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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ひたすらに画面繰ってる蜘蛛がいて  徳山泰子


  明治の群馬県庁

「楫取素彦の業績」

明治9年に熊谷県は、群馬県と埼玉県に分かれ、

楫取素彦は群馬県の県令(知事)となった。

群馬県が「難治」であったのは、気性が荒く反骨的であるという

上州人の気風にも原因があった。

長州の幕末の志士から東国の県令に転身した楫取は、

群馬県政という困難な仕事に際し、

松陰から託された「至誠」の精神で臨んだ。

※当時の熊谷は群馬県のほぼ全域と埼玉県の大半に及ぶ広い県であった。

松陰から「正直すぎて困る」と言われたこともあった楫取だが、

その「至誠」は上州人に受け入れられた。

人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子



楫取が県政の柱としたのは、「産業と教育」だった。

この二つの柱を群馬一県にとどまらず全国に広めようとした。
         さんし
群馬で育てた蚕糸産業と群馬で人材が国家の役に立って欲しい

という使命感を抱いていたのだ。

この国家をよくしたいという使命感は、

かって松下村塾で松陰らと培ってきたものである。

長州からはるか離れた群馬の地で、

楫取は、若き日に見た夢を着実に実現させていったのだ。

産業では蚕種・養蚕・製紙・織物と其々の熟練者の研究を奨励して、

「群馬県を日本一の蚕糸県に育てた」。

やわらかな指が開いていく未来  田村ひろ子


   森山芳平

その過程で楫取と関わった上州人が2人いる。

森山芳平新井領一郎である。

明治16年、アムステルダム万国博覧会で、

県内の桐生織物が一等賞金牌を受賞した。

この世界的評価を受けたのが森山芳平で、

森山は楫取が明治9年に開校した群馬県医学校聴講生として

理化学を学び、それを近代染色術に活かした人物だ。

森山は自分の工場で新技術を、

全国から訪れる門下生に惜しげもなく教えた。

その結果、福井、山県、埼玉、福島で輸出羽二重の生産が

盛んとなり、福井は群馬を凌ぐほどになった。

お人好しとも言える話だが、

これは群馬の技術を広め、名声を上げようとした

楫取の施政方針の影響である。

裸木の鋭く潔い線よ  新家完司

       
星野長太郎と新井領一郎                 渡米先の新井(中央)


もう一人は貿易に関わる人物である。

明治7年に水沼製紙場を設立した星野長太郎の弟・新井領一郎は、

兄と楫取の支援を受けて、生糸の直輸出のため渡米を計画した。

外国商人に奪われていた利益を日本にもたらそうとしたのである。

新井が渡航前に楫取のもとを訪れた際、

楫取の妻・寿は、「松陰の鎮魂のため」と形見の短刀を贈った。

松陰が果たせなかった渡米という夢は、盟友・楫取と妹・寿を介し、

「松陰の魂」が込められた短刀を携えた新井によって実現された。

その日ならずっとにじんでおりました  竹内ゆみこ



  下村善太郎像

前橋初代市長・下村善太郎は、江戸時代末から明治にかけての生糸商人。
廃藩置県後、県庁が高崎に決定した時、仲間の生糸商とともに、
巨額の私財を投じて、前橋への県庁誘致を実現させた。
また、前橋本町大火災での義援活動、教育、産業、交通、防災など
都市基盤つくりに私財を投じている。

産業奨励と並んで楫取県政の柱となっていた教育について。

長州の藩校・明倫館、松陰の松下村塾で教育者として過ごし、

幕末・明治の重要人物たちを育ててきた楫取は、

政治家になってからも教育に熱心であった。

気性が荒く、反骨の気風がある上州人を説得するとともに、

商人など地元の有力者に寄付を募り、教育の必要性を訴えた。

楫取は、県庁に各地から役人が訪れると、

まず教育のことを問うたと言われる。

蝸牛到達点は動かない  寺川弘一

自分でも握り飯、草履履きで県内を回り、

学校の行事に積極的に参加して訓話を行い、

求められると揮毫をした。

楫取の熱心な教育行政のおかげで、

群馬県の就学率は50パーセント、

全国平均の38パーセントをはるかに上回っている。

また楫取が県職員に命じて編纂させた偉人の小伝集『終身説約』は、

全国に普及した。

「群馬県百年史 上巻」に楫取の業績について次のような記述がある。

『楫取の熊谷県時代は、現在の群馬県政の基盤が、

   この時、築かれたと言って良いほど重要な仕事が

   矢継ぎ早に行なわれた。

   師範学校の設立、地租改正、県機構の整備、大小区集会の開催、

   産業、教育、土木、衛生・その他革新的な新事業が施工された。

   楫取素彦は人格識見学識高く、

   歴代群馬県知事中随一と言われる人である』

存在を点で表し無限大  日下部敦世

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メビウスがほどけぬ おとこ対おんな 美馬りゅうこ


 群馬県の富岡製紙場

明治3年、政府は外貨を獲得するために主要な輸出品目を決めた。
その中でも重要視したのが生糸であった。
政府は洋式器械製糸法の導入と、大規模な官営工場の建設に踏み切った。

「命の糸」

三隅村における農耕の生活にピリオドを打って楫取素彦は、

明治5年に現在の小田原辺りを含む、足柄県の下級官吏として赴任。

間もなく参事に昇進し、それから2年後かっての石高に換算すれば、

足柄県の3倍にあたる熊谷県の権令(副知事)の辞令を受け取り、

明治9年に県令(知事)になっている。

そして同年に熊谷県は群馬県となり、素彦は初代の群馬県令となる。

明治9年といえば、不平士族などの反乱が治まらず、

まだまだ混乱していた時期であり、

故郷萩でも「萩の乱」が起きている。

(世間が落ち着きを取り戻したのは、明治10年西南戦争が終結した時。
    西郷隆盛が明治政府に不満を持つ士族たちとともに西南戦争だが、
    西郷が彼らを引き受ける事で、世の中に収まりがついたとも言われる)

なにはともあれ、楫取はそれから、約8年の間、

群馬県令として教育の充実と産業発展に尽くした。

カーテンヲ開けるコトカラ始めよう  山口美代子


日本初官営の器械製糸工場

日本の近代産業遺産としては初の世界遺産にもなった富岡製紙場は、

明治5年に開設した日本初の官営の器械製糸工場で、

農家の家内工業として、細々となされていた製紙業を

機械化することで大規模生産を可能にする画期的なものであった。

楫取は品質のよい上州生糸の振興に心血を注ぎ、輸出にも尽力する。

ここで作られた生糸は、欧米にむけて盛んに輸出され、

また、絹織物の先進地フランスのリヨンにも輸出されるようになる。

それにはもちろん、素彦の働きがなくては語られるものでなく、

輸出販路をアメリカに広げるために、

富岡製紙場に倣って作られた水沼製紙場の社長・星野長太郎

弟の新井領一郎をアメリカに派遣するときには援助している。

お力になりたいのですセロテープ  山本早苗


 エドウィン・O.・ライシャワーと ハル・ライシャワー

素彦の妻・寿も2年前に長門三隅村から関東に移り、夫を助けた。

新井が渡米するとき寿は兄・松陰の形見の短刀を手渡して、

「兄の魂のこもった短刀をアメリカへ持っていって欲しい」

と、依頼したエピソードが残っている。 

(ハル・ライシャワーの著書・『絹と武士』に載るエピソード)

寿は、海外を夢見ながら果たせなかった松陰の夢を、

果たして欲しい、と思ったのだろう。

明治9年、アメリカに渡った新井は、アメリカ市場の開拓に成功。

質のいい生糸と日本の伝統ある商法で信用され、

生糸の直接輸出を可能にしたのである。

【余談】
新井の長女は、明治の元勲・松形正義の長男に嫁ぎ、
その娘である孫・ハルは、後に、
駐日大使となったエドウィン・ライシャワーと結婚をしている。

ようそんな便利な人をみつけたね  雨森茂喜

そんな夫を支える寿は、一方で熱心に浄土真宗を信仰し、

上州へ教えを広めようと努め、信徒拡大に成功した。

しかし病で手足に障害が出て、寝起きもままならなくなってしまう。

中風症という病気である。

中風症とは、脳出血をきっかけに半身不随になったり、

手足に痺れや麻痺を引き起こす病気である。

素彦は妻の治療に手を尽くすが快方に向かわず、

寿を東京の久米次郎夫婦の家に移して、治療を続けた。

この時、姉を案じて駆けつけたのが美和である。

かっての息子・久米次郎の家で姉の看病にあたり、

時に前橋の素彦のもとに赴いて、姉の代わりに身の回りの世話をした。

どのページ開けても雪は舞っていた  大田扶美代


   杉 民冶

松陰の2歳上の兄。明治維新期には代官として各地で任に当たり、
その優れた手腕から「民治」の名を藩主から受ける。
山代では水路造成・田畑開拓により人々の暮らしに貢献している。

寿子はいつの頃から身体を悪くしていったのだろうか。

素彦が杉家の長男・民冶に宛てた手紙・「楫取書簡」に、

妻・寿の健康状態を気遣う文書が見られる。

(明治3年10月)
「妻は、例の胸痛で養生しています」 
楫取が山口藩権大参事に就任し、藩主の代理として東奔西走。

(明治4年4月)
「今、いつものように具合が悪いのです」
藩主・敬親死去し廃藩置県が断行されると、三隅村に隠棲。

(明治7年7月)
「二ヶ月前から阿久(寿)は胸の痛みで苦しみ、
   一時は激痛に苦しみました」
熊谷県権令に就任。

流水に空が一枚浮いている  嶋沢喜八郎                  

(明治9年6月)
「阿久は春以来、病気で衰弱しています」
美和が姉の看病と家事手伝いのため通いはじめる。

「阿三和さんの上京はいつでもよろしいので…」

「阿三和さんが6月に入って、いらっしゃるのをお待ちしています」

「阿三和さんには、6月中には是非、
   お出でくださるようにお願い申し上げます」

「今日頃、阿三和も東京より見舞いに来ます」

以来、頻繁に美和の名前が登場しているので、楫取は美和を頼り、

その来訪を心待ちしていた様子が伺い知れる。

そして、「阿三和殿、当地、滞留中」とあり、
いよいよ美和は泊り込んで、看病や家事万端を引き受けている。

くちびるを読み愛を確かめている  前中知栄


     寿

明治14年1月、寿は、自分の死期が近いことを悟ってか、

夫の素彦に妹の文と同居したい旨を書簡で伝えている。

内容は、

「阿三和殿は小生引請、前橋にて阿寿看護人、

   或は小生宅女幹事と被成候は、双方共、仕合せならん」

(阿三和さんは、私が引き取り、前橋で寿の看護人、
    または私の家の女幹事(まとめ役)になってくだされば、
    お互いに幸せになるでしょう) と言うのである。

互いというのは、おそらく、素彦と美和を指している。

この文で寿の本心を悟るのは難しいが、

夫を心配し「妹と一緒に暮らしたら」という意志は伝わってくる。

私が死ねば、一緒になれと、二人の再婚を許しているようである。

遺言はホクロの裏に書いてある  井上一筒

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円の中に座す円に疎外される瞬間  山口ろっぱ


  「萩一戦図」 (早川松山画)
萩の乱の鎮圧のために出動した政府軍と戦う前原一誠らを描いた錦絵。
右側の黒い馬に乗っているのが前原でその周囲を奥平謙輔、横山俊彦
腹心が固めている。
奥には萩城も描かれているが、乱勃発時には天守などは解体されている。

「萩の乱ー前原一誠」

萩の乱の主謀者・前原一誠は、長州藩士の子に生まれ、

高杉晋作久坂玄瑞と同じ吉田松陰門下であった。

長崎で洋学を学んだから、敬神党(勤皇党の過激派)ような、

国粋主義者ではない。

高杉や久坂らと倒幕の戦いに参加し、

戊辰戦争では長岡城攻めなどに手柄を立てている。

功績を認められて新政府の参議にもなり、大村益次郎の暗殺後は、

軍事の最高責任者でもある兵部大輔にも就任した。

その日ならずっとにじんでおりました 竹内ゆみこ

しかし、この頃から政府とそりが合わなくなっていった。

前原と政府の最大の方向性の違いは、士族を残すか残さないかである。

同じ長州出身ながら大村も山県も木戸も近代国家としての、

「国民皆兵路線」を目指していたが、

前原はこの点だけが妥協することができず、

結局、参議の職を辞し故郷の萩に帰っていた。

不機嫌の種はわたしが蒔きました  杉谷和雄


  前原一誠
松下村塾で学んだ前原を松陰は「その才は久坂(玄瑞)に及ばない、
その識は高杉(晋作)に及ばない。けれども、人物完全なることは、
両名もまた八十(前原)に及ばない」と称えたといわれる。

前原は清廉潔白な性格で、また「民衆を大切にしなければならない」

という、古き良き儒教の教えにも忠実だった。

維新後参議になる前に一時、越後府判事を勤めていたことがあった。

この時、前原は行政に力を注ぎ、

民政安定のため信濃川の改修工事を願い出ている。

ところが、却下された。

「そんな予算はない」と言うのだ。

だが、「カネのない」 はずの政府や軍では、

同郷の井上馨が尾去沢銅山事件で、山県有朋が山城屋和助事件で、

たっぷりと私服を肥やしているではないか。

少なくとも前原の目にはそう見えた。

あとはおぼろあとはおぼろの傘ひとつ  田口和代



「一体こいつらは何を勘違いしているのだ。

お前らが私服を肥やすために同志たちは死んでいったのではないぞ」

というのが不平士族と呼ばれる人々のリーダーたちの思いであった。

リーダーではない人々は、

単純に自分たちの特権が廃止されたことに、

怒りを覚えているものは多かったが、

リーダーに祭り上げられた人々は、

多かれ少なかれ維新の確立に何らかの形で貢献している。

だからこそ、中央政府の腐敗が許せなかった。

車庫入れの下手な政治家ばかりだな  奥山晴生   



実は、山城屋和助事件において、

山県が関与し私服を肥やしていたかについては確証はない。

山城屋がすべてを背負って自殺したからだ。

だから山県が無実だった可能性も無いとは言えず、

有罪であれ無罪であれ山県は前原にも、

「おれは関与していない」と主張しただろう。

しかし、陸軍の公金が、それも膨大な金額が山城屋によって、

浪費されたのは事実である。

「そんな金があるのなら、何故、信濃川改修資金が出せないのか、

   民を労うことこそ政治の基本ではないか、

   この御政道は間違っている」

というのが、前原の思いであり、

同じく郷里に戻った西郷隆盛の思いでもあった。

阿も吽もわたしの敵であるらしい  中野六助


萩大戦争之図 (萩の乱)
明治9年、旧萩藩の士族たちと新政府の戦いの様子を描いている。

前原は熊本・敬神党の乱のことを聞きつけ、

秋月でも呼応の動きがあることを掴んで、

熊本挙兵の二日後の26日、旧長州藩校明倫館に入り、

同志を募った。

一定の人数が集まれば、まず県庁を襲撃する予定だった。

ところが、翌27日秋月の乱が一日で鎮圧され、

28日に前原を長とする殉国軍が結成されたものの、

密偵の暗躍により県庁襲撃計画が事前に察知されてしまった。

そこで方針を変更し、

天皇に現状改革を直訴すべく陸路で山陰道を東へ向かった。

ベタ凪にぽろっと密約を漏らす  上嶋幸雀


   賊徒追討図
萩の乱を指導した前原一誠らを政府軍が鎮圧する様子。

しかし、ここで前原は重大な判断ミスを犯した。

萩がいちはやく 

「占拠され、関係者が次々と逮捕されている」 

という情報に接した前原は、一度萩へ戻って態勢を建て直すという

判断を下してしまったのだ。

実はこれは政府の流したデマだった。

行方のつかめない前原らをおびき寄せるための作戦だったのである。

そうとは知らず、彼らは萩の本拠の明倫館に戻って愕然とした。

備蓄していた武器爆薬が廃棄されており、

待ち伏せしていた政府軍がかさにかかって攻めて来た。

前原勢は約200人いたが、ここで非情の決断が為された。

牛の涎からおおよそ見えること  井上一筒

まさに「殉国軍」の名の如く、本隊が政府軍を引きつけて戦う間に、

前原ら幹部5人が脱出し東京へ向かうというのである。

直訴を実現するために、同志が囮になったということだ。

もっとも囮になった兵は粘って、

前原らを脱出させるのが目的だから、

自由に動き回り死者はほとんど出なかった。

ドロップの缶を開けたら泣き止んだ 笠嶋恵美子


  賊魁捕縛之図 (宇龍港)
前原らの挙兵は失敗し、日本海沿いに北方へ逃れようとしたが、
島根県の宇龍港で捕縛された。
図は前原らを捕らえに行く様子を想定して描いたもの。

前原は、隣の島根県に入り宇竜港から船をチャーターして、

東へ向かおうとしたが折悪しく悪天候で、

晴天になるまで待っていたところを密告され、

従者2名ともども逮捕されてしまった。

しかもこの時、前原は投降の条件として、

「裁判で弁明の機会を与えよ」

と官吏側に求め、それが了承されて投降したのだが、

この約束は守られなかった。

またしても、東京ではなく江藤新平の時のように、

山口裁判所の萩臨時支部という形で、現地に裁判所が設けられ、

12月3日に前原、山田ら幹部8名は斬首の刑が宣告され、

即日執行された。            (逆説の日本史/参照)

竹林の風ざわざわと訃が届く  桑原伸吉

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聞き流すため両側に耳がある  橋倉久美子


 秀次郎

玄瑞と辰路の間に生まれた秀次郎は玄瑞の面影を残している。
ということから、鉢巻姿の玄瑞・肖像画のモデルになった。

「母ちゃんは辰路 母上は美和」

長州藩士・小幡高政が維新後に語っているところによると、

久坂玄瑞は美声で特に詩吟などは聞く者を感動させたという。

何よりも玄瑞は、身の丈が6尺(182cm)という、

恵まれた体躯の持ち主である上に、ハンサムであった。

相当持てたことだろう。

ニシキゴイ優雅な腰と色艶と  田口和代


ベストキャスティン
「大河燃ゆ」の玄瑞役・東出昌大くんは秀次郎に何となく似ている。

そんな玄瑞は、茶屋通いが好きだったようで、

東山の明保野亭や京都の藩邸に近い茶屋・池庄などへ

しばしば足を向けている。

ある時、玄瑞と馴染みの芸者が明保野亭を出たところへ

玄瑞の命を付け狙う刺客が姿を現したという。

この時、玄瑞が大声を発すると逃げ去ったという話も伝わる。

ひと声はわたしの獏が発します  岩田多佳子

尚、玄瑞の傍らにいた芸者は辰路とされているが、

玄瑞と辰路は深い仲で二人の間には、

秀次郎が生まれている程である。

一説に馴染みだった芸者は、今日までに判明しているところによると、

京都の花街・桔梗屋に籍を置く女性で、佐々木ひろ子もしくは、

井筒(竹岡)タツであるという。

また、元治元年(1864)7月、玄瑞が禁門の変で自刃後、

埋葬された遺骸を玄瑞ゆかりの女性が掘り起こし、

「頭部だけを持ち去った」 とする話も残る。

見たことは忘れてあげる磨りガラス  美馬りゅうこ


秀次郎に似ている東出昌大

この玄瑞ゆかりの女性を、辰路に擬する向きが多いが、

また玄瑞は辰路が自分の子を宿したことを知っていたかどうかも

不明で、玄瑞自刃の2ヶ月後に秀次郎が誕生した。

秀次郎は玄瑞に瓜二つで、その名前は玄瑞の幼少の頃の名にちなんで

付けられたという。

そして秀次郎が6歳の時(明治2年)、正式に玄瑞の子であることが、

長州藩に認知される。

しかし久坂家には、玄瑞の存命中に既に養子・久坂米次郎がいた為、

秀次郎は玄瑞の縁者である長州藩徳佐村の酒造家に託されたと言う。

ステッキの曲り具合は父である  笠嶋恵美子



寝耳に水というべき報せが文のもとに届いたのは、

秀次郎認知からまもなくのことであった。

文(美和)と玄瑞の間に子はなかったため、

姉夫婦(楫取素彦・寿)の子・久米次郎を養子とし、慈しんでいた。

しかし秀次郎の存在が発覚したため、

楫取素彦、美和の兄・民治、母・ら親族一同が協議し、

久米次郎を楫取家に戻して、

秀次郎を久坂家の籍に入れることになる。

美和は亡夫への複雑な思いと、

息子を奪われる悲しみを味わうことになった。

せめてこの一瞬凍らせてみたい  立蔵信子


    萩の乱

それでも美和は実家の杉家で兄・民治の厄介になりつつ、

かいがいしく老母・瀧の面倒を見ていた。

ところが明治9年、平穏を破る兵火が萩に上がる。

政府に不満を抱く士族らが起った、「萩の乱」であった。

旗頭は松下村塾出身の前原一誠で、500人ほどが従う。

その中に民治の長男で吉田家を継いだ小太郎や、
          まさよし
玉木文之進の後継ぎ、正誼乃木希典の弟)もいた。

しかし乱は十数日で鎮圧され、一誠は弟と共に処刑(享年43歳)、

19歳の小太郎も、23歳の正誼も戦死した。

そして乱に正誼や門人の多くが加わった責任をとって文之進が自決。

民治は官を辞し、2年後に隠居する。

猫も月もどこかえ屋根だけが残る  藤本秋声

話を久米次郎・秀次郎に戻すと、

明治12年、正式に秀次郎が久坂家の後継ぎに決まり、

玄瑞が残した1人の男児によって起きた大騒動はひとまず、

落ち着きを見せた…のだが。

明治14年、楫取の妻・寿が病没すると2年後、楫取は美和と再婚。

美和は再び、久米次郎の母になる。

一方、辰路は桔梗屋の女将らの仲介により、竹岡甚之助と結婚をし、

3人の子を授かる。

その中の2番目の子は、烏丸四条の伊吹という呉服屋に養子になる。

この「伊吹」は、江戸時代文久年間から続く京都室町の繊維商社で、

政治家・伊吹文明氏に繋がっているという。(文明氏が孫ほんまか?)

なお、辰路は明治43年で病没、65歳まで生き。

また、美和は大正10年79歳まで生きた。

まっ白い煙で最期飾ります  黒田忠昭

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仏壇の裏のタマネギを盗掘  井上一筒


 岩倉具視と明治天皇

「岩倉具視を抉る」

世の中には不思議なことがいっぱいある。

孝明天皇暗殺説もそうである。

孝明天皇が急な発熱で倒れたのは、慶応3年1月16日のこと。

原因は天然痘と発表される。

すぐに24時間体制での治療措置がとられ、

それまでは、天皇としての公務をこなし

至って健康的なほうであったから、

天皇の症状は順調に回復しはじめた。

が、症状が急変。

そのまま帰らぬ人となってしまった。

ついさっきまではこの世の人でした  岡内知香

あまりに急な出来事だっただけに、天皇は何者かによって

「暗殺されたのではないか」 という暗殺説が囁かれた。

「一体だれが何のために」

「天皇が死んで一番得する人物は誰なのか」

そこで一人の男の名前が浮かび上がる。

岩倉具視である。

ちっぽけな心が見栄を張りたがる  新家完司

岩倉具視は、かって公武合体論者であったが、

世間が倒幕ムードになるとあっさりと尊皇攘夷に転向、これが、

結果的に孝明天皇との関係に亀裂を招くことになってしまった。

孝明天皇が在位されている限り出世することは難しい。

そう考えた岩倉が、「天皇暗殺を企てた」というのである。

孝明天皇から明治天皇へ変わると岩倉は一躍出世。

これは孝明天皇が存在していればありえない展開だっただけに、

さらに"岩倉具視による暗殺説"を盛り上げることになってしまった。

ニホンオオカミの末裔にてネイル  芳賀博子         

そんな天皇暗殺が囁かれる岩倉だが、

彼にはもう一つ疑いがかかっているものがある。

"天皇すり替え説"だ。

これは、睦仁親王が明治天皇となられる際、

別の者に差し替えられたというもの。

それを示すように即位前とあとで天皇はまるで違う人なのである。

たとえば、睦仁親王は天然痘を患っており、

顔面には天然痘特有の後遺症があったが、

明治天皇の顔には見られない。

また虚弱体質だったという幼少時代に対し、即位後はといえば、

側近のものを相撲で投げ飛ばしたこともあったという。

さらに「字が下手」「政務に無関心」「乗馬の記録がない」という

睦仁親王に対し、明治天皇は真逆の要素を持っているのである。

出来たての殺意でふんわりしています 太田扶美代

それだは一体誰にすり替えられたのだろうか。

その人の名は南朝の末裔である大室寅之祐

つまり「北朝」系の子孫である睦仁親王に代わり、

「南朝」の大室が即位したということだ。

これにより北朝系に仕えていた徳川家や松平家は、

天皇にとって逆賊になってしまった。

これが新政府にとって、

江戸幕府勢力を一掃する口実となり戊辰戦争が起きたのである。

岩倉は天皇をすり替えることによって、

旧体制を完全に破壊することに成功した、ということである。

筋書きだったのよ自転車のパンク  森田律子

当時、人々は噂を耳にしては真相を確かめようとしてきた。

しかし、明治に入ると皇室のプライベートやスキャンダルを

公言することは、タブー化されてしまう。

こうして岩倉の疑惑は闇の中に葬られてしまったということである。

                                      「日本史の謎」より

印画紙に浮き出しそうな罪の数  笠嶋恵美子

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