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川柳的逍遥 人の世の一家言
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棒になるならひとこと言ってほしかった 竹内ゆみこ

 
「銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(歌川広重画)

明治政府の中枢を担った長州藩は国会開設の立役者・伊藤博文
国民皆兵制度推進の山県有朋、条約改正に取組んだ井上馨などを輩出。
ここでは、群馬県令・楫取素彦美和が再婚するまでの時代を中心に
中央の経済や金融の改革、地方の社会・産業・文化の変容などを視る。

「動く明治新時代」 

近代化の進む日本において、地方では藩に代わる府・県のまとまりが

人々の間に根付き、新しい文化が生まれ、前代の地場産業の多くが、

さまざまな形で継承された。

「土地改革」については、旧藩主の土地所有権を排除し、

全国的な土地調査を行なうなど、

イギリスやフランスの市民革命時の先を行く先駆的なものであった。

国家財政を確保するための土地改革の中心は「地租改正」だが、

それと裏腹の形で「秩禄処分」が強引に行われた。

地租とは、土地に対する課税で土地所有の一元化と、

土地の面積や収穫量、種や肥料代などの生産費の把握が前提となる。

肯定も否定もしない別れ道  皆本 雅


「地租改正測量図」

地租改正では、全国で課税の基礎となる土地の測量が行なわれた。

「地租改正」は全国の土地すべてを調査し、地価を決め、

地価の100分の3を地租として、金納を義務づけるものだった。

地租は、将来100分の1に削減すると約束された。

しかし、地租改正が負担の軽減にならないばかりか、

増税につながる場合の多いことを知った農民の反発は激しく、

全国に一揆が広がった。

そこで政府は、明治10年1月に減租の詔書を発して、

地租を地価の100分の3から100分の2・5に減らし、

土地にかかる地方税も、

地租の3分の1から5分に1に減らすこととした。

そのうちにがきっと戦術変えてくる  前中知栄

 
「三重県下頑民暴動の事件」(大蘇芳年画)

明治9年12月に三重県全域と周辺地域に広がった農民一揆は、
処刑者が5万人を超える大規模なものとなった。
金納ではなく米による納付を求める陳情が受け入れられなかったため、
蜂起した農民が市庁舎や学校、地租改正関係者の自宅などを打ち壊した。

減租の財政的裏づけとして、

この時期、秩禄処分のめどがたったという事情がある。

秩禄とは華族(旧公家や旧藩主)や士族に与えられた「家禄」などである。

家禄の支給が政府の収入の3分の1に達して財政を圧迫していたため、

明治政府は、金禄公債を発行して、

支給期限を定めるという形でそれを削減。

このとき、「華族」に与えられた特権が「士族」にはなく、

金禄公債すら手放さざるをえないものも出た。

やがて、「萩の乱」のほかに、「神風連の乱」、「秋月の乱」、

「西南戦争」など、全国で士族の反乱が勃発した。

そのうちにがきっと戦術変えてくる  前中知栄

「写真(絵)で視る明治の風景」

 

  「函館の新聞縦覧所」

慶応3年(1867)に最初の「縦覧所」が設置され、明治3年頃から普及。
江戸時代以来、明治初期に至っても、
一般の庶民は居住地域外の情報に触れることは少なかった。
しかし他の地域への感心は高く、明治に入って発行が始まった新聞は
多くの地方で歓迎された。
配達網が未整備だった当初は、地方の書店などに新聞縦覧所が設置され、
人々は複数の新聞をよむことができた。

押入れのかわりに心に箱一つ  山口美千代

 
「東本願寺北海道開拓錦絵」
                       おさるべつ
明治3年7月~明治4年10月にかけて東本願寺一行は尾去別を起点に
洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸を結ぶルートの道路建設を開始した。
長さは約100km、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。

明治政府は、琉球王国を沖縄県として日本に取り込み、
ロシアとの間で千島・サハリン(樺太)交換条約を結んで千島を獲得した。
また小笠原諸島を領有下に置くなど、日本の領土国境の画定を進めた。
「蝦夷」と呼ばれた北方の地は「北海道」と改称され、
千島とともに大量の開拓民が送り込まれた。
新天地とされた北海道には、厳しい環境のなか、
多くの開拓民が家族を連れ、技術や敬虔を携えて渡った。
厳寒と荒野はあまたの夢を破り、成功を阻んだが、
開拓の国策に協力し、教団の結束のもとに、
門徒の新しい暮らしを模索した東本願寺のような例もあった。

パロディとして晴天に裏がえる  河村啓子

 
「特命全権大使米欧回覧実記」

明治4年11月から6月9日にかけて、岩倉具視を特命全権大使とする
岩倉遣欧使節団が、不平等条約の改正への予備交渉と
欧米文物の視察などを目的として欧米を歴訪した。
写真は、訪問先のブロードウエイの挿絵と報告書(5冊2110ページ)。

お話は聞いてみたけどプリンぺラン  井上一筒
 
 
  「東京裁判所庁舎」

明治5年4月司法卿・江藤新平は行政権と司法権の分離を主張。
各府県の持っていた司法権を司法省の管轄に移し、司法裁判所、
府県裁判所、などの5種の裁判所を設置した。

気休めに窓など描いておきましょう  清水すみれ
 
  
 「明治11年第三十八国立銀行発行の五円紙幣」

国立銀行は、東京の第一国立銀行から京都の第百五十三国立銀行まで、
全国で153行が設立された。
資本金の8割を利付公債証書で政府に供託することで、
それと同額の銀行券(紙幣)の発行が認められた。
国立銀行紙幣は当初アメリカで印刷されたが、明治10年の一円紙幣から
日本の大蔵省紙幣局で製造されるようになった。


遺言は凛々しい文語体にする  新家完司

 
  「サケの人工孵化場」

幕末に諸藩が力を入れた産業の中には、明治に入って、
それぞれの地域で継承されていったものもある。
例えば、家禄を失った士族の生活のために、
魚の養殖場の拡充や整備が行なわれるなどした。

にっこりと笑うことから始めよう  こうだひでお

 
「大日本帝国国会議事堂真景」

明治23年11月に竣工した最初の国会議事堂。
財政難と2年弱という時間的制約のため、
洋風木造2階建ての仮建築だった。
しかし、この建物は2ヶ月後の24年1月、漏電により出火、全焼した。

前頭前野が見てるオーシャンビュー  森田律子

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君に恋する為に生まれてきたのです  森田律子


富岡製糸場の生糸商標

「楫取寿の死」

「子どもを育てるのは母親、まず母親が学ぶことこそが大事」

かって兄・松陰は、よくそう言っていた。

女たちのための学校を作ろう、兄の志を引き継いだ美和の夢が、

学びの場にする空き家を見つけたことで一歩、現実に近づいた。

その矢先、司法省で働き始めた久米次郎から、

美和宛の手紙が届いた。

「母(寿)の気持ちが分かるなら、今すぐ家を出ていってほしい」

と強い語調で書いてある。

一体どういうことなのか、美和は一度東京に行ってみようと考えた。

美和は義兄の楫取素彦に、「寿の見舞いに東京に行きたい」

というと、

素彦は「寿も喜ぶだろう」と快く美和を送り出してくれた。

筆順のどこかが違う正義感  筒井祥文


   久米次郎

東京の寿の住む家の前で、仕事から帰ってきた久米次郎と対面すると、

露骨に顔をしかめ、

「帰ってください。どれだけ 母を苦しめるつもりですか」

と棘のある言葉がかえってくる。

美和は当惑するしかなかった。

「久米次郎、美和が来とるんですか」

2人の会話が耳に届いたのだろう、

奥の部屋から寿が声をかけてくる。

奥へ通された美和が、久しぶりに見る姉は一回り小さくなっていた。

遠目には釣り合い取れていた夫婦  柴本ばっは

「何故、楫取のそばを離れてここに来たのか」

と、寿は問うが、美和には答えられない。

「私の送った手紙のことでしょう」

憮然と久米次郎は言う。

「父上のおそばにおられるべきは母上です。

   この人がおるから、母上はもう自分は無用だなどと…」

美和がいるから安心だと言いながら、

寿が寂しく微笑むのが、久米次郎にはたまらなかったのだ。

木綿語で話して肩凝りを治す  清水すみれ


   杉 民冶

事情をしった寿は、久米次郎を席から外させ、美和に言う。

「夫の世話ができない自分の身が情けなく、

   ふと口をついて出てしまった」

のだと。

「でも、羨む気持ちは気持ちもないと言えば嘘になります」

夫は自分に優しくしてくれるが、

心配な事や辛い胸の内は打ち明けてくれない。

けれど、美和には違う。

美和になら話せる。

「やから、焼けるくらい感謝しておるんです」

「義兄上は、姉上を誰よりも大事に思うておられます。

   それは、そばにおる私がいちばんよう分かっとります」

その後、美和は少しの間、折角来たのだからと、

寿の世話をするため東京に留まることにした。

生きているリズムで溜まるゴミの山  竹内いそこ


 新井領一郎

このころ(明治9年)新井領一郎の営業努力により、

外国人外商を経由せずに、日本人が初めて生糸の直輸出を実現した。

こうした生糸の仕事が忙しくなった中、

美和は群馬と前橋を何度か行き来することになる。

当時の「楫取書簡」を紐解くと、

「今般阿三和氏(美和)帰県」 (明治8年10月19日)

明治11年頃になると、

「今日頃、阿三和も東京より見舞いにきます」

「阿三和も、多分 今月中には帰寧できることになりました」

という不思議な記述も見られる。

帰寧とは、嫁いだ娘が初めて里帰りするという意味で、

楫取は途中から美和の名も呼び捨てになり、

美和に対する意識が変わってきたのだろうか。

さらに明治14年1月6日の記述では、

「阿三和さんは、私が引き取り、前橋で寿の看護人、

   または私の家の女幹事になってくだされば、

   お互いに幸せになるでしょう」

と、楫取の美和への意識は,妻のような扱いに飛躍している。

すりこぎに君は命と彫っている  田口和代


楫取が民治に宛てた手紙

年が明けて14年1月、寿の病状は手の施しようがなく、

長男の篤太郎も萩から妻を連れ、寿の枕元にいた。

そして明治14年1月30日、薬石効なく、寿は43歳で他界する。

楫取の悲しみは深く、

妻が手を通した衣類を洗うことすら忍びないと、

涙する日々を送ったという。

楫取は義兄・民治(梅太郎)に宛て手紙で心情を次のように吐露している。

「なかんづく臨終まで御着用候衣類、襟垢など付き候分、

   入梅にも至り候時はかびに成り候ゆえ、

   洗濯仕らずては年置きも相成らず。

   これを洗ひ候ては誠に惜しく、兎角涙の種にござ候」

(臨終の時に寿が来ていた着物には襟垢(えりあか)がついていて、
 梅の季節になる頃には、かびになるでしょうが、
    洗濯しないと置いておけない。

    でも、洗ってしまうのは非常に惜しく、涙の種になっております

髭剃ってさてこれからの置き所  山本早苗

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枯れてなおバラは掟の棘をもつ  佐藤美はる


  新双六淑女鑑 (小林清親画)   (拡大してご覧ください)

明治女性の「幸福な」一生をゲーム感覚で学ぶすごろく。
「夫定」のコマ(右)には必ず止まらなければならず、
夫婦円満で進むと「淑女」の上がりにたどり着くが、
道を踏み謝ると「娼妓」や「老朽」に落ちてしまう。

「家庭の確立」

明治期は「家庭」という単位が確立した時代である。

江戸時代は親族を含めた大家族や村民たちの互助で成り立つ、

「村落共同体」が社会と個人を支えていた。

近代国家である明治新政府は、

個人の権利や私的所有を前提としたが、実際の法制度の中では、

家が個人を直接管理することは難しく、

家庭が最小単位となった。

脚注は入れぬ想像に任せる  竹内ゆみこ

家庭という単位が確立すると、家庭内の役割も分化。

「父は外で働き、母は内で子育てをする。

   母親になることが女性の幸せ」

という考えが一般に広がった。

江戸時代までは、子どもの養育は大家族が皆で担っていたが、

明治になると子育てと基礎教育は家庭の役割、

もっぱらそれは、女性の仕事となった。

呪文唱えて金縛りにしてしまう  高島啓子

こうした家庭の確立と男女の役割分化制度的に定めたのが、

明治31年(1898)制定の民法の於て規定された「家制度」である。

この民法は夫が戸主となる、妻は夫と同居する、

妻の財産は夫が管理するなどを規定。

夫婦同姓の義務化も「家庭」強化の象徴となった。

離婚も妻から申し出るのは困難だった。

協議離婚は認められていたが、妻の姦通は離婚理由になる一方、

夫は姦淫罪によえる有罪で無い限り、

妻から離婚を訴えられないなど、不平等な制度だったのだ。

吊り橋が壊死そんなことだってある  高柳閑雲

この時代の女子教育は、

家庭を守る「良妻賢母」の育成が主であった。

作家で歌人の樋口一葉には、高等科で主席になりながらも、

「女子に長く学問をさせては、将来のためによくない」

という母の意見で退学し、

家事見習いや針仕事をしていたというエピソードもある。

女子の高等教育は不要どころか悪影響があるという意識が、

当時は一般的だったようだ。

交差点に棒をおいてはいけません  山口ろっぱ


  女礼式の図

右側で書道、左側で茶道の指導が行なわれている。
中央に立つのは教室を見張る教師。
女礼式とは女性が身につけるべき礼儀作法や習い事のこと。
明治中期から後期にかけて女礼式を描いた錦絵や双六が
啓蒙のため、
数多く制作された。

明治中期ころの女子中等教育は、

ごくわずかな師範学校やキリスト教系女学校を除くと、

ほとんどが夫人のたしなみや実技を教える家塾のような学校。

教わることも、ふすまの開け閉めや着物の着付けに始まり、

裁縫、書、琴、茶道、華道などが中心だった。

そうした状況下で、女児教育の普及に尽力した

楫取素彦美和の取り組みは先駆的だったといえる。

多くの一般女性が、

家庭での「役割分化」や「良妻賢母」の呪縛から

解放されるのは、戦後まで待たなければならないのである。

シンプルに生きると決めてから長い  佐藤美はる



「女子教育の事情」

女性たちが教育を受ける学校として明治初年には、

東京の跡見学校など、20校余りが開校し、

女子教育が行なわれるようになった。

こうした学校では現在の学校で学習するような地理や歴史、

英語などもあったが、

良家のお嬢様であればあるほど習字や裁縫、手芸など

従来から女性のたしなみとされる学科の成績が良かった。

こうしたお嬢様は卒業までに、

結婚が決まらないのは恥とされる傾向が強く、

お嬢様の結婚が本人の意志とは関係ないところで決められるのは、

江戸時代と変わりがなかった。

水が氷になるのを許すべきなのか  福尾圭司

では東京のお嬢様学校ではなく、一般庶民はどうかというと、

農家にとって子供は大切な労働力であったため、

子どもを学校にやる親は少なかった。

学校も初期のころは、

江戸時代の看板を付け替えたようなものだったこともあって、

親も子には学問よりも裁縫など実生活で役に立つ技術を

身につけさせたがっていた。

指六本あったらピアノ習うのに  杉山ひさゆき

女の子には女性の教員が教育に当たるべきという要望が強く、

女子教員の育成が急務となった。

当時、女性の職業は限られており、

教師はその代表的なものであったが、

働く女性は結婚できない、経済的に恵まれないなど、

常に「負のイメージ」が付きまとった。

また江戸時代には場合によっては、

女性にも財産相続が認められていたが、

前述のように、明治31年に民法における「家長制」が確立すると、

財産のすべてを実質上長男が相続することとなった。

明治の女性は、見方によっては、

それまでの時代よりも、社会進出を阻まれ、

「男性の付属品であることが求められるようになった」

といえるだろう。

こっち向く不幸とあっち向く幸と  清水すみれ

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向こう岸に渡してくれる太い腕  三村一子


 上毛かるた 「け」

「楫取の政治」

産業とインフラ整備に力を注いだのが群馬の県令・楫取素彦である。

熊谷県時代を含めると、楫取は群馬県令を約十年つとめた。

在任中は、「握り飯草履履き」で県内を隈無く視察し、

県民と困難をともにして、本県の基礎をつくった。

楫取は、県政の治術は産業と教育と心得て、この分野に力を注いだ。

蚕種・養蚕・製糸・織物の各熟練者を歴訪し、研究を奨励。

勧業は交通・治水などインフラ整備にも及んだ。

邪魔だから顔はおととい捨てました  清水すみれ

明治13年(1880)、日本鉄道株式会社が上野―高崎を結ぶ中山道線の

鉄道敷設計画を発表すると、

前橋までの延伸を下村善太郎とともに、井上勝鉄道局長に嘆願した。

井上局長は二人の至誠に感動し、二人も大株主になることを約束して、

明治17年5月高崎、7月前橋間がそれぞれ開業した。

これによって、それまで利根川の水運に頼っていた県内産の

生糸や織物などの輸送を、鉄道で横浜港まで運ぶことが可能となった。

近代社会において、

インフラの整備なしに産業の発展があり得ないことを、

楫取はよく心得ていた。

夕焼けの行方は父が知っている  中野六助


  上毛かるた 「い」

楫取は群馬県を日本一の蚕糸県に育て上げるとともに、

その技術を全国に広め、群馬県の知名度(ブランド力)を上げようとした。

つまり、群馬県で優れた技術を改良・発明させる。

その結果、群馬県の産業が発展する。

さらに、その技術を全国に伝えることで、

群馬県の名声があがるとともに、日本の国益になる。

楫取は前田正名のような国家的な使命感を以て県政を進めた。

これが、楫取政治の要諦であった。

がまん強くて屋根に抜擢されたとか  オカダキキ


  上毛かるた 「ろ」

「船津伝次平」

日本敗戦の翌々年の昭和22年12月、
国は荒れ果て、人々が悲嘆に暮れているとき群馬の浦野匡彦氏が、
「このように暗く、すさんだ世の中で育つ子どもたちに何か与えたい。
    明るく楽しく、そして希望のもてるものはないか」
と考え出来上がったのが上毛かるたである。
上毛とは群馬県の古称上毛かるたは44枚からなり、
群馬県の土地・人・出来事を読んでいる
「ろ」のかるたでは、船津伝次平がでてくる。
   でんじへい
船津伝次平を内務卿・大久保利通に推薦したのも楫取であった。

老農・船津伝次平は、天保3年(1832)10月、勢多郡原之郷に生まれる。

幼名市蔵。  (勢多郡原之郷は現在の富士見村にあたる。)

市蔵は隣村の村塾において手習、素読を学ぶ。

又18歳で、最上流の和算を学び、関流の和算の免許皆伝を受けた。

安政4年(1857)家督を継ぎ、伝次平を襲名。

維新後養蚕業の振興につとめ、明治元年(1868)前橋藩から原之郷ほか

35カ村の大総代を任された。

健さんは死に欣也は犬になった  奥山晴生


  上毛かるた 「は」

伝次平が生まれた船津家には、

「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」

という家訓があり、養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、

明治8年、熊谷権令・揖取素彦から農事に精通する者として、

内務卿・大久保利通に推挙される。

からまって虹まで届く豆の蔓  本多洋子


 上毛かるた 「に」

伝次平と会った大久保内務卿は、

すっかり彼にほれ込み農民としてただ一人、

伝次平46歳のとき、東京駒場農学校の教師に採用される。

駒場農学校では、西洋農法と日本農法のよいところを併せ持つ

混同農法を生み出し、さらに、その後、農事試験場技師に就任し、

全国を駆け巡りながら新しい農法の普及につとめ、

「日本三老農の最高峰」と称されるに至る。

伝次平は中央に出ると、品川弥二郎(農商務大臣などを歴任)と行動を共にする。

奇しくも品川は吉田松陰の門下生(松下村塾生)であった。

伝次平の農事改良の精神や技術が、

群馬県ばかりでなく我が国の農業の近代化に多大な貢献をした。

身に余る依頼へ足の裏凍る  青砥たかこ

ところが明治中頃、農商務大臣・井上馨が外国を視察して帰り、

欧米の大農法をわが国にも取り入れようと考え、

新式の大農機具を盛んにアメリカから輸入し、

それを、まず、駒場農学校で実用するように命じた。

しかし伝次平は、

「日本は、耕地が少ないうえ、

   山国で高いところから低いところまであり、

   しかも気候の変化も激しいという、

   欧米とは違った土地と気候である。

   だから日本の農業は、大農法に向いていない。

   狭い土地をていねいに耕し、多くの収穫を上げていくのが、

   日本の農業である」

と反論している。

反論をいれたポストが燃えている  岡田幸子


富士見村原之郷にある船津伝次平の墓(県指定史跡)

その後、伝次平は、駒場農学校に辞表を出して去り、

著書・『稲作小言』で大農論者に反対を訴え続け、

それを八八調の文章にしてチョボクレ節で歌って広めた。

明治31年(1898)6月15日、郷里にて死去。

享年66歳。

墓で遭い甘味処でまた遇うた  井上一筒

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ほんものは四季の心を持っている  徳山泰子



「桂小五郎」

桂小五郎は身長が1㍍74あったとされ、当時としては大柄だった。

残された写真を見てもわかる通り、男前で、鼻筋が通り、

眼もと涼しい、苦みばしった美男と司馬遼太郎は書いている。

小五郎の女遍歴・・・あんまりな・・・男でもある。

小五郎は、坂本龍馬をはじめ、多くの維新志士と交友したが、

女性関係も派手だった。

美形で、弁舌さわやかな小五郎は、女性受けの良い男だったのだ。

小五郎の最初の結婚は、27歳のときだが、

わずか3ヶ月で離縁している。

この妻との間に、子どもがいたものの早世。

小五郎は、江戸に上って志士活動を開始することになる。

にんべんを繕いコスモス揺れている  嶋沢喜八郎

その後、江戸で斉藤弥九郎道場の塾頭を務めた小五郎は、

隣家の娘・千鳥と知り合う。

小五郎は、彼女に手を出したものの、ほどなく千鳥を放り出して、

志士活動のため上洛。

千鳥は、小五郎の出立後に妊娠が判明し、

乳飲み子を抱えたまま、京都へ向かった際に、

「蛤御門の変」の混乱に巻き込まれ、会津藩兵に斬り殺された。

(子どもは、後に会津で養育されたと伝えられる)

艶艶の玉子抱いてる真暗がり  森 廣子    

一方、そんな事情を知らない小五郎は、

京都で三本木の芸妓・幾松に惚れ込み、

大金を払って彼女を落籍する。

すでに志士として、名を知られていた小五郎は、

常に命を狙われる毎日だったが、幾松の存在は彼の心を和ませた。

次のような有名な話が残っている。

新撰組が、料亭に踏み込んだ時、

舞を踊りつつすばやく小五郎を逃がしたり、

蛤御門の変以降、小五郎がお尋ね者になって窮すと、

加茂川大橋付近で潜伏する小五郎に、食料や水を運んで助けた話。

ときに幾松は、派手な着物をきたまま、桂の元を訪ねるなど、

騒動を起こすも、奔放な彼女の性格を小五郎は、好きだった.

右左迷った時は賽を振る  高島啓子


幾松が小五郎に送った手紙 (文字に幾松のセンスが伺える)

小五郎は幾松と知り合ってからも、多くの女性に手を出しているが、

幾松が、浮気に寛容だったことも、

二人の仲が、うまくいった理由かもしれない。

命をものともせず、小五郎に尽くした幾松の想いは、本物だった。

のちに長州に落ちのびた幾松は、潜伏中の小五郎に、

高杉晋作の「藩政クーデター」の成功を伝えるために、

単身で但馬へ向かうなど、小五郎を最大限に支えている。

馬鹿なことやめたらきっとお死ぬでしょう 中野六助


出石では荒物屋を営み身を隠した

一方で逃亡中の小五郎は、但馬の娘と偽装結婚したり、

城崎の宿屋の娘を妊娠させたりしていたが、幾松は意に介さなかった。

幕末当時の「献身と浮気への寛容」さから、

小五郎は、幾松に頭が上がらなくなった。

維新後に、木戸孝允と改名した彼は、

幾松を正妻に迎え、松子と名乗らせる。

幾松は買い物と芝居が大好きで、贅沢をしたが、

木戸(小五郎)としては、文句をいえない。

”うめと桜と一時に咲し さきし花中のその苦労” (木戸孝允)

それでも二人の夫婦仲は良く、

幾松は、夫の死後は尼になって、生涯を終えている。

ショッツルにしばらく漬けてあるあなた 井上一筒  



「逃げの小五郎」

変幻自在で多彩、そうしたイメージからる桂小五郎.は、
鞍馬天狗のモデルだともいわれる。

小五郎は長州の藩医の子に生まれ、

禄高150石の桂家の養子になった。

学問を好み、藩校・明倫館で吉田松陰に兵学を学び、

「事をなすに才あり」と評価された。

松下村塾の門下ではなかったが、塾にはよく顔を出し、

塾生の高杉晋作久坂玄瑞らとも親しく、

ともに尊攘運動をリードした。

龍馬が姉の乙女らに宛てた1865年(慶応元年)の手紙には、

「長州に人物なしといえども、桂小五郎なる者あり」

と褒めちぎっている。

コンパスで描いた円はつまらない  竹内ゆみこ

西郷隆盛、大久保利通、と並ぶ維新の三傑・桂小五郎には、

「逃げの小五郎」という異名があった。

長州が「朝敵」として孤立、苦境に陥っていた頃である。

京都留守居役として藩の外交を任された桂は、

京都に残って情報収集に努め、

潜伏しつつ再起の道を見つけようとする。

長州藩の討幕運動を進めるリーダーとして、幕府側から命を狙われ、

危険を察知すると、戦わず逃げることに徹したからだ。

京都三条大橋の下に隠れていたという、英雄らしくない逸話も残る。

サイダーを飲んでくるりと裏返る  石橋能里子

それにしても、三条大橋は江戸に繋がる東海道の終点、

橋に繋がる三条通りは、当時の京都のメインストリートだ。

血眼になって捜す新撰組ら追っ手を警戒していた桂が、

なぜそんな危険と思しき場所に隠れたのか。

整備された今の鴨川と当時の鴨川は、まるっきり景色が違う。

河川敷が整備された今と違い、当時は川幅が中州がいくつもあった。

そこに掘っ立て小屋を建てて住む人や友禅染の水洗いする人もいて、

紛れることが出来た。

また市街の3分の2を焼いた「禁門の変」の後で、

避難民も河川敷に多くいたのも利点になった。

交通の要衝なので各地の情報を得るには格好の場所。

そこで情報を探っていたとも考えられる。

路地裏をうまく泳いでいるルパン  岡内知香

変装し名前を変え、身分も偽って、桂は逃げることに徹した。

自らの剣で人を殺しいたことがないと伝わる。

弱かったからではない。

19歳で江戸に出た小五郎は練兵館(三大道場の一つ)斉藤弥九郎から

神道無念流を学び、道場の塾頭を務めるまでになった。

剣の達人だったのだ。

「出来れば逃げよ」

というのが、殺人否定に徹底した師・斉藤弥九郎の教えであった。

靴紐を結びなおして生きて行く  吉崎柳歩

自然、斉藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを、

「逃げることに」集中した。

「生きてこそ忠義を尽くせるという思いが強かった。

 時流を読むことに優れ、生き延びたからこそ、

 新しい時代をつくることができた」 (司馬遼太郎)

「革命家でありながら長州人に多い思想への陶酔体質は持っておらず、

   ごく常識的な現実認識家である面が強い」

とも司馬遼太郎は小五郎を分析している。

世の中は桜も月も涙かな  桂小五郎  

一草も月日のむらはなかりけり  桂小五郎

時どきの定形外が面白い  小谷小雪

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