O 脚もネコ背もわたし自身です 安土理恵
紫色に彩られた源氏庭。白砂部分の多い庭園に桔梗の花が咲き誇り、
何とも雅な庭園がつくり出される。
源氏庭の奥には、青もみじがみずみずしく佇んでいる。
この桔梗の花咲く庭で[
「源氏物語」は生まれたのです。
紫式部の邸跡に建てられた寺・廬山寺
紫式部が中宮彰子の女房として出仕したのは、1004年(寛弘元)12月。
そこから4年後の寛弘5年7月、「紫式部の日記」の執筆がはじまる。
紫式部、36歳、彰子21歳、道長、43歳のときである。
日記は、土御門殿における藤原彰子の出産の話から始まる。
このような記録を書くことは、紫式部にとっては気の進まないことであったが、
道長の要請により、やむなく書くことを決意した。
それでも、さすがに紫式部である。 堂々たる名文で書き始めた。
不意の客もてなす腕の見せどころ 竹尾佳代子
源 氏 物 語 を 執 筆 す る 紫 式 部
式部ー紫式部名文鑑賞
『秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。
池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、
おほかたの空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさ
りけり。やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もす
がら聞きまがはさる』
【訳】
(秋の気配が濃くなるにつれ、土御門殿のお邸の様子は美しくなる。
池の辺のこずえたち、庭の遣水に茂る草々、それぞれが色づいている。
空もたいてい鮮やかに広がる。
安産祈願のお経を唱える声も、ずっと聴こえてくるけれど、こういう情景の中
だといっそう素敵に響いてくる。
夜になるにつれ、風はすこしずつ涼しくなってくる。
いつものとおり、せせらぎはずっと流れている。
風の音と水の音が混ざり合った音は、夜更けまで、ずっと私の耳に届く)
立秋の語感に励まされている 下谷憲子
土 御 門 殿
道長の邸宅であった土御門殿とは、藤原道長の権力の象徴のような場所だった。
もともと土御門殿は、倫子が父母から譲り受けた邸。
すなわち、倫子と結婚して得たこの邸である。
この邸で道長の4人の娘は生まれた。
そして彼女たちもまた、息子をこの邸で産んだ。彼らはのちの天皇となったのだ。
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」
のこの歌もまた、この邸で開催された宴会で、詠まれたものだ。
吹雪かれて男の味になっていく 前田一天
紫式部は、道長から中宮の様子を、できるかぎり立派に描くよう、求められて
いる。だから
『なやましうおはしますべかめるを、さりげなく、もてかくさせたまへる御有
様などの、いとさらなることなれど』
(出産間近の身体で、さぞ大義であろうけれども、そのようなそぶりもお見せ
にならないのは、さすがである) さらに
『憂き世のなぐさめには、かかる御前をこそ、たづねまゐるべかりけれど、
うつし心をばひきたがへ、たとしへなくよろず忘らるるも、かつはあやし』
(気の進まない宮仕えであったが、中宮の御前にお仕えしてみると、この世の憂
きことも忘れられるようで、わがことながら不思議なことである}とした。
自己愛というものそうめん茹で上げる 本間美千子
『年 中 行 事 絵 巻』
真言院御修法の様子
ついで、
『五壇の御修法の伴僧たちの声は、「おどろおどろしく、たふとし」』
(荘厳に響き渡って、いかにも尊く思われる)と書き、
観音院の僧正が、20人の伴僧を引き連れて、渡殿の橋を踏み鳴らして渡って
くる足音さえも、
『ことごとのけはいひには似ぬ』
(ほかのどのような場面でも、見られない雰囲気である)と書いた。
夕方にわたしをざっとかき混ぜる 美馬りゅうこ
「道長と紫式部のやりとり」
『渡殿の戸口の局に見出だせば、ほのうちきりたる朝の露もまだ、落ちぬに、
殿ありかせ給ひて、御隨身召して遣水払はせ給ふ』
(私の控室の戸口から外を眺める。まだ、うっすら霧がかかった朝方だった。
露もまだ落ちない時間帯に、道長様が庭を歩かれていた。
彼は、お付きの男を呼んで、庭の遣水を掃除させていたのだ)
水を出て水に帰っていく命 三村一子
女 郎 花
『橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせ給ひて、几帳の上より
さし覗かせたまへる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顏の思ひ知ら
るれば、「これ。遅くてはわろからむ」と、のたまはするにことつけて、
硯のもとに寄りぬ』
(それは透渡殿の南に咲く女郎花が、いちばんきれいな季節だった。
道長様は、女郎花を一本折り、几帳越しに私へ差し出した。
道長様のお姿は、しゃんとしていたけれど、一方で、私の起き抜けの顔は、
ひどいもんだった。
「ほら、この花についての和歌が、遅くなってはどうします」
と道長様がおっしゃった。私は硯の近くに寄り、歌を詠んだ。
幕間にはピエロになっておもてなし 木嶋盛隆
” 女郎花盛りの色を見るからに 露の分きける身こそ知らるれ ”
(秋の露に濡れる女郎花は、今が、いちばんきれいな時。
でも花を眺めていると、露も降ってこなくて、老けてしまった自分を思い知ら
されますわ)
『あな、疾」と、微笑みて、硯召し出づ』
「歌詠むの、早いなあ」と、道長様は微笑まれた。
そして硯をと、おっしゃって返歌を詠まれた。
” 白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ "
(白露は、どこにでも降りますよ、女郎花は、自分から美しくなろうとしている
のです、あなたもその気になってくださいよ)
手折りても霧をまとへり女郎花 水原秋櫻子
「和歌がとりもつ道長と紫式部のヤバイ雰囲気」
女郎花は夏から秋にかけて咲く花で、「女」という漢字がついていることから、
和歌では女性にたとえられる。
道長の「白露は分きても置かじ」とは、つまり「あなたみたいな歳の人にも、
そうじゃない歳の人にも、みんなに平等に露は降って来る。
<男性は声をかけますよ>という意味のようで……。
この「露」とは、「女郎花に降る露」でありながら、同時に「男性が女性を誘う
こと」ということの喩えでもある。
前の和歌で紫式部が使っていた比喩だ。
だから、暗に道長は<あなたのことも平等に誘うし、その気になってよ!>と、
言い寄っているのである。
もう一本ムカデに足が生えてきた 森田律子
紫式部は式部日記を執筆するにあたり、思いのたけを書いた。
華々しかった皇后・定子のサロンの、中心人物であった皇后定子も清少納言も、
惨めな境遇に陥ったではないか、これ見よがしに利口ぶったり、思い上がった
りしているようでは、行く末、ろくなことがない。
女性の生き方としては、心穏やかで、落ち着いた雰囲気を基本としていれば、
品位も情趣も見えて、安泰である。
式部は、「このような心構えで、中宮彰子に仕えるようにしたい」といい、
道長もこれを了解した。
紫式部は、道長だけでなく倫子や中宮彰子のもとに、心穏やかに女房として
の勤めに専心しようと決意した。
折鶴が折れますように明日もまた 井上恵津子
中宮彰子に漢籍を教示する紫式部
紫式部ひとり語り 「中宮さまに漢文のレッスン」
中宮彰子さまにお仕えするようになりまして、家庭教師としての役目もござい
ますため、折に触れ、当時、宮廷でたいへん人気のありました唐の詩人・居白
易の作品から、ところどころを読んでお聞かせしたりしておりました。
出仕の翌年の夏ごろのことでしょうか、そのころにはこの白居易による
「新楽府」という漢籍を2巻ほど、御教示させていただきました。
他の女房の見ていない隙に、こっそり隠れるようにお教えしたのですが、さすが
に中宮さまは公のお方ですから、そうそう隠し通せるものではございません。
御父である関白・道長殿もいつかお知りになったのでしょう、
ある時、彰子さまのもとに、新たに書き写させた漢籍をお届けになられたのには
驚きました。なぜ、こっそり隠れてお教えしたのかって?
その理由は次の機会にお話しいたしましょう
海老反りで小股掬いをしのぎ切る 宮井元伸
[4回]