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川柳的逍遥 人の世の一家言
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向こう岸に渡してくれる太い腕  三村一子


 上毛かるた 「け」

「楫取の政治」

産業とインフラ整備に力を注いだのが群馬の県令・楫取素彦である。

熊谷県時代を含めると、楫取は群馬県令を約十年つとめた。

在任中は、「握り飯草履履き」で県内を隈無く視察し、

県民と困難をともにして、本県の基礎をつくった。

楫取は、県政の治術は産業と教育と心得て、この分野に力を注いだ。

蚕種・養蚕・製糸・織物の各熟練者を歴訪し、研究を奨励。

勧業は交通・治水などインフラ整備にも及んだ。

邪魔だから顔はおととい捨てました  清水すみれ

明治13年(1880)、日本鉄道株式会社が上野―高崎を結ぶ中山道線の

鉄道敷設計画を発表すると、

前橋までの延伸を下村善太郎とともに、井上勝鉄道局長に嘆願した。

井上局長は二人の至誠に感動し、二人も大株主になることを約束して、

明治17年5月高崎、7月前橋間がそれぞれ開業した。

これによって、それまで利根川の水運に頼っていた県内産の

生糸や織物などの輸送を、鉄道で横浜港まで運ぶことが可能となった。

近代社会において、

インフラの整備なしに産業の発展があり得ないことを、

楫取はよく心得ていた。

夕焼けの行方は父が知っている  中野六助


  上毛かるた 「い」

楫取は群馬県を日本一の蚕糸県に育て上げるとともに、

その技術を全国に広め、群馬県の知名度(ブランド力)を上げようとした。

つまり、群馬県で優れた技術を改良・発明させる。

その結果、群馬県の産業が発展する。

さらに、その技術を全国に伝えることで、

群馬県の名声があがるとともに、日本の国益になる。

楫取は前田正名のような国家的な使命感を以て県政を進めた。

これが、楫取政治の要諦であった。

がまん強くて屋根に抜擢されたとか  オカダキキ


  上毛かるた 「ろ」

「船津伝次平」

日本敗戦の翌々年の昭和22年12月、
国は荒れ果て、人々が悲嘆に暮れているとき群馬の浦野匡彦氏が、
「このように暗く、すさんだ世の中で育つ子どもたちに何か与えたい。
    明るく楽しく、そして希望のもてるものはないか」
と考え出来上がったのが上毛かるたである。
上毛とは群馬県の古称上毛かるたは44枚からなり、
群馬県の土地・人・出来事を読んでいる
「ろ」のかるたでは、船津伝次平がでてくる。
   でんじへい
船津伝次平を内務卿・大久保利通に推薦したのも楫取であった。

老農・船津伝次平は、天保3年(1832)10月、勢多郡原之郷に生まれる。

幼名市蔵。  (勢多郡原之郷は現在の富士見村にあたる。)

市蔵は隣村の村塾において手習、素読を学ぶ。

又18歳で、最上流の和算を学び、関流の和算の免許皆伝を受けた。

安政4年(1857)家督を継ぎ、伝次平を襲名。

維新後養蚕業の振興につとめ、明治元年(1868)前橋藩から原之郷ほか

35カ村の大総代を任された。

健さんは死に欣也は犬になった  奥山晴生


  上毛かるた 「は」

伝次平が生まれた船津家には、

「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」

という家訓があり、養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、

明治8年、熊谷権令・揖取素彦から農事に精通する者として、

内務卿・大久保利通に推挙される。

からまって虹まで届く豆の蔓  本多洋子


 上毛かるた 「に」

伝次平と会った大久保内務卿は、

すっかり彼にほれ込み農民としてただ一人、

伝次平46歳のとき、東京駒場農学校の教師に採用される。

駒場農学校では、西洋農法と日本農法のよいところを併せ持つ

混同農法を生み出し、さらに、その後、農事試験場技師に就任し、

全国を駆け巡りながら新しい農法の普及につとめ、

「日本三老農の最高峰」と称されるに至る。

伝次平は中央に出ると、品川弥二郎(農商務大臣などを歴任)と行動を共にする。

奇しくも品川は吉田松陰の門下生(松下村塾生)であった。

伝次平の農事改良の精神や技術が、

群馬県ばかりでなく我が国の農業の近代化に多大な貢献をした。

身に余る依頼へ足の裏凍る  青砥たかこ

ところが明治中頃、農商務大臣・井上馨が外国を視察して帰り、

欧米の大農法をわが国にも取り入れようと考え、

新式の大農機具を盛んにアメリカから輸入し、

それを、まず、駒場農学校で実用するように命じた。

しかし伝次平は、

「日本は、耕地が少ないうえ、

   山国で高いところから低いところまであり、

   しかも気候の変化も激しいという、

   欧米とは違った土地と気候である。

   だから日本の農業は、大農法に向いていない。

   狭い土地をていねいに耕し、多くの収穫を上げていくのが、

   日本の農業である」

と反論している。

反論をいれたポストが燃えている  岡田幸子


富士見村原之郷にある船津伝次平の墓(県指定史跡)

その後、伝次平は、駒場農学校に辞表を出して去り、

著書・『稲作小言』で大農論者に反対を訴え続け、

それを八八調の文章にしてチョボクレ節で歌って広めた。

明治31年(1898)6月15日、郷里にて死去。

享年66歳。

墓で遭い甘味処でまた遇うた  井上一筒

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ほんものは四季の心を持っている  徳山泰子



「桂小五郎」

桂小五郎は身長が1㍍74あったとされ、当時としては大柄だった。

残された写真を見てもわかる通り、男前で、鼻筋が通り、

眼もと涼しい、苦みばしった美男と司馬遼太郎は書いている。

小五郎の女遍歴・・・あんまりな・・・男でもある。

小五郎は、坂本龍馬をはじめ、多くの維新志士と交友したが、

女性関係も派手だった。

美形で、弁舌さわやかな小五郎は、女性受けの良い男だったのだ。

小五郎の最初の結婚は、27歳のときだが、

わずか3ヶ月で離縁している。

この妻との間に、子どもがいたものの早世。

小五郎は、江戸に上って志士活動を開始することになる。

にんべんを繕いコスモス揺れている  嶋沢喜八郎

その後、江戸で斉藤弥九郎道場の塾頭を務めた小五郎は、

隣家の娘・千鳥と知り合う。

小五郎は、彼女に手を出したものの、ほどなく千鳥を放り出して、

志士活動のため上洛。

千鳥は、小五郎の出立後に妊娠が判明し、

乳飲み子を抱えたまま、京都へ向かった際に、

「蛤御門の変」の混乱に巻き込まれ、会津藩兵に斬り殺された。

(子どもは、後に会津で養育されたと伝えられる)

艶艶の玉子抱いてる真暗がり  森 廣子    

一方、そんな事情を知らない小五郎は、

京都で三本木の芸妓・幾松に惚れ込み、

大金を払って彼女を落籍する。

すでに志士として、名を知られていた小五郎は、

常に命を狙われる毎日だったが、幾松の存在は彼の心を和ませた。

次のような有名な話が残っている。

新撰組が、料亭に踏み込んだ時、

舞を踊りつつすばやく小五郎を逃がしたり、

蛤御門の変以降、小五郎がお尋ね者になって窮すと、

加茂川大橋付近で潜伏する小五郎に、食料や水を運んで助けた話。

ときに幾松は、派手な着物をきたまま、桂の元を訪ねるなど、

騒動を起こすも、奔放な彼女の性格を小五郎は、好きだった.

右左迷った時は賽を振る  高島啓子


幾松が小五郎に送った手紙 (文字に幾松のセンスが伺える)

小五郎は幾松と知り合ってからも、多くの女性に手を出しているが、

幾松が、浮気に寛容だったことも、

二人の仲が、うまくいった理由かもしれない。

命をものともせず、小五郎に尽くした幾松の想いは、本物だった。

のちに長州に落ちのびた幾松は、潜伏中の小五郎に、

高杉晋作の「藩政クーデター」の成功を伝えるために、

単身で但馬へ向かうなど、小五郎を最大限に支えている。

馬鹿なことやめたらきっとお死ぬでしょう 中野六助


出石では荒物屋を営み身を隠した

一方で逃亡中の小五郎は、但馬の娘と偽装結婚したり、

城崎の宿屋の娘を妊娠させたりしていたが、幾松は意に介さなかった。

幕末当時の「献身と浮気への寛容」さから、

小五郎は、幾松に頭が上がらなくなった。

維新後に、木戸孝允と改名した彼は、

幾松を正妻に迎え、松子と名乗らせる。

幾松は買い物と芝居が大好きで、贅沢をしたが、

木戸(小五郎)としては、文句をいえない。

”うめと桜と一時に咲し さきし花中のその苦労” (木戸孝允)

それでも二人の夫婦仲は良く、

幾松は、夫の死後は尼になって、生涯を終えている。

ショッツルにしばらく漬けてあるあなた 井上一筒  



「逃げの小五郎」

変幻自在で多彩、そうしたイメージからる桂小五郎.は、
鞍馬天狗のモデルだともいわれる。

小五郎は長州の藩医の子に生まれ、

禄高150石の桂家の養子になった。

学問を好み、藩校・明倫館で吉田松陰に兵学を学び、

「事をなすに才あり」と評価された。

松下村塾の門下ではなかったが、塾にはよく顔を出し、

塾生の高杉晋作久坂玄瑞らとも親しく、

ともに尊攘運動をリードした。

龍馬が姉の乙女らに宛てた1865年(慶応元年)の手紙には、

「長州に人物なしといえども、桂小五郎なる者あり」

と褒めちぎっている。

コンパスで描いた円はつまらない  竹内ゆみこ

西郷隆盛、大久保利通、と並ぶ維新の三傑・桂小五郎には、

「逃げの小五郎」という異名があった。

長州が「朝敵」として孤立、苦境に陥っていた頃である。

京都留守居役として藩の外交を任された桂は、

京都に残って情報収集に努め、

潜伏しつつ再起の道を見つけようとする。

長州藩の討幕運動を進めるリーダーとして、幕府側から命を狙われ、

危険を察知すると、戦わず逃げることに徹したからだ。

京都三条大橋の下に隠れていたという、英雄らしくない逸話も残る。

サイダーを飲んでくるりと裏返る  石橋能里子

それにしても、三条大橋は江戸に繋がる東海道の終点、

橋に繋がる三条通りは、当時の京都のメインストリートだ。

血眼になって捜す新撰組ら追っ手を警戒していた桂が、

なぜそんな危険と思しき場所に隠れたのか。

整備された今の鴨川と当時の鴨川は、まるっきり景色が違う。

河川敷が整備された今と違い、当時は川幅が中州がいくつもあった。

そこに掘っ立て小屋を建てて住む人や友禅染の水洗いする人もいて、

紛れることが出来た。

また市街の3分の2を焼いた「禁門の変」の後で、

避難民も河川敷に多くいたのも利点になった。

交通の要衝なので各地の情報を得るには格好の場所。

そこで情報を探っていたとも考えられる。

路地裏をうまく泳いでいるルパン  岡内知香

変装し名前を変え、身分も偽って、桂は逃げることに徹した。

自らの剣で人を殺しいたことがないと伝わる。

弱かったからではない。

19歳で江戸に出た小五郎は練兵館(三大道場の一つ)斉藤弥九郎から

神道無念流を学び、道場の塾頭を務めるまでになった。

剣の達人だったのだ。

「出来れば逃げよ」

というのが、殺人否定に徹底した師・斉藤弥九郎の教えであった。

靴紐を結びなおして生きて行く  吉崎柳歩

自然、斉藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを、

「逃げることに」集中した。

「生きてこそ忠義を尽くせるという思いが強かった。

 時流を読むことに優れ、生き延びたからこそ、

 新しい時代をつくることができた」 (司馬遼太郎)

「革命家でありながら長州人に多い思想への陶酔体質は持っておらず、

   ごく常識的な現実認識家である面が強い」

とも司馬遼太郎は小五郎を分析している。

世の中は桜も月も涙かな  桂小五郎  

一草も月日のむらはなかりけり  桂小五郎

時どきの定形外が面白い  小谷小雪

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美しく書き足してあるエピローグ  新川弘子


斬髪を率先した時の写真

「長州に人物なしと雖も、桂小五郎なるものあり」

坂本龍馬は、桂小五郎(木戸孝允)を評した。

「木戸孝允」 天保4年(1833)~明治10年(1877)

木戸孝允は、かねてから重病化していた「脳発作」が悪化し、

明治天皇の見舞いも受けるが、明治10年5月26日、

朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、

「西郷もまた大抵にせんか、予今自ら赴きて之を説論すべし」

と、明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後に

この世を去った。

死因は「心血管障害」とされている。享年45歳。

※ 心血管障害病とは、心臓や血管などの循環器の障害で、
特徴的な痛み、息切れ、疲労感、動悸、ふらつき、失神、脚や足首、
足の腫れ
などの症状から心臓発作、脳卒中を起こし死に至る病である。


海底に夢の欠片を取りに行く  松原未湖


木戸の覚悟を書いた手紙

『木戸を評する言葉』を読めば木戸の凄さが見えてくる。

「松平春嶽、前福井藩主」

木戸は至って懇意なり。

練熟家にして、威望といい、徳望といい、

勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。

帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、

衆人の異論なからしむるは、

大久保といえども及びがたし。

木戸の功は大久保の如く顕然せざれど、

かえって大久保に超過する功多し。

いわゆる天下の棟梁というべし。

謳歌しなきゃ愚痴ばかりではもったいない 伊東志乃

   

「大隈重信、政治家」

木戸は創業の人なり。大久保は守成の人なり。

木戸は自動的の人なり。

大久保は他動的の人なり。

木戸は慧敏闊達の人なり。

大久保は沈黙重厚の人なり。

もし、主義をもって判別せば、木戸は進歩主義を執る者にして、

大久保は保守主義を奉ずる者なり。
             きゅうぶつ
是をもって、木戸は舊物を破壊して、百事を改革せんとする。
                                    (舊物=ふるいもの)
王政維新の論を執り、大久保はこれに反抗して、

漸次、大寳令の往時に復せんとする、王政復古の説に傾けり。

諸般の事物に対しては、その意見議論、まったく衝突し、
       おのず
その衝突は自から、二人の代表せる薩長の軋轢となり、

その軋轢は延いて、進歩主義と保守主義との一消一長を為し、

ついには維新革命の事業より、立憲政制の端をも開くに至れり。

稜線を一気に越えたかたつむり  合田瑠美子



「田中惣五郎 著作家」

明治新政府の閣僚の中、側近の力をかり、

ブレーンの力をかりることなくして、

すぐれたる見識を持ち得たものは、木戸をもって第一とするであろう。

維新後の民主的なものであって、

木戸の関与しないものは殆どない といっても過言ではない。

木戸の性格は極めて篤厚であり、長者風であった。

木戸が人に立てられるのは、その頭脳もさることながら、

より城府を設けぬ態度と、堂々たる風貌にあった。

そしてこの風貌と態度の示すごとく、彼は温厚の大人風であり、

平和裡に事を処理することを好んだ。

ひとことも自慢を言わぬ凄い人  新家完司

「三浦梧楼、陸軍中将」

情実の打破は木戸の生命である。

朝にあってもその矯正を計り、野にあってもその矯正を力め、
                             ばんこく     もた
病に臥してもなおその矯正を思い、ついに万斛の憂愁を齎らして、

泉下の客となった。
                       てんめん
かくのごとく木戸がいかに情実の纒綿を苦慮したかは、
                                  (纒綿=からみつくこと)
和歌の表にも露われている。

書状の上にも現れている。

遺言の上にも顕われている。

この遺志を継いでその矯正を計るものは、我輩をおいてはたれかある。

木戸の精神は我輩の精神である。

我輩の意志はすなわち木戸の意志に他ならぬのである。

木戸逝いて後、

またともに我が志を談ずべき友がいなくなってしまった。

我輩の情実打破のために孤軍奮闘するに至ったのは、

まったくこれがためである。

人間の樹海に足を踏み入れる  青砥たかこ  


  木戸孝允の勅撰碑明治天皇の命で建てられた)

「ミットフォード 英国人通訳」

(木戸孝允)は背が高く、その態度は不思議に人を惹きつけ、

気立てがやさしかった。

そして、教養豊かな学者で、生まれながらにして、

指導者としての力を備えていた。

彼は長州の藩士で、1868年の維新当時、

最も有名だった5~6人の中の一人であった。

神の寵愛を受ける者は、若くして死ぬ。

しかし、彼は自分の仕事が成功したのを見届け、

偉大な日本の基礎を築くのに協力するのに、

十分間に合うほどの長生きはしたのである。

私がある日本の友人に、

「これから木戸侯爵の墓に詣でるところだ」 

と話すと、彼は

「木戸侯爵はあなたにお会いするのを喜ぶでしょう」 

と答えた。私が

「侯爵はもう亡くなっているので、私に会うことはできないでしょう」 

と言うと、その友人は、

「彼の霊がそこにいるはずです」と重々しく私に反駁した。

もし本当に彼の霊がそこにいて、

葬られた場所によくあらわれるとすれば、

つい最近まで過去何世紀もの間、神秘に包まれ、

今は解放されているが、当時は下界とは遮断された聖域であった

この大きな都を見下ろし、彼があれほど勇敢に、

その一役を果たした驚くべき変革を、誇らしく思うことだろう。

虹はお空のフレスコ俯瞰図に置く  山口ろっぱ


  木戸孝允の俳句

「木戸の功績」

龍馬の斡旋で薩摩藩士・小松帯刀、西郷隆盛らと薩長同盟を結ぶ。

"うめと桜と一時に咲きし さきし花中のその苦労"
                   薩長同盟を詠った歌。(梅は長州、さくらは薩摩)

王政復古後は五箇条の御誓文の草案の作成に関与。

薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が版籍奉還の建白書を提出したが、
その実現に木戸が一役買った。

廃藩置県でも西郷と並ぶ参議として重責を担った。

大久保利通、板垣退助らと大阪会議(明治8年)を開き、
立憲制を布くとの方針を定める。

西南戦争では事変処理にあたった。が、途中病死した。

"さつきやみあやめわかたぬ浮世の中になくは私しとほととぎす" 
                                                         (木戸孝允 辞世)
(雨雲におおわれ、雨が降り続ける梅雨の夜のように暗く、何が正しく、
    何が邪(よこしま)なのか、区別すら付けられないような、この浮世)

渦巻き線香をゆく明らかな順路  山本早苗

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化石をほぐすとこぼれ出すロマン  和田洋子



「木戸松子」 (天保14年(1843)~明治19年(1886))

〔一途に尽くして諜報活動した美貌の芸妓〕

明治維新の立て役者・木戸孝允の妻・松子は、

若狭国小浜藩士・木崎(生咲)市兵衛の二女。

母は小浜藩医・細川益庵の娘で、4男3女があったが、

父が上役の罷免に連座して閉門とされたのち、出奔したため、

母の実家で妹とともに幼少期を過ごした。

その後、父が京都にいることがわかり、再開して4人で暮らすが、
               しょだいぶ
父の病で松子は九条家諸大夫難波恒次郎の養女とされた。

引き算を重ねこころを無に保つ  高浜広川

そして恒次郎の妻が幾松を名乗った三本木の元芸妓であったこから、

舞妓に出て、14歳で二代目幾松を襲名する。

やがて三本木の名妓となった幾松は、

長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)と出会うこととなるが、

幾松を身請け(落籍)せるおり、桂はずいぶんお金を使い、

伊藤俊輔(博文)に周旋させたとの話がある。

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子



幾松は芸妓を続けながら、桂のために外交や密談の場となる宴席で、

情報収集に務める。

さらに元治元年(1864)7月の禁門の変後、探索から逃れるため、

三条大橋の下に避難した禁門の変の戦災者たちに紛れて

潜伏する桂に、幾松が握り飯を運ぶ話は有名だ。

彼女は、桂がいかなる状態になろうと献身的に庇護しつくすのである。

禁門の変後、桂が但馬国出石へ潜伏したときは、

幾松も対馬の同志にかくまわれる。

そして下関へ向うが、桂が出石にいることを知って再開を果たした。

幾松はこのおり、情報伝達の役目も担った。

平穏はいつまで菊を根分けする  高島啓子



維新の世となる、木戸は功労者の一人となった。

その木戸の正式な妻となった幾松は、松子と改名した。

そして明治2年、東京に転居する。

かって京都の名妓であった松子は美しいだけでなく、頭もよく、

心配りのできた女性で明治政府の参議となった夫をよく支えた。

また松子はもともと丈夫でなかった孝允の体調管理にも心を砕いたが、

明治10年5月、天皇に供奉して京都にいた孝允の病が再発する。

松子は看病に駆けつけるが、夫を看取ることとなり、

剃髪し翠香院と号した。

そして京都に移り住み、夫の墓守をして、44歳で病没した。

かけられた声は天啓かもしれぬ  竹内いそこ



「江良加代」 (文久2年(1862)~大正5年(1916))

〔数々の志士をとりこにした祇園一の美妓〕
                   かちょうのみや
加代は文久2年3月、京都・華頂宮家に仕える江良千尋の娘として、

祇園社のそばに生まれた。

父の千尋は、大和大路四条に道場を構え子弟に武道を教授していた。

加代は家柄ゆえか、気品に富む美貌を持ち、

また家が花街に近かったことで、

その世界に親しみ、歌舞にも優れていたという。

維新後母によって舞妓とされた加代は、

牡丹や百合の花の妍を奪うほどと評され、

祇園井筒屋の名妓・加代の名は、たちまち京洛に広まったのである。

いい線行っているなどと他人のいいかげん
                  青砥たかこ


加代にご執心となった男たちは数多いというが、
                    さいおんじきんもち
その中に、後の首相になった西園寺公望がいる。

公望は加代を正妻にしたいと、東京へ連れて行ったという。が、

西園寺家には代々正妻を迎えないとする家訓があった。

西園寺家は琵琶の宗家の家柄で、

琵琶の本尊・弁財天の嫉妬を恐れたからであった。

美しく書き足してあるエピローグ  新川弘子



加代は公望と破局したが、

豪華な着物、調度品や莫大な手切れ金とともに京都へ戻ってきた。

昭和13年のことという。

これを加代が13歳、公望26歳の時とする話もあるが、

それなら明治7,8年の頃の出来事になる。

しかし、公望は明治3年12月から同13年10月まで、

フランスに留学しているので、洋行後のことになるだろう。

美しい嘘だな永久保存する  山本昌乃

また、やはり初代首相の伊藤博文がぞっこんになり、

加代を妾にしたという話もある。

加代はそれ以前に木戸孝允と深い仲になり、

木戸夫人になれると思っていたが、木戸は明治10年病死してしまう。

木戸に代わってお金を出したのが伊藤博文だった。

加代は伊藤の金で奥女中風の衣装に、

当時は珍しかった洋犬を引いて練り歩いた、が、

2人の仲は3年もたなかったという。

人形の顔で見ていることがある  赤松ますみ



加代が伊藤博文に三行半を突きつけたのは、金の問題があったらしい。

加代は豪商・三井源右衛門に身請けされたのだ。

加代は源右衛門の妾といっても正妻と変わらぬ扱いで、

加代もまた貞淑に源右衛門に仕え、4男2女を産み、

幸せに暮らしたという。

大正5年1月に病没。三井家の墓所に葬られた。

歌舞伎役者の5代目・中村歌右衛門は、

「子どもの時に見た京都のお加代という芸者さんほど、

  美人だなぁと思った人はございません」

と語り遺している。

ワコールを外すとわたしクラゲです  美馬りゅうこ



「山川捨松」 (安政7年(1860)~大正8年(1919)

〔留学を経て仇敵に嫁いだ鹿鳴館の貴婦人〕

見合い結婚やいいなづけの存在が一般的だった時代、

周囲の反対を押し切って恋愛結婚をした人物に、

会津藩出身の山川捨松がいる。

会津戦争時は9歳、籠城戦では弾薬運びをした。

幼名は咲子であるが、岩倉使節団に随行して渡米、

このアメリカ留学時に捨松(捨てたつもりで待つ)と改名。

宣教師・レオナルド・ベーコン夫妻のもとで勉学に励んだ。

同時期に兄・健次郎もエール大学に留学中であった。

ヴァッサー大学に進学すると

「日本に対する英国の外交対策」と題し英語で講演。

卒業後は、看護学を学んだ。

何よりもまずあ行からリアリズム  柴田園江



明治15年、津田梅子と11年間のアメリカ留学から帰国した捨松は、

1年早く帰国していた永井繁子の結婚式で陸軍大臣・大山巌と出会い、

恋に落ちる。

2人は言葉の訛りが強く初めは会話にならなかったが、

英語で話すとすぐに打ち解けたという。

交際3カ月で結婚を約束した2人だったが、

巌の出身地は戊辰戦争で会津と敵対した薩摩藩。

当然、捨松の家族や周囲の友人は猛反対した。

しかし捨松の決意は固く、周囲を説得し、

鹿鳴館で盛大な結婚披露宴を開いたのである。

コバンザメそんな生き方だってある  竹内ゆみこ

こうして大山の後妻につくと3人の子宝に恵まれ、

前妻の子も含め6人の子を育て上げた。

継母が継子を虐める徳富蘆花『不如帰』のモデルであると

中傷される時期もあったが、優しい良妻賢母であった。

鹿鳴館では西洋式の礼儀作法を教え、

催されたバザーの収益金で看護婦学校を設立。

また篤志看護婦人会を発足させ、社会福祉事業に邁進した。

晩年は、梅子の津田英学塾を支援していたが、中途に死去する。

生きている過去をベタベタ貼り付けて  米山明日歌

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まんじゅしゃげ 端はあの世かあなたかな  河村啓子


               留魂録

「留魂録」は、それを読んだ長州藩志士達のバイブルとなり、

松陰の死自体とともに明治維新へと突き進む原動力の一つとなった。

「高杉晋作への手紙」

松陰が留魂録を綴る前に、「男子の死ぬべきところはどこか?」

 との、高杉晋作の問いに獄中の松陰は、次のように答えた。

「死は好むべきものでもなく、また憎むべきものでもありません。

 世の中には生きながら心の死んでいる者もいれば、

 その身は滅んでも魂の生き続ける者もいます。

 死んで己の志が永遠になるのなら、いつ死んだって構わないし、

 生きて果たせる大事があるのならいつまでも生きたらいいのです。

 人間というのは、生死にこだわらず、

   為すべきことを為すという心構えが大切なのです

この首があるなら終の仕事する  福尾圭司



"身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも  留置まし大和魂"
                       
「留魂録」は、この松陰辞世の句から始まる。
留魂録は吉田松陰が処刑二日前に書き起こし、
前日夕刻に書き終えたとされる(松陰の)死生観である。

『留魂録』ー〔第七章〕

私は、このたびのことで最初から生を得ようとは考えなかった。

また、死を求めたこともない。

ただ、自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。

7月9日、取り調べを行った役人の態度からほぼ死を覚悟した。

ところが、その後の9月5日、10月5日の二度の取調べが、

寛容なものだったために欺かれ、

ひょっとしたら死罪を逃れることができるかと思い、これを喜んだ。

これは、私が命を惜しんだのではない。

生き残った蝉はいないか見て回る  新家完司

しかるに6月末、江戸に来て、外国人の様子を見聞きし、

7月9日、獄に繋がれたてからも、天下の形勢を考察するうちに、

日本の為に私が為さねばならないことをがある と悟り、

ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのである。

私が死罪とならない限り、

この心にわき立つ気概は、決してなくなることはないだろう。

しかし、16日に行われた調書の読み聞かせで、

裁きを担当する三奉行がどうあっても、

私を処刑にせんとしていることがはっきりし、

生を願う気持ちはをなくなった。

私がこういう気持になれたのも、平素の『学問の力』であろう。

こめかみのあたりで冬を受けとめる  笠嶋恵美子

   (画面をクリックしてご覧ください)

「留魂録」ー〔第八章〕

今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、

春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。

つまり農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、

秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。

秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、

酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。

この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者が、

いるというのを聞いた事がない。

晴れたら夢を曇れば愛を贈ります  板野美子

私は三十歳で生を終わろうとしている。

未だ一つも事を成し遂げることなく、

このままで死ぬというのは、

これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、

実をつけなかったことに似ているから、

惜しむべきことなのかもしれない。

だが、私自身について考えれば、

やはり花咲き実りを迎えた時なのであろう。

なぜなら、人の寿命には定まりがない。

農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

いつか死ぬけれど今日ではありません  笠原道子

人間にもそれに相応しい「春夏秋冬がある」と言えるだろう。

十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。

二十歳には自ずから二十歳の四季が、

三十歳には自ずから三十歳の四季が、

五十、百歳にも自ずから四季がある。

十歳をもって短いというのは、

夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。

百歳をもって長いというのは、

霊椿を蝉にしようとするような事で、

いずれも天寿に達することにはならない。

あちこちに自分の傘が置いてある  吉井はつえ

私は三十歳、四季はすでに備わっており、

花を咲かせ、実をつけているはずである。

それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは、

私の知るところではない。

もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、

それを受け継いでやろうという人がいるなら、

それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、

収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

落ちてゆく雫わたしのかたちして  八上桐子



〔かきつけが終わった後にー5首〕

心なることの種々かき置ぬ 思ひ残せることなかりけり

呼びだしの声まつ外に 今の世に待つべき事のなかりけるかな

討れたる吾をあわれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払へよ 

愚かなる吾をも友とめづ人は  わがとも友とめでよ人々 
           えびす   はら
七たびも生きかえりつつ夷をぞ  攘はんこころ吾忘れめや

                                                    十月二十六日黄昏に書く 二十一回猛士

(もう思い残すことはなにもない 役人の呼び出しの声を待つほかに、
  今の世の中に待つべきことはない 
  処刑される私を哀れと思う人は、
  天皇を崇めて外国人を追い払ってほしい。

  愚かな私を友としてくれる人は、諸君で結束してほしい 
  7回生き返ろうとも外国を追い払うという心は、私は決して忘れない)

松陰もやはり人間であった。
5首の句から、松陰の今世への未練が伝わってくる。
そして10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処される。
享年30

追伸に雨と寒さがはみ出して  墨作二郎



「古川薫氏 評」
「過去、私は吉田松陰の評伝も書いてきたが、
多面的で巨きなこの人物の全体像を浮かびあがらせるのは、
いかようにしても私ごときには至難の業である。
むしろ、『留魂録』の原文をじっくり読むことが、
松陰理解への早道であるかもしれない。
歴史を動かした大文章に凝縮されたひとつの人間像をとらえるのに、
その五千字が短すぎるということはないだろう」

言い足りぬくらいで終わることにする  小出順子

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