99,9% 努力する 田口和代
散兵戦術「前方展開」の図 〔長門練兵場蔵板 活版 散兵教練書〕
「騎兵隊-3」
幕府側の史料では、
長州兵イコール騎兵隊とする表現が見受けられる。
実際には騎兵隊が参戦していなくても、
長州勢を騎兵隊と表現しているのだ。
それほど騎兵隊の印象は強く、
長州を象徴する存在になっていたということだろう。
その後も、騎兵隊は慶応4年の
「北越戊辰戦争」などで活躍し、
「明治維新」を成し遂げる原動力となる。
午睡から醒めれば竹の騒ぐ音 赤松ますみ
どうして騎兵隊は、抜き出た強さを発揮できたのか。
その強さの訳は、西洋式の
「散兵戦術」を駆使したとこある。
散兵戦術とは、最初、密集していた軍隊が、
進むにつれて広く散開していく戦い方で、
広く兵士が散開するため、指揮官の命令が行き届かず、
兵士各自が充分に散兵戦術を習熟している必要がある。
『散兵教練書』は、そのための訓練に用いられた。
いわゆる各兵士、各部隊長は全体の戦術を理解したうえで、
個別の判断で動かなくてはならない。
合同訓練を相当重ねていないとうまくいかない戦術なのだ。
やるだけはやった夕日に満ち足りる 前 たもつ
白石邸浜門 (すべての戦術の出発点)
「長州軍の散兵戦術」
第二次幕長戦争において、
長州軍は騎兵隊による「散兵戦術」を駆使した。
この戦術は兵士を密集させず、散開させて行うので、
少数の兵で多数の兵に立ち向かう場合に有効となる。
対戦した相手方の史料には、長州軍の戦い方について、
「山々峰々から立ち現れ、まるで猿のように動き回り、
なかなか砲撃が当たらない」 と書かれている。
目の上のタンコブとして生きてやる あまのとーな
騎兵隊では、兵の一人一人が戦術を理解する必要があったので、
「軍事訓練」だけでなく
「教養教育」についても熱心だった。
自分で文書を起案したり、指揮命令を書けるように、
剣術や砲術だけでなく、
孟子などの
「古典教育」も行なっていた。
また、騎兵隊には
「付属」という見習いのような制度があった。
入隊者はまず付属に入り、精励したものが本隊に昇格するという
督励システムがあり、怠けていては昇格できないし、
勉強が足りない者は、外出を差し止められるなどの罰則もあった。
高い家格出身の武士が、それに胡坐をかいて努力を怠り、
降格となった例などもある。
総じて、総員の出世意欲をかきたて、勉学にも軍事訓練にも、
積極的に取り組むことを後押しするシステムが、
騎兵隊にはあった。
努力して報われぬから明日がある 西川ひろし
騎兵隊結成地石碑
騎兵隊では、散兵戦術のために必要な体力作りも行なわれていた。
そもそも武士は馬に乗って戦うのがステイタスだったため、
自ら 走り回るということを忌避していた。
しかし、散兵戦術は不可能だ。
騎兵隊では
「健歩」と称して、
40、50キロもの長距離を、8時間も疾走する訓練があり、
さらにその直後に相撲の稽古もしている。
散兵戦術という優れた戦術は、こうした日ごろの地道な訓練、
基礎体力作りがあってこそ可能となったのだ。
努力した事忘れぬ豆の蔓 森 廣子
来島又兵衛肖像 (山口県立山口博物館蔵)
騎兵隊の創設は藩内各地の志士を刺激し、
のちに
「諸隊」と称される隊が生まれた。
その数は160にも上ったともいわれる。
「遊撃隊」は文久3年10月、
来島又兵衛を総督として結成された。
翌元冶元年7月の
「禁門の変」に参戦したが、来島が戦死、
石川小五郎が引き継いだ。
文久3年には、「集義隊」
(桜井慎平)「衝撃隊」
(岡部富太郎)
「精鋭隊」
(太田市之進)「八幡隊」
(堀真五郎)等が結成された。
過激派の群れがあるのはヒト科だけ ふじのひろし
しかし元治元年9月、急進派の
井上聞多の暗殺未遂などもあって、
藩論は保守派にまとまり、諸隊には解散命令が出された。
これに対し晋作は12月15日、騎兵隊を率いて下関で挙兵、
諸隊もこれに呼応して激戦の末、騎兵隊と諸隊が保守派に勝利した。
慶応元年3月、諸隊を整理統合し、
正規軍として藩は公認した。
これにより諸隊には、俸給や武器弾薬が支給されることとなる。
翌慶応2年に幕府軍が来襲した
「第二次幕長戦争」では、
諸隊は国境に配備されて幕府軍を迎え撃つこととなる。
踏ん切りがつかない斜めへと進む 竹内ゆみこ
下関戦争 (ワーグマン絵)
「第二次幕長戦争」(四境戦争)
幕末の動乱期、長州藩は内外で戦いの連続であった。
文久3年(1863)、
「攘夷実行」のため外国船を砲撃、
元治元年(1864)7月に
「禁門の変」により朝敵となり、
8月には、英仏蘭米の四国連合艦隊による
「馬関戦争」敗戦。
この敗戦で藩論は、幕府への恭順に傾き、
「第一次幕長征伐」では三家老の切腹などにより恭順の意を示し、
戦闘に至らず終結する。
石になるコースと人になるコース 杉山太郎
この後、
高杉晋作の決起による諸隊と藩政府軍との内戦を経て、
藩論は
「武備恭順」へと一転され、
軍事組織の整備、
大村益次郎を最高責任者とした
西洋軍制の導入、
武器の購入などを行っていく。
そして慶応2年(1866)6月
「第二次長州征伐」が始まる。
この戦いは長州藩を取り囲む四つの境で行われたため、
長州では
「四境戦争」と呼ぶ。
この戦いに幕府は敗退し、権威を失墜、権力解体へと政局は動いていく。
武備恭順=幕府に対して恭順ではあるが、攻撃を受けたときは武力で戦う。
四境とは=芸州口、大島口、石州口、小倉口
血流は酸っぱく明日の不透明 山口ろっぱ[3回]