寝て起きてごはん食べたらまた寝てる 雨森茂樹
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江戸の人気力士勢ぞろい
江戸時代の庶民の娯楽といえば、歌舞伎や寄席また相撲も娯楽の一つ。
「相撲」の興行が定期的に行われるようになると、庶民の間で爆発的
な人気を誇るようになる。
「詠史川柳」 江戸の相撲
江戸の三男という言葉がある。与力、力士、火消しの頭が江戸の花形、
というものだ。このなかで、力士は「一年を二十日ですごす良い男」と
川柳に詠われた。
力士がなぜ、年間二十日間の実働で一年間暮らせる好漢とうらやまれた
かというと、彼らが活躍する「勧進相撲」が春と冬の年二回、晴天十日
間の開催とされ、好きな相撲をするだけで、一年を楽に暮らせるほどの
給金を得ていたからである。
手付かずの図星を抱いて今日も暮れ 高野末次
この勧進相撲とは、寺社が修復費用などを集めるために、幕府の許可を
得て興行する相撲のことで、許可の証しとして番付には、「蒙御免」と
大書された。これはいまも番付表などに名残をとどめている。
寺社の企画だから、神事の一種という事になり、女性の見物はご法度。
本所の回向院が主な会場で、見物客は未明から回向院を目指した。
「堺町ずかずか通る相撲好き」
と、川柳子が睨むように江戸の相撲フリークたちは、日本橋から両国
橋を渡って、墨田川の東岸の回向院に、相撲を見る前から興奮して、
日本橋堺町にあった芝居小屋には目もくれず、鼻息荒く、ずかずかと
歩いていた。そんな連中だから、すさまじい混雑のなか、贔屓の力士
をめぐって興奮の頂点に達し、あちこちでつかみ合いの喧嘩をはじめ
るほどだった。
雑踏の中の一人になり凍え 藤本秋声
「江戸の人気力士」
明石志賀之助。江戸勧進相撲の創始者とも言われている。
このことからか日本相撲協会は、彼を初代の横綱として認定している。
体格は,彼を祀る蒲生神社の等身大という銅像によると身長221.2cm、
体重は約225kgとなっている。
これは曙より大きく、逸ノ城の重たさである。
次は、仙台藩おかかえの二代目横綱・谷風梶之助。
体格は、全盛時代で身長189cm、体重169kgのアンコ型で、大きさは
大関・栃ノ心に相当する。
江戸本場所での谷風の通算成績は、49場所で258勝14敗16分16預5無
112休、949の勝率を誇る強さ。
谷風と小野川喜三郎
谷風と何度か対戦をした小野川喜三郎は、久留米藩お抱えの力士で、
5代横綱まで登りつめたが、体躯・筋力に優れる谷風梶之助に対し、
慎重な取り口と技巧で対抗したが一度も勝っていない。
ともかく姑息な立合いが多く、江戸庶民の人気は薄かった。
利き足に小春日和を巻いておく みつ木もも花
雷電為右衛門
そんな中で一番の人気は、松江藩お抱えの雷電為右衛門である。
江戸時代だけでなく現代まで含めて、史上最強だと押す人もいるほどで、
その生涯成績は254勝10敗2分(預り14、休み41)。通算勝率:.962。
まさしく「土俵の鬼、また土俵の神」と呼ばれた。
又、その強さのあまり雷電は「張り手、鉄砲、閂」を禁じ手とされたり、
その強さを伝える逸話にはいとまがない。彼の人気は、数多く浮世絵も
残されていることからも伺いしれる。
体格は江戸相撲で初土俵を踏んだ時の宣伝の錦絵には、6尺5寸、45貫目
(197cm、169kg)と書かれており、これが定説となっている。
これは平成最強の横綱・白鳳(192㎝ 158㎏)とほぼ同じである。
因みに、白鳳の2019年3月場所10日目(19年3月20日現在)、
幕内戦歴1022勝184敗 勝率850。すごい数字です。
頂点の笑顔競ってきた笑顔 籠島恵子
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野見宿禰・當麻蹶速 |
「相撲の歴史」
相撲の起源として「野見宿禰」(のみのすくね) VS「當麻蹶速」(たい
まのけはや)の天覧相撲が日本書紀に書かれている。
蹶速は、手で牛の角をへし折るほどの怪力の持ち主で、
「この世で自分と互角に力比べができるものはいないのか、
もしいればその人物と対戦したいものだ」と豪語していた。
11第天皇垂仁(すいにん)がその話を聞き、家臣に
「蹶速と互角に戦えるものはいないのか?」と尋ねたところ、
家来の一人が
「出雲の国に野見宿禰なる人物がいます。この人物を
呼び寄これをせ蹶速と戦わせてはいかがでしょうか?」と進言した。
天皇は喜び天覧試合の運びとなった。
蹴りもある喧嘩のような相撲もどきの試合は、長い戦いの末、
宿禰が勝ち蹶速は命を落としてしまう。
引導を渡される迄あきらめぬ 吉岡 民
相撲は古代から「豊作を願う儀式」として行なわれていたが、奈良時代
から平安時代には、朝廷行事となる。
宮廷行事の余興の一つとして、「相撲節会」と呼ばれる相撲大会が毎年
7月頃に行われるようになったのである。
この時はまだ土俵は無く、相手を倒すか地面に体の一部を着かせた方が
勝ちだった。
一方、鎌倉時代から始まる武士の時代には、心身を鍛錬する武芸として
盛んに行なわれるようになった。
戦国時代になると、諸大名が「お抱え力士」を持つことが流行し、娯楽
としても親しまれるようになる。
戦国武将で最も相撲に熱心だったのは、織田信長だといわれている。
『信長公記』によると、元亀天正の間(1570~約10年)9回もの
「上覧相撲」を催され、勝ち抜いた者は家臣として召抱えられたという。
出直しのチャンス頂く春キャベツ 靏田寿子
豊臣秀吉も相撲が大好きで、慶長元年(1596)頃に成立した聞書集である
『義残後覚』には、四国の大力と聞こえた力士を2千石で召し抱え、
毛利輝元のお抱え力士の評判を聞いて聚楽第で2人を立ち会わせようと
した、というエピソードがある。
豊臣秀次も相撲を好み、同時代の公家・山科言経の日記『言経卿記』
などから、秀次がたびたび上覧相撲を行なったことがうかがえる。
江戸時代に入ると、先に書いたように寺社奉行の指導のもと、
全国の寺社で「勧進相撲」が行なわれるようになる。
やがて年6回の大相撲も許可され、庶民の娯楽として今日に至る。
秀吉のおまるはただの純金製 木口雅裕
「詠史川柳」
頼 光 四 天 王
≪坂田金時≫
源頼光の四天王の一人で実在の人物ともいわれ、いろいろな伝承がある。
ここでは、山姥の子で足柄山にいたのを、頼光に見出されて家来になり、
四天王の一人として大江山の鬼退治で活躍する物語がもとになっている。
どうせお世話がやけましょうと山姥
頼光から、金時を家来にしようとといわれて山姥曰く
まさかりとどてら一つでかかえられ
まさかり担いだどてら姿で召し抱えられたのだが、なにしろ
山姥の子ですから、親戚などおりません。
金時は親類書にこまるなり
金時の系図はたった一くだり
しかし、大江山の鬼退治では、生来の強力で活躍。
金時はくわえ煙管で角をもぎ
煙管(きせる)をくわえたまま、遊び半分で鬼の角をもぎとったという。
油断は事故のもとと、「頼光四天王のうちに、公時(金時)という者は
血気の勇者にて、危うきことも多かりしを、綱つねにこれを諫むといふ」
金時は妻子を持たず、頼光没後行き方知れずになったという。
カレンダーに印ついてる何だっけ 下谷憲子
[3回]