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川柳的逍遥 人の世の一家言
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テロップのニュースへリンゴ剥きながら  山本昌乃


             
               読売は読んで売るから読み売り屋

「青柳たたくあだ口の波 読売の双帋の名 残雁鳴いて」
双帋=草紙・半紙
「読み売り」は、かわら版を面白おかしい呼び声で売り歩きます。
「黒船来る」など、時事問題からうわさ話や、全くのウソ話まで、
口先ひと
つで売れ行きが決まります。
また幕末には長編の事件物も売られ明治の演歌師に引き継がれた。

「新米の 歌も出来秋 よみうりの くちに年貢も いらず儲ける」


帽子から仏像を出す象も出す  嶋沢喜八郎


「読み売り」 ー瓦版


「読み売り」とは、江戸時代、世間の出来事を摺り物とした瓦版を面白
おかしく読み聞かせながら街を売り歩くこと。また、その瓦版やそれを
売り歩く人を言った。
「きのう、芝居で、大きな喧嘩があった」
「ムム、それは、どうした」
「いやも、大乱(大騒ぎ)よ。相手はひとりじゃが、強い奴さ。
大勢かかるところを取って投げる。踏みつける。桟敷へほうりあげるや
ら、ぱらりぱらりと人つぶて。これは叶わぬと、舞台へ逃げ上がるとこ
ろを、足を取って引っ張ると、ぐっと足が抜けた」
ーなんともオーバーな報告だが、こういう巷の噂話を、瓦版に摺って売
り歩いたのが「瓦版」だった。(安永二年四月序『芳野山』)


年収は讃岐うどんが五本ほど  中野六助


ー読み売りというものに数種あり、三、四人より六、七人づつ伍をなし
て、時の出来事を探り、公に関せざる珍しき事ある時は、善悪とも即時
に印版に起し、駿河半紙という紙に摺り立てたるを、互いに珍しそうに
呼びつつ歩く。これは、この度世にも珍しき次第は、高田の馬場の仇討
ちなどと言いて売り歩くなり。
 大火ある時は、焼場所を図面に起し、焼失したる戸数、屋敷、寺社、
町名、町数、火消しの消し止めより、死傷の次第を明細に記して売る。
地震、暴風、天変地異ある時も同じく印して売るなり。
また、敷き物を路傍に敷きて店を張り、坐して売るものは、大火の記事
を面白く読み聞かせつつ売るなり。
また、路傍に立ちて、図面を手に持ちて売るあり。焼け場、方角、場所
付けを御覧なさいと言いながら売るあり。(『絵本江戸風俗往来』)


捨てても捨てても正直には遠い  山口ろっぱ


ーこの種の読み売りばかりでなく、世上の事件を節付けして歌い歩く者
もいた。世上にあらゆる変わったる沙汰、人の身の上の悪事、万人のさ
し合い(さしさわり)をかえりみず、小歌に作り、浄瑠璃に節付けて、
つれぶし(連節)にて読み売るなり。愚かなる男女、老若の分かちなく、
辰巳あがりそそりもの。これを買い取りて楽しみとす。
(つれぶし=他の人と節を合わせてうたうこと) (『遊笑覧』)


棺桶が軽い中味はいれたかい  中村幸彦



葛飾北斎画、瓦版を売る読売の姿。
 江戸時代、瓦版の配布は禁止されており、時代劇などでは、左側の姿で
しばしば登場するが、このように顔を露わにするのは明治維新直前まで
無く、右のように編笠を被って、顔がわからないように売った。


瓦版の売り子を「読み売り」と呼ぶ。江戸時代、先にも書いたが、読み
売りの実際にしていた格好は、多くの場合「深い編み笠で顔を隠す」
いうものだった。瓦版販売は、幕府によって禁止されていたので、上の
絵のように二人は顔を隠して瓦版を売り歩いた。大体、二人一組で活動
し、一人が販売し、もう一人が見張り役をした。
【知恵袋】 瓦版が世に出はじめるのは、天和年間(1682~83)頃から
で大量に出版されるようになるのは、天保期(1831-45)以降とされる。


 その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子


封建制を敷く江戸幕府は、瓦版のような世間の出来事を広報する庶民の
メディアを良く思ったはずはなく、貞享元年(1684)には、報道を制限
する「読売禁止令」を出した。とはいえ、江戸時代の「お触れ」という
のは、ノルマのようなものがあり、適当なもので、役人も余程のことが
ない限り、読み売りを捕えたりはしなかった。互いに「空気」を読んで
いたのだろう。なお、当時は「われわれが瓦版と呼ぶ刷り物」「瓦版
の販売者」も、ともに読み売りと呼ぶ。


少しだけ飾りつけてる舌の先  原 洋志


瓦版は、時事問題を伝えることが使命だが、商売だから、売れなければ
成り立っていかない。だから、取り上げるニュースは「社会的に意義が
あるかどうか」というよりも「庶民が興味をもってくれるかどうか」
いうものだった。当時、瓦版の売り上げがよかったナンバー1、2位は、
やはり「黒船来航と安政江戸地震」だった。驚きと信じられない情報で
庶民は、「何事!?」と、瓦版を買い漁ったものだった。


瓦版めくってブランデーちびり  新家完司



          「黒船来航の瓦版」


嘉永6年(1853)6月3日、アメリカのペリー提督が率いた黒船四隻が
神奈川県浦賀沖にやってきた。彼らは幕府に、開国を要求しに来たわけ
だが、庶民は、そのような交渉よりも黒船自体に興味があった。
(何!あれ何?何で、何しに来たん、という感じ程度のものだった、か)
右上には、「長サ 三十八間、巾 十五間、帆柱 三本、石火矢 六挺、
大筒 十八挺、煙出長 一丈八尺、水車丸サ 四間半、人数 三百六十
人乗」と、黒船の詳細なデータが記されている。
(因みに、黒船来航のニュースは瓦版史上最大のヒットになった)
 
 
三日月の顎で刈り取る虚栄心  斎藤和子



    「蒸気機関車が描かれた瓦版」


 ここにも詳細なデータがあり、左上に主にアメリカという国について
の説明があり「アメリカの首都はワシントンである」という情報までが
書き込まれている。当時、日本は、オランダ、中国、朝鮮、琉球の四ヶ
国としか国交がないところへ、アメリカが割り込んできた格好であり、
続いてロシア・イギリスも加わり、開国の波が押し寄せ、日本の危機を
報せるニュースであったが、庶民は、この後、結ばれる日米和親条約が
何であろうと、また開国の何たるかは知らず、関心ごとは、アメリカ側
の贈り物である蒸気機関車の模型などにあった。


二度三度聞き直してもカタカナ語  美馬りゅうこ



「米俵を船まで運ぶ要員として集めた力士を報じる瓦版」


日本政府はアメリカに沢山の米俵を贈り、それを運ぶため力士を雇った。
アメリカ人は背丈が高い。180㎝を超える巨漢のアメリカ人が多くい
たのに対し、日本人男性の平均身長は、155㎝ほどだった。こういう
対抗策として弱味を見せたくない日本は「日本にも大きな人間がいるぞ」
ということを見せたかったのだろう、力士はそういう要員としてかりだ
された。


ほんものの馬鹿になれたら強いもの  奥野健一郎



    「安政江戸地震の瓦版」
安政江戸地震の直後に出た瓦版「関東江戸大地震井大火方角場所附」は、
被害状況や幕府が被災者のために作った「お救小屋」の位置などが書か
れている。


安政2年(1855)10月10日、江戸で起きた直下型地震。震度は
6以上だったと言われ、木造ばかりだった江戸の建築物は、ほとんどが
被害を受けた。死者は、江戸府内に限っても、一万人前後と推察され、
この地震の被害状況を伝える瓦版は、600種以上発行されたという。


神様もリセットしたい過去がある  前中
 


「ゆるがぬ御代要之石寿栄(みよかなめのいしづえ)」


ここに地震の被害状況が詳細に書かれている。記事のはじめの方を要約
すると「結婚や仕事で地方から江戸に出てきている人々は、一刻も早く
故郷の両親に『私は無事でした』と知らせて安心させてあげなさい」と
ある。瓦版製作者の優しい気遣いが感じられる、記事もあった。


巡りくる春へと命立ち上がる  平井美智子



 「妖怪アマビエのニュースを伝える瓦版」


令和の時代にも登場するアマビエは、弘化3年(1846)4月、現在
の熊本の肥後国の海に夜ごと光り物が起こったため、土地の役人が赴い
たところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6
ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。ただし、同時に疫病が流行するから、
私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ
て海の中へと帰って行った。当時も拝んだ、神様仏様アマビエ様~だ。


他人事と厚意は高い棚に置く  有田一央
 

 「遠くの出来事をどのようにして取材をした?」
幕府や大名、役人の書状を運んだ「飛脚」は、命ぜられて火災や洪水の
取材をして、情報を伝える役割を担った。江戸の中期以降は、飛脚屋が
公式の災害通信を扱うようになり、大地震や大火事が起きたときには、
めざましい活躍をみせている。飛脚は各地のニュースを集めるだけでな
く、その情報を手書きや印刷して、関係方面にも届けた。かわら版を取
り扱う書店なども、飛脚をニュースソースにして江戸時代における通信
社的な役割を担った。


セミが鳴く生保の額を調べてる  靏田寿子


 

「瓦版はなんぼ」
瓦版は、戦争の陣地の様子や火事・地震や火山の噴火など、災害の報道、
心中や敵討ちなどの人情話やゴシップから、徳川家と天皇家の動きなど
の報道まで、人々が知りたがる情報を1ー2枚ほどの紙に刷り、読み聞
かせたりしながら売った。瓦版の値段は、江戸時代を通じて3-4文。
当時のかけそばの値段は16文だから、庶民が気軽に買える値段だった。


やわらかいティッシュは名刺がわりです  森田律子


しかし、瓦版は心中事件などをセンセーショナルに書き立てて煽った為、
時には「人心を惑わすべからず」と幕府に取り締まられるようになった。
ペリーの黒船が来航したときなどは、幕府は「異国船について書くこと
ならず」と厳しいお触れを発した。が、したたかに瓦版の商売人は、使
命感?というものか、今、起こっている事実(情報)を書いた。
それにより庶民は、黒船の来航や地震のことを知ることができた。
やがて幕府が揺らぎだすと、政治の動きを伝える瓦版は、「新聞」とい
う名で明治3年、発行されるまで、庶民の知る権利という、大きな役目
を果たてきたのである。


ふるさとの駅にむかしの風の音  みぎわはな

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