忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[100] [101] [102] [103] [104] [105] [106] [107] [108] [109] [110]
重力が消えた凸面鏡の街  くんじろう


   
 俗論派         正義派

幕末、長州藩内は、改革派と保守派とに分かれており、
藩主・毛利敬親の下で2つの派閥が主導権を争っていた。
のちに改革派は「正義派」と称するようになり、
幕府に恭順しようとする保守派を「俗論派」と呼んで区別した。



「椋梨藤太 VS 周布政之助」

毛利敬親は、教育に関しては、非常に熱心な藩主であった。

22歳から26歳までの4年間、11歳の寅次郎(松陰)を城に招き、

「孟子」「孫子」の講義を受けたこともある。

このとき、寅次郎の授業に対し、次のようなことを述べている。

「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、

    寅次郎の話を聞いていると、自然に膝を乗り出すようになる」

いわば藩主は、玄瑞や晋作と同じ村塾の門下生であったことになる。

ただ藩政に関しては、何にでも「そうせい」と答えて、

すべて家臣にまるなげする藩主と見られていた。

七転び八起き普通にくり返す  富山やよい

敬親の下、長州藩は幕末、周布政之助高杉晋作「正義派」

これに抵抗する椋梨藤太らの保守系・「俗論派」が対立していた。

敬親も、もちろん松陰門下として、常に松陰門下生を見守ってきた。

だから、心情的には正義党を支持しながら、

両者の対立に揺れることなく中立を標榜した。

ただ、「そうせい君」と揶揄されながら、

生涯に二度だけ、「そうせい」と言わなかったことがある。

せまいせまい箱から出たいかくし事  柴本ばっは

その一度が、第一次長州征伐で藩内が「恭順派と抗戦派」に分かれ、

意見がまとまらなかった時。

「我が藩は幕府に恭順する」と藩主自ら宣言をしている。

毛利には幕府に対し恨みがある、その恨みを勘ぐらせないためにも、

13代へと続く歴代の毛利の藩主には、幕府に従順である姿勢を

見せるための、裏の顔が必要であった。

敬親はもともと革新論者で口癖の「そうせい そうせい」

本当の本心を読ませないパフォーマンスなのである。

一般的見解と違い、藩主・敬親は実は名君だった。

(古い頭の持ち主・椋梨藤太と激情型の周布政之助の対立に、

 藩主・敬親の基本的な信条・本心を垣間見ることができる)

とりあえず目と鼻を描いてきた  蟹口和枝



「椋梨藤太」

椋梨藤太は藩の歴史を編纂する役所にいたが、

40代半ばを過ぎて藩政を担う要職に抜擢された。

保守派であった椋梨は、尊攘派の周布政之助と藩政の主導権を争い、

周布が支援する吉田松陰や松下村塾の塾生たちの活動を牽制した。  

しかし、懐柔に成功したと思っていた小田村伊之助が、

周布歩調を合わせて

椋梨のまとめた藩論への異を藩主・毛利敬親に唱えたことから、

椋梨は要職を追われ、隠居を命じられる。

薬から見ればきたない腹である  小池正博

しかし「8月18日の政変」続く「禁門の変」で長州藩が

幕府に圧せられると、第一征長後では幕府への恭順を訴え、

藩主の「恭順宣言」を得て、椋梨は藩政に復帰、

周布を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ「解散令」を出し、

益田親施・福原元僴・国司親相三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。

そして政敵である周布を自害へと追い込み、

尊攘派の面々を大量に処刑していった。

人材を育成する明倫館の教えを踏みにじる椋梨に

藩主・敬親は顔を曇らせた。

どーだどーだと限りなく黒い唇  酒井かがり



この粛清に危機感を募らせた高杉晋作・伊藤俊輔らは、

元治元年(1864)12月、功山寺で決起、

諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、

慶応元年(1865)1月の「絵堂の戦い」によって形勢は逆転、

潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、

武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一する。

高杉晋作がクーデターを成功させると、

敬親は政権交代を容認し、「薩長同盟」から「討幕」へ邁進する。

断面から昨日の風が吹いている  みつ木もも子

これによって椋梨は完全失脚、

同年2月に岩国藩主・吉川経健を頼って逃亡した。

椋梨は逃亡したものの、

海が荒れたため行き先を変更さざるを得なくなり

最終的には津和野藩領内で捕らえられた。

そして5月、息子の中井栄次郎らとともに萩の野山獄において処刑。

討幕派側の取調べの際に、

「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」

と懇願しており、斬首の形で死んだのは椋梨のみであった。

享年・61歳。

ただし、実際には同時期に中川宇右衛門も切腹させられているほか、

小倉五右衛門・岡本吉之進もその際に自決している。

おひとりさま一枚ですよ冥土行き  岡田幸子



「周布政之助」

周布政之助は長州藩の家老筋に生まれ、藩校・明倫館に学び、

祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢され若くして政務役筆頭となる。

政之助は天保の藩政改革を行った家老の村田清風の影響を

受けており、この抜擢は、村田の政敵である坪井九右衛門派の

椋梨との連立政権、いわゆる抱き込みを意味していた。

酒好きが高じてたびたび舌禍による失敗を起こしたが、

その優秀さゆえに要職を担い続けた。

金の卵になりなさい勉強なさい  山口ろっぱ

その後、保守派の椋梨や開国派の長井雅楽と路線を異にし、

藩の中枢に居ながら在野の吉田松陰の声に耳を傾けた。

また外では、松陰が塾で正式に講義ができるように計らったり、

松陰没後は、彼の門下生を登用したり、

塾生らを江戸や京都に送ったりするなど、

松下村塾の志士たちの活動を支援した。

こうして幕府の政治に懐疑的であった周布に対し、

幕府恭順派の間に派閥争いが表面化していく。

安政の大獄後、椋梨との主導権を争いで周布は一時、

藩政の中枢から外される。

だって太陽の黒点なんだから  森田律子    



しかし政権を握った坪井派が、京都と長州の交易を推進したことが,

疑心暗鬼をうみ、サボタージュが発生して失敗したことで、

周布は再び藩政に復帰。

文久2年(1862)当時、藩論の主流となった長井雅楽の

「航海遠略策」に経済政策の責任者として同意したが、

久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らと歩調を合わせ、

藩論統一のために攘夷を唱えた。

しかし、松下村塾の塾生の思想が過激さを増すにつれ、

その対処に追われるようになり、

禁門の変に際しても事態の収拾に奔走。

幕府による長州への出兵や、

列強4国の連合艦隊による長州砲撃を背景に

幕府恭順派が台頭すると、藩での実権を失っていく。

不器用な男手風を真に受ける  上田 仁

そして元治元年9月26日、

革新派の暴走を止められなかった責任を感じて、

周布は山口矢原の庄屋・吉富藤兵衛邸にて切腹した。

そのわずか3ヶ月後に、高杉晋作が功山寺で挙兵し、

大田絵堂の戦いを経て、長州の政権は再び革新派が握る。

藩論は周布が望んだ方向にすすんでいくことになるにも関わらず、

そこには周布の姿はなかった。

遺書には、

「道の近くに埋めてくれ。幕府が攻めてきたら、

   地下からにらんで止めてやる」

と書いてあったという。

享年42歳、この若さが惜しまれる。

消しゴムでそっとあなたを泣きながら  北原照子

拍手[5回]

PR
じっとしていたら名詞になっちゃった 竹内ゆみこ


     周布の偉勲を永久に伝える碑

周布政之助は、豪胆なひとであった。

土佐の山内容堂に暴言を吐いたエピソードも、

酒の上に乗せた本音であったと、長州の藩主も、

そして、私も理解する。

現にそのような切腹ものの罪を犯しながら、

謹慎処分だけで済んでいるのだから。

そんな豪胆な周布も幕末から明治にかけて、

多くの歴史上に名前を残した人の中では、名前を知る人は少ない。

彼は何を仕出かすかわからない長州の尊攘の志士たちの

活動を陰で支え、椋梨藤太以下、頭の固い保守派の壁になった。

明治維新という新しい夜明けを見ることが出来たのは、

彼がいたればこそなのかも知れない。

彼の残した偉業の一つが、幕府の定めた海外渡航の禁を犯してでも、

藩主・毛利敬親を説得し、長州の5傑を英国留学させたことである。

白紙からボート一隻あぶり出す  岩田多佳子


  長州五傑


上段左から、遠藤謹助、野村弥吉、伊藤俊輔、
下段左から、井上聞多、山尾庸三

「五傑の英国留学」

文久3年(1863)5月10日、馬関海峡を通過する外国船に対し、

単独で砲撃を開始した長州藩。

その一方で、5人の若者が英国への留学へと旅立つことになった。

その理由は、強大な国力を持っていると考えられていた清国でさえ、

アヘン戦争以来、西欧列強に蹂躙されていたことが挙げられる。

同藩は攘夷を成功させるには、

まず敵である西欧の文明技術を学ばねばならないと考え、

ヨーロッパへの留学生派遣を決めたのだ。

虹の見つめる彼方うみ洋洋  徳山泰子


 チェルスウィック号

しかし当時は幕府によって海外渡航が禁じられていたため、

「密航」という形を取ることになる。

これは大きな危険を伴う役目で、藩からその内命を受けたのは、
ようぞう
山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助、そしてわずか半年前には

英国公使館の焼き討ち事件に加わっていた

伊藤俊輔、井上聞多の5名であった。

5人は藩が馬関海峡で外国船への砲撃を開始した2日後の

5月12日、ガワー総領事の斡旋により、

ジャーディ・マセソン商会所有のチェルスウィック号に乗り

横浜を出航、まずは上海を目指した。

山桃とグミを搾って脱獄す  井上一筒

そこで彼らが目にしたのは、

アジア最大の西欧文明中心地として栄える町と、

100隻を越える外国軍艦や蒸気船が停泊している

港の光景であった。

「この圧倒的な国力の差は何だ。

   攘夷などという無謀なことを実行すると、日本は滅びてしまう」

5人の胸の内には、そんな思いが去来したであろう。

その後、すぐさま開国へと心が動いたことでも予測できる。

上海から先は2隻の船に分乗し、11月4日にロンドンに到着した。

見わたせば西洋タンポポばかりなり  福光二郎

一行を迎え入れたのは、ロンドン大学の一校で名門の(U・C・L)

『ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン』であった。

入学の手引きは、

アレクサンダー・ウイリアムソン教授が行なってくれた。

そこで彼らはウイリアムソン教授の分析化学の講義だけではなく、

さまざまな学問に触れたことで、

「攘夷の無意味さ」をさらに実感する。

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子

翌文久4年4月、ロンドン滞在中の5人のもとに、

「過激な攘夷行動を改めない長州藩に対して、

   列強4カ国が共同で攻撃を行なう準備が進められている」

という情報がもたらされた。

驚いた5人は相談の結果、伊藤と井上馨の2人が緊急帰国、

藩の上役を説得し、

列強との戦いが無謀であることを説くことにした。

とぼとぼを見守る細いほそい月  山本早苗


水戸の浪士に襲われた東禅寺事件
右はオルコット。


伊藤と井上は元治元年6月初旬、横浜に到着する。

駐日英国公使・ラザフォード・オールコックに面会し、

「自分たちが藩論を変えるために帰国するので戦闘を待って欲しい」

旨を伝えた。

公使はフランス、アメリカ、オランダの三ヶ国にも了承を取り付け、

書簡を手渡した。

ただし書簡への返答は、ふたりが帰国してから12日後まで、

という条件が付けられたのであった。

色あせた希望をいつも抱いている  嶋澤喜八郎

攘夷の急先鋒とされていた長州藩だが、
実際には将来的に開国することを視野に入れていた。
5人は新しい時代に対応できる人材として選ばれ、
マセソン商会所有の船で密航した。



伊藤博文(俊輔)

渡英から半年後には帰国することになるが、その後の活躍は目覚しい。
初代内閣総理大臣。

井上馨(聞多)
伊藤と同じく半年で帰国することになる。
しかし初代外務大臣を務めたことから「外交の父」と呼ばれる。

井上勝(野村弥吉)
山尾庸三とともに5年間留学。鉄道庁長官を務め「鉄道の父」と呼ばれる。
また小岩井農場も設立した。

山尾庸三
帰国後には工部少輔、工部卿などで工学関連の重職を任された。
さらに法制局の初代長官も務めている。

後日談書くとかすれるボールペン  合田瑠美子

拍手[6回]

揺るぎなく在りたいレ点返り点  美馬りゅうこ


  山口御屋形門
明治から大正初期まで県庁の正面玄関だった。
(敷地内には、今も当時の堀や土塁、石垣の一部、旧山口藩庁門が残り、
  攘夷、討幕へと揺れた萩藩の動乱の幕末期を伝えている)

「山口から萩へ」

萩藩主・毛利敬親は湯田温泉への日帰り湯治と称して,

幕末の政情に処するため、藩庁を萩から山口に移し、

今の県庁のところに政治堂を建てたのが、文久3年(1863)4月。

その時、この建物近くに「露山堂」という茶室を設け、

茶事にこと寄せて身分に関係なく敬親は、この一室に有志を集めて、

討幕王政復古の大業について密議を凝らしたという。

実際の藩主の目指す政治は、ここで行なわれていたのである。

ずっと青い空ではいられない事情  笠原道子


    露山堂


その翌年の元治元年10月、藩政の中枢となる山口御屋形が竣工する。

山口御屋形(山口城)は、天守閣がそびえる前時代的な城ではなく、

北と西の2つの山を天然の要害とし、

堀や土塁をめぐらし、その中に築かれた一部は二階建てで、

大砲を据え敵に備えるため、

八角形に近い敷地の西洋式城郭として築かれた。

弱点をとても大切にしている  雨森茂喜


    山口城

しかし、萩藩は「8月18日の政変」で京都から追放され、

さらに翌元治元年には「禁門の変」で敗れ、

幕府から「征討令」が下り、そうした窮地の中で、

御屋形は10月に竣工したが、翌11月、

幕府は征討中止の条件のひとつとして、

竣工したばかりの御屋形の破却を命じてきた。

こうして藩主・敬親及び元徳父子、正室の都美姫・銀姫、

奥の女中たち、家臣らは山口から萩城へ退去することとなった。

(御屋形は慶応2年5月、最築される)

感動のフィナーレ辛子明太子  くんじろう           



「城替え」

奥の一日は、「総触れ」と呼ばれる朝の挨拶から始まる。

美和(文)は廊下の末席に座した。

都美姫銀姫が互いにぴりぴり牽制し合っている。

奥の女たちは、皆、その様子にハラハラしている。

藩主・敬親元徳も、そんな2人に少々手を焼いている。

美和の席から、おもしろくも悲しくもすべてが見通せた。

やがて敬親の朝の一言が始まった。

「互いによきところを敬い、力を合わせ奥を盛りたてよ。

   長州はこれより、いささか険しい道を辿ることになるゆえ」

サボテンとバラがすったもんだする  黒田忠昭

やがて美和は奥総取締り役・園山から呼び出され、

山口から萩への「城替え」の話を聞かされる。

200名もの女たちが、住まいを替えることになるのだ。

この数は萩の部屋には収まりきれない。

ゆえに女中たちの人員を削減をするというのである。

「暇乞いさせる女中たちの名簿をつくるように」

と園山は美和にその任を与えた。

美和は思うところがあってこの仕事を引き受けることにした。

まずは右筆の女中から、奥のすべての者の名前と

お役目が記されている帳面をもらう。

美和は勢い込んだが女中の誰もが、協力を拒んだ。

ギブアンドテイクですかいけにえですか 藤井孝作 

簡単な仕事ではない。

そこで奥に務めて50年になるお蔵番の国島に協力を求めた。

しかし国島は、

「奥で生きた者の歳月は、そこに暮らしたものにしか分からぬ

   奥で生きた誇りは誰にも誰にも手放せぬ」

と一蹴されるが、姉・寿の励ましもあり美和は諦めなかった。

「私は、これまでのすべてを捨て、ここに参ったのです。

   どんなに非情と責められようと、臆せず誇りを見極めて、

   お役目を果たしとうございます」

この強い美和の覚悟は、国島を動かした。

弱点は弱点のまま餅になる  和田洋子



美和は次の策として都美姫銀姫に、

納戸にある2人の道具を、出来る限り売りたいと申し出る。

女中たちが唖然とする中で、美和は熱弁をふるう。

「病の者、老いた者、萩へ移動するのが難儀な者たちに、

   すべて与え、相応の屋敷と人を 配して、山口に残す。

   手厚く遇された者たちは、生涯毛利家に尽くすだろう、

   毎日手入れをされるだけで使われていなかった品々も、

   日の下でまた大勢の者の目を楽しませるだろう。

   真心を尽くし、誠を貫けば必ずや人の心は動きます。

   お家の繁栄は至誠の先にあると、そう信じるものにございます」

滔々と述べた美和の熱弁に対し、意外にも銀姫が

積極的に女中削減と道具売却の件を許すと口を開いた。

そして都美姫もこれに追随するという。

こうして美和は役目を消化していく。

喜怒哀楽使い果たして点になる  古田祐子


    萩の城

やがて奥御殿の者たちが「萩城」に移ってきた。

そこには若く美しい女たちが、にこやかに控えている。

銀姫は瞠目して絶句した。

美和も同じだ。

女中に暇乞いをさせたのは、

なかなか世継ぎの出来ない銀姫の代わりとなる

側室を城に招きいれるためだったのだ。

美和は都美姫に理由を尋ねた。

「我らが何のために萩へ参ったと思う。

   この長州の危機を生き延びるためじゃ。

   表では、毛利家を残すために、

   藩主はじめ多くの家臣が身を削り働いている。

   われらも又同じ、お世継ぎを産み育て、毛利家を守らねばならぬ。

都美姫はきっぱりと美和に言い放った。

彼女が言うなら蜜柑は四角です  奥山晴生

拍手[5回]

雲一つない空は無理をしている  日野 愿


  毛利 都美子肖像        (各写真は拡大してご覧下さい)    

「毛利 都美子」

天保4年(1833年)、江戸桜田の長州藩上屋敷にて生まれる。

母は側室・本多氏。

長州藩12代・毛利斉広の娘。

父・斉広は、都美姫が幼い頃に死去、男子がなかったため、

その養子で第11代藩主・毛利斉元の長男・慶親が家督を継いで、

13代藩主となり、

斉元の生前の意向により、都美姫がその正室となった。

自販機の青い文字から夏に入る  河村啓子

嘉永3年(1850)7月、都美姫は女子・万世姫を出産する。

しかし万世姫は、生後4か月で夭折。

以後、都美姫は子供に恵まれなかった。

そのため、敬親は早くから国許の萩城に花里という側室を置き、

その間に1男2女が生まれたが、いずれも夭折している。

このため、長州藩支藩の徳山藩8代藩主・毛利広鎮の10男・元徳
                         もとゆき
同じく支藩の長府藩12代藩主・毛利元運の娘・銀姫(安子)

養子夫婦として迎えた。

(その長子・興丸〔15代藩主・元昭の養育係に文が抜擢される)

かなしみが白いたまごのようで 抱く  八上桐子



都美子が使用した甲冑

文久2年(1862)に大名妻子の国許居住を許可されたため、

翌文久3年の春、江戸から国許の長州に下り、山口の居館に入った。

江戸生まれの姫には、初めての領国入りであった。

都美姫は藩政改革に取り組む敬親を支え、

奥座敷の主として質素倹約に腐心する。

また、長州藩は下関戦争・禁門の変・長州征伐など、

幕末の激しい世情に飲まれ、都美姫は藩主正室として、

銃後の守りを担った。

明治維新から程なくして、明治2年(1869)に敬親は隠居し、

明治4年、敬親が没すると、都美姫は落飾して「妙好」と称した。

大正2年(1913)に逝去、享年81歳であった。

傾いた影を気合いで元通り  青砥たかこ


時世粧載寛政年間奥向之図

左上の「踊師匠」に「中老」「側女中」らが、
琴や三味線を習う光景が描かれている。


「銀 姫」
                          もとゆき
長州藩支藩の長府藩12代藩主・毛利元運の次女。

9歳で宗家長州藩主・毛利敬親の養女となる。

24歳の時、敬親の養子となっていた定広(元徳)の正室となる。

文久2年(1862)の禁制緩和を得て、

都美姫と共に江戸から長州に下る。

幕末の激動期に於て、長州藩政の難局と向き合う敬親・元徳を支え、

藩の混乱にもめげず、先頭に立って家内を盛り立てた。

「禁門の変」により長州藩は朝敵となり、幕府による征長の翌年の

元治2年(1865)2月、第1子の長男・元昭を出産。

なかなか恵まれなかった男子(結婚8年目)であったため、

喜び子の入浴まで自ら行い、信頼する養育係・文と愛育したという。

息吐いて大きく吸ってこれからも  田口和代        

慶応3年(1867)、長州藩は「朝敵」から一転して「朝廷側」となり、

敬親と元徳の官位も回復。

養父と夫がともに京や江戸に赴き、国許を留守にすることが多い中、

国許に知らせが届くと、率先して安子が応対した。

維新後、敬親の隠居により元徳は、14代長州藩主となり、

版籍奉還後は山口藩知事に就任、安子はその務めを支えた。

廃藩置県によって華族となり東京に移住した後は、

婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、大日本婦人教育協会会長を務め、

日本赤十字社の要職も務めた。

大正14年(1925)に逝去、享年83歳であった。

美しい耳だねよそ行きの耳だ  井上一筒


山口御屋形の正面玄関。
明治から大正初期まで県庁の正面玄関だった。

「園山」

園山は、毛利敬親・都美姫への忠誠心厚く、

毛利家奥御殿総取締役として毛利家の諸事を取り仕切る。

海岸を守る台場の築造を進めた際は、

普段は表に出ない奥御殿の女性たちも築造作業に汗を流した。

園山も藩の一大事を聞き、奥女中を従えて台場造りに参加した。

敬親の養子夫妻である元徳・銀姫にも献身的に仕え、

銀姫の長男の養育係となった美和のことも、

総取締り役の目で指導怠りなかった。

褒められてスパンコールになりました  美馬りゅうこ


「宝印御右筆間」御日記
毛利藩・奥の日常が書かれた日記。
右ページには改名した美和(文)の名も記されている。


「国島」

国島は、50年以上にわたり毛利家の奥に仕えた御蔵番

都美姫や、銀姫の豪華な道具箱を管理する仕事を誇りとしていたが、

年老いてから病勝ちになる。

藩主・毛利敬親が、山口城から萩城に移る際、

奥女中たちの人員削減が決まると、

その候補の中のひとりに指名される。

国島も最初はこれに抵抗したが、後、

人員削減の差配にあたる美和文)を助け、自らも城を去った。

電池みな入れ替えましたけれど雨  山本早苗

「鞠」
まり
は奥に入った美和の亡夫が、

藩を朝敵に追いやった久坂玄瑞であったため、

総取締役・園山から文を見張るよう命じられる。

自立心が強い鞠は、出世欲もあり、忠実に命令を守った。

連合艦隊との「講和交渉」に臨む高杉晋作に、

儀礼の装束を届ける美和に同行した際に、

奇兵隊隊士らに対する美和の気丈な態度を見て、美和を見直す。

それを園山に報告後、

美和は毛利元徳の正室・銀姫に仕えることが許される。

今日のこと今日でおしまい髪洗う  新川弘子

「潮」

は、勝気な銀姫のそばで忠実に仕えた。

銀姫に仕えるようになった美和を快く思わず厳しく教育した。

たびたび、銀姫に接する美和の態度をたしなめたり、

奥女中の人員削減が、若く美しい女中を新たに増やし、

元徳の世継ぎをもうけるためだったことを知った時は、

人員削減の差配を任されていた美和を責めた。

しかし、やがて美和の気性を知り、銀姫とともに潮も美和を認めた。

いましがた値押しの月がぽってりと  酒井かがり

拍手[4回]

竹に節私に意地があるように  八田灯子 



下関戦争の後、イギリスのキング提督との会談に臨んだ毛利敬親(左)
元徳(右)父子。
さらにこの後、毛利家父子は征長軍との講和条件に従い
萩城外で
蟄居することになる。 


「文の女中務め」       

元治元年(1864)久坂玄瑞自刃の悲報を、

文は萩の実家で静かに受けとった。

父・百合之助から常々「武士の妻たる心得」を説かれていたからか、

格別取り乱すことはなかったが、心中の悲嘆は推し量るべくもない。

離れ離れになってからも、ずっと、2人は心を通わせてきた。

わずか7年で愛する夫を失った文は、

その後しばらく、臥せって何も手につかなかったという。

悲しみの隙間は狙わないように  安土理恵

しかしその翌年の慶応元年、転機が訪れる。

ようよう回復した文は、毛利定広の正室・安子の女中に登用される。

定広は、時の藩主・敬親の後継ぎである。

その夫人たる安子に仕えたということは、

文はそれだけ高い教養を備えた人物だと、評価されてのことである。
                               つまび
文が具体的にどのような働きをしていたのかは詳らかでないが、

安子の長男・興丸(のちの毛利元昭)が生まれると、守役を務めた。

その頃に名を"美和子"に改めたともいう。

箸置きも枕もあすを言いたがる  奥山晴生


 毛利安子

元治2年(1865)2月、安子は第1子の長男・元昭を出産。
結婚8年目で生まれた男子のため、元昭の入浴まで自ら行い、
愛育した。


この時、文23歳、

まさに松陰が求めていた通りの才女に成長していたのである。

実は、文の「女中づとめ」は長らく謎に包まれていた。

「毛利安子のもとで働いていたらしい」

という漠たる浮説は伝わっていたものの、

資料に乏しく確証はなかった。

しかし、近年『〔宝印御右筆間〕御日記』(山口県文書館所蔵)の中に、

決定的な記述が見つかった。

同じく安子付きだった女中によって、

文久2年(1862)~大正14年(1925)まで綴られたこの日記の、

慶応元年(1865)9月25日の項には、次のように記されている。

「一、御方へ今日より召し出され候御次女中 久坂美和」

本心を少し隠して丸くなる  前田孝亮

「御方」とは一般に高貴な女性を指し、ここでは毛利安子のこと。

「御次」とは貴人の居室の次の間、すなわち奥のことをいう。

それにしても、松陰玄瑞の縁者である文が、

毛利家での仕事を任されたというのは、一見不可解かもしれない。

松陰は安政の大獄で刑された「危険人物」であり、

玄瑞は禁門の変を主導し、結果的に、

長州が「朝敵」と目される要因をつくった。

水仙が咲いた何とかなるだろう 竹井紫乙

だが禁門の変から1年の間に、藩の情勢はだいぶ変化していた。

高杉晋作の「功山寺決起」によって、

藩政から幕府恭順派が駆逐され、

さらに桂小五郎が政権を担ったことで、長州は再び、

松陰や久坂が主張していたような反幕路線に返っていったのである。

こうした時流のなか、文は明治初期まで山口の毛利家に仕えた後、

一旦、実家に戻った。

息子・久米次郎のことが気がかりだったのかもしれない。

人偏をつけて人間へと戻る  竹内ゆみこ


  梅太郎

文は玄瑞との間に子はなかったため、

姉夫婦(楫取素彦・寿)の子久米次郎を養子とし、慈しんでいた。

しかし、秀次郎(玄瑞と辰路の間に出来た子)の存在が発覚したため、

親族が協議し、久米次郎を楫取家に戻して、

秀次郎を久坂家の籍にいれることになる。

文は亡父のへの複雑な思いと、

息子を奪われる悲しみを奪われることになった。

それでも文は実家杉家で、兄・梅太郎の厄介になりつつ、

かいがいしく老母・の面倒を見ている。

満月の裏は涙の海だろう  杉浦多津子 

拍手[5回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開