忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[101] [102] [103] [104] [105] [106] [107] [108] [109] [110] [111]
八重で濃いめで道端に咲くつもり  古田祐子

  (拡大してご覧下さい)
京都御所御門見取図

「雑学ー禁門の変」

古来、天皇の住まいの御所は侵してはいけないという意味の

「禁」を用いて、「禁中」あるいは「禁裏」と呼ばれた。

御所の門も同時に「禁門」と呼ばれた。

京都御所は築地に囲まれた地域で、建礼門などの6つの門がある。

その外側に、9つの門を設けた塀に囲まれた「京都御苑」がある。

京と御苑の地域は、もと宮家や公家の屋敷があったところで、

明治維新で皇居が東京に移ったとき、

公家なども移転したため空き地になり、公園として整備された。

追伸に渋い助言が添えてある  原 洋志

「禁門の変」とは、

戦いがその門をめぐって行なわれたことによる通称である。

久坂玄瑞率いる部隊は、越前藩の守る「堺町御門」から攻め入った。

しかし門の防御は固く、玄瑞や寺島忠三郎は鷹司邸に入って自刃。

「下立売門」では、長州藩の児玉隊と桑名藩が戦った。
                             くにし
築前藩が警護していた「中立売御門」は、国司・福原隊が破った。

「乾御門」を攻撃した長州藩は、薩摩藩に敗れた。

三途とは気付かず船賃を払う  杉山ひさゆき

禁門の変の主舞台になった「蛤御門」は、

当初、長州藩の来島隊と会津・桑名藩とが激突した。

その後、各門で勝利した児玉隊と国司隊、

薩摩藩が、それぞれ蛤御門の援軍に駆けつけ、

敗北した長州藩は「寺町御門」から退却した。

本当のさよならだった帰り道  八田灯子


瓦版ー禁門の変よる京都大火災

「その後をかいつまむ」

結局、御所を舞台にした「禁門の変」に敗れた長州藩は、

「朝敵」の汚名を着せられてしまう。

さらに幕府軍による征討軍が編成され、

長州領内への進撃準備を整えていた。(第一次長州征伐)

さらに同時期に英米仏蘭の「四国連合艦隊」による、

下関への攻撃を受けるという、絶体絶命の危機に陥ってしまう。

水をクダサイと地下から声がする  橋倉久美子

もしも幕府の力が磐石であったなら、

長州藩はこの前後で跡形もなく消えていたであろう。

しかし禁門の変を主導した三人の家老を切腹させたことで、

ひとまず征討軍は矛を収めた。

それだけ幕府も弱体化していたのである。

紫を使い尽くしたカメレオン  赤松螢子

生き残ることの出来た長州藩は一時的に幕府恭順派が実権を握るが、

すぐに高杉晋作のクーデターにより、藩論を「倒幕」へ統一。

ただ以前のように闇雲に尊皇攘夷を進めるのではなく、

密かに軍備を整えていった。

それを可能にしたのが、「薩長同盟」締結であった。

薩摩が長州の代わりに武器を調達し、

長州の軍備は近代化することができた。

いわゆる討幕への準備が整ったのである。

これがその足踏み式の回る寿司  井上一筒

だが将軍・徳川慶喜「大政奉還」を行い、実験を朝廷に返上し、

倒幕派の大義名分を失わせる策に出た。

しかしこれを見抜いた岩倉具視らが、「王政復古」の大号令を行う。

この段階で薩長らの目的は、

「倒幕」から「討幕」へと変わっていくのである。

有為転変いろはにほへと散りぬるを  岡田陽一

「瓦版ー記事」

元治元年子七月十九日辰刻頃 河原町二条より出火仕少し鎮方相成候所
已刻より堺町丸太町辺より又候 出火仕候折節北東風つよく相成  
丸太町通を寺町へ焼出革堂 残る夷川を河原町にて火留る西ハ  
烏丸通を上長者町又下立売は 新町椹木町西洞院丸太町 
東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ 西堀川通別条なし

並本国寺又西本願寺御堂別条なし 東本願寺ハミなミな焼失不動堂にて
火留る
又東は加茂川通り突抜寺町木や町等ハことことく焼失併
祇園御旅道場ハ別条な
く東辺も同断依て東ハ河原町上ハ 
下立売下ハ九条西ハ堀川まて焼失仕候 
凡家数 二万五千計 かまと数  
四万七千計 土蔵落 千五百ケ所  
神社仏閣  五百ケ所

ペン胼胝の先にはなしが引っかかる  藤井孝作

拍手[3回]

PR
焼け石にまけたくないという水だ  立蔵信子 


         蛤 御 門

蛤御門は、本来の名前を「新在家御門」という。
天明の大火の際、滅多に開かないこの門が火に焙られ開いたことから、
つけられた。この門の周辺が最も激戦だったことから、
「蛤御門の変」とも呼ばれる。

「玄瑞辞世の句」              
           しこわざ
「ちはやぶる人の醜業かかるかと 思えば我も髪逆立ちぬ」

玄瑞最期のとき入江は「乱れた髪を直せ」と笑顔で鏡を渡したという。

「禁門の変」(蛤御門の変)

(拡大してご覧下さい)
「蛤御門合戦図六尺六曲一隻屏風」 (会津若松市蔵)

完全に政局の中心から追いやられてしまった尊攘派の志士たちは、

肥後脱藩の宮部鼎蔵らを中心に、起死回生の秘策を計画した。

それは「風の強い日に京の町に火を放ち、

その混乱に乗じて公武合体派を暗殺。

さらに孝明天皇を長州へとお連れする」 というものだった。

ところがこの計画は、

洛中の治安維持を担当していた新撰組のしるところとなり、

元治元年(1864)6月5日、尊攘派志士の古高俊太郎を捕縛。

拷問にかけた結果、企みの全貌が明らかになった。

溝板を踏んでひりひりと迂闊  酒井かがり

「8月18日の政変」以降、長州藩内には、

「兵を京へ繰り出し、一気に失地回復を図る」

という強硬論が叫ばれるようになっていた。

そこへ、この池田屋の悲報がもたらされた。

何の詮議もなく、多くの同志を殺されたことで、

幕府への怒りは沸点に達する。

来島又兵衛などは、思想的なことよりも、

毛利家が受けた恥辱を晴らすため、強硬に出兵を促がした。

シャープさを競えば狂になっていく  古田祐子        


    天王山

こうなると桂小五郎の冷静な見解や、

久坂玄瑞の藩兵の上洛は反対という意見は、押しやられる。

おまけに玄瑞は、指揮官のひとりに据えられてしまう。

こうして京都制圧論が現実のものとなる。

元治元年6月15日、来島又兵衛は遊撃隊300人を率いて先発し、

16日には家老・福原越後の460人と真木和泉、入江九一、

玄瑞が続いて出発した。

後からは、世子・定弘が本隊を率いて京へ上ることになっている。

21日、玄瑞は大坂に到着、300を率いて淀川を遡り、

京都の入口山崎・天王山を本営とし他の隊は伏見・嵯峨などに布陣。

下旬には長州藩兵約2000が、

京を南と西から攻撃できる態勢を整えた。

竹の皮に包んでおく喧嘩状  井上一筒           

しかし玄瑞は戦に逸っていたわけではない。

武力を背景にして、長州藩の冤罪を訴えるのが目的だった。

ゆえに朝廷、幕府、在京諸藩主に「嘆願書」を差し出した。

しかし、孝明天皇は長州が武力を御所へ向けたことに不快感を示し、

堺町御門、下立売御門、蛤御門、中立売御門、乾御門に、それぞれ

越前、会津、桑名、薩摩藩を警護に配置させた。

孝明天皇の心はすでに戦闘への構えであった。

一言の誤解会話が時化になる  上田 仁           


  来島又兵衛

7月18日、玄瑞らは家老・益田右衛門介の陣・男山で軍義を開いた。

即決戦を主張する来島らに、

玄瑞は 「一旦兵庫まで兵を退いて世子の到着を待ち、

             大軍を擁して京都に入るべきである」 宥める。

この時点での玄瑞の目的は、「あくまで長州藩の失地回復であり、

その上で異国の脅威を退ける日本をつくろう」

との決意を抱いていた。

しかし、来島は容れず「臆病者!」と罵倒する。

藩主・敬親からは「先に手を出すな」と強く命じられていたが、

もはや止めようがなかった。

痙攣をする左目のキリギリス  くんじろう


 幕末の京都御所

同日夜、長州勢は伏見、嵯峨、山崎の三方から進撃を開始。

来島、国司らの部隊は御所「中立売御門」「蛤御門」に向かった。

玄瑞真木の500は、天王山から進発し、

桂川を渡りきって「堺町御門」に達し、門から突入した。

正面が見知った鷹司邸だ。
               すけひろ
参内しようとしていた関白・鷹司輔煕を見るや否や、

玄瑞は嘆願を口にした。

「天子様にこの書状をっ! お願いいたします!」

「ならん! 何故兵を挙げた? なぜ御所を戦場にした!? 

   巻き添えはごめんじゃ!!」

「何とぞ長州をお救いくださいっ!」

去ろうとする鷹司にすがりつき、玄瑞は必死に哀願する。

その玄瑞の目から涙が零れ落ちた。

「そなたらは、天子様に刃を向けたのだぞっ!

   もはや御所にはそなたらの声を聞く者など、おらん」

鷹司は怒りをこめて玄瑞を振り切って去っていく。

切り口の朱色が哀しすぎますね  合田瑠美子       

ほどなくして、鷹司邸では死闘が展開された。

薩摩、会津、桑名などの兵に囲まれて、邸内に大砲が撃ち込まれた。

銃弾が飛び交い、屋敷に火が回った。

玄瑞は、右足に火のような痛みを覚えた。

流れ弾が玄瑞の脛の部分を貫いていた。

足を引きずりながら玄関に出た。

村塾の同輩・河北義次郎に会った玄瑞は、

「俺はもう動けない。お前は囲みを突破して、

   途中まで来ているはずの世子に注進せよ」

と哀願した。

仏壇に飾るアリガトウを飾る  田口和代           

この戦いは最初から長州に勝ち目はなかった。

御所を守る会津、薩摩などの藩兵は数の上で勝っていただけでなく、

長州側には、「御所に向かって発砲する」 という

後ろめたさが付いて回ったからだ。

おまけにきちんと作戦計画を立てていたわけではなかったので、

戦いはわずか一日で決着が付いてしまう。

久坂は、「すべて俺が負うべき責め、お殿様にお詫びを、

    長州の…萩の皆にも俺は腹を切る」

「自分も」と言う入江の言葉を遮って玄瑞は、

「ここを抜け出して元徳の入京を止め、高杉を支えてくれ」

と後事を託したのち、

玄瑞は、胴巻きに入っていた軍資金を取り出して三宝に載せ、

鷹司の用人に、「些少なる、邸内を擾乱させた罪を謝したい」

と語りかけたという。 

この後、玄瑞と







寺島忠三郎
は鷹司邸内で刺し違え、自決。

玄瑞、25歳、忠三郎、22歳であった。

田舎芝居の赤城の山に月がない  奥山晴生        


   どんど焼き

敗れた長州勢は長州屋敷に火を放って逃走。
戦闘そのものは一日で終わったが市街はその後大火に見舞われた。

「結末」

来島又兵衛は、馬上で戦闘を指揮している最中に狙撃され戦死。

その他、真木和泉ら17人が敗走途中、山崎の天王山で自刃。

失地回復のための乾坤一擲の勝負が完全敗北に帰した結果、

長州藩は朝敵の汚名を着せられることになった。

尚、戦闘は一日で終わったものの、京都の町は、

21日まで火災に見舞われ、多くが灰燼に帰した。

さらに、今回の責めを負って久坂家は断絶。

よって養子縁組は取り消し、久米次郎は小田村に帰される。

藩主・毛利敬親と世継ぎ元徳の父子は、「朝敵」として処罰される。

鷹司家は長州藩と気脈を通じているとの嫌疑をかけられ、

輔煕は参朝を停止され謹慎処分となる。

雲間から一部始終を見てた月  藤井孝作

拍手[4回]

カベというカベに大判サロンパス  雨森茂喜



浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた「新撰組」は、
元治元年(1864)6月5日早朝、武田観柳斎らにより
桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。
土方歳三による激しい拷問で志士密会と大謀議を自白させられた。

同日夜半、池田屋にて会談中の尊王攘夷派志士たちを、
池田屋近辺を警邏していた新撰組の近藤勇、沖田総司、永倉新八
藤堂平助の4名が、古高自白の報を受け、池田屋に突入。
死闘は2時間にも及んだ、末、宮部鼎蔵、吉田稔麿、松田重助らが
闘死した。以下は、彼らの遺書となる和歌を掲げました。


        吉田稔麿遺品の財布
「吉田稔麿」

池田屋事件のとき、吉田稔麿は、24歳の若さであった。

稔麿の遺品となった紙入れには、次の言葉が書かれていたという。

「すぐれた才能の持ち主は当代を危うくし 

   巧妙な策略は多くの人々をもてあそぶ」

「反省は先にするべきものだ」と稔麿は、

常に自分を戒めていたにもかかわらずの池田屋事件であった。
 
「辞世の句」

「むすびてもまたむすびても黒髪の  みだれそめにし世をいかにせむ」

稔麿は、池田屋に赴く前に髪結いで髪を整えたという。

「よろづ代も流つきせぬ五十鈴川 きよけき水を汲みてとらまし」

とも詠んでいる。

去りぎわの言葉と広い肩幅と  嶋沢喜八郎


   宮部鼎蔵

「宮部鼎蔵」

嘉永3年の東北の旅先で吉田松陰に出会い、尊皇攘夷の考えが一致。

全国行脚へ攘夷論を説きながら、自藩にも尊皇攘夷を説得する。

しかし佐幕一辺倒の熊本藩は動くことはなかった。

それに嫌気をさした宮部は藩に見切りをつけ脱藩、

尊攘派志士たちと政治活動に奔走する。

そして、文久3年「8月の政変」で長州藩が京を追放され、

警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となると、

宮部は京都に潜伏したまま、尊攘活動を続ける。

そして宮部45歳のとき、池田屋事件に遭遇するのである。

あじさい闇どうにまならぬ事もある  山本昌乃

(宮部が松陰との東北の旅で辞世の句と決めて句を作った歌)

「宮部の殉難遺章」

陪臣執命奈無羞   
(陪臣(家来)命を執り羞(は)づるなきをいかんせん)
天日喪光沈北陬   
(天日、光を失ひ北陬(ほくすう:北国のかたすみ佐渡に沈む)
遺恨千年又何極   
(遺恨千年又何ぞ極まらん)
一刀不断賊人頭   
(一刀断たざりき賊人の頭(こうべ)

嘉永5年(1852)吉田松蔭21歳の時、2月27日~13日間

佐渡に渡り、宮部鼎蔵 と旅を共にしている。

そのときの松陰の日記に宮部憤慨するの一文がある。

「2月28日晴。小木を発す。・・・陵下に真輪寺あり。
   余乃ち宮部と迂回して陵に登る。
   拝哭(はいこく)して曰く、
  『万乗(天子)の尊きを以て、孤島の中に幸したまふ。
    何者の奸賊乃ち此れを為す。
    宮部覚えず悲憤して、扉に題して云はく と。
上記の詩がそれにあたる。

くちぴるは傷痕なぞりゆく朧  増田えんじぇる

「望月亀弥太」

望月は土佐勤皇党に所属し、池田屋遭遇の年に脱藩。

6月4日の新撰組の池田屋突入に際し、

白刃をかいくぐり、2階から飛び降りて脱出に成功する。

しかし執拗な幕府の警備兵の追撃に深手を負いながら、

長州藩邸門前に辿りつき、必死に助けを求めるも門扉は開かれず、

その場で自刃した。27歳の最後であった。

「あづさ弓八阪の岡にまどいして なほおもひ入るふるさとの空」

「待ち待ちし秋にあひけり大君の みために消えむ草のへのつゆ」

堤防とぶっかけ飯の狭間にて  井上一筒

「松田重助」

肥後の出身。宮部鼎蔵に師事し、嘉永6年、尊皇攘夷活動に参加。

「八月十八日の政変」後、公卿達(7卿)と共に京都を離れる。

再上洛して古高が営む京都・桝屋にしばらく逗留し、

同志らと再挙を謀っていたところを池田屋事件に遭遇、

新選組に捕縛される。

翌朝、脱走して河原町まで逃げたが、

見廻りの会津藩士らによって殺害される。

35歳死亡。辞世ではないが、次の歌が残る。

「山にのみすめる人にはかたらじな 青うな原のそらのけしきを」

「ひとすぢにおもひこめてし眞心は 神もたのまず人もたのまず」

リスト・カットの助走をつけて檻の中  高橋 蘭


  古高俊太郎

「古高俊太郎」

文久元年(1861)ころから古高俊太郎は、枡屋喜右衛門と名乗り、

京都・西木屋町四条で順調な商いをしていた。

ところが文久4年6月5日早朝、桝屋の番頭の密告を得た新選組は、

その屋敷を襲撃し、不審者として古高を逮捕する。

罪状は、

「風の強い日に京の町に火を放ち、その混乱に乗じて、

   公武合体派要人を暗殺。さらに孝明天皇を長州へとお連れする」 

というも謀反計画であった。

古高は壬生屯所に連行され、計画を吐かせる拷問が行われた。

率直に見届けようコオロギの臨終  山口ろっぱ

志士たちは、古高逮捕に色めき立った。

「京都放火計画」の露見を恐れてのことだ。

彼の逮捕を受けて在京の尊攘派志士たちが池田屋に集まった。

目的は古高の奪還である。

当時、長州藩の京都留守居役・乃美織江の手記に、

「壬生浪士屯所へ罷り越し一戦に及び候ても、

    俊太郎を取返し申すべし」


という志士の文言が記されている。

桂小五郎の覚書にも、

「此夜諸士ト会同シ 、古高ノ縛ラレテ新選組中ニ在ルヲ急襲シテ

    奪還セント欲スルノ議アリ」と記している。

長州の志士たちが「古高救出」を考えていたことは明らかである。

ところが、池田屋にてそんな計画をしているところへ、

新選組が先手の襲撃をかけてきたのである。「池田屋事件・真相」

ゆっくりと毒がまわってくるhなし話  くんじろう



「土方歳三の行った古高俊太郎への拷問」

「まず(古高の)足の甲から足の裏まで、五寸釘を打ち貫き、

   足首にロープを縛りつけて逆さ釣りにする。

   そして足裏に突き抜けた五寸釘に、百目蝋燭を立てて火を点ける。

   すると溶け落ちる熱い蝋燭が、釘を伝わって傷口を焼いてくる。

   それまで、頑として口を割らなかった古高は絶叫し、

   討議の内情を吐いた」 というのである。
            (永倉新八が<<新選組顛末記>>より)

手をあげて天誅殺を横断中  徳田ひろ子


拷問の後、古高が送られた六角獄舎

「古高俊太郎という人物」

古高俊太郎は、父・周蔵正明と父の同志・梅田雲浜の影響を受け、

自然と熱心な勤王志士となった。

30才の時、父が亡くなり、その後を継いで毘沙門堂の家士となり、

その人柄と優れた才能により、有栖川宮家の信頼を得、

また京都の勤王志士達にその盟主と仰がれ、

倒幕運動の中心となって、活動するようになる。

その後、古高は尊王倒幕で一致する長州藩と親交を持つようになる。

長州藩にとっても、勤王派の宮家や公家と繋がりを持つためには、

古高は貴重な同志なのだ。

有象でいもたこ 無象でリスペクト  田口和代

やがて幕府から古高は危険人物と見られるようになった時、

丹波の同志で豪農郷士の湯浅五郎兵衛のすすめで、

文久元年に諸藩御用達・枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。

こうして表面は商人、

裏は倒幕志士として活動をつづけるようになった。

また、志士として何時死ぬかもしれない我が身を考え、

妻を娶らないと決めていたので、

湯浅五郎兵衛の息子のを養子とし、

弟・正裕に託し、後顧の憂いのないようにした。

その後、六角獄舎に収容されたが、「禁門の変」の際に生じた

「どんどん焼け」で獄舎近辺まで延焼、

火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、

判決が出ていない状態のまま、他の囚人とともに斬首される。

享年36。
       こそ    く   
「大原を思ひ社やれ九ろ木う利 声もきこえぬ今朝の志ら雪」

(降る雪に閉ざされたのか、いつもの大原女の売り声がきこえない)

大丈夫みんな死ぬから大丈夫  蟹口和枝

拍手[5回]

生きたまま製氷室を出入りする  河村啓子

(各写真は拡大してご覧下さい)
  菊が浜土塁屏風

文久3年、馬関海峡における外国船からの報復事件をきっかけに、
萩の住民の間にも「自らの手で城下を守ろう」とする機運が高まり、
外国からの再襲撃に備えるた為、萩藩は日本海に面した菊ヶ浜に、
土塁の築造するよう領民たちに命じた。

武士たちの留守をあずかる老若男女たちは、身分や貧富を問わず、
奉仕作業し、この時ばかりは滅多に外に出ることのなかった武士の
妻や奥女中までが参加したという。

極まれば涙も出ないものと知る  岡本 恵

 (各写真は拡大してご覧下さい)

このときの作業唄として歌われたのが山口県の民謡「男なら」である。

【男なら】歌詞

男なら  お槍かついでぇ   お中間んとなって
ついてゆきたや下の関    お国の大事と聞くからは
女ながらも  武士の妻   まさかの時には しめだすき
神功皇后さんの 勇々しき姿が鏡じゃないかいな
オオシャリシャリ

 「(もしも私が)男だったなら、槍を担いで中間として下関について行き、
   外国との戦に参加をしたい。
   自分も女ではあるが、武士の妻であるから、

(敵の軍勢が萩に攻めてくるようなことがあったら)神功皇后のようにこの国を守る」
「オーシャーリシャーリ」とは(おっしゃるとおり)という意味

男なら三千世界の 烏を死なす   主と朝寝が してみたい
酔えば美人の ひざまくら   さめりゃ天下を 手で握り
咲かす長州 さくらの花    高杉晋作さんは 男の男よ
傑いじゃ ないかな        (オオシャリシャーリ)
どうせなら明るく楽しく生きましょうと意味をこめているのだろう。
 (3番の歌詞では、高杉晋作の作った都々逸をもじっている)

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子


            女台場

萩の菊ヶ浜沿いの海岸に女たちが中心になって築いた土塁
高さ3メートル、幅12メートルの土塁が50メートル
比較的よく旧態を保っている。


ワーグマン下関戦争の絵

「長州の危機」

文久3年(1863)5月10日、幕府やその他の藩が躊躇する中、

ひとり攘夷戦を決行した長州藩。

馬関(関門)海峡付近を航行する外国船への砲撃を行なった。

しかし、その結果はアメリカとフランスの軍艦に報復され、

貧弱だった長州海軍は壊滅、砲台も破壊された。

さらに外国からの攻撃をうけている際、長州藩内では一揆が勃発。

外国の軍隊に協力する領民まで現れる始末だった。

うかつにも直し忘れた未来地図  新川弘子             


馬関に錨を留める外国艦隊

その後、長州藩は8月18日の政変で京都を追われ、

さらに冤罪を晴らす目的で兵を御所に向けやが、

手痛い敗北を喫した。

それでも攘夷の姿勢を崩すことなく、

馬関海峡は修復された砲台により、閉鎖されたままであった。

この事態は日本との貿易を行なう諸外国にとって、

大いなる不都合を生じた。

この時期、アジアで最強の戦力を保持していたのは

イギリスだったが、対日貿易での利益は順調に上がっていたうえ、

海峡封鎖では、イギリス船が直接被害を受けていない。

そうしたことからイギリス本国は、

多額の戦費のかかる武力行使には消極的であった。

半熟のままで主張を持ち歩く  大嶋都嗣子


 受難続きのイギリス

一度目、日本初のイギリス公使館(高輪)が水戸藩浪士に襲撃され。
2度目はオルコックが帰国している間に、代理公使ジョン・ニール
の寝室に松本藩の浪士が侵入している。’写真左)
右・オルコック

しかし駐日公使のオールコックは、海峡が封鎖されていることで、

長崎での貿易が麻痺状態となっていることを問題視した。

加えて攘夷運動が全国的に波及することも危惧したのである。

実際、幕府が横浜港を閉鎖したい旨を持ち出している。

オールコックはこの際、

「西欧文明の実力を思い知らせ、攘夷などは不可能なことを

   日本人に痛感させる」 ことを思いついた。

この考えに実害を受けたフランス、オランダ、アメリカも同意し、

元治元年(1864)4月に四カ国連合艦隊による、

長州への武力行使が決定する。

タグ付けて越前蟹がやって来る  佐波正春

英国留学中であった伊藤俊輔井上聞多が6月10日に緊急帰国。

オールコックに面会し藩主の説得を約束した。

オールコックも承知し、2人を軍艦で豊後まで送る。

伊藤らは藩庁に到着し、藩主・毛利敬親や藩の重役たちに

戦いの無謀さを説いたが、説得することはできなかった。

竹の皮に包んでおく喧嘩状  井上一筒
  

  占拠された長州の砲台

長州藩は米仏艦による報復攻撃で破壊された砲台を修復し、
引き続き海峡封鎖を行なった。
しかし、17隻の艦隊と陸戦隊により占拠・破壊された。

7月27日から28日にかけて、

17隻からなる四カ国連合艦隊が横浜を出航。

総員は5000人という兵力を有していた。

8月4日になり艦隊接近を知った長州藩庁は、

ようやくことの重大さに慌てた。

というのも同じ頃、朝廷から勅命を受けた幕府は、

尾張、越前および西国諸藩を以って征長軍を編成していたからだ。

結局、8月5日の午後になり、

連合艦隊は前田から壇ノ浦にかけての砲台を粉砕。

さらに前田浜に陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠・破壊。

翌日は山縣狂介(有朋)が一時敵艦を砲撃して混乱させるが、

態勢を立て直されると陸戦隊が上陸。

下関市街へと向かい進軍を開始する。

8日には高杉晋作が家老の養子・宍戸刑部を名乗り、

講和の使者に立った。

幾層の闇 剥がしても剥がしても  赤松ますみ

拍手[4回]

氏素性たどれば おでんの厚揚げ  山口ろっぱ


            鍵曲 (萩の町造り)

鍵曲は、道を鍵の手にように曲げ、
左右を高い土塀で囲んで見通しを悪し、敵を迷わせ、
追いつめやすいように工夫して造られたものです。


「名前の話」

現代の日本社会において、人間は産声を上げて

この世に生まれる時から、他人と区別されるように名前が与えられ、

そして、成長するとその「名前」を以って社会に入り、

社会生活を営んでいくことになる。

しかし、いかに識別のためとはいえ、中世の時代においては、 

日本の個人名の種類は多く、幼名・実名・通称・字・別号・

法名・戒名と場面が変わるごとに変えている。

今時の寿限無寿限無を何と読む  藤本秋声

それを名前研究科に説明してもらうと、次のようになる。

「飛鳥から院政時代までの日本人の個人名の変遷を

   一言にまとめると、名前の種類とその役割分担が

   徐々に明確化してきた歴史である。

   個人の識別という名前の基本機能からすれば、

 一個人の名前の種類が多ければ多いほど、

 識別に支障をもたらすことになる。

 にもかかわらず、古代の日本人は、

 何種類もの個人名を同時に持つことに,喜びさえ覚えたのである」

歳月をコント仕立てにして暮れる  佐藤美はる



例えば、吉田松陰の場合、

幼時の名字は杉。幼名は寅之助。

吉田家に養子入り後、大次郎と改め。通称は寅次郎。
いみな のりかた
諱は矩方。字は義卿、号は松陰、戒名は、二十一回猛士となる。

一般的には 武士の名前は「姓・通称・諱」で構成される。

この本当の名前をといい普段使用する名前をという。

また元服により名前を変える前の名前は、幼名という。

幼名を使う理由は、時代的に兄弟の数が多い割りに元服するまで、

生きる子供が少なかったために、二郎や次郎などのように  

番号的な名前をつけ、元服を無事果たしてののち、

ちゃんとした名前を与えた。

番号で呼ばれる暗いところかあら  河村啓子

西郷隆盛の場合、

幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、

吉之助と順次変えた。
                                 なんしゅう
元服時には、隆永、のちに武雄、諱は隆盛。号は南洲。

尚、隆盛の名は、王政復古の章典で位階を授けられる際に、

親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、

それ以後は父の名と同じになった。

都合よく拾って脚色する耳だ  岩根彰子


  楫取素彦が寄進した井戸

「改名変名」

幕末の尊王攘夷派の武士は、幕府の追及を逃れるために、

多くの「変名」を名乗った。

楫取素彦は、松島家に生まれ、幼少の折は松島久米次郎

小田村家を継いで小田村伊之助となり次いで文助という名も持つ。

元治元年の禁門の変で、義弟の玄瑞は責を負い自刃したものの

変の主謀者のひとりとしてのレッテルを貼られ、

実兄の松島剛蔵は、洋学の第一人者として活躍していた罪で

処刑されている。この時、

これらの連座を心配した藩主の計らいで、素太郎と名乗っている。

また藩命で大宰府に赴いた時には、

塩間鉄造の名をつかっている。

将軍・徳川慶喜「大政奉還」を上申し、

さらに「王政復古」の大号令が出されて

世の中がさらに騒がしくなったころ、藩命により、

楫取素彦と改名している。(慶応3年〔1867〕9月24日)

とぼけたいシーンで使うホホホホホ 清水すみれ

木戸孝允は生家では、和田小五郎と言ったが、

家名存続のために桂家を継いで桂小五郎と名乗った。

元治元年の「池田屋事件」では運よく難を逃れ、

「禁門の変」で長州藩が敗退すると、但馬での潜伏後に帰藩。

対幕抗戦の藩論で活躍した。

また坂本龍馬の斡旋で小松帯刀、西郷隆盛らと「薩長同盟」を結ぶ。

(因みに、坂本龍馬と桂小五郎を引き合わせたのは、小田村伊之助で、
   そこから薩摩・西郷との
同盟につながっていことを忘れてはならない)

そして慶応元年、幕府の追及から逃れるために、

藩主・毛利敬親に願い出、「木戸姓」を許されて、

木戸準一郎を経て、木戸孝允と改名した。

男には黙って渡る橋がある  小林妻子


  井上 馨

井上馨は生家が井上家だが、一時、志道家の養子となって、

志道聞多と称した。

後、井上姓に戻り井上聞多となるが、幕府から逃れるために

春山花輔、高田春太郎、山田新助など多くの変名を用いた。
                    りょうてき
久坂玄瑞は、長州藩の医師・久坂良迪の二男として生まれ、

久坂秀三郎・誠・義質・義助へと名前を変えている。

文への手紙にも、京の危険な現状を伝え、変名を使用している。

因みに西郷隆盛変名は、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門

大島吉之助などを使っている。

「余談」

どうして天皇には、姓名がないのか?

大名から町人に至る民衆は、出自を明確にするため、

姓を名乗らされた。

一方、天皇は「出自」が明確な為に姓を持つ必要がなかったのである。
          おもうさま  おたあさま
家に帰れば御父様  御母様  田口和代

拍手[2回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開