川柳的逍遥 人の世の一家言
瀬戸内海 東は大阪湾から太平洋へ、西は周防灘から玄海の海へ。
わが国古代からの主要な交通路として、 そこは今も、90航路に余る旅客交通船が、 交錯する海路網の、満ちる海域でもある。 東西、約450㌔。 南北は、広いところで約55㌔、狭いところはわずかに5㌔。 600もの島々が点在する。 だぼ鯊の鱗の長径に合わす 井上一筒 ≪日本という島国の政治・経済・文化の歴史は、 西国に興った古代政権からの流れが、 この海域を"血脈路"として隆盛を保ってきた≫ 奈良・京都など、関西を中心としたこの国の、 政治・経済体制を支えたこの海路は、
各地域に定住する"海民"がかかわる、
独自な海上安全システムともいえる、 平安末期ころの大型軍船(復元イラスト) 各海域、沿岸に滞在し、 古代から続いた為政者への、貢納物資の輸送など、 「航海援助」を専業とする海民たちは、 「通行船舶」を補助することを生業としたいた。
複雑な潮流変化や、 それを必要としていたのだ。 鎌倉時代の小型軍船〈蒙古襲来絵詞〉 そうした、海路専導を基本としつつ、 補助を求めない航海者に対する救援強要や、 ときには、略奪もあったとされ、利害の交錯によって、 航海者側からは、「海賊」と指弾されたのであった。 鎌倉時代の大型軍船〈蒙古襲来絵詞〉 清盛の初期の軍事活動は、「西国の海賊掃討」とされ、
平安期・南北朝時の瀬戸内海は、
史実によれば、 但馬守に出世。 父の功をもって、清盛も安芸守に、 さらに、保元の乱(1156)に功をたてて播磨守に、 と西国沿海領地の太守を歴任する。 ≪のちに内大臣から太政大臣へと大成した清盛の、 瀬戸内海沿海各地への、こうした任務上の経験が、 この地域へ(福原遷都)の認知の基本にあることは間違いない≫ 清盛は、現在の神戸市となる貿易港・福原を造成、構築。 海に近いこの福原に、別荘を設けて隠居。 出家して、法号を清連(じょうれん)と称した。 それからも、交通の要地、福原に都を移し、
西国の海賊集団を平家の水軍の予備軍として、
多彩にして繁華な政争のなかに、 この「福原遷都」や、予備水軍保持の歴史にも、 そして、色鮮やかに残る安芸の宮島(厳島神社)への、 篤心の情をもって、測ることができる。 清盛は太政大臣への昇任を機に、 仁安2年(1167)に、公的に厳島神社を詣でている。 宋の国との交易拡大を志す清盛にとって、 厳島神社は、貿易ルートの守護神の意味があった。 厳島の神格向上により、 平家一門や諸階級の参拝が盛んになり、 瀬戸内海の海路は整えられ、 複雑な航路の航海技術も、定格化していった。 大輪田泊の石涼 航路の安定化を図るために、 各処で泊地の整備が推進される。 福原に近い「大輪田泊」も、 防波堤をかねた人口島を構築して、整備され、
頻繁になる瀬戸内海交易の独占的な、 二月の空は希望の色と君の言う 山口美千代 嘉応2年(1170)には、初めて宋の船を入港させ、 主要な泊地とし、経済環境は充実した。 ≪現在の神戸港の原型である≫ 瀬戸内海という緑の島々と海辺集落を育む、 陸地に挟まれた長大な"海路"が、 平清盛という一人の為政者の心を映しつつ、 わが国の永い海上交通の歴史を鼓動として、 豊かで清澄な自然の中に、 美しく息づいていることを、知ることができる。 ぎゅうぎゅうに詰めた袋の後日談 山本早苗 [川柳瓦版 誌上競詠・『咲くやこの花賞』のお知らせ] 皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。 内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。 2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子 3月のお題 「食」 選者 井上一筒 4月のお題 「衣」 選者 赤松ますみ 参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)
(同人、誌友は 1000円)
表彰 毎年3月句会で発表。
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