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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鯛焼きのあんこをパスカルが詰める くんじろう



               
  源 義家(頼朝の父)                           平 忠盛(清盛の父)


「詠史川柳」 名前


平安初期、天皇家の財政が困窮し、多くの皇子を養ってゆけなくなった。
そういうことから「源」(みなもと)という姓が創設された。
弘仁5年(814))嵯峨天皇のときで、皇子皇女に「源」姓を持たせて
臣籍にくだした。
ついで、源の成立から11年後の825年、桓武天皇葛原親王の子を
臣籍にくだし、はじめて「平」(たいら)という姓をおこさせた。
今風にいえば、就活によいだろうと天皇の配慮である。
その後、「源・平」はふんだんに創られた。

控室から砂漠への経路 清水すみれ


 
源氏の場合、嵯峨源氏を含め、淳和、仁明、文徳、村上、陽成、宇多、
醍醐、清和、花山とつづく10人の天皇の支脈が大量に源氏になった。
その多くは降下後、数代で零細な存在になり、とくに「清和源氏」が、
地方に土着して武家家し、ついには後代、関東を制するに至ったことは
よく知られている。
平氏は桓武を含め、仁明、文徳、光孝の4人の天皇の別れが賜姓された。
関東で土着するのは「桓武平氏」で、平安末期には「坂東八平氏」など
と呼ばれた。それぞれが地名を名字に置いて、千葉、上総、三浦、大庭、
梶原、秩父、長尾、土肥の八氏を言い、彼らは坂東の開発人として武力
を誇った。

先生と同じ字の名で親近感 足達悠紀子

平安中期頃になると公地公民の律令制が崩れ、農民の暮らしが成りたたく
なり、多くが逃散して浮浪人となり、坂東をめざした。
彼らは実力ある非合法農場主の支配に入り、家来になって土地を耕し乍ら、
合戦には雑兵として主の供をした。
そういう無名の主たちが、あらそって源・平もしくは、藤原氏を自称した。
「氏素性はいかに」と問われれば「平氏に候」などと平然と言ったりする。
妻の遠縁の者が、たまたま平氏であったというだけの理由で平氏を称する
者もあり、平安末期頃には坂東だけでなく、奥州のはしから九州にいたる
まで源・平(これに藤・橘が入る)のいずれかでない者はいなくなった。

密林に寄生しながら生き延びる 藤本鈴菜

家康のルーツにも、こうしたものがあるのかも知れない。
門外不出の大久保彦左衛門忠教が著した『三河物語』によると、
「徳川将軍家の祖は、新田義重である」義重は清和源氏の嫡流であった。
が、一族の新田義貞の威勢に押されて、新田の内の徳河(得川)郷に住み、
「徳河殿」と称した。そして新田義貞が足利尊氏に敗れると、徳河を去り、
その子孫10代ほど放浪したのち、表に出るのが松平清康である。
家康の祖父である。
彼には「世良田次郎三郎清康」という署名があり、「世良田は新田庄内の
徳川郷のある土地の名なので、新田の子孫である」と称した。
こうした背景から家康も若い頃から「松蔵源元康」と署名をしている。
自分は源氏であると称していたわけで、永禄9年に、家康は正親町天皇
の勅許を得て「松平を徳川に変え、かつ先祖「徳川」氏がそうであった
として〈源から藤原〉に改姓し、従五位下三河守に叙任された」とある。

美しいわたしに髭が生えてくる  柴田園江

【豆辞典】 源・平・藤・橘
源氏、平氏は皇族が臣籍降下(皇族が一般人になる)ときに与えられた氏、
橘氏も皇族の一族、藤原氏は中臣鎌足に下賜され、その子不比等の時代か
ら権勢を誇った一族。この「源・平・藤・橘」の4つの氏族の共通点は、
政治の中枢についていたということである。
その事から、憧れの家系図ともされる。

少しだけ空気を抜いて転げます 森田律子



 
  阿武松縁之助

「力士の珍名」

由井正雪の謀反事件の後、江戸幕府によって一時期、四股名の使用が禁じ
られた。叛意を持った浪人が、来歴を偽って相撲取りの巡業のなかに潜伏
するようなことを、取り締まるためだった。
やがて幕政が安定するとこれも解禁され、谷風梶之助、小野川喜三郎らの
活躍する寛政期になると、現在に通ずるような勇ましさだけでなく優雅さ
を強調、山・川・花・海・といった文字を折り込む四股名が使われ始めた。

何なのだ発光キノコのあの笑みは 徳山泰子

「笑ってはいけません。相撲は真面目に取りました」


一二三山 四五六(ひふみやま よごろく)
三ッ△ 鶴吉(みつうろこ つるきち)
相引 森右衛門(あいびき もりえもん)
兎角 是非内(とかく ぜひない)
螺貝 鳴平(ほらがい なるへい)
白旗 源治(しろはた げんじ)
宝年 万作(ほうねん まんさく)
電氣燈 光之介(でんきとう こうのすけ)
自働車 早太郎(じどうしゃ はやたろう)
自轉車 早吉(じてんしゃ はやきち)
文明 開化(ぶんめい かいか)
不了簡 綾丸(ふりょうけん あやまる)
貫キ 透(つらぬき とおる)
突撃 進(とつげき すすむ)
野狐三二郎(のぎつね さんじろう)
片福面 大五郎(かたおかめ だいごろう)
軽気球 友吉(けいききゅう ゆうきち)
〆切り 玉太郎(しめきり たまたろう)
豆鉄砲 芳太郎(まめでっぽう よしたろう)
馬鹿の 勇介(ばかの ゆうすけ)

太ももが捩じれましたのカーニバル  山口ろっぱ


   
「とても読めない力士の名前」


鯨波 源太夫(ときのこえ げんだゆう):最高位は前頭筆頭。
友鵆 寿作(ともちどり じゅさく):最高位は前頭4枚目。
輦 文治郎(てぐるま ぶんじろう)最高位は前頭6枚目。
梁 富五郎(うつばり とみごろう)最高位は小結。
階 玉右衛門(きざはし たまえもん)最高位は前頭3枚目。
桟シ 初五郎(かけはし はつごろう)最高位は前頭筆頭。
勢見山 兵右エ門(せいみざん ひょうえもん):最高位は小結。
鑛 石松(あらがね いしまつ):最高位は前頭7枚目。
籬野 雲右エ門(まがきの くもえもん)最高位は前頭2枚目。
殿り 源吉(しんがり げんきち)最高位は大関。明治初期の幕内。
京 石松(かなどめ いしまつ):最高位は前頭10枚目。

毎日をオヤ・アラ・マアと生きている 美馬りゅうこ

「親方の遊び心にある名前」


可愛嶽 実男(えのだけ さねお)出羽海部屋所属。
笠洋 正好(りゅうよう まさよし)北の湖部屋所属。
天降川 彰彦(あもりがわ あきひこ)井筒部屋所属。
寒水山 雅直(そうずやま まさなお)井筒部屋所属。
常陸號 達也(ひたちごう たつや)武蔵川部屋所属。
望櫻 将太(みざくら しょうた)宮城野部屋所属。
高麗の国 譲二(こまのくに じょうじ)芝田山部屋所属。
土佐颯 一光(とさはやと かずみつ)錣山部屋所属。
若樫固 光(わかけんご ひかる)松ヶ根部屋所属。
大小林 央弥(だいしょうりん ひろや)荒汐部屋所属。
荒馬強 強(あらうまごう つよし)伊勢ノ海部屋所属。
光源治 晴(ひかるげんじ はる)峰崎部屋所属
天空海 翔馬(あくあ しょうま)立浪部屋所属
海波 海波(みなみ みなみ)立浪部屋所属
刃力 誠将(ばりきしげのぶ)錣山部屋
大越前王 力(だいえちぜんおうりき)千賀ノ浦部屋
猫又虎右衛門(ねこまた とらえもん)伊勢ノ海部屋
鳩弾力 豆太郎(はとだんりき まめたろう)出羽海部屋

会った瞬間ビビビッと来ました  川畑まゆみ


 

「詠史川柳」



   平将門の首


≪平将門≫


裾を踏んで将棋倒しの相馬公家


平将門は下総を本拠とする平安中期の武将。
「坂東八か国」の独立を宣言し、勢力拡大を続けて、ついに下総国猿島郡に
御所を造営し、新皇を自称するに至る。御所だから公家がいるわけなのだが、
何しろ田舎者だから「相馬公家」と嘲られ、裾を踏んだりして、将棋倒しに
なっただろうとからかわれる。

よこしまの道にくわしき相馬公家


股引の大宮人は相馬公家


この将門の討伐に向かったのが藤原秀郷だった。
しかし将門には七人の影武者がいて、なかなか手強い相手なのである。


恐ろしさ七つに見えるつなぎ馬


「繋馬(つなぎうま)は将門の家紋。
秀郷は将門の弱点が「こめかみ」であることを知り一矢で射貫いて倒した。


米噛み以来評判の俵なり


米噛みを射て将門を討ち取って以来、秀郷(俵藤太)の評判があがった。

窓辺に雑巾まだ独り名の君 桑原すゞ代

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