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川柳的逍遥 人の世の一家言
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紫陽花と約束のある途中下車  美馬りゅうこ    



三木城攻めの最中の天正7年4月、半兵衛は病に倒れた。

秀吉は京で療養させたが、「戦場で死にたい」 と願い、

秀吉の本陣で亡くなる。

「二兵衛の絆」

無言のうちに互いの戦略を理解したという天才軍師同士の逸話。

「二兵衛」と呼ばれた半兵衛官兵衛が、

実は、共に闘った戦の数はそう多くはない。

反織田方である「三木城の奪取」に向けて、

秀吉は、天正6年(1578)戦を起こしたが、

以外にも相手が手強く、城攻めに手を焼いていた。

そんなある日、

500名ほどの兵が小高い山中に消えるのを秀吉は見る。

「あれは敵か味方か」

判別できぬ秀吉が半兵衛に尋ねると、

「あれは官兵衛様でございましょう。

   今日は殿の勝利に終わるに違いございませぬ」

と、半兵衛はきっぱり言ってのけたのである。

設問の1でホクロの数を訊く  井上一筒 



 半兵衛最期の戦い

半兵衛はその日、官兵衛が動くとは知らされていなかったが、

今回の戦で劣勢が続く中、

「この辺りで策を打ちたい」と思っていた矢先のことだった。

「あの山中は以前より兵を進めるならここだ」と見込んでいた場所。

官兵衛も同じ読みをしたに違いない。

そう即座に判断し、秀吉に進言したのである。

半兵衛はさっそく援軍をだして敵をおびき出した。

そこを官兵衛隊が襲撃。

官兵衛に花を持たせるかたちで、

秀吉勢に勝利をもたらすことに成功した。

二人の阿吽の呼吸が伝わってくる。

おみそれをしましたと天丼の海老  谷口 義 

しかし、ふたりの運命を大きく揺さぶる事件が、

その「三木城攻め」の最中に起こった。

小寺政職と謀って造反した荒木村重を説得するため、

単身敵城に乗り込んだ官兵衛であったが、

予期せぬことに捕らえられてしまい、幽閉されたのだ。

キナクサイ話になった裏表紙  赤松ますみ

帰らぬ官兵衛に謀反の嫌疑をかけた信長は、

官兵衛の嫡子・松寿丸の処刑を秀吉に命ずる。

躊躇する秀吉に、「私におまかせくだされ」と、

申し出たのは半兵衛だった。

忠誠の証として、我が子を差し出した官兵衛が、

「裏切るわけがない」という確信。

松寿丸を命を守ることこそ「自分の忠心」という思い。

それらが心を突き動かし、なんと主君の命に背き、

松寿丸を己の領地内に匿って助けるという大胆な行動に出た。

信念を曲げぬ万年筆の艷  辻内次根

ところが、病弱ゆえ、すでに自分の余命を悟っていたのだろう。

天正7年、三木陣中で病に倒れ、京都で療養していたが、

「武士たるもの、戦場で死すべし」と、

病を押して陣中に舞い戻り、この世を去った。

享年36歳。

そばには、官兵衛こそが自分の思いを受け継ぐ軍師であると

言わんばかりに、愛用の采配が横たえられていた。

緞帳が降りる迄夢追い続け  石田ひろ子

幽閉から一年後、無事に救出された官兵衛の耳に届いたのは、

命をかけて松寿丸を救った盟友・半兵衛の死だった。

形見の采配を受け取った官兵衛は、

半兵衛が貫き通した仁愛の心を心底、理解したのかも知れない。

生まれつき体が弱かったため命を慈しみ、

戦では無駄な血を流さずに勝つための知略を尽くした軍師。

暗い牢獄で死の淵を彷徨った官兵衛も、

戦の不毛さを身を以って悟り、

半兵衛の戦い方こそ真の軍師と確信したのであろう。

輝いてキリンの涙落ちてくる  大西俊和

三木城攻めを受け継いだ官兵衛は、城に乗り込み、

城主の切腹と引き換えに兵の解放を提案し、

長い戦は終息した。

晩年、官兵衛が長政(松寿丸)に遺したのは、

「家臣を信頼し、民を愛せよ」 という言葉だった。

官兵衛の心には、25年という年月を経てもなお、

半兵衛は生き続けていたのである。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子

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彼岸花歩幅合わせてくださいな  岩根彰子



「荒木村重」と妻「たし」の歌碑

"思いきやあまのかけ橋ふみならし なにはの花も夢ならむとは"

「果たして思ったであろうか、これまで自分のやってきたことは、
 漁師が間に合せの、仮橋を踏んで平らにするように、
 同じところを何回も往ったり来たりしているようなもので、
 難波の花も結局は夢のまた夢であろうとは」

"霜かれにのこりてわれは八重むくら なにはのうらのそこのみつくに"

「霜枯れの冬にのこる私は、幾重にも生い茂った雑草のようなもので、
  難波の水底の屑になってしまうのだなあ」

この道で良かったかなと自問する  原 洋志



  文禄伊丹の図

「有岡城の悲劇」

別所の叛乱は収まらず、三木城の攻防は続いている。

その最中、宇喜多直家の調略は成ったものの、事態は悪化した。

信長によって摂津国を任されていた荒木村重もまた、

叛旗を翻したのである。

深呼吸辛い話はみんな吐く  小豆沢歌子  

      

「信長は他国の者が恭順してくる時は、それなりの待遇を用意する。
         れいか
 だが一度、隷下となるや、牛馬のようにこき使う。

 そればかりか言うことを聞かぬ者に対しては、

   何の憐憫も与えない。

 尼子勝久、山中鹿之助を見よ。

 あれが信長の意に沿わぬ者の最期だ。

 尼子だけではない。赤松政範はどうであったか。

 政範が死しても尚、信長は許さず、城兵悉く首を刎ね、
    けんぞく
 一家眷属の果てまでも斬殺した。
             はりつけ
 子供は串刺し、女は磔。 

   その酷さはどうだ。誰の指図だ」


これが村重の言い分である。

無意識と意識を揺れる象の鼻  八上桐子   



官兵衛の考えは異なった。
                  おうさつ
確かに見せしめのために、鏖殺せざるを得なかったことはあった。

だがその時、秀吉は大粒の涙を溢れさせ、

念仏を唱えるようにして処置していた。

官兵衛はそうした秀吉をまのあたりにし、この男は本物だと思った。

半兵衛が「生涯を掛けるに足る器」と認めただけのことはある

と感じ入った。

鏖殺】=皆殺しにすること。

懐の深さにひかれついて行く  河村啓子

そんな秀吉の崇敬するのが秀吉ならば、

己の全身全霊をもって織田家に賭けてみよう。

信長の果たそうとしている国造りに貢献してみよう。

その国を見てみたい。

だから不本意ながらも、

多少の犠牲は止むを得ないと自身に言い聞かせたのだ。

しかし、有岡城の村重はそうではない。

「信長の本性は魔であり、それに従うのは悪の道だ」

と判断していた。

黒黴か忍者なのかがわからない  たむらあきこ    



「信長には血も涙もない。秀吉とて同様じゃ。

 信長が進めと命ずる道は、
         ききょく
 どこまで行っても枳棘の道じゃ。

 傷だらけにされても尚、

   信長の犬となって歩み続けてゆくつもりはない。

 わしは、有岡に篭城する」

枳棘】="枳棘は鸞鳳の棲む所に非ず" より居心地の悪い処の意味

ここに村重は有岡城篭城を宣言した。

天と地が揺れても正座崩さない  板野美子


     井 戸(有岡城跡

もと伊丹城は村重が入城して大改修を行う。

鉄道敷設の際に多くが取り壊された。

本丸には井戸や礎石、石垣、土塁が残る。


     石 垣         土 塁

「そして悲劇が・・・」

天正7年(1579)12月13日、

まず女房衆112人が尼崎近くの七松に引き出され、

或る者 は磔刑となり、或る者は鉄砲で射殺され、

また或る者は槍で刺殺された。
  かせさむらい
また、悴侍の妻子や女中ら388人

と女房付の若党124人の併せて

512人は、四軒の民家に押し込められて家ごと焼き殺された。
 
【悴侍】=雑役に当たる身分の低い侍。
【若党】=最下級の武士

さよならの予感的中してしまう  竹内ゆみこ

「村重家族の辞世」

"みがくべき心の月のくもらねば 光と共に西へこそ行け"
                          荒木たし
      
”露の身の消え残りても何かせん 南無阿弥陀仏にたすかりぞする
                      村重の娘(15歳
      
”世の中の憂き迷いをばかきすてて、弥陀の誓いに会うぞうれしき
                       おいち(たしの侍女)

残照に緑の縁を縫いつける  蟹口和枝



  岩佐又兵衛

もう一つの村重の没年説がある.。

天正7年、村重が有岡城を逃げ、尼崎にて自害したというのである。

「岩佐家譜」

岩佐家譜は岩佐又兵衛の没後八十年に書かれたものであり、

又兵衛を「浮世絵の祖」とする系譜である。

又兵衛は、有岡城が落城したときに脱出させられた

村重と、たしの子・荒木村直といわれている。

ここでは村重は、武将でなく、

絵画の道に生きた又兵衛の父親として、死去している。

淋しさの具象抽象描き分ける 森吉留里惠

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夜明けから三角波に飛び込んだ  森田律子



  伊丹荒木軍記

「荒木村重という人物」
 
荒木村重は摂津池田家・荒木高村の嫡男として池田で生まれる。
                     
織田信長に見初められ、秀吉や光秀、家康らを逐う武将として台頭し、

天正2年(1574)に200年以上も伊丹城に君臨した

前城主の伊丹親興を攻め、無血開城し伊丹城に入城する。

摂津一帯に支城郡を構え、

三十七万五千石の摂津の國の戦国大名となった。

この伊丹城は、村重によって大幅に修築され、

「有岡城」と改名される。

風ラララそちらは掃除用具いれ  筒井祥文

それから4年後の、天正6年10月、

信長が信頼を置いていた有岡城の村重が叛旗を翻した。

これまで村重は信長から重用され、摂津の支配を任されていた。

ところが村重は、三木城主、別所氏と呼応し、

毛利氏・大坂本願寺に与したのである。

さすがの信長もこれには驚いたらしい。

桃よりも傷つきやすくなっている  高橋かづき



最初は信長は、

「村重の母親を人質にすれば、この一件は水に流す」とした。

しかし、村重の気持ちは変わらなかった。

弱った信長は、一度は朝廷を通して、

本願寺との和睦を模索したほどである。

村重に謀反の翻意をさせるべく使者に送り込まれた明智光秀、

松井友閑、万見重元に説得され、釈明に安土城に向かったが、

途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から、

「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」

との進言を受け、伊丹に戻り城に籠もった。

のこぎりを挽けば暫定的な嘘  井上一筒

これを怒った信長は有岡城を包囲して兵糧攻めを敢行。

村重は、織田軍に対して徹底抗戦したが、

中川清秀と高山右近が信長方に寝返り、落城は必至の状況となった。

それでも村重は、

「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。

  これがうまくいかなければ、

  尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」

と家臣に覚悟を示した。

階段の手摺のあでやかな芝居  くんじろう



ところが、その村重が、天正7年(1579)9月 2日の夜、

武将として、あるまじき行動をとるのである。

妻・たし子女、それに多くの家臣女房衆を見捨て、

密かに有岡城 を脱出し、嫡男・村次尼崎城に逃亡してしまったのだ。

主を失った有岡城はその後、

信長の焼土作戦で西は武庫川の手前まで、

南は尼崎猪名寺まで焼け野原となり、

1年余りの籠城の末ついに、有岡城は陥落する。

一階おおきな音は何だろう  合田留美子

その後、村重は、支城である花隈城に移りそこで籠城する。

しかし、花隈城も池田恒興の軍勢が包囲する。

そこで、信長は尼崎城や花隈城の明け渡しを迫った。

ただし交換条件に、「家臣や妻子を助けてやる」という、

その信長の提案をも,村重は拒否した。

その上で、肝心の村重本人は花隈の籠城戦に敗れ、

各地を転々としながら、

結局、毛利を頼って海路尾道 へと落ち延びたとされる。

これを聞いた信長の怒りは、頂点に達し、みせしめという形で、

村重の妻子や家臣の家族達に向けられる。

家臣512名は尼崎の七つ松で焼き殺し、

家臣及び村重の妻など36人は、京都六條河原で斬首した。

石が浮き木の葉が沈むこの世情  柳瀬孝子



「見捨てられた妻子従者5百数十人の末路」(『信長公記』)

「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、

  見る人目もくれ心も消えて、感涙 押さえ難し。

  これを見る人は、二十日三十日の間は、

  その面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」

村重の妻子や重臣の家族達三十六人は、京に護送された。

そして12月16日、

見せしめのため大八車 に縛り付けられ、

京の市中を引き回された後、三条河原で首を刎ねられている。

風だけが住んでる町になりました  こはらとしこ
 
美貌で世に聞こえた村重の妻・たしの最期は潔く、髪を高々とい直し、

帯を締め直し、
武士の妻らしく従容とし て死についた

と信長記に記されている。

享年21歳であった。

次の辞世の歌が涙を誘う。

"消ゆる身は惜しむべきにもなきものを 母の思ひぞさはりとはなる"

"残しおくそのみどり子の心こそ 思ひやられて哀しかりけり"

男はみな嘘つき野の仏と話す  森中惠美子
  


南宗寺の茶室・実相庵

南宗寺は茶道や茶人と関係が深く、武野紹鴎・津田宗久、

千利休らが、ここで修行をしたという。

また沢庵和尚が住職をしたことでも有名。

南宗寺には家康の墓もあり、ミステリアスな伝承に興味が引かれる。

そして再び、村重が歴史の表舞台に登場するのは、

天正11年(1583)、信長が明智光秀の謀反に滅び、

その光秀が山崎で秀吉に捕まった後のこと。

天下人を目前にしていた秀吉に、士官を勧められる。

天下統一への足掛かりに秀吉は、

村重は貴重な人材と考えてのことである。

しかし村重はこれを丁重に断り、茶人として生きることを決心。

悲惨な処刑で幼い子供まで殺された村重は、

戦いの世を憂いてのことか、過去の過ちを恥じ、
          どうふん
剃髪して「荒木道糞」と名乗ったとされる。

後悔の数だけ雨が漏っている  木本朱夏

 
    荒木道薫
        道薫の茶碗

その後「道糞」の名は、秀吉に「畑の肥やしに」と言われ、
 どうくん
「道薫」という名をもらい、茶人として仕えたとされる。

道薫は文化人として能を良くし、多くの名物茶道具を持ち、

「利休七哲」の1人に数えられたほどの茶人になる。

この後、村重は堺で終焉を迎える。

享年51歳。

位牌は堺・南宋寺に保管されている。

投げ頃の小石ばかりが手に残る  笹倉良一

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非常口なのに扉が重すぎる  橋倉久美子



  三木城合戦図法界寺
             (各画像は拡大してご覧下さい)
秀吉は三木城の攻略に取り掛かる。

それを受けて官兵衛と半兵衛は三木城の周りに付け城を40ほど築き、

それを土塁でつなぎ、一切の兵糧を断つ戦法を考えた。

いわゆる「三木城の干殺し作戦」である。

現世でしましょ嗚咽も号泣も  西恵美子


    神吉合戦         

「裏切りの序章」

加古川城での毛利討伐の軍議により、別所氏と秀吉が決裂した際、
         しんき
神吉城城主・神吉頼定は、同じ赤松氏一族の別所氏についた。

このため、神吉城も秀吉と戦うこととなる。

周辺の野口城、志方城、高砂城とともに守りを固め、

頼定は三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。

しかし、秀吉は周囲から落とす作戦に切り替え、まず野口城が落城し、

天正6年(1578)6月、神吉合戦が始まった。

第三の扉がすでに開いている  立蔵信子  

    
  三木城合戦図

天正6年(1577)10月、信長軍が播磨に進出してくると、

志方城城主・櫛橋左京進も信長に属し秀吉によって播磨は平定された。

しかし翌6年2月、東播磨で最大勢力を誇る三木城城主・別所長治が、

突如として織田信長に反旗を翻すと、

東播磨のほとんどの豪族が三木氏に同調して織田信長に反旗を翻した。

このとき、東播磨にある志方城の櫛橋左京進も、

長治に同調して信長に反旗を翻した。

人の世はうまい煙がよく揺れる  柴田園江
 


   三木城合戦図

別所氏の謀叛により苦境に陥った秀吉は、信長を頼り指図を仰いだ。

これに応え、信長は、

「謀略武略もなしに長陣していても詮はなし。

  まずは陣を払い、軍勢を神吉・志方へ寄せて攻め破り、

  その上で別所が籠る三木の城を囲むべし」

と指示した。

この指示により神吉攻めが開始され、志方城には、

織田信雄の陣が7,500余騎をもって志方城を囲んだ。

長生きをしたくない人手を挙げて  清水すみれ 



  志方城落ちる

対する志方の城兵はわずかに1,000余り、

しかも季節は夏の盛りとなり、城内には疫病が発生し、

武器をとって戦える将兵も減少していた。

織田軍の包囲に、櫛橋勢は二度三度と城外に撃って出るも、

そのたびに大損害を受けるばかり、三木城からの援軍も得られず、

ついに天正7年8月、もはやこれまでと左京進は、人質を出し、

自分の命と引きかえに城兵の助命を願って降伏した。

モヤモヤとしぶしぶどこで手を繋ぐ  北原照子     



   かんかん井戸

この井戸は三木城本丸跡に残る井戸で、口径3.6m、深さは約25m。
石を投げ込むと「カンカン」と音がすることから、
「かんかん井戸」と呼ばれる。


神吉城の西の丸を守備する神吉藤太夫は、

織田の大軍に対し、神吉城を落城させなかった猛将・神吉頼定の叔父。

猛将頼定を織田軍が攻めあぐねていた際、

藤太夫は旧知だった荒木村重の調略によって甥を裏切り、

荒木軍を西の丸に引き入れて、落城のきっかけをつくった。

しかしその後、助命に奔走する村重の隙をみて、

櫛橋氏の志方城に逃亡。

再び敵対する姿勢を示したため、村重の立場が微妙になる。

琴線に触れたか過呼吸になった  上嶋幸雀 

「番組先取り」



この藤太夫の逃亡の件を弁解するため村重は、信長のもとを訪ね。

「藤太夫を降伏させたことが結果的に神吉城と志方城の、

  すみやかな開城につながった」

のだと主張。

村重の堂々とした申し開きを聞いた信長は、

村重を許し、本願寺攻めに励むよう言いつける。

信長は、新しい世をつくるには、

村重の力が不可欠だと考えてのことだった。

疑問符が刺さったままの喉仏  山野寿之        

ところがその直後、村重に不穏な動きがあることが発覚する。

信長は村重を信じようとしながらも、

明智光秀仙千代を有岡城に遣わして、噂の真意を確かめさせた。

光秀と仙千代に問いただされた村重は、言い逃れで切り抜けたあと、

疑いを晴らすために信長に弁解しに行こうとすると、

村重配下にあった茨木城の中川清秀が村重を制止する。

食卓と仏で分ける黄水仙  菱木 誠

実は、膠着状態が続く石山戦線で、織田軍の隙をついて、

ひそかに兵糧を運ぶ二人の裏切り者がいた。

その二人が荷揚げしているところを見つかり、

織田の兵を斬って逃走したが、やがて織田方に捕われた。

その捕らわれた裏切り者は清秀の家中のものだった。

心ならずも家臣が本願寺と通じていたということになり、

この状況で村重が今、

信長に弁明をしても、手遅れ状態となってしまっていた。

がんばりたくないのにゴング鳴らされる  高橋謡々



この段階で、平井山の秀吉の本陣に村重謀反の噂が届いていた。

村重が毛利方に寝返れば、中川清秀、高槻城の高山右近もこれに従い、

摂津全域が敵となる恐れがあった。

そうなると播磨の羽柴軍は東西から毛利勢に挟まれることになる。

これを受けて官兵衛は、村重に真意を確かめに行こうとする。

が、それを秀吉が制した。

その頃、村重のもとに、策士・安国寺恵瓊から書状が届く・・・。

こうして村重が信長に造反する条件が揃っていくのである。

自転して私ひとりの灯をともす  嶋澤喜八郎

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 月光で影を洗ってから眠る  木本朱夏

「戦国時代の軍師」



安国寺恵瓊 (1539-1600)
えけい
恵瓊は毛利家の外交僧。

つまり対外交渉の任を務めた禅僧として、秀吉の窓口となった。

本能寺の変で信長が横死することを予言。

その鋭い眼力で外交手腕を発揮し、秀吉にも信頼されて、

伊予6万石の大名に抜擢されたともいわれ、

九州征伐や朝鮮の役にも出陣する。

政治家や外交官の顔を持つ宗教家として戦国の世を生き抜いた。

天正元年(1573信長が将軍・足利義昭を京から追放すると、

毛利輝元は自家に迷惑が及ぶことを避けるため、

恵瓊に講和の斡旋を命じた。

恵瓊は、輝元の使者として奔走し、信長配下の秀吉と面会する。

その後、毛利家家臣へ送った手紙に、

「信長の世は3年や5年は保つし、

  来年は公家の位階を得もしようが、

  しかし、派手派手しく仰向けにひっくり返るように見えます。

  そして、秀吉はなかなか出来る人物ではないかと考えています」

と記し、10年後の信長を予言し、秀吉の才能を見抜いていた。

優れた交渉力と観察眼で後世に名を残した恵瓊だったが、

「関が原の戦い」で捕われ六条河原で斬首された。

かき混ぜておく糖床の私小説  本多洋子  

  

山本勘助 (1493-1561)

10年もの長きに渡って遍歴を続けた勘助の兵法家としての名声が、

やがて武田家の重臣に届き、間もなく信玄の耳に入る。

信玄は、築城術や諸国の情勢について勘助と語り、

「呪術や占いにも精通した知識の深さ」に感心して厚く信頼。

300貫という破格の待遇で迎えた。

天文19年(1550)

勘助は、北信濃の豪族・村上義清「戸石城攻め」に従軍する。

苦戦に陥ったが、勘助は一計を案じて、

敵軍を南へ向けさせる作戦を、信玄に進言した。

それは武田軍が太陽を背負う陣形にすることで、

相手方の目を眩ませるというもの。

この作戦が奏功して劣勢を覆し、見事に村上軍を打ち破った。

そして「第4次川中島の戦い」では「キツツキの戦法」を立案。

この戦法は、軍を二分させ一隊が上杉軍を背後から襲い、

狩り出されたところをもう一隊が挟み撃ちにすうるというもので、

キツツキが口ばしで木を叩き、

出てきた虫を食べる様子にたとえた戦術だった。

しかし謙信はこの戦法をいち早く察知、実現されず、

かつ勘助はこの戦で討ち死にしたが、奇策として後世に語り継がれる。

大甕の底に信玄の股引き  井上一筒



小早川隆景 (1533-1597)

隆景は、類稀な計略の才で西国の覇者となった毛利元就の三男。

元就には9人の男子がいたが、

その資質を最も色濃く受け継いだのが隆景である。

事実外交手腕に長け、秀吉の心を巧みに掴む切れ者だった。

軍を率いて戦場に出れば、勇猛果敢に敵陣を駆け抜けてみせた。

幼少期に諸国をたらい回しにされた者の処世術か、

隆景は、「世の趨勢を見通す眼力」も備えていた。

毛利家は、秀吉に臣従する道を選ぶ。

隆景と官兵衛は、四国、九州、小田原各征伐にも揃って出征。

官兵衛は、「私に比べ、小早川殿の判断には狂いがない」

と評したという。

年齢は隆景が一回り上だが、

主君の懐刀という同じ立場にある者同士、器量を認め合う仲だった。

また、小田原城攻略の長期化にしびれを切らし、

大坂城へ帰ろうとする秀吉に逗留を促したのが隆景だった。

やがて北条方は戦意喪失し、降伏を申し出る。

「この殿は深い思慮をもって平穏裡に国を治め、

  日本では珍しいことだが、

  伊予の国には騒動も叛反もない」

と宣教師のフロイスが著書「日本史」に書いている。

夕焼けに染まったほうが素顔です  清水すみれ



竹中半兵衛 (1544-1579)

半兵衛は、戦国時代屈指の軍師で、秀吉の参謀として活躍。

官兵衛とともに「二兵衛」と称された。

また三国志の軍師・諸葛孔明の再来とも言われた。

「長篠の戦い」で武田勢の一部が向って左に移動した。

秀吉は、回りこまれるのを警戒したが、

半兵衛は織田勢の陣に穴を開けるための「おとり」だと判断。

秀吉は迎撃のため兵を動かしたが、

半兵衛は手勢と共に持ち場を離れなかった。

すると武田勢は元の位置に戻って、秀吉不在の地に攻め込んだ。

半兵衛が守っている間に秀吉は慌てて帰還したという。

半兵衛は純粋に勝つことを追求。

秀吉が天下統一が出来たのは、半兵衛と官兵衛の力だと言われている。

二人は時にライバルとして対立しながらも秀吉に尽力したが、

三木城攻略中に半兵衛が病死。

享年36歳。

遺された采配や軍配団扇を官兵衛が譲り受けた。

なあ時計あまりに律義すぎないか  佐藤美はる      



真田昌幸 (1547-1611)

昌幸は、父・幸隆と子・幸村とあわせて「真田三代」とうたわれた。

信玄からは「我が両眼の如し」と評されて、

「小信玄」「信玄の懐刀」と称される。

武田氏滅亡後に自立し、後に秀吉に臣従。

「上田合戦」で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、

とくに関が原の戦いの前哨戦「第二次上田合戦」では、

徳川秀忠率いる約4万の大軍をわずか2千の軍勢で上田城に足止めし、

秀忠軍を関が原に遅参させることに成功している。

ブラック珈琲みんなアドリブだった頃  菊池京



真田幸村 (1567-1615)

幸村は通称で、本名は信繁。

名軍師である祖父・幸隆、父・昌幸の血を受け継ぐ猛将だった。

関が原の戦いで兄・信之と袂を分かち、

昌幸とともに西軍につくことを決意。

秀忠を「上田決戦」で足止めした逸話はよく知られているが、

しかし、西軍は破れ、

幸村は14年もの幽閉生活を強いられることになる。

幸村が軍師としての活躍を見せたのは、

晩年になり「大坂の陣」においてだった。

慶長19年(1614)家康は全国の大名に豊臣討伐令を下した。

それに対して幸村は、大坂城を固守しながら、

敵に甚大な損害を与える籠城策「真田丸」を構築する。

一説には、この「冬の陣」における東軍の大半の犠牲者が、

真田丸から出たとも言われるほどの成果を上げた。

そして決戦の「夏の陣」

大坂城の堀は埋められたために、野外で迎撃する方針に変更。

幸村は本陣へ突入するして家康の命を危うくするが、

あと一歩のところで失敗に終わり討ち死にする。

蒼い光少し放って待っている  安土理恵                



直江兼続 (1560-1619)

兼続上杉景勝のもとで辣腕をふるい家康にまでも反旗を翻した。

彼は優れた武将であると同時に、詩歌や書物を好んだ文人であり、

さらに民政にも並々ならぬ才を発揮。

まさに「知勇兼備の人」だった。

上杉家は西軍敗北の報を受け、撤退を余儀なくされる。

しかし兼続は冷静に指揮をとり、

被害を最小限に抑えて次の手を講じた。

家康に歯向かった上杉家は、

これまでの4分の1となる米沢30万石に減封されたが、

改易には至らず減封だけで済んだ背景には、

兼続の政治工作があったという。

ほとんどの家臣は、上杉家を去らずに米沢へと移った。

兼続は下級武士に今で言うところの仮設住宅を与え、

着々と町づくりを進めた。

米沢城の改修、城下の整備、治水工事、農業指導など、

多岐にわたる都市計画を指揮。

後に江戸時代の名君・上杉鷹山は、藩政改革の折に、

兼続の政策をお手本にしたと言われている。

兼続は一国の大名に引けをとらない知勇を持ちながら、

上杉景勝を生涯ただ一人の君主とし、

政治、経済、軍事すべての面で支え、己の人生を捧げた。

天よ地よせめても心して動け  徳山みつこ

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