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川柳的逍遥 人の世の一家言
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太陽は沈むわかっているんだよ  市井美春






    相模湾を見下ろしながら密談する秀吉vs家康 



「秘密は二人っきりになれる静かな場所で…」
豊臣秀吉の小田原征伐における一幕―――
秀吉は、家康と今後の「領国経営の話」をするために、小田原が一望で
きる場所に「連れションしようぜ!」と誘った。
家康もこれに応じ、二人で連れ小便をすることになった。 内容は
「この広大な関東の地を家康に任せる代わりに、家康が長年に渡って守
 り続けてきた三河を含む旧領をわしにくれないか?」
という、いわゆる領地替え(人事異動)の話だった。 秀吉は
<なかなか言い出しにくい話も、連れ小便なら腹を割って話せる>と、
いうことで家康を連れ小便に誘ったわけだが、家康はこれを承諾し、
祖父の代より守り続けてきた領地を離れることとなる。
家康も苦汁を飲む気分だっただろうが、時勢が秀吉に味方している以上、
これに逆らうことを「良し」としなかったのだろう。





哲学の刻み目に夢の亡骸  高野末次





      家康は江戸を建てるにあたり豊かな水を求めた





家康ー江戸を建てるー①





「小牧・長久手の合戦」の後、家康は本拠地三河を中心に、東海地方や
甲斐・信濃に勢力を固め、秀吉との新たな戦いに備えていた。
ところが、そんな家康に、秀吉は思いがけない提案をしてきた。 
秀吉の妹・旭姫を家康に嫁がせるというのである。
それは「家康と和睦したい」という秀吉の意志を示すものだった。
だが、秀吉の妹と婚礼の儀をすませた家康だったが、依然秀吉の臣従を
受けいれようとはせず…小田原の北条氏との同盟関係をより緊密にした…
そんな家康に、秀吉は二の矢を放ってきた。
「なに! 今度は大政所を旭姫の病気見舞いとして寄こすじゃと」
「秀吉の使者は…たしかにそう申しております」
「親孝行で有名な秀吉が、年老いた生母を人質同然にしてくるとは」
<…いまが潮時か、サルめにここまでされては、知らぬ顔もできまい>
大政所が浜松に着いて二日後、家康はついに大阪へと出立した。




つまんで引っ張って引っ張ってつまむ  雨森茂樹






   茶地唐獅子模様唐織陣羽織 (東京国立博物館所蔵)
豊臣秀吉が所用したと伝わる。脇が千鳥掛けの袖なし陣羽織。
闘争心旺盛な大小7匹の獅子が躍動する姿が唐織で表現されている。
秀吉の陣羽織にはこのほかにも「闘い」を主題にした動物殻の
ものがあり、いかにも戦国の気風を伝えている。




         秀吉の鳥獣文様陣羽織

家康はついに関白・豊臣秀吉の軍門に降りた。
1586年(天正14)10月1日。この時、秀吉は家康に
「何か貴殿になにか贈りたいのだが、望むものはあるかな」と問うた。
家康は、「秀吉着用の陣羽織を所望」と答えたという。




1586(天正14)10月、家康はついに秀吉がいる大坂城に赴いた。
「やあやあ家康殿、ようお越し下された」
家康の到着を待ちかねていた秀吉の、なんとまぁ腰の低いことか。
「家康殿 ⁉ おいでになる日を一日千秋の思いでお待ちしていましたぞ」
そして、面会を明日に控えた夜のこと。秀吉は前触れもなく、突然、
家康のもとを単身訪ねてきて、こう言った。
「明日の面会の時は、ほかの武将たちの前で、この秀吉の顔を立てて、
 頭を下げてほしい。何卒 何卒 お願いし申す」
秀吉は手を合わせ、平身低頭で家康に謁見の仕儀を頼み込んでくる。
翌日、大名や家臣が居並ぶ前で、家康は秀吉の意を汲んで頭を下げた。
その刹那、秀吉は前夜とは打って変わった高圧的な態度で、家康に言い
放った。
「上洛 大儀であった!」
万座の席で、秀吉の家来であることを見せつけるその演出に、家康は
まんまと嵌められてしまったのである。




烏賊鯖秋刀魚ずいぶん偉くなったよね  新井曉子






      やたら男前な秀吉





家康は、もはや秀吉には逆らえぬと覚悟した。
家康さえ味方につけてしまえば、もう秀吉に怖いものはない。
中国・四国の大名を従えた秀吉は、その勢いをかって、1587(天正
15)には、早くも九州を平定、つづいて1590年には、関東の大名・
北条氏政の攻撃に乗り出したのである。
この戦で、家康は遠征軍の先鋒を務めさせられた。
秀吉軍は、家康がかけた橋をわたって進軍してきた。 総勢21万余。
北条氏政の居城小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えを見せた。




海に日も山の日もチャンネルを握る  山本早苗




そんなある日のこと。 家康秀吉の本陣に呼ばれた。
そして秀吉に、こう言われた。
「北条氏政が滅ぶのは、もはや時間の問題。 そこで家康殿、ものは相談
 じゃが、家康殿には、今の所領、三河・遠江など五か国の代わりに、
北条の所領、すなわち関東八か国を与えようと思うのだが、どうかな」
家康は驚いた。
<営々と拠点を築いてきた三河を捨てて、遠い関東へ行けとは…>
あまりにも無理な要求である。
家康の家臣たちは、口々に反対した。
「これは罠に違いありません。ここでまた、秀吉の口車に乗せられては
 なりません」
ところが、家康は意外な行動に出た。
家臣たちの反対を押し切り、わずか2週間後には、秀吉の命令どおり、
先祖伝来の地・三河を離れ江戸に向かったのである。




曲がり角とぼとぼ夕日つれてくる  宮原せつ





    江戸の地を下見する家康一行 (NHKー江戸を建てるゟ)





――今となっては、秀吉と自分の勢力には差がつきすぎており、到底、
逆らうことはできない。しかも、秀吉が与えるという関東八か国は、
石高250万石である。今の秀吉の所領200万石よりも多い。
<それほどの好条件を出されて、なお断れば、非はこちらにあるという
ことになり、難癖をつけられて攻め滅ぼされてしまうかもしれない。
ここは秀吉の言うとおりにするしかない……>
それが家康の胸中だったに違いない。


1580(天正18)8月1日、家康は江戸に入った。
ところが……、江戸の地を見て家康は愕然とした。
目の前に広がるのは一面の湿地帯である。
町は小さく、使える土地はわずかしかない。
この荒れ果てた江戸の地で、どうやって拠点を築いていけばいいのか、
それが家康の新たな課題となった。
(家康が江戸幕府を開く、 12年余り前のことである)





行くほどに遠ざかってく目的地  徳山泰子





今は秀吉に逆らうまいと決意する家康





「秀吉の思惑」
NHK大河ドラマ・「どうする家康」の時代考証を担当する歴史学者の
小和田哲男さんの話――。
『秀吉にとってみれば、家康というのは手強い相手である。 
将来もしかしたら豊臣政権を奪いかねないという、ちょっとした危険性
もある。できれば遠くへやってしまいたいという思いが秀吉にはあった。
もう一つ、北条氏というのは、小田原攻めで戦った相手、まさに家康が
最前線で先鋒として戦った相手である。当然、関東には滅ぼされた北条
の家臣たちがそのまま残っている。その彼らを手なずけることは、まず
難しい、秀吉は考え、「また家康は、関東の支配は、もしかしたら失敗
するのではないか、あるいは失敗してくれたらいいなあ」というような
意図もあった。家康はそれだけ秀吉にとって厄介な相手であった』




精霊とんぼ もの問いたげに言いたげに  太田のりこ











「敵を味方にせよ」
1997年(平成9)年に発掘された汐留の仙台藩邸の遺跡がある。
この遺跡からは、江戸時代初期に行われた埋め立ての方法をうかがい
知ることができる。
陸と海を仕切り、水流をせき止めるための「しがらみ」には、木と竹を
編んでつくられた柵の裏に、牡蠣の貝殻が細かく砕かれて敷き詰められ
ており、埋め立て地の水はけをよくするための工夫が見える。
家康が拠点を移したころの江戸は、一面の湿地に、海が入り江となって
入り込むという地形であった。
今の日比谷や新橋の付近も、当時はみな、海だった地域である。




ふんばりをきかせてみよう膝がしら  靏田寿子





    江戸の地下を走った水道管 (新宿区立博物館蔵)

「水道管」といっても、杉やヒノキをくり抜いたものか、板材を組み合
わせて箱型にするだけである。神田川の地下水道は6・5キロメートル。
この水道管から取水する井戸が3600ヶ所あった。



           江 戸 時 代 の 水 道 橋





【豆知識】 江戸の歴史ぶらり旅
江戸は湿地と台地からなっていて、もともと飲み水の乏しい土地である。
1590(天正18)に入府した家康にとって水は都市計画に欠かせない
大問題だった。家康はあらかじめ大久保忠行という者を使わして、江戸
の水事情を調査させた。忠行は「井の頭池」を発見して家康に報告する。
井の頭池からは、豊富な湧水が川となって流れていた。
神田川である。
忠行はこの大発見の功績により「主水」という名を頂戴したという。
この「井の頭池」から引かれた江戸最初の上水が、「神田上水」である。
神田上水には、川を横切るために高架にした場所がある。
水道が橋のように神田川を横切るので「水道橋」という名が付いた。
そのあと駿河台から地下水道になり4つに分水して、江戸市中に行き渡
らせるわけだ。
この水道工事の「人足監督」の中に、松尾芭蕉の名が出てくる。
芭蕉は伊賀国の出身。伊賀と言えば忍者で有名だが、彼らは一流の科学
者集団だったといわれる。俳聖・芭蕉もその真の姿は、テクノロジーの
先端を走る技術者だったかも知れない。





1,江戸の町人が住んでいた長屋には必ず共同の井戸が設けられていた。
模型はさおつるべで水を汲み上げているところ

2,上水井戸と長屋
上水井戸と長屋。井戸近くに立つと「井戸端会議」の声が聞こえてくる。
右の地面に見えているのは下水のどぶ板。長屋の中は大工職人の部屋や、
傘はりの内職をする浪人の部屋が再現されている。

3, 上水井戸から汲み上げた水は水瓶や桶に移して室内におかれた。


4,長屋までの水
上水水門から引いた水は地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)
の水道を使って江戸の町に分配された。
中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に水
を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名や商人など、大口の消費
者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさらに細い
竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。




           玉 川 上 水 水 元 絵 図

上水水門から引いた水は、地下に埋め込んだ石樋や木樋の水道を使って、
江戸の町に分配された。
中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に
水を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名や商人など、大口の
消費者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさら
に細い竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。
竹樋(たけひ)と樽
竹樋は竹の節をくりぬいて作った水道管。
樽は、水に混じる砂などを沈めるために使用されていた。




古井戸を覗くと皆が寄って来る  山本昌乃






                   江戸の水道工事 (家康江戸を建てるゟ)





縦と横いつも長さを競ってる  河村啓子

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イノシシと一緒に渡るかずら橋  井上一筒






  慶長二年(1597)真田昌幸が造営した沼田城の五重の天守

沼田城の戦国時代(変遷史)
永禄三年(1560)上杉謙信→(1578)北条氏邦→(1580)武田勝頼
→(1582)真田昌幸→(1589)北条氏政→(1590)真田信幸……→
天和二年(1682)幕府の命により沼田城は全て破却され堀も埋められる。



「家康が苦手なもの」
秀忠の軍は家康の本隊と別れて信濃路から関ケ原に入ることになった。
しかし、思いがけず真田昌幸の上田城で足止めを食ってしまう。
家康も過去に、上田城を攻めようとしたことがあったが、信之は迷路の
ような城下町まで、家康の軍をおびき寄せて散々な目にあわせた。
このとき、昌幸は甲冑もつけずに碁を打っていたという。
この秀忠西上のときも、降伏すると見せかけて 秀忠を待たせたあげく
「太閤様のご恩は忘れ難いので一戦つかまつりたい。ひと攻め攻めて
くだされ」と、人を食ったような申し入れをして挑発した。
秀忠は烈火のごとく怒り、城攻めに踏み切るが、城上から熱湯や糞尿を
浴びせられて苦戦し、結局、関ケ原に間に合わなかった、
まさに大胆不敵
秀吉はこの真田昌幸という男に惚れこんで、引き立てたが、家康はなぜ
か苦手で、相性が悪かった。



真夜中の苦手な虫と蠅叩き  新井曉子





   真田昌幸(佐藤浩市) vs 徳川家康(松本潤)





家康ー真田昌幸という男



「大河ドラマ第34話ーリピート」
家康は17年の月日を過ごし、慣れ親しんだ遠江・浜松城を去り、今川
館跡に築いた駿河・駿府城(今川館跡)へ移った。
そして、現れたのが真田昌幸(佐藤浩市)と長男・真田信幸(吉村界人)
「沼田領」をめぐり、家康や本多正信(松山ケンイチ)と緊迫の駆け引き
が展開される。
昌幸は、「北条に領地を渡す代わりに徳川の姫が欲しい」と、要求した。
テレビでその場面を見終わったファンは興奮していた。
「正信 VS 昌幸、見応えあったなぁ。佐藤浩市、怖すぎるー」
「松ケンと佐藤浩市の掛け合いって豪華。 凄い迫力!」
「正信『さ~な~だ~殿』から 対抗して昌幸『で~き~ま~せ~ぬ』」
「昌幸パッパと、正信の掛け合い…佐藤さんと松山さんも、それに――
その場面を切り取るカメラワークも凄ーい。グッジョブだったよ」



心の中見えるテレビを探している  矢沢和女
 


沼田城・本丸跡に復元された鐘櫓

真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取り壊さ
れた。明治二十年ごろ、沼田町役場東北隅に楼を建て柳町歓楽院の梵鐘
を借りて時の鐘にした。



1585年(天正13)家康が、北条氏と講和するために「沼田城」を、
北条氏に返付するように命ずると、
「沼田は徳川氏から与えられたものではなく、自力で獲得した土地だ」
と、返却を拒否。
これによって、家康に上田城をせめられるが、撃退した。
この戦いは「第一次上田合戦」とも呼ばれ、徳川勢7千に対し、真田勢
は2千人にも足らないほどだった。
真田方は徳川方を上田城に誘いこみ、彼らが苦戦している間に、長男・
信之の別動隊が攻撃。
大混乱に陥った徳川軍は、撤退を余儀なくされることになるが、今度は
昌幸が設置したバリケードによって身動きが取れなくなった。
これによって、徳川軍は350人ほどの兵を失った。
この戦いの勝利で、昌幸は有名になった。




むささびの体がほしいもどかしさ  穐山常男





    上田駅前に展示される第1次上田合戦の墨



「徳川家康には、戦でどうしても勝てない相手が2人いた」
武田信玄と、もう1人は真田昌幸である。
「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評された戦国屈指の食わせ者・
昌幸に、家康は苦汁をなめさせられる。 (比興=卑怯)
戦いの推移は、次のようだったと考えられる。
昌幸は奇襲攻撃をかけるも、かなわぬと見せかけて退散。
すると徳川軍は追撃し、防衛ラインを越えて上田城に迫ってきた。
そこに、砥石城にいた昌幸の子・信幸が援軍として現れ、徳川軍の側面
を突いた。徳川軍は、戦いの定石だった城下への放火を怠るなど、戦術
ミスもおかしていたという。
徳川軍は大混乱に陥り、さらに、上田城から続々と兵が出撃してくるに
至って、ついに退却を始めた。信幸隊はそれを追撃した。
後退する徳川の兵たちは、容赦なく討たれた。
逃げる途中、川を渡ろうとして溺死した者もいたという。
これによって、徳川軍は350人ほどの兵を失ったのである。
これを伝える『三河物語』は、徳川の功績を語り継ぐことが目的なので、
都合の悪いことは記録に残さない。実際はもっと多かった可能性もある。
続いて、近隣の丸子城でも徳川と真田は戦うが、ここでも真田は城を守
りきる。又、徳川と真田の小競り合いは11月まで続くが、最終的に家康
は信濃からの完全撤退を決断する。



明日を語る資格などありません  雨森茂樹





六文銭を飾った真田昌幸着用の甲冑 (柘植宗将氏蔵)



「そもそも真田昌幸とは、何者なのか?」
昌幸は、武田信玄の配下の武将だった。
1573年(元亀4)に信玄が没しても、引き続き武田に仕え、信玄の
跡を継いだ勝頼の下で働いた。だが1575年(天正3)「長篠の戦い」
で武田が織田・徳川連合軍に惨敗したのが転換期となる。
昌幸の兄・信綱が長篠で戦死すると、家督を継いだ昌幸は西部に移った。
東部は越後の上杉が支配し、南には関東の北条がいるという、複雑きわ
まりない地でもあった。上杉領の東上野には、要衝地の沼田もあった。
段丘状の地形かつ四方が山で、また標高400メートルに立つ沼田城が
堅城として知られた軍事拠点だった。



その出口迷路入口だったとは  徳山泰子






       真田昌幸時代の上田城古図



「要衝地・上野国沼田を巡る確執」
この沼田が“火薬庫”となる。
武田は当時、北条と同盟(甲相同盟)を結んでいたものの、「沼田」
は野心満々だった。もちろん北条も然りだ。しかし要衝地だけに、互い
を出し抜いて手を出すことも容易にできなかった。
そうした状況にあって、素早い動きを見せるのが昌幸という男だ。
昌幸は北条の目を盗み、沼田の国衆に調略を仕掛けた。
北条は勝頼に抗議した。仕方なく勝頼は、昌幸に書状を送り、
「行動には注意せよ」と指示している。
ところが結局、沼田は、1578年(天正6)9月、北条が接収してし
まうのである。翌年7月頃から、昌幸と北条の沼田争奪戦が始まり、
やがて家康が絡んでくる。



トラブルの中にいつもの顔がある  靏田寿子






    昌幸・信幸・幸村ー作戦会議



「驚くべき変わり身の早さ」
昌幸は、逆襲をはかるべく再度、沼田の国衆の調略にかかった。
敵に内通を促し、味方に引き入れるのは得意だった。
1581年(天正9)6月には、支配権の奪還に成功する。
その9カ月後の1582年(天正10)3月11日、勝頼が、織田信長
攻撃にあって自刃し、武田は滅亡する。
主君を失った昌幸のここからの行動がすさまじい。
勝頼が死んだ直後、信長に黒葦毛の馬を献上し、臣下の礼をとる。
1582年6月2日、「本能寺の変」で信長が死ぬと、その直後に上杉
に鞍替え。
7月9日、使者を派遣して北条に従属。
9月28日、家康の要請に応じて徳川へ帰属。
見境ないといえる昌幸の行動は、単に強い者に付いたわけではない。
昌幸は生き残りに必死だったのだ。



不器用に生きて大きな音を出し  原 洋志



わずか数カ月で北条を見限った昌幸は、さらに返す刀で、家康とともに
北条に兵を向けた。旗色が悪くなった北条は、家康に和睦を申し入れる。
10月29日、徳川と北条の同盟が成立した。
だが、その条件が大問題。
徳川は北条の上野支配を認め、昌幸の沼田城を引き渡す—。
昌幸が到底納得できない条件を、家康はのんだのである。


右向け右で左向く  木嶋盛隆






    タヌキ顔の家康の肖像





「だが家康もさすがにタヌキだった」
しかも当時、敵対していた秀吉との対決に忙殺されたのか、1585年
(天正13)まで、この条件を昌幸に伝えなかった。
同年4〜6月になって、家康は昌幸に圧力をかけ、「沼田を引き渡せ」
と命じる。昌幸は家康に憤怒した。
「沼田は自ら切り取ったのであって徳川家に与えられたものではない!
 もう徳川家の言うことなんて聞いてられるか!」
両者は物別れに終わる。
昌幸は、反徳川の姿勢を明らかにし、即座に上杉に接近、来る直接対決
の準備に入った。
一方の家康は8月に軍を招集し、信濃に派兵―――――。
こうして天正13年(1585年)閏8月2日、
話は冒頭の「第一次上田合戦」に戻る。



とろとろと二番煎じの夜でした  中野六助

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見たことを全部話しなさいトンボ  みつ木もも花





         石田三成検地 (太閤検地)




「アレが名言に」
「One for all ,all for one.」(ワンフォーオール、オールフォーワン)
この有名な名言は、日本ではラグビーの精神を表す言葉とされる。
意味は、「一人はみんなのために、みんな一人のために」である。
石田三成の旗印は「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)
「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は、
 幸福になれる」という意味がある。
ラグビーの名言と、なんとなく似ていて通じるものがある。
三成の心情であったことは間違いない。
もとはインドの天文学や占星術で扱われていた九曜紋で、吉兆を占った
ものとしたことから三成が用いたといわれる。
しかし三成の旗印は、江戸時代前期の史料には見ることができない。
(一説によると、関ヶ原の戦いで勝利し天下を治めた徳川家康が、
人気のある三成を悪者として貶めるために情報を操作したのではないか、
とされている)


お蔭様日本にこんないい言葉  宮崎勝義




       戦場にはためく大大大吉の旗印




家康ー石田三成とはどんな人


石田三成は、1560年(永禄3)に近江国坂田郡石田村で誕生する。
父は浅井氏に仕えた豪族・石田正継。母は浅井氏家臣の娘・瑞岳院。
幼名・佐吉、色白で目の大きな目の美少年であったらしい。
そして、少年期を隣町の大原観音寺で過ごしたと伝えられている。
米原市朝日にある観音寺には、寺の小僧だった佐吉(三成)が、鷹狩り
で立ち寄った秀吉に茶を献じ「三椀の才」で、秀吉に見出されたという
逸話は有名である。
初対面の相手に完璧なおもてなしをするのはなかなか難しいもの。
しかし佐吉は、初対面の秀吉の心を掴み、家来にしたいと思わせるほど
の「おもてなし」を披露したのは14歳のときだった。


飛び越えておいで焚火はもう仄か  くんじろう




          観音寺総門 (国の重要文化財指定)
惣門は桟瓦葺の重厚な門で長浜城の裏門を移築したものと伝わる。

「三献の茶」
『ある日、長浜城主となっていた羽柴秀吉が、タカ狩りの帰りに、大原
観音寺に立ち寄り、出迎えた小僧に一服の茶を所望した。
その小僧は、大きめの茶盌に七、八分目ほど入れたぬるめの抹茶を、
床几に坐す秀吉の前にひざまずき手渡した。
喉が渇いていた秀吉は、その茶を一気に飲み干すと、その小姓の立ち居
振る舞いに興味を覚えた秀吉は、もう一杯の茶を所望した。
すると今度は、茶盌の半分に満たない量で、前よりも熱く点てられた茶
を持ってきた。それを飲み干した秀吉がさらにもう一杯の茶を所望した。
次に小僧は、小ぶりの茶盌にさらに熱く点てた茶を差し出した。
秀吉は、客の要望に応えて機転を利かせるこの小僧の才知に驚き、寺の
住職に懇願してこの子を家来としてもらい受けたという』


一口ちょうだいもう一口ちょうだい  酒井かがり




         石 田 三 成




「事務方に就任」
1574年(天正2)三成は、15歳の時に秀吉に仕えるようになった。
武士としての実務よりも、外交を担当する事務方としての任務についた。
三成が20歳頃の書状・「石田三成発給文書目録稿」にこのことが記さ
れている。秀吉に仕え、三成はまず事務方としての才能を発揮していく。


天才を生成している落し蓋  通り一遍


「25歳の出世道」
1585年(天正13)、秀吉が日本初の武家関白へと出世すると、三成
は従五位下・治部少輔という高い官位を受け、出世街道を駆けのぼる。
三成は、25歳の若さで官僚になり、豊臣政権下の「五奉行」一人に数
えられ、司法や行政を担当し、豊臣政権の中核を担うこととなる。
またこの年、上杉景勝直江兼続のところに信じられない話が飛び込ん
できた。「墜水(落水)の会」と呼ばれる。
まさに破竹の勢いで勢力を広げていた羽柴秀吉が、越後の国境・墜水
に三成を含む僅かな供を連れて、自らやってきたというものである。
秀吉が天下統一をするために上杉家も協力してほしいというゴリ押しで
あった。


流木の下にソドムの焼け野原  井上一筒





           忍 城




「三成の30歳、秀吉に「NO」を突きつけた」
1590年(天正18)三成30歳。「忍城の戦い」は、秀吉が北条氏を
討伐するため、豊臣秀吉の家臣であった三成らに命じ、北条氏の支城・
忍城を水攻めにした戦いである。
この戦いで三成は、はじめて大将に任命された。
秀吉から出ていた戦略は、城を洪水で孤立させる水攻めだったが、現場
を見た三成は「この城は水では落ちない」と判断し、長浜城にいる秀吉
に「もっと積極的に攻めるのはどうか」と手紙で進言した。
しかし水攻めにこだわる秀吉は、戦略を変えることはしなかった。
秀吉が持つ強大な力を示すには、手間もお金もかかる水攻めが、パフォ
ーマンスとして最適だと考えたからである。
だが結局は、忍城は、水では落とせなかった。


人生を背負って濁流を渡る  市井美春





          佐 和 山 城




「忍城の戦い」の翌年、三成31歳。三成は、近江国坂田郡にあった
「佐和山城」の代官として着任した。この佐和山は、畿内と東国を結ぶ
要衝であり、軍事、政治、経済的に重要な地域である。
この4年後、三成36歳の1595年(文禄4)に。天守を備える近世
城郭としての佐和山城が完成すると、19万石を拝領する城主となった。
こうしたことから近江の地域で囃された言葉がある。
「石田三成の身に余る物は2つある。島左近と佐和山城」
佐和山の支配や猛将の家臣の島左近は、石田三成にはもったいないと
いうのだ。しかし、三成による佐和山の統治は、領民思いの「善政」
敷いたことで領民から慕われた。そして三成は、領内で「十三ヶ条掟」
「九ヶ条掟」という掟を定め、年貢の計算に関する規定を取り決めた。


耕した土は正直花のいろ  津田照子





                      




「島左近」
三成に仕えた部下として「もったいなくも」で有名なのが嶋左近である。
「忍城の戦い」から間もなくのことであった。
三成が秀吉から4万石の領地を新たに与えられたとき、秀吉は三成に、
「何人家来を増やしたか」と尋ねた。
「一人です」と三成は答えた。
「4万石もの領地をもらって何故一人しか家来が増やさないのか」
と、疑問に思った秀吉は、
「どういうことだ?」
と、追及すると三成は驚きの事実が語った。
「なんと左近に領地の半分2万石を与えた」
と、いうのである。
「主君と家臣の禄高が同じとは、聞いたことがない」
「だが、そうでもなければ、左近ほどのものが部下にはなるまい」
と、秀吉は驚きつつも理解し納得したという。
さらに三成が19万石の佐和山城城主になった時、三成が島左近の禄を
加増しようとすると、左近は
「もう禄は十分だから代わりに下の人々に与えて下さい」
と断ったという。


肩書を外すと猫も寄って来る  笠嶋恵美子






                          大 谷 吉 継




「お茶が繋いだ三成と大谷吉継の友情」
三成には大谷吉継という盟友がいた。
吉継はやはり秀吉に仕える戦国武将である。
ある時、大谷吉継は、豊臣家の茶会に参加していた。
参加者は順番にお茶を飲み回した。
吉継に茶碗が回ってきたときに不幸なことが起きてしまった。
当時の吉継は「らい病」を患っており、ただれた顔から落ちた膿が茶碗
に入ってしまったのである。それを見た他の参加者達が、気味悪がって
吉継から茶碗を受け取ろうとしなかったところ、助け舟を出したのが三
成だった。「喉が渇いた」と言って茶碗を受け取ると、平然とお茶を飲
み干し、「もう一杯欲しい」と申し出たのである。
三成の優しさと気遣いに心を打たれた吉継は、「この男に命も惜しまず
ついていってやろう」と、決心した、という逸話が残る。。
(お茶を通じて、主君の豊秀吉、盟友の吉継を得た石田三成。
その生涯は、お茶が取り持つ不思議な縁があった)


そんな時チョットヒントをくれた人  竹内幸子


「天下の基準 ・検地尺」
三成は、全国の土地の大きさを測る基準になる「検地尺」を考えた。
「太閤検地」といわれるものーそれを三成が推し進めたのである。
三成は「検地奉行」として部下たちとともに日本中の土地をめぐり測定
にあたった。この「太閤検地」によって、それまでは村人や領主からの
申告制で過小申告も多かった石高(米の量)がより正確なものになった。
年貢の徴収が安定。百姓を喜ばせ、さらに豊臣政権の収入が増え、秀吉
の力をより強大にした、三成の知恵である。




       関ケ原の戦 この中に大谷吉継の旗印がある


「やがて」
豊臣家の尺を測り損ねた三成は、やがて、その真面目さ堅さから、加藤
清正ら武闘派とのあいだに確執を生み。又家康には「三成は邪魔」と思
わせる行動や言葉が、文知派の彼をして関ケ原の道へと誘い込んでゆく
ことになる。

砂時計つづく流れを容赦なく  梶原邦夫

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茹であがる刹那の蛸の溜息  酒井かがり




            関白秀吉主催の猿楽


関白就任の二日後、秀吉は天皇に拝謁したのち、御所の紫宸殿で大判振

る舞いの「猿楽」を主催した。
ところが、前久の子・信尹や前関白の二条昭実らは宴に出席したものの、
席順に不満を持つ親王や公家の多くがボイコットする。
その上、宴の途中で滝のような雨が降る始末。
秀吉の大セレモニーは、完全に水を差された形に終わった…宴だった。




てるてるぼうず本当は雨が好き  徳永 怜




「秀吉のど根性」
小田原攻め時、秀吉は鎌倉の白旗神社に詣で、鎌倉幕府を開いた源頼朝
の木像を見た秀吉は、頼朝像の背中を叩きながらこう語りかけたという。
「お前と俺とは、たった一人で天下を手に入れたことは同じだ。
 だが、お前さんは源満仲の子孫であり、王族と血縁がある。
 しかし、俺は違うぞ、卑賎の生まれで氏も系図もない。
 それでも天下をとったのだから、俺の功績のほうが、お前さんより高
 いことになる」
そんな秀吉も、関白になった後は、自分の素性を改めさせるべく、さま
ざまな伝説を流させている。
なかにはあたかも自分が「天皇の子である」かのように、記されたもの
もある。地位と相手によって、うまく切り換えているのだ。
いくら下剋上の戦国時代とはいえ、自分の壁は厚かった。
しかし、それをバネにするだけでなく、逆手にとって利用するほどの、
強かさを持っていたことが、秀吉が出世街道を驀進した理由だろう。




太陽は沈むわかっているんだよ  市井美春




      近衛前久




家康ー秀吉関白誕生の立役者・近衛前久




「史上初 関東に下った関白」
関白の近衛前久は、戦国乱世の主役や脇役たちと様々な交渉を持った。
当時の公家の中で、これほどまでに、武家と積極的に交わった人物は顔
を見ない。逆に、武家の側からすれば、天皇家に次いで高貴な彼の血は、
それだけ利用価値が高かったということであろう。
しかし、武士たちがわがもの顔で跋扈する戦国を起用に立ち回ってきた
はずの前久の前に、彼の思惑を超越する男が現れた。
24歳の若き関白・近衛前久は絶望していた。
天皇を補佐する重職にありながら、政治的実権がほとんどないことに気
付いたからである。将来に期待を持てない前久は職務をなげうち、西国
に下向しようと思っていた。その前久の眼前に頼もしい大名が出現する。
1559年(永禄2)、二度目の上洛を果たした越後の上杉謙信だ。




この一歩これが私の歩幅かな  津田照子




          謙信の起請文

近衛前嗣と長尾景虎は、そこである密約を交わした。
そのとき前嗣が血でもって「長尾(景虎)を一筋に頼み入る」と認めた
起請文が現存している。




室町13代将軍・足利義輝の要請を受けた前久は、「関東管領職」を望
謙信との交渉役を見事成し遂げる。
この交渉過程で意気投合した2人は、血を混ぜた墨で書いた起請文を取
り交わし、前久は謙信を、前久は謙信を頼り、東国へ下ろうと決心した。
さまざまな反対を乗り越え前久が越後へ下ったのは翌年の秋。
史上初の現職関白の東国下向であり、はた目には「かんぱくの東国出馬」
と映ったかもしれない。前久の遍歴の始まりであった。




そら豆の花が咲いたよあぶり餅  前中知栄




しかし鎌倉八幡宮社頭で関東管領襲名式を挙行したものの、謙信の関東
制圧戦は失敗に終わってしまう。
謙信の武力を背景に自らの権力回復をという期待が一挙に萎んだ前久は、
「血の盟約」を一方的に反故にして帰京、立腹した謙信との交流はその
後ぷっつりと絶える。




本気かと聞いてくるのは向かい風  柳本恵子





流浪の公家・前久の自筆新古今和歌集 松平不昧公正室蔵




「放浪後、信長の交渉役に就任」
前久にとって従兄弟で姉の夫でもある将軍・義輝が暗殺されて3年後―
1568年(永禄11)9月、義輝の弟でその後継者を自任する義昭
織田信長に守られて上洛する。
ほどなくして三好党が担ぎ出した14代将軍の義栄が病死し、幸運にも
義昭が将軍職を継ぐことになった。
「信長の軍事力を背景に京の治安を回復し、新将軍の義昭と関白の自分
 とで政権に関与できる」
ついに念願のときが到来した、と、前久は考えたかもしれない。




ゴミ箱の底で蚯蚓のスクワット  岩根彰子




しかし運命は暗転する。
同年11月、前久は、突如、京都を出奔、関白職を剥奪されるのである。
原因はよくわかっていないが、義輝の暗殺以来協力的でなかったことを
義昭に恨まれたためともいわれている。
いずれにせよ京を出た前久は、石山本願寺を頼り、河内の三好義継のも
とに立ち寄ったのち、丹波へと流れていった。
この間、隠密裏に越前の朝倉義景をも訪ねた、というから、反信長勢力
の間を渡り歩いていたことになる。




本気かと聞いてくるのは向かい風  柳本恵子




しかし、帰郷できたのは、その信長のお蔭だった。
1575年(天正3)前久は、7年もの放浪生活に別れを告げて京都に
戻る。
前久の出奔後信長と対立した義昭は、すでに京から追放されていた。
案に相違して、信長は前久を優遇する。もちろん信長流の理由があり、
五摂家の筆頭・近衛家の当主というサラブレッドの前久は、対公家のみ
ならず武家との交渉にも利用できる、と見ていたからである。
(五摂家=摂政・関白に任ぜられる五つの家柄)




言いたい事言えぬ男の傍に居る  中川伊都子





近衛家・旧邸




「秀吉に狙い撃ちされた名門・近衛家」
本能寺の変後、主君・信長を討った明智光秀との仲を羽柴秀吉らに疑わ
れた前久は、またもや苦境に陥って、三河の徳川家康を頼る。
家康には以前、松平から徳川への「改姓申請」の折に骨を折ってやった
貸しがあったからだ。
一方、信長の後継者としての地位を確定した秀吉は、源氏である前将軍・
足利義昭に自らを猶氏(仮の養子)とすることを願い出た。
源姓を名乗ることができれば、将軍となることができるからだ。
しかし義昭は、この申し出をきっぱりと拒否。
そこで秀吉は、藤原姓(五摂家)の関白・太政大臣として、政界に君臨
することにしたのである。




釦より少し小さなボタン穴  平井美智子




ちょうどその時、前久とその子・信尹(のぶただ)にとって不幸な出来
事が起きる。
当時、内大臣の秀吉はまず左大臣を望んだ。
そのときの左大臣は信尹である。
無官になりたくない信尹は、関白になろうとして、現職関白の二条昭実
に譲ってほしいと相談した。昭実が応じるはずがない。
2人が、関白職をめぐって押し問答しているうちに、事態は思いもかけ
ない方向へと進む。2家の仲裁を口実に、自らが関白になろうと秀吉が
策動し始めたのだ。




くちびるにツンツン春を試し食い  青砥たかこ





    近衛信尹・柿本人




秀吉に関白就任への同意を求められた信尹は、当然、「関白は五摂家の
職だ」と突っぱねる。ならばと秀吉は条件を出した。
それは、秀吉がまず前久の猶氏になり、関白職はやがて信尹に譲る。
また近衛家に千石、他の4摂家には、各五百石の知行を贈る、というも
のだった。さらに秀吉は追い打ちをかける。自分の提案を突っぱねても、
一条家から関白職を譲られる保証はないぞ――
秀吉の権力を考えれば、要請というよりは恫喝に等しい。
苦慮の末、前久親子は秀吉の提案に屈した。
彼らが条件を飲めば二条家も同意するしかない。
昭実は関白を辞任した。




「ん」と言えば流れは変わるはずだった  郷田みや




こうして羽柴秀吉藤原秀吉となり、関白に任官、公家筆頭の近衛家が
武家筆頭の秀吉に呑み込まれたのは、1585年(天正13)7月11
日のことである。
この年、50歳になった前久だが、数十年間、さまざまな有力武将と積
極的に関わってきた。それもこれも公家の政治力が衰退することに歯止
めをかけたい一心である。
その結果、公家社会が武家に併呑される事態を招来するとは、想像もし
なかったであろう。前久にしてみれば、秀吉が関白に就任したこの日は、
生涯最大の屈辱にまみれた日であった。
前久は関東から九州まで、全国各地へ下向するなど精力的に活動したが、
晩年は、慈照寺(京都市左京区)の東求堂に隠棲した。




人恋しくなるシュガーレスな日暮れ  清水すみれ





           「観能図屏風」  神戸市立博物館藏


観能会ー秀吉は後陽成天皇を聚楽第にまねき、能会をひらいた。
秀吉は聚楽第にきていた大名たちに、
「朝廷にたいして二心はいだきません。また秀吉の命令にもそむきま
せん」という誓いの文をかかせた。徳川家康もそれを記した。




1587年(天正15)に落成した聚楽第で、豊臣秀吉主宰の能楽の会が
開かれた。錚々たる武将の見守る中で秀吉をはじめ、信長次男・信雄や、
信長の弟・有楽斎らも舞い、家康「船弁慶・源義経」を舞った。
その時の逸話が『徳川実紀家康公伝』にある。
「君(家康)は、舟弁慶の義経を演じられたが、元より太っておられ、
 舞曲の節々にそれほどまで御心を傾けていらっしゃらないので、
 とても義経には見えないと諸人はどよめき笑った」





      「見立船弁慶」(3世歌川豊国・東京都立中央図書館)




『名将言行録』には、
「加藤清正・黒田長政・浅野幸長・石田三成・島津義弘らは『さてさて
 常真(織田信雄のこと)は馬鹿者よ。見事に舞ったからとてなんの益
 があるのだと』と、いって嘲った。 家康のことは、
『あの古狸が、作り馬鹿をして太閤様をなぶっている。
 あの姿をみろ。さてさて兵者(心臓男)よ。とにかくいけ好かぬ。
 恐ろしいことだ』と、みな心中に舌を巻いたという」 



蓋をする指に花柳流が出る  きゅういち

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