川柳的逍遥 人の世の一家言
流刑の地で果てた悲運の天皇の御陵 ≪白峰山山頂近く、崇徳は崩御後この地で、荼毘に付され葬られたとされる≫
崇徳は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、 同行したのは、寵妃(ちょうひ)の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。 その後、二度と京の地を踏むことはなく、 8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。 関西以外にある天皇陵として貴重な存在。 "瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川のわれても末に 会わむとぞ思う " 待ち人はカラスになって会いに来る 井上一筒 崇徳上皇 久寿2年(1155)7月、近衛天皇が17歳の若さで亡くなった。
鳥羽上皇にとっては、 「皇位継承問題」で、著しい苦境に立たされることになった。 近衛帝には子がなく、皇太子を立てられずにいた。 このため、皇位継承問題がどうなるか、 近衛帝重篤と聞いたときから、 人々の関心は、そこに集中したのである。 こんにゃくを見ると刺したくなる針だ 泉水冴子 皇位を継承する"資格"のあるものは二人いた。 一人は、近衛帝の異母兄の雅仁親王(29歳)であり、 もう一人は前帝・崇徳上皇の子・重仁親王(16歳)である。 雅仁の方は、希代の道楽者で、 「いたくさただしくお遊びなどありて即位のご器量にはあらず」 というのが世間の評価だった。
ゆえに、「おそらくこの人の即位はないだろう」 まだ自分のかたちは知らぬ豆である たむらあきこ
このため人々は、 陽の当る場所に、人が群れるのは世の常で、 崇徳も重仁が即位すれば、 自分が院政を敷く夢も近づくものと、胸を弾ませた。 上皇とはいえ、崇徳もまだ37歳の壮年だった。 撫で肩も肩に鞄を掛けたがる 奥山晴生 ところが―。 鳥羽が下した決定は、雅仁への皇位継承だった。 すなわち、後白河天皇である。 誰もが唖然として息を呑んだ。 とりわけて崇徳の憤激は、ひと通りのものではなかった。 ここから異様な対立状態が始まる。 「37年前へ・・・-清盛18歳のころ」 系譜の上では崇徳、後白河、近衛は、 いずれも鳥羽の息子で異母兄弟である。 従って、重仁は、鳥羽の嫡孫になる。
崇徳と後白河の母親は、 近衛の母は、美福門院・得子(びふくもんいんなりこ) だが、あろうことか崇徳は、鳥羽の子ではない。 父親は、鳥羽の祖父にあたる白河法皇だったのだ。 かなしさの模様だったか眉毛以下 黒田忠昭
樟子は、上級公家・藤原一族の生れだったが、 白河法皇の養女となって成長した。 しかし、絶世の美女とうたわれた彼女が、
並外れて奔放な性格で、
17歳で鳥羽のもとに入内し、 ほどなくこれが「白河の子」と明らかになり、 「あれは白河院の養女ではなく、愛人である」 とばかり驚愕の噂が、京を走ったのである。 たそがれに手配写真が笑ってる 増田えんじぇる
鳥羽の憤激は大きく、 「祖父の子なら、自分にとっては叔父だ」 というのだが、
逆に白河は、この"ひ孫"に対して、 鳥羽上皇 鳥羽は、21歳で上皇となり、 憤怒の炎を燃やす日々を送ったが、 それから6年後、40年余りにわたって院政を敷き、 独裁者として君臨してきた白河が、77歳で亡くなった。 崇徳帝はまだ幼く、鳥羽が院政を引き継いで、 権力を掌握したのは言うまでもない。 のど飴を舐めて出番を待っている 片岡加代 そして、ここから鳥羽の"報復 "が始まった。
樟子は、入内したあとも、 ≪佐藤義清とも、深い愛を交わしたという噂が残る≫ 鳥羽上皇の愛情は、得子へと傾いていった。 権力を掌握した鳥羽は、 その得子の産んだ近衛が3歳になると、
自分が白河にされたと同じように、崇徳に、 「近衛を崇徳の養子の形にする」 と説得して、即位させた。 絶頂の先にまさかの坂が待つ 笹倉良一 従って、崇徳は新帝の父親格で上皇になったと思い、 院政への道が開けたと喜んだ。 だが、即位の際の宣命では、 「崇徳は皇太帝に譲位した」 と読み上げられたのだ。 鳥羽は、崇徳を欺いたのである。 院政は、天皇の父しか行えないからだ。 讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画) 23歳で上皇となった崇徳は、 もはや先に何の望みもない世捨て人同然の身となった。 怨念のこもった屋敷には、幽気が漂い、
雑人輩(ぞうにんばら)でさえも、
※ 雑人輩=具足も付けることが許されずに戦場に赴き、 捨石的行為に従事させられた身分の低い者たち(雑兵)。 そして、保元の乱に敗れた崇徳は讃岐に流される。 前非を悔いて、書き上げた5部・「大乗経」を、 「京へ奉納させて欲しい」 と願い出たが許されず、経文は讃岐へ送り返された。 これを見た崇徳は、 「この経を魔道に回向して魔縁となって遺恨を散ぜん」
と経文に四書して、深海に沈め、 生まれながら天狗となった。『保元物語』 流れゆく一部始終を見た辛夷 山下怜依子 弥蘇場の泉 無念のうちに亡くなった崇徳上皇の遺体をこの泉に浸し、 上皇の葬送の途上、この地でにわかに風雨が起こり、 上皇が日常使った食器を埋めたと言われる「わん塚」 ニアミスをしたこの世あの世の境目で 和田洋子 PR |
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