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川柳的逍遥 人の世の一家言
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名月はまだかと鯉が口あける  森田律子


  銀座の街並み
文明開化の西洋風の建物も多く建てられるようになり、
街並みは西洋風に変わっていった。明治5年の火事がきっかけとなり、
銀座はレンガ造りの街並みへと変貌した。

「文明開化が一歩づつ」

多くの同胞の血を流しつつも、日本は新しい体制に生まれ変わった。

そのきっかけは黒船来航からはじまった「尊皇攘夷」運動である。

その急先鋒だった長州藩は、今や新政府の中枢を占めている。

攘夷を叫んでいたことなどどこ吹く風で、

制度や技術、文化といったさまざまなものが、

一気に西洋化していった。

その一例として「天皇陛下の巡行」が挙げられる。

それまでの歴代天皇は京都御所の中にいて一般の人々とは、

隔絶されていた。

だが維新以降は、西洋風の君主を目指し、各地を巡行して、

存在感を示したのである。

全国各地に明治天皇が滞在したことを記念して碑が立っているのは、

そうした理由からなのだ。

せっかちを長所にしたらどうだろう  立蔵信子            


  明治天皇巡行の絵 (1869年2月20日)
時代は明治となっていたが、この頃は江戸時代と変わらない。
ただ天皇が御所の外へ出ることは、とても珍しい時代であった。

そして矢継ぎ早に制度改革が行われていった。

明治2年には、薩長土肥の4藩主が朝廷に対して、

「版籍奉還」を願い出ている。

これは大久保利通木戸孝允の根回しによるもので、

倒幕の原動力となった藩が領地と人民を進んで朝廷に返上すれば、

他藩も我先に続くことを見越したものであった。

また明治4年には「廃藩置県」が断行され、

藩も武士も姿を消してしまう。

それまでは、藩主がいる小さな集合体で、

それを徳川幕府が統制していたのを、

完全な「中央集権制度」に変えたのである。

新しい風が吹き始めたようだ  岡内知香

この制度は中央政府の権限が大きくなるため、

さまざまな改革が断行しやすくなる、というメリットがある。

また、生活も凄まじい早さで欧風化していった。

公家は「お歯黒」をやめ、武士から庶民まで「髷」を落とした。

洋服に靴を履いた人も増え、肉食も瞬く間に全国へと広がった。

なァ息子時計の針を進めるな  板野美子


明治天皇の皇后・昭憲皇太后
唐衣装の政争姿だが、眉は剃りおとしていない。

「お歯黒」

明治元年、「男性公卿のお歯黒、作り眉は遵守しなくてもよい」

との令が出され、

明治3年に、太政官布告で華族に「停止令」がだされた。

次いで明治6年に昭憲皇后陛下が率先して、

「お歯黒」、「置き眉」を止めたことで、

一般の女性の間でもお歯黒、置き眉、剃り眉が次第に廃れていった。

それまで、女性は結婚が決まるとお歯黒をし、

子どもができると眉を剃り落とした。

ただ上流では剃った後も正式な場に臨むときは、

眉を置く習わしであった。

千年以上続いた身分立場の機能を兼ねた伝統美に終止符が打たれた。

廃止になった背景には、来日した外国の高官たちの目には、

奇異な風習と映ったことも影響している。

グサリッ自分の眉間に帰るブーメラン くんじろう

親日家であった駐日英国総領事・オールコックは、

「日本は本質的に逆説と変則の国だ。 ……

   上から下へ、右から左へと横文字の代わりに縦文字を書き、

   書物は我々の終わるところから、始まる。

   歯に黒いニスのようなものを塗り直して、

   眉毛をむしりとってしまった時は、あらゆる女性のうちで、

   人工的な醜さの点で、比類のないほど抜きんでている。

   彼女たちの口は、まるで口を開けた墓穴のようだ」

と日本の風習に痛烈な批判を浴びせた。

西洋の大国と肩を並べたい政府は、

お歯黒、置き眉、剃り眉停止策を取ることにしたのである。

飾っても飾ってもアンパンのへそ  桑原伸吉


   木戸孝允
木戸は新政府でいち早く髷を切り落とした。

「ちょんまげ」

明治新政府になって木戸孝允は二つの懸念を抱えていた。

隣の中国がアヘン戦争に敗れて、英国に半植民地化されていること。

そして、一つは「ちょんまげ」であった。

明治4年、木戸孝允は新聞に唄を掲載。

「ジャンギリ頭ヲタタイテミレハ 文明開化ノ音ガスル」である。

つまり、髷を切った髪型にしてこそ、

日本は文明国になれると訴えたのだ。

そして木戸自身も新政府内でいち早く髷を切り落とし模範を示した。

さらに8月には、「断髪令」を制定。

しかし、髷は千年も続いた伝統の髪型であるため、

日本中で大騒動になる。

十日後のはらりはらはら副作用  山本早苗


明治天皇の断髪姿

断髪した頭は女性から大不評で、

日本各地で「断髪離婚」が起こったのだ。

日本中で続発する断髪への抵抗に木戸は頭を抱えた。

悩んだ木戸は、明治天皇に国民の模範になってもらおうと提案した。

それに強行に反発したのが、岩倉具視であった。

昨日と違うわたしを拒む水たまり  柴本ばっは


   海外使節団
岩倉使節団は政府首脳と留学生など107人で構成されていた。

そんな中、西洋文明を学ぶため外国に使節を派遣することになり

岩倉を団長に木戸らは11月12日、サンフランシスコにむけ出発。

12月に到着すると、行く先々で歓迎を受けた。

特に和装に髷の岩倉は、アメリカ人たちの注目の的であった。

それに岩倉は気を良くし、自らの格好に自信を深めた。

しかしアメリカ人の本心は、

岩倉の格好を野蛮なものと見ていたのである。

そうしたアメリカ人の本音を知った岩倉は、衝撃を受けた。

いずれ黄昏になる一対の椅子  山口ろっぱ


   岩倉具視
岩倉のこの奇異な頭がアメリカ人の注目を集めた。

そこで岩倉は髷を切ることを決断した。

日本で岩倉の断髪が伝えられると、公家たちも次々と断髪した。

そして、明治6年3月20日には「明治天皇自らが断髪を宣言」

側近の手でまげが切り落とされた。

新聞で天皇断髪が伝えられると、

ちょんまげを切る動きは全国に広まった。

これ以降にちょんまげを切る動きは、全国に広まった。

街並みは西洋風に変わり銀座はレンガ造りの街並みと変貌し、

また、お歯黒にしろ断髪にしろ、こうして日本人の見た目もまた、

文明開化は一歩づつ前に進んでいくのである。

前髪の色は前世のままにする  井上一筒

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 仏壇に飾るアリガトウを飾る  田口和代


  二条窪観音堂

「二条窪(長門三隅)在住時代の素彦と寿」

楫取素彦は明治維新が成ると、中央を去って帰農の志を抱き、

山口県三隅村二条窪の桜楓山荘に妻・寿と棲んだ。
       そうじょう よじん
当時、幕末騒擾の余燼未だ治まらず、

村人に、ややもすれば不穏の空気さえ見られるので、

寿は、この際、自分が信奉する真宗の教えを聞信させることが、

平和への道であると考え、自宅に近く郷のほぼ中心にあたる地を選んで、

小さい堂(観音堂)を建て、毎月二回、男女の集合をはかり、

僧侶を招いて、法座を開くことにした。

寿の法話に聴きいっている村人の姿は、

彼らの心を動かして、やまないものがあった。

これにより村内の気風が一変し、

大いに感化を及ぼしたと伝えられている。

さまよえり あれののはてをちのはてを  大海幸生


楫取 寿

寿は、天保10年(1839)毛利藩士・杉百合之助の二女として生れた。

母のは元来聡明な上に、豊かな教養もあり、早くから仏縁に恵まれ、

真宗の法義を仰信していた。

晩年に、真宗の高徳、島地、大洲、赤松等の諸師の教えを受け、

明治23年、84才で逝去するが、その葬儀に際し、

時の本願寺法主・光尊上人から、

特に使僧が派遣せられ、法名を「実成院釈智覚乗蓮大姉」と諡られ、

"国のためつくしてのみか伝えつる みのりの道はふみもたがえず ”

という歌まで贈られている。

この母の姿を近くにみて、寿は信仰心に目覚めたものと思われる。

また憂国の士・松陰という兄がいたことも、

寿にとっては精神的訓化として影響したことも否めない。

紅葉散るあたりはきっと苦労性  原 洋志                     

二人が住み移った二条窪というところは、

戸数15、6戸という山あいの農林業の集落で藩政時代には、

遠く於福村から大ケ峠、渋木の坂水の峠を越えて二条窪から、

川下約3キロの豊原の舟戸まで年貢米などを運ぶ街道筋であった。

素彦と寿が、その二条窪に居を構えたのは、維新がなり、

明治に改元されて間もない頃(明治4年)、寿三十才前後の頃である。

それより、素彦が熊谷県(後の群馬県)の県令に任ぜられ、

同伴赴任するまで、数年間、この地に居住し、

清く美しく法味愛楽の日々を送ったと伝えられる。

仏飯と丸い会話をして生きる  岩根彰子


極楽寺に残っている寿自筆の書
野波瀬極楽寺 第17代住職・蒙照に贈ったとされる。

寿が極楽寺に送った自筆の書き物(楮紙一枚に和歌が四首)が残る。

包装紙の表面には

  のばせ
             極楽寺様      楫取

とあり、寿が二條窪時代に、住職・蒙照に贈ったものとされる。

筆跡は極めて女らしく、

しかも達筆で、女史の教養と人柄を想像させる。

その四首の和歌は、何れも彼女の自作ではなく、

読書や聴聞の上で自分が感動したものを抜萃し書き残したもの。

木綿の風呂敷にトキメキを包む  雨森茂喜

〔旗本一柳とよ姫の辞世に〕

"いざさらば浮世を捨てて法りの船 さとりの岸に今日やつくらん"

〔同行の口すさみに〕

"かんしゃくは持って生れし鈴の玉 あたりさわりになるぞかなしき"

"その中に他力の信の玉入れて またなりもどる弥陀の称名"

(この二首は『妙好人伝』「石見の国柚木の長三郎の口すさみに」)

 〔女の身の弥陀の本願にあえる嬉しさは古歌に〕

"雨露にたたかれてこそ紅葉ばの にしきをかざる秋となりけり"

何れも、真宗安心の味わいを詠んだものである。

ともしびやひとりを眠る眠らせる  山本柳花         


       桜楓山荘跡地と案内板

「楫取素彦のこと」

楫取素彦の明治3年の時点では、三田尻管掌として三田尻在住。

明治4年正月7日には,勅使・岩倉具視山口下向に付引請掛の任。

3月28日敬親公薨去。

そして葬儀に当っては、

4月28日、勅使・堀河侍従山口下向に付引請掛を命じらるなど、

多事多用であわただしく、それを最後の大役として勤めた後、

新政府には参加せず、引退し、二条窪に移り住んでいる。

言い訳もせずにあんたは千切れ雲  美馬りゅうこ

素彦が二条窪に居住を構えると、間もなく荒地を開墾して、

村人に、不毛の地を食田に変え、

山林大火のあとへ植林することを教えた。

自ら百姓姿となって村人の間に混り、

率先開墾の鍬を揮いあるいは木を植えた。

少なかった採草場は自ら官に乞うて、

隣村深く入会権を獲得して与えるなど、

大いに村民の利益を増進した。

翌5年2月、足柄県参事(副知事職)に任命されて赴任するまでが、

二条窪隠棲の日々であった。

ほんものはハートに届くホーホケキョ  新家完司

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電気クラゲの触手もきっとフレミング  前中知栄

 (拡大してご覧ください)
「函館五稜郭奮戦の図」(右田年英筆)

「日本最大の内乱といわれる戊辰戦争」

慶応3年12月8日に行なわれた朝議において、

8月18日の政変で京都を追われた長州藩主の毛利敬親・元徳父子の

官位復旧と入京の許可、三条実美ら五卿の赦免、

岩倉具視らの蟄居赦免が決まる。

その翌日、朝議が終了して公家衆が退出すると、

西郷隆盛の指揮で待機していた5藩の兵が、

御所の5つの門を封鎖した。

そこへ赦免されたばかりの岩倉具視が参内し、

「王政復古の大号令」を発したのである。

その先は曲がっています水平線  河村啓子

その内容というのは摂政や関白、征夷大将軍および幕府、

京都守護職、京都所司代を廃止、新たに総裁、議定、参与という

三職を設置するというものであった。

要するに新政府から徳川を完全に排除して薩摩、長州、土佐、

それに一部の公家たちが主導する政治体制を確立することを目的とした。

「大号令」が発せられたことで、

約260年間続いてきた徳川幕府は終焉を迎えた。

勢いのままに沈んでいく夕日  辻内次根


徳川治績年間記事・15代将軍徳川慶喜公
慶喜が大坂天保山に停泊していた幕府軍艦で江戸へ脱出する様子。

だが、最期の将軍・徳川慶喜もさまざまな人脈を使い、

新政府への参画を画策。

しかも実現しそうな勢いですらあった。

そんな折り、12月23日に江戸城西ノ丸が焼失する事件が起きた。

薩摩藩と通じていた奥女中の仕業とされた。

さらに庄内藩の屯所が発砲され、これも薩摩の関与が囁かれた。

これに怒った老中の稲葉正邦は、

庄内藩に薩摩藩邸を襲撃させたのである。

これは上方に「江戸では幕府と薩摩が交戦状態になった」と伝わった。

大坂に駐屯していた旧幕府勢力は激高し、慶応4年1月2日、

2隻の幕府方軍艦が兵庫沖に停泊中の薩摩藩軍艦を砲撃。

翌3日には、「鳥羽伏見の戦い」が勃発した。

これは薩長にとって、願ってもない幸運な事態であった。

こわれる理由持っているんだシャボン玉 和田洋子 



    火打道具袋        
戊辰戦争で掲げられた錦旗の切地で作った袋(楫取能彦氏蔵)

すでに入京していた薩長の軍は約5千、対する旧幕府軍は1万5千。

しかも今回は、旧幕府軍のほうが新式の武器を備えていた。

だが3日は指揮系統や戦略の不備から旧幕府軍は苦戦を強いられる。

翌4日、朝廷から慶喜追討令が発せられ錦旗、節刀が登場。

新政府軍は正式に「官軍」となった。

日本史上最大の内戦と言われる戊辰戦争は、

これ以後明治2年5月18日、

函館五稜郭に籠もっていた榎本武揚率いる軍が降伏するまで、

一年半に渡り各地で激戦が繰り広げられた。

もの凄い速さで今日が消えて行  森 廣子    


    観音堂
楫取が隠棲の旧宅そばにある観音堂。(現在も法座が行われている)

「楫取、妻の寿と長門へ移住」

慶応3年から4年の戊辰戦争勃発・戦争勝利に至るまで、

楫取素彦は、藩主・敬親にとって側近中の側近という立場にあった。

戊辰戦争が一応の終結をみてからも、

藩内には、藩士取り扱いに対する不平分子の挙兵などの騒動が起きた。

それを収めるのは、楫取ら人望のある人物の役割だった。

こうした楫取らの働きがあり、敬親は、明治元年、明治天皇から

「内外の大難をしのぎ、朝廷の今日を築いたのは汝のおかげである」

という趣旨の言葉を受けている。

パーフェクトに咲いて散れなくなりました 岩田多佳子


極楽寺にかかる松陰の書。
吉田松陰26歳の時の書。松陰の書が何故ここにあるのかは謎。
ちなみにこのお寺には、楫取素彦の妻であり、

松陰の妹でもある寿が極楽寺に宛てて送った手紙も遺っている

しかし、明治4年楫取は、敬親が死去し、廃藩置県が断行されると、

維新政府には参加せず、妻・寿と長門市三隅の二条窪地区に2人で

隠棲してしまう。

そこは、戸数15戸から16戸くらいの小さな村で、

楫取は楫取山と呼ばれる広い土地を所有し、農耕仕事に勤しんだ。

一方、浄土真宗に帰依していた妻の寿は、

近くに観音堂を建て毎月2回、

極楽寺の僧侶を招いて真宗の普及に努めた。

わずか2年ほどの居住だったが、

現在でも、二条窪地区は米の産地として残り、

観音堂でも定期的に法座が開かれて、

二人の功績は地域に根付いている。

ひとつ荷をおろすと次が待っている  青砥たかこ

「人間には、子どもの頃に身につけておかねばならないものがあります。

   それは愛情とか思いやりとか、もののあわれを感知する力です。

   そういうものは、家庭の中で育まれていくものでしょう。

   そして教育は、師への信頼と尊敬がなければ、

   成り立つものではありません。

   また、塾や学校で身につけるべきものは、

   友人との絆や同志としての繋がりです。

   読書で自分の思想を高めることも大事です。

  しかし、それだけで足りないものがあります。

   それが信心であり信仰です」

こうした活動により、その後、寿は「関東開教の祖」といわれる。

(この項目続きます)

お寺から僕はひとりで影ふたつ  奥山晴生 

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さらば婆沙羅太平記のシミである  山口ろっぱ


廃藩置県の詔書を読む三条実美 (各画像は拡大してご覧下さい)

「明治新政府の改革」

江戸幕府を倒し、新たな中央政権となった明治政府だが、

解決すべき問題は山積みしていた。

最大の課題は、

旧体制である全国に残った各藩をどう処理するかであった。

幕府なきあとも地方では、諸藩による統治がそのまま続いていたのだ。

そこで新政府は、まず手始めとして「版籍奉還」を実行した。

全国の藩主に、土地と人民を天皇に返還するように求めたのだ。

シーソーの反対側に乗る夕陽  蟹口和枝

 
        版籍奉還建議書案


こうして明治2年(1869)薩摩、長州、土佐、肥前の四藩主が連名で、

上奏文を提出し、他の藩主たちがそれならという形で、

「版籍奉還」が実行された。

そして旧藩主は、明治天皇から知藩事(藩知事)に任命されたものの、

領主としての権限を失うことになった。

それにしても、なぜ各藩主たちは、

易々と「版籍奉還」に応じたのだろうか。.

それは全国の藩主の多くが、長年の赤字財政や戊辰戦争の出費などで、

大きな負債を背負っていたからだ。

版籍奉還に応じることで、政府が負債を肩代わりしてくれれば、

各藩の藩主たちにとって、それほど悪い話ではなかったのである。

浮いてから沈むか沈んでから浮くか  笠原道子


      断髪風景
明治4年8月9日、断髪脱刀勝手令の法令が出された。
それを囃して作られたのがこの歌である。

「半髪頭を叩いてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする。
    総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする。
    散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」

次に政府は藩そのものを廃止する「廃藩置県」に踏み切る。

明治4年、政府は薩摩・長州・土佐の軍隊1万人を東京に集結させて、

そこに全国の藩知事(元大名)やたちを集め、

藩をなくして県を置くことに同意させたのである。

こうして、全国261の藩は廃止され、

知事には中央政府の役人が任命されることになった。

まず3府302県が生まれ、

その年の末までに3府72県に整理された。

その際、県の呼び名は、戊辰戦争で政府側についたか、

幕府側についたかによって、決め方が変えられたといわれる。

この風は森を通ってきましたね  笠嶋恵美子


廃刀令にもかかわらず帯刀して注意を受ける武士

たとえば、官軍だった藩は、長州藩が山口県、土佐藩が高知県、

薩摩藩が鹿児島県と藩庁があった所在地名がそのまま県名になった。

それに対し、幕府側だった会津藩は、城下の若松ではなく、

中心から離れた町から名前をとって福島県となっている。

ほかにも、官軍か幕府軍か、

どちらにつこうか迷っていた加賀藩に対しても、

城下町がある金沢ではなく、

小さな地域名であった石川が県名に選ばれている。

生まれた順を輪ゴムで留めている  墨作二郎


その他、男女混浴などの禁止令など

こうして新政府をおびやかす地方勢力は消失し、

にわかに中央集権が確立。

知藩事や公卿は華族として、わずかながら優遇されている。

その後、明治政府は徴兵制度(明治3年)をしいて直属軍を創設し、

市民平等・秩禄処分(明治4年)

廃刀令(明治9年)によって武士を解体、

ほかにも、平民に苗字使用を許可(明治3年)

明治4年には、散髪脱刀の自由を許可

華士族、平民相互の通婚許可
え た
穢多非人の称廃止などの改革を実行。

そして税制も全国画一的な地租(明治6年)に改め、

明治10年代には、強力な中央集権国家をつくり終えたのである。

(ただし娼妓の年季奉公廃止令(明治5年)昭和31年まで存続した)

ほらごらん桃はもうすぐ点ります  河村啓子

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フグの棘フグの正義を主張する  新家完司 


「徳川治績年間紀事・十五代将軍徳川慶喜公」月岡芳年筆)

慶喜が大坂天保山沖に停泊していた幕府軍艦で、
江戸へ脱出する様子が描かれている。


「幕府の大博打」

幕府による長州征伐の試みは、停戦という名の敗北に終わる。

これによって幕府は、

広く世間に弱体化を晒すことになってしまった。

こうした状況を見極めた薩摩藩は、

日本の政治をこれ以上幕府中心で動かすことの無意味さを痛感。

そしていよいよ朝廷を動かして、

武力による政権交代を正当化するための

「倒幕の密勅」獲得を画策し始めたのである。

分岐点だったうどんを食べていた  谷口 義

こうした薩長の動きに遅れをとったのが土佐藩だ。

土佐藩の尊攘派の中心人物であった武市半平太は、

慶応元年(1865)5月、前藩主・山内容堂により切腹させられていた。

だが、予想以上に幕府が弱体化しているのを見せつけられたため、

後藤象二郎を登用して、藩論を再び尊王方向に転換したのである。

慶応2年8月20日、大坂城内で没した徳川家茂に代わり、

徳川慶喜が徳川宗家を相続。

しかし、将軍職は固辞し続けた。

そして15代将軍に就任したのは、12月5日になってからのこと。

これは周囲に恩を売ることで、政治活動が有利になる、

という考えがあってのことと言われている。

人間を続けています揺れてます  合田瑠美子


  孝明天皇       徳川慶喜

薩摩や長州が討幕を画策していることを察知した徳川慶喜は、
政権を朝廷に返上する。

だが、政治の実権は引き続いて徳川家が握るつもりであった。
孝明天皇は暗殺されたという説が今も根強く語られている。

というのも、天皇には幕府を倒す気はまったくなかったからだ。

この年の12月25日、

攘夷勢力の拠り所ともいえる孝明天皇が崩御する。

このことにより、慶喜ははっきりと開国を指向するようになる。

将軍職を引き受けたことで、以後は開国政策が本格化していく。

中でも幕府に肩入れしているフランスからは、

240万ドルもの巨額援助を受け

横須賀製鉄所や造・修船所などを設立。

軍事顧問団も招聘し、幕府軍の大幅な軍事改革も行った。

コンマの差その大きさを知り尽くす  松本柾子

こうした幕府の姿勢は諸藩に

「フランスに日本の政治主導権を握られるのではないか」

という不安を抱かせる結果となってしまう。

土佐藩もそうした考えを抱いていた。

後藤象二郎はまず、薩長に太いパイプを持つ

土佐脱藩浪士・坂本龍馬を味方につけることにした。

そこで龍馬が立案した大政奉還を土佐藩の基本方針としたのである。

それは将軍自らが政権を朝廷に返上するもので、

平和的な革命を目指したものだ。

信号は青引き返すのは難しい  森田律子


慶応3年8月から12月に「ええじゃないか」を連呼、
民衆が乱舞する騒動が近畿・四国・東海地方で発生。
討幕派の説もある。

慶応3年6月22日、薩摩藩と土佐藩は大政奉還公儀政体を目指し、

薩土同盟を締結する。

薩摩の本当の狙いは武力による倒幕だったが、

大政奉還が拒否された場合、土佐も討幕のための戦力にできる、

と計算したのだ。

だが後藤はその目論見に気付き、

10月3日に土佐の前藩主・山内容堂を通じ、

慶喜に大政奉還の建白書を提出したのであった。

聡明な慶喜は、その意味を即座に理解。

10月14日には朝廷に「大政奉還」を上奏した。

取り扱い注意私の虚栄心  中井アキ


慶応2年の正月、祝賀のためにと登城した家臣たちと謁見の様子を
フランス人画家が描いたイラスト。

慶喜が大政奉還という道を選択した裏には、

彼なりの思惑があった。

たとえ政権を手放しても、徳川家は最大の大名である。

武力倒幕の口実さえ奪えば、

新政権でも実権を握れると判断したのである。

しかし、その前日の13日には、薩摩、

そして大政奉還と同日には長州に「討幕の密勅」が下されていた。

これで薩長にとっては、幕府を討つ大義名分が失われてしまった。

慶喜が打った起死回生の大博打は、

この時点では功を奏したように見えた。

やんわりと握る女もハンドルも  菱木 誠

しかし、討幕派の先手を打ったはずのこの作戦は、

結局失敗に終わった。

たしかに一時的に討幕派を惑わせたものの、ほどなくして朝廷から、

新政府の樹立を宣言する「王政復古の大号令」が出されたからだ。

それはあくまで武力による旧幕府勢力の打倒を目指した

西郷隆盛・大久保利通らが公家の岩倉具視と結んで起こした

クーデターであり、

彼らは旧幕府に対して挑戦状を叩きつけたのである。

結果、慶喜の官職と領地の返還命令がくだされ、

徳川氏は単なる一大名となった。

きっかけを逃して角は角のまま  山本早苗

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