忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[861] [860] [859] [858] [857] [856] [855] [854] [853] [852] [851]
イスラムも釈迦もエホバも二本足  清水すみれ


 拡大してご覧ください
   彦左衛門登城の図

 
「詠史川柳」 大久保彦左衛門
今から360余年前の慶長8年(1603)家康が征夷大将軍になって、
江戸に幕府を置いた時は、いまの千代田城のまわりに、百姓家が数十軒
点在するだけだった。それが二代将軍・秀忠、三代家光と幕府の基礎が
固まるとともに、諸国の人が江戸へ集まって、江戸はわずか3、40年
の間に日本一の大都会になってしまう。
この大都会を横目に徳川三代に仕え、一見取り残された男として愚直に
生きたのが、大久保彦左衛門である。

隙間にはアロエの鉢を置いておく 合田瑠美子


大久保彦左衛門とは、剛直、篤実、朴訥、さらには主家への忠誠心とい
った古三河の倫理風土がそのまま凝ったような人柄ながら、後年、武士
が政治家や役人として出世して行く世になると、時勢にあわず、存在そ
のものが喜劇性を帯びた人物として知られる。
市井の人々はその滑稽感がよほど好きだったのか、江戸中期以降、芝居
や講談のなかでその人柄が典型化され、さまざまな話が創作された。
芝居や講釈が作り上げた彦左衛門は、「天下の御意見番」などというこ
とだった。彦左衛門が月形龍之介、一心太助は中村(萬屋)錦之助が演
じた映画を懐かしく思われる人も多かろう。若い子は知らないだろうが、
将軍様にも、無礼講で、ずけずけ意見を述べにいく痛快な爺様である。
いわゆる「あの老人は大久保彦左衛門なんです」と今社会でも言われた
りして、会社では閑職ながら、先々代からつかえていて、精錬で頑固で
融通がきかないが、お家の大事となると、社長に面を冒して忠諫を加え
たりする傑物である。

はぐれ雲抜き差しならぬ仕儀になる 桑原伸吉



ところが三代家光の泰平の世になって、彦左衛門は無用の人になった。
政道の堕落を嘆き、役人の腐敗を見るとにわかに登城して家光に拝謁
して、侃々と諫めるのである。
そういう場合、彼は自分のことを「彦左」と呼んだ。
しかし、実際の彼には、そういう気分があったにせよ、芝居や講釈や
映画の中のような「ご意見番」などではなく、すでに世の官僚機構は
確立していて、彼のような二千石程度の旗本などが大きな口をきける
時代ではなくなっていたし、それに過去の武功などは、現実の機構の
なかでは、お伽噺にすぎなくもなっていた。


 
たこ梅の菜箸がひとり歩きする  酒井かがり


「大久保彦左衛門」の画像検索結果
 
「彦左」は、正しく名乗れば彦左衛門忠教(ただたか)である。
忠教の先祖は、家康の松平氏の先祖が、まだ三河の山岳に拠っていた小
勢力だった頃に仕えた。その後、家康にいたるまでの七代にわたり、
大久保氏六代が忠勤に励むのである。
忠教は庶腹の子だった。
武家では、原則として弟は兄の家来になる。
彼は正嫡の長兄・忠世(ただよ)の与力として働き、忠世の死後はその
忠隣(ただちか)のもとで働いた。
忠隣は歴世冷や飯を食った大久保氏としては最も優遇された人である。
小田原で6万5千石をもらったが、よく分からない理由で家康に突如忌
まれ、慶長19年城と領地をとりあげられた。

バズーカ並みのヒジ鉄に襲われる 中川隆充


忠教はこの本家の悲運が、本田正信の讒言から起こったということを信
じていた。正信は若い頃三河一揆方に加担し、その後他国に流浪してい
たがやがて帰参し、家康の唯一の陪臣として終始した男である。
武功はなく、渾身の謀才をもって家康を助け、家康は正信を見ること、
「朋友の如く」だったという。
忠教はこの男を憎んだ。
「そういう奴が出世する世になった」と詮無いことながら主家の冷たさ
を恨んだ。
―忠教はこのことが動機となって『三河物語』を書いた。

お袋胃袋堪忍袋お疲れで  田口和代


忠教は、『三河物語』を子孫への訓戒として書いたが、徳川家について
露骨なことが書かれていることもあって門外不出とした。
内容は主家徳川家の由来、松平時代の歴世の当主のこと、さらには大久
保家代々の武功のことなどで、実に詳細な松平史であり、族党史である。
しかし自分のこととなると、わずか三か所で述べているにすぎず、この
ため自伝とは言いにくい。
(この本の存在が知られたのは、明治13年。当時の大久保家の当主が
忠教の自筆本を勝海舟のもとに持ってゆき、始めて世に出たものである)



百均で買ったお面がよく似合う 雨森茂樹




 一心太助

家康は忠隣を改易に処したとき、忠教を拾い上げて自らの旗本にした。
石高は千石、槍奉行で足軽一隊の隊長という低い職だった。
この前後にもう一つの不幸があった。
沼津で二万石という次兄の忠佐(ただすけ)が77歳で死んだのである。
沼津大久保家ではその直前に嫡子忠兼が急死したため、世嗣なしとして
幕法により家が潰された。忠教が生涯でもっとも見事だったのは、この
沼津大久保家が断絶する直前、それを免れるために、忠佐が弟の忠教に
いそぎ養嗣子になってくれと頼むも、忠教が断ってしまったことである。
忠教が「承諾」とさえいえば、沼津二万石はつぶされずにすむし、
忠教も大名になれる・・・のにである。
「わしは二万石相当の武功をたてたことがない。武功もないのに大名に
なれようか」と言ったという。
このことは武功なくして口利きひとつで大名になった連中へのあてつけ
であり、徳川家への痛烈な批判でもあった。
 


台風の目ができそうな中二階 一階八斗禄
 


自身の著の『三河物語』で彦左衛門は訓戒している。
「子ども、よく聞け。お禄を下さらぬとも御主様に不足を思うな。
世を見るに、主人に弓をひいたような人が、高い禄を得、子孫も栄える
と見えたわい。また卑怯なふるまいで人に嗤われた者も、いまは出世を
したわ。またまた座敷で立ち回っているだけの者も栄達したぞ。
しかしながら大久保の者は、如に冷遇されようとも、奉公は懸命にせよ。
飢えて死ぬともこの心をもて。それが先祖からのしきたりである」
 

悔いのない生きざまだったサンセット  早泉早人

『三河物語』について。忠教の書いた文章は非常に面白い。
誤字・宛字が平然とひしめきあっているのである。
たとえば無造作に「太香」とあるのは、彼の嫌いな太閤秀吉のこと。
「百将」というのは「百姓」のことで、宛字ながら字面がいい。
「不運」のことを「浮雲」と書く。
これらは意識的なものなのか、迂闊なものなのか、どちらにしろ彦左衛門
のもつ天性の文学的センスを感じさせるのである。
 

お醤油をたらしてちょうどいい厚み  井上しのぶ  
 
         


 
「詠史川柳」



   遣 唐 使


≪最澄・空海≫

田村麻呂と同時代の人に「平安の二大聖人」と謳われた伝教大師・最澄
と弘法大師・空海がいる。
二人は804年の第16次遣唐使の学僧として、一緒に唐に渡った仲。
最澄はこのとき38歳で、すでに注目されていたエリート僧で、
31歳の空海は、全くの無名の若者だった。
乗った船は往復とも異なり、学んだ寺も異なりましたが、もともと昵懇
の間柄で帰国後も親しく付き合っていた。
ところがある日突然、絶交をする。



両大師五言絶句でものを云い

五言絶句は、起承転結の漢詩の一つの体形。
絶句を絶交に利かせて、唐で漢詩を学んだので、それで言い合いした
のではと川柳子は詠む。
仲違いの原因は、空海が持ち帰った『理趣経』という密教の経典だった。
この経典を最澄は持って来なかったため、空海に借りたいと頼んだ。
すると空海は「あなたは理趣経を学ぶ資格のない人間だ」と拒絶。
これにより二人の付き合いはなくなる。「理趣経」は人間の本能や欲、
男女の愛欲に求めた経典であり、この経典が流布した場合、モラルも
何もない性の洪水の世の中になると、空海が危惧したのである。
事実、空海は真言宗の一部の高僧だけに理趣経の存在を知らせ、
門外絶対不出の秘密経として扱っている。
最澄は天台宗、空海は真言宗の開基だが世に空海作の仏像は沢山ありー


仏師屋をやっても弘法食えるなり

空海は嵯峨天皇、橘逸勢とともに「平安の三筆」と謳われた名筆家。
「弘法も筆の誤り」をパロディーにしてー

弘法も一度は筆で恥をかき

余談です、弘法大師には、聖人ゆえのいろいろな伝説がある。
「ひらがな」は弘法大師が考案したものとか、
また大師が旅先の村で芋を所望したとき、村人が「この芋は石のように
固くて食べられない」と嘘をいって断ったところ、
それ以後、その村の芋がすべて石になってしまったとかー。

トナリから攻め寄るたとえばの話 山口ろっぱ

拍手[2回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開