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海峡よイソギンチャクは義理堅い くんじろう
秀吉時代の大坂城
「大坂暮らし」
人質として来た大坂での信繁の生活は、上杉での人質時代よりも、
その後の信繁の人生にとって大きなものをもたらした。
上杉家で暮らした1年足らずの間で最も多く学んだのは「義」であり、
戦さ人としての「心得」であり、「学問の大切さ」であった。
先ず「五常の徳」(仁,義,礼,智,信)を教えられた。
「この五常の徳目を守って生きることによって、
父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五倫の道が全うされるのだ。
わけても私は、この五徳目のうち義が最も大事であると思っている」
直江兼続は「義」を正義という言葉に代表される理念であり、
人として最も大事な生き方であろうと考えていた。
眼差しはいつでも前を向いている 日下部敦世
上杉家で兼続から薫陶を受けた「義」への思いを、
信繁はさらに純化するほどの影響を大坂で受けることになる。
この時期には、秀吉の側近として石田三成、大谷吉継など近江出身の
家臣団がいた。
頭脳明晰で臨機応変に物事を処理する能力に長けている側近たちである。
主君の秀吉をはじめ彼らのような存在は、
甲府で生まれ育った信繁には、これまで出会ったことのない
タイプの人物ばかりである。
天正14年(1586)というこの時期、三成は27歳、吉継28歳、
20歳の信繁には、やや年の離れた兄ともいえる年齢であった。
振り向いたところにいつもいる仲間 谷口 義
秀吉は、吉継に「武人」としての器を見ており、
「百万の兵を与えて采配を振るわせてみたい男だ」
と賞したほどで、信頼も厚かった。
事実、吉継は兵法に長けており、
後の関が原合戦でも孤軍奮闘して東軍を圧倒している。
また兵法ばかりでなく、経済的な見通しにも明るく、
他家や敵方との交渉に臨んでも、一歩も引けをとらなかった。
あらゆる面で他人よりも秀でていた武将であった。
そして何よりも「義」に厚く「情」にも厚かった。
横なぐりの雨で口をゆすぐ奴 酒井かがり
一方、三成は秀吉に最も信頼され愛された武将であった。
その待遇も福島正則、加藤清正など秀吉の縁につながる「子飼い」として、
厚遇された武将たちとは違って、主に裏方の仕事に従事し、
戦を陰で支える役目が多かった。
だが三成は、秀吉に命じられた仕事はその期待以上の成果を常に挙げた。
そして三成の秀吉の心底には「義」があり、
誰に対しても「義」という判断基準で測った。
これを吉継は「三成の道徳観」であり、正義感が為せるものと見ていた。
それだけに他人には偏屈に映ることもあり「へいくわい者」(傲慢な男)とも
陰口を言われてきた。
結び目に私の色を足しておく 合田瑠美子
信繁は大坂に来て、三成が兼続とも厚い友情で結ばれていることを知った。
上杉景勝が秀吉に従う時の上杉の窓口を兼続が、
豊臣の窓口を三成が務めてきた結果であるという。
さらに、信繁と三成との縁はまだある。
しばらく後のことになるが、
信繁の妹(昌幸の5女)が嫁いだ宇多頼次の妹が三成の後妻であった。
これにより頼次は信繁の義兄弟となり、その関係で三成とも頼次を挟んで、
義兄弟になるという複雑な繋がりが生じる。
そして三成も恐らくは、真田の血筋、礼儀正しく慇懃で物静かな信繁に
触れ、その人間性を認め、信愛の友ともとれる接し方をした。
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さらに信繁の人柄は、主君である秀吉にも愛された。
秀吉は信繁を「小姓」として使った。
秀吉が信繁を重んじていた証拠として、吉継の娘を妻に娶らせている。
さらに秀吉は、信繁に「豊臣」の姓を名乗らせることを許し、
叙位任官させた。
さえもんのすけ
「従五位下、左衛門佐」である。
以後、信繁は「豊臣左衛門佐」を名乗るのである。
ほんの駆け出しです雲を見ています 田口和代 [3回]
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昌幸宛の秀吉書状 (拡大してご覧ください)
未だ申し遣はさず候の処、道茂所への書状、披見候。
委細の段聞し召し届けられ候。
其の方進退の儀、何れの道にも迷惑せざる様に申し付くべう候の間、
心易かるべく候。
小笠原右近大夫と弥申し談じ、越度なき様に其の覚悟尤に候。
なほ道茂 申すべく候也。
拾月十七日
真田安房守とのへ
第一次上田合戦後、真田昌幸は豊臣秀吉側近の祐筆・徳法軒道茂を介して
秀吉に接触を図り、徳川家康との窮状を訴えた。
秀吉は従一位・関白の位にあり、確かな秀吉政権が樹立していた。
秀吉は昌幸宛て書状で、
「委細は聞き届けた。悪いようにはしない。安心するように」
と言ってきた。
これで、昌幸は秀吉とのつながりができた。
笑い声二重とびらのむこうから 合田瑠美子
 秀吉
「秀吉の時代へ」
徳川勢がまだ上田城を包囲している最中、
昌幸は秀吉から優遇を保証する10月17日付けの書状を受け取った。
この時点で昌幸の秀吉への臣従は規定事実となる一方、
間もなく徳川軍は撤退した。
家康の重臣・石川数正が小笠原貞慶の人質とともに岡崎城を脱し、
秀吉の元に逃げ込んだためである。
さらに秀吉は19日付けで、
「家康を成敗するため正月にも出陣する」
と知らせ、信州のことは小笠原貞慶・木曾義昌と相談し、
昌幸も要請があり次第出兵するよう命じる書状が届いた。
(昌幸は絶好のタイミングで景勝・秀吉に臣従することで、
小県・信濃の領国化に成功したのである)
後編を生きる襷を替えてみる 須磨活恵
秀吉は7月に関白に任官、12月には豊臣姓を賜り、
天正14年になると家康討伐の動きを加速させた。
しかし実行には至らず、2月に織田信雄の調停で秀吉と家康は和睦する。
秀吉から 「家康が従うというので成敗はしない。
信州諸将も秀吉に属するので矢留(停戦)を申し付ける」
という朱印状が届いた。
7月、家康が昌幸討伐の軍勢を駿府に進めると、
秀吉は和睦した家康の行動を認めなければならなくなった。
秀吉は石田三成を通して、上杉景勝に書状を送り、
「真田は表裏比興の者だから、成敗を加える」 と伝え、
景勝に昌幸への支援を禁じた。
表裏比興の者とは裏表があって卑怯であり、信用できない人物をいう。
昌幸は秀吉に見捨てられ窮地に陥った。
サイダーの泡の行方や春霞 くんじろう
一方、北条氏邦が4月に吾妻領・沼田領へ攻め入ってきた。
この直前、秀吉の圧力と昌幸の動きに警戒心を強め、
国境付近で北条氏政と会談を重ねていた家康の要請だと思われる。
ところがこの頃、秀吉は、真田攻め容認へと態度を変える。
昌幸が秀吉の上洛要請に応じなかったからだ。
本来なら昌幸は、6月14日に大坂城で秀吉に謁見した上景勝と
行動をともにすべきだった。
8月3日付けの三成・増田長盛から景勝への書状では昌幸を
表裏比興の者と断じ、成敗を加えるので一切支援は無用だと伝えている。
同じ信濃の小笠原貞慶も、木曾義昌も景勝とともに秀吉に出仕していた。
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「家康は真田攻めを口実に出仕を先延ばしにするのではないか」
10月に、秀吉は生母・大政所(なか)を人質として家康に送る。
関白の母子が共に人質として送られてきたとあっては
さすがの家康も上洛に応じざるを得ず、ついに重い腰を上げ、
同月27日、ついに家康が大阪城に出仕した。
家康もついに秀吉に臣従したのである。
警告は画鋲とどめは五寸釘 森田律子
秀吉は家康の出仕を優先して昌幸討伐を停止したが、
なおも出仕しない昌幸に対し「真田成敗専一」と怒りを露にした。
それでも昌幸はさらに景勝を通じ、昌幸と北条・徳川間でくすぶる
「沼田領」問題の解決を秀吉に迫った。
領土争いには上使を派遣して裁定し、従わないものを討伐する
「関東惣無事」を標榜する秀吉が、この問題を解決しないまま、
景勝の従属化にあった昌幸を討てば、昌幸の面目が立たなくなるからだ。
ひとつ義理果たしてひとつ不義理する 青砥たかこ
9月25日、ついに秀吉は景勝に真田攻め中止を伝えた。
「秀吉は公の場での対面を重んじ、
衆目が一致する派手で大仰な演出を好む」
昌幸は家康出仕にこだわる秀吉の性格を読み切り、
「大坂城出仕」が一つの切り札になると確信した。
「だが今はその時ではない」
そして家康が大坂城に出仕した後、
昌幸のもとに秀吉の朱印状がもたらされた。
「家康とはいろいろあるだろうが言い分を聞く、
この度のことは許すので上洛せよ」
狙い的中てのひらに光るもの 瀬川瑞紀
天正15年1月、昌幸は大坂城で秀吉に謁見、正式に臣従が認められた。
このとき、信繁も人質として出仕したとみられる。
同時に昌幸は家康への出仕を命じられ、
豊臣政権化の家康に属する独立大名として歩みだしていく。
昌幸41歳のときの大きな転機だった。
秀吉との謁見の帰路、3月18日だが、
昌幸は昌幸は家康へ出仕挨拶のため駿府城に立ち寄っている。
裏漉しにする救いようのない男 雨森茂樹 [2回]
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