ポケットに入る携帯ウォシュレット 井上一筒
高杉家200石取りの家。立派な屋敷である。
江戸時代の武家の生活事情。
年貢の割合は四公六民。200石取りの武家なら、
4対6の割合で80石が取り分になる。
この80石の内、実際に食べる分だけが現物納入、
残りが現金給付となる。
地域によって違いもあるので、ざっと計算して、
手元に入ってくるのは、現在の年収で成すと、
550万から750万くらい。
200石10人扶持ともなれば、家臣10人を養わねばならない。
これではとても普通の生活はおくっていられないはずなのだが…。
そんな中、晋作は坊ちゃんといわれ好き三昧に人生謳歌する。
霙という半端なものが降ってきた 青砥和子
「高杉晋作を辿る」
奥番頭役から直目付役へと、昇進していった晋作の父・
忠太小は、
藩主にひたすら忠実で、実直な人物ではあったが、
小心な男でもあった。
「晋作や、おおぎょうなことはしてくれるな。
トトの立場ちゅうものが、あるからのう」
というのが口癖であった。
晋作には、耳にタコができるほどではあったが、
彼の偉いところは、父親を心配させぬように、
気を使うところであった。
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しかし晋作は、父親と違って、気性の非常に激しい、
また男気の強い性格である。
おいそれと父親の言いなりに、なってはいられなかった。
「おおぎょうなこと」
をせずにはおれない晋作は、父親の目に触れないように、
こっそりと、
”おおぎょうなこと”をしていたのである。
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ひやこ
高杉家と少し離れた平安古という街筋に、
久坂玄瑞が住んでいた。
このあたりには、槍持ちなどを任とする武士などが、住んでいた。
そのためか、体格のよい男が、随分といたそうである。
久坂も六尺もある大きな男で、
当時としては、相当に大柄であるが、
頭脳明晰で、幼いころから、神童と呼ばれるほどであった。
その久坂との出会いが、高杉の人生を変えた。
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運命の場所は、
吉田松陰の主宰する
”松下村塾”である。
父親たちが、子に近寄らないように諭し、恐れた場所である。
村塾には、親の反対を押し切って入塾した仲間たちが、大勢いた。
勘当されて家を追い出された者も、数知れずいた。
そういう不良仲間と呼ばれた若者たちを、指導していたのが、
吉田松陰である。
その松陰自身も密航を企て、牢獄に入れられていたのだから、
彼を大罪人と考える、萩の人たちも多くいた。
いわゆる、
”村塾が危険視”されるのも、当然であった。
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晋作にとって最大のライバルであったのが、
久坂玄瑞である。
桂小五郎もいた。
桂は19歳のとき江戸へ留学し、練兵館に剣術を学んだのだが、
生来の運動神経の良さか、入門早々に頭角を現し、
その塾頭になって萩に帰ってきた。
しかし、晋作はまだ頭角を現すに至らず、
詩作にふけったり、気まぐれに剣術の稽古をしたりと、
桂のような勢いがまだなかった。
桂の噂は、知っていただろうが、それほど関心も寄せず、
お坊ちゃん育ちの、ただの人だったのである。
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気性の激しい高杉は、入塾以来、
同じく負けん気の強い久坂を、意識するようになる。
久坂は、秀才の誉れが高かったのだが、
両親や兄とも死別し、いわば、孤児同然の境遇を送っていた。
久坂もまた孤独ゆえ、仲間を求めての入塾だったのだろう。
村塾には、いろいろな事情から常時20人ほどが、寄宿していたようだが、
通いも含めると、200人の若者が、出入りしていた。
このような中で、晋作は、いつかこの頂点に達し、
彼の個性を、発揮していくのである。
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晋作の三味線
「おもしろくこともなき世をおもしろく」
これがおおぎょうな男の生活信条であった。
晋作は、折りたたみ式の三弦
(三味線)を持ち歩き、
それを片手に酒で喉を潤わせて、浄瑠璃を楽しんだ。
十八番は、自作自演の即興だったそうだ。
静々と浄瑠璃を歌うのが、趣味であった。
陸奥宗光と一緒に、馬関にある奇兵隊の兵舎を訪れた際に、
新作の ”鬱の虫が巣くったような” 浄瑠璃を
坂本龍馬らはたんまり聞かされた。
周りの辟易している様子などお構いなしである。
そんな場で、晋作は破天荒に藩の金を使った。
このとき晋作は、すでに酒樽などを開かせて、
宴の準備を整え、指揮をとったという。
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手元にあった折りたたみ式三弦は、いわば今でいうカラオケ装置。
マイクは、自分の声のみとなるのだが、
江戸中期頃から浄瑠璃は、流行の兆しがあり、
三弦で節を取り、最初に浄瑠璃を楽しんだ人物は、
織田信長ともいわれている。
ちなみに、
「源義経と長者浄瑠璃娘との恋歌」を、三弦で奏でたものが、
カラオケの始まり”であったとか。
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酒を愛し、三味線を愛し、詩歌を愛し、2人の女性を愛した晋作が、
妻・
雅子と
おうのの初体面に、修羅場を想定し残した
漢詩がある。
妻児将到我閑居 (妻児まさにわが閑居に到らんとす)
妾婦胸間患余有 (妾婦胸間患い余りあり)
従是両花争開落 (これより両花開落を争う)
主人拱手莫如何 (主人手をこまねいて如何ともするなし)
「妻の雅子と息子が下関の自分の住まいにやってきた。
我が愛人のおうのは、そのことに驚き、そして大いに胸を痛めている。
美しい花である二人の女性はどちらが咲き落ちるかを競い合っている。
こんな光景を見て、僕は手をこまねいて見ているしかなかった」
この後も雅子は、
望東尼の仲裁も得て、
おうのと交友関係を持ち、晋作の死後も交流を続けたという。
(この文章は、8/12へ晋作の2人の女性の物語にと続きます)
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