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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


貞宮養育時代、青山離宮の貞宮御殿の庭で撮られた集合写真

前列中央が楫取素彦、その右が美和、左は嫡子希家夫人の多賀子

「楫取素彦・美和-最終章」

明冶16年(1883)美和と再婚をした年、楫取素彦は辞職願を出す。

肉体的、精神的に地方の長としての仕事に耐えられないというのが、

理由だったが、引き際を考えてのことだったのだろう。

しかし、任期が12年と決まっていた事もあり、

辞任願いは受理されず、翌年までの延長ののち、

元老院議員として栄転することになる。

楫取の辞任に対し、前橋市民は反対運動を起こしているが、

辞任にあたって、市民から、楫取は風俗も人情も違う地域で、

産業や教育の振興に尽くしたことに対する送別の辞を受け取り、

上京する時には、数千人の人々に見送られている。

同時多発的イオンを全身に  雨森茂喜


 前群馬県令楫取君徳碑

楫取の群馬における於ける業績を評価し、明冶23年に立てられた。
楫取が群馬県民にどれだけ愛されていたかを証明している。

さて楫取が議員として栄転した元老院は、

明冶8年(1875)に設立され、明冶23年帝国議会が開かれるまで、

立法機関として機能していたもの。

とはいえ、議員資格はそれまで功労があった人に与えられる

という側面があり、いってみれば、名誉職のようなもので、

17年間の県令職の苦労を癒してくれるものとして、

楫取にとっては、悠々とした余生が与えられたということになる。

そして、明冶17年、「華族令」が発令されると、

維新に功績があった人々が、新しい華族として誕生する。

山口県出身では、この年に10人が爵位を受け、

楫取が男爵の爵位を得たのは、明冶20年のことであった。

緞帳がまだ喝采を浴びている  黒田忠昭

爵位を受けたのは合計21人、このうち物故者(無くなった人)の二代目や

武官としての功績者を除くと14人となる。

つまり楫取は、維新の功績者ベスト14に選ばれたことになる。

しかし、楫取にしてみれば、

自分は多くの志士の死を乗り越えてきた にも関わらず、

年少の人間よりも低い爵位であることに少々不満もあったようだ。

「自分の維新以前の勤めは、杉民冶や山県有朋より、下ではなく、

   かえってその上であると世間では言っているのに、

   私はいつも一段低い扱いを受けてきた習慣が尾を引いて、

   二家よりも、一段下にされてしまった」

という文章が残っている。

ときどきは愚痴の断捨離しておこう  青砥たかこ



しかし、この文章に書かれたことは楫取の本意ではない。

松陰久坂や志半ばで死んでいった仲間たちのことを思うとき、

生きてこの立場にいれることを真摯に感謝するのが、

楫取という人である。

現に、晩年子爵へと内意があったときに、

「畏れ多いこと」と辞退している。

こうして美和は、晴れて男爵夫人となった。

長州藩出身 主だった家の爵位
公爵・・・毛利元徳・元昭(毛利家)
侯爵・・・木戸孝允(木戸家)
伯爵・・・伊藤博文、山県有朋、井上馨、山田顕義、広沢真臣(広沢家)
     (伊藤博文、山県有朋はのちに公爵、井上馨は侯爵)
子爵・・・品川弥二郎
男爵・・・楫取素彦
この他にも長州藩からは多くの人が爵位を授与されている。

ダンボール10個分ほど幸せが  田口和代

明冶26年、楫取は山口県に帰る決意をし、防府に居を定め、

そこで生涯を過ごした。

ここには主筋毛利邸もあり、

「山口県において、健康にいい土地で

   海路も陸路も便利なところを選ぶべきだ」

というのが、その理由だったので、楫取もそれに倣った。

貴族院議員として、議会に出席するための利便性をも考えた。

こうして、東京と防府を往復する生活をしていた楫取だったが、

明冶30年、重要な任務を担うことになる。

明治天皇の第14皇女・貞宮多喜子内親王の養育係主任をやってくれ

と命じられたのである。

自転車に乗ってきたのは赤いもみじ  北原照子

養育係主任になるということは、美和もお付きの女官になること、

夫婦で出仕することになる。

当時の写真(冒頭の集合写真)を見ると、楫取長男(元篤太郎)の妻・多賀子や、

次男・道明の妻・美須もと一族を挙げて出仕している。

こうして、防府から東京の青山離宮・貞宮御殿での

生活を送ることになる。

無印の首を揃えてイエノオト聴く  山口ろっぱ

宮中関係の仕事は忙しく、70歳の楫取にとっては激務だった。

「夜間十八、九時ごろ過ぎに官舎に帰ることはできません。

   そのため、寝につく頃は非情に疲れており、翌日は半日ぐらい

   膝や腰がずきずき痛みました」 

と弱音を吐いている。

その一方で、

「宮様に仕えているおかげで、具合が悪いときは、

   すぐに医者に診てもらえるのでありがたい」

などと役得もあることを感謝している。

自由になった不自由にもなった  谷口 義


   毛利元昭      毛利元徳

ところが、貞宮は明冶32年、この前年に体調を悪くし、

神奈川県足柄群で静養中、脳膜炎を発症し、

わずか1歳4ヶ月で亡くなってしまう。

楫取は貞宮の葬祭の喪主の務めを最後に、美和とともに防府に帰る。

それからの防府での生活は、議員の仕事をこなすかたわら、

別荘も建て悠々自適で、海水浴も楽しんだと記述もあり、

旧藩主とも交流をしていたようだ。

「昨日は迫戸別荘へ元昭公をお招きいたし昼食をさしあげました」

元昭公には、かって守役として勤めたこともあって、

懐かしい想いが胸中を流れたことだろう。

残された時間ゆらりと寛ごう  新家完司


楫取素彦と美和子の銅像(防府天満宮

明冶32年、古希の祝いに御紋付き盃と酒肴料を宮中から賜った

楫取は80歳になった時、再び御紋付き盃と酒肴料を賜っている。

このとき、楫取は歌を詠んでいる。

いたつらにやそちのとしをかさねけり 世にいちしるきいきをなくして

(意味もなく無駄に80歳の年を重ねてしまった。

   世の中にきわだった手柄もないのに)

明冶43年、病気勝ちの身に宮中で杖をつくことを許され。

明冶44年、貴族院議員を退任。

明冶45年6月、両陛下からお菓子を下賜される。

(この年の7月30日、明治天皇崩御、大正に改元)

天皇崩御の半月後の大正元年8月14日、楫取は生涯の幕を閉じる。

死後、正二位の称号を得、皇太后や皇后からは、祭祀料を賜り、

葬儀には、勅使として山口県知事が参列、白絹二匹が届けられた。

美和は、それから9年後の大正10年9月7日、

80歳の天寿を全うした。

墓は防府の大楽寺にあり、夫婦で並んで眠っている。

入口も出口も石が置いてある  森田律子

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うす切りパンへ厚切りハム挟む  山本昌乃


     完成直後の鹿鳴館

当時は「外国人接待所」という名称で、約3年の工期と18万円という
当時としては、莫大な建設費をかけてつくられた。


「於鹿鳴館貴婦人慈善会の図」(橋本周延画)

鹿鳴館では貴婦人たちの主催による慈善バザーも行なわれた。
陸奥亮子も夫に事後承諾でバザーに参加したという。


「鹿鳴館の女たち②」

(写真は拡大してご覧ください)


「井上武子」 嘉永3年(1850)大正9年(1920)

明治の初期、外務・大蔵次官の大隈重信は、

築地本願寺に5千坪の高大な屋敷を構えていた。

「築地梁山泊」と呼ばれたこの屋敷には、彼を慕う者たち―

伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、山県有朋など、

のちの要人たちが集い、政治論議に花を咲かせていた。

薩摩出身の個性派、中井弘(桜洲)もその中の一人。

しかも彼は、柳橋の芸妓だった「武子」にひとめ惚れして

強引に結婚し、この大隈邸に預けていた。

だが、若き男たちの溜まり場で、

美貌の武子が目をつけられないはずがない。

放浪癖のある中井の留守中、井上馨が武子に夢中になり、

彼女を奪ってしまったのだ。

膝下は少しお安くなってます  山本早苗

その後、中井が帰国。

妻が寝取られたことを知り、あっさりと引き下がった。

井上に「武子と添い遂げる」と誓約書を書かせ、

二人はめでたく結婚する。

男の友情はあついのか、井上と中井はその後も友人関係が続き、

中井は武子のいる井上邸に出入りしていたというから、

何とも不思議な関係である。

そのへんのことはゆっくり聞きましょう 竹内ゆみこ



誓約書通り、井上は武子を大事にした。

ヨーロッパ視察旅行にも同行。

2年間のヨーロッパ生活で、

武子は語学やスマートな社交術を身につけた。

またミシンや編み物、料理なども積極的に学んで、

家庭的な面も見せている。

帰国後、井上は外国からの賓客を招く、接待所が必要と

「鹿鳴館」設立に奔走する。

明冶16年(1883)11月、総工費18万円、3年の歳月をかけて、

建築家コンドルが設計した白い洋館「鹿鳴館」が完成。

開館すると武子は夫に尽力し、堂々と優美に接待役をこなした。

黙ってると深い人とかいわれてる  石橋能里子

奇しくも、この鹿鳴館の名付け親は、中井であった。

これは「詩経」小雅鹿鳴の詩から引用。

鹿は餌を見つけると一匹では食べず、

仲間を呼んでみなで楽しみながら食べるという意味の、

社交場にふさわしい名称である。

博学な中井ならではの優雅な命名だ。

才能ある2人の男に愛された武子という女は、

きっと、底知れぬ魅力を秘めた女性だったのだろう。

マネキンに舐められぬよう背を伸ばす 美馬りゅうこ



(中央)陸奥宗光(左)亮子(右)長男の広吉

「陸奥亮子」 安政3年(1856)~明冶33年(1900)

亮子の憂いを含んだ横顔の写真は、つとに有名だ。

鹿鳴館の貴婦人のなかでもナンバーワンの呼び声が高いが、

自由奔放な夫の生き様に翻弄され、

彼女の人生は辛苦が絶えなかった。

明冶政府の高官が薩長連合で占められているなか、

紀州出身の陸奥宗光は藩閥のバックもなく、孤軍奮闘していた。

才気煥発がゆえに、身の不遇にもがき苦しみ、

私生活では、妻を病で失うという不幸に見舞われた。

そんな時、可憐な新橋芸妓の亮子に惚れこんだ。

芸妓でありながら、亮子は身持ちが固いといわれたが、

なぜか陸奥に心を惹かれた。

明冶6年17歳で一回り年上の陸奥と結婚。

翌年には長女が生まれ、先妻が残した2人の子どもと合わせて、

3人の母親となる。

愛されてきんらんどんす欲しかろう  森中惠美子

5年後、宗光は反政府運動に加担した罪で禁錮5年の刑を受け、

山県監獄に投獄されてしまう。

亮子は姑とともに、陸奥家の主婦としてけなげに留守宅を預かった。

ところが宗光は出獄するとすぐに、単身ヨーロッパに留学。

妻の心労をよそに、なんと身勝手な夫といおうか。

筆まめの陸奥は獄中時代から亮子に書き続け、妻の行状を指示。

亮子はそれに従った。

唯一、事後承諾となったのが、鹿鳴館での慈善バザーへの参加だった。

宗光が外遊中の明冶17年、尻込みする亮子を、

総理大臣夫人・伊藤梅子が後押しをして出席させたのだ。

政府高官夫人がズラリと居並ぶなか、

亮子は初めてきらびやかな世界に足を踏み入れた。

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子



その後、政界復帰を果たした夫とともに、

亮子も社交界にデビューする。

その抜群の美貌から「鹿鳴館の華」とうたわれた。

また夫が駐米大使となって渡米すると、クリーブランド大統領夫妻に

謁見するなどワイントン社交界でも、華やかな存在となる。

33歳、女盛りの亮子にとって、

人生でもっとも輝かしい時期ではなかったか。

美しい横顔の写真も、ワシントン時代に撮影されたものである。

可笑しくて笑う 嬉しくてまた笑う  佐藤美はる           


伊藤博文家の集合写真 (前列左3番目が梅子)

「伊藤梅子」 嘉永元年(1848)~大正13年(1924)

「好色宰相」の異名をとった伊藤博文だが、

梅子は夫の乱行ぶりに目をつぶりプライド高く気丈に生き抜いた。

梅子自身、下関の売れっ子芸妓「小梅」時代に伊藤と知り合い妊娠。

伊藤を離縁させ、再婚させた。

できちゃった婚、略奪婚の走りだが、そんないきさつもあってか、

梅子は夫の女遊びには目をつぶり、超然と構えていた。

自宅に遊びにきた芸妓たちに、帰りには必ず土産物を持たせたり、

朝まで過ごしていった女には、

翌朝、化粧や身の回りの世話までしてやるなど

大人の対応を示し、遊び女たちに畏れを抱かせた。

芸妓遊びがこうじて、伊藤の邸宅は借金のかたになっていたという。

しかし、「女にだらしなくても、金銭には執着せずきれいだった」

のが誇りだった。

  博文の最初の妻はすみ子、松下村塾の仲間・野村靖の妹である。
     結婚したものの、博文はイギリス留学もあり、帰国後も
     ほとんど家によりつかず、他の女性との放蕩三昧だったという。

忘れられやさしい色になってゆく  田村ひろ子



鹿鳴館の最初の夜会は、明治16年11月18日に行われた。

このとき、踊ることができる女性はごくわずかだった。

梅子もまだ踊れなかった。

翌17年から毎日曜日に行われることになった「舞踏練習会」では、

梅子が積極的な役割を果たした。

尻込みする高官夫人を70名も引っ張りだしたのは、

梅子の説得によるものであった。

彼女は誰よりも粋に着こなせる着物を脱いで、

率先して馴れない洋装をまとった。

伊藤の政策にそれが必要ならば、なんでもやった。

明冶42年伊藤がハルピンで暗殺の一報を受け取ると、

梅子は動揺することなく、涙もみせなかった。

そして、

国のため光をそえてゆきましし 君とし思えどかなしかりけり

と、その辛い胸中を歌に託した。

浮くことに疲れた雲が雨になる  橋倉久美子



「渋沢兼子」 嘉永5年(1852)~昭和9年(1934)

兼子の父・伊藤八兵衛は深川油堀の「伊勢八」と呼ばれる幕末の豪商。

水戸藩の金子御用達や、米やドル相場など博打的な投資で儲け、

江戸一番の大富豪とうたわれた。

だが、明治に入って没落。

ついに破産し、12人の子どもたちも路頭に迷ってしまう。

18歳で婿を迎えていた兼子だが、金の切れ目は縁の切れ目とばかり、

無常な婿はさっさと実家に帰ってしまった。

自ら芸妓になりたいと言って兼子が働き口を探していると、

芸妓ではなく、妾の口があると紹介された。

その相手が渋沢栄一であった。

流木のすこし乾いて閑かなり  下谷憲子 



前妻・千代をコレラで亡くした渋沢は43歳。

次女と長男はまだ幼く、女手が必要だった。

だが、恩師の娘で糟糠の妻だった亡き千代を思うと、

再婚にはなかなか踏み切れない。

しかし兼子と接するうちに彼女を気に入り、

後妻として迎えることにした。

偶然にも渋沢家屋敷は、羽振りのよかった頃の実家、

油堀の屋敷の近くであった。

幕末の豪商の娘から、新時代の実業家の妻となった兼子は、

博打的な強運の持ち主だった。

そこから兼子は実業家の夫を支える一方、

鹿鳴館の慈善会などを推進し、社会慈善事業にも熱心に取り組んだ。

どの年齢のきみに会っても恋をした  山口亜都子 

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揺れる灯は終着駅か狐火か  新家完司                    

       
      涙袖帖     久坂が文(美和)に出した手紙                                  
「再婚」

明治14年1月30日の朝、

中風、今で言う脳血管障害に胸膜炎を併発して、

楫取の妻・寿は帰らぬ人となりました。

その死に様は、口を漱いで清め、髪に櫛を入れて整えて、

居合わせた親族や親しい人、看護してくださった肉親に、

それぞれ厚く礼を述べて、傍らの人に助けられて、

起き上がって、座って、合掌して、声を出して念仏を唱えながら、

往生を遂げた、といいます。 

凛としたという表現を超えた人の最期だったと聞きます。
                       (楫取子孫の談より)
泣くよりもはしゃいで見せるのが哀し  竹内いそこ

楫取素彦寿が前橋に住むようになってからは、

美和は寿の看病や公務で忙しい楫取家の家政のために、

たびたび滞在していた。

素彦が亡き妻と自分を支えてくれた美和に、

「側にいて欲しい」

と願うようになったのは、いつごろからだろうか。

素彦からの求婚に美和は迷う。

「女は夫に生涯貞節をもって仕えなければならない」とした

兄・松陰の言葉と亡夫・玄瑞の面影が幾度となく甦ったはずである。

まなうらに揺れる生家の秋桜  徳山泰子

 
  美和の母・瀧

そんな美和の背中を押したのは、母のであった。

美和は「貞女二夫にまみえず」と松陰の言葉を守り、断りつづけた。

だが母は、一生懸命に説いた。

「再婚は亡くなった夫の久坂や兄の松陰、姉の寿の願いであろう」

と、それから暫くして、美和からの素彦への返事は、

「玄瑞との思い出の手紙を持参して嫁ぐことを許してくれるならば」

であった。

美和には老いた母を安心させたい気持ちもあったのだろう。

寿の死から2年余り後の明治16年、2人は再婚した。

素彦55歳、美和41歳。

切ないを方程式で解いてみる  佐藤美はる

 
  楫取素彦と美和


楫取は寿を偲んで菩提を篤く弔い、

また美和も、ずっと玄瑞からの手紙を大事にしていた。

亡くした連れ合いを思う相手の気持ちを、

お互いが理解しての再婚であった。

楫取は美和が大切にする玄瑞からの手紙21通を家の宝とし、

巻物にして『涙袖帖』と名付け、子々孫々に伝えることにした。

夫婦仲は睦まじく、明治30年には夫婦ともに

明治天皇の第10女・貞宮の養育に携わったこともあった。

晩年は小田村氏ゆかりの三田尻(防府)で穏やかに暮らし、

大正の世を迎えている。

掴めそうで掴めない君とジュンサイ  田口和代

 
    東京日本橋

話は変わります。

「楫取が歴史上の人物になれなかった理由」

山口県に行ったら今でも、「松陰先生」と呼ばねば、

叱られてしまうほど、吉田松陰は県民に崇敬されている。

「明治維新」という、日本革命の原点だからなのだろう。

また久坂玄瑞高杉晋作木戸孝允も同じように慕われ知名度が高い。

それに対して、早世した彼らのあとを継いだ楫取素彦は、

今回のドラマを見るまで、ほとんど知る人のない存在であった。

しかし、数々の楫取の果たしてきた業績を振り返り、

玄瑞や晋作や木戸らと比較しても、

何の遜色のない実績を残している楫取である。

にも関わらず、歴史の隅に埋もれてしまったのは、何故なのだろう。

ままならぬ世に栗の毬持ち歩く  佐藤正昭 

それは、おそらく、戦後の歴史家たちが、階級闘争史観で

日本史を描いてきたことに起因する。

彼らに言わせれば明治の日本は天皇絶対主義政権で、

封建制を半分のこしたままの社会であった。

つまり、階級闘争を経ないまま、不十分な革命であり、

暗黒の「明治憲法下の国家体制」だったと、

マルクスの唯物論的歴史学をもって分析した結果である。

『歴史は概して、力のある少数者が動かしてきた。

   戦争とか平和とか、人類に大きな影響を及ぼす事件は、

   最終的には、少数の関係者の決定や不決定で起こることが多い』
                                                                                          (マルクス)

大局的に「明治維新」であり「明冶新政府」なのであり、

「中央」なのである。

そして、それを決定づけた「主役は、誰か」なのである。

戒律の深さへ人間が沈む  平山繁夫

 
   板垣退助遭難の図

板垣退助は、遊説中に刺客に襲われたとき、

「板垣死すとも自由は死せず」と名言を吐いたが、
単に負傷しただけで命に別状はなかった。

例えば、ラストサムライが消えた西南戦争の歴史を描くに当って、

言論による「自由民権運動」を高く評価するように……。

楫取の活躍は、闇に葬られたのである。

何故ならば、県令として赴任した楫取は、職務上、

自由民権運動の抑圧者という立場に立つことになった。

楫取自身も、群馬県令当時起きた「群馬事件」で、

自由党と対立している。

こういう流れの中で、

群馬県を「養蚕県」にしたとか、「教育県」にしたとか、

という功績があっても、埋没してしまったのである。

とくに、当時の群馬県は、

政府の言うことを聞かず、知育・徳育の普及も十分ではなく、

風紀上の問題もある「難治県」といわれていたことは、

以前に述べたた通りである。

混沌の世界ひじきのもどし汁  藤本鈴菜

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帽子屋で丸い頭を買ってきた  月波与生

  
「赤門白粉」・「二八水」広告に使用された萬龍の肖像写真

長瀬商店の化粧水「二八水」、無鉛白粉「赤門白粉」の広告として、
「赤門白粉にて化粧せし美容」「二八水を愛用せらるる美人」
  キャッチコピーとともに誌面を飾った。

  
「クラブ洗粉」の広告の萬龍

「クラブ洗粉」は大阪の化粧品会社、中山太陽堂(現在のクラブコスメチック)
   の大ヒット商品で、現在も販売が続けられている。


「明治女性のファッションー①」

江戸時代の古い文化や習慣を一新し、

近代化を果たすために明治新政府が進めた「文明開化」

人々の生活や街並みの中に、

徐々に西洋文化が取り入れられていった。

庶民の西洋化は外見や服装にも表れ、

男性は髷をおろして「ざんぎり頭」となり、

洋装の制服などが広まっていく。

しかし女性はと言うと、

着物に日本髪という江戸時代の姿のままだった。

洋装は高価なうえ、それを着るような機会がなかったのだ。

黄色づくイチョウに呼吸法を聞く  佐藤正昭

  
  山階宮常子の洋装

パフスリープの昼間用アールヌーヴォードレスに手袋、扇を持つ、
中礼服のローブデコルテ。

そんな中、当時の外務大臣であった井上馨は明治16年(1883)

西欧諸国の貴賓との交流の場として洋風レンガ造りの鹿鳴館を建設。

夜ごと、舞踏会や音楽会が繰り広げられた。

鹿鳴館の夜会は西洋にならい夫婦で招待され、

洋装が必須だったことから女性のファッションが着目され始め、

鹿鳴館のスタイルのドレスが誕生した。
                    かなえ        えいさく
この鹿鳴館時代、軍医の渡辺鼎と記者の石川暎作が、

「婦人束髪会」(明治18年)を発足させ、

日本髪は不経済、不衛生、不便、として西洋風の束髪を推奨した。

今までの履歴はみじん切りにする   高島啓子

  
    芸妓の洋装姿

芸妓の絵葉書はプロマイドのような存在で飛ぶように売れ全国に流行。
アールヌーヴォードレス・真珠や鎖のネックレス、
大きな飾り帽子で着飾る。


明治19年、皇后が洋装を取り入れたことで

女性の宮廷礼服にローブなどの洋装を採用、

それに準ずるものとして、ビジティングドレス(和服でいう訪問着)が、

皇室や華族に用いられるようになる。

上流階級にとっては、社交術の一環でもあった。

同年、東京女子師範学校が制服に洋装を採用した。

その後、欧化政策の失敗、日清戦争ころの国粋主義の台頭で、

「洋服廃止論」などが唱えられ、一時、和装へと戻った。

とは言っても、洋装するのは上流階級や美を磨く芸妓が中心であった。

こうした流れのなかで庶民にも洋装が少しずつ取り入れられるが、

ドレス類はほぼ輸入品であり、

上流階級にとっても高級品だったようだ。

俯瞰図であなた追っている頭  杉浦多津子

  
『俳優楽屋の俤ー中村福助』(明冶21年、豊原国周画)

福助は当時人気絶頂の女形。
天覧歌舞伎には各国高官を招き伝統芸を披露する意図や、
鹿鳴館時代の欧化政策批判に対抗する意図もあったという。
当日の出し物は「勧進帳」などであった。


女性の洋装化を語る上で美容業界の発展も見逃せない。

明治20年、井上馨外務大臣宅で「天覧歌舞伎」が催された。

その際、義経役の中村福助の足が極度に震え、

鉛白粉の毒が影響しているといわれた。

これを受けて、各化粧品会社が無鉛白粉の開発に乗り出す。

そして、明治33年ころ、無鉛白粉は長谷部仲彦によって開発され、

明治37年、無鉛の御園白粉が伊藤胡蝶園から本格的に売出された。

しかし、それでも、のり、のび、付きの三拍子揃った鉛白粉を

使用するものは後を絶たず、

昭和8年に完全に製造販売が禁止されるまで愛用された。

晴れおんなモードに髪を染めてます  美馬りゅうこ

  
「マダム・サダヤッコ」と呼ばれた川上貞奴(フランスの雑誌・「フェミナ」より)

1900年のパリ万博ほか多数の公演で大評判となった貞奴は、
多くの欧米の雑誌に取り上げられた。

白粉は当然のように白色が使われていたが、

同じ頃から白以外の色白粉が話題となった。

女優の河上貞奴『西洋化粧談』などで、海外公演の体験を踏まえて、

西洋化粧のよい点として、肌に合った色の白粉を紹介している。

こうした影響もあって肉色、黄色、肌色白粉が国産されはじめた。

これを契機として日本女性は、

「白い白粉でなくてもよいのだ、肌色に近い白粉を塗ってよいのだ」

という意識を持つようになった。

「白粉は白」という固定観念から解放されるまで、

自分の肌色を自覚するまで、

文明開化から約40年の月日を要している。

貞明皇后のこれがつけ黒子  井上一筒

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一筆箋添えて今日の蟠り  北原照子



「富岡製糸工場閉鎖の危機を救った楫取素彦」
明治3年、政府は外貨を獲得するため主要な輸出品目を定めた。
その中でも重要視したのが生糸であった。
政府は洋式器械製糸法の導入と、大規模な官営工場の建設に踏み切った。
これが今や世界遺産の富岡製糸工場である。

だが経営はうまく行かず
明治13年に早くも払い下げの対象となる。
そして「請願人がいなければ閉鎖」という方針が打ち出された。
しかし手を挙げる企業は無く、閉鎖が決定する。
だが群馬県令だった楫取素彦が、
「政府が富岡製糸場を廃止すれば世界各国からあざけられるだろう」
と、製糸場
存続の「請願書」を政府に提出。
これが認められ、存続したのである。

右肩にブレぬ私を乗せておく  徳山泰子

  
「日本の近代化に大きく寄与した富岡製糸場」
かつて工女たちが300人並び、一斉に作業をしていたという。

「富岡製糸場・女工の日記」

富岡製糸場が操業を開始したのは明治5年(1872)。

富岡製糸場はフランス人技師・ポール・ブリュナの設計・指導のもと

近代化が悲願だった日本が国の威信をかけて建設した

最先端の国営の近代製糸工場である。

横浜のフランス商館勤務だったブリュナは武州、上州、信州で

実地調査を行い、養蚕が盛んで、水や石炭が確保できる現在の

群馬県富岡市を建設地に選び設計した。

物差しのしあわせ 風を測るとき  清水すみれ


   新工場操業時風景

フランス式の労働環境を取り入れた富岡製糸場は、

女性が働く環境としてとても先進的であった。

製糸場は少なくとも民営化される前までは、

職場として最良の労働環境が保たれていた。

労働時間は一日8時間未満、日曜日は休みで、

夏休み冬休みも10日ずつ、給料も実力次第で恵まれていた。

当時の女工たちが目指したのは「一等工女」で、

給与も服装も特別待遇で、浮世絵に描かれるほどの憧れの存在であった。

きな臭い風が北から南から  合田瑠美子

ところが。当初は、富岡製糸場も「西洋人に生き血を吸われる」

と、恐れられ、募集しても女工が集まらなかったという。

技術指導の為に来ていたフランス人技師が飲んでいた赤ワインを、

「生き血」と見間違えたという、嘘のような真の噂が流れたためである。
             おだか
やがて初代工場長・尾高ゆう(14歳)が第一号の工女として働き始めると

生き血の噂は消え、廃藩置県で地位を失った旧士族の娘たちや

戸長の娘などをはじめとして、農工商の身分に関係なく、

全国から多くの十代の若い少女たちが集まり始める。

完成後は全国から約400人の女性工員が集まり、

いわゆる「富岡乙女」と呼ばれる優秀な娘さんたちが、ここで働いた。
                               よこた・えい
明治6年(1843)、長野県からやってきた女工・横田英(15歳)が、

「富岡手記」に当時の生活を克明に綴っている。

馬車になったのはエエとこの南瓜  杉浦多津子


   横田 英

日記「出立」

私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして横田数馬と申しました。

明治6年頃は、松代の 区長を致して居りました。

それで信州新聞にも出て居りました通り、

信州は養蚕が最も盛んな国 であるから、

「一区に付き何人(たしか1区に付き16人)13歳より25歳までの女子を

   富岡 製糸場へ出すべし」

と申す県庁からの達しがありましたが、

人身御供にでも上るように思いまして一人も応じる人はありません。

父も心配致しまして、段々人民にすすめますが何の効もありません。

やはり血をとられるの油を搾られるのと大評判になりまして、中には、

「区長の所に丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」

と申すようになりました。

娘とはいえままならぬ周波数  下谷憲子

それで父も決心致 しまして、私を出すことに致しました。

さてこのようになりますと,

可笑しいもので良いことばかり私の耳に入ります。

あちらへ行 けば学問も出来る、機場があって織物も習われると、

それはそれはよいこと尽し、

私は一人喜び 勇んで日々用意を致して居りますと、

さあこのようになりますと不思議なもので、

私の親類の人、または友達、
それを聞伝えて、

我 も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。


後から追々願書が出ましたが、満員で下げられ ました。

(いよいよ)明治6年2月26日、一行16名、

松代町を出立することになりまして、父兄も付添として参りました。

旅費は富岡で渡りましたように覚えます。

付添の人々は皆自費であります。

煮詰まった話へ蓋をとる役目  山本早苗

 
  岡谷工場内の選繭作業の様子

日記「富岡到着」

七十五間、二階建て、煉瓦造りの西側の繭置場に 

一行が副取締の前田万寿子に連れられ、場内の様子を見ました。

私共一同は、この繰場の有様を一目見ました時の驚きは、

とても筆にも言葉にも尽されません。

 第一に、目に付きましたは、糸とり台でありました。

台から柄杓、匙、朝顔二個(繭入れ、湯こぼし のこと)皆真鍮、

それが一点の曇りもなく金色目を射るばかり。

第二が、車、ねずみ色に塗り上げ たる鉄、

木と申す物は糸枠、大枠、その大枠と大枠の間の板。

第三が、西洋人男女の廻り居ること。

第四が、日本人男女見廻り居ること。

第五が、工女が行儀正しく、

一人も脇目もせず業に就き居ることでありました。

一同は夢の如くに思いまして、何となく恐ろしいようにも感じました。

薄荷酒と探偵小説そして黒皮の手帳  山口ろっぱ

途中に昼休み、休憩を計三回入れて午後4時30分まで。

工場に入った女工たちは当初は下積み作業(見習い)から始め、

技量によって「三等工女」、「二等工女」、「一等工女」

と等級が認定されるシステムであった。

赤いたすきと高草履が許され、街なかでも憧れの存在だったという。

全体の3%程度しか「一等工女」にはなれなかったと言うから、

「一等工女」(一日で生糸四束を取れる)は女工たちの憧れであった。

ずらした視線の先に本音がぶらさがる 寺島洋子

  
    就業前の体操風景

日記「一等工女」

さて私共一行は、皆一心に勉強して居りました。

中に病気等で折々休む人もありましたが、

まず 打揃うて精を出して居ります。

何を申しましても国元へ製糸工場が立ちますことに、

なって居りますから、その目的なしに居る人々とは違います。

その内に一等工女になる人があると大評判があ りまして、

西洋人が手帖を持って中廻りの書生や工女と色々話して居ますから、

中々心配でなり ません。その内に、

ある夜取締の鈴木さんへ呼出されまして段々中付けられます。


私共は実に心配で立ったり居たり致して居りますと、

その内に呼出されました。

「横田英 一等工女 申付候事」

と申されました時は、嬉しさが込上げまして涙がこぼれました。

珠玉のページにはわたくしのルージュ  田口和代

一行15人(その以前、坂西たき子は病気で帰国致されました)の内、

たしか13人まで申付け られたように覚えます。

呼出しの遅れました人は泣出しまして、

「依怙贔屓だの顔の美しい人 を一等にするのだ」

のとさんざん申して、後から呼出しが来て申付けられました時は、

先に申付け られた人々で大いじめ大笑い、

しかし一同天にも昇る如く喜びました。

残った人は皆年の少い人で、中には、

未だ糸揚げをして居た人もありました。


そんな事言うたかなあに手を添える  森田律子

 
  繭倉庫前に集まった工女

日記月給

月給は、一等一円七十五銭、二等一円五十銭、 三等一円、

中廻り、一円でありました。(等外=見習いは、年収9円)、

一等工女になりますと、その頃は百五十釜でありまして、

正門から西は残らず一等台になりました。

私は西の二切目の北側に番が極まりまして、参って見ますと、

私の左釜が前に申述べまし た

静岡県の今井おけいさんでありましたから、


私の喜びは一通りではありません。

また今井さん も非常に喜んで下さいました。

その日から出るも帰るも手を引合いまして、

姉妹も及ばぬほど睦 しく致して居りました。

給料は月割りで支給。 

別に作業服代として、夏冬5円支給される。


明治8年には4段階から8段階に変更され年功序列ではなく能率給。

当時の1円は今の2万円位に相当する。
当時の小学校の教員や警察官の初任給が
月に8~9円だったからこれは、破格の待遇である。
さらに寮費や食費は製糸場支給で丸々自分の収入になった。

掛け算の六の段から不整脈  高島啓子

 
若き女工たちの青春の日々

労働時間は1日約8時間で、

週休1日のほか夏冬に各10日間の休暇があり、

食費や寮費などは、製糸場が負担していた。

工女たちは馴染みの呉服店に出かけては、

月払いで着物を買い、
休日にはおしゃれをして出かけた。

富岡製糸場の工女たちは士族の娘が多く余裕があったこともあるのか

よく働き休日も楽しむ青春の時間を楽しんでいたようだ。

しかし官営模範工場は、富岡製糸場の労働条件の良さが

象徴するように、民営工場よりも給料や待遇が良かったために、

次第に財政を圧迫するようになって来る。

高額な給与がネックで創業3年目にポール・ブリュナを解雇。

(再契約はなく明治9年に帰国)

当初は官営で超ホワイトな企業運営のため、

女工たちは準公務員あつかい。

そんな学園天国だったため経営は悪化。

8年後には事実上の経営破綻となって、売りに出されることとなる。

小さい秋がわたしの側に立っていた  嶋沢喜八郎

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