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川柳的逍遥 人の世の一家言
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傍目には面白すぎる三つ巴  菱木 誠


晋作が妻・雅子に送った手紙 拡大してご覧下さい)

武士の妻は町人や百姓の妻とは違うということを忘れぬ事」などと、
書かれている。筆まめな晋作は、雅子や愛妾以外にも同志たちに
数多くの手紙を送って自らの思いを伝えた。 (萩博物館蔵)

「晋作と2人の女性」

高杉晋作には妻・雅子と下関の芸妓・おうのという女性がいた。

雅子は、弘化2年(1845)、長州藩・井上平右衛門の次女に生れた。

「萩城下一の美人」と謳われ、早くから縁談が殺到したといわれる。

そこで絞り込んだ三件の書状をクジにし、

雅子が選び取った一つの中に書かれていたのが、

「高杉晋作」の名前で、安政7年(1860)1月に祝言をあげた。

晋作は自筆の履歴の中で、

「父母の命により、井上家の娘を娶る」

と書く以外に、結婚について何も語らず、関心は薄かったらしい。

時に雅子16歳、晋作22歳。

美しいため息になる非常口  赤松ますみ


  高杉雅子

雅子は晋作の愛妾おうのと交友関係を持ち、
晋作の死後も交流を続けていたといわれる。

しかし、「三国一の花婿を引き当てた」 と祝福された雅子の

晋作との結婚生活は短いものだった。

晋作は結婚1年後に、藩士としての出仕をスタート。

このままいけば、美男美女の若夫婦として、

つつましく生活を送っていけるはずだった。

”西に行く西行、東に行く東行”        

だが時代は、晋作を放っておかない。

薫風の真っ只中を瞬間移動  板野美子

晋作は結婚2年後に、藩命を受けて上海を視察し、

その後は、国事に東奔西走し、萩の家に長くいることがなく、

一緒に暮らしたのは、つめて、約1年半という短さであり、

舅らと離れて住んだのは、文久3年(1863)4月、

晋作が萩郊外に隠棲していた2ヶ月ほどであった。

ただ、翌年には後継ぎとなる長男・梅之進(東一)も誕生し、

雅子は武家の嫁の役目を一つ果たしたと思っただろう。

ほんのりと空気のように坐ってる  谷口 義

雅子は不在の夫とは、頻繁に手紙のやりとりをした。

晋作からの手紙は、ほとんど武士の妻たる心構えに終始し、

雅子に教養を積むように求めていたが、

晋作は時に長文になる雅子の手紙が届くのを、

楽しみにしていたという。

「高杉の両親も井上(雅子の実家)も大切にせよ」、

「武士の妻なのだから、気持ちを強く持って留守を良く守れ」

「曽我物語やいろは文庫などを読んで、

   心を磨くことを心がけること」

「武士の妻は町人や百姓の妻とは違うのだから」

「武士の妻」としての心得が綴られている。

私の言葉で綴る恋の文  永井玲子



晋作が描いたと言われる”おうの”の後姿 (右下に東行のサインが見える)      

また晋作は、美人の妻がいるにもかかわらず、

洒落者で遊郭好きの男である。

元治2年(1865)に、藩内クーデターを起こして、

俗論党を打倒した際には、芸者たちに三味線を弾かせながら、

藩庁に入城するほど、彼は花街を愛した。

そして晋作といえば、芸妓・おうのとの愛が有名である。

正妻の家には、帰らなかった晋作だが、

おうのといると、心が安らいだようで、

時間の許す限り、近くにおいたという。

【晋作は優しい夫で、妻・雅子は一度も叱られたことがなかった、
  というが、
やがて、夫に愛妾・おうのがいることを知った雅子は、
  腹立ちのあまり、慶応2年2月、義母と息子と一緒に、
  夫が同棲中の下関へ一時、引っ越すこともした】

笑顔の裏も笑顔だなんていい人ね  八田灯子


  おうの

高杉晋作は藩命で下関の白石正一郎邸で「奇兵隊」を組織し幹部を
引き連れ、
堺屋で宴会を開いていた、その席でおうのと出会った。


晋作がおうのと出合ったのは、下関の茶屋。

そこでは、おうのは「糸」と名乗っていた。

晋作が24歳、おうの20歳のときであった。。

伊藤俊輔らは、おうのを見て、

「晋作ほどの人物がなんであんなボケっとした女と…」

と不思議がったという。

だが、晋作にとって、とても大人しく優しい性格で、

おうのの、このぽけっとした天然の部分に、

日ごろ荒みがちだった晋作は癒されていた。

トンボの眼 360度 空色  本多洋子

筆まめな晋作は、雅子以外、おうのにも同志たちにも、

数多くの手紙を送って、自らの思いを伝えている。

慶応2年4月5日付、愛人・おうのへの手紙には

「人に馬鹿にされないように」

「写真を送るので受け取るように」 と綴られている。

こうした手紙から、晋作の本性をうかがい知ることができる。

雅子宛の手紙は漢字が多く、愛人・おうの宛の手紙は、

平仮名が多く、晋作の心遣いが伝わると同時に、手紙を読む限り、

放蕩のはねっかえりの晋作はどこにも見られないのである。

芋焼酎バカラで飲むと美味になる  新川弘子


     晋作墓所

晋作の遺骸は遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた。
奥が東行庵 (近くに、おうの・(谷梅處尼)が眠る)

小倉戦争後、肺結核になった晋作の体調は悪化する。

馬関新地の庄屋林算九郎邸の離れで療養する。

おのうは晋作の恩人・野村望東尼の援助を得て、

ひたすら晋作の看病に努めた。

望東尼は、晋作の正妻の雅子が訪れる日に、

雅子とおうのの緩衝役を買って出た人でもある。

しかし、晋作は志半ばで慶応3年(1867)4月13日、

29歳で亡くなってしまう。

晋作は死の間際、「吉田へ・・・」 と、うわごとを言ったという。

奇兵隊の本拠地・吉田郷のことと皆が思い、

遺体は、吉田の清水山に葬られた。

雅子と晋作は7年、そして、おうのと晋作は出会いから4年、

短い愛の終焉であった。

解剖のときも麻酔をたのみます  井上一筒

維新後、亡き夫・晋作の名声が高まってくると、

雅子は一人息子の教育のため、

東京に出て粛々と暮らし、息子・東一を育てあげた。

大正2年、雅子は外交官などを努めた息子を先に亡くす

悲しみにも遭ったが、孫への血脈は受け継がれ、

大正11年1月9日、78歳で死去。

"文見てもよまれぬ文字はおほけれど なおなつかしき君の面影"

これは雅子が37歳の時に詠んだ歌である。

このころには、彼女を困らせた晋作との思い出も

愛おしいものとなっていたのに違いない。

ふたりして上げた花火をどうしよう  森口かなえ


   梅処尼
                            たにばいしょう
一方、おうのは晋作の死後、剃髪(明治14年)梅處梅処尼)と名乗り、

明治42年8月7日 、67歳でこの世を去るまで、42年間、

「東行庵」と名付けた庵で、生涯、晋作の菩提を弔った。

「谷」の姓は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、

晋作の死後、梅処尼に引き継がれた

雅子とおうの、同じ男を愛した女同士で気の合うところが、

あったのだろう。

どちらかが欠けるまでその付き合いは続いた。

カンツォーネおとなの恋をしています 美馬りゅうこ

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依頼人はタンポポ引受人は風  徳山泰子


高杉晋作による藩政奪還の戦い(大田絵堂の戦い)

当初は傍観していた諸隊だったが、高杉が挙兵すると次第に合流。
藩政府側は毛利宣次郎を諸隊鎮静手当総奉行とし、追討隊を進発させた。
年が明け慶応元年1月14日正午ころ、大田絵堂において、
藩政府軍と
正義党とが激突。 政府軍優勢の中で大激戦となるも、
遊撃軍30余名が東側の小中山から、また、奇兵隊が大木津口より
政府軍の側面をつき、10日間の激戦の末、正義党が勝利をおさめた。

先生が見つけなければただの石  河村啓子




「高杉晋作 蜂起する」

禁門の変の際、天王山に追いつめられた宇都宮の広田精一は、

切腹直前、晋作宛てに1通の手紙(遺書)を書いている。

この一通の手紙が高杉晋作を「功山寺決起」へと動かした。

「……今度の義挙大敗……河野(久坂玄瑞)牛敷(寺島忠三郎)

   入江(九一)来翁(来島又兵衛)討死。

   所詮尊兄(高杉)一人、何卒割拠を御主張になられ、

   四君の任を一身に担当になられ候程の御尽力、伏して望み候。

   中略…昨日の戦争、平日操練の形に振り回し候者一人もこれ無く、

   会(津)の兵法に及ばざる事遠し、

   これらの弊、急速御一洗、号令を厳にし、

 兵士を精選する事御担当、

   兎角何事も御一身に任ぜられ候よう、伏して望み候」  

散り際の啖呵は砂利を吐いてから  小林すみえ      



遡ること5年前の安政6年11月、師の松陰が処刑された1月後、

高杉は藩重役の周布政之助への手紙に

「我が師・松陰の首、ついに幕吏の手に掛け候の由。

…中略…仇を報い候らわで安心仕らず候」 

と記している。

広田の手紙は、晋作のこうした厭悪の思いにさらに火を点けた。

「久坂や入江、そして己の志を自分に(晋作)に託して自刃した。

  師の仇敵を抱える幕府は、

  かけがえのない盟友たちの仇敵ともなった。


  もはや我らの手で切り 拓くしかない」

倒幕を終点地と定めながら、当面は内乱を鎮めること。

かくして高杉は、「功山寺決起」に踏み切ったのである。

 迷いなく大きなつづら金の斧  岡谷 樹

 
       赤根武人罪状一件
                  

功山寺挙兵を受けて、椋梨の下、藩政府は19日になって、

急進派幹部7人を斬首し、さらに追討隊を組織した。

これにより赤根武人による「融和策」は瓦解。

武装解除を通達された諸隊は、高杉らと合流することになった。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」

とは、伊藤俊輔が高杉を評して言った言葉である。

まさに電光の如く、伊崎の藩庁出張所を制圧。

すぐに近傍の寺に屯営を構えて、三田尻に停泊中の藩艦を奪取。

やがて、高杉の元に奇兵隊や急進派も参集。

彼らは「正義派」と称され、

「俗論派」主導の藩政府への抵抗勢力となった。

いい奴を送る煙たいのが残る  藤井孝作


山口の湯田温泉に「松田やホテル」に残されている檄文

晋作は、決起に際して示した「檄文」で、

藩政を私物化する「姦吏」「御国家の御恥辱」とまで糾弾し、

そして翌元治2年1月5日より、

5度に亘り両勢力による内訌戦を展開。

民意も得た高杉らの軍は勇戦し、

やがて藩政から幕府恭順勢力を払拭した。

この決起と戦闘には、俊輔や山県狂介ら旧松下村塾の少壮も、

果敢に加わり、師・松陰の評価の通りの働きを果たしている。

「松陰の人物評」 (『己未文稿』)
【太郎(原田)・松介(松山)の才、直八(時山)、
  小助(山県狂介)の氣、 傅之輔(伊藤俊輔)の勇敢にして事に当る、
  仙吉(岡仙吉)の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。
  然れども、大識見大才氣の如き、恐らくは亦ここに在らず。
  天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ

さらに他日の書簡でも伊藤については、

「周旋力」を高く評価している。

亡師の洞察に応えるかのように、彼らは以降も邁進した。

放電をしなさい灰になりますよ  森田律子

 
   伊藤俊輔

長州藩内が内戦のような状態に陥っていた12月27日、

幕府軍は長州から撤兵している。

明けて元治2年1月6日、諸隊は絵堂の藩政府を攻撃。

以後10日間にわたる武力衝突となる。

高杉らの軍は優勢だったが、勝利を得るまでには至らなかった。

こうした膠着状態が収束したのは、「中立派」の家臣団が結束、

諸隊とともに「保守派」を攻撃し、内乱の終結を図った。

これらの動きから、

藩主の毛利敬親は椋梨らを罷免することにした。

こうして再び、藩の中枢から保守派が一掃され、
                                                      さねおみ
2月には、高杉、広沢真臣、前原一誠らによる政権が擁立された。

だが以前のような過激な攘夷運動を目的とせず、

力を蓄えられるまでは,幕府や諸外国に対し、

「武備恭順」を藩是とした。

想定外をテロテロ嗤うイカフライ  山口ろっぱ

この事態を受けて、危機感を抱いたのが幕府である。

彼らは再度の「長州征伐」を視野にいれ、

慶応元年(1865)5月には将軍・徳川家茂が大坂に入った。

さきの己未文稿で松陰は、門下双璧とされる高杉と久坂を
      がぎょ
「人の駕馭を受けざる(恣意のままに動かされぬ)高等の人物なり」

と絶賛。

高杉晋作は、もはや幕府に対して、些かも信頼を置かずに、

自分たちの手で新たな日本を切り拓こうとの決意を固める。

裏切らぬものの一つとしてバナナ  中野六助

「松陰から高杉晋作へ壮行の辞」(安政5年7月)

『僕はかって同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。
  その後、高杉晋作を同志として得た。
  晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。
  しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。
  そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。

  そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、
  晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、
  皆もそれを認めるようになった。
  玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、
  晋作を推すようになった。

  晋作も率直に玄瑞の才は、当世に比べるものがないと言い始め、
  二人はお互いに学びあうようになった。
  僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、
  晋作の識は気から発したものである。
  二人がお互いに学びあうようになれば、
   僕はもう何も心配することはない
と思ったが、

  今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行ていくならば、

  できないことはない。
  晋作よ、世に才のある人は多い。
  しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはいけない』

見つけてください私は此処にいるのです 春野ゆうこ

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ポケットに入る携帯ウォシュレット  井上一筒


高杉家200石取りの家。立派な屋敷である。

江戸時代の武家の生活事情。
年貢の割合は四公六民。200石取りの武家なら、
4対6の割合で80石が取り分になる。

この80石の内、実際に食べる分だけが現物納入、
残りが現金給付となる。

地域によって違いもあるので、ざっと計算して、
手元に入ってくるのは、
現在の年収で成すと、
550万から750万くらい。

200石10人扶持ともなれば、家臣10人を養わねばならない。
これではとても普通の生活はおくっていられないはずなのだが…。

そんな中、晋作は坊ちゃんといわれ好き三昧に人生謳歌する。

霙という半端なものが降ってきた  青砥和子



「高杉晋作を辿る」

奥番頭役から直目付役へと、昇進していった晋作の父・忠太小は、

藩主にひたすら忠実で、実直な人物ではあったが、

小心な男でもあった。

「晋作や、おおぎょうなことはしてくれるな。

  トトの立場ちゅうものが、あるからのう」

というのが口癖であった。

晋作には、耳にタコができるほどではあったが、

彼の偉いところは、父親を心配させぬように、

気を使うところであった。

父を一盛 祇園囃子の添え物に  山口ろっぱ

しかし晋作は、父親と違って、気性の非常に激しい、

また男気の強い性格である。

おいそれと父親の言いなりに、なってはいられなかった。

「おおぎょうなこと」 

をせずにはおれない晋作は、父親の目に触れないように、

こっそりと、”おおぎょうなこと”をしていたのである。

あひるの子親が作った罪と罰  山本輝美
              ひやこ
高杉家と少し離れた平安古という街筋に、久坂玄瑞が住んでいた。

このあたりには、槍持ちなどを任とする武士などが、住んでいた。

そのためか、体格のよい男が、随分といたそうである。

久坂も六尺もある大きな男で、

当時としては、相当に大柄であるが、

頭脳明晰で、幼いころから、神童と呼ばれるほどであった。

その久坂との出会いが、高杉の人生を変えた。

砂利道に偏平足をくすぐられ  近藤北舟



運命の場所は、吉田松陰の主宰する”松下村塾”である。

父親たちが、子に近寄らないように諭し、恐れた場所である。

村塾には、親の反対を押し切って入塾した仲間たちが、大勢いた。

勘当されて家を追い出された者も、数知れずいた。

そういう不良仲間と呼ばれた若者たちを、指導していたのが、

吉田松陰である。

その松陰自身も密航を企て、牢獄に入れられていたのだから、

彼を大罪人と考える、萩の人たちも多くいた。

いわゆる、”村塾が危険視”されるのも、当然であった。

あと戻りできぬ暦と夏みかん  森田律子



晋作にとって最大のライバルであったのが、久坂玄瑞である。

桂小五郎もいた。

桂は19歳のとき江戸へ留学し、練兵館に剣術を学んだのだが、

生来の運動神経の良さか、入門早々に頭角を現し、

その塾頭になって萩に帰ってきた。

しかし、晋作はまだ頭角を現すに至らず、

詩作にふけったり、気まぐれに剣術の稽古をしたりと、

桂のような勢いがまだなかった。

桂の噂は、知っていただろうが、それほど関心も寄せず、

お坊ちゃん育ちの、ただの人だったのである。

始まりも終わりも知らぬ円である  竹内ゆみこ

気性の激しい高杉は、入塾以来、

同じく負けん気の強い久坂を、意識するようになる。

久坂は、秀才の誉れが高かったのだが、

両親や兄とも死別し、いわば、孤児同然の境遇を送っていた。

久坂もまた孤独ゆえ、仲間を求めての入塾だったのだろう。

村塾には、いろいろな事情から常時20人ほどが、寄宿していたようだが、

通いも含めると、200人の若者が、出入りしていた。

このような中で、晋作は、いつかこの頂点に達し、

彼の個性を、発揮していくのである。

世代交代のゴングが鳴っている  高島啓子


  晋作の三味線

「おもしろくこともなき世をおもしろく」

これがおおぎょうな男の生活信条であった。

晋作は、折りたたみ式の三弦(三味線)を持ち歩き、

それを片手に酒で喉を潤わせて、浄瑠璃を楽しんだ。

十八番は、自作自演の即興だったそうだ。

静々と浄瑠璃を歌うのが、趣味であった。

陸奥宗光と一緒に、馬関にある奇兵隊の兵舎を訪れた際に、

新作の ”鬱の虫が巣くったような” 浄瑠璃を

坂本龍馬らはたんまり聞かされた。

周りの辟易している様子などお構いなしである。

そんな場で、晋作は破天荒に藩の金を使った。

このとき晋作は、すでに酒樽などを開かせて、

宴の準備を整え、指揮をとったという。

手がいかんこの手が悪いことをして  河村啓子



手元にあった折りたたみ式三弦は、いわば今でいうカラオケ装置。

マイクは、自分の声のみとなるのだが、

江戸中期頃から浄瑠璃は、流行の兆しがあり、

三弦で節を取り、最初に浄瑠璃を楽しんだ人物は、

織田信長ともいわれている。

ちなみに、

源義経と長者浄瑠璃娘との恋歌」を、三弦で奏でたものが、

カラオケの始まり”であったとか。

天秤に水平思考を載せてみる  ふじのひろし

酒を愛し、三味線を愛し、詩歌を愛し、2人の女性を愛した晋作が、

妻・雅子おうのの初体面に、修羅場を想定し残した漢詩がある。

妻児将到我閑居    (妻児まさにわが閑居に到らんとす)
妾婦胸間患余有    (妾婦胸間患い余りあり)
従是両花争開落    (これより両花開落を争う)
主人拱手莫如何    (主人手をこまねいて如何ともするなし)

「妻の雅子と息子が下関の自分の住まいにやってきた。

  我が愛人のおうのは、そのことに驚き、そして大いに胸を痛めている。

  美しい花である二人の女性はどちらが咲き落ちるかを競い合っている。

  こんな光景を見て、僕は手をこまねいて見ているしかなかった」

この後も雅子は、望東尼の仲裁も得て、

おうのと交友関係を持ち、晋作の死後も交流を続けたという。

(この文章は、8/12へ晋作の2人の女性の物語にと続きます)

言い訳を太らせ今日を生き延びる  前岡由美子

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洗って洗って空は蒼に戻るべし  山口ろっぱ

 
       高杉晋作の憂国の楓 

大正時代に入ってから発見された「憂国の楓」の木には、
                    つ
「盡国家之秋在焉」(国家ニ盡<スノトキナリ)の文字が見られる。

これは、八月十八日の政変の直後に、高杉晋作が、 

“国家のために尽す時がきた”

という決死の思いを刻んだものである。

(湯田温泉の老舗ホテル「松田屋」に残る)

うつむいていると一生空はない  武智三成

「吉田松陰が高杉晋作を評した言葉」

【新知の暢夫(高杉晋作)、識見気魄、他人及ぶなし。

   但だ一、暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば、

   必ず害を生ぜん。


   然れども両暢夫相抗すれば、必ず一暢夫の斃るる者あらん。

   是れ亦憂ふべきなり。

   此の間の苦心、吾れ桂(桂小五郎)と一言せしに、

   桂も之れを首肯せり。


   無逸(吉田利麿)の識見は暢夫に彷彿す。

   但だ、些かの才あり。

   是れ大いに其の気魄を害す。

   気魄一たび衰へば識見亦昏む、嘆ずべし嘆ずべし。

   諷するに老家の説を以てせば、或いは一開発あらんか。

   抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず】

切っ先は鋭いが芯は暖かい  森 廣子   



「松田屋ホテルの浴槽「維新の湯」

激動の幕末期、高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、
坂本龍馬、伊藤博文、大村益次郎、山県有朋、井上馨、三条実美らが
当宿に集い、夜 ごと密議を繰り広げたのち、湯田温泉に浸かって
疲れを 癒したといわれている。

「高杉晋作 憂国の楓」

幕府の長州征伐の方針の動きを受けて、長州藩内は激動した。

禁門の変の翌月には、前年に受けた砲撃の報復として、

異国船が、馬関に到来、猛攻を見せた末に、藩砲台を完全に制圧。

高杉晋作が主導した和議交渉と並行し、

藩内では、「俗論派」とも称される佐幕派勢力が台頭する。

彼らは、禁門の変の際に上京した国司信濃ら3家老を切腹させ、

さらに4名の参謀を処断、幕府への恭順姿勢を示した。

これに加えて、幕府軍は長州に対し、

藩内に滞留する三条実美ら5名の公家の身柄の移管と、

山口の藩城の棄却、

そして、藩主父子の謝罪状提出を条件に撤兵した。

流木に沖のことなど聴いている  中野六助

その後、藩内は尊皇倒幕を唱える「急進派」

幕府に従おうとする「恭順派」

対立で混乱を極め元治元年には、周布政之助の自刃、

井上聞多が恭順派の一派に急襲され、瀕死の重傷を負い、

「松田屋」に運び込まれるという事件も起こった。

さらに急進派の重鎮が政権から一掃され、こうして、

長州の藩論は、椋梨藤太を中心とする保守派一色となった。

とりあえず保護色になる輩達  伊藤志乃



藩政を牛耳った保守派は家老や参謀を処分するだけで収まらず、

急進派の幹部を次々に投獄していった。

小田村伊之助も投獄された一人である。

晋作は間一髪のところで捕縛から逃れ、

一時筑前へ身を潜めた。

しかし藩内における幕府恭順派の目に余る暴挙に、

怒りを覚えた高杉は、ほどなく帰藩し、

諸隊の幹部に決起を呼びかけた。

だが当初は騎兵隊総督・赤根武人による藩との融和策が、

進んでいることもあり、

諸隊幹部で決起に応じるものはいなかった。

ココロ地方に異常乾燥注意報   佐藤美はる

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、

                      生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

それでも高杉は決起に関して、師・松陰の言葉を噛みしめ、

長府の功山寺にいた三条実美ら5人の公卿たちに決意表明をする。

その上で力士隊総督の伊藤俊輔の賛同を取り付け、

さらに遊撃隊総督・石川小五郎を説き伏せ、

わずか80人ほどの兵力であったが、

元治元年12月16日、挙兵した。

これは公卿たちに決意表明した場所から「功山寺挙兵」と呼ばれる。

雲は城に漂い無頼の日のかたち  墨作二郎

高杉らは、その日のうちに「下関新地会所」を襲撃、
           きがい    へいしん
さらに三田尻では帆船「癸亥」「丙辰」を奪取。

これに対し、藩政府は19日になって、急進派幹部7人を斬首し、

さらに追討隊を組織した。

これにより赤根による融和策は瓦解、

武装解除を通達された諸隊は、高杉らと合流することとなった。

下関新地会所=下関に設けられていた萩藩の出先機関で、
        高杉は食料や武器を調達するため、ここを襲撃した。

ひとつだけ倒れぬドミノございます  田口和代

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書きとめて発酵させているノート  美馬りゅうこ

(画像は拡大してご覧下さい)
   江戸流行菓子話
船橋屋織江著ー天保12年(1841)刊)

深川佐賀町の菓子の名店・船橋屋は文化初めの創業で、

練羊羹を売り物としていた。本書は その船橋屋の主人が、

店に伝わる菓子の製法を、素人の菓子好みの人々が作れるようにと

分量付きで記した。

『料理通』の菓子編といった趣があり、

同じく「江戸流行」 の角書きを持つ。

紛れもなく、初代の、いわゆる初心者用のレシピ本なのである。

間違いなく、本好きの杉家の人々、特にはこれを購入し、

読み漁ったに違いない。

後年、この菓子作りが高杉晋作の命を救うことにもなる。

切り取った空一枚の使いみち  山本早苗

内容は、次のようなものである。(1915年刊「雑藝業書」第2・活字版より)

『この本は、お菓子好きの素人の方のために書いたもの。

   商売でなく趣味でお菓子を作ってみたい方は、

   この本に書かれている製法通りに作ってみましょう。

   まずまずのお菓子が出来上がるはずです』

ページを繰っていくと最後に、

『利潤を離れて製する時は、珍しく至りて面白き品も出来るなり。

   宜しく工夫在して製して見給ふべし。

   また,商売でなく趣味としてつくれば、

   かえって面白い珍菓が出来るでしょう。

   さあ皆さん、それぞれ工夫してお菓子を作ってみましょう』

ある。

作り方は、ほぼ現在と同じ。

それにしても、売り物の秘伝を教えるとは、

菓子商・船橋屋織江氏は度量の広い人である。

黄金糖の角で磨いている言葉  河村啓子

「羊羹の歴史-①」

「羊羹」はもともと中国から伝来したもので、『庭訓往来』によると、

日本では室町時代の初期茶道の湯の菓子「点心」から出た間食だった。
            あつもの
間食で献肉を使って羹を出したのが、羊羹のような蒸しものであり、

羊の肝臓に似ていたことから「羊肝」といわれた。

が、菓子では字体が好ましくなく、字を改めて今の「羊羹」になった。

「点心」=定食の間の小食を意味する。

六月の右手は右のポケットに  嶋沢喜八郎


尾張・徳川家の御用達だった羊羹屋

ともかく初期の羊羹は、

小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る「蒸し羊羹」であった。
                       ウイロウ
蒸し羊羹からは、「芋羊羹」「外郎」が派生している。

また、当時は砂糖が国産できなかったために大変貴重であり、

一般的な羊羹の味付けには、甘葛などが用いられることが多く、

砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していた。

17世紀以後、琉球王国や奄美群島などで、

黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって、

日本本土に持ち込まれると、

砂糖が用いられるのが一般的になり、

甘葛を用いる製法は廃れていき、

後に、大河ドラマで活躍する「煉羊羹」が考案された。

飛んだ日の空気を知っている翼  菱木 誠

「練り羊羹」が日本の歴史に登場するのは、慶長4年(1599)
                         てんぐさ
鶴屋(後の駿河屋)の五代目、善右衛門が天草・粗糖・小豆あんを

用いて炊き上げる「煉羊羹」を開発、その後も改良を重ね

万治元年(1658)に、完成品として市販されるに至る。

しかし、寒天を使用した練羊羹が一般に広く普及したのは、

江戸時代の中期からであって、

それまでは依然として「蒸し羊羹」が主流を占めていた。

その後、十八 世紀後半になり寒天で固める練羊羹が、

口当たり日持ちのよさで人気を集め、各地に広まった。

白というその一点の毅然かな  徳山泰子


   鶴屋八幡

「羊羹の歴史-②」

「練羊羹」は餡に寒天と砂糖を加えて、練りながら煮つめたもので、

材料の寒天の創製は万治年間(1658-61)といわれている。
 きゆうしょうらん
『嬉遊笑覧』1830)には練羊羹は寛政(1789-)の頃からとあり、
ほくえつせっぷ
『北越雪譜』(1842)にも、練羊羹は寛政の初めに江戸で作られて、

諸国に広まり、今は江戸から遠い小千谷(新潟県中越)にもあると記す。

江戸の練羊羹は、寛政の初め日本橋の喜太郎という者が作りはじめ、

文化年間(1810ー)には、

上菓子屋の鈴木越後金沢丹後でも練羊羹を売り出し、

文政年間(1818-)には、「江戸流行菓子話」の著者でもある、

深川佐賀町の船橋屋織江の練羊羹が評判になる。

よいニュースそっと耳うちいい笑顔  北山惠一

この船橋屋の主人が著した「近世菓子製法書」には、

練羊羹の作り方以外に、

羊羹がおいしく頂ける大きさまで、親切に書いてある。
        さお となふ
『練物類一棹と唱るは、長さ六寸(約20cm)に巾一寸(3.3cm)

   一船にて十二棹に切るなり。
                     つうげん
   製して流し入る箱を、菓子屋の通言に船という。

   今は練羊羹を製せざる所もなく、常の羊羹はあれども無きが如く、

   練を好み玉ふ様にはなりたり』

雨が降るいちご白書の五ページ目  清水すみれ

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