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川柳的逍遥 人の世の一家言
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仇討は済んだデンデンムシと鹿  井上一筒



本丸井戸(かんかん井戸)

この井戸は三木城本丸跡に残る唯一の井戸で、

口径3・6m、深さ約25mを測る大きなもの。

石を投げ込むと「カンカン」と音がすることから、

「かんかん井戸」とも呼ばれ、抜け道もあったと伝わる。

城内にある雲龍寺には、この井戸から出土したと伝えられる、
            あぶみ
城主・別所氏愛用の鐙が大切に保存されている。

さざなみが立つとニンニク二かけら  山本昌乃



秀吉、半兵衛を見舞う

「播磨平定」

竹中半兵衛がこの世を去ってから5ヶ月後、

荒木村重
が単身城を捨てて逃走したことで、

有岡城は落城して官兵衛は救い出された。

この頃になると、三木城内の食糧事情はかなり悪化。

馬まで食べてしまっても、餓死者は後を絶たなかった。

そして天正8年(1580)正月、秀吉は三木城総攻撃を指示した。

もはやこれ以上の抵抗は無意味と悟った城主の別所長治は、

自分と弟・友之、強硬な反織田派であった叔父の賀相の切腹を

引き換えに、城兵の助命を願いでた。

「今はただうらみもあらじ諸人の いのちにかわる我が身とおもへば」
                          〔別所長治辞世の句〕
雑念を綯えば悟りの色になる  今井弘之

首を三つ差し出す条件として三木城を開城。

約2年にわたる三木籠城戦に終止符が打たれた。

これにより西播磨の平定がようやく成ったのである。

秀吉は三木城を陥落させた後、4月に弟の秀長を但馬に派遣。

この地の毛利方武将を討伐させた。

東への境界を織田方に付いた宇喜多直家に抑えられている毛利輝元は、

その宇喜多領に侵入を繰り返すが、

本格的な戦闘へと発展させる意思は乏しかった。

その間に秀吉は西播磨も平定してしまったのだ。

そして次の目標を因幡攻略に定めた。

その向う先は、山名豊国が守る鳥取城である。

滲む汗闇が途切れることはない  上田 仁



長政(松寿丸)と重門(半兵衛の子)の墓

「松寿丸」

永禄11年(1568)12月3日、黒田長政官兵衛の嫡男として、

播磨姫路城に生まれる。

幼名は松寿丸。

天正5年(1577)から信長への人質として秀吉に預けられ、

その居城・長浜城で秀吉夫婦に実子のように可愛がられて過ごした。

天正6年、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻した時、

父の官兵衛は、

親友でもあった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込んだ。

しかし、村重の意思は頑なで、

官兵衛はそのまま入牢させられてしまう。

私の影にスポッと杭を抜いた跡  八木侑子



この時、いつまで経っても戻らぬ官兵衛を、

村重方に寝返ったと見なした信長は、「松寿丸を処刑せよ」と、

秀吉に命じた。

ところが官兵衛の親友の半兵衛が密かに自身の館・岩手山城に匿い、

信長に処刑したと虚偽の報告をするという機転を効かせた。

これにより、松寿丸はからくも一命を助けられている。

やがて有岡城の陥落後、救出された父と共に姫路へ帰郷した。


プラシーボを知ってしまった月夜茸  桜 風子
 
  
  竹中半兵衛の書状     松寿と涙の文字が見える
                      
竹中陣屋跡の東南方向約1kmのところで、現在は
ごみょう
五明稲荷神社になっているが、

かっては家臣の屋敷があったこの場所に、

半兵衛は、信長より斬首の命が下りていた松寿丸を匿った。

半兵衛の書状には「松寿丸から便りが来たことで涙した」

とつづられている。

匿ってくれたお礼として松寿丸が植えたと伝わる銀杏が、

今も残る。

それからおよそ20年後、松寿丸は黒田長政と名乗り、

関ケ原に出陣。

共に陣を張り戦ったのは半兵衛の子・重門であった。。

官兵衛と半兵衛の絆は、息子たちにも受け継がれていったのである。

七色でまわる回想糸車  三村一子

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寝転んで空を見ているだけの旅  田村ひろ子  



         半兵衛の墓

三木城攻防戦では、秀吉は三木盆地を一望できる平井山に

本陣を設けて、「兵糧攻め」という長期戦を展開し、

初めての茶会も開催した。

戦いが佳境に入ったころ、以前から胸を病んでいた竹中半兵衛は、

秀吉のすすめで京都に移って療養する。

しかし、はかばかしく進展しない戦況を案じて戦場へ戻り、

戦いのさなかに平井山の陣中で病死する。

官兵衛が幽閉の地下牢から救出されるわずか5ヶ月前のことである。

現在、秀吉の本陣があった平井山の山頂には。

「三木合戦 羽柴秀吉 平井本陣跡」の説明板があり、

その南西側の山麓のブドウ畑のなかに白い練り塀に囲まれて、

「半兵衛の墓」がある。

影踏みは終わらせようか友の墓  くんじろう

「官兵衛療養」

有岡城の劣悪な地下牢に一年以上も押し込められ、

半死半生で救出された官兵衛は、髪は抜け落ち、皮膚は干からび、

足腰はこわばったままという変わり果てた姿になっていた。

満身創痍となった官兵衛は「有馬温泉」でその傷を癒した。

そこで、秀吉と半兵衛の命がけの計らいで、

息子の松寿丸が無事であることを知る。

しかしその恩人の半兵衛は、

有岡城が落城する半年ほど前に世をさっていた。

 美しい会釈ですっと席を立つ  山本昌乃

官兵衛は半兵衛に深く感謝し、その死を悼みながら、

「この世には裏切る人間がいる。一方、信じられる人間もいる」

ことを確信し、

「自分は人を裏切ることはすまい」

という思いを新たにした。

その後、官兵衛は姫路城へ帰り、一族と数日過ごした後、

湯治の効果で体力は回復したが、後遺症の残る片足を引き摺りつつ、

秀吉の元へ向った。

一八〇度の転身をして返り咲く  清水久美子

そこで秀吉は、

「命を省みず、敵の城に乗り込むことは、誠に忠義の到りである。

   獄中の生活は苦しかっただろうが、

   こうして再会できた事は嬉しい限りである」

と涙を流して喜んだ。

そのまま官兵衛は秀吉の参謀役に復帰する。

一方、官兵衛の詳細を聞き知った信長は、

「人質の松寿丸を処刑したことは後悔の至りだ。

   官兵衛に合わせる顔が無い」

と後悔した。

しかし、半兵衛の機転で、松寿丸の存命のことを聞くと

珍しく信長は半兵衛に感謝し、安堵の顔をみせたという。

満面の笑顔よかったなと思う  河村啓子



  有馬温泉ーねねの橋    太閤の湯船の遺構

「有馬温泉の歴史」
                       おおなむちのみこと すくなひこなのみこと
有馬温泉の歴史は古く、神代の昔、大己貴命少彦名命の二神が、

三羽の傷ついた烏が、湧き出した泉で傷を癒しているのを見つけて、

温泉を発見したのが始まりだといわれる。
          じょめい
【日本書紀】舒明天皇「631年に孝徳天皇が647年に御幸した」

との記述があることから、日本最古の温泉といわれている。

また有馬温泉が世に広く知られるようになったのは、

奈良時代に行基菩薩が温泉寺を建立し、

また鎌倉時代には、仁西上人が十二の宿坊を建ててからといわれる。



さらに秀吉が、湯治のためにたびたび有馬を訪れ、

戦さの傷を癒すと同時に、

戦乱や大火で衰退した有馬の改修を行い、湯山御殿を建てた。

江戸時代になってからは、その効能の評判により、

全国から多くの人々が訪れるようになる。

白浜温泉、道後温泉と並ぶ、日本三古泉のひとつに数えられる

湯山御殿=太閤の湯殿館に湯船の遺構が現存する。

的外し人間らしさ取り戻す  合田瑠美子

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背開きにされても叫ぶバンザイと  河村啓子



    官兵衛

おなじみのシャッポ
はこの時期から着用したものか。

「官兵衛生還」

信長荒木村重の有岡城を包囲すると、

音沙汰のない官兵衛の謀反を確信し、

人質として預かっていた官兵衛の嫡男・松寿丸秀吉に命じた。

それを知った半兵衛は、松寿丸の処分を買ってでる。

半兵衛はひそかに松寿丸を自分の館に匿い、

信長に偽の首を差し出す策を講じたのである。

そこから半年ほど後、織田方に包囲された有岡城に動きが出た。

官兵衛が幽閉されて約一年半が過ぎた時だった。

村重が、夜中に手勢を数人連れ尼崎方面へ逃げ出したのだ。

まっ先に鳥のまぶたにふれる夜  八上桐子



一方、劣悪な土牢で一人壁に向かいながら、

官兵衛はどんなことに思いを巡らせていたのだろうか。

黒田家が播磨の土豪・小寺氏に見出され、重用したのは、

財力が足場であった。

そして小寺家家老となった官兵衛が次に目指したのは、

信長の「天下布武事業」に感動し、

播磨の土豪から天下に名を馳せることであった

官兵衛が信長に注目したのは、織田の勢いだけではない。

諸国の大名が地域のせめぎあいに終始する中、

信長は天下というものを見据えていた。

官兵衛は信長の理念にきづき、

天下布武事業に参画することを決めたのである。

縄文の光りを溜める火焔土器  ふじのひろし  



          有岡城跡

この幽閉という思いもおよらぬ出来事で、官兵衛は、

「これまで播磨のために尽力してきたことが水泡に帰し、

   これで評価も落ち、戦国から見捨てられてしまうだろう」

と思ったこともある。

幽囚の身の不甲斐なさ、もどかしさにも苦しんだ。

しかし、官兵衛の鋼の信念はそんな柔なものではなかった。

負の可能性を切り捨て、自分の信じるところに突き進む、

強靭で楽天的で挫折の言葉をもたない人である。

「おれはこんなところでへたばる男ではない。

   牢から出た時にたとえだれも自分を顧みなくても、

   もう一度天下のために働いてみせる。

   秀吉を支える役割でもよい。

   力を存分に振る舞台は、必ずあるはずだ」

これが官兵衛なのである。

タロットは逆位置正座崩さない  栃尾泰子     



一方、牢の外に咲く藤の花の姿に、慰められる話も伝わる。

こころに去来するさまざまな思いに苦しむ官兵衛を、

花の生命力が勇気づけてくれた。

儚くもあり、力強くもある生命というものに、

深く思いが至った瞬間でもあった。

そして天正7年(1579)10月、

有岡城落城とともに官兵衛は救出された。

湿った牢内で一年を過ごし、官兵衛は足の関節が曲がらなくなり、

皮膚病で頭髪が抜け落ちたその姿を見て、秀吉は号泣した。

そして官兵衛の意志を貫いたことを賞賛してねぎらった。

失敗の末に卵が立っている  松本としこ



この粒さな情景に官兵衛の疑いは晴れた。

しかしその一方で、村重に見捨てられ、

城に取り残されただしたちは、

逃げ続ける村重への見せしめとして、

一族もろとも信長によって処刑されてしまう。

官兵衛は牢を出た後、

色々と便宜を図ってくれた門番の加藤又左衛門に謝して、

その子供を引き取り、黒田一成と名乗らせて、

息子・長政の弟のように育てている。

あたたかい人には開く自動ドア  本多洋子

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ときめいてみたらと春風の誘い  立蔵信子

「飛鳥駅から橘寺へ」-遊歩道を行く



飛鳥駅

古代の町を分けいる電車道。(画面をクリックしてご覧下さい)

スルッと関西今日の花見はやまと迄  小山紀乃

電車賃残す男の遊び方  福尾圭司



駅前案内

飛鳥人の館、お姉さんが二人。とても親切でした。

もも色を塗ってはしゃいでいる小窓  阪本高士

まなざしで僕のハートが鼓動する  まさじ



駅前の風景

史跡でない石像がお迎え。遊歩道の始まりです。

結び目を解いて遊ぶ古希の春  中山恵美子

六法の狭間で遊ぶ好奇心  細田貴子



道標

道標、右に行けば飛鳥美人に会えるのですが。橘寺は直進に。

春ですよ飛鳥美人が唄いだす  テイ子

いい言葉すぐに浮かんでくる桜  佐藤辰雄



吉備姫王の墓地
        きびひめのおおきみ
春の景色を追えば、吉備姫王が待っていた。

花暦余白に夢を遊ばせる  山田順啓

切り札が胸三寸で待機する  了味茶助



姫を守る像

吉備姫の鳥居の中には案内役のように猿や法師などの石像がある。

白魚の手には持てない鋤や鍬  邦子

ころころと笑って毒を包みこむ  れいこ



吉備姫王の墓 
吉備姫は飛鳥時代の日本の皇族。
茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子)の妃となり、
宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けた。

鼻声の毒に痺れる心地よさ  上山堅坊

ときめいて女は蝶に華になる  古川洋子



欽明天皇の墓地

吉備姫は欽明天皇の皇子・桜井皇子の王女である。

トランプも百人一首も連れて逝く  瀬渡良子

子羊をタイムカードで管理する  大西將文



鬼の雪隠

この石から測ると鬼の背丈は10メートル以上あると思われる。

鬼平を閉じて缶ビールを開ける  菱木 誠

切り札を握って最前列に鬼  阪本高士



鬼の爼

鬼の爼・鬼の雪隠
言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、
通行人を騙してとらえ食べたと云われている。
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという。
底石(俎)には多数の穴が開けられており、
割り取ろうとした形跡がある。

毒に毒適材適所ホーホケキョ  柴田園江

女ごころわかっています麦畑  西澤知子



亀石

亀に似ている石といわれるが、
顔が三角形また目が上に飛び出していることなどから
亀というよりはカエルと見る人が多い。

ことさらに嘘美しい花の下  れいこ

人生の伴侶見つけたおにごっこ  五味尚子



石畳を行けば橘寺

案内石には聖徳太子誕生のゆかりとある。

文字の毒鼻を切られた泣きっ面  田頭良子

覚えあるあの口笛が呼んでいる  田頭良子



橘寺

橘寺は聖徳太子の生誕地に創建された太子創建七寺のうちの一つ。
境内に「二面石」「橘寺型石灯篭」などがある。
聖徳太子は推古天皇の摂政になって、
十七条憲法と冠位十二階を定め、
遣隋使を派遣して、中国の隋の皇帝に
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
    恙無きや」
という手紙を送って、対等な外交を行った。
四天王寺や法隆寺を建てて、仏教を大切にした。

わたくしの心模様に添う桜  大内朝子

戻れない時と遊んでいるのです  立蔵信子



二面石右善面・左悪面と呼ばれている)

聖徳太子の裏面
旧一万円札の肖像画は聖徳太子ではないとされている。
かぶっている冠、着ている服、持っている笏 などは、
その時代に存在しなかったものと検証されているからである。
顎ヒゲについても、肖像画とは、別人が描いたものと見られている。
また一度に10人の人の言葉を聞き分けたという話も、
太子の評価を上げるための作為的なものであったといわれる。

保護色を被って会話するのです  武智三成

スペードのエースが呼び出した邪神  井上一筒



帰りのバスまでの道

石碑を一瞥して帰路につく。

イエローカード二枚残して旅終える  松本柾子

甘酒に酔い奈良漬けで寝てしまう  井上一筒

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飼主に咬みつく犬を二匹飼う  井上一筒


 黒田氏家臣連署起請文

官兵衛が有岡城に幽閉された際、家臣一同が団結を示すために、

官兵衛の妻である光の方に差し出した連署起請文。

「官兵衛幽閉」-(小寺政職の謀反)

織田方へ叛旗を翻す荒木村重説得に最後に派遣されたのは、

官兵衛であった。

従来なら村重ごとき、信長からみれば一捻りで潰せる相手である。

そんな相手を敢えて、説得の方向に決意をしたわけが官兵衛にあった。

『黒田家譜』にはこうある。

そもそも主君の小寺政職が信長に叛旗を翻す

との噂を聞きつけた官兵衛が、翻意させるため、

御着城へ向ったのが始まりであった。

政職は、「村重が思い止まるならば、謀反を思い止まる」 と、

官兵衛に答えたとある。

蛇口からポトポト漏れている答え  阪部文子



政職のその答えに官兵衛は戦慄した。

村重が叛意を撤回しない限り、小寺家は毛利方に呼応することになる。

しかし、それは間違いなく滅亡への序曲となる。

半兵衛の論を全面的に受け入れれば、

「もはや小寺家は見限り、織田家の家臣として生きていく」

という決断をするべきだったが、そこまでは非情になれない。

小寺姓を名乗っている以上、自分はその一族であり、

主家のために身を賭さなければならない。

官兵衛は、そういう男だった。

うたかたをうたかたのまま呑む器  岡田陽一



「乱世が終わり、天下が安らげば、棘も枳も枯れる。

 それまでの辛抱なのだ・・・わしが荒木殿の説得に行く」

かくして天正6年秋、官兵衛は村重の説得にあたるべく、

単身、摂津有岡城へと向かっていった。

驚いたことにこの時点で政職は、村重に密使を送り、

「説得に向った官兵衛を暗殺するよう」に依頼していた。

政職と村重は、すでに繋がっていたのである。

官兵衛は、そのことをまったく知らなかった。

そんなところへ官兵衛は、のこのこと赴き、

村重に捕らえられ「幽閉」されたのである。

器から戦の匂い手の汚れ  桑名知華子



官兵衛の土牢(NHKのセット) 岡田官兵衛入牢

官兵衛が幽閉された土牢がどんなものであったかは不明だが、

大正時代に著された『黒田如水伝』には、

「有岡城西北隅。背後に溜池。三方が竹薮。

   一日中陽は差さず、湿気が強い」

とある。

そんな土牢に閉じ込められ、

主君に裏切られることを悟った官兵衛の心境は、

どのようなものだったろうか。

しかも、政職の官兵衛の暗殺要請もある。

普通であれば主君への怒りや恨み、

展開を読み誤ったことへの自嘲の念が湧くところである。

常人なら絶望しかない状況である。

身のうちの風穴だけに風がある  荒井慶子

しかし官兵衛の真骨頂は、馬鹿正直の言葉がつく。

「たとえどうなろうと、俺は主君を裏切るまい」

という強烈な信条である。

裏切りが日常茶飯事の世にあって、

官兵衛は受けた恩義を忘れず、義理堅さを通す男であった。

また牢内で官兵衛は、命を奪われるとは考えていなかった。

それは村重が、義を重んじる男であることを知っていたからだ。

蓮根の穴から浄土みえますか  田中蛙鳴



ただ、有岡城に赴いたまま戻らない官兵衛を、

織田方が村重に通じたと勘違いする懸念があった。

そうなれば織田方に人質に出している松寿丸の身に危険が及ぶだろう。

実際、官兵衛の内通を疑った信長は、

「松寿丸を殺せ」秀吉に命じている。

こればかりはどうしようもない。

秀吉がうまく対処してくれることを祈るしかなかった。

少しの疑心暗鬼もあっただろうが、

秀吉は結局、信長の命令よりも、官兵衛への信義を重んじ、

半兵衛の提案を受け密かに匿うことを許している。

消しゴムがこんなに欲しい夜がある  田中博造

「小寺政職の謀反の時期」

天正6年(1578)10月2日、秀吉小寺政職に対して、

別所氏が知行していた神東郡のうち1250石を知行として

与えることを、約束している。

この時点では、政職は信長に従っていた。(小寺家文書)
                  あわやもとたね
同年11月、小早川隆景粟屋元種に書状を送っている。

「御着の小寺政職やそのほかの国家が味方になった」

 と言う内容が記されている。(毛利家文書)

小寺氏が知行地を与えられてから、僅か一ヶ月余りでの出来事である。

(ただ赤松氏や宇喜多氏はこれに応じることがなかった)

すなわち政職が信長に叛旗を翻したのは、

天正6年10月初旬から11月初旬にかけてということになる。

有岡城が落城したのは、天正7年10月。

毛利方に与した小寺氏は、三木合戦後に滅亡した。

のちに政職の子孫は、福岡藩主となった黒田家に召抱えられている。

まことに皮肉な結果となったのである。

鍵穴を通って「バカモン」が消えた  桑原伸吉

【蛇足】



幽閉から4年後、官兵衛が、荒木村重に送った書簡。
書簡は「官兵衛に村重に対する遺恨などなく、
また茶人となった村重が政治に関与し、
秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする
当時の2人の関係性を示している」

と神戸女子大の今井修平教授は分析している。
また、秀吉のことを「姫路へのお供をされるのであれば、
この地へお出でになるだろうと存じていたところ、
お出でになられず、とても残念」

と再会できなかったことを惜しむ内容も綴られている。(兵庫県伊丹市立博物館)

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