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川柳的逍遥 人の世の一家言
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 仏壇に飾るアリガトウを飾る  田口和代


  二条窪観音堂

「二条窪(長門三隅)在住時代の素彦と寿」

楫取素彦は明治維新が成ると、中央を去って帰農の志を抱き、

山口県三隅村二条窪の桜楓山荘に妻・寿と棲んだ。
       そうじょう よじん
当時、幕末騒擾の余燼未だ治まらず、

村人に、ややもすれば不穏の空気さえ見られるので、

寿は、この際、自分が信奉する真宗の教えを聞信させることが、

平和への道であると考え、自宅に近く郷のほぼ中心にあたる地を選んで、

小さい堂(観音堂)を建て、毎月二回、男女の集合をはかり、

僧侶を招いて、法座を開くことにした。

寿の法話に聴きいっている村人の姿は、

彼らの心を動かして、やまないものがあった。

これにより村内の気風が一変し、

大いに感化を及ぼしたと伝えられている。

さまよえり あれののはてをちのはてを  大海幸生


楫取 寿

寿は、天保10年(1839)毛利藩士・杉百合之助の二女として生れた。

母のは元来聡明な上に、豊かな教養もあり、早くから仏縁に恵まれ、

真宗の法義を仰信していた。

晩年に、真宗の高徳、島地、大洲、赤松等の諸師の教えを受け、

明治23年、84才で逝去するが、その葬儀に際し、

時の本願寺法主・光尊上人から、

特に使僧が派遣せられ、法名を「実成院釈智覚乗蓮大姉」と諡られ、

"国のためつくしてのみか伝えつる みのりの道はふみもたがえず ”

という歌まで贈られている。

この母の姿を近くにみて、寿は信仰心に目覚めたものと思われる。

また憂国の士・松陰という兄がいたことも、

寿にとっては精神的訓化として影響したことも否めない。

紅葉散るあたりはきっと苦労性  原 洋志                     

二人が住み移った二条窪というところは、

戸数15、6戸という山あいの農林業の集落で藩政時代には、

遠く於福村から大ケ峠、渋木の坂水の峠を越えて二条窪から、

川下約3キロの豊原の舟戸まで年貢米などを運ぶ街道筋であった。

素彦と寿が、その二条窪に居を構えたのは、維新がなり、

明治に改元されて間もない頃(明治4年)、寿三十才前後の頃である。

それより、素彦が熊谷県(後の群馬県)の県令に任ぜられ、

同伴赴任するまで、数年間、この地に居住し、

清く美しく法味愛楽の日々を送ったと伝えられる。

仏飯と丸い会話をして生きる  岩根彰子


極楽寺に残っている寿自筆の書
野波瀬極楽寺 第17代住職・蒙照に贈ったとされる。

寿が極楽寺に送った自筆の書き物(楮紙一枚に和歌が四首)が残る。

包装紙の表面には

  のばせ
             極楽寺様      楫取

とあり、寿が二條窪時代に、住職・蒙照に贈ったものとされる。

筆跡は極めて女らしく、

しかも達筆で、女史の教養と人柄を想像させる。

その四首の和歌は、何れも彼女の自作ではなく、

読書や聴聞の上で自分が感動したものを抜萃し書き残したもの。

木綿の風呂敷にトキメキを包む  雨森茂喜

〔旗本一柳とよ姫の辞世に〕

"いざさらば浮世を捨てて法りの船 さとりの岸に今日やつくらん"

〔同行の口すさみに〕

"かんしゃくは持って生れし鈴の玉 あたりさわりになるぞかなしき"

"その中に他力の信の玉入れて またなりもどる弥陀の称名"

(この二首は『妙好人伝』「石見の国柚木の長三郎の口すさみに」)

 〔女の身の弥陀の本願にあえる嬉しさは古歌に〕

"雨露にたたかれてこそ紅葉ばの にしきをかざる秋となりけり"

何れも、真宗安心の味わいを詠んだものである。

ともしびやひとりを眠る眠らせる  山本柳花         


       桜楓山荘跡地と案内板

「楫取素彦のこと」

楫取素彦の明治3年の時点では、三田尻管掌として三田尻在住。

明治4年正月7日には,勅使・岩倉具視山口下向に付引請掛の任。

3月28日敬親公薨去。

そして葬儀に当っては、

4月28日、勅使・堀河侍従山口下向に付引請掛を命じらるなど、

多事多用であわただしく、それを最後の大役として勤めた後、

新政府には参加せず、引退し、二条窪に移り住んでいる。

言い訳もせずにあんたは千切れ雲  美馬りゅうこ

素彦が二条窪に居住を構えると、間もなく荒地を開墾して、

村人に、不毛の地を食田に変え、

山林大火のあとへ植林することを教えた。

自ら百姓姿となって村人の間に混り、

率先開墾の鍬を揮いあるいは木を植えた。

少なかった採草場は自ら官に乞うて、

隣村深く入会権を獲得して与えるなど、

大いに村民の利益を増進した。

翌5年2月、足柄県参事(副知事職)に任命されて赴任するまでが、

二条窪隠棲の日々であった。

ほんものはハートに届くホーホケキョ  新家完司

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電気クラゲの触手もきっとフレミング  前中知栄

 (拡大してご覧ください)
「函館五稜郭奮戦の図」(右田年英筆)

「日本最大の内乱といわれる戊辰戦争」

慶応3年12月8日に行なわれた朝議において、

8月18日の政変で京都を追われた長州藩主の毛利敬親・元徳父子の

官位復旧と入京の許可、三条実美ら五卿の赦免、

岩倉具視らの蟄居赦免が決まる。

その翌日、朝議が終了して公家衆が退出すると、

西郷隆盛の指揮で待機していた5藩の兵が、

御所の5つの門を封鎖した。

そこへ赦免されたばかりの岩倉具視が参内し、

「王政復古の大号令」を発したのである。

その先は曲がっています水平線  河村啓子

その内容というのは摂政や関白、征夷大将軍および幕府、

京都守護職、京都所司代を廃止、新たに総裁、議定、参与という

三職を設置するというものであった。

要するに新政府から徳川を完全に排除して薩摩、長州、土佐、

それに一部の公家たちが主導する政治体制を確立することを目的とした。

「大号令」が発せられたことで、

約260年間続いてきた徳川幕府は終焉を迎えた。

勢いのままに沈んでいく夕日  辻内次根


徳川治績年間記事・15代将軍徳川慶喜公
慶喜が大坂天保山に停泊していた幕府軍艦で江戸へ脱出する様子。

だが、最期の将軍・徳川慶喜もさまざまな人脈を使い、

新政府への参画を画策。

しかも実現しそうな勢いですらあった。

そんな折り、12月23日に江戸城西ノ丸が焼失する事件が起きた。

薩摩藩と通じていた奥女中の仕業とされた。

さらに庄内藩の屯所が発砲され、これも薩摩の関与が囁かれた。

これに怒った老中の稲葉正邦は、

庄内藩に薩摩藩邸を襲撃させたのである。

これは上方に「江戸では幕府と薩摩が交戦状態になった」と伝わった。

大坂に駐屯していた旧幕府勢力は激高し、慶応4年1月2日、

2隻の幕府方軍艦が兵庫沖に停泊中の薩摩藩軍艦を砲撃。

翌3日には、「鳥羽伏見の戦い」が勃発した。

これは薩長にとって、願ってもない幸運な事態であった。

こわれる理由持っているんだシャボン玉 和田洋子 



    火打道具袋        
戊辰戦争で掲げられた錦旗の切地で作った袋(楫取能彦氏蔵)

すでに入京していた薩長の軍は約5千、対する旧幕府軍は1万5千。

しかも今回は、旧幕府軍のほうが新式の武器を備えていた。

だが3日は指揮系統や戦略の不備から旧幕府軍は苦戦を強いられる。

翌4日、朝廷から慶喜追討令が発せられ錦旗、節刀が登場。

新政府軍は正式に「官軍」となった。

日本史上最大の内戦と言われる戊辰戦争は、

これ以後明治2年5月18日、

函館五稜郭に籠もっていた榎本武揚率いる軍が降伏するまで、

一年半に渡り各地で激戦が繰り広げられた。

もの凄い速さで今日が消えて行  森 廣子    


    観音堂
楫取が隠棲の旧宅そばにある観音堂。(現在も法座が行われている)

「楫取、妻の寿と長門へ移住」

慶応3年から4年の戊辰戦争勃発・戦争勝利に至るまで、

楫取素彦は、藩主・敬親にとって側近中の側近という立場にあった。

戊辰戦争が一応の終結をみてからも、

藩内には、藩士取り扱いに対する不平分子の挙兵などの騒動が起きた。

それを収めるのは、楫取ら人望のある人物の役割だった。

こうした楫取らの働きがあり、敬親は、明治元年、明治天皇から

「内外の大難をしのぎ、朝廷の今日を築いたのは汝のおかげである」

という趣旨の言葉を受けている。

パーフェクトに咲いて散れなくなりました 岩田多佳子


極楽寺にかかる松陰の書。
吉田松陰26歳の時の書。松陰の書が何故ここにあるのかは謎。
ちなみにこのお寺には、楫取素彦の妻であり、

松陰の妹でもある寿が極楽寺に宛てて送った手紙も遺っている

しかし、明治4年楫取は、敬親が死去し、廃藩置県が断行されると、

維新政府には参加せず、妻・寿と長門市三隅の二条窪地区に2人で

隠棲してしまう。

そこは、戸数15戸から16戸くらいの小さな村で、

楫取は楫取山と呼ばれる広い土地を所有し、農耕仕事に勤しんだ。

一方、浄土真宗に帰依していた妻の寿は、

近くに観音堂を建て毎月2回、

極楽寺の僧侶を招いて真宗の普及に努めた。

わずか2年ほどの居住だったが、

現在でも、二条窪地区は米の産地として残り、

観音堂でも定期的に法座が開かれて、

二人の功績は地域に根付いている。

ひとつ荷をおろすと次が待っている  青砥たかこ

「人間には、子どもの頃に身につけておかねばならないものがあります。

   それは愛情とか思いやりとか、もののあわれを感知する力です。

   そういうものは、家庭の中で育まれていくものでしょう。

   そして教育は、師への信頼と尊敬がなければ、

   成り立つものではありません。

   また、塾や学校で身につけるべきものは、

   友人との絆や同志としての繋がりです。

   読書で自分の思想を高めることも大事です。

  しかし、それだけで足りないものがあります。

   それが信心であり信仰です」

こうした活動により、その後、寿は「関東開教の祖」といわれる。

(この項目続きます)

お寺から僕はひとりで影ふたつ  奥山晴生 

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さらば婆沙羅太平記のシミである  山口ろっぱ


廃藩置県の詔書を読む三条実美 (各画像は拡大してご覧下さい)

「明治新政府の改革」

江戸幕府を倒し、新たな中央政権となった明治政府だが、

解決すべき問題は山積みしていた。

最大の課題は、

旧体制である全国に残った各藩をどう処理するかであった。

幕府なきあとも地方では、諸藩による統治がそのまま続いていたのだ。

そこで新政府は、まず手始めとして「版籍奉還」を実行した。

全国の藩主に、土地と人民を天皇に返還するように求めたのだ。

シーソーの反対側に乗る夕陽  蟹口和枝

 
        版籍奉還建議書案


こうして明治2年(1869)薩摩、長州、土佐、肥前の四藩主が連名で、

上奏文を提出し、他の藩主たちがそれならという形で、

「版籍奉還」が実行された。

そして旧藩主は、明治天皇から知藩事(藩知事)に任命されたものの、

領主としての権限を失うことになった。

それにしても、なぜ各藩主たちは、

易々と「版籍奉還」に応じたのだろうか。.

それは全国の藩主の多くが、長年の赤字財政や戊辰戦争の出費などで、

大きな負債を背負っていたからだ。

版籍奉還に応じることで、政府が負債を肩代わりしてくれれば、

各藩の藩主たちにとって、それほど悪い話ではなかったのである。

浮いてから沈むか沈んでから浮くか  笠原道子


      断髪風景
明治4年8月9日、断髪脱刀勝手令の法令が出された。
それを囃して作られたのがこの歌である。

「半髪頭を叩いてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする。
    総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする。
    散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」

次に政府は藩そのものを廃止する「廃藩置県」に踏み切る。

明治4年、政府は薩摩・長州・土佐の軍隊1万人を東京に集結させて、

そこに全国の藩知事(元大名)やたちを集め、

藩をなくして県を置くことに同意させたのである。

こうして、全国261の藩は廃止され、

知事には中央政府の役人が任命されることになった。

まず3府302県が生まれ、

その年の末までに3府72県に整理された。

その際、県の呼び名は、戊辰戦争で政府側についたか、

幕府側についたかによって、決め方が変えられたといわれる。

この風は森を通ってきましたね  笠嶋恵美子


廃刀令にもかかわらず帯刀して注意を受ける武士

たとえば、官軍だった藩は、長州藩が山口県、土佐藩が高知県、

薩摩藩が鹿児島県と藩庁があった所在地名がそのまま県名になった。

それに対し、幕府側だった会津藩は、城下の若松ではなく、

中心から離れた町から名前をとって福島県となっている。

ほかにも、官軍か幕府軍か、

どちらにつこうか迷っていた加賀藩に対しても、

城下町がある金沢ではなく、

小さな地域名であった石川が県名に選ばれている。

生まれた順を輪ゴムで留めている  墨作二郎


その他、男女混浴などの禁止令など

こうして新政府をおびやかす地方勢力は消失し、

にわかに中央集権が確立。

知藩事や公卿は華族として、わずかながら優遇されている。

その後、明治政府は徴兵制度(明治3年)をしいて直属軍を創設し、

市民平等・秩禄処分(明治4年)

廃刀令(明治9年)によって武士を解体、

ほかにも、平民に苗字使用を許可(明治3年)

明治4年には、散髪脱刀の自由を許可

華士族、平民相互の通婚許可
え た
穢多非人の称廃止などの改革を実行。

そして税制も全国画一的な地租(明治6年)に改め、

明治10年代には、強力な中央集権国家をつくり終えたのである。

(ただし娼妓の年季奉公廃止令(明治5年)昭和31年まで存続した)

ほらごらん桃はもうすぐ点ります  河村啓子

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フグの棘フグの正義を主張する  新家完司 


「徳川治績年間紀事・十五代将軍徳川慶喜公」月岡芳年筆)

慶喜が大坂天保山沖に停泊していた幕府軍艦で、
江戸へ脱出する様子が描かれている。


「幕府の大博打」

幕府による長州征伐の試みは、停戦という名の敗北に終わる。

これによって幕府は、

広く世間に弱体化を晒すことになってしまった。

こうした状況を見極めた薩摩藩は、

日本の政治をこれ以上幕府中心で動かすことの無意味さを痛感。

そしていよいよ朝廷を動かして、

武力による政権交代を正当化するための

「倒幕の密勅」獲得を画策し始めたのである。

分岐点だったうどんを食べていた  谷口 義

こうした薩長の動きに遅れをとったのが土佐藩だ。

土佐藩の尊攘派の中心人物であった武市半平太は、

慶応元年(1865)5月、前藩主・山内容堂により切腹させられていた。

だが、予想以上に幕府が弱体化しているのを見せつけられたため、

後藤象二郎を登用して、藩論を再び尊王方向に転換したのである。

慶応2年8月20日、大坂城内で没した徳川家茂に代わり、

徳川慶喜が徳川宗家を相続。

しかし、将軍職は固辞し続けた。

そして15代将軍に就任したのは、12月5日になってからのこと。

これは周囲に恩を売ることで、政治活動が有利になる、

という考えがあってのことと言われている。

人間を続けています揺れてます  合田瑠美子


  孝明天皇       徳川慶喜

薩摩や長州が討幕を画策していることを察知した徳川慶喜は、
政権を朝廷に返上する。

だが、政治の実権は引き続いて徳川家が握るつもりであった。
孝明天皇は暗殺されたという説が今も根強く語られている。

というのも、天皇には幕府を倒す気はまったくなかったからだ。

この年の12月25日、

攘夷勢力の拠り所ともいえる孝明天皇が崩御する。

このことにより、慶喜ははっきりと開国を指向するようになる。

将軍職を引き受けたことで、以後は開国政策が本格化していく。

中でも幕府に肩入れしているフランスからは、

240万ドルもの巨額援助を受け

横須賀製鉄所や造・修船所などを設立。

軍事顧問団も招聘し、幕府軍の大幅な軍事改革も行った。

コンマの差その大きさを知り尽くす  松本柾子

こうした幕府の姿勢は諸藩に

「フランスに日本の政治主導権を握られるのではないか」

という不安を抱かせる結果となってしまう。

土佐藩もそうした考えを抱いていた。

後藤象二郎はまず、薩長に太いパイプを持つ

土佐脱藩浪士・坂本龍馬を味方につけることにした。

そこで龍馬が立案した大政奉還を土佐藩の基本方針としたのである。

それは将軍自らが政権を朝廷に返上するもので、

平和的な革命を目指したものだ。

信号は青引き返すのは難しい  森田律子


慶応3年8月から12月に「ええじゃないか」を連呼、
民衆が乱舞する騒動が近畿・四国・東海地方で発生。
討幕派の説もある。

慶応3年6月22日、薩摩藩と土佐藩は大政奉還公儀政体を目指し、

薩土同盟を締結する。

薩摩の本当の狙いは武力による倒幕だったが、

大政奉還が拒否された場合、土佐も討幕のための戦力にできる、

と計算したのだ。

だが後藤はその目論見に気付き、

10月3日に土佐の前藩主・山内容堂を通じ、

慶喜に大政奉還の建白書を提出したのであった。

聡明な慶喜は、その意味を即座に理解。

10月14日には朝廷に「大政奉還」を上奏した。

取り扱い注意私の虚栄心  中井アキ


慶応2年の正月、祝賀のためにと登城した家臣たちと謁見の様子を
フランス人画家が描いたイラスト。

慶喜が大政奉還という道を選択した裏には、

彼なりの思惑があった。

たとえ政権を手放しても、徳川家は最大の大名である。

武力倒幕の口実さえ奪えば、

新政権でも実権を握れると判断したのである。

しかし、その前日の13日には、薩摩、

そして大政奉還と同日には長州に「討幕の密勅」が下されていた。

これで薩長にとっては、幕府を討つ大義名分が失われてしまった。

慶喜が打った起死回生の大博打は、

この時点では功を奏したように見えた。

やんわりと握る女もハンドルも  菱木 誠

しかし、討幕派の先手を打ったはずのこの作戦は、

結局失敗に終わった。

たしかに一時的に討幕派を惑わせたものの、ほどなくして朝廷から、

新政府の樹立を宣言する「王政復古の大号令」が出されたからだ。

それはあくまで武力による旧幕府勢力の打倒を目指した

西郷隆盛・大久保利通らが公家の岩倉具視と結んで起こした

クーデターであり、

彼らは旧幕府に対して挑戦状を叩きつけたのである。

結果、慶喜の官職と領地の返還命令がくだされ、

徳川氏は単なる一大名となった。

きっかけを逃して角は角のまま  山本早苗

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駅はすぐそこ踏切が上がらない  橋倉久美子



「高杉晋作を三浦梧楼が偲ぶ」(三浦は奇兵隊出身者)

高杉は)……中略……  如何に其の臨機応変、

機智縦横の大才に富んでおったかと云うことが窺われるではないか。

しかもそれが事々物々、能く趨勢に適応して基礎を固め、

根柢を築くと云う結果になったことを考えると、

実に驚嘆感服の外は無いのである。

階級を打破して諸隊を作り、一藩の士気を鼓舞振作して国論を確立し、

遂に四境の大軍を粉砕して、幕府の為すなきを天下に暴露し、

長藩の勢力をして九鼎大呂より重からしめ、

以て薩長同盟の素因を堅め、王政維新の偉業を成就するに到る迄、
               みだれ
其の間一貫せる経綸の大才毫末も紊れたることなきは、

殆んど、人智の企て及ぶべからざる点がある。

この道でいいかと天に聞いている  岡内知香

其の当時、能く我輩年少の者に向って、

「愚を学べ学べ」と訓誡を垂れられたものだ。

俺れも若い時は撃剣をやる時に、道具外れをわざと打ったり、

鎗を使う時に脛を突いたりしたものだが、

「そんなことでは駄目だ、どうしても愚を学ばなければいかん」

と屡々話されて居たが、充分理解することが出来なかった。

漸く近年になって、
            ねいぶし
あれは孔子の『所謂 甯武子、其智可及其愚不可及』

と云うことを教えられたもので、

年少客気を戒められたものであろうと考えると、

実に今昔の感に堪えぬ。

夕暮れに腰をひねっている校舎  富山やよい

また其の頃の有志家は皆な慷慨悲歌、

文天祥胡澹菴宜敷と云う風の人が多かったが、

高杉丈は一種超然とした所があって、

陣中に茶器を持って来て煎茶をやって見たり、

時には三味線を携えて来て弾いて見たりしていたのも、

今から考えて見ると、皆なそれぞれ、

深長の意味が含まれていたことが分って懐しさの限りである

寄りかかるのは椅子だけと決めている  八上桐子

遺物と云っても手元には何もなく、

書面やなぞも大概人に取られて了った。

一つ残念に思うのは、高杉が上海へ船を買いに行った時に、

二十一史を購って帰り、

其の箱に「抛千金購聖賢書、是予一人之私哉」と書いたのがあったが、

明治2年に諸隊暴動を起した時、

何処へどうなったか分らなくなって了ったのは、

今でも惜しくて堪らない。

空白のページに透けている無念  大塚のぶよし

亡くなられる十日程前に見舞に往ったら、

非常に喜ばれて色々話をされた。

其中フト傍を見ると、小さい松の盆栽があって、

其の上に何か白いものを一パイ振りかけてあるから、

「これは何んですか」と聞くと、

「イヤ俺はもう今年の雪見は出来ないから、

   此の間、硯海堂が見舞に呉れた「越の雪」を松にふりかけて、

   雪見の名残をやっている所さ」 と微笑された。

斯かる際まで平常の心根を、遺憾なく発揮せられていた其の温容、

今なお彷彿として夢の如しである。

嗚呼春風秋雨五十年、いま少し永らえたならばと思えば、
ているい ぼうだ
涕涙の滂沱たる(涙がぼたぼた流れる)を禁じ得ない次第である。
                                   『日本及日本人』より  

おしゃぶり昆布半角文字で噛みしめる  河村啓子



「高杉晋作を徳富蘇峰が偲ぶ」

(高杉)は大なる我侭者である。

彼は何人からも指揮、命令を甘受する漢ではなかった。

彼は頂天立地、唯我独行の好男子であった。

同時に彼には奇想妙案湧くが如く、

しかも同時にこれを決行するの機略と、胆勇とを具備していた。

彼は戟を横たえて詩を賦するの風流気もあれぱ、

醇酒美人に耽溺するの情緒もあった。

しかしてその脱然高踏、世間離れの気分に至りては、

東行である彼は、恐らく西行以上であったかも知れない。

有象でいもたこ無象でリスペクト  田口和代

彼は松陰門下においても、

その師松陰さえもある意味においては、畏敬したる程の、

毛色の変わった一本立ちの奇男児であった。

従って彼の行動は、到底尋常の縄墨もて律すべきではなかった。

天馬空を行き、夏雲奇峰多し、

かかる形容文句は、幾百を累ね来たるも、

恐らくは這般の真面目を道破するには、いまだ十分ではあるまい
                                    『近世日本国民史』より

この指に誰も止まらぬまま夜更け  清水すみれ



「高杉晋作を三宅雪嶺が偲ぶ」

薩の西郷に当たるは長の高杉にして、

維新前に死し、維新の元勲として名を列せざるも、

その人格および行動の豪快なる、永く歴史を飾るに足る。

長に木戸なくして可、広沢・大村なくして可、

伊藤・山県・井上なくして可なれど、

高杉なきの長は、気の抜けし炭酸水のごとし。

維新史料を編纂するも興味索然たらん。

長が幕府に破られ、続いて高杉が回復を計り、

頻りに兵を募りし時、山県は時非なりとして応ぜず。

しかして伊藤は蹶起してこれに応じ、

勢いの揚がりてより山県も応じ来たり。

ついによく募兵を駆逐し、幕兵の与みし易きを天下に知らせ、

関西数箇国の相呼応して幕府を覆すに至れる。

誰が高杉を首功に推さざるべき
                      『想痕』より

真剣に羽化して哀しい姿よ  山本昌乃



「高杉晋作を横山健堂が偲ぶ」

高杉は極めて徹底した人物である。

……徹底的なる高杉の一生には、

しばしば大疑問が起こり、それが解決されつつ前へ前へと躍進した。

彼が大徹底の路上には大煩悶が横たわるべきである。

彼が煩悶した問題は、

一に開国攘夷、二に忠孝両全、三には死生の煩悶である。

……彼は徹底したる攘夷、徹底したる開国を求めた。

彼の攘夷も開国も甚だ明晰である。透徹している。

修験者の肩から湧いてくる空よ  井上一筒

吾輩は、彼を伝するによって、

殊に愉快を感ずる所以の理由が三つある。

(一) 彼が天下第一人であること。
(二) 彼が、わが民族性の本領を発揮したる大人物たること。
(三) 彼は青年の好伴侶たり。

とこしえに将来のわが青年を鼓舞、

作興するにたるべき快男児たることである

近来、維新功臣の人物はだんだん伝記が明らかにされてきた。

しかしながら、高杉に至っては、

まだ一巻の正確なる伝記を見たことがない。

彼の名は一世に響いているにかかわらず、

身後五十年に近うして、まだ伝記のないことを私は遺憾とする
                       『高杉晋作』より

書いてやるもんかと書いてあるページ  居谷真理子



「高杉晋作を井上哲次郎が偲ぶ」

(高杉は) 維新前の騒々しき世の中に生まれ、

その渦中に在りて活動したのであるから、

ゆっくりと且つ専念に学問をする余暇はなかったのであるが、

しかしなかなか聰明なるところがあったように思われる。

しかして大いに王陽明を尊信しておったことが、

彼の詩によって明らかである

東行はかつて長崎に赴きたる時、

耶蘇教の書を読み、慨然として歎じていえるよう、

『その言すこぶる王陽明に似たり。

   しかれども国家の害、

   いずくんぞこれに過ぎるものあらんや! ・・・・』と。

なるほど東行の言うたごとく、

基督教と陽明学の間には著しい類似点がある。

第四の福音書ヨハネ伝に於ては神を内在的に観ている、

その内在的に観たところの神は、良知と異なることはない、

良知はやはり各個人の胸中に在る神である。

……もし東行が永く生存して学問の方に力を致したならば、

また非常なる見識を立てたであろうかと想像される
                     『高杉東行を億ふ』より

澄んだ鏡に忘れた傷が浮いてくる  平山繁夫

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