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川柳的逍遥 人の世の一家言
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駅はすぐそこ踏切が上がらない  橋倉久美子



「高杉晋作を三浦梧楼が偲ぶ」(三浦は奇兵隊出身者)

高杉は)……中略……  如何に其の臨機応変、

機智縦横の大才に富んでおったかと云うことが窺われるではないか。

しかもそれが事々物々、能く趨勢に適応して基礎を固め、

根柢を築くと云う結果になったことを考えると、

実に驚嘆感服の外は無いのである。

階級を打破して諸隊を作り、一藩の士気を鼓舞振作して国論を確立し、

遂に四境の大軍を粉砕して、幕府の為すなきを天下に暴露し、

長藩の勢力をして九鼎大呂より重からしめ、

以て薩長同盟の素因を堅め、王政維新の偉業を成就するに到る迄、
               みだれ
其の間一貫せる経綸の大才毫末も紊れたることなきは、

殆んど、人智の企て及ぶべからざる点がある。

この道でいいかと天に聞いている  岡内知香

其の当時、能く我輩年少の者に向って、

「愚を学べ学べ」と訓誡を垂れられたものだ。

俺れも若い時は撃剣をやる時に、道具外れをわざと打ったり、

鎗を使う時に脛を突いたりしたものだが、

「そんなことでは駄目だ、どうしても愚を学ばなければいかん」

と屡々話されて居たが、充分理解することが出来なかった。

漸く近年になって、
            ねいぶし
あれは孔子の『所謂 甯武子、其智可及其愚不可及』

と云うことを教えられたもので、

年少客気を戒められたものであろうと考えると、

実に今昔の感に堪えぬ。

夕暮れに腰をひねっている校舎  富山やよい

また其の頃の有志家は皆な慷慨悲歌、

文天祥胡澹菴宜敷と云う風の人が多かったが、

高杉丈は一種超然とした所があって、

陣中に茶器を持って来て煎茶をやって見たり、

時には三味線を携えて来て弾いて見たりしていたのも、

今から考えて見ると、皆なそれぞれ、

深長の意味が含まれていたことが分って懐しさの限りである

寄りかかるのは椅子だけと決めている  八上桐子

遺物と云っても手元には何もなく、

書面やなぞも大概人に取られて了った。

一つ残念に思うのは、高杉が上海へ船を買いに行った時に、

二十一史を購って帰り、

其の箱に「抛千金購聖賢書、是予一人之私哉」と書いたのがあったが、

明治2年に諸隊暴動を起した時、

何処へどうなったか分らなくなって了ったのは、

今でも惜しくて堪らない。

空白のページに透けている無念  大塚のぶよし

亡くなられる十日程前に見舞に往ったら、

非常に喜ばれて色々話をされた。

其中フト傍を見ると、小さい松の盆栽があって、

其の上に何か白いものを一パイ振りかけてあるから、

「これは何んですか」と聞くと、

「イヤ俺はもう今年の雪見は出来ないから、

   此の間、硯海堂が見舞に呉れた「越の雪」を松にふりかけて、

   雪見の名残をやっている所さ」 と微笑された。

斯かる際まで平常の心根を、遺憾なく発揮せられていた其の温容、

今なお彷彿として夢の如しである。

嗚呼春風秋雨五十年、いま少し永らえたならばと思えば、
ているい ぼうだ
涕涙の滂沱たる(涙がぼたぼた流れる)を禁じ得ない次第である。
                                   『日本及日本人』より  

おしゃぶり昆布半角文字で噛みしめる  河村啓子



「高杉晋作を徳富蘇峰が偲ぶ」

(高杉)は大なる我侭者である。

彼は何人からも指揮、命令を甘受する漢ではなかった。

彼は頂天立地、唯我独行の好男子であった。

同時に彼には奇想妙案湧くが如く、

しかも同時にこれを決行するの機略と、胆勇とを具備していた。

彼は戟を横たえて詩を賦するの風流気もあれぱ、

醇酒美人に耽溺するの情緒もあった。

しかしてその脱然高踏、世間離れの気分に至りては、

東行である彼は、恐らく西行以上であったかも知れない。

有象でいもたこ無象でリスペクト  田口和代

彼は松陰門下においても、

その師松陰さえもある意味においては、畏敬したる程の、

毛色の変わった一本立ちの奇男児であった。

従って彼の行動は、到底尋常の縄墨もて律すべきではなかった。

天馬空を行き、夏雲奇峰多し、

かかる形容文句は、幾百を累ね来たるも、

恐らくは這般の真面目を道破するには、いまだ十分ではあるまい
                                    『近世日本国民史』より

この指に誰も止まらぬまま夜更け  清水すみれ



「高杉晋作を三宅雪嶺が偲ぶ」

薩の西郷に当たるは長の高杉にして、

維新前に死し、維新の元勲として名を列せざるも、

その人格および行動の豪快なる、永く歴史を飾るに足る。

長に木戸なくして可、広沢・大村なくして可、

伊藤・山県・井上なくして可なれど、

高杉なきの長は、気の抜けし炭酸水のごとし。

維新史料を編纂するも興味索然たらん。

長が幕府に破られ、続いて高杉が回復を計り、

頻りに兵を募りし時、山県は時非なりとして応ぜず。

しかして伊藤は蹶起してこれに応じ、

勢いの揚がりてより山県も応じ来たり。

ついによく募兵を駆逐し、幕兵の与みし易きを天下に知らせ、

関西数箇国の相呼応して幕府を覆すに至れる。

誰が高杉を首功に推さざるべき
                      『想痕』より

真剣に羽化して哀しい姿よ  山本昌乃



「高杉晋作を横山健堂が偲ぶ」

高杉は極めて徹底した人物である。

……徹底的なる高杉の一生には、

しばしば大疑問が起こり、それが解決されつつ前へ前へと躍進した。

彼が大徹底の路上には大煩悶が横たわるべきである。

彼が煩悶した問題は、

一に開国攘夷、二に忠孝両全、三には死生の煩悶である。

……彼は徹底したる攘夷、徹底したる開国を求めた。

彼の攘夷も開国も甚だ明晰である。透徹している。

修験者の肩から湧いてくる空よ  井上一筒

吾輩は、彼を伝するによって、

殊に愉快を感ずる所以の理由が三つある。

(一) 彼が天下第一人であること。
(二) 彼が、わが民族性の本領を発揮したる大人物たること。
(三) 彼は青年の好伴侶たり。

とこしえに将来のわが青年を鼓舞、

作興するにたるべき快男児たることである

近来、維新功臣の人物はだんだん伝記が明らかにされてきた。

しかしながら、高杉に至っては、

まだ一巻の正確なる伝記を見たことがない。

彼の名は一世に響いているにかかわらず、

身後五十年に近うして、まだ伝記のないことを私は遺憾とする
                       『高杉晋作』より

書いてやるもんかと書いてあるページ  居谷真理子



「高杉晋作を井上哲次郎が偲ぶ」

(高杉は) 維新前の騒々しき世の中に生まれ、

その渦中に在りて活動したのであるから、

ゆっくりと且つ専念に学問をする余暇はなかったのであるが、

しかしなかなか聰明なるところがあったように思われる。

しかして大いに王陽明を尊信しておったことが、

彼の詩によって明らかである

東行はかつて長崎に赴きたる時、

耶蘇教の書を読み、慨然として歎じていえるよう、

『その言すこぶる王陽明に似たり。

   しかれども国家の害、

   いずくんぞこれに過ぎるものあらんや! ・・・・』と。

なるほど東行の言うたごとく、

基督教と陽明学の間には著しい類似点がある。

第四の福音書ヨハネ伝に於ては神を内在的に観ている、

その内在的に観たところの神は、良知と異なることはない、

良知はやはり各個人の胸中に在る神である。

……もし東行が永く生存して学問の方に力を致したならば、

また非常なる見識を立てたであろうかと想像される
                     『高杉東行を億ふ』より

澄んだ鏡に忘れた傷が浮いてくる  平山繁夫

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ヒトが好き不思議な人もいるようだ  日野 愿


  楫取素彦生地

「楫取素彦と改名して」

慶応3年(1867)9月、小田村伊之助は藩命により楫取素彦と改名し、

奥番頭職に就任した。

奥番頭は藩主に最も近接して勤務する役で、

幕府や他藩では専ら「側用人」と称し、

特に藩主の信頼がないと勤まらない役職で、

藩主・敬親がいかに楫取を重用したかを示す役職でもある。

青竹の節の一つになっている  西美和子

側近の立場でどれだけ楫取が多忙を極めたかは、かくの通り、

同年11月、三たび大宰府を訪ね、

折り返し帰藩すると諸隊参謀として西宮に着陣し、

12月には諸兵を率いて入京している。

慶応4年正月3日から5日にかけて、

京都南部の鳥羽伏見を舞台に薩長を中心とする官軍と、

大坂から攻め上った会津・桑名両藩を中心とする幕府軍が衝突して

「鳥羽伏見の戦い」が始まったからである。

深呼吸風に任せて散るつもり  岡内知香

そこでは楫取は藩を代表して禁中に勤務し、木戸孝允、広沢真臣、
                  ちょうし
井上馨、伊藤博文と共に「徴士参与職」に任命される。

しかし藩は、敬親の信任篤い楫取を国へ出向させることを認めず、

2月には、楫取の徴士参与職を辞して奥番頭に復帰させ、

敬親公の駕に従って帰国の途につく。

今や楫取は、藩主・敬親にとっては無くてはならない

側近中の側近として存在し、いわば藩主の分身ともなっていた。

神様が手頃なヒトと添わせたの  田口和代

 
  楫取素彦

明治元年(1868)から翌年にかけての戊辰戦争が終結し、

国内に漸く平穏な日々が戻ったと思われた明治2年12月1日、

山口藩の脱隊兵約2千人が防府宮市に屯集し「藩の兵制改編反対」 

「除隊者の生活保護」等を藩に要求する騒動が起きる。

それを収めるのは、楫取ら人望のある人物の役割だった。

藩政府は防府の勝坂口や小郡の柳井田に関門を築き、

防備の準備を整えると共に、世子・元徳までが出て脱隊兵の

説得にあたったが不成功に終わる。

その後も脱隊兵の暴徒化は止まず、山口の藩公館を取り巻き、

遂には公館内に乱入し、過激さは日増しにエスカレートしていく。

どちらにも言い分がある火と炎  嶋沢喜八郎

楫取や吉田右一、高杉小忠太、野村素助、木戸孝充らが考える

どの収拾策も効果なく、最終的に藩の正規軍に頼り、

武力鎮圧によって収め、多くの処分者を出す結果となった。

明治3年2月、楫取は根役の奥番頭を兼ねて、

山口藩の権大参事(県副知事に相当)に就任するも、

3月には、脱隊騒動兵への説得が不成功に終わり、

多くの処罰者を出したことの責任をとって、

藩の政府員は総辞職することとなり楫取も権大参事の要職を離れる。

ただ不穏な空気が燻ぶっており三田尻管掌の役職は引き続き努めた。
下関戦争の後、イギリスのキング提督と会談に臨んだ毛利敬親
とある日の日記に挟むアスピリン  青砥和子


下関戦争の後、イギリスのキング提督と会談に臨んだ毛利敬親。
右は世氏・元徳。この後征長軍との講和条件に従い、
萩城外で蟄居する。

        よじん                      までのこうじ
戊辰戦争の余燼くすぶる明治2年2月、勅使・万里小路

明治天皇の勅命を帯びて山口に下向した際には引受用掛を努め、

その勅命に促されて、上京する敬親公に付随して京都に上り、

宮中に参内している。

勅命の内容は、敬親に状況を促し、

「新政府内で天皇を補佐せよ」

というものであった。

二重マル的になるよう付けられる  斉尾くにこ

ところが当時、敬親は体調が思わしくなく、

誕生間もない新政府の激務をこなすだけの体力がなくなっており、

お断りをするために上京したのであった。

その6月、参内して龍顔(明治天皇)を拝した敬親は、

弱冠16歳の天皇から、

「内外大難を凌ぎ鞠窮尽力し、終に朝廷をして今日有るに至らしむ、

   偏に汝至誠の致す処、感喜述るに辞なし」

(内外の大難をしのぎ、朝廷の今日を築いたのは、

   汝のおかげであるとよろこんでいる)
  ゆうしょう
との優詔を賜っている。

優詔を賜った裏には、「敬親公の懐刀」楫取素彦の働きがあった。

水遁の術阿寒湖の底にいる  井上一筒

明治4年3月、敬親は逝去する。

楫取の手廻組としての勤務中は勿論、

側近として仕えた藩主の逝去に

楫取の心中には大きな空洞が開いたに違いない。

敬親については、人は、「公は人を見る目があった」

と称しているが、正に楫取を重用し、

十二分に活躍の場を与えたのは敬親その人であった。

その藩主・敬親の逝去による支柱を失ったこともあって、

明治4年、楫取は「廃藩置県」が断行されると、

家族とともに大津郡三隅村に隠棲することになる。

まだともうなだめておだやかに生きる  三村一子

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さよならは空耳だった気もします  美馬りゅうこ


高杉雅子刀自 今年七十二歳

「高杉晋作の妻・雅子の回想」

(高杉東行夫人政子刀自住い、飯倉五丁日六十番地の邸にて)
三月十七日午前十時。  
夜来の陰雨名残なく霽れて、

近頃にない暖かい朝日が庭の回り椽にさしていた。
りんどうの紅い蕾が、ポツポツと立つ水気の間に浮かんで見えた。

さすがに女性ばかりの宿に音ずれる春は、繊やかであった。
八畳の客間の椽に雅子刀自は、毛布を布いて、
はなやかなめりんすの座蒲団をしつらえて、其上に坐られた。
そうして静かに東行先生が閉門されておられた時の話を始められた。

其人を見れば、其容秀麗、其気生々、目もはっきりしていらるれば、
耳も達者である。
襖を隔てて其の声のみを聞いていれば、
若き娘のささやきを聞く様な、力がこもっていた。

感動も歎きも点の一つから  杉山太郎


晋作自画自賛像

「回想」〔晋作終焉の偏〕

私は高杉と一所にいましたのは、

ほんのわずかの間で其間東行はいつも外にばかり出ていました上に、

亡くなりましたのが、

未だニ十九というほんの書生の時でございましたから、

私は何んにも東行に就て御話する記憶がございません。

其の内、馬関で東行が病気にかかりまして、

大ぶひどいという知らせが参りましたので、

私は両親とー緒に馬関に参りました。

東行は馬関の新地の林屋という家の奥の座敷に寝ていました、

林屋と申しますのは、唯今でいえば、

新地の村長さんとでも申します家でございました。

東行の病気は唯今の肺炎とでも申す様な病気でございまして、

私共が参りました時は、

もう大ぶ悪くなった時で、沢山吐血をいたしました。

揺れながら女の顔で立っている  谷口 義

御飯もおもゆ位しかいただけませんので、

もうすっかり弱ってしまっていました。

井上(馨)さんや福田(侠平)さん等がよく御尋ね下さって、

御話をして下さいました。

東行は白分の体は悪くなるし、

それにひき代え世間は愈々騒々しくなるので、

日に日に昂奮するばかりでいつもいらいらしていました。

井上さんや福田さんに向っていつも

『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。

   しっかりやって呉れろ。しっかりやって呉れろ。』

と言い続けて亡くなりました。

いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。

『しっかりやって呉れろ』

というのが遺言といえば遺言でございましょう。

いい人の明るい棘を持てあます  丸山 進



野村望東尼さんは、一所に林屋に来て下さいまして、

東行が亡くなるまで、

それはそれは一通りならぬ御世話をして下さいました。

それで東行が亡くなりましてから東行のかたみの品を

望東さんへ御贈りいたしました。

それは何んでございましたかもう忘れましたが、

何んでも東行の衣類であったかと思います。

その時、望東さんは三田尻におられましたが、

その地から大へん御叮寧な御礼状を頂きました。

その手紙は今に私の文箱に保存しています。

雨だれをゆっくり聴きながら土に  下谷憲子


晋作の句に望東が書き足した歌

「おもしろき こともなき世を おもしろく」  東行 
「すみなしものは 心なりけり」        望東

望東さんは、御存じの通り大へん御手のいい方で、

御らんの通り此の手紙なども却々達筆でございます。

歌も大へん御上手であり其の外、生花縫取り等も却々御上手で

何んでもよく出来た方でございました。

東行が亡くなりました時に、歌を書いた短冊を下さって、

これを是非、東行の柩の中に入れて一所に葬って呉れろ

と頼まれましたが、

これはとうとう私が手ばなし兼て、今に保存いたしています。

その歌は

"おくつきのもとにわがみはとどまれど わかれていぬる君をしぞおもふ"
                           〔望 東〕
お歌も却々よく出来ていますが、

この歌を拝見しますと昔のことが昨日のように思われます。

菜の花の畑に置いてきた時間  立蔵信子

東行は平生天満宮様と観世音様を大へん信仰していましたから、

望東さんが東行の生前に観音経を写して下さいましたことがあります。

それは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』 というので、

二寸に四寸位の薄葉紙に書かれたもので三十六枚あるのを

綴ったものであります。

その裏に

"ふでのうみすずりの海もちかなから えもふみなれぬ鳥のあとこれ"  
                          〔望 東〕
と書き添えてあります。

望東さんのやさしい心掛けが、

この歌の中にも見えている様に思われます。

その裏に東行がいたずら書をしています。

こころ空しく風の音水の音  牧野芳光

それは何んのつもりでございますか、何から見たのですか、

次の様な歌を書いています。

〔尾張美濃の国境にて、人をやく烟を見て〕
                                  美濃      尾張
”あれを見よ我もあの身に成海坂 明日ともしれぬ身のをわりかな”
                       〔詠み人知らず〕
其れを聞いて 倚人

"あすあすと思ふ心はあだ桜 よひに嵐のふかん物かや"
                                                                              〔倚人〕
又前の人

"あすあすと兼て心に思へ共 昨日明日とは思はざりけり"
                        〔詠み人知らず〕
と書いています。

何か自分で思いついて書きつけて置いたものでありましょうが、

今日になって見ますれば、

何となく白分の事を白然に知っていた事のように思われます。

あの人が好きで嫌いで春嵐  吉松澄子



東行が亡くなりました後に、

望東さんが此の経文のことを思い出されまして、

次のようなお歌を下さいました。

"のりのみち君先かくるふみとしも しらでかたみにやりしかなしさ"
                                                                                        〔望東〕
望東さんはお歌がお上手でいらっしゃいましたから、

お歌を拝見していると、

何となく昔にさそわれて行くような心地がいたします。

これは東行に関したものではございませぬが、

望東さんのお短冊を東行が持っていましたのに

"さわがしき世にもならはで秋の野の 花のすがたはみなのどかなり"   
                                                                                          〔望東〕
というのがございます。

三角へゼムピン四角へフラフープ  和田洋子

東行が持っていました短冊の中に、

あなたのお国の平野国臣先生のがございます。

それはこれでございます。

"玉敷のたいらの宮路たえまなくみつぎのくるまはこぶよもかな"
                                                                                          〔国臣〕
下田歌子さんが

先年東行の十七年祭の折に書いて下さいました短冊は、

天の橋立の杉板でございますが、お歌は

"国の為つくすしるしは顕はれていさほくちせぬ谷のあや杉"

東行が剃髪いたしました折の歌に

"西へ行く人をしたひて東行く  わがこころをば神やしるらん "
                               〔東行〕
というのがございますが、

偶然にも父が西行法師を詠じました歌がございます。

それは

"世をうしとすてしうちにもすてやらぬ しきたつ沢の秋の言の葉 "
                               〔丹治〕
と申すのでございます。

喜怒哀楽使い果たして点になる  古田祐子

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振り向けば我が道にあるオウンゴール  前中知栄


洋式の軍装で身を包み、野営用のテントの前に並ぶ幕府側の兵士たち。
洋服に刀を落とし差しにしている姿に、軍制改革の過渡期を感じる。

「幕府は何故、長州に敗れたか」

高杉晋作ら急進派が再び藩の実権を握ったことで、長州は、

以前にも増して幕府との対決姿勢を鮮明に表すようになってきた。

慶応2年(1866)1月の歴史的な「雪解け」により、

薩摩との同盟が締結されたことも、長州の自信となった。

この同盟の効果はすぐに現れた。

長州軍には薩摩藩を通じての武器購入ルートが確立。

喉から手が出るほど欲しかった新式の銃と蒸気船を、

薩摩名義で亀山社中が購入。

それを伊藤俊輔井上聞多が長崎で受け取っている。

ハミングのリズムでオムレツが割れる  荻野浩子


   ミニエー銃

同時に新しく購入した前装式ライフル歩兵銃は、

それまでの汎用銃ゲベールに対し、

飛距離と命中精度、それに連射能力が向上させもので、

長州の軍事力に大きく貢献することとなる。

それまでの汎用銃ゲベールは300歩の距離での命中率が、

8パーセントだったのに対し、

ミニエーは、44パーセントもの高率を持ち、

距離800歩での命中率は27パーセントを保っていたという。

シーソーの寝返りを見た昼下がり  筒井祥文

こうした事態を把握せぬまま、幕府は、

再び征討軍を編成することを決め諸藩に通達した。

薩摩はもちろん、幕府からの出戦要請を拒絶している。

これは「薩長同盟」による規定路線であったが、

幕府にとっては、頼みとしていた薩摩の出兵拒否に困惑する。

だが長州をこのままに放置できないので、薩摩抜きで軍を編成した。

それでも約15万もの兵力を集めたのである。

これに対して、長州はわずか3500人程度であった。

この兵力差から幕府軍は、

それほど苦労もなく勝利できると確信していた。

占いのつぼにすとんと落ちている  前田芙巳代


   幕府側兵士
幕府軍の進軍を描いたもの。
兵士の服装や装備は昔ながらのもの。

幕府軍の中核である、いわゆる旗本軍は潤沢な武備で参軍したが、

その中には旧態依然の武装で、

戦国期さながらの甲胄や火縄銃を装備した藩兵もあった。

さらに動員された諸藩の兵たちは、

この戦いは自分たちの利害とはまったく関係ないものと

考えていたため、兵士の士気は甚だ低かった。

人体模型 人民服がよく似合う  くんじろう

一方、寡兵であるが長州軍は、

大村益次郎により軍制も西洋式に改革されている。

しかも大村は、

四方から押し寄せる大軍の攻撃に備えるには、従来の武士だけでなく、

農民、町人階級から組織される市民軍の確立が急務と考えた。

その給与を藩が負担し、

併せて兵士として基本的訓練を行なわなければならないと訴えた。

こうしてそれまでは有志によって構成されていた諸隊を整理統合し、

藩の統制下に組み入れた。

異議のある人は放物線上に  井上一筒


   大村益次郎

慶応2年(1866)6月7日、幕府は第二次長州征伐の号令をかける。

束西南北の四方から、長州藩に順次来襲、随所で激戦が展開された。

大村益次郎が実践の指揮を執った石州口では、

最新の武器と巧妙な用兵術を縦横に活用。

それは無駄な攻撃を避け、

相手が自滅に陥ったところを攻撃するという合理的なもので、

旧態依然とした戦術に捉われた幕府側を悉く撃破した。

そして6月16日、長州軍圧勝で終わる。

大村は中立的な立場をとっていた津和野藩領内を通過して 

浜田まで進出。

7月18日には浜田城を陥落さっせたうえ、石見銀山を占領した。

ナメタラアキマヘンという涙跡  森田律子


 四境戦争石碑

他の戦線もミニエー銃などを駆使する長州軍の前に圧倒されていく。

幕府にとっては予想外の苦戦が続く中、さらなる不幸に見舞われる。

長州征伐のために大坂までやって来ていた将軍・家茂が病に倒れ、
         こうきょ
7月20日に薨去したのである。

そして、8月1日に小倉城が陥落すると、

徳川慶喜はこの戦いにおける勝利を断念。

それまで伏せていた将軍・家茂の死を公表するとともに、

勝海舟を派遣して講和を結んだ。

こうして幕府連合軍はさしたる成果を見ることなく、長州から撤退。

長州征伐が失敗に終わったことは、

幕府がすでに張子の虎になったことを知らしめた。

教えます正しい闇の迷い方  酒井かがり

この戦いののち、政局は反幕府派が主導してゆく。

慶応3年1867)10月には、大政奉還

同年12月には、王政復古のクーデターが起こり、新政府が樹立。

そして、翌慶応4年には、戊辰戦争が開戦。

「新政府軍」が「旧幕府軍」と戦った。

もちろん新政府軍の中心は、長州であり、

松陰の感化を受けた者たちが躍進していった。

そして日本は「維新」を迎えるのである。

最強のいい人になり甦る  富山やよい


    東行庵


「高杉晋作-臨終」

第二次長州征伐後、高杉晋作は、肺結核が重篤化してしまい、

慶応2年(1866)10月下旬、下関桜山に小屋(山荘)を新築し、

病療養のため、愛人・おうのを連れて移り住んだ。

墓前の落ち葉でも掃き清めながら、

残された日々を送ろうと考えたのだった。

奇兵隊が建立した招魂場を臨むこの小庵を、

晋作は「東行庵」と名づけ、
                     もんしつしょ
また、南部町の寓居と同じく「捫蝨処」とも呼んだ。

捫蝨とは、シラミを潰すという意味。

オカリナの空を小さくふくらます  八上桐子



気分のいい日には、師・松陰の墓前で、酒を飲んでいたともいう。

二人が出合ったころの思い出語りをしたのだろう。

師から受け継いだ志が遂げられる日が近いことの報告もした。

そして前線からは、次々と長州軍勝利の知らせがもたらされる。

晋作は喜びを噛みしめながらも、

すでに自分の肉体が動かない現実に、

一抹の寂しさを感じ、次のような歌を作っている。

「人は人吾は吾なり山の奥に 棲みてこそ知れ世の浮沈」

惰性で書いた正方形は丸くなる  森 廣子


     おうの

晋作の病状は12月に、一時小康状態を得たが、

年を越してからはもう床を離れることができなくなっていた。

「余り病の烈しければ」 と但し書きをつけて、

「死んだなら釈迦と孔子に追ひついて 道の奥義を尋ねんとこそ思へ」

などと道化ているが、

野村望東尼から無理矢理に頼みこまれ看病を手伝っていたおうのは、

その頃の晋作の様子を次のように語っている。

「もう旦那は、寝がへりさへ御大儀なやうな御様子になりまして、

   顔は透き通るやうにつやつやと、病熱の所為で、

   パッと頬紅がさして居りまするのが、

   此の世から仏様のやうに思はれます」

と、死期の近いことは誰の目にも歴然としていた。

望東尼とおうのは、蔭では泣き暮らしていたという。

先に逝くつもり我儘いうつもり  一戸涼子

やがて、晋作はおうのがつくる芋粥も受けつけなくなる。

晋作重体の報せは藩庁にも届き、藩主から薬料3両が下賜された。
                 さんくろう
その後、晋作は新地の林算九郎方の離れに移される。

晩年、竹の絵を描くことを好んだ晋作はその部屋を、
           りょくいんどう
竹の意味を表す「緑筠堂」と名づけている。

3月の下旬には萩から父親の小忠太、妻の雅子が、

長男を連れて駆けつけると、おうのは晋作から遠ざけられてしまう。

野村望東尼は臨終まで足しげく看病に通い続けた。

多くの知友や家族が見守るなか、

苦しい息の下から紙と筆を所望した晋作が、

"おもしろきこともなき世におもしろく"

と書いたところで力つきたのを、晋作の枕元にいた望東尼がうけて

"すみ(住み)なすものは心なりけり"

と下の句をつけてみせると、

「おもしろいのう」と静かに微笑んだという。

巻き貝の奥からもれるピアノソロ  本多洋子


  野村望東尼

「おもしろきこともなき世におもしろく」

この晋作の楽天的とも前向きともとれる歌は、

晋作の本心である不満と希望の相反する二つの意味を含む。

61歳の望東尼は、彼のその心情を理解し、

「心掛け次第だよ」と、優しく諭した下句でもあった。

慶応3年4月、大政奉還を知らず、

騎兵隊の活躍した戊辰戦争を知らず

師や盟友らと同様、手の届くところにあった「維新」を見ることなく、

下関新地の林算九郎邸で晋作は逝った。 

享年29歳。

晋作は亡くなる直前、見舞いに来ていた同志・井上聞多福田侠平に、

「ここまでやったから、これからが大事じゃ。

   しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」

と繰り返し、繰り返し言ったという。

これが晋作の「遺言」の言葉になった。

死ぬ真似の練習そのまま寝てしまう  東おさむ

拍手[5回]

あすという泥鰌のいない安木節  奥山晴生


   四境戦争絵図  (山口県立博物館蔵)

「四境戦争」

幕府による第二次長州征伐は、慶応2年(1866)6月、

大島口、芸州口、石州口、小倉口に幕府軍の侵攻して開戦した。

この四つの国境が戦場となったため、

長州ではこれを[四境戦争]と呼ぶ。

四境戦争に至る経緯は、元治元年の「禁門の変」によって、

長州藩が朝敵となったことに始まる。

第一次長州出兵は、長州藩が幕府に恭順の姿勢を示したことで、

回避されたが、その後、長州藩内で、

高杉晋作の挙兵による内乱が勃発。

この内乱鎮静後に、長州は恭順の姿勢を示しながら、

軍事力強化をすすめる[武備恭順]に方針を転換した。

このような長州藩の動きに対し、慶応元年(1865)4月19日、

長州藩への再出兵が決定されたのである。

相乗りが下手な男の一人ゴマ  百々寿子


  長州征伐(龍馬絵)

幕府は、慶応元年11月、各藩に長州藩再出兵の動員を命じた。

出兵命令段階では、大島ではなく、山口方面に進軍できる上関に、

四国諸藩を配置していた。

海を隔てて大島と隣り合わせの松山藩、宇和島藩・徳島藩・

今治藩などに出兵を命じたが、実際に大島まで進軍したのは、

松山藩だけであった。

今治藩は、一番手を任されたが、

「多くの藩が出兵していないのは、

   天下の人心が一致しているとは言えない」

として大島までは進軍せず。

また宇和島藩は、英国公使パークスの来藩などを理由に出兵を拒否。

四境戦争では、幕府の出兵命令に従わない藩も多くみられた。

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子


   浦 靫負

慶応2年1月幕府は、長州藩に領土10万石削減などの処分を決定し、

2月から3ヶ月、長州藩へ処分を受け入れさせる交渉が、

広島で行われた。 しかし、長州藩は処分を受け入れず、

ついに6月7日、幕府軍艦の上関砲撃によって、

四境戦争の幕が下ろされた。
       うらゆきえ        あずき
長州藩元家老・浦靫負が給領のある阿月に隠居していた折に見た、

6月7日の様子を次のように日記に記している。

『四ツ時分(午前10時頃)蒸気船が上関の横島近辺から白浜を砲発した。

四・五発のうち一発は、千葉岳に撃ち込まれ、ニ発は海中に落ちた。

それより、蒸気船は大波に出て、大島郡安下庄あたりで

四・五発の砲声があった』

この日記は、蒸気船一艘が安下庄の沖合から四発砲撃し、

そのうちニ発が、竜崎の海中に落ちたとの

大島郡代官所からの報告とも合致する。

まず走れ結果あとからついてくる  有田晴子


   幕府の砲弾跡 (威力の小ささが歴然)

この蒸気船は幕府の軍艦・長崎丸で、

この後、宮崎から来た幕府の軍艦が久賀村沖の前島に碇泊。

10日の段階では、第ニ奇兵隊の林半七

「今日にも合戦になると考えていたが五艘の軍艦は二艘になっており、

    正午になっても何も起こる様子がない」

と報告しているように、しばらく軍艦からの攻撃はなかった。
                                しき
ところが、翌11日、幕府の軍艦が久賀へ向けて頻りに発砲をはじめ、

幕府兵が400人ほど上陸して久賀を占拠。

また松山軍も6月8日、大島に進軍し、

11日には、安下庄に陣所を構えた。

長州藩側は、大島郡代官・斉藤市郎兵衛の率いる隊などが応戦したが、
    とおざき
11日に遠崎へ退去し、大島は幕府軍と松山軍に占拠された状態になった。

交点にタムシチンキを塗っておく  井上一筒

藩政府は、6月7日以降の戦況報告を受けて、
                                     こうぶたい
10日付で第二奇兵隊と長州若手家臣団で組織された浩武隊に、

大島に進軍することを命じ、また、
   へいいんまる
同時に丙寅丸にも大島行きを命じ、高杉晋作に乗船を命じている。

丙寅丸とは、慶応2年5月、高杉が独断でグラバー商会から

購入したアームストロング砲を搭載した94トンの蒸気船である。

海軍総督を命じられていた高杉は、丙寅丸に乗り大島口に向かった。

12日、丙寅丸は、午後2時頃に遠崎に着岸し、

深夜零時から前島に碇泊している幕府軍艦に数十発砲撃を加えた。
               
この後、小倉口に向かった高杉晋作は、
いっちゅうまる
乙丑丸を率いる坂本龍馬とともに小倉藩と戦うことになる。

大島口では、高杉の夜襲攻撃を足がかりとして、

15日には、第二奇兵隊や浩武隊が大島に上陸し、

幕府軍・松山軍との戦闘が開始された。

奥の手が頼りないので七味唐辛子  山口ろっぱ

[第二奇兵隊大島郡合戦日記]には、

16日の松山藩との戦いが次のように記されている。
                                くすい
「幕府軍に占拠されている久賀を攻め入ろうと垢水峠を

   登ったところ、
安下庄に駐屯している松山軍が三手に分かれ、

   一手は石観音清水峠、一手は源明峠、一手は笛吹より、

   百人押し寄せて来たので、石観音清水峠の南側を浩武隊、

   第二奇兵隊は頂上において戦いはじめ、

   九ツ時(正午頃)より激しく戦い、山上一円の煙となった。

   八ツ時(14時頃)になって曇り、小雨が降り出し、

   山上は霧のため下から上は見えなくなり、

  長州軍が下の松山軍に向かって小銃を雨の如く撃ちたてた。

  松山軍は敗走し、手負や死人が多く出た。

  晩になって戦いは止んだが、長州軍は陣太鼓を打ち、
                          ときのこえ
  山よりは、鯨波声をあげて松山軍を追い下した。

  松山軍は浜辺まで撤退して、

  暮六ツ(18時頃)までにはすべての松山軍の船が安下庄から出帆した」

このような激戦のなかで撤退した松山軍は、

「未だ四国の諸家出勢もこれなく、孤軍にて敵地数日の働き、

   彼是兵力も相労し候」 

と、四国諸藩の出兵がなく、

松山一藩での戦闘が限界に達したと記録している。

無力だと思う波打ち際にいる  立蔵信子


 大村益次郎
エドアルドキョッソーが死後に関係者の説明で描いた。

「残る三境の戦況」


長州の戦略は、日本海側の石州口と門司の小倉口二方面に絞っていた。

いかにして、相手の士気をくじくか、そこが長州の狙い目だった。

石州口の攻防は、浜田藩にある。
          たけあきら
浜田藩主・松平武聰は、水戸藩主・徳川斉昭の十男で、

一橋慶喜は異母兄である。

この戦争は、将軍後見職・慶喜の提言によるところが大きかった。

そのため、浜田藩を叩くことは、

慶喜ひいては、将軍の面子をつぶす効果があったということだった。

そこで長州は、この方面の司令官に、大村益次郎をあてた。

大村は、長州一藩のみならず、日本第一の西洋軍学者である。

大村は、明倫館兵学寮総官・教授として、

奇兵隊を最新軍制によって徹底的に鍛えあげていた。

天気予報の夏を何度も確かめる  墨作二郎
                 かずさ                  まさあり
石州口の幕府総大将は、上総飯野藩二万石の藩主・保科正益だった。
                      
大村は、突如として奇襲にでる。

いそぎ、津和野から益田へ軍をうごかす。

幕府軍の陣容が整わないうちに、浜田藩兵を狙ったのだ。

浜田藩兵は、旧式の軍備だった。

銃は、火縄やゲーベル銃。

しかも、鎧兜である。動きも重い、あっという間に、

幕府軍は蹴散らされ保科正益や松平武聰は戦線を離脱する。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子     


  小倉合戦の図

小倉口では、緒戦こそ長州藩が優勢に勝ち進んだが、

水上戦の底力は幕府側にあった。

ただ陸上の実戦では、長州が幕府軍を圧倒した。

しかし、初戦から四十日目の赤坂口では、長州は敗北を喫する。

熊本藩兵が出てきたからだ。

熊本藩では、洋式銃砲に洋式兵法で長州・奇兵隊に対峙した。

こうなると、軍備と兵力では、力の差は歴然だった。

メルアドのドットが風に流される  加藤ゆみ子
                          えんせん
ところが、どういう訳か、熊本藩には厭戦気分が充満していた。

勝っても得なことは、ひとつも無い。

しかも、長州に対し取り立てて恨みがあるわけではない。

幕府軍総督・小笠原長行に、赤坂口・守備交代を申し出る。

しかし総督が「そうかいいよ」と言うわけがない。

熊本藩は総督の返事がどう返ってくるか承知の上のこと、

そのまま戦線から撤退してしまった。

こうなると、小笠原長行に策はなかった。

しかも、そこに将軍・徳川家茂死去の報が入る。

最期に小笠原長行が取った行動は、軍艦・富士丸にひとり乗りこみ、

小倉口から遁走することであった。。

B面はこうもりとして闇の中  高島啓子


   小倉合戦ー2
小倉城に向かって砲撃をする長州軍

戦さの勝敗は決したようにみえたなか、小倉藩は最後の粘りをみせた。

みずから小倉城に火を放つと、山岳地帯に陣をとったのだ。

ゲリラ戦への作戦変更である。

戦は、一進一退となった。

結局、薩摩藩と佐賀藩の仲裁のもと、和睦となる。

ここでようやく半年間つづいた小倉口の戦いは終結する。

ちなみに、この講和の三ヵ月後、

この戦いを陣頭指揮した高杉晋作は、急逝する。

享年、29歳。早すぎる天才の死だった。

砂塵にすみれサムライの弔歌かな  増田えんじぇる 

拍手[3回]



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