男は土に女は風に死ぬという 森中惠美子
「いろは丸事件・番外」
明光丸で備後の鞆に入ると龍馬は、さっそく紀州藩側と交渉するが、
徳川御三家の威光をむき出しにする紀州藩は、
結局、龍馬の言い分を徹底的に無視する。
海援隊の中には、
「紀州藩側に斬り込む」
と申し出てきた者もいるが、
龍馬はなんとかなだめ、勝てる方法を思案しいていた。
その最中、明光丸は龍馬を残したまま、長崎へ向かってしまった。
あまりの傍若無人ぶりに、龍馬の血は、ふつふつと燃え滾る。
同時に、龍馬はこの時、死を覚悟した。
ケロイド状の週刊兄貴 酒井かがり
その時、不安になったのがおりょうの存在だ。
自分が死んだ後、長崎にいるおりょうは、独りになってしまう。
そこで龍馬は、三好慎蔵に、
「もしも自分が死んだ後は、おりょうの面倒を見てくれ」
と手紙を書いた。
慎蔵から手紙の話を聞いたおりょうは、嬉しかったに違いない。
龍馬の行動を見ていれば、確かに、
いつ死んでもおかしくない。
おりょう自身、その事に対しては常に、不安を抱いていた。
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龍馬談判する(記念館)
「いろは丸事件顛末」
紀州藩は徳川御三家の威光をかさにきて、
高圧的な態度に出るが、
いざ長崎奉行所で裁判が始まると、紀州藩側の不利がわかっていく。
さらに龍馬は、丸山・花月を訪れると、唄を作り、お元たち芸妓らに披露した。
”船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る”
この唄は、すぐに長崎の花街で流行り、
やがて市中に広まっていく。
企みの輪ゴムを一つずつつなぐ 墨作二郎
裁判は、紀州藩側に不利に進む。
紀州藩も焦り、
「龍馬を暗殺しよう」 という動きも出てきた。
そんな折、龍馬の元へ、桂小五郎が訪ねてきた。
龍馬率いる海援隊と紀州藩の争いを、
「長州藩が支援するというかたちで、幕府と戦端を切る」
と言うのだ。
時勢は、もうそこまで沸騰していた。
潜ったと思て見てるが浮いてこん 杉山ひさゆき
ついに紀州藩は万策尽きた。
紀州藩は薩摩の五代友厚に調停を頼み、
龍馬はこの一件を、後藤象二郎に任せる。
ふたりの政治家が介入することで、
いろは丸事件は決着する。
いろは丸展示館
海底に眠るいろは丸
いろは丸のドアノブ
いろは丸と沈んでいた”古伊万里の茶わん”
真夏の雲をイチニッサンで裏返す 石川重尾
桂小五郎・龍馬と高杉晋作
「龍馬と桂小五郎の仲」
桂小五郎は、薩長同盟締結時の長州側の代表者である。
龍馬は、桂を同盟へと口説き、桂をその気にさせるために奔走した。
桂と長州側の気持ちをもっともよく、汲み取っていたのは、
龍馬だったと思われる。
その龍馬の心遣いが、薩長同盟を成立させるが、
龍馬と桂の仲は、いささか不可解なところがある。
モールス信号が行き交う変な隣 北原照子
龍馬というのは、野放図というか、
大言壮語好きなところや、丼勘定のところがあって、
時代が違えば、山師扱いにされかねない人物だ。
いっぽうの桂は、正真正銘のエリート。
龍馬が脱藩していた時代、桂は京都留守居役という重職を担い、
長州の若手リーダーのひとりでありつづけた。
≪ただ、高杉晋作のような奇想天外な発想力はなく、
バランス感覚にはすぐれているものの、個性に欠ける秀才だった≫
生まれつきの顔でどうやら役がくる 玉木宏枝
個性派の龍馬と、まじめでやや個性に欠ける桂。
一見、水と油のようだが、なぜか互いに理解しあい、
相手を尊重することができた。
龍馬が、桂とうまくつき合えたのは、武市半平太という、
桂と同タイプの人物と、
近くで接してきたことがあったからかも知れない。
龍馬は武市を理解していたし、
武市は、龍馬に一目置いていた。
も一人の私が聖書読んでいる 成定竹乃
いっぽう、桂にしても、
個性的な人物である吉田松陰や高杉晋作らと、つき合ってきていた。
桂は、自分にないものを持つ、個性派を好んでいたのかもしれない。
また、龍馬と桂は、相当古くから知り合いだったという説もある。
龍馬が江戸で剣を学んでいる頃、
桂も江戸にいて、斉藤弥九郎の練兵館道場の塾頭にまでなっている。
安政4年(1857)10月、江戸の鍛冶橋・土佐屋敷での試合には、
龍馬も桂も出場している。
そして、いろは丸事件においても、桂は龍馬の支援した。
ふたりには、若いころからの知り合いという”友情”を感じあっていたのだろう。
待ち人はカラスになって会いに来る 井上一筒
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