カベというカベに大判サロンパス 雨森茂喜
浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた「新撰組」は、
元治元年(1864)6月5日早朝、武田観柳斎らにより
桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。
土方歳三による激しい拷問で志士密会と大謀議を自白させられた。
同日夜半、池田屋にて会談中の尊王攘夷派志士たちを、
池田屋近辺を警邏していた新撰組の近藤勇、沖田総司、永倉新八、
藤堂平助の4名が、古高自白の報を受け、池田屋に突入。
死闘は2時間にも及んだ、末、宮部鼎蔵、吉田稔麿、松田重助らが
闘死した。以下は、彼らの遺書となる和歌を掲げました。
吉田稔麿遺品の財布
「吉田稔麿」
池田屋事件のとき、
吉田稔麿は、24歳の若さであった。
稔麿の遺品となった紙入れには、次の言葉が書かれていたという。
「すぐれた才能の持ち主は当代を危うくし
巧妙な策略は多くの人々をもてあそぶ」
「反省は先にするべきものだ」と稔麿は、
常に自分を戒めていたにもかかわらずの池田屋事件であった。
「辞世の句」
「むすびてもまたむすびても黒髪の みだれそめにし世をいかにせむ」
稔麿は、池田屋に赴く前に髪結いで髪を整えたという。
「よろづ代も流つきせぬ五十鈴川 きよけき水を汲みてとらまし」
とも詠んでいる。
去りぎわの言葉と広い肩幅と 嶋沢喜八郎
宮部鼎蔵
「宮部鼎蔵」
嘉永3年の東北の旅先で
吉田松陰に出会い、尊皇攘夷の考えが一致。
全国行脚へ攘夷論を説きながら、自藩にも尊皇攘夷を説得する。
しかし佐幕一辺倒の熊本藩は動くことはなかった。
それに嫌気をさした宮部は藩に見切りをつけ脱藩、
尊攘派志士たちと政治活動に奔走する。
そして、文久3年
「8月の政変」で長州藩が京を追放され、
警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となると、
宮部は京都に潜伏したまま、尊攘活動を続ける。
そして宮部45歳のとき、池田屋事件に遭遇するのである。
あじさい闇どうにまならぬ事もある 山本昌乃
(宮部が松陰との東北の旅で辞世の句と決めて句を作った歌)
「宮部の殉難遺章」
陪臣執命奈無羞
(陪臣(家来)命を執り羞(は)づるなきをいかんせん)
天日喪光沈北陬
(天日、光を失ひ北陬(ほくすう:北国のかたすみ佐渡に沈む)
遺恨千年又何極
(遺恨千年又何ぞ極まらん)
一刀不断賊人頭
(一刀断たざりき賊人の頭(こうべ)
嘉永5年
(1852)吉田松蔭が21歳の時、2月27日~13日間
佐渡に渡り、
宮部鼎蔵 と旅を共にしている。
そのときの松陰の日記に宮部憤慨するの一文がある。
「2月28日晴。小木を発す。・・・陵下に真輪寺あり。
余乃ち宮部と迂回して陵に登る。
拝哭(はいこく)して曰く、
『万乗(天子)の尊きを以て、孤島の中に幸したまふ。
何者の奸賊乃ち此れを為す。
宮部覚えず悲憤して、扉に題して云はく』 と。
上記の詩がそれにあたる。
くちぴるは傷痕なぞりゆく朧 増田えんじぇる
「望月亀弥太」
望月は土佐勤皇党に所属し、池田屋遭遇の年に脱藩。
6月4日の新撰組の池田屋突入に際し、
白刃をかいくぐり、2階から飛び降りて脱出に成功する。
しかし執拗な幕府の警備兵の追撃に深手を負いながら、
長州藩邸門前に辿りつき、必死に助けを求めるも門扉は開かれず、
その場で自刃した。27歳の最後であった。
「あづさ弓八阪の岡にまどいして なほおもひ入るふるさとの空」
「待ち待ちし秋にあひけり大君の みために消えむ草のへのつゆ」
堤防とぶっかけ飯の狭間にて 井上一筒
「松田重助」
肥後の出身。
宮部鼎蔵に師事し、嘉永6年、尊皇攘夷活動に参加。
「八月十八日の政変」後、公卿達
(7卿)と共に京都を離れる。
再上洛して古高が営む京都・桝屋にしばらく逗留し、
同志らと再挙を謀っていたところを池田屋事件に遭遇、
新選組に捕縛される。
翌朝、脱走して河原町まで逃げたが、
見廻りの会津藩士らによって殺害される。
35歳死亡。辞世ではないが、次の歌が残る。
「山にのみすめる人にはかたらじな 青うな原のそらのけしきを」
「ひとすぢにおもひこめてし眞心は 神もたのまず人もたのまず」
リスト・カットの助走をつけて檻の中 高橋 蘭
古高俊太郎
「古高俊太郎」
文久元年
(1861)ころから
古高俊太郎は、
枡屋喜右衛門と名乗り、
京都・西木屋町四条で順調な商いをしていた。
ところが文久4年6月5日早朝、桝屋の番頭の密告を得た新選組は、
その屋敷を襲撃し、不審者として古高を逮捕する。
罪状は、
「風の強い日に京の町に火を放ち、その混乱に乗じて、
公武合体派要人を暗殺。さらに孝明天皇を長州へとお連れする」
というも謀反計画であった。
古高は壬生屯所に連行され、計画を吐かせる拷問が行われた。
率直に見届けようコオロギの臨終 山口ろっぱ
志士たちは、古高逮捕に色めき立った。
「京都放火計画」の露見を恐れてのことだ。
彼の逮捕を受けて在京の尊攘派志士たちが池田屋に集まった。
目的は古高の奪還である。
当時、長州藩の京都留守居役・
乃美織江の手記に、
「壬生浪士屯所へ罷り越し一戦に及び候ても、
俊太郎を取返し申すべし」
という志士の文言が記されている。
桂小五郎の覚書にも、
「此夜諸士ト会同シ 、古高ノ縛ラレテ新選組中ニ在ルヲ急襲シテ
奪還セント欲スルノ議アリ」と記している。
長州の志士たちが
「古高救出」を考えていたことは明らかである。
ところが、池田屋にてそんな計画をしているところへ、
新選組が先手の襲撃をかけてきたのである。
「池田屋事件・真相」
ゆっくりと毒がまわってくるhなし話 くんじろう
「土方歳三の行った古高俊太郎への拷問」
「まず(古高の)足の甲から足の裏まで、五寸釘を打ち貫き、
足首にロープを縛りつけて逆さ釣りにする。
そして足裏に突き抜けた五寸釘に、百目蝋燭を立てて火を点ける。
すると溶け落ちる熱い蝋燭が、釘を伝わって傷口を焼いてくる。
それまで、頑として口を割らなかった古高は絶叫し、
討議の内情を吐いた」 というのである。
(永倉新八が<<新選組顛末記>>より)
手をあげて天誅殺を横断中 徳田ひろ子
拷問の後、古高が送られた六角獄舎
「古高俊太郎という人物」
古高俊太郎は、父・
周蔵正明と父の同志・
梅田雲浜の影響を受け、
自然と熱心な勤王志士となった。
30才の時、父が亡くなり、その後を継いで毘沙門堂の家士となり、
その人柄と優れた才能により、
有栖川宮家の信頼を得、
また京都の勤王志士達にその盟主と仰がれ、
倒幕運動の中心となって、活動するようになる。
その後、古高は尊王倒幕で一致する長州藩と親交を持つようになる。
長州藩にとっても、勤王派の宮家や公家と繋がりを持つためには、
古高は貴重な同志なのだ。
有象でいもたこ 無象でリスペクト 田口和代
やがて幕府から古高は危険人物と見られるようになった時、
丹波の同志で豪農郷士の
湯浅五郎兵衛のすすめで、
文久元年に諸藩御用達・枡屋を継ぎ、
枡屋喜右衛門を名乗る。
こうして表面は商人、
裏は倒幕志士として活動をつづけるようになった。
また、志士として何時死ぬかもしれない我が身を考え、
妻を娶らないと決めていたので、
湯浅五郎兵衛の息子の
章を養子とし、
弟・
正裕に託し、後顧の憂いのないようにした。
その後、六角獄舎に収容されたが、
「禁門の変」の際に生じた
「どんどん焼け」で獄舎近辺まで延焼、
火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、
判決が出ていない状態のまま、他の囚人とともに斬首される。
享年36。
こそ く り
「大原を思ひ社やれ九ろ木う利 声もきこえぬ今朝の志ら雪」
(降る雪に閉ざされたのか、いつもの大原女の売り声がきこえない)
大丈夫みんな死ぬから大丈夫 蟹口和枝[5回]