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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ライオンの昼寝に出会う現在地  菅野泰行


      池田屋密会場所再現写真

「池田屋事件」

8月8日の政変以降、京都は公武合体派が実権を握っていた。

しかし長州藩の攘夷派や三条実美らは、そうした逆境にも屈せず、

再び京へ復帰することを画策していた。

また元治元年(1664)6月13日には、

毛利藩世子・定弘が本隊を率いて京に進発することが決定していた。

そんな折に京都において、クーデターを計画していた攘夷派が

集まっていた三条木屋町の旅籠「池田屋」を新撰組が急襲した。

6月5日のことである。

請け負った刺客はネコに化けていく  井上一筒


 永倉新八

新八は新選組の副長助勤として近藤勇らとともに池田屋へ斬り込んだ。
新選組随一の遣い手として幾多の戦闘に加わり、十三人の大幹部のうち、
ただ一人生き残った。

「新撰組として一番最初の仕事が”池田屋事件”」

テロを計画していた長州藩士を中心とする、過激派の藩士たちを、

新選組が斬り捨て、幕末動乱のきっかけを生んだ「池田屋事件」

実は、池田屋にいた勤王の志士たち、二十数人に対し、

当初、邸内に突入した新選組は、総勢34名のうち、

近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助のわずか4人だった。

「御用改め、手向かいいたすにおいては、容赦なく斬り捨てる」

これが近藤勇の斬り込み時に発した最初の言葉である。

そんな少数のなか、沖田は戦闘中に持病の喀血で戦線から離脱。

藤堂もまた、汗で鉢金がずれたところに、太刀を浴び、

額を斬られ戦線を離脱した。

痛み痒みギブスは何も答えない  山本芳男

かたや倒幕集団の土佐藩の望月亀弥太らは、

裏口から必死に脱出をはかり、

そこを守っていた新選組み浪士たちと、斬り合いになった。

3名の浪士安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門は、倒したものの、

望月亀弥太も深手を負う。

そして長州藩邸付近まで逃げたものの、

追っ手に追いつかれ望月は自刃。

一方、新撰組側は、一時は、近藤・永倉の2人となるが、

土方隊が応援に入り、戦局は新選組に有利に傾き、

9名討ち取り、4名捕縛の戦果を上げる。

勝利の背景には、武士身分でないが故に、手柄を挙げて、

「武士になりたい」という隊士たちの悲壮な、思いがあった。

真剣になるまで研いでいる竹光  板野美子

戦闘後に、会津・桑名藩の応援が到着した時、土方歳三は、

手柄を横取りされぬように、一歩たりとも、近づけさせなかった。

そして、新撰組の面々は、闇討ちを警戒し、翌日の正午になって、

壬生の屯所に帰還。

沿道は、見物人であふれていた。

この戦闘で、数名の尊攘過激派は逃走したが、

新撰組は、翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し20余名を捕縛。

市中掃討はふたたび激戦になり、死闘の末、

会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の即死者を出した。

                〔ー永倉新八の報告書より〕

(新撰組は、この「池田屋事件」で名を上げるが、
   逆に、幕末騒乱の火薬庫に引火させたといってもいい。
   この事件から時代は、物凄い勢いで流れていく)

指めがねあの世も細い雨が降る  梅崎流青


 吉田俊麿最後の死闘

帰国していた玄瑞には、難を逃れた桂小五郎から一報が入った。

長州藩士・土佐藩士などの尊皇攘夷派志士の多くが、

新撰組に斬り捨てられ、または捕縛された。

斬り死にした中には、松下村塾の朋輩・吉田俊麿や、

松陰の盟友・宮部鼎蔵もふくまれている。

これに激怒した長州藩の過激派は、

平和的な解決を望んだ慎重派を抑え込み、

武力を用いてでも京へ向かうことを決意する。

ヤッホーが向こう岸から戻らない  嶋澤喜八郎


 来島又兵衛上申書案

そして同月15日、来島又兵衛が遊撃隊300人を率いて先発し、

翌16日には家老・福原越後の460人と真木和泉、入江九一

久坂玄瑞が出発。さらに家老・国司信濃も続いた。

先発した玄瑞ら長州勢は、約2千。

玄瑞は21日に大坂に到着し、300を率いて淀川を遡り、

京都への入口である山崎、天王山を占拠し本営とした。

他の隊は伏見、嵯峨などに布陣した。

しかし玄瑞は、戦に逸っていたわけではない。

武力を背景にして、長州の冤罪を訴えるのが目的だった。

ゆえに朝廷、幕府、在京諸藩主に嘆願書を差し出した。

忍耐を磨く地獄の一丁目  西美和子

こうした長州の行動に孝明天皇は不快感を示し、会津や土佐、

そして薩摩などが長州と睨みあう。

7月18日、玄瑞らは、

筆頭家老、益田右衛門介が陣取った男山で軍義を開いた。

即決戦を主張する来島らに、玄瑞は、

「一旦、兵庫まで退いて世子の到着を待ち、

   大軍を擁して京都にはいるべきである」 と宥める。

この時点での玄瑞の目的は、あくまで長州藩の失地回復であり、

その上で異国の脅威を斥ける日本をつくろうとの決意を抱いていた。

血と汗と油絵具が塗ってある  牧野芳光


   大専坊跡 (遊撃隊が本陣とした)

しかし来島は容れず「臆病者」と罵倒する。

玄瑞は歯噛みをした。

藩主・敬親からは「先に手を出すな」と強く命じられていたが、

もはや止めようがなかった。

軍議後、玄瑞は入江九一らと淀川の谷水を手ですくい、

永久の別れとして水杯を交わした。

同日夜半、長州勢は伏見、嵯峨、山崎の三方から遊撃を開始。

来島、国司らの部隊は、御所の中立売御門や蛤御門に向かった。

鴉止まれりバーコード付きの門  筒井祥文

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ある時は熟れたバナナで釘を打つ  本多洋子


         三田尻御茶屋

萩藩2代藩主毛利綱広によって設置された萩藩の公館で、
藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩、また迎賓に使用された。

「長州藩の御茶屋」

長州藩の「御茶屋」は、藩主が参勤交代や城内巡視する折、

宿泊や休息のために利用するほか、

幕府の役人や諸藩の大名の迎賓館として用いられた。

藩庁のある萩は、日本海に面している為に

情報の伝達に時間がかかった。

そのため、激動の時代に藩主となった毛利敬親は、

萩から瀬戸内海に至る街道などに設置された複数の御茶屋に滞在し、

政務の多くをそこで行なった。

伝統という磐石の包み紙  三村一子



       藩主謁見の間及び庭

その一つ、「三田尻の御茶屋」は、承応3年(1654)

2代藩主・毛利綱広によって建てられた。

瀬戸内海に面した三田尻は、

古くから水運の要衝として栄えた港町である。

毛利水軍の根拠地でもあった。

三田尻はまた、瀬戸内の製塩業の西の中心地でもあり、

塩の生産と販売の統制に当る役所が置かれた。

8月18日の政変で長州に逃れてき三条実美ら7人の公卿を、

最初に迎え入れたのも、この御茶屋であった。

入口が二つで出口も二つある  河村啓子

もう一つの重要な御茶屋は、「山口の御茶屋」と言い、

敬親は、長州藩の中心に位置する要のこの地に、

三田尻以上に長く滞在している。

文久3年(1863)晋作はここで敬親に騎兵隊結成を上申した。

幕府への武備恭順が決められ、

2ヶ月後にはそれを翻す倒幕方針が宣されるなど、

衆議が沸騰したのもここだった。

脳内をたまにひょうたん島にする  田中博造


         一力茶屋
「茶屋」

江戸時代後期には、寺社の門前、芝居小屋の周辺、

遊郭の内外などに、飲食や遊興、あるいは貸席などを業とする

「茶屋」が数多く生まれていた。

一方、政治の世界では、

勤皇派と佐幕派が激しい争闘を繰り広げていた。

「茶屋」をはじめ、「料亭」「旅籠」などは、

勤皇の志士ばかりでなく、幕府や諸藩の佐幕派の役人たちや

新撰組などに、秘密裏の会合を持ち、

情勢や人の動きなどの情報を交換し、

襲撃計画を立てたりするための場を、

提供するようになっていた。

重なっているので明日が見えにくい  大嶋都嗣子



   お茶屋街


諸藩と茶屋・料亭・旅籠などとの間には、

いつしか連帯関係が生まれ、「定宿」が決まっていった。
             うおしな
京では、長州藩の「魚品」(祇園縄手)、薩摩藩の「寺田屋」(伏見の船宿)

肥後藩の「小川亭」(鴨川東)、土佐藩の「曙亭」(清水坂)などである。
                       わちがい
新撰組は下京区西新屋敷の置屋・「輪違屋」を馴染みとしていた。

とはいえ、長州藩の久坂らが使った「角屋」「一力亭」などは、

新撰組も出入りしており、勤皇派・佐幕派を問わず、

さまざまな立場の人に場を提供していた。

図太くも賽銭箱で発芽する  筒井祥文

茶屋や旅籠に伝説を残した人物もいる。

寺田屋の女将・登勢は姉御肌で、体を張って志士たちを庇護した。

小川亭の主人・てい「勤皇ばあさん」と呼ばれて、

志士たちに信頼された。

玄瑞の馴染みの芸者・君尾は、一力亭で薩摩藩の西郷隆盛

新撰組の近藤勇を袖にしたというエピソードがある。

太目が好き細目が好きと使い分け  三好聖水


 翠紅館にかかる看板

「翠紅館」「送陽亭」
西本願寺が建物内の二つの部屋を提供された茶室・翠紅館は、
三条実美、桂小五郎、坂本龍馬ら、志士たちの会合に使用した。
文久3年1月27日には、土佐藩 武市半平太、長州藩 井上聞多
久坂玄瑞ら多数が集まり、
同年6月17日には、長州藩 桂小五郎、久留米藩 真木和泉守らが
攘夷や討幕などの具体的方策を検討。
京都・翠紅館内の送陽亭では、桂小五郎、武市半平太、久坂玄端
井上馨、真木和泉守が集まり、会合を開いている。

吊革をぎゅっと握ってアジア立つ  井上しのぶ


川柳集・『末摘花』初篇の挿絵に描かれた出合茶屋

もっとも有名な不忍池のほとりの出合茶屋は平屋だった。
座敷を池の上に張り出すように造作していたため、
当時の技術では二階建ては無理だった。

「出合茶屋」

出合茶屋は人目を偲ぶ男女の密会の場として使用された。

川柳や小咄では不忍池のほとりの出合茶屋が有名だが、

実際は江戸の各地にあった。

神社仏閣の門前など人が集まる場所に位置し、

目立たないようにひっそりと営業していた。

出合茶屋の構造は二階建てで、

入口を入るとすぐに二階にあがる階段があった。


 川柳集・『末摘花』

出合茶屋  あんまり泣いて  下り兼ねる

階段わきの小部屋に老婆が座っている。

無愛想でろくに目も合わせないが、

男女に決まりの悪い思いをさせないためだった。

客が煙草盆と茶盆を受け取って二階に向かうと、

老婆が履物を下駄箱におさめた。

客に煙草盆などを運ばせるのはあとから行って、邪魔をしないため、

履物を隠すのは、金を払わずに逃げるのを防ぐためである。

指定された二階の座敷にはすでに布団と枕二つが用意されていた。

あとは2人の世界である。

そんなところに挟んだらバレますよ  田口和代


岐阜県大垣市のお茶屋屋敷

お茶屋屋敷」

慶長14年(1609)徳川家康が上洛する際、中山道の要衝で、

徳川家開運の地であるお勝山の北方に、

自らが上洛の往復をするに当っての「お茶屋屋敷」を設置した。

設置は美濃国の諸大名に命じ、廻りには土塁や空壕が設置され、

宿泊施設であると同時に緊急時の砦、城郭の要素もあったという。

このお茶屋屋敷は、宿場の本陣の原型となったものという。

交通手段が徒歩に限られていた時代には、

宿場および峠やその前後で見られ、

これらを「水茶屋」「掛茶屋」と言い、

街道筋の所定の休憩所であった。

又、性風俗を売り物にする店は当時「色茶屋」と呼ばれており、

その頃は単に「茶屋」と言う場合にはこの「色茶屋」を指していた。

他にも、「引手茶屋」「待合茶屋」「出合茶屋」「相撲茶屋」

「料理茶屋」など、様々な名称の様々な営業形態の茶屋があった。

雲間から一部始終を見てた月  藤井孝作

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三日月のアゴにかかったよだれかけ 笠嶋恵美子


   久坂玄瑞

玄瑞は写真嫌いだったので、遺影は遺されていない。
鉢巻きをした玄瑞の肖像は、秀次郎をモデルにして描かれている。
秀次郎の写真は下段にでてきます。

「久米次郎」

玄瑞18歳、15歳という若い夫婦の結婚生活は、

玄瑞25歳の死によって終焉を迎える。

玄瑞と文の結婚生活はごく短いものであった。

そのうえ約7年間のうちでも、玄瑞は東奔西走の日々を送り、

萩にいることも少なかったので、

穏やかに2人で過ごした日々など、ごくわずかだった。

そんなこともあり、玄瑞と文の間には子どもはいない。

(明治16年に文は楫取素彦と再婚してからも、子は出来ていない)

三人称で呼ばれた夜の網タイツ  山本早苗

一方、文の結婚を遡ること4年前、敬愛する次姉・寿は15歳で

小田村伊之助に嫁ぎ、翌年、夫婦の間に、長男・篤太郎(のちの希家)

安政5年(1858)には、次男・久米次郎が生まれている。

久米次郎は、父・伊之助の幼名になる。

そして、久米次郎が5歳を迎える文久3年4月、

長州藩にとって情勢が芳しくない時期、

明日を知れぬ身を案じてのことだろう、

久坂家存続を大事に思う玄瑞は、久坂家の後継ぎに、

久米次郎を養子にしたいと伊之助に申し出ている。

(この一ヶ月のち、下関戦争が始まる)

割り算の余りがとても愛おしい  雨森茂喜



「文久3年8月29日の文への手紙」

ここには、「8.18の政変」での残念な思いをした話、

小田村伊之助の次男を養子に貰い受ける話、厳しい時世の話

と同時に、変名した名前が書かれている。

この頃からの手紙には必ず久米次郎が登場し、その溺愛ぶりが分る。

【そののちはいかがかと朝夕絶えず心配しています。

私は障りなく暮らしていますので、安心してください。

さて、先頃から藩に帰国しており、殿様の前で内命を受けて上京し、

これやかれやと尽力していたところ、

去る18日のこと(18日の政変)、

いかにも悔しき悪者どもの会津と薩摩の数千人。

禁裏様を取り巻き、そのうえ、護衛していた御門をも、

ほかの人にお預けになり、この節にては、

けしからぬ憎き卑しきことでいかにも残念です。

どのページ開けても雪は舞っていた  大田扶美代

……中略……

この頃は、厳しい取調べなどがありますので、油断はならず、

屋敷の外へは一歩もでておりません。

誠に残念とも悔しいとも申すに余りあることです。

そのようなことで、孝明天皇様のお考えも、殿様の志もちっとも貫徹できず、

誠に楠木正成や新田義貞の志を持たねばならぬ時世になりました。

少しも緩んではならぬご時世と私も夜昼なく苦労しております。

先頃、小田村兄様も京都にお立ちの折、

二男(久米次郎)の方を養子にもらいましたので、

皆様に相談してもらってください。

小太郎殿、お千代殿も成人されて喜んでいます。

いずれもだいたい、めでたくかしこ。

8月29日                 よしすけ(義助)
お文どのへ

《私は已むに已まれぬ事情があって、よしすけと名を改めました》

雑音に血潮の声が混じってる  北田惟圭


玄瑞自筆手紙ー小田村宛

「元治元年3月25日の手紙」

たびたびお手紙をいあただき、

まず差し障りがないことで安心しました。

私も去る19日に藩の用があって山口まで帰ったので、

安心してください。

……中略……

久米次郎も無事に過ごしているようで、大いに安心しました。

いずれも早く成人して藩のお役に立つようになってほしいと

日夜祈っています。

これも結局、親の育て方であるから、よくよく気をつけられ、-

教え諭すことが大事だと思います。

さて去る4日、京都東山の霊山というところで、

ご先祖の祀りをしました。


御神位もそこの神主・村上丹後という人に祀ってくれるように

頼みおきましたので、そのようにお心得ください。

このたびは、右の次第ですから久米次郎などへ何の土産もなく、

申し訳なく思います。

杉皆様へよろしくお伝えくださるようお願いします。

吉田稔麿もこの頃上京して健やか過ぎるほど、

健やかにしていますので、
稔麿の母上にお伝えください。

3月25日                      善助
お文どのへ

《なお下女などおいたほうがいいでしょう》

(下女の件は、養子を受けて文も一段と忙しくなったことへの配慮である)

美しい耳を借りてるセレナーデ  八木侑子



「元治元年6月6日の手紙」

……前略……

昨日久米次郎が来て、久しぶりに対面し非常に喜んで、

昨日も一緒になました。

久米次郎の大小の刀も大坂に注文しておきましたが、

このたびは間にあいませんでした。

いずれ大坂に上ったうえは、大小調えて早々に送ります。

……中略……

佐々木おば様、杉家の皆様、小田村、玉木へもよろしくお頼みします。

久米次郎は1日2日とどめおきます。

まことにお利口に遊んでおりますので、安心してください。

玄瑞の手紙はこの元治元年6月6日で終わっている。

同年7月19日の蛤御門の変で玄瑞は自刃し、

25より齢を数えることはなかった。

あら磯によせ来る狼の岩にふれ千々にくだくるわがおもひかな

髪梳いて縁のなかった人と知る  森中恵美子


                          おもい
22歳で未亡人になった文は、玄瑞の意志をついで愛情いっぱいに、

久米次郎を育てていた。

ところが、5年後の明治2年、文に衝撃的な出来事が起こる。

玄瑞の京都での愛人佐々木ひろとの間に出来た秀次郎という

隠し子のいることが発覚したのである。

その男の子は、「玄瑞そっくりの顔だ」 

と言う品川弥二郎らの証言で、玄瑞の忘れがたみとして

藩に認知され、突如、文の前に現れたのである。

胃カメラに活断層の如きもの  三宅保州



隠し子というよりは、正確には、玄瑞本人すら

その存在を知らなかった可能性もある子どもである。

文にとっては寝耳に水の出来事だったに違いない。

久米次郎を手塩をかけて育て、

久坂家存続ために努力してきたことは何だったのか。

そこには複雑な思いがあっただろう、

久米次郎は姉・寿の子であり、自分にとっては甥である。

まがりなりにも血の繋がりはある。

一方、秀次郎は愛する玄瑞の子とはいえ、

花街に身を置く女性との間にできた子なのだ。

が、何より家の存続が大事だった当時のこと、

今の感覚で捉えきれることはできない。

やがて文はこの子を、久坂家の跡取りとして受け入れ、

明治12年、正式に秀次郎久坂家を継ぐことになる。

そして久米次郎は、楫取家に戻ることになる。

タコの子と同じ顔した柘榴の子  山内美代子

通説では、この京都妻・井筒タツは、

明治2年に息子が認知されるのを見届けたあと、

その翌年、京都島原の揚屋角屋の10代目当主と

自分が芸者として出ていた桔梗屋の女将の仲立ちで、

下京の裕福な農家の竹岡甚之助と結婚している。

しかしタツは、慶応元年、辰路という名前で芸者にでているとき、

仲居たちの噂になるほど、玄瑞と親しかったために、

秀次郎の母がタツと誤解されたものといわれ、

実際の母は、佐々木ひろという名の女性だと述べている。

本当の父さん他にいるんだよ  井丸昌紀


楫取道明(久米次郎)は前列左

国の方針として、教育強化のために台湾に出向いた6氏
楫取道明、関口長太郎、中島長吉、井原順之助、桂金太郎、平井數馬

その後、久米次郎は楫取家に戻ることになり、

父と同じ教育者の道を歩みだす。

日清戦争後勝利後、教育者の一員として渡った台湾台北において、

日本統治をよく思わないゲリラに襲われ、

六氏とともに楫取道明は一命を落としている。

38歳であった。

(子孫ー道明のひ孫・楫取能彦氏は現在・博報堂第一営業局局長代理)

束の間の満月だった一家族  竹井紫乙 

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99,9% 努力する  田口和代


散兵戦術「前方展開」の図 〔長門練兵場蔵板 活版 散兵教練書〕

「騎兵隊-3」

幕府側の史料では、

長州兵イコール騎兵隊とする表現が見受けられる。

実際には騎兵隊が参戦していなくても、

長州勢を騎兵隊と表現しているのだ。

それほど騎兵隊の印象は強く、

長州を象徴する存在になっていたということだろう。

その後も、騎兵隊は慶応4年の「北越戊辰戦争」などで活躍し、

「明治維新」を成し遂げる原動力となる。

午睡から醒めれば竹の騒ぐ音  赤松ますみ

どうして騎兵隊は、抜き出た強さを発揮できたのか。

その強さの訳は、西洋式の「散兵戦術」を駆使したとこある。

散兵戦術とは、最初、密集していた軍隊が、

進むにつれて広く散開していく戦い方で、

広く兵士が散開するため、指揮官の命令が行き届かず、

兵士各自が充分に散兵戦術を習熟している必要がある。

『散兵教練書』は、そのための訓練に用いられた。

いわゆる各兵士、各部隊長は全体の戦術を理解したうえで、

個別の判断で動かなくてはならない。

合同訓練を相当重ねていないとうまくいかない戦術なのだ。

やるだけはやった夕日に満ち足りる  前 たもつ


   白石邸浜門 (すべての戦術の出発点)

「長州軍の散兵戦術」

第二次幕長戦争において、

長州軍は騎兵隊による「散兵戦術」を駆使した。

この戦術は兵士を密集させず、散開させて行うので、

少数の兵で多数の兵に立ち向かう場合に有効となる。

対戦した相手方の史料には、長州軍の戦い方について、

「山々峰々から立ち現れ、まるで猿のように動き回り、

なかなか砲撃が当たらない」 と書かれている。

目の上のタンコブとして生きてやる あまのとーな

騎兵隊では、兵の一人一人が戦術を理解する必要があったので、

「軍事訓練」だけでなく「教養教育」についても熱心だった。

自分で文書を起案したり、指揮命令を書けるように、

剣術や砲術だけでなく、孟子などの「古典教育」も行なっていた。

また、騎兵隊には「付属」という見習いのような制度があった。

入隊者はまず付属に入り、精励したものが本隊に昇格するという

督励システムがあり、怠けていては昇格できないし、

勉強が足りない者は、外出を差し止められるなどの罰則もあった。

高い家格出身の武士が、それに胡坐をかいて努力を怠り、

降格となった例などもある。

総じて、総員の出世意欲をかきたて、勉学にも軍事訓練にも、

積極的に取り組むことを後押しするシステムが、

騎兵隊にはあった。

努力して報われぬから明日がある  西川ひろし


 騎兵隊結成地石碑

騎兵隊では、散兵戦術のために必要な体力作りも行なわれていた。

そもそも武士は馬に乗って戦うのがステイタスだったため、

自ら 走り回るということを忌避していた。

しかし、散兵戦術は不可能だ。

騎兵隊では「健歩」と称して、

40、50キロもの長距離を、8時間も疾走する訓練があり、

さらにその直後に相撲の稽古もしている。

散兵戦術という優れた戦術は、こうした日ごろの地道な訓練、

基礎体力作りがあってこそ可能となったのだ。

努力した事忘れぬ豆の蔓  森 廣子        


   来島又兵衛肖像  (山口県立山口博物館蔵)

騎兵隊の創設は藩内各地の志士を刺激し、

のちに「諸隊」と称される隊が生まれた。

その数は160にも上ったともいわれる。

「遊撃隊」は文久3年10月、来島又兵衛を総督として結成された。

翌元冶元年7月の「禁門の変」に参戦したが、来島が戦死、

石川小五郎が引き継いだ。

文久3年には、「集義隊」(桜井慎平)「衝撃隊」(岡部富太郎)

「精鋭隊」(太田市之進)「八幡隊」(堀真五郎)が結成された。

過激派の群れがあるのはヒト科だけ  ふじのひろし

しかし元治元年9月、急進派の井上聞多の暗殺未遂などもあって、

藩論は保守派にまとまり、諸隊には解散命令が出された。

これに対し晋作は12月15日、騎兵隊を率いて下関で挙兵、

諸隊もこれに呼応して激戦の末、騎兵隊と諸隊が保守派に勝利した。

慶応元年3月、諸隊を整理統合し、正規軍として藩は公認した。

これにより諸隊には、俸給や武器弾薬が支給されることとなる。

翌慶応2年に幕府軍が来襲した「第二次幕長戦争」では、

諸隊は国境に配備されて幕府軍を迎え撃つこととなる。

踏ん切りがつかない斜めへと進む  竹内ゆみこ


    下関戦争 (ワーグマン絵)

「第二次幕長戦争」(四境戦争)

幕末の動乱期、長州藩は内外で戦いの連続であった。

文久3年(1863)、「攘夷実行」のため外国船を砲撃、

元治元年(1864)7月に「禁門の変」により朝敵となり、

8月には、英仏蘭米の四国連合艦隊による「馬関戦争」敗戦。

この敗戦で藩論は、幕府への恭順に傾き、

「第一次幕長征伐」では三家老の切腹などにより恭順の意を示し、

戦闘に至らず終結する。

石になるコースと人になるコース  杉山太郎

この後、高杉晋作の決起による諸隊と藩政府軍との内戦を経て、

藩論は「武備恭順」へと一転され、

軍事組織の整備、大村益次郎を最高責任者とした西洋軍制の導入、

武器の購入などを行っていく。

そして慶応2年(1866)6月「第二次長州征伐」が始まる。

この戦いは長州藩を取り囲む四つの境で行われたため、

長州では「四境戦争」と呼ぶ。

この戦いに幕府は敗退し、権威を失墜、権力解体へと政局は動いていく。

武備恭順=幕府に対して恭順ではあるが、攻撃を受けたときは武力で戦う
四境とは=芸州口、大島口、石州口、小倉口

血流は酸っぱく明日の不透明  山口ろっぱ

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ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい  井上一筒


 高杉晋作

高杉晋作は、小柄で本人もそれを気にしていたため、
立って写っている写真はない。
しかし小柄ではあったが、何故か長刀を好んで愛用していた。
そのため歩く姿は、刀を引きずって見えたという。

「騎兵隊ー2」

高杉晋作は、「騎兵隊創設」にあたり、次のように述べている。

「兵には正と奇とがあり、戦には虚と実とがある。

 正兵は正々堂々として敵に対し、実をもって実にあたればよい。

 藩の部隊がまさに、正兵であろう。

 しかるに寡兵(小兵)をもって敵の大兵の虚を衝き、

    神出鬼没の兵があってもよい。

  私が創設する部隊は、常に奇道をもって相手を悩まし、

  勝利を制するのが目的である。

  よって、この部隊を”奇兵隊”と名付ける」 と。

泡立ちのよすぎる男ちょっとシャイ  雨森茂喜


 高杉晋作・産湯の井戸

しかし、長州藩の正兵はすでにある。

晋作は、義や徳を重んじる男でもある。

藩主にお伺いを立てなければならない。

「そうせい公」の異名をもつ、長州藩主・毛利敬親に、

申し立てたところ、

「緊急時だから、そうせい」 と快諾が下りたのである。

高杉のこうした考えに、反感をもつ長州藩士も多かった。

追いかけられる、命を狙われるで、

地元・萩で「奇兵隊」を創設するわけには行かない。

午睡から覚めてらくだの顔になる  藤井寿代

奇兵隊は、農民・僧侶、下級武士、商人の寄せ集め部隊だった。  

そんなわけで、晋作により、馬関で結成された「騎兵隊」は、

和洋折衷の軍服で、隊士の意識と機動力とを高めるとともに、

理解しやすい隊則で組織をまとめた。  

例えば、

「農道で牛や馬に出会えば、奇兵隊士は道を譲って、

   通り抜けるのを待て」

とか、「農家に押し入って動物とか物品を奪ってはいけない」 

など、隊則は理解しやすい内容をもって、

組織の集中力を強化することに、成功した。

月面にロングシュートを決めてみる  畑 照代


騎兵隊の結成地となった白石正一郎邸跡

「騎兵隊誕生は松陰の発想から」

長州藩は幕末の対外的危機を迎えたときに、

三方を海に囲まれていたため、

その危機を他藩よりも深刻に受け止めた。

そして長州の志士は、

アヘン戦争などにみる西欧列強の実力を正確に理解し、

植民地化を避けるためには、何が必要かを真剣に検討していた。

その代表的な人物が、松陰であった。

松陰は開国を迫る西欧列強に対し、ただ戦いを避けたいがために
 いいだくだく
「唯々諾々と従うのは、かえって植民地化を招く」

と指摘し、一方で、西欧に対抗するためには、

「西欧近代文明に学ばなければならない」と主張。
                                     ふきどくりつ
松陰がよく使う言葉に、束縛のない独立を意味する「不羈独立」

があるが、

「長州も、そして日本も、独立を守らなければならない」

という思想が松陰の根底にあった。

梟もニャンと鳴きたい時がある  倉 周三



騎兵隊の創設者は、高杉晋作だが、

その師である松陰の『愚論』には、

騎兵隊の基本構想につながる発想がすでに表れている。

松陰は、封建的な身分制軍隊は、石高に応じて兵を集めるという

「数合わせ」にすぎないので、決して強くないと見破り、
    つかまつ
「一戦仕るべしと願出で候もの」 つまり

「有志を登用しなければならない」と喝破している。

有志にさまざまな役割を与えて評価してやれば、

強力な軍隊が作れる。

そしてその費用は、家柄だけで高禄を貪る者に出させばいいと、

松陰は断じている。

中七に八分休符が利いている  井丸昌紀

また松陰の著した『西洋歩兵論』には、

「足軽以下、農民に至るまで、

   しっかりと演習させれば、いずれ精兵となるであろう」 

と記されていて、

身分を超え、庶民を西洋歩兵とするという発想を

松陰が持っていたことを端的に示している。

日本的、復古的といったイメージが強い松陰だが、

実際には西洋に学び、西洋的軍隊を作らなければならないという

開明的な思想の持ち主だったことが分かる。

その薫陶を受けた晋作が、騎兵隊を創設するのは、

自然な流れだった。

羞恥心なくせば一気にスターダム  ふじのひろし

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