まっ先に鳥のまぶたにふれる夜 八上桐子
高松城跡公園
高松城の跡地に作られた自然公園。
周辺に見える青々とした風景は水攻めにより全て水没した。
「高松城の運命」
天正10年
(1582)4月、
秀吉と官兵衛は5千の兵が籠もる
「高松城」を前にした。
秀吉は本陣を高松城が見下ろせる龍王山に敷いた。
高松城は土塁によって築かれた平城である。
しかし、
「何と、ここは湿地帯ではないか」
秀吉は嘆息して続けた。
「周囲を田が囲み、沼や池も多い。
まるで天然の堀だ。 しかも足守川が城を守る。
いかに平城でもこれでは容易に落とせまい」
なおかつ大手門の道は一本で、
騎馬が一騎駆け抜けられるほどの狭さである。
攻撃側にすれば、城から鉄砲で狙われやすく、
湿地帯に入り込めば、動けなくなるなど様々なリスクがあった。
秀吉は力攻めを試みたが、攻め立てた宇喜多勢が犠牲になった。
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官兵衛も秀吉同様の印象を持っていた。
しかし、時間を無駄にする訳にはいかない。
ぐずぐずすれば、毛利の援軍4万が来るのは明白だったからだ。
焦る秀吉、官兵衛はそんな主君にある策を進言した。
「兵は詭道なりと申します。
この低湿地と足守川を逆手にとりましょう。
高松城が誇る難攻不落の鍵を逆利用するのです」
水攻め・・・である。
秀吉には、その策がすぐに理解できた。
「奇策だが、面白い。だがどうやって城を水没させるつもりじゃ」
季節はちょうど梅雨時
官兵衛の計算では、この策は成功するはずであった。
失敗の末に卵が立っている 松本としこ
蛙ヶ鼻の築堤跡を深く掘り起こした土地断面
手前は当時の土留め杭
そのむこうにある穴が当時の堰き止め土俵跡、そばに当時の骨があった。
官兵衛は心の中で呟いた。
―窮地に置かれているのは、毛利とて同じこと―
必ず水攻めは成功する。
戦わずして落城させる、これが双方最善の策なのだ。
そこで官兵衛は、周辺に住む者たちを大量に雇い入れ、
また兵には刀槍を土木用具に持ち替えさせて、
堤防作りをさせた。
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堤は高松城の周囲に高さ7メートル、
底の部分で21メートル、
流れの部分10メートルという幅を持ち、
総延長は、約3キロにも及ぶ。
工事は5月8日に始まり、
わずか12日で完成させてしまったのである。
そしてすぐさま足守川を堰き止めて、流れを堤防に誘った。
堰き止めるためには、
いくつもの大船に大小の石を積み込んで沈めるという方法を取った。
階段が「かかって来い!」と聳え立つ 新家完司
清水宗治
「清水宗治」
清水宗治、天文6年
(1537)備中・清水村に誕生。幼名は才太郎。
備中の清水城城主として高松城主・
石川久孝の娘を娶り、
その幕下に属した。
久孝没後、嗣子も相ついで没し、
幕下の重臣たちの跡目争いに勝利し、高松城城主に収まった。
そのころ備中には、西の毛利、東の織田、二勢力が圧迫してきた、
が、宗治は毛利方・
小早川隆景に属する道を選択した。
毛利氏の家臣となって以後は隆景の配下として、
毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、
隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。
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宗治着用の甲冑(古風なデザインが宗治らしさを表している)
天正10年4月、秀吉による高松城攻撃の直前、信長の命を受け、
秀吉は調略の使者として
蜂須賀家政と官兵衛を城に向かわせた。
備中・備後2カ国を与えることを条件に
「味方になれ」と誘ったが、
宗治はその誘いを断わり、使者が帰ったあと、
信長からの誓詞をそのまま、
輝元のもとに届けたという。
宗治の義理堅い一面である。
結果、秀吉は官兵衛の脚本に沿って、高松城水没作戦を決行。
身動きが取れなくなった高松城の命運が尽きてきたとき、
官兵衛と
安国寺恵瓊との間で、和議の話し合いが持たれた。
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宗治自刃の図
明治時代に発行された太閤記に描かれている宗治の最期。
秀吉が差し入れしてくれた酒で喉を潤し、
船の上で舞を舞った後に切腹した。
二つあった条件の、一つは、
「宗治の切腹」である。
宗治は毛利としては、絶対失いたくない武将である。
毛利は手離さないだろうと読んだ秀吉が難題をなげつけた。
いわゆる結論をだらだら長引かせ、
大将・
信長の備中到着を待ち、
締めくくりは殿がという考えである。
しかし、そんなところへ思いがけない
「本能寺事件」が舞い込む。
信長悲報を聞いた秀吉は取り乱した。
しかし、官兵衛に促され考えをあらためて秀吉は、
信長の死を秘匿したまま、宗治の切腹を急かせた。
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宗治辞世の碑
そして、切腹の日、宗治は戦時に乱れた髪をピッチリと整え、
水上に舟を漕ぎ出し、船上でひとさし舞った。
その後に切腹の儀式に入った。
秀吉は、
明智光秀がいる京へ一刻も早く戻りたいところであったが、
「名将の最期を見届けるまでは」
と切腹を見届けるまで、その場に居た。
後日、隆景に会った秀吉は、
「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。
清水宗治の辞世の句
"浮世をば今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して"
じゃこにだってじゃこの一分がございます 前田咲二[5回]