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川柳的逍遥 人の世の一家言
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今ここに私が立っている事実  徳山泰子



    牛 車

平治物語絵巻に描かれる牛車

建保・承久年間(1213~1221)に成立した『大要抄』には

公家が使用する車に「紋」をつけたことが多く載り、
かてい              かざりしょう
嘉禎年間(1235~1238)に成立した『餝抄』には

久我家の紋章である「龍胆紋」が、

衣服の文様から採用された様子が記されている。


酔いざめに菜の花色の息を吐く  井上一筒



「家紋の歴史から」

聖徳太子の時代、調度や器物には装飾目的として、

様々な文様が描かれている。

その文様は平安時代になると、朝廷に出入りする公家たちが、

他家と区別する目印として、独自の文様を描くようになり、

家紋へと繋がっていく。

西園寺実季徳大寺実能といった公家が、

独自の紋を「牛車」の胴に付け、

都大路でその紋を披露して歩き回り始める。

人生のドラマの中の雨季乾季  美馬りゅうこ

当時、内裏に参内する公家が用いる牛車が、

都の大路を行き交う時に、大変混雑した。 

今で言う渋滞である。

公家たちは、そうした混乱を回避し、

また自分の牛車を素早く識別するために、

おのおの独自の「紋章」を車に施した。

譲り合う精神のはしりである。

いわゆる紋は、身分の上下を見極め、

優先順位を守る方法としても、役立てたのである。

これが一般的に「家紋」の起こりであると言われている。

ふりふりのついた話で騒がしい  北原照子

鎌倉時代になると、合戦の際、敵味方を識別する為に、

武士の旗指物などに自らの「しるし」(家紋)を付けた。

江戸時代には、下級武士や町人が家紋を用いることで一般に広まり、

冠婚葬祭という「晴れの行事」の中で衣服から調度品まで、

「家紋」が幅を利かせるようになる。

明治時代になると、身分規制がなくなったことにより、

庶民が紋服を着用したり、

墓石などに家紋を入れることが増える。

正念場脳の湿気を取り除く  上田 仁



「官兵衛の紋について」
        ふじどもえ
官兵衛「藤巴紋」には、二つの由来が伝えられている。

一つは、主君・小寺政職に小寺を名乗ることを許されたときに、

小寺家の家紋の使用を許されたというもの。「寛政重修諸家譜」

黒田氏が「黒田藤」(三つ藤巴)を使用する以前、

黒田孝高(官兵衛)は小寺氏から小寺姓を許されて、

小寺孝隆と名乗っていたこともあり、

小寺氏と同様の紋を使い続けていたことが記録されている。

小寺家の家紋の基本は「橘紋」「藤橘巴」も使われていた。

藤巴紋のもう一つの由来は、

荒木村重の有岡城に捕らわれたとき、

土牢から見えた藤の花に力づけられたために、

それを家紋にしたというものである。

守るものあり男に熱い血が流れ  奥山晴生



「家紋薀蓄」

 家紋に使われる主な図案は、

植物や動物、天体、文字、幾何学模様など、実に様々だが、

唯一、動物由来では、「鷹の羽紋」がある。

 大一大万大吉  

石田三成の紋で家紋に意味を語らせるあたりが、

天才派三成らしいところである。


大一大万大吉をどう読むか>だいいちだいまんだいきち

と読み意味は、


「一人が万民のため万民が一人のために尽くせば、

   世の中は大吉」となる。


 150年の歴史を持つルイ・ヴィトンの鞄のベースである

「星と花の柄」は、パリ万国博覧会がきっかけとして、

日本の家紋をモチーフに1896年考案されたもの。

 黒田家の藤巴紋は「藤紋」の変形である。

藤は長寿で繁殖力が高いことから「不死」の植物として、

縁起がいいとされた。

紋の形としては、「下がり藤」が基本だが、

「下がる」というのが縁起が悪いとされ「上がり藤」もつくられた。

 日本十大家紋と呼ばれる家紋がある。

ときどきは不真面目がいい生きるには  瀬川瑞紀



☆日本十大紋の多くは植物の図柄がもとになっている。
                              おもだか
桐紋(豊臣秀吉) 木瓜紋(織田信長) 沢潟紋(毛利)
                         かたばみ
橘紋(黒田・小寺・井伊) 蔦紋 片喰、柏、 茗荷紋、藤紋。

 武将は、木瓜紋のほかに「揚羽紋」や

「永楽通宝」の図柄の紋なども使用した。

また黒田家の家紋も「石持紋」など複数ある。

 明治期に軍刀の柄金具に銀細工で所有者の家紋を入れるなど、

当時盛んだった国粋主義や家意識の表象として多く用いられた。

現在でも、ほぼ全ての家に一つ以上の家紋が定められており、

冠婚葬祭などで使用され続けている。

大空を飛んで私の今である  森田律子

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救命具ないのに沖が呼びにくる  清水すみれ


『太平記英勇傳・岩成主税助左道』-三好三人衆

「小寺政職陥落」

東からの信長の勢力が日の出の勢いで押し寄せ、

西からは毛利氏が台頭してきた播磨国は、

両勢力の緩衝地帯となっていた。

しかし信長が石山本願寺との抗争で播磨への進攻が、

足踏み状態だったため、毛利氏の調略の手が伸びていき、

播磨の小領主たちは、どちらに就くか右往左往していた。

空へ向けた人差し指を回す神  山田ゆみ葉

右往左往イコール即領土は乱れ、下克上ありき侵略ありきで、

播磨は赤松氏、小寺氏、明石氏、櫛橋氏、別所氏などの勢力が乱立。

それぞれ独自の動きをとるようになる。

その中に小国大名のさまざまな生き様が見えてくる。

秀吉と意地で戦った光の兄・櫛橋伊定、光の姉の夫・上月景貞

当初織田方についていたが、時の流れを読み違えた別所長治

毛利につくか織田か、狡猾に生き延びた備前・美作・宇喜多直家

代役ながら武士の本懐を全うした吉川経家

そして単純明快で優柔不断な御着城の小寺政職。 などなど。

広がってゆくほころびをさてどうします  山本昌乃



「小寺政職の場合」

天文14年(1545)小寺則職より家督を引き継ぎ、

御着城城主となった政職は、播磨国内での勢力を着実に拡大していく。

官兵衛職隆のらの優秀な人材を得て、

置塩城の赤松氏の勢力を後退させるなど、

自立した大名としての途を邁進していくのである。

そして、東播磨の別所氏と並ぶ西播磨の戦国大名に成長を果たす。

盆栽が枝葉広げる夢を見る  片山かずお

やがて、東から織田、西から毛利の勢力が伸びてくると、

官兵衛の助言に従って一旦は織田方に付いた。

その後、毛利氏の浦兵部宗勝が率いる毛利軍五千を千の兵で撃退し、

信長から感状を与えられる。

にもかかわらず、三木城の別所長治の寝返り、

有岡城の荒木村重の反乱、などを目の当たりにすると、

気の弱い、優柔不断な政職の心は揺れ、

信長も官兵衛をも裏切る決断をする。

クレヨンぽきぽき泣ける力はどのあたり  菊池 京



政職の唯一の戦さ碁石将棋

天正7年(1579)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、

城兵が織田軍の調略に応じ、落城。

天正8年に三木城が、落城し、御着城も同年に、落城。

政職は英賀を経て毛利氏の備後国・鞆の浦のもとへ落ち延びる。

その鞆の浦への流浪中、信長にひたすら謝罪を繰り返したが、

信長は政職の裏切りを許さなかった。

政職はそのまま備後の鞆に住み、天正12年5月にその地で没した。

政職には嫡子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、

政職の死により、大名としての小寺家は滅亡。

逃げ道のタンポポまでも踏みつける  河村啓子


  官兵衛
           うじもと     いつき
政職の嫡男・小寺氏職幼名・斎)も父に付いて毛利領に落ち延びた。

政職が備後の鞆で死没後、官兵衛は氏職を不憫に思い、

「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。

息子の氏職を引き取り養育したいので、氏職の罪は恩赦して欲しい」

官兵衛の希望を聞いた秀吉は、

かって官兵衛を裏切り、幽閉へと追い込んだ張本人をまないばかりか、

昔の恩を忘れない志に感心し、その願いを聞き入れた。

人々もまた「命の危機にさらされたにも拘らず、

旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。

恩をもって仇を報ずとは、このことである」と関心した。

馬の涙も馬の笑顔も知る男  福尾圭司

まもなく官兵衛は養育のため筑前国に屋敷を氏職に与えている。

その後、氏職は「有庵」と称して黒田家の客分となり、

子孫は福岡藩士となって存続した。

「竹中半兵衛の遺言」戦国武将への警告。

【武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。

 財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである】

白というその一点の毅然かな  徳山泰子

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予言者はヒゲ蓄えて遠く見る  オカダキキ



   諸葛亮
         (画面をクリックすれば大きくなります)

勝利をもたらすために策を練り、主君に忠実に使え、

時に対等に意見する。

影で人臣を導く片腕の存在、それが「軍師」である。

官兵衛もまた有岡城救出後、人格が入れ替わったかのように、

天下人も恐れるほどの才知を駆使し、本物の軍師として歩き始めた。

その軍師の原点にいるのが、「諸葛亮」である

職人の頂点を知る鉋クズ  きゅういち

諸葛亮」

字は孔明。

劉備に仕えるまでその生活ぶりは晴耕雨読で目立つことはなかった。

        しばき
ただ友人の徐庶や司馬徽らがその才能を認め、
がりゅう
臥龍と呼んでいたように知る人ぞ知る賢人だった。

身長8尺の偉丈夫だった。

江戸時代の作家が竹中半兵衛を彼になぞらえるなど、

日本にも大きな影響を与えた人物である。

臥龍=目覚める前の龍。

時計は止められるが時は止められぬ  岡田陽一

「軍師のルーツ・諸葛孔明」



「饅頭で崇りをを鎮める」

遠征の帰り、荒れ狂う河を見て、生贄の風習をやめさせて

饅頭を作って代わりに供え、氾濫を鎮めた。


後漢時代まで、君主は軍師を文字通り「師」と仰ぎ、

進んで陣営に招いた。

諸国に名を知られる有能な人物を軍師として招くことだけでも、

一目置かれ、それはステータスにもなったのである。

それだけに、君主と軍師の関係は、主従関係ではなかった。

むしろ対等に知覚、時に軍師は賓客として遇されることもあった。

一寸の虫が瞬く千里眼  真鍋心平太



「三国志演義にみる孔明の活躍」

「三顧の礼」の折、孔明は劉備に対して天下を三つに分けて納める

「天下三分の計」を示した。劉備はこれに沿って蜀の国を占拠、

曹操、孫権と並び立ち「三国時代」の到来につながった。

しかし「三国志の時代」(184~280)になると、

君主と軍師は主従関係を結ぶようになる。

軍師は君主に対して忠節を尽くし、懸命に働くようになる者も現われた。

その代表格が 諸葛孔明 だ。

孔明は「三国」のひとつ、蜀を建国した劉備に仕えた軍師である。
            けいしゅう
西暦208年、劉備は荊州に住んでいた孔明を三度も訪ねた。

劉備は孔明より20歳も年上だが、彼を賢人と見込み、

自ら足を運んで誠意を見せたという。

孔明もそれを意気に感じて仕官を決意した。

これが故事に残る「三顧の礼」である。

本物は四季の心を持っている  徳山泰子



「草船で矢を借りる」

赤壁の戦いの折、霧の出た夜に藁束で覆った船団で敵陣に迫り、

敵が放った矢を船に満載して帰陣した。

孔明は以後、生涯をかけて劉備に尽くすが、

当初は専ら、劉備が外征に出る際にその留守を預かり、
へいたん
兵站など後方を支援する文官的な役割が目立った。

曹操が中国の北半分を制圧し、荊州に攻めてきたとき、

孔明は劉備軍の代表として、孫権のもとに派遣される。

孔明は外交官としての才覚を発揮し、孫権との同盟に成功。

連合を組んで曹操軍を撃退した。

これが「赤壁の戦い」である。

兵站=軍の後方にあって作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる。

何故だろうあなたが来ると風が立つ  山野寿之



   「空城の計」

司馬懿の大軍が迫ったとき、わざと城門を開け放ち、

楼台で琴を奏でて待った。敵は伏兵を恐れて撤退した。

その後、孔明は劉備の勢力が大きくなるに従って重用されるようになり、

後に与えられた役職が「軍師中郎将」「軍師将軍」というものだった。

これは軍事・政治の両面を取りまとめるという重用なポスト。

彼にしかできないことだった。

劉備が蜀の国を得るために出陣した時、

孔明は荊州で留守を預かったが、劉備が危機に陥ると、

張飛趙雲を従えて援軍として赴き、主君の危機を救った。

仮処分の首と明日の手打ち蕎麦  山口ろっぱ



諸葛孔明が記した「出師表(すいしのひょう)

孔明が皇帝の劉禅に上奏した文書。

弱小の蜀が魏に勝てるよう、


死ぬまで努力する決意を述べた名文として知られる。

223年、劉備が亡くなる間際、

「もしわが世継ぎの劉禅に才能がなければ、君が皇帝となりなさい」

と言われたが、

孔明はこれに感激し劉禅の手足となって働くことを決意する。

その後、劉備の遺志を継いで漢王朝復興をめざして戦い続け、

毎年のように自ら総司令官となって蜀軍を率い、魏に攻め込んだ。
                   しばい
魏への北伐は5度に及んだが、魏の名将・司馬懿に防がれて果たせず、

長年の無理がたたり、54歳で過労死した。

彼の存命中は毎年のように遠征を敢行しながらも国政を乱さず、

強国である魏を脅かし続けたが、その死から27年後、

蜀は衰退を続け、魏に滅ぼされてしまった。

決心はダイヤモンドの堅さほど  髙田美代子



「祈祷で寿命を延ばす」

晩年、自分の寿命が近いことを悟り、蝋燭を灯して祈りを捧げるが、

部下の魏延が誤って灯を倒してしまった。

孔明は、小説・「三国志演義」では、

神がかり的な能力を持った軍師として描かれるが、

史実における孔明は天才的な軍師としてより、

このように愚直なまでに、劉備や劉禅を補佐し続けた忠臣であった。
 
その後、「軍師」制度は時代が進むごとに形骸化し、

西晋では「軍司」という名前に転じた。

その役割も前線に出ている軍勢の監視役に留まり、

重要性が薄れ、やがて自然消滅したようである。

後世、軍師はその神秘性が誇張され「三国志演義」「水滸伝」

登場する神がかったような存在へと昇華してゆく。

それが日本にもたらされ、

今日イメージされる軍師像として定着するにたったのである。

そのモデルの代表格が、諸葛孔明なのである。

政治貧しく読み返す水滸伝   奥山晴生

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ゆさゆさと笑う豆腐を買いに行く  岩根彰子


   鳥取城石垣

鳥取は、砂丘ばかりが有名だが、名城100選にも選ばれている通り、

訪れて見れば、鳥取城の堅牢な勇姿も捨てたものではない。

鳥取の渇え殺し」

荒木村重が単身城を捨てて逃走したことで、

有岡城は落城して官兵衛は救い出された。

この頃になると三木城内の食糧事情はかなり悪化。

馬まで食べてしまっても、餓死者は後を絶たなかった。

そして天正8年(1580)正月、秀吉は三木城総攻撃を開始する。

「もはやこれまで」と悟った城主の別所長治は、
                      よしすけ
自分と弟の友之、強硬であった叔父の賀相の切腹と引き換えに、

城兵の助命を願いでた。

それを条件として三木城は開城、

約2年に亘る三木籠城戦は終止符を打った。

恐ろしいものを見すぎた月の暈  木本朱夏

秀吉は三木城を陥落させた後、4月に弟の秀長を但馬に派遣。

この地の毛利方武将を討伐させた。

東への境界を織田方に付いた宇喜多直家に抑えられている毛利輝元は、

その宇喜多領に侵入を繰り返すが、

本格的な戦闘へと発展させる意志は乏しかった。

その間に秀吉は西播磨も平定してしまった。

そして次の目標を因幡攻略に定めた。

パーフェクトに咲いて散れなくなりました  岩田多佳子



  鳥取城球面体石垣

石垣のたわみを防ぐため、この形を採用したという。

秀吉の的となる本拠地は山名豊国が守る「鳥取城」だ。

秀吉は5月には秀長とともに因幡に進軍し、

毛利方の城を次々に陥落させていった。

当初抵抗していた豊国は、9月には降伏して鳥取城を後にしている。

ところが、山名氏の老臣をはじめ城兵の多くは、

その後も籠城を続けたうえに、

毛利軍山陰方面総大将の吉川元春に城将の派遣を依頼した。

そこで元春は天正9年(1581)の3月、

一門の吉川経家に兵400を付けて、鳥取城に送り込んだ。

花筏踏んで戦車がやってくる  湊 圭史

秀吉は6月の末、2万の大軍とともに因幡を目指した。

この鳥取城攻略策も三木城と同じく兵糧攻めに決した。

そして、三木城のように時間をかけないように、

官兵衛が提案した二つの策を実行している。

一つは、戦闘が始まるよりも大分前から、

因幡国中の米穀を通常の倍の値段で買い占めること。

もう一つは、城攻めの前に近隣の村落を襲い、

領民たちが城内へ逃げ込むように仕向けたことである。

そうすれば兵糧の消耗もより早くなるからだ。
     かつえ
「鳥取の渇え殺し」の作戦開始である。

命中せぬと的の機嫌が悪くなる  寺川弘一

「この時官兵衛は?」

合戦開始7月以後、鳥取は戦闘のない籠城戦ということもあり、

官兵衛はこの戦闘から離れ、阿波・淡路に出兵したと伝わる。

「天正9年秋、信長は阿波・淡路を討つべきことを秀吉に命じた。

   秀吉は命を受けて、まず阿波を平定しようとして、

   その身は因幡にありながらも、名代として官兵衛を阿波へ派遣した。

   この時、官兵衛の父・職隆が病により危険な状態にあったが、

   命令なので断ることもできず、官兵衛は阿波へ向った」

とある。                                                             「黒田家譜」
                                                せんごくひでひさ
阿波は,秀吉の家臣である仙石秀久に任せ、
                                     あたかきよやす
官兵衛は、淡路の安宅清康に照準をあてた。

清康は、もともと信長側だったが、毛利側に寝返っていたからで、

裏切ることを嫌う官兵衛は、自分自身の手で清康を討ち取り、

城をあっけなく開城させている。

納得の目覚めを朝は待っている  斉尾くにこ

「人に歴史・城主に生き方あり」



「変わり身の早い城主」-山名豊国

山名豊国は、尼子の山中鹿助らと組んで毛利方・武田高信を滅ぼし、

鳥取城を奪い城主となるも、

毛利方の圧力が強まると尼子を捨て、毛利に帰順。

その後の信長の中国攻めには、毛利を捨て織田方に従おうとした。

それが家臣たちの反感を買い、鳥取城を追われる。

その後、秀吉の御伽衆となり、

関ヶ原の戦では、家康について但馬に所領を得ている。

死に方を考えるほど暇である  山本洵一        



「戦わずして名将の名を残した将」-吉川経家

秀吉に山名豊国が鳥取城で降伏しようとすると、

その家臣たちは、豊国を追い出して、

秀吉軍と徹底抗戦をする事を決意、毛利の吉川元春に支援を求めた。

そして元春が白羽の矢を当てたのが武勇に秀でた吉川経家である。

この時、経家は自身の首桶を持ち込んだといい、

死を覚悟した入城だった。

経家は入城すると、城内の防衛を整備し、籠城の準備をはじめた。

しかし、兵糧の備えは常備兵3ヶ月分しかなく、

4ヶ月間も籠城して耐えたが、餓死者が出始めたことで、

経家は自分の命と引き換えに、城兵の助命を条件として開城した。

秀吉は、経家の入城の経緯を知っていることもあり、

その武勇を惜しみ、自害を思い止るよう説得したという。

「古の仮の庵と住みかへて もとの都にかへりこそすれ」

串カツの二度漬けほどの罪だった  たむらあきこ 

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体内を流れる水母のようなもの  笠嶋恵美子



 秀吉三木城包囲図

「黒田の姓」

官兵衛の父、職隆はもともと黒田の姓をつかっていたが、

小寺氏の配下に組み込まれることにより、小寺姓を与えられて以後、

官兵衛も小寺姓を名乗っていた。

では官兵衛は、いつのころから黒田の姓に戻したのだろうか。

白鯨の腹に抜糸の疵がある  くんじろう



    御着城絵図

天正8年1月、秀吉が三木城主の別所氏を滅ぼすと、
         しそう
続く4月には宍粟郡の長水城主・宇野氏を滅亡に追い込んだ。

両氏を滅亡させたことにより、播磨の平定は完了した。

同年4月になると、破城が進められ、

小寺氏の居城である御着城以下、主要な城郭は破壊された。

御着城主、小寺政職は逃亡し、

子孫はのちに福岡藩主となった黒田長政に仕えたという。

これ以前から官兵衛は秀吉に従っていたので、

もはや、小寺氏とは関係ない。

ポリ袋にシーラカンスのエラのカス  山口ろっぱ



秀吉は禁制や百姓還住を進め都市、町、村の戦後復興を推し進めた。

その中で重要視されたのが姫路であった。

同年7月には、秀吉は官兵衛に対して、

姫路城の普請を申し付けている。

この時の宛名が「黒官兵」となっているので、

少なくとも、この時点で黒田姓に戻していたと考えられる。

以後、官兵衛が小寺姓を使った形跡はない。

つまり、

官兵衛は有岡城を脱出し、

小寺氏が没落してから、黒田姓に復したのである。

弁天さんの前で駱駝がロバになる  奥山晴生



「名の変遷」

官兵衛の名前は、孝高である。

しかし史料によっては違った名前が用いられている。

永禄10年(1567)12月13日付の正明寺文書に残る

「黒田孝高下地売券」には、姓と官職が「小寺官兵へ衛」とあり、

名は「祐隆」と記されている。

官兵衛の初名は、一般的には「孝高」と考えられているが、

「祐隆」である可能性がある。

同じく正明寺文書の中の「黒田黒田孝高借銭請取状」では、

姓と官職が「小官」とあり、名は「考隆」と記されている。

                 (永禄13年3月12日付)

次に4宮文書の中の「黒田孝高起請文」には、

姓と官職が「小寺官兵衛」、名は「孝隆」とあり、

いずれにしても「孝高」ではない。

                   (元亀3年9月13日付)

ところで黒田氏は、重隆、職隆のように、下に「隆」がつく。

ゆえに本来は「祐隆」「考隆」「孝隆」と名乗るのが自然なのだが、

敢えて「隆」を使わなかったのは、

どんな意味意識があったのだろうかー興味が尽きないところである。

漂流中もエビチリは食べていた  井上一筒

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