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川柳的逍遥 人の世の一家言
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本日は晴天なりで幕が開く  橋倉久美子


赤松乃城水責乃図 (歌川国芳)

「運命の交渉」
    かわずがはな
本陣を蛙ヶ鼻に移していた秀吉が、手を叩いて喜んだ。

するとその5日後は激しい雨が降り出して、

渦を巻きながら奔流が城に向かって流れ出した。

すぐに高松城は孤立無援の存在となってしまった。

高松城の窮状を知った毛利方は、

吉川元春小早川隆景が先鋒として出陣。

吉川元春は岩崎山、小早川隆景は日差山に布陣。

総帥の毛利輝元も大軍を率いて、猿掛城まで進軍してきた。

ようやく毛利勢4万が備中に到着したものの、

この惨状には打つ手がない。

しかも秀吉は関船を川にいれて、船から城を砲撃した。

城兵の士気を下げるためだ。

食糧も水補給できない上に砲撃である。

毛利方はついに、和睦しか考えられない状況に追い込まれた。

雨を描く恵みの雨になるように  籠島恵子

そんな中、毛利側は策を講じた。

もともと先代の毛利元就は統括した中国地方だけを安泰にし、

天下統一を狙わぬと標榜、遺言としても残した。

水浸しにされた城内に留まっていれば、

次々と織田方の援軍が来るであろう。

考えあぐねた結果、毛利側は外交僧の安国寺恵瓊を通じて、

「講和交渉」を提案することと決めた。

秀吉側の交渉人は官兵衛である。

官兵衛は難敵武田氏を打ち破り、勢いに乗る信長の援軍が

次々とこの地に赴くことを匂わせながら交渉を進めた。

人生はうさぎとかめのシャレコウベ  柴田園江

       

蛙ヶ鼻の2築堤跡      首塚      胴塚

(堤は基部20m、頂上部6m、高さ7m)
(本丸跡にある宗治の首塚と
 首のない胴体は切腹をした小船に乗りそのまま本丸に流れついた)

官兵衛は先ず二つの条件を毛利側に提示した。

一つは、

「城主・清水宗治以下、城兵の命を助けてくれるならば、

    毛利十カ国のうち五カ国を割譲する」 こと。

又一つは、

「城兵の命は助けるとしても城主の宗治の責任は問わねばならぬ」

ことだった。

しかし、恵瓊もそう簡単には条件を飲まない。

少しでも官兵衛が提示する条件を緩和すべく、

交渉は幾度となく回を重ねた。

秀吉もこの条件を一歩も譲歩つもりのないことが、

言葉の節々から伝わってくる。

薬師如来の駆け出しそうな裾裁き  岩根彰子

官兵衛は、「秀吉は決戦を先に延ばそうとしている」

と感じていた。

籠城している味方を助けるために、

後詰めにやってきた本隊と決戦に持ち込むのが、

いわば、この時代の戦いのセオリーであった。

高松城が湖上に孤立し、毛利本隊が後詰めに来たことで、

条件はすべて揃った。

にもかかわらず、秀吉は積極的に動かない。

それどころか毛利方が仕掛けてくることも、歓迎していなかった。

順風満帆夢をみているのだろうか  柏原夕胡

かっては信長など足下にも及ばないほどの大勢力を誇っていた、

毛利氏を、自分ひとりの力で屈服させてしまうと、

必ず主君から疎まれるし、

そうでなくても、同僚の反感を買う。

秀吉はそう考えていた。

そこで攻略の手はずを9割方済ましたうえで、

仕上げは信長の手で行う。

そうした算段で秀吉は、信長に出馬を願ったのだ。

そのため、決着は信長着陣以降でなければならない。

満潮の時も鼻だけ沈めない  寺川弘一



           安土城

その信長は3月に甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼしたことで、

「安土城」家康を招いて長年の老をねぎらっていた。

秀吉から出馬の要請が届いたとき、

信長は、

「はげ鼠も、存外頼りにならぬものよ」と、

周囲の者に上機嫌で話していたという。

ともあれ、信長自身の出馬は決まったが、

それに先駆けて、明智光秀を秀吉の元に派遣することにした。

そんなことで、両者の主張は食い違い和議成立に至らぬまま、

運命の6月2日深夜がやってくる。

手のひらで遊ばせている天道虫  河村啓子

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まっ先に鳥のまぶたにふれる夜  八上桐子



         高松城跡公園

高松城の跡地に作られた自然公園。

周辺に見える青々とした風景は水攻めにより全て水没した。

「高松城の運命」

天正10年(1582)4月、

秀吉と官兵衛は5千の兵が籠もる「高松城」を前にした。

秀吉は本陣を高松城が見下ろせる龍王山に敷いた。

高松城は土塁によって築かれた平城である。

しかし、「何と、ここは湿地帯ではないか」 

秀吉は嘆息して続けた。

「周囲を田が囲み、沼や池も多い。

  まるで天然の堀だ。 しかも足守川が城を守る。

  いかに平城でもこれでは容易に落とせまい」

なおかつ大手門の道は一本で、

騎馬が一騎駆け抜けられるほどの狭さである。

攻撃側にすれば、城から鉄砲で狙われやすく、

湿地帯に入り込めば、動けなくなるなど様々なリスクがあった。

秀吉は力攻めを試みたが、攻め立てた宇喜多勢が犠牲になった。

洞穴の中にあったよ登山道  関 よしみ

官兵衛も秀吉同様の印象を持っていた。

しかし、時間を無駄にする訳にはいかない。

ぐずぐずすれば、毛利の援軍4万が来るのは明白だったからだ。

焦る秀吉、官兵衛はそんな主君にある策を進言した。

「兵は詭道なりと申します。

   この低湿地と足守川を逆手にとりましょう。

   高松城が誇る難攻不落の鍵を逆利用するのです」

水攻め・・・である。

秀吉には、その策がすぐに理解できた。

「奇策だが、面白い。だがどうやって城を水没させるつもりじゃ」

季節はちょうど梅雨時

官兵衛の計算では、この策は成功するはずであった。

失敗の末に卵が立っている  松本としこ



蛙ヶ鼻の築堤跡を深く掘り起こした土地断面 

手前は当時の土留め杭 

そのむこうにある穴が当時の堰き止め土俵跡、そばに当時の骨があった。

官兵衛は心の中で呟いた。

 ―窮地に置かれているのは、毛利とて同じこと―

必ず水攻めは成功する。

戦わずして落城させる、これが双方最善の策なのだ。

そこで官兵衛は、周辺に住む者たちを大量に雇い入れ、

また兵には刀槍を土木用具に持ち替えさせて、

堤防作りをさせた。

目の上の瘤はやんわり咬んでおく  本多洋子

堤は高松城の周囲に高さ7メートル、

底の部分で21メートル、

流れの部分10メートルという幅を持ち、

総延長は、約3キロにも及ぶ。

工事は5月8日に始まり、

わずか12日で完成させてしまったのである。

そしてすぐさま足守川を堰き止めて、流れを堤防に誘った。

堰き止めるためには、

いくつもの大船に大小の石を積み込んで沈めるという方法を取った。

階段が「かかって来い!」と聳え立つ  新家完司


    清水宗治

「清水宗治」

清水宗治、天文6年(1537)備中・清水村に誕生。幼名は才太郎。

備中の清水城城主として高松城主・石川久孝の娘を娶り、

その幕下に属した。

久孝没後、嗣子も相ついで没し、

幕下の重臣たちの跡目争いに勝利し、高松城城主に収まった。

そのころ備中には、西の毛利、東の織田、二勢力が圧迫してきた、

が、宗治は毛利方・小早川隆景に属する道を選択した。

毛利氏の家臣となって以後は隆景の配下として、

毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、

隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。

広がってゆくほころびをさてどうします  山本昌乃

宗治着用の甲冑(古風なデザインが宗治らしさを表している)

天正10年4月、秀吉による高松城攻撃の直前、信長の命を受け、

秀吉は調略の使者として蜂須賀家政と官兵衛を城に向かわせた。

備中・備後2カ国を与えることを条件に「味方になれ」と誘ったが、

宗治はその誘いを断わり、使者が帰ったあと、

信長からの誓詞をそのまま、輝元のもとに届けたという。

宗治の義理堅い一面である。

結果、秀吉は官兵衛の脚本に沿って、高松城水没作戦を決行。

身動きが取れなくなった高松城の命運が尽きてきたとき、

官兵衛安国寺恵瓊との間で、和議の話し合いが持たれた。

水掛論きっと下着は濡れている  皆本 雅



  宗治自刃の図

明治時代に発行された太閤記に描かれている宗治の最期。
秀吉が差し入れしてくれた酒で喉を潤し、
船の上で舞を舞った後に切腹した。


二つあった条件の、一つは、「宗治の切腹」である。

宗治は毛利としては、絶対失いたくない武将である。

毛利は手離さないだろうと読んだ秀吉が難題をなげつけた。

いわゆる結論をだらだら長引かせ、

大将・信長の備中到着を待ち、

締めくくりは殿がという考えである。

しかし、そんなところへ思いがけない「本能寺事件」が舞い込む。

信長悲報を聞いた秀吉は取り乱した。

しかし、官兵衛に促され考えをあらためて秀吉は、

信長の死を秘匿したまま、宗治の切腹を急かせた。

泣いてなんかいません葱がしみただけ  藤本鈴菜



宗治辞世の碑

そして、切腹の日、宗治は戦時に乱れた髪をピッチリと整え、

水上に舟を漕ぎ出し、船上でひとさし舞った。

その後に切腹の儀式に入った。

秀吉は、明智光秀がいる京へ一刻も早く戻りたいところであったが、

「名将の最期を見届けるまでは」 

と切腹を見届けるまで、その場に居た。

後日、隆景に会った秀吉は、

「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。

清水宗治の辞世の句

"浮世をば今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して"

じゃこにだってじゃこの一分がございます  前田咲二

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溜息と欠伸も骨壷に入れる  谷口 義



秀吉の中国方面進撃要図
                       (画像を拡大してご覧ください)

天正6年4月の上月城から始まり、同年6月からは三木城攻め、

天正9年6月からは鳥取城、

天正10年5月に備中・高松城と転戦を重ねた。

「境目7城」

毛利は備前美作の宇喜多直家が秀吉軍に寝返ったため、

最前線を備前・備中とせざるを得なくなっていた。

秀吉軍は宇喜多勢の1万を合わせたことで、

3万の大軍になっている。

毛利は武闘派の次男・吉川元春と戦略派の三男・小早川隆景

本家筋の輝元を支えている。

この危急に隆景は、

「備中こそ最前線。ここを一歩も引くわけにはいかない」

という不退転の決意を固めた。

備前と備中の国境には「境目7城」といわれる7つの城を、

毛利方の豪族が守っていた。

7城の中心は備中・高松城の清水宗治である。

どの角度から見られても怯まない  岡内智香



官兵衛の策は、

「先ず高松城を孤立させるために短期間で他の境目7城を落とす」

というものであった。

官兵衛は、秀吉の股肱の臣・蜂須賀正勝とともに、

「寄せ手」の将に任じられた。

寄せ手とは、攻め寄せる側のことを言う。

そして官兵衛が選んだのが、

無駄な犠牲を出すことがない「調略」であった。

戦などしないほんものの神さま  上嶋幸雀

官兵衛は、「冠山城」は宇喜多勢に任せ、「宮路山城」に向かった。

型通りの降伏勧告に、宮路山城主・野見七郎は当然ながら応じない。

しかし官兵衛とて、それはおり込み済みであり、

力攻めではなく、将兵の「追い出し作戦」を策した。

先ず、城の水の手を探し当て、断ち切る。

そうして城の正面から、鉄砲隊に激しい一斉射撃を行わせた。

さらに矢文を城内に打ち込み、

「三木城、鳥取城のような干殺し、渇え殺しの目にあいたいのか」 

と脅した。

そうか君は明日も生きてるおつもりか  居谷真理子

官兵衛の策は図に当たった。

一夜にして、宮路山城から将兵も城主の野見も消えた。

もちろん、官兵衛は城兵の逃げ道を空けておいた。

また官兵衛は「鴨城」「日幡山城」を続けて攻略。
               もとすけ
日幡山城は城主・上原元将の内応を誘ったことで、

戦わずして落ちた。

「松島城」「庭妹城」の落城も時間の問題。

一方、冠山城は、宇喜多勢の猛攻撃に全員討ち死にをしていた。

こうなると分ってました桜餅  河村啓子

「冠山城の戦い」

冠山城は、毛利氏が対織田氏のために設定した「七城」の1つで、

「高松城水攻め」の前哨戦がおこなわれ、激戦となった城である。

天正10年4月17日、城は織田・宇喜多勢3万に包囲された。

城主・林重真以下総勢3600人が籠城し、

織田・宇喜多勢に対峙した。

寄せ手の大将は杉原家次宇喜多忠家であったが攻めあぐねていた。

4月25日、城内から出火し、

この好機を逃さず加藤清正「一番槍」に攻撃を仕掛けたため、

さしもの重真も「もはやこれまで」と自決。

そして将兵139人も、自刃あるいは壮烈な討死を遂げた。

人数分の皿に盛られている死骸  たむらあきこ



本丸にある冠山城の戦いの戦死将兵慰霊碑。

この激戦の様子が記されている説明板もある。

「冠山合戦を偲ぶ」

『天正十年四月十七日冠山城は、織田軍二万、宇喜多勢一万に囲まれ、

下足守の山や谷は陣馬で埋まった。

守りは城主・林三郎左衛門、称屋七郎兵衛、松田左衛門尉、

鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、

岩田多郎兵衛、権寂和尚、称屋興七郎、佐野和泉守、守屋真之丞、

称屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など三百騎、総勢三千六百人で、

羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。

城内より打ち出す銃火ははげしく、

また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、

寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。

四月二十五日不幸にして城内より出火し、

火は燃え広がり城中大混乱となった。

城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。

竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、

権寂和尚など,将兵百三十九人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた』

とあり、ともかく、

隆景との義を貫いた武士たちの勇ましい最後であった。

極太でざくざく編んでいる絆  合田留美子



そして官兵衛のひとり息子であり、黒田家を背負って立つ長政は、

この「冠山の戦い」が初陣となる。

「シナリオ」ー【シーンナンバー38】

 

ー初陣から帰ってきた長政と官兵衛のやりとり。


長政 「父上!秀吉様からお褒めの言葉をいただきました!

     初陣の働き、あっぱれであったと」

長政、喜色満面で官兵衛と対面する。



官兵衛 「お前はいずれ黒田家を継ぐ身。

                大将が猪のごとく突っ走ったどうする? 考えて動け!」

官兵衛、厳しい口調で長政を諭す。 長政、ムッとして。 

長政 「私は武士です。

               調略より、武士らしく職場で働きとうございます」

長政、不満をつのらせて、官兵衛に歯向かう。

長政 「父を助けよ!それが半兵衛様の遺言でございました。

             私はその言葉を胸に誓って、戦ったまで・・・」

・・・父上は、何ゆえ自分を認めてくれぬのか・・・

長政の顔にそう書いてある。



官兵衛 「お前は半兵衛殿の言葉をはき違えておる。

              黒田の家紋を思い出せ。生き残る戦い方を覚えよ」

納得のいかない思いを抱きながら 長政は官兵衛の部屋を出て行く。

ひらがなのように男がやってくる  大西泰世

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皆既月食もう蛹には戻れない 笠嶋恵美子



焼失前の岡山城天守(焼失前)   月見櫓
                (全て画像は画面をクリックしてご覧下さい)
「宇喜多直家の死」

天正9年(1581)11月になると阿波・淡路から官兵衛

鳥取から秀吉が姫路に帰着した。

官兵衛が阿波・淡路での委細を秀吉に報告している際、

秀吉がふと、「備前の宇喜多が・・・」と呟き、

そのまま黙ってしまった。

岡山城に備前・美作を領する宇喜多直家が、

重い病で臥せっているのだ。

この宇喜多直家という武将は、

戦国乱世の申し子といっても過言ではない、食わせ者であった。

尻尾揺らして薄ら笑いも嘘泣きも  オカダキキ
 

                                              権謀術数の限りを尽くし、その地位をつかみ取った男である。

そんな直家が亡くなれば、宇喜多家は中心を失う。

同時に、一族や家老がおのおの権力を言い立てかねない。
     しし
また、嗣子である八郎(秀家)はまだ幼く、

とても家中を纏めることなどできない。

ヘタをすれば、一族や家老の中からも、

毛利方に走る者が出るかも知れない。

秀吉はそれを危惧したのだ。

ラジオから見えなくなった空の色  くんじろう

直家の病状を聞いた官兵衛は、

「それ(直家の死)を機に」と切り出した。

「本営を岡山城に進めてはどうか」と提言したのだ。

そして、秀吉自身が八郎の後見役となり、

「その権威を利用して宇喜多家の指揮権を掌握してしまおう」

というのである。

そうなれば、岡山城が対毛利家の最前線基地となるだけでなく、

現地に城を持つ者が先鋒を務めるという、

織田家の軍法にも叶うことになるのだ。

仏飯とまるい会話をして生きる  岩根彰子



宇喜多氏築城時の石垣

まだ直家は死んでもいないのに、

秀吉と官兵衛は謀議を進めた。

間もなく直家は亡くなり、秀吉が八郎の後見役となった。

直家の死はしばらく秘匿され、

年があらたまった天正10年1月9日に、

その死が触れられている。

終点に着いたら降りるしかないか  清水すみれ

3月15日、気候がよくなったのを見計らい

秀吉率いる織田軍2万は、姫路を進発した。

そして4月5日、

宇喜多秀家が新しい主となった備前・岡山城へ入る。

こうして、本格的に毛利家との対決姿勢が整ったのだ。

一方、毛利家も指をくわえて見ていたわけではない。

毛利家の基本的な戦略思想は、草創者である毛利元就の、

「版図を守り中央に討って出ることを望まない」

というもの。

この遺訓を時の総司令官である小早川隆景は頑なに守っていた。

隆景の智略や合戦のかけ引きの妙、

采配の見事さは群を抜いている。

加えて、隆景の兄である吉川元春

多分に勇を好む性格であったのに対し、

隆景は勇に逸り無理をすることは、決してなかった。

引き出しが眼鏡市場になっている 合田留美子



 小早川隆景

だがここに至って隆景のような慎重な人物も、

毛利軍の全力を挙げて、

織田軍と戦わなければならないことを決意したのである。

そして、備中に配された毛利方の7つの城を守る城主を、

自らの居城である備後の三原城に招いた。

そして、夏には織田の大軍が攻め寄せてくるであろうこと、

その際には、備前の宇喜多氏が先導を務めるであろうことを告げた。

境目七城」毛利方と宇喜多方との間にあるためこう呼ばれた。
  (宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・撫川城)


ふとある日触れるや知れぬ非常ベル  美馬りゅうこ

隆景としては織田方に与されることは仕方がないと考えていた。

ただ、
「戦闘中に寝返られるのは全軍の士気にも関わるので、
        きし
 今のうちから旗幟を鮮明にして欲しい」

ということを確かめるための招集であった。

というのも備中・7城の城主たちは、

全員が毛利家譜代ではなかったからだ。

釣り糸の先に孤独をぶら下げる  荻野浩子



  清水宗治

結果は、全員がこのまま毛利に従う、ということになった。

中でも7城の忠心となる備中・高松城を守る清水宗治は、

典型的な外様でありながら、

最初から勝算は度外視して毛利方に与することを決めていた。

総大将の毛利家を筆頭にして、

中国勢にはこうした律義者が多かった。

投げつけた言葉が山彦でかえる  山本昌乃

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戦前のキツネ戦後のきつね汁  井上一筒



  最後の酒宴

「絵本太閤記」で描かれた鳥取城落城。

城兵の命と引き換えに吉川経家の切腹が決まり、

秀吉から贈られた酒肴で別れの宴を催す。

「鳥取城の戦い」

鳥取城の開戦の前年の秋、鳥取城の周辺には

官兵衛に派遣された若狭国の商人などが頻繁に姿をみせ、

収穫したばかりの米や穀物を時価の数倍の高値で買い取っていた。

このとき金に目が眩み、

城内の備蓄まで売ってしまう不届き者がいたという。

それこそが官兵衛のねらいでもあった。

さらに官兵衛は、鳥取城を包囲する直前に念をいれて、

付近の農村を襲って、ことごとく焼き払い、

自宅を失った農民たちが城内に逃げ込むように誘導した。

削除キー押しても眼裏に残る  上嶋幸雀



   鳥取城城門

官兵衛は秀吉陣営に復帰すると、

天正9年(1581)6月には因幡・鳥取城攻めに加わった。

鳥取城城主は吉川経家で、約2千が立て籠もった。

この時、官兵衛の脳裏には、

死の恐怖と共にあった幽閉から生還した思い、

すなわち命の尊さが甦った。

「敵味方ともに、命を無駄にしない戦い方はないものであろうか」

およそ戦国武将らしくない官兵衛の胸の裡は理解し難い。

だが官兵衛は、「力と力衝突するという合戦の常識を破る」

ことが必要だと信じたのである。

本当のわたしに出会うまで歩く  阪本こみち

武器や将兵の数にたのむのではなく、敵を弱らせて落城させる。

結果的に双方の損害は少なく戦を終えられ、

合理的だと秀吉に進言した。

「因幡六郡の米を、古来、新米を問わず買い占めてくだされ」

兵糧攻めだ。

周辺の米を2倍3倍の値で買うことで、

「容易に買占めは成功する」と付け加えた。

米は、鳥取城には入らなくなった。

そればかりか、周辺の農民なども城に逃げ込み、

城内の人数は膨れ上がった。

第二章白いうぶ毛の乱反射  山口ろっぱ



   鳥取城古写真 (鳥取城フォーラム2013 シンポジウム)

『因幡国鳥取郡の一郡の男女は、

   悉く鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。

   下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、

   即時に餓死してしまった。

   はじめは5日に一度か3日に一度鐘を衝くと、

   それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、

   木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした』
                                                                      
時間の経過とともに悲惨さは,さらに増した。

餓死するものは止まるところを知らず、

痩せ衰えた男女は、柵際でもだえ苦しんだという。
                                                                         ([鳥取城地獄絵図」-【石見吉川家文書】)
水中花火に泡だったよと告げる  蟹口和枝


吉川経家
             あずさゆみ         すみか
”武士の 取り伝えたる梓弓  かえるやもとの 栖なるら”                                                                 (吉川経家ー辞世の句
まさに地獄絵図さながらに、

飢えの苦しみは三木城と同じ様相であった。

とにかく飢えを凌ぐために、

鳥取城内の人々は、口に入るものはなんでも食した。

『(秀吉軍)が鉄砲で城内の者を打ち倒すと、

   虫の息になった者に人が集まり、

   刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。

   身のなかでも、とりわけ頭は味がよろしいとみえて、

   首はあっちこっちで奪いとられていた』

もし早期に官兵衛の降伏勧告を容れていたならば、

そのような状況には陥らなかっただろう。

このような事態をうけ10月、

安国寺 恵瓊が秀吉の陣営を訪れ、鳥取城の開城を協議した。

そしてその月の25日、吉川経家は城兵の助命を条件に切腹した。

南無阿弥陀仏でタマネギ切る法師  中村幸彦

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