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川柳的逍遥 人の世の一家言
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皿鉢料理龍馬の気概てんこもり  田口和代


倒幕のために結ばれた薩長同盟の主要メンバーの集合写真。
右から、大久保利通、大木喬任、島津忠義、二人おいて伊藤博文。

「薩長同盟」

禁門の変の後に実施された「第一次長州征伐」では、

戦になる前に長州側が降伏した。

幕府軍が長州に対して、徹底した強硬策に出なかったのは、

薩摩の西郷隆盛勝海舟から、

公武合体策の限界と幕府の内情を聞かされていたからである。

当時の薩摩は琉球の密貿易や、

薩英戦争後のイギリスとのつながりにより財政が潤っていた。

これは疲弊していた幕府からすると、脅威そのものである。

どのスイッチ押したか火山動き出す  竹内いそこ


長州征伐に向かう幕府軍

そこで幕府は長州征伐という名目で薩摩に長州を攻めさせ、

力を削ごうと考えたのである。

薩摩からすれば、長州と戦争をすれば多くの犠牲や軍費が生じて、

国力が衰えるのは目に見えている。

さらに長州が討伐された後、

次には薩摩が標的にされるかも知れない。

だが幕命に逆らえば、謀反の疑いをかけられるし、

薩摩単独で幕府を倒すだけの力はない。

水母から習う生きかた躱しかた  佐藤美はる

一方の長州は「8月18日の政変」さらには「禁門の変」以来、

朝敵とされてしまい、武器の購入を禁止されてしまった。

こうした状況で攻め込まれてしまえば、

ひとたまりもないことは火を見るより明らかだ。

薩摩は無駄な戦争には参加したくない。

そして、倒幕運動の表に立つ気はないが、

西郷はあまり、幕府側に肩入れしても将来はないことを見越していた。

長州はともかく、武器が欲しい。

しかも藩の方針は「攘夷から倒幕へ」と変わってきた。

じつは両者の思惑は一致していたのである。

俎板のくぼみに理由を詰めておく  笠嶋恵美子



だが、長州からすれば薩摩は恨み骨髄の相手。

この長州征伐にしても幕府軍の中核に薩摩がいたことも分かっている。

戦わずして停戦となっても、

恨みこそ残るものの、恩など微塵も感じられない。

このように激しく対立する薩長両藩を接近させたのが、

土佐脱藩浪士の坂本龍馬中岡慎太郎である。

将来を見据えた二人は、

大藩で実行力がある薩長が手を結ぶことが、

新しい政治体制を確立するために不可欠だと考えた。

誰もが不可能だと考えていた「薩長同盟」を実現させたのは、

龍馬が考えた奇策であった。

人生は転んだあとがおもしろい  青砥たかこ

それは武器が買えない長州藩に代わり、

龍馬が経営している亀山社中が薩摩名義で武器を購入する。

そして米が不足していた薩摩藩へは、長州から米を購入する、

と言うものだ。

どちらの藩にとってもメリットのある策であるが、

当初はお互いに面子を重んじるばかりで、話が頓挫しそうにもなった。

すり鉢の底で談合繰り返す  和田洋子



だが龍馬と中岡による和解工作が功を奏し、

慶応2年(1866)1月21日、京都の薩摩藩邸において、

薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の会談が実現。

ここで交わされた密約は、

「長州藩の状況が悪くなっても、薩摩藩はこれを助ける」

というもので、倒幕行動を起こすことではない。

ただこれ以降、

薩摩は幕府による第二次長州征伐への出兵を拒否するなど、

薩長は連携を強めていった。
                         
歳月は正直傷は癒えてきた  上野多恵子


    同盟文    (拡大してご覧下さい)

「薩長同盟の内容」

同盟の内容は次のようなものになっていた。

再び長州征伐となった際は、

薩摩が長州に対し物心両面の援助を約束

戦争が始まった場合、

薩摩は京、大坂に出兵して幕府に圧力を加える

そして戦争の帰趨如何に関わらず、

長州の政治的復権のために、薩摩は朝廷工作を行う

さらに薩摩が畿内に出兵して圧力を加えても、

幕府や会津藩などが強硬姿勢を貫く場合、

薩摩は幕府との決戦に及ぶ、ということも表明している。

指切りをしたので多分大丈夫  原 洋志

1.戦と相成候時は、直様二千余の兵を急速差登し、
       只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、
       京坂両所相固め候事


2.戦自然も我勝利と相成候気鋒相見候とも、
       其節朝廷へ申上、きっ度尽力之次第有之候との事

3.万一戦敗色に相成候とも、
      一年や半年に決て壊滅致候と申事は無之事に付、
      其間には、必尽力之次第きっ度有之候との事

4.是なりにて幕府東帰せし時はきっ度朝廷へ申上、
       直様寃罪は従朝廷御免に相成候都合にきっ度尽力の事

5.兵士をも上国の上、橋、会、桑等も如只今次第にて、
       勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義に抗し、
       周旋尽力の道を相遮り候時は、終に及決戦候外無之との事

6.寃罪も御免之上は、双方誠心を以て相合、
       皇国之御為に砕身尽力仕候事は不及申、
       いづれの道にしても、今日より双方皇国之御為、
       皇威相輝き御回復に立ち至り候を目途に
       誠心を尽して尽力可致との事。

結んでひらいて結んだとこで終ろうね  安土理恵

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練っているうちに鮮度が落ちてくる 青砥たかこ



    天狗党

「薩摩藩の変心」

「蛤御門の変」の直後、長州はイギリスやフランスなど、

四国艦隊との戦争にも惨敗し、いよいよ攘夷が困難であると思い知る。

倒幕に根強く反対していた上層部も、

高杉晋作伊藤俊輔らの軍事クーデターにあって 

淘汰され長州の藩論は、武力藩論にまとまった。

こうして長州の藩論が武力倒幕一本でまとまるなか、

新たに倒幕へと傾き始めた勢力があった。

薩摩藩である。 かねてから薩摩藩は、

「公武合体派」として会津藩らと長州排斥の前線にいたが、

禁門の変以降は、次第に幕府と一線を画す態度を見せるようになる。

何故と言うてもこの世はこんなものらしい 加納美津子

何故、薩摩が幕府に敵対する態度をとるようになったのか。

ひとつは、西郷隆盛は、幕臣の勝海舟らから、

「幕府には時局をまとめる力がまったくない」

ことを聞かされていた事。

西郷は幕府の弱体化を知り、

ひそかに倒幕へ帆の向きを変えるのである。

もうひとつは元治元年(1864)12月、水戸の天狗党の結末である。

幕府による天狗党に対する残酷な大量処刑が、

薩摩をして幕府から離れるきっかけともなった。

中流を震撼させる世の乱れ  清水久美子


   大久保利通

天狗党始末ー降伏した天狗党の一行は,まず敦賀の寺に収容され,

その後,肥料用のにしんを入れておく蔵に移された。

火の気もふとんもないうす暗い蔵の中では,

厳しい寒さと粗末な食事が原因で,20数人が病死していった。
                            たぬまおきたか
間もなく,幕府の田沼意次の孫・若年寄の田沼意尊による

取り調べが行われ,天狗党一行に対する刑が決められた。

死罪…352人 ・ 島流し…137人 ・ 水戸藩渡し…130人。

あの安政の大獄でも,死罪となったのはわずか8人だけである。

雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪 
                         
武田耕雲斎〕

かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき 
                         
藤田小四郎〕


この類を見ない大量処刑に驚いた薩摩藩の大久保利通は,

「このむごい行為は,

   幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」

と日記に記している。

これが薩摩が幕府を見限った瞬間である。

この世では歩けぬ草履履かされる  利光ナヲ子


  幕末の江戸城

さらに幕府は、助命した天狗党員の一部を薩摩へ流刑とすることを、

計画したが、西郷は幕府への書状を起草し、

「道理において出来かね申し候」 と謝絶。

彼らは、次第に幕府への信頼を薄めていったのだ。

こうした薩摩の微妙な変化は、

やがて長州藩への強力な後方支援として結実する。

うっすらの虹です夢の途中です  太下和子


   西郷隆盛

ただし、薩摩藩のトップは、

幕藩体制の遵守を掲げていた島津久光である。

家臣にすべてを任せていた長州藩の藩主・毛利敬親と違い、

久光が倒幕行動を許すとは考えられない。

そこで西郷は盟友の大久保利通と協力して、

久光に相談せずに武力倒幕の道を模索することになった。

すると、倒幕という方針で共通する両藩を結びつけようとする

人物が現れた。

土佐の脱藩浪士である坂本龍馬中岡慎太郎である。

しかし、長州と薩摩は犬猿の仲。

とくに長州は「蛤御門の変」で薩摩に苦い屈辱を味合わされている。

その折、幕府の征討軍参謀として公務を担っていたのが薩摩藩の

西郷隆盛だった。

尻尾だけ踊り狂っている舞曲   皆本 雅

この深いしこりがあって両藩はなかなか歩み寄ろうとせず、

龍馬の仲介役は難航した。

そこで龍馬は一計を案じる。

長州は武器の不足に悩み、

薩摩は天災による米不足に頭を悩ませている。

龍馬は、薩摩藩が武器弾薬を買い付けて長州に渡し、

長州はその見返りに米を渡す、

という両藩が抱えている問題点を表出し、

両藩の目の向きを、経済面へ変えさせることを提案したのである。

龍馬のこの狙いは的中、長州と薩摩は経済同盟という形で手を結んだ。

慶応2年(1866)1月22日、「薩長同盟」の成立である。

まだ噛んでいる夕飯のモンゴイカ  井上一筒


武田耕雲斎のその時

「天狗党の乱」
元治元年3月27日、尊皇攘夷の総本山とも言えた
水戸藩の過激派が、筑波山挙兵を決行。
彼らは天狗党と呼ばれていた。
中核を成していたのは、桜田門外の変を起こした連中と同じく、
より過激な行動を起こす一派であった。
天狗党の要求は、横浜鎖港が一向に実行されないことに憤り、
即時鎖港を幕府に要求することであった。
しかし、7月には追討軍が組織されたため、西へ向かって進撃、
だが12月11日、越前敦賀で加賀藩に投降し、乱は終結する。

土壇場で言い訳しない喉ぼとけ  美馬りゅうこ

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手相は凶だが足相は大吉  雨森茂喜


楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記

「楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記」は、昭和の初めころ、

村田清風の孫・村田峰次郎という歴史家が書いた。

伝記の中に「耕堂」の名の由来があり、文章はそこから始まる。

「君は当時、思ふ所ありて世厄を遁れ、

   帰農を以て楽みとする情意なれば、

   嘗て耕堂または不如帰耕堂などの雅号も、
     ここ
   爰に到り始めて実現さるることとなれり」 

伊之助は一時期すべての職から離れ、農業に勤しんだことがある。

その中から、伊之助と龍馬の出合いを紹介したい。

髪切った帰りに茅の輪またくぐる  前中知栄

一時、幕府への忠誠を誓う保守派が長州藩内で台頭したとき、

その反対勢力だった小田村伊之助は野山獄に入れられていた。

しかし、高杉晋作の功山寺挙兵の勝利によって、

藩政府の政治方針が、一新されたことをきっかけに、釈放された。

獄を出た後は、三条実美ら五卿を訪ね、塩間鉄造の名で

太宰府に滞在していた折、そこで偶々、

薩長を結びつけることを画策していた

土佐脱藩浪士・坂本龍馬と出会ったという訳である。

時々は真空パックの空を出す  山口美千代


  坂本龍馬

「龍馬と逢う」


幕末維新期に於ける伊之助(楫取素彦)の最大の功績は、

九州の太宰府で坂本龍馬と会見し、

「薩長同盟」のきっかけをつくったことと言われる。

村田峰次郎が名文で次のように書いている。

「君の筑前に入るや、途次偶々たまたま土州藩阪本龍馬に逢ふ。

   潜に国事を談し、互に時事の得失を説く。

   阪本口を極めて討幕の期熟するを言ひ、

   速に長薩の連合策を遂行せんことを切論し、

   暗に西郷吉之助の同意ある趣を語り、
     じか     せいちく
   併せて自家に胸中の成竹を開展したり。

   君深く阪本の誠意を諒とし、馬関に帰るや、俄に桂小五郎を訪ひ、
    せつ
   窃に阪本の連合説を勧む」

 成竹=あらかじめ成功する目途のあること。

開けゴマ一気に喋り出す禁句  百々寿子

  桂小五郎
しゅこう
「桂、之を首肯せり。
                                                                                                   ぐうきょ
   その後、阪本馬関に来たり、特に桂の寓居を叩き、
  かって
   曾て君に伝へし所の連合説 詳論せり。

   それよりして連合策の主張交渉は、次第に歩を進め、

   大成の良結果を覩るに至れり。

   その他日の成功とする所は、

   当初、君か斡旋の労に起因せるものならんか。

いやしく
   苟も連合の議を記せんとするに於て、

   君の功決して 逸すへからすと信す」


 首肯=うなずくこと。

あさっての話 眉間で割るリンゴ  佐藤正昭

「そこからの小五郎」

「おれは ぶっ壊すのは大の得意だが、

 作り上げるのは大の苦手とするところだ。

 作るのは 桂しかなかろう」

そう言い放ったのは、高杉晋作である。

そこで、京都から離れ、団子屋をやっていた桂小五郎を、

亡命先の但馬出石から呼び戻して、

この男に、藩政のすべてをまかせた。

”蛤御門の変”で長州がたたかれた後、

長州の残兵を探しに行った戦場の、京都から逃れ、

但馬で骨休めしていた小五郎にとっては、損な役回りである。

しかし、藩命とあればやむを得ない。

慶応元年(1865)4月下旬、高杉の一報で、小五郎は萩に戻った。

唐突を燻製にしているところです  山口ろっぱ

薩摩の方でも、

「おれは古い家を壊すのは おおいに得意とするところだ。

 しかし、新しい家となれば、大変苦手である。

 それは、大久保が適任と考えている」

そう語るのは西郷隆盛である。

高杉の言葉と、内容はまったく同じだ。

まさに「薩長同盟」また「維新」は、役割分担で実現した。

長州に戻った小五郎は「政事堂用掛及び国政方用談役心得」

に任命され、紆余曲折をしながらも、

慶応2年1月の同盟成立まで、精力的に動いた。

龍馬との会見は次の通り。

5月01日 龍馬 下関・綿屋弥兵衛の宿で桂小五郎との会見を望む。
5月06日 小五郎、白石正一郎邸にて龍馬、土方楠左衛門と会談。
5月07日 小五郎、坂本龍馬、土方楠左衛門と会談。
5月08日 小五郎、坂本龍馬、土方楠左衛門と会談。

龍馬は小五郎を説得するのに三日要している。
そして、やがて西郷との会見の運びとなる。


わたくしののほほんへまさかのうねり  山本昌乃

     
   五十鈴御殿          銀 姫


五十鈴御殿は、
萩から山口に移ってきた毛利元徳の正室・安子が
居館としたもので、
美和は約5年間、この御殿で奥女中として安子に
奉公した。


【豆辞典】「守り役(教育係)」とは。

伊之助が大宰府に赴いていたころ、

毛利元徳の正室・安子銀姫)に仕えていた美和は、

漢籍(中国の書籍)の素養などを認められて、

嫡男・興丸の教育係に抜擢された。

大名の継嗣のそばには、

その地位にふさわしい見識や素養を身につけるため、

優れた教育係が置かれることが多かった。
もとすけ
織田信長平手政秀武田信玄板垣信方毛利隆元国司元相

などがよく知られている。

女性では徳川3代将軍・家光春日局

13代将軍・家定正室・篤姫幾島

伊達政宗の守役・片倉喜多などが名高い。

このように見ていくと、

美和がどれだけ教養豊かな女性であったかが分かる。

螺旋階段ようやく当たり出す朝陽  古田祐子

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鉄板の厚さで勝負しています  前中知栄


  明倫館の模型 (山口市博物館)

「毛利藩の教育」

萩の藩校・「明倫館」は、上士にのみ登校が許された学校で、

極めて優秀であった。

その為、身分の低い藩士達も縁故を伝って入学し、学問を修めた。

毛利13代藩主・敬親はことのほか教育、人材育成に熱心で、

享保3年(1718)に5代藩主・吉元が萩城三の丸に開設した藩校を、

全体規模を拡大して、城下の中心地へ移転させた。

幕末の数多い優秀な人材は、

敬親の「教育方針」のたまものなのだ。

明倫館に関わりのある著名人をあげると、
吉田松陰、小田村伊之助、玉木文之進、椋梨藤太、周布政之助、
高杉晋作、桂小五郎、長井雅楽、井上聞多、大村益次郎など。

タクトからペールカラーの音符たち  矢沢和女


    有備館  (国指定史跡)

有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもの。
北半分を剣術場、南半分を槍術場とした。
また、ほかの藩から剣や槍の修業に来た人たちとの試合場にも
使われ討慕運動に活躍した土佐の坂本龍馬が、
萩を訪れれた文久2年に 、剣術の試合をしたといわれている。

敬親が立ち上げた当時の明倫館の規模は、約1万5千坪の敷地内に、

聖廟(宣聖殿)を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として、

学問習得のための建物、

それも漢学中心の初等・高等の教育施設が、配置され、

東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、

後方には水練池、北方には、約3千坪の練兵場が設けられた。

因みに、1万5千坪は、甲子園球場4個分にあたる。

竹に節私に意地があるように  八田灯子          


    明 倫 館

「敬親が殊に重要視した明倫館教材の①-詩経」

【天が陰雨の天気とならぬ内に、鳥が彼の桑の根の皮をはぎ取って 

   己の巣のまどを手堅くまといからめて

   雨が降っても降りこまぬように備えて

   不測の患を予防するということがある。

   君子即ち人の上に立つ人が もし,

   国を治めてまさかの時に禍をうけぬ予備をなさんとならば,

   学問をすることで、人材を造るより上策はなきはずである】

人の世に明かりが灯る人の手で  前田楓花

【人材を作ることを楽しんで子弟を教え、

   取りしまりを簡易にして人民を悦ばすれば、

   即ち 民の父母たる徳あるものであるということがある。

   而して「左伝」には学ぶということは、

   草木で申せば 植えて培養する仕方に当る。

   もし、学ばなかったらば、草木が養われずして衰えるがように

   人材が出来ぬものであるということがある。

   今 君公が国家を治めらるるに学事を上策として、

   子弟の学問を励まして 学校をたてたまい、

   之に教育を施して 人材の衰えぬようにせらるるのであるから、

   民の父母たる徳は 誠に大なるものである】

(『左氏伝』(さしでん)孔子の編纂と伝えられる歴史書)

点を打ついつか線にも絵にもなる  勝又恭子


「嘉永重建碑の削り取られた部分」

【明倫館のいたずら】

堀内から江向に移された時、明倫館の開校を記念してたてられた

「嘉永重建碑」と呼ばれる石碑がある。

この嘉永重建碑を見ると、

左から四行目のまん中あたりの文字が、三字ほどが削られている。

削られた文字は、「幕命而」

もとは、「幕命を崇奉して、国家の蕃屏たる所以なり」で、

意味は「幕府の命令をよくきいて国を守る」 とあったところ。

蕃塀とは、「不浄除け」の不浄なものを遮断する意味から「楯」と訳す。

立ち位置が微妙コウモリの保身  竹内いそこ


歴代毛利の藩主たち

「その謎の解明」

関が原から三年後の慶長8年(1603)に

徳川家康は江戸に全国の大名を統括する幕府を開いた。

そして慶長20年には「大坂の陣」によって豊臣家を滅ぼし、

名実ともに「天下人の座」についた。

毛利ほか諸大名は徳川家から

「領地(藩)を預かる」という形となり、幕藩体制が始まった。

毛利元就の次男・吉川広家の嘆願により、

お家の存続を許された毛利家は、その後、本拠地・長門と一字から

「長州藩」と通称されることになる。

しかし、元就以来から守り抜いてきた120万石を、

周防・長門37万石に減らされた恨みは、

江戸時代を通じ、歴々と長州・毛利家に根付くことになる。

13代藩主・敬親もまた表向き「幕府恭順」と言いながら、

内心では「倒幕」への気持ちは、抱いていたのである。

同時に、長州の藩士の心も、

「幕命而」を削ったところにあったということだろう。

酸欠なんです赤いクレヨン下さいな 山口ろっぱ


  昌平坂学問所

 【豆知識】「藩校」

藩校は江戸時代、藩が主に家臣の師弟を教育するために設立した。

就学が義務とされるのは、家臣の長男のほか、

藩によっては、藩士全体にも及び修学期間は、

一般に7歳から20歳位まで。

今で言えば、幼稚園から短大まで一つの学舎で学ぶことになる。

授業は「儒学」が中心で、

中国の「四書五経」の素読や「習字」を学ぶほか、

「歴史・礼式、詩文の創作、算術」など幅広い教科が行われた。

文武両道を目指して、「槍術術,柔術、剣術、馬術」などの

実技や兵書の講義などもあった。

江戸の後期にもなると、

藩によっては、「医学・洋学・西洋砲術」なども加えられ、

300あった藩のうち、220余りに藩校が開設されている。

「幕末に名をはせた藩校に長州藩の明倫館、水戸藩の弘道館、

会津藩の日新館、薩摩藩の造士館、江戸幕府は昌平坂学問所

などがあり、そこからは多くの人材が育っていった」

先生と呼ぶと振り向く二三人  美馬りゅうこ

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ウラとオモテを入れ替えただけの空  井上一筒



「もう一人の伊之助」

元治元年、「禁門の変」によって長州藩が京都から追われ、

長州藩の内部で幕府に対する恭順派と、

幕府の過ちを正すという正義派の内部対立で、

恭順派が長州藩の政権を握ると幕府に対して、

反抗しようとする正義派への徹底した弾圧、粛清が為された。

実は小田村伊之助の兄・松島剛蔵も捕われて斬首に処されている。

伊之助にも嫌疑が及び、入牢という状況になり、

伊之助はこれに先立つ形で、

「自分が多分入牢すると、死ぬかもしれない」 ということで、
                 もうしのこしそうろうことのは
妻・寿子に後事を託す遺言・「申残候言の葉」を残している。

難破船に乗った理由なんてない  和田洋子

そこには、死を目前にした心境ではなく、

非常に細かいことを書いている。

「これから自分の家は貧しくなるけれども、

   子供たちは裕福な家のことをうらむことがないようにせよ」

過去を振り返れば、

松陰の本家の杉家も、小田村家も、それほど高級な家柄ではない、

武士の清貧ということ、

まさに、そういう形で家政を切り盛りをしてきた。

 寿が楫取に嫁いだ時には、まだきちんとした一軒家も構えていない。

 「結婚したときには、煮炊きする道具もなく、

   蟻が餌を一つ一つ運んでくるように、自分たち二人は、

   家財を集めてきて、暮らしてきた」

そうした家財への配慮のことまで書いている。

リンゴの唄に救ってほしい昨日今日  石神孔雀

そして、入牢に際、妻・寿子に残した一編の詩には。

「勤倹十年家政、裁縫紡績幾営為、糟糠未報阿卿徳、

 又向獄中賦別離」

意味は、「勤倹すること十年、家政に労す」とあり、

苦しい中を自分たちは、十年間も何とかやってきたのではないか

という思いが「家政を労すること十年」という語句に示されている。

多分、この詩句を受け取った寿には、

伊之助の言う行間の心は、理解していたのであろう。

まず、「今までの十年は、こうだったな」 

と伊之助はは思いい起こしているのだ。

いつも通りに豆腐屋さんの水の音  墨作二郎
                    ほと
その次の語句が、「裁縫紡績、幾んど営為す」

主婦としての当然の仕事をきちんと、

全部あますことなくやってくれた という思いがあって、

家政のうち裁縫紡績を例えて挙げている。

第三句目は、境地が少し変わり、起承転結の「転」に入る。
 そうこう  そなた
「糟糠末だ阿卿の徳に報いざるに」

(思えばお前に何も恩返しすることができなかった)

(阿卿とは、「卿」は六朝のころから、夫が妻に対する呼びかけ

「おまえ」とか「そなた」になる。

「阿」は、相手を慈しむ接頭語)

伊之助が妻に対する思い、「そなた」と妻を愛しむ思いで、

呼び掛けている。

「糟糠」というのは、非常に貧しいときの状態。

これを見る限り、伊之助は家を思い、妻を愛し、

子には優しい普通の人だったようだ。

後ろにもテトラポットな父がいる  山本早苗


   延寿王院

その後、高杉晋作らの働きで藩是の変更に成功し、

野山獄に投ぜられてから、

約半年後の慶応元年(1865)に、伊之助は出獄を許される。

出獄するとまもなく、藩主・毛利敬親から呼ばれ、密命を受ける。

そして、その年の5月には、伊之助は、

塩間鉄造と名乗り、大宰府にいた。

幕末、公武合体派による政変で都落ちした

尊王攘夷派の公爵七人のうち五人が、

太宰府天満宮の延寿王院で約3年間の幽閉生活を送っていた。

この福岡藩の世話で大宰府に滞在している五卿に会うために、

危険を冒して大宰府に赴いたのである。

カーテンを洗い半年巻き戻す  竹井紫乙

五卿(三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修)

に会い、長州藩の立場を説明し、

倒幕を他藩に呼びかける協力を要請するために、

伊之助は動いていたのである。

しかし、五卿は時勢を全く分かっていない。

一応の理解は得たものの、伊之助の期待から遠いものだった。

この頃の大宰府は、西郷隆盛・土方久元、桂小五郎、中岡慎太郎、

坂本龍馬など多くの維新の志士たちが訪れるなど、

さながら、反幕府運動の拠点になっていた。

そんな大宰府で気落ちしていた伊之助は、

「薩長連合」の架け橋となる重大な人物と出会うことになる……。
                              「楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記より」

白っとしてる中へ歩幅が進まない  森 廣子

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