ鳴り響いた。
日の出の勢いの秀吉に伍して、兵力に劣りながらも一歩も引かずに戦っ
たからである。
「小牧・長久手の合戦」の後、家康は、本拠地三河を中心に、東海地方
や甲斐・信濃に勢力を固め、秀吉との新たな戦いに備えた。
ところが、そんな家康に、秀吉は思いがけない提案をしてきた。 


どうしてもあと一ミリが届かない  吉松澄子




 
     秀吉の母・大政所
家を支える多くの門閥を持たない秀吉にとっては、頼れるのは家族以外
にはいなかった。すなわち秀吉にとって家族は宝であり、とりわけ母に
対する孝心に厚かったことは、家族に宛てた多くの書状に垣間見える。
大政所が病床にふせたときには、諸寺社に病気回復の祈祷を頼み込んだ
ほどで、愛し信頼していたがゆえに、秀吉にとって家族は最後の切り札
だったのである。




秀吉の妹・旭姫家康に嫁がせるというのである。
それは、家康と身内でありたいという秀吉の意志を示すものであった。
家康は秀吉の意を酌んで、旭姫と結婚した。
しかし、家康はあくまで三河の地を拠点として、秀吉のもとには赴かず、
対等の立場でいつづけようとしていた。
そんな家康に、秀吉は二の矢を放ってきた。
なんとか自分のもとに出向いてくれるようにと、秀吉は「自分の母を人
質に出すと、言ってきたのである。 
こうまでされては、家康も断り切れるものではなかった。


身を焦がし鳴かぬホタルがいとおしい  都 武志

 



         金ぴかの大坂城




1586(天正14)10月、家康はついに秀吉がいる大坂城に赴いた。
面会を明日に控えた夜のこと。
秀吉は前触れもなく、突然、家康のもとを単身訪ねてきて、こう言った。
「明日の面会の時は、ほかの武将たちの前で、この秀吉の顔を立てて、
 頭を下げてほしい」と、
翌日、家康は、約束どおり秀吉に頭を下げた。
その刹那、秀吉は前夜とは打って変わった高圧的な態度で、家康に言い
放った――「上洛大儀」


手も足もまるで他人のふりをする   石川和巳


万座の席で、秀吉の家来であることを見せつけるーその演出に、家康
まんまと嵌められてしまったのである。
家康は、もはや秀吉には逆らえぬと覚悟した。
家康さえ味方につけてしまえば、もう秀吉に怖いものはない。
中国・四国の大名を従えた秀吉は、その勢いをかって、翌1587(天
正15)には、早くも九州を平定、つづいて1590年には、関東の大名・
北条氏政の攻撃に乗り出したのである。
この戦で、家康は遠征軍の先鋒を務めさせられた。
秀吉軍は、家康がかけた橋をわたって進軍してきた。
総勢21万余、北条氏政の居城小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構
えを見せた。


自画像の線が微妙にズレている  立蔵信子





     『新撰太閤記 小田原征伐』(歌川豊宣)
眼下に小田原城を石垣山にて意見を交わす秀吉と家康。
石垣山城は秀吉がわずか80日程築いたといわれる。




「episode 2」 「秀吉と連れ小便」話
これは豊臣秀吉小田原征伐における一幕である。
秀吉は、家康と今後の領国経営の話をするために、小田原が一望できる
場所に「連れションしようぜ!」と誘った。
家康もこれに応じ、二人で連れ小便をすることになった。
秀吉が切り出した話は、
「北条氏政が滅ぶのは、もはや時間の問題。 そこで家康殿、ものは相談
 じゃが……、この広大な関東の地を家康に任せる代わりに、家康殿が
 長年に渡って守り続けてこられた三河を含む旧領をわしにくれまいか? 
 どうかな?」
と、いうのである。
硬く考えれば、領地替えの話をざっくばらんに言い出す秀吉であった。


熱い茶とぬるい会話のワルツです  舟木しげ子


なかなか言い出しにくい話も、連れ小便なら腹を割って話せるだろうと、
小賢しい知恵で秀吉は、家康を連れ小便に誘ったのだった。
<営々と拠点を築いてきた三河を捨てて遠い関東へ行けとは……>
あまりにも無理な要求である。
家康の家臣たちは、口々に反対した。
「これは罠に違いありません。
 殿!ここでまた、秀吉の口車に乗せられてはなりません」
ところが、家康は意外な行動に出た。家臣たちの反対を押し切り、僅か
2週間後には、秀吉の命令どおり、先祖伝来の地・三河を離れ江戸に向
かうのである。


心変わりを決断させた円舞曲  靏田寿子


――今となっては、秀吉と自分の勢力には差がつきすぎており、到底、
逆らうことはできない。しかも、秀吉が与えるという関東八か国は、
石高250万石である。今の秀吉の所領200万石よりも多い。
<それほどの好条件を出されて、なお断れば、非はこちらにあるという
ことになり、難癖をつけられて攻め滅ぼされてしまうかもしれない。
ここは秀吉の言うとおりにするしかない……>
それが家康の胸中だった…に違いない。


アドリブで生きてきましたこれからも  合田瑠美子

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鍵括弧の中が沸騰しています  雨森茂樹




     「長久手合戦図屏風」 (徳川美術館蔵)

長久手の追撃戦における井伊直政の活躍が中心に描かれており、
康政の姿をみることはできない。
右から5番目の第5扇・上部には森長可、第4扇の下部には、
池田恒興の討死の様が描かれている


第5扇  黒い旗印は森長可か

第4扇 二本の槍に倒れる池田恒興 




1584年(天正12)3月、織田信長亡き後の覇権を争って羽柴秀吉
徳川家康の両雄が対決した。
「小牧長久手の合戦」である。
両軍は、相手が動き出すのを待って睨み合ったまま、戦線は膠着状態に
陥っていた。その最中、家康の陣営から一枚の「檄」が発せられた。




屏風図にはっきりと描かれている旗印

  井伊直政    酒井忠次    森長可     池田恒興



流氷のにおいを抱いている手紙  赤松ますみ




家康ー榊原康政の檄文





榊原康政の石像  東岡崎駅近く桜城橋に立つ
右手に筆をもち檄文を書き終えた様子で立つ。






「家康ー危ない檄文の中身」
「檄」とは、敵の罪悪などを挙げるとともに、自らの主張も述べて広く
知らせる文書のこと。 これを読んだ秀吉は、烈火のごとく怒った。
書かれていた内容は、凡そ次のようなものである。
『信長公が倒れると、秀吉はその恩も忘れて、まず信孝公(信長の3男)
を殺し、今また信雄公(信長の2男)を討って主家を倒そうとしている。
これは大逆無道の振る舞いで、言うも愚かである。
一方、家康公は、信長公との親交を想って憤慨に耐えず、信雄公を助け
て大義のために立ちあがり、秀吉を討とうとしている。
天下の諸侯よ、逆賊・秀吉に味方して千載の恨みを残すより、我ら義軍
に味方して逆賊を討ち、その名を後世に伝えられよ』



セレナーデ流す壊れた鍵穴に  河村啓子




これより先の1582年(天正10)6月、信長が本能寺に倒れると秀吉
は、「山崎の合戦」で主君の仇・明智光秀を討ち、自ら天下取りに乗り
出した。 翌年4月には、「賤ケ岳の合戦」で柴田勝家を倒し、勝家に
味方した信孝を自害させている。
次に邪魔になったのは、事実上、信長の跡を継いだ信雄や、今川義元
き今「海道一の弓取り」と称される徳川家康だ。
秀吉は、信雄の家老たちの離反をはかるなど、得意の外交で揺さぶりを
かけるが、信雄は、家康に応援を求め、両者の同盟が成立した。



一丁噛み流れに棹をさしたがる  油谷克己




   
        榊 原 康 政              




これによって家康には、「主君信長の遺児に味方して逆賊を討つ」とい
う大義名分ができ、一方の秀吉には、「主家の織田家に弓を引く」とい
う弱みが生じていたのである。
家康陣営から発せられた「檄」は、秀吉の一番痛いところを突いていた。
秀吉が激怒したのも無理はない。
檄を書いたのは、徳川四天王のひとり・榊原康政で、怒り心頭の秀吉は、
「康政の首を取った者には恩賞望み次第」という触れをだしたという。



人間味嗅ぐとあの人鼻つまみ  ふじのひろし




   榊原康政小牧山檄文檄文の図  (揚州周延)



「榊原康政とは」
筆一本で秀吉を激怒させた男・榊原康政は、1548年(天文17) 三河
上野郷で生まれた。榊原氏は、代々松平家に仕えた三河武士で、康政は
15歳のときに、家康にその器量を認められお側付きとなった。
当時の三河では一向宗が強い勢力を持っていたが、康政が家康に仕え始
めた翌年の1563年(永禄6)、大規模な一向一揆が起った。
16歳になった康政の初陣の相手は、この一揆軍であった。
三河上野の戦いで、彼はめざましい働きをする。
その功により、家康から「康」の一字を与えられ、それまでの小平次と
いう名を改めて「康政」と名乗るようになった。




未使用の命につけるGPS  森乃 鈴



「三河一向一揆」は、翌年の2月にようやく平定され、家康は勢力拡大
へと動き始める。康政も家康とともに、数々の戦塵を潜ることになった。
「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄のために手痛い目に遭ったりしたが、
領国拡大のための多くの合戦では、常に先陣を切って戦い、
「あるいは城を攻め、あるいは野に戦うこと数えきれず、およそ康政が
向かうところ、打ち破らず、ということなし」
と、称えられたほどの活躍をしている。



連帯の覚悟を問うている戦禍  前中知栄





        小 牧 山 陣 形


1584年(天正12)3月、信長の遺児・信雄を支援するという大義名
分をもって家康は、秀吉と戦端を開く。
家康は小牧山に本営を置いたが、これは康政の進言によるものであった。
小牧山は標高86m。たいして高くはないが、平坦な野にあるため周囲
を一望できる戦略上の要地である。
当然、秀吉方もそこに目をつけ、ただちに配下の森長可森蘭丸の兄)
軍を8km北方の羽黒へ進出させたが、康政らが奇襲をかけて、これを
潰走させた。
秀吉軍は、小牧山の北東3kmに本営を構え、徳川軍と向かい合う。
4月6日、羽黒での敗戦の挽回を狙う森長可とその義父・池田恒興らは、
家康が留守にしている三河の本拠地を攻撃する作戦を立て、ひそかに出
発した。



ウインナーワルツ鳴門の渦になる二人  井上恵津子





            小 牧 山 康 政 秀 吉 を 追 う




しかし、家康はこの行動をすぐに察知し、康政らを率いて追撃に入った。
池田恒興森長可は、まっすぐ三河へ進むべきなのに、途中の小城の攻
略に時間をとられ、長久手の付近で徳川軍に追いつかれてしまう。
池田・森軍は、背後から急襲されて大混乱に陥り、池田恒興も森長可も、
乱戦の中であえなく討死。徳川軍の大勝利であったが、いうまでもなく
この戦いでも康政は奮戦した。
この「長久手での戦い」の後、両軍は対陣したまま相手の出方を窺って、
戦線は膠着状態に入った。
康政の檄はこのときに書かれたものである。



青かった地球に少し焦げ目つき  真鍋心平太





       初花肩衝
和議に際し秀吉から家康に贈られた信長の茶壷




結局「小牧長久手の戦い」は前哨戦の「羽黒の戦い」「長久手の追撃」
以外には、戦闘らしい戦闘は行われず、11月に秀吉からの申し入れで、
講和が成立した。
これら一連の功績に家康は、康政に千貫を加増し「笹穂の槍」を与えて、
その功を賞している。




しがらみをやっとたち切り無重力  松浦英夫





2年後、秀吉は、家康の後妻として妹の旭姫を輿入れさせることにし、
その結納に際し、家康側の使者として、榊原康政を希望した。
康政と対面した秀吉は、例の「檄」について
「あの時は腹が立って、そなたの首をとってやろうと思ったが、今は主
 君に対する忠誠の志と感じ入っている…。それを言うためにここに呼
 んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような
 武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の
 官位を贈ろう」と言い、祝宴まで開いたという




その時はその時深く考えぬ  柴本ばっは




    奮闘虚しく徳川軍に捕らえられる木下勘解由利匡




「小牧長久手の合戦、終了の模様」
岡崎城を目指し三河に侵攻した秀吉軍は総勢2万。
秀吉の甥・三好信吉(のちの秀次)が総大将を務める主力8千は、
その最後尾を進んでいた。これを徳川追撃軍の先遣隊4千5百が密かに
追尾していることに、三好隊は全く気付いていない。
1584年(天正12)4月7日早朝、徳川軍の銃口が一斉に火を噴く
と先遣隊が三好隊に襲いかかった。
凄まじいばかりの猛攻に、秀吉軍はたちまち総崩れとなり、信吉も馬を
倒され歩いて逃げざるを得ないほど。
この大ピンチを救ったのが家来の木下勘解由利匡(としただ)である。
利匡の差し出す馬に乗って信吉は、命からがら犬山城に逃げ帰った。
利匡は奮戦したものの、徳川軍の前に戦死。
ここに小牧長久手の合戦は事実上終戦した。




終止符を打った古傷又疼く  大島美智代

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