飼主に咬みつく犬を二匹飼う 井上一筒
黒田氏家臣連署起請文
官兵衛が有岡城に幽閉された際、家臣一同が団結を示すために、
官兵衛の妻である光の方に差し出した連署起請文。
「官兵衛幽閉」-(小寺政職の謀反)
織田方へ叛旗を翻す
荒木村重説得に最後に派遣されたのは、
官兵衛であった。
従来なら村重ごとき、
信長からみれば一捻りで潰せる相手である。
そんな相手を敢えて、説得の方向に決意をしたわけが官兵衛にあった。
『黒田家譜』にはこうある。
そもそも主君の
小寺政職が信長に叛旗を翻す
との噂を聞きつけた官兵衛が、翻意させるため、
御着城へ向ったのが始まりであった。
政職は、
「村重が思い止まるならば、謀反を思い止まる」 と、
官兵衛に答えたとある。
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政職のその答えに官兵衛は戦慄した。
村重が叛意を撤回しない限り、小寺家は
毛利方に呼応することになる。
しかし、それは間違いなく滅亡への序曲となる。
半兵衛の論を全面的に受け入れれば、
「もはや小寺家は見限り、織田家の家臣として生きていく」
という決断をするべきだったが、そこまでは非情になれない。
小寺姓を名乗っている以上、自分はその一族であり、
主家のために身を賭さなければならない。
官兵衛は、そういう男だった。
うたかたをうたかたのまま呑む器 岡田陽一
「乱世が終わり、天下が安らげば、棘も枳も枯れる。
それまでの辛抱なのだ・・・わしが荒木殿の説得に行く」
かくして天正6年秋、官兵衛は村重の説得にあたるべく、
単身、摂津有岡城へと向かっていった。
驚いたことにこの時点で政職は、村重に密使を送り、
「説得に向った官兵衛を暗殺するよう」に依頼していた。
政職と村重は、すでに繋がっていたのである。
官兵衛は、そのことをまったく知らなかった。
そんなところへ官兵衛は、のこのこと赴き、
村重に捕らえられ
「幽閉」されたのである。
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官兵衛の土牢(NHKのセット) 岡田官兵衛入牢
官兵衛が幽閉された土牢がどんなものであったかは不明だが、
大正時代に著された
『黒田如水伝』には、
「有岡城西北隅。背後に溜池。三方が竹薮。
一日中陽は差さず、湿気が強い」
とある。
そんな土牢に閉じ込められ、
主君に裏切られることを悟った官兵衛の心境は、
どのようなものだったろうか。
しかも、政職の官兵衛の暗殺要請もある。
普通であれば主君への怒りや恨み、
展開を読み誤ったことへの自嘲の念が湧くところである。
常人なら絶望しかない状況である。
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しかし官兵衛の真骨頂は、馬鹿正直の言葉がつく。
「たとえどうなろうと、俺は主君を裏切るまい」
という強烈な信条である。
裏切りが日常茶飯事の世にあって、
官兵衛は受けた恩義を忘れず、義理堅さを通す男であった。
また牢内で官兵衛は、命を奪われるとは考えていなかった。
それは村重が、義を重んじる男であることを知っていたからだ。
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ただ、有岡城に赴いたまま戻らない官兵衛を、
織田方が村重に通じたと勘違いする懸念があった。
そうなれば織田方に人質に出している
松寿丸の身に危険が及ぶだろう。
実際、官兵衛の内通を疑った信長は、
「松寿丸を殺せ」秀吉に命じている。
こればかりはどうしようもない。
秀吉がうまく対処してくれることを祈るしかなかった。
少しの疑心暗鬼もあっただろうが、
秀吉は結局、信長の命令よりも、官兵衛への信義を重んじ、
半兵衛の提案を受け密かに匿うことを許している。
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「小寺政職の謀反の時期」
天正6年
(1578)10月2日、
秀吉は
小寺政職に対して、
別所氏が知行していた神東郡のうち1250石を知行として
与えることを、約束している。
この時点では、政職は
信長に従っていた。
(小寺家文書)
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同年11月、
小早川隆景は粟屋元種に書状を送っている。
「御着の小寺政職やそのほかの国家が味方になった」
と言う内容が記されている。
(毛利家文書)
小寺氏が知行地を与えられてから、僅か一ヶ月余りでの出来事である。
(ただ赤松氏や宇喜多氏はこれに応じることがなかった)
すなわち政職が信長に叛旗を翻したのは、
天正6年10月初旬から11月初旬にかけてということになる。
有岡城が落城したのは、天正7年10月。
毛利方に与した小寺氏は、三木合戦後に滅亡した。
のちに政職の子孫は、福岡藩主となった黒田家に召抱えられている。
まことに皮肉な結果となったのである。
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【蛇足】
幽閉から4年後、官兵衛が、荒木村重に送った書簡。
書簡は「官兵衛に村重に対する遺恨などなく、
また茶人となった村重が政治に関与し、
秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする
当時の2人の関係性を示している」
と神戸女子大の今井修平教授は分析している。
また、秀吉のことを「姫路へのお供をされるのであれば、
この地へお出でになるだろうと存じていたところ、
お出でになられず、とても残念」
と再会できなかったことを惜しむ内容も綴られている。(兵庫県伊丹市立博物館)[5回]