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川柳的逍遥 人の世の一家言
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墓標にはこんなもんじゃと書いてくれ くんじろう


   本能寺の変

「松はここで死んでしまうのか」

「本能寺の変」から2日たち、安土城下は明智の軍勢に占拠された。

信繁たちは琵琶湖近くの農具小屋に身を潜め、

安土から脱出する機会をうかがっていた。

「明智の兵がうろうろしています」  信繁が周辺を探ってきた。

そのとき、人質の子どもが泣きだし、明智の兵に見つかってしまう。

信繁たちが敵兵を引き付けて必死で戦い、松たち人質は捕まらないように

四方に散らばって逃げた。  

明智の兵は松を執拗に追いかける。


佐助が助勢に駆けつけ、一度は敵兵の手を逃れたが、

とうとう断崖まで追い詰められた松は、

琵琶湖が満々と水をたたえる崖下へと身を躍らせた。

ドラマ「真田丸」6話はこのように始まる。


はたして松は、本当にここで死んでしまうのだろうか。

マスキングだれか剥がしてくださいな  岡谷 樹

歴史ではこうなってます。

「村松殿」

松こと、村松殿は、永禄8年(1565)真田昌幸の長女として誕生。

真田信之・信繁の姉で、名は於国。

17歳のころ、真田家家臣の小山田茂誠に嫁ぐ。

しばらくして、茂誠が昌幸から小県郡村松を領地として与えられ、

知行地としたことから、「村松殿」と呼ばれた。

因みに茂誠の父は、甲斐国都留郡の国衆・小山田有誠

なお、天正10年に武田家が滅亡した後、織田信長に臣従した際に、

昌幸は人質を安土城へ送っているが、それが村松殿であったといわれる。

松は茂誠との間に、男児ひとり(小山田之知)を儲けている。

湯葉シュッとすくう寿色になる  田中博造
                 いぬぶし
慶長5年(1600)下野国犬伏で真田一族は、東軍につくか西軍につくか

去就を決断するための協議を持った。

信幸「徳川への恩」昌幸・信繁「豊臣の義」と三成への友情を主張。

いわゆる、真田存続の策ともいわれる「犬伏の別れ」である。

この時、    村松殿、夫・有誠、長男・之知らは、信幸に帯同。

慶長11年3月13日には、之知は信幸から知行を与えられている。

慶長19年(1614)からの「大坂の陣」では、

病床にあった信之の名代の信吉・信政兄弟に従い、子・之知と共に従軍。

茂誠は信繁とも親交があり、信繁から茂誠宛に出した近況を伝える手紙は、

信繁が最後に出した手紙であったという。

仮面から仮面に届くクール便  荒井慶子

「大坂・冬の陣」が講和休戦となったあとの慶長20年(1615)正月24日、

大阪城中から信繁は、『お便りいただきましたので、一筆したためます』

の書き出しで、姉(村松殿)に対して書状を送っている。

『お伝えしたいことがございましたので、一筆申し上げます。

   さてさて今度、思わぬことから合戦となり、

   わたしたちもこちらへまいりました。


   おかしなことと思われたことでしょう。

   しかし、まずまず無事にすみ、わたしたちも死なないですみました。

    お目にかかって申し上げたいと思います。

 明日はどうなるかわからない情況ですが、いまは何事もありません。

   主膳殿(村松殿の長男・小山田之知)にも時々、お会いしますが、

   こちらがとりこみ忙しがっていますので、

   ゆっくりとお話もできませんでした。


   こちらはかわったこともありませんので、ご安心ください。

   くわしく書きたいのですが、この者が急いでいますので、

   あわてて書きました。     
またお手紙をさし上げます。

                                                                                                    かしく

※ わたしたちとは=信繁・大助父子と一族郎党。
※ こちらへとは=九度山から大坂城・秀頼に出仕したこと。

割り算の余りがとても愛しい  雨森茂樹

【原文】
(たより御さ候まま一筆申あけ候、さてもさてもこんとふりよの事ニて、
御とりあひニ成申、われわれここもとへまいり申候、
きつかいとも御すいりやう候へく候、たたし、まつまつひすミ、
われわれもしに申さす候、御けさんニて申たく候、
あすにかハり候ハんハしらす候へとも、なに事なく候、
しゆせんとのニもさいさいあひ申候へとも、ここもととりこミい申候まま、
心しつかに申うけたまわらす候、ここもとなに事もなく候まま、
御心やすく候へく候、くハしく申たく候へとも、
此ものいそきたちなから申入候ままさうさう申候、かさねて申入候へく候、
                                                                                          かしく、
正月廿四日     さへもんのすけ
                         むらまつへまいる

                                                                     (真田一族の史実とロマン 東信史学会)

うっすらと血を通わせて空動く  岩田多佳子

村松殿からの見舞いに対して返信する信繁の、

姉に対する親愛の情が感じられる。


彼はこの中で村松殿の夫・有誠や子息・之知のことにも、触れているが、

「大阪の陣」に参加した有誠も、休戦中、何度か信繁を訪ねたのだろう。

夫婦ともに、信繁の身の上を心配していたのだ。

村松殿は寛永7年(1630)6月、死去。 

享年65歳。


ドラマの死より、47年長生きしている。 法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉

ぬらりひょんから人間の取り扱い書  前中知栄

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天かすになり天麩羅を離脱した  井上一筒


  真田信尹

「真田生き残りの陰の立役者」

北条・徳川・上杉という三大勢力がせめぎあった「天正壬午の乱」に於て、

巧みに陣営を替えつつ、自らの所領を守りぬいた真田昌幸

その鮮やかな手腕を影で支援した人物がいる。

昌幸の実弟・加津野昌春信尹)である。

昌春は昌幸同様、幼くして武田家の人質となり、

信玄の命で甲斐の名族・加津野氏の名跡を継承。

槍奉行を務め、武田家臣団の一翼を担う存在であった。

そして、武田家滅亡後は兄・昌幸と別行動をとりつつ、

昌幸の意を汲んで、真田本家のために暗躍するのである。

暗雲にそなえ寝息を溜めている  清水すみれ

本能寺の変後、上野の滝川一益が北条氏に追われると、

昌幸は一時的に上杉景勝に従属し、北条氏直の信濃侵攻を前に、

北条に鞍替えした。

この時、上杉陣営に残り、北条に与する兄のために、

上杉方将士へ調略を仕掛けたのが、昌春である。

おそらくそれは昌幸の指示であったろう。

しかし調略が露見すると、昌春は上杉領から退去した。

三分間のアリバイがないのです  森田律子

ほどなく北条と徳川の対立が信濃・甲斐で始まると、

昌春は次に徳川家に身を投じる。

これもまた、昌幸の指示であった可能性が高い。

そして昌春の存在が、昌幸の運命に大きく影響する。

北条の大軍を前に苦境に立つ徳川家康は、
       よだのぶしげ
武田旧臣・依田信蕃らの進言もあり、

北条に与する昌幸を陣営に迎えることを望んだ。

この時、そのパイプ役を果たしたのが、昌春であった。

善悪の手前に損得があって  中村幸彦



その後、昌幸は、徳川と手を切るが、昌春は残留。

紆余曲折を経て、その子孫は徳川の旗本となった。

なお大阪の陣の折、信繁に徳川につくことを誘ったという。

                         参照・平山優『天正壬午の乱』

手を打って鬼に知らせる鬼ごっこ  青砥たかこ

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隙間の件でよせてもろてもいいですか 竹内ゆみこ


天正壬午の乱勢力図  (画像は拡大してご覧ください)

天正10年6月2日、京で「本能寺の変」勃発。

天下統一を目前にしていた織田信長の死を千載一遇の好機とみて、

上杉景勝、北条氏政、氏直父子、さらに徳川家康が甲信・上野などの
     さんだつ
旧武田領簒奪に向けて動き始めた。

「天正壬午の乱」と呼ばれる争乱の始まりで、

信濃・上野に拠点を持つ真田氏は、大大名たちの侵攻に直面する。

こうした混乱の中で真田昌幸は、自身を取り巻く情勢を的確に読み、

大大名たちを次々に手玉にとって、独立大名として生き残っていく。

それはまさに神業だった。

煽てたら行進曲になりました  美馬りゅうこ  


   岩 櫃 城


「天正壬午の乱ー概略」

『天正10年6月末~7月中旬』

上野を領する滝川一益は北条氏に追われた。

滝川に帰属していた真田昌幸は沼田城・岩櫃城を取り戻す。

沼田・吾妻領を固めた昌幸は、北信濃を窺う上杉に従属するが、

7月中旬に北条の大軍が信濃に侵攻してくると、

上杉から離れて北条に従う

善人の貌へ修正液こぼす  笠嶋恵美子

矛先を変え、碓氷峠を越えて信濃に入った北条軍2万は、

川中島まで進み、
海津城に入っていた上杉景勝軍8千と対峙。

しかし海津城の内通工作に失敗した北条氏直は、

徳川家康が進出中の甲斐に転進する。

昌幸は上杉への備えを主張して、小県に残留。

一見、北条の後顧の憂いを除く提案である。

しかし、昌幸の思惑は別にあった。

すなわち昌幸は独立に向けて、自然な形で北条と距離を置いたのである。

この辺で飛んでみなはれ運だめし  前中知栄

『7月下旬~10月末』

甲斐に入った北条氏直は、若神子城に拠り、新府城の家康と対峙。

一方、北条軍別働隊が御坂城に入り、家康の腹背を衝く構えを見せた。
                   きか
劣勢の家康は、昌幸の存在を奇貨として陣営に誘うと、昌幸はこれを受けて、

沼田城・岩櫃城に固執する氏直を見限って、10月下旬に手切れを通告。

徳川に与する。

氏直は昌幸を牽制すべく、配下に岩櫃城攻撃を命じるが、
    よだ のぶしげ
昌幸は依田信蕃とともに碓氷峠を占領。

北条軍の補給路と人馬の往来を遮断した。

氏直にすれば見事に昌幸に急所を衝かれた格好で、

結果、形勢不利となった氏直は、信濃から撤退、

同時に家康と和解し、
徳川・北条同盟が結ばれる。

指切りの指落ちつかず長い夜  藤原邦栄

『閏12月~天正12年6月』

巧みに真田を取り込んだと思われた家康ですら、

実は、昌幸の掌の上で転がされているに過ぎなかった。

北条が信濃より去ると、昌幸は小県を完全掌握するとともに、

家康に上杉の脅威を訴え、

徳川の支援を得て尼ヶ淵に新城を築く。


上田城であった。

押さえられなくて踊っているハミング  畑 照代


 尼ヶ淵から見た上田城

ところが問題が起きる。

家康が北条との和睦を結ぶ際に、

家康は真田の沼田・吾妻領の北条への引渡しを条件にしていた。

しかし、昌幸は断固としてこれを拒否。

家康は自分に従わぬ昌幸を亡き者にすべく、天正12年6月、

信濃の国衆・室賀正武を使って暗殺を画策するが失敗し、

真田と徳川の関係は悪化する。

昌幸は家康との断交を視野に、

新たな帰属先に選んだのが上杉景勝であった。

つついてもつついても沈まない箱  森田律子

『天正13年7月』

天正13年4月、昌幸は家康からの正式の使者に対し、

「沼田は徳川や北条からいただいた領地ではない。

    自分の武功によって得たものを、北条に渡せるものか」

と大見得を切って見せた。

言うまでもなくその背景には、上杉という「保障」がある。

徳川と決裂した昌幸は正式に、上杉への帰属を申し入れ、

7月15日に寝返りが決定する。

景勝は昌幸に対し小県・沼田・吾妻への援軍派遣を保障し、

大幅な加増も約束していた。

昌幸側からは、二男の信繁が人質に出され、

閏8月2日、「第一次上田合戦」が始まる。

犬の小便ごときに負けぬタンポポ  雨森茂喜

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踊り場はあんたの脳の表面積  河村啓子


    真 田 丸
信繁は大坂城南東の惣構外側に、のちに真田丸と呼ばれる出城を築いて
徳川家康と対峙した。


大河ドラマ「真田丸」で脚本家・三谷幸喜が意図としていること、

何を思い、
何を見て欲しい、何を見せたいかを知って、

ドラマに接すれば、
一層、面白くこのドラマを見ることが出来る。



「真田丸の脚本家・三谷幸喜が語る真田丸」

物語りの序盤は、そこに至るまでの戦国版「三国志」と言うべき、

「天正壬午の乱」を丹念に描きます。

全く先が読めない、緊張の連続。

視聴者の皆さんも、アドレナリン出まくりだと思いますよ。

物語りの前半は信繁と兄・信幸が、強烈な個性の父・昌幸を見て、

何を感じ、
何を学んでいくのかが、主題になってきます。

哲学と神話はきっと紙一重  岡田陽一



大河ドラマでは主人公の父親は、

とても大事な役割として描かれることが
多いですが、

昌幸は歴代父親の中でも、桁外れなキャラです。


息子たちにとって、恩師でもあり反面教師でもある。

しかしどこか「俺は俺の道を行く、お前らは勝手にしろ」

と突き放している
ようにも思えるし、

とても温かく息子たちに接している風でもある。


とにかく、枠にはまらない父親像です。

発想の転換はせぬ唐辛子  皆本 雅



一方、息子たちですが信繁の影に隠れがちな兄・信幸も、

今回はきちんと描きたい。

真面目で堅物で信繁に比べると、地味なイメージがありますけれど、

彼には彼のドラマがある。

父親に翻弄され、父親の破天荒なところを受け継いだ弟に振り回され、

さらには、徳川側の猛将・本多忠勝の娘・小松姫を妻にもらう。

それはもうストレス抱えまくりの人生です。

耐えに耐えたその先に、彼が見つけたものは何だったのか。

それを僕もこれから探っていこうと思います。

そして彼は、そうやって学んだことを糧とし、

やがては天下一の知将となっていくのです。

歳月や埃にだってある誇り  徳山泰子



信繁が積極的に関わってくるのは「大阪の陣」から。

それまでは信繁が体験していないこと、見ていないことは、

どんなに大きな歴史上の事柄でも、極力描かないようにするつもり。

その分、信繁が見たであろう出来事は細かく描きます。

ですから、秀吉、北政所、茶々(淀)といった大坂城の人々も、

信繁の目線から見た人間像という、今までにない描き方になると思います。

また若き信繁が出会う石田三成大谷行部加藤清正といった人たちが、

「関が原」以前のなんでもない日常の中で、

何を考え生きていたのかも、
ポイントです。


そこで信繁が見聞きし感じたことが、後年、「大阪の陣」で、

なぜ、命を懸けてまで
大坂城を守ろうとしたのか、

その答えにつながっていくと思うからです。


六のとき七になるのを待っている  福尾圭司



敗者に惹かれると言いましたが、

「滅びの美学」はあまり好きではありません。


信繁は、死に花を咲かせるためではなく、

あくまでも勝つつもりで大坂城に入ったと思いたい。

彼がどんな思いで兵を動かして、家康を追い詰めていったのか、

考えただけでワクワクして眠れなくなります。

ひょっとしたら今回の「夏の陣」は、豊臣方が勝つんじゃないか

と思ってしまうような、それぐらい希望に満ちたクライマックスを

描きたいと思っているんです。

私以外立入禁止の道を往く  下谷憲子



また最終回に至るまで、

信繁の家族に対する思いは、決して薄まることはありません。

無念のうちに死んでいった父への思い、

最後まで自分についてきた、妻や子に対する思い。

そして今は敵となった兄・信幸への思い。

たとえ喧嘩をしても一緒にいなくても、家族というのは切れないものです。

真田家の面々も「家族」を常に心の隅に抱えて生きていくことになります。

タイトルの「真田丸」「大阪の陣」のときに信繁が守った出城のこと

ですが、
同時に一族を「船」に例えたものであります。

家族については、名前すら残っていない女性たちを含め、

一人ひとりのドラマをきちんと作っていくつもりです。

チャレンジを続けることに意義がある  吉岡 民



「真田丸」は信繁が主人公ではありますが、同時に偶像劇です。

信繁と家族、信繁と「天正壬午の乱」に関わる武将たち、

信繁と秀吉を取り囲む人々、信繁と大坂城に籠もった牢人たちと、

物語りが進むにつれ、

偶像劇の「偶像」は次々とメンバーが入れ替わります。


また信繁もそうですが、武田勝頼、上杉景勝、豊臣秀次といった、

偉大なる先代の跡を引き継いだ「ジュニア」の悲喜劇も、

しっかりと描きたいところ。


描きたいものが多すぎますね。

でもそれが描けてしまうのが、大河ドラマの醍醐味。

一年間、毎週リアルタイムで見る人だけが味わえる楽しさを、

ちゃんと届けられるドラマにしたい。

いよいよ「天正壬午の乱」が佳境にはいります。どうぞお楽しみに。

らくがきとはこんなに愉しいことなのか  庄田潤子

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運だけでここまで来れぬ大河の一滴  小林満寿夫


 上杉  徳川   北条    (拡大してご覧ください)

「大勢力の狭間で」

武田滅亡後、真田昌幸は武田の旧領は北条氏政が手中に収めると考え、

北条氏政の弟である武蔵鉢形領主の北条氏邦と通じた。

だが予測に反して甲斐は河尻秀隆、信濃の佐久郡と小県郡は、

滝川一益が領した。

両名とも織田信長の重臣である。
                     よしみ
そこで昌幸は信長に名馬を贈り、好を通じることにしたのだ。
                                   こうづけ
こうして昌幸は信長に臣従し、信濃小県郡内の所領と上野国内の沼田領を

領した滝川一益に従うことになった。

そうした矢先に、信長が本能寺で配下の明智光秀に謀殺されてしまう。

大吉を引いた帰りに蹴躓く  合田瑠美子


 北条氏直
小田原を本拠に関東を統べる北条5代目当主。
信州を中心とする旧武田領をめぐり、徳川、上杉らが対立した、
天正壬午の乱において、昌幸は最初に北条氏に与した。

天正10年(1582)6月2日に起こった「本能寺の変」のおかげで、

織田領となっていた甲斐・信濃・上野は混乱をきたし、

一気に勢力の空白地帯となってしまう。

その旧武田領を狙って徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが、

触手を伸ばしてきた。

駿河から甲斐、そして信濃へと進軍した徳川軍と、

相模から武蔵を通り甲斐・信濃へ進軍した北条軍。

この時の昌幸は北条方に与し、信濃への進軍を手助けし、

難なく川中島まで攻め入った。

だがそこには、北信濃を手中にしていた上杉軍がいた。

大大吉と凶は談合してはった  田口和代


 上杉景勝
越後の戦国大名。徳川家と決別した昌幸が次に手を結んだのが
上杉家だった。これを契機に徳川家との間で第一次上田合戦が
勃発。神川合戦とも呼ぶ。

徳川と上杉に挟撃されたくない北条は、

上杉方にすかさず講和を持ちかける。


その結果、北条は上杉の北部4郡の所領化を認め、

上杉は川中以南へ出兵しないと約束。

北部を除く信濃に関しては、北条軍の切り取り次第とした。

この講和を受け、北条は主力4万を、

対徳川に向けることができるようになった。


南へと転進した北条軍は8月12日、甲斐の黒駒で徳川軍と激突する。

1万の大軍で攻め込んだ北条軍に対し、徳川軍はわずか2千で果敢に応戦。

遂には北条勢300を討ち取り、これを撃退した。

この敗北により、北条に味方していた信濃諸将に動揺が起こった。

8月22日には木曾義昌、9月に入ると真田が徳川方に寝返ったのである。

運勢もやっぱり渦を巻いていた  森田律子


  徳川家康
信州のキーマンたる昌幸との連携を強く望む家康に応え、
昌幸は北条家と手を切った後、徳川家に従属した。
昌幸は対上杉の拠点として上田城築城を要請している。

昌幸は北条方が入城していた自分の城・沼田城を急襲してこれを奪取する。

この事態に北条方は攻略目標を真田方の岩櫃城や沼田城に定め、

大軍をもって真田の諸砦を攻め落としていく。

だが沼田城代の矢沢頼綱に撃退されたり、

昌幸の嫡男である信之が率いた800の手勢に、

5千の守備兵を置いた手子丸城が一日で奪還されたりと、

肝心の戦いで、北条軍は真田勢に負けてしまうのであった。

忙しいようだな運も素っ気ない  今井弘之
          おだのぶかつ
10月になると織田信雄の仲介により、

徳川と北条の間に講和が結ばれることになった。

その条件は、


「氏直に家康の娘督姫を娶らせる」

「甲斐と信濃は家康、上野は北条の切り取り次第としお互いに干渉しない」

というものであった。

信濃と上野の両方に領地を持っていた昌幸にとって、

この講和条件の二項目は承服しかねる。 

しかしこの時は、

さすがに家康も昌幸からすぐに沼田城を取り上げることはなかった。

気がかりを形にすれば干しぶどう  嶋沢喜八郎

上方では信長の仇をとった羽柴秀吉の勢力が増し、

同じ織田家の重臣であった柴田勝家と敵対する。

柴田に対抗するため秀吉は上杉景勝に接近。

家康にとっては上杉への抑えとして、昌幸の存在が大きかったのである。

家康は北条との和睦の仲介をしてくれた織田信雄に接近し、

秀吉に対抗していた。

虫好かぬ奴だが敵に回せない  上田 仁


   沼田城跡
天正年間の初め頃、沼田氏によって築城された沼田城。
現在は公園となっているが当時を忍ばせてくれる。
                                      かんか
天正12年3月、織田信雄・徳川家康の連合軍は秀吉と、干戈を、

交えることとなった。


その際、家康は北条にも援軍を求めている。

この時に棚上げとなっていた沼田城の問題が話し合われた。

北条への譲歩として、

家康は昌幸に沼田を北条へ明け渡すことを求めたのである。

しかし昌幸は、「沼田は自らの力で切り取った領地。

家康殿から北条へ渡せと指図されるいわれはない」 と突っぱねた。

さらに上杉軍に備えるという名目で新築した上田城に本拠を移し、

そのまま上杉方に寝返ったうえ、徳川と敵対したのであった。

運試しトサカを青に塗り替える  森吉瑠里惠

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