電気クラゲの触手もきっとフレミング 前中知栄
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「函館五稜郭奮戦の図」(右田年英筆)
「日本最大の内乱といわれる戊辰戦争」
慶応3年12月8日に行なわれた朝議において、
8月18日の政変で京都を追われた長州藩主の
毛利敬親・元徳父子の
官位復旧と入京の許可、
三条実美ら五卿の赦免、
岩倉具視らの蟄居赦免が決まる。
その翌日、朝議が終了して公家衆が退出すると、
西郷隆盛の指揮で待機していた5藩の兵が、
御所の5つの門を封鎖した。
そこへ赦免されたばかりの岩倉具視が参内し、
「王政復古の大号令」を発したのである。
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その内容というのは摂政や関白、征夷大将軍および幕府、
京都守護職、京都所司代を廃止、新たに総裁、議定、参与という
三職を設置するというものであった。
要するに新政府から徳川を完全に排除して薩摩、長州、土佐、
それに一部の公家たちが主導する政治体制を確立することを目的とした。
「大号令」が発せられたことで、
約260年間続いてきた徳川幕府は終焉を迎えた。
勢いのままに沈んでいく夕日 辻内次根
徳川治績年間記事・15代将軍徳川慶喜公
慶喜が大坂天保山に停泊していた幕府軍艦で江戸へ脱出する様子。
だが、最期の将軍・
徳川慶喜もさまざまな人脈を使い、
新政府への参画を画策。
しかも実現しそうな勢いですらあった。
そんな折り、12月23日に江戸城西ノ丸が焼失する事件が起きた。
薩摩藩と通じていた奥女中の仕業とされた。
さらに庄内藩の屯所が発砲され、これも薩摩の関与が囁かれた。
これに怒った老中の
稲葉正邦は、
庄内藩に薩摩藩邸を襲撃させたのである。
これは上方に
「江戸では幕府と薩摩が交戦状態になった」と伝わった。
大坂に駐屯していた旧幕府勢力は激高し、慶応4年1月2日、
2隻の幕府方軍艦が兵庫沖に停泊中の薩摩藩軍艦を砲撃。
翌3日には、
「鳥羽伏見の戦い」が勃発した。
これは薩長にとって、願ってもない幸運な事態であった。
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火打道具袋
戊辰戦争で掲げられた錦旗の切地で作った袋(楫取能彦氏蔵)
すでに入京していた薩長の軍は約5千、対する旧幕府軍は1万5千。
しかも今回は、旧幕府軍のほうが新式の武器を備えていた。
だが3日は指揮系統や戦略の不備から旧幕府軍は苦戦を強いられる。
翌4日、朝廷から慶喜追討令が発せられ錦旗、節刀が登場。
新政府軍は正式に
「官軍」となった。
日本史上最大の内戦と言われる戊辰戦争は、
これ以後明治2年5月18日、
函館五稜郭に籠もっていた
榎本武揚率いる軍が降伏するまで、
一年半に渡り各地で激戦が繰り広げられた。
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観音堂
楫取が隠棲の旧宅そばにある観音堂。(現在も法座が行われている)
「楫取、妻の寿と長門へ移住」
慶応3年から4年の戊辰戦争勃発・戦争勝利に至るまで、
楫取素彦は、藩主・
敬親にとって側近中の側近という立場にあった。
戊辰戦争が一応の終結をみてからも、
藩内には、藩士取り扱いに対する不平分子の挙兵などの騒動が起きた。
それを収めるのは、楫取ら人望のある人物の役割だった。
こうした楫取らの働きがあり、敬親は、明治元年、明治天皇から
「内外の大難をしのぎ、朝廷の今日を築いたのは汝のおかげである」
という趣旨の言葉を受けている。
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極楽寺にかかる松陰の書。
吉田松陰26歳の時の書。松陰の書が何故ここにあるのかは謎。
ちなみにこのお寺には、楫取素彦の妻であり、
松陰の妹でもある寿が極楽寺に宛てて送った手紙も遺っている
しかし、明治4年楫取は、敬親が死去し
、廃藩置県が断行されると、
維新政府には参加せず、妻・寿と長門市三隅の二条窪地区に2人で
隠棲してしまう。
そこは、戸数15戸から16戸くらいの小さな村で、
楫取は楫取山と呼ばれる広い土地を所有し、農耕仕事に勤しんだ。
一方、浄土真宗に帰依していた妻の寿は、
近くに観音堂を建て毎月2回、
極楽寺の僧侶を招いて真宗の普及に努めた。
わずか2年ほどの居住だったが、
現在でも、二条窪地区は米の産地として残り、
観音堂でも定期的に法座が開かれて、
二人の功績は地域に根付いている。
ひとつ荷をおろすと次が待っている 青砥たかこ
「人間には、子どもの頃に身につけておかねばならないものがあります。
それは愛情とか思いやりとか、もののあわれを感知する力です。
そういうものは、家庭の中で育まれていくものでしょう。
そして教育は、師への信頼と尊敬がなければ、
成り立つものではありません。
また、塾や学校で身につけるべきものは、
友人との絆や同志としての繋がりです。
読書で自分の思想を高めることも大事です。
しかし、それだけで足りないものがあります。
それが信心であり信仰です」
こうした活動により、その後、寿は
「関東開教の祖」といわれる。
(この項目続きます)
お寺から僕はひとりで影ふたつ 奥山晴生 [6回]