川柳的逍遥 人の世の一家言
N極とN極だったわたしたち 森乃 鈴
「源氏物語画帖 桐壺」 (土佐光吉)
第三章 光る源氏の物語 第三段 高麗人の観相、源姓賜わる。
母の更衣亡き後、宮中で幼い日々を過ごす若宮は、皇子でありながら、
親王から臣籍となり、源氏の姓を与えられた。 それは渡来の観相家に若宮を占わせたところ、一目見るなり稀有な相に驚き、
「若宮は帝王の相であるが、帝になれば、災難から逃れられない」
と、予言されたからであった。
この後、光り輝く美しさ故に光源氏と称され、光る君と呼ばれることになる。 搭乗ゲートで有酸素運動 森田律子
式部ー夢枕-③
源氏元服(十二歳))
この君の御童姿いと変へまうく思せど12歳にて御元服したまふ
居起ち思しいとなみて限りある事に事を添へさせたまふ。
「夢枕-前号までのあらすじ」
すべてに優れた二の皇子に、弘徽殿女御と右大臣は、気が気ではありあせん。
「一の皇子を早く皇太子に」と、つめよられ、なお迷う帝を見て、靫負命婦は
「順序と分」が大切と説きます。
そんな大人たちの思惑をよそに、二の皇子(光る君)は心優しき少女、花散里 と出会い、はじめての温もりを感じていました。 結局はなぜかあなたにたどり着く 鈴木かこ
「一の皇子立坊の宣旨が下りた右大臣邸にて」
やはり皇太子は、弘徽殿女御から生まれた一の皇子でした。 右大臣に仕える女房や典侍たちが一の皇子の立坊を祝す宴に集まってきます。
「弘徽殿女御さまの一の皇子さま、御立坊おめでとうございます」
「おめでとうございます」
右大臣 「やれやれやっと宣旨が下りた。何年かのち孫が即位すれば私は
外祖父。帝が幼ければ幼いほど、私は政治に関われるというもの…、
帝の二の皇子への可愛がりよう、一時はどうなることかと思ったよ」
女房 「いくら才知にあふれ見目麗しくても、二の皇子が東宮に立てば
世間が黙っておりませんよ」
帝があまりに二の皇子(光る君)に目をかけるものですから、もしや…と
疑心暗鬼になっていた右大臣も、思い通り孫一の皇子の立坊が決まり、
これで一安心、ご機嫌そのものといった様子です。
時の政局を左右する、もっとも強力なカードを握った右大臣、
さっそく胸中には、近い将来の政権構想がふくらんでいきます。 等身大のつもりの夢がふくれすぎ 青砥たか子
催馬楽 宴楽図 古代歌謡 風俗画
催馬楽とは古代歌謡の一つで、各地の民謡・風俗歌に外来楽器の伴奏を
加えた形式の歌謡。遊宴や祝宴、娯楽の際に歌われた。
【蘊蓄】-①
邸では「酒じゃ酒じゃ」と、宴がはじまり、右大臣は催馬楽を歌い、踊りだす
始末です。催馬楽とは古来から伝わる民謡を、雅楽風にアレンジしたもので、
くだけた酒宴で歌われました。
曲によって家の繁栄を祝福したり、恋の駆け引きに使われるなど、様々な場面
で活用されていました。 右大臣が浮かれるのも無理はありません。
「皇太子の外祖父」という、当時、野心を持つ男たちなら誰もが欲しがる切り
札を手に入れたのですから。孫の一の皇子が帝に即位すれば、自分は摂政、 関白になれる。当時は、帝の権威など飾り物で、この摂政・関白こそが政治の
最高権力者でした。それもこれも、帝との間に男の子をもうけるという、
娘のファインプレイのお蔭。右大臣と弘徽殿女御、政権レースは、この父娘が
大きくリードすることになったのです。
玉葱を刻むジョンガラ節に乗り 藤井孝作
【蘊蓄】-②
古来、お酒といえば祭礼に供えられる神聖なものでしたが、平安時代になると
楽しむためのものとなり、自然と種類も増えていきました。
宮中には、造酒司と呼ばれる部門があり、そこで、節会や神事の酒を醸造して
いました。 醸造された酒の種類は、十数種類にものぼり、甘口、辛口の清酒、濁り酒、水割
りで飲む酒、さらには、甘酒に似た酒までつくられていました。 もはや天下を手に入れたかのような右大臣ですが、政権争いの最大のライバル
は左大臣。その左大臣家の長男が直房こと、頭中将です。
良家の子弟らしい明るく屈託のない性格と、才能に恵まれ、後に光源氏と並ぶ 貴公子となります。 馬に乗り弓を射る姿は、じつに男性的で生き生きとしていて、それまで光る君が 育った宮中の女性的な雰囲気とは違ったものです。 身体からたまに奇妙な音がする 青木ゆきみ
「伊勢物語絵巻」 (東京国立博物館蔵)
伊勢守の屋敷にある厩の様子。
手前には鳥や魚を料理する人々が描かれている。
屋敷奥の厩では馬たちが餌代に置かれた草を食べている。
【蘊蓄】-③
平安時代の貴族たちは、徒歩で移動することは稀でした。
最も一般的な移動手段は牛車でしたが、時には馬にまたがることも、牛車より
も手軽、おつきの人数も最小限で済んだことから、人目を忍んだり、遠出を楽 しんだり、急用の場合は、りわけ利用されたようです。 さしずめ、牛車がリムジンなら、馬はセダンやスポーツカーというところです。 そのため平安の男たちは、馬を上手に乗りこなせるようにしておくことも、 必須の要件でもありました。 周囲の大人たちの思惑通り、東宮に立つことになった一の皇子の皇子ですが、
学門にしろ武芸にしろ、どうもぱっとしません。
それなりに気品もあり、人柄もよかったのですが、気がつけば、いつも弟の光 る君の引き立て役です。 頭がよく性格も強く、そのうえ政治力もあるスーパーウーマンの弘徽殿女御の
息子にしては、万事控え目で消極的な性格でした。
それもこれも、あまりに強い母をもったせいなのでしょうか。
人間も塩でしめるとしゃんとする 井上恵津子
「春日権現験記絵」 (東京国立博物館蔵) 鷹狩りに出かける若君が手に鷹をのせている。
そのそばに狩猟用の犬が鎮座している。
「町では人々は二人の皇子の噂でしきりです」
「やっぱり二の皇子のほうが、帝の器ではないかねえ」
「かえってダメじゃないかね。立派過ぎる器は、ほかを寄せ付けず寄り付き
にくい」 「そう 国政の基の人の和が乱れることになるかも」
「二の皇子の身内は二条の屋敷で細々とお暮しの御祖母様だけに」
「右大臣一族の後見の力には敵わないさ」
「でも 何たってあの可愛さに度胸もいいしさ 鬼もにっこりだ」
「笑えないのは弘徽殿の女御と右大臣だな」
それぞれ好き勝手なウワサをして話がはずみます。 世間にも、光る君が何をやらせても、ほれぼれするような才能を見せること
は知れわたっています。むしろ、その計り知れない潜在能力が、人々を不安に 陥れるほどでした。 はたしてこの神童は「将来が楽しみ」なのか「末恐ろしい」のか…人々はひそ かに噂し合うのでした。それにつけても、その光る君を、孫の一の皇子と較べ てしまう右大臣。その心中は、さぞかし歯痒かったでしょう。 聞き飽きたお伽ばなしが子守歌 古崎徳造
「源氏物語画帖 末摘花」 (土佐光吉筆 京都国立博物館蔵) ある日、末摘花邸に忍んだ光源氏のあとをつけた頭の中将は、 邸から出てきた源氏の前に現われ、驚かす。 雨夜の品定め 光源氏と頭の中将
直房(頭の中将)は、考えも自由な若者だったようです。
光る君と直房は、年の差、家柄や立場の違いなど気にせず、苦境に立った時も
助け合う友人となります。特に青春時代は昼も夜も一緒にいて、学問も遊びも
恋愛も、時には、一人の女性を競い合いながら過ごしていきます。
健康的な活力にあふれる直房は、ややもすると、なおやかな流れになりがちな
この物語に、溌剌とした風を吹き込みます。
ほらほらと笑い袋を持たされる 木口雅裕
釣 殿 貴族たちが暮らす寝殿造のなかで、池に面して建てられていたのが釣殿です。
もとより釣殿は、釣りをする目的で建てられたものでしょうが、涼をとったり、
寛いだり、船を出したり、あるいは、宴、観月、詠詩詠歌、管絃、雪見花見、 時には紫式部などは執筆の場所にもなりました。 帝位とは、孤独でしがらみの多いものです。桐壺帝もそうでした。
その点、一の皇子の立坊が決まり、光る君は、将来の帝へのパスポートは失う
ことになります。その代わり聡明なこの皇子は、直房との交遊など、皇太子で
あれば、味わうことのできない自由を楽しみ始めたようです。
さて右大臣邸では、寝殿の南の池にある風流な釣殿で、気の合う父娘が語り合
っています。なにやら悪意のある話のようです。
しがらみがやっと切れたか流れ星 靏田寿子
光る君の才能のなかでも、右大臣が恐れたのは、その人間的な魅力でした。
人の目を惹きつけて離さないスター性。
こればかりは、持って生まれたもので、教えることはできません。 左大臣の長男・直房を婿に迎えるプランには、政治的な計算もありましたが、
二の皇子と同じ天性の輝きを放つこの若者を、自分の一族に入れることによって、
何か期することがあったに違いありません。 「血のつながりこそが繁栄のもと」という弘徽殿女御の感覚は、当時の貴族社会
ではごく普通のこと。愛こそがすべてだった桐壺帝と更衣はむしろ異端でした。 権力欲が強い右大臣は、政略結婚という手段を使い、なんとかライバルの左大臣
も抱き込み、さらにパワーしようと目論みます。 しかし、左大臣は、公正な政治感覚の持ち主です。はたして右大臣の思い描いた
シナリオ通りに事が運ぶのか…。 妙案ださすが爺じの世迷言 北谷敦美 PR |
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