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川柳的逍遥 人の世の一家言
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わたくしの気球を掲げむ冬青空  大西泰世

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【日露戦争-日本はなぜ勝てたのか?ー②】

「司令官・クロパトキンという男」  

第三軍が旅順で、死闘を繰り返している間、

第一軍と第二軍は、積極的には戦えない状況にあった。

端的にいって砲弾が足りなかったのである。

砲弾の蓄積を待つしかなかった。

「遼陽会戦」における日本の勝利に対して、

クロパトキンは、「戦略的退却」と言っていたのであるが、

それも必ずしも、強がりとばかりは言えなかった。

何時からか夢は祈りになっていた  牧渕富喜子

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奉天駅頭で麾下の将軍たちの敬礼を受けるロシア軍総帥

≪ 右から5人目がクロパトキン ≫

10月に入って、ロシア軍は、攻撃のための南下を開始したのだ。

この時の日本軍は、児玉源太郎は、頭脳が働かず迷いに迷ったが、ついには、

「いつでも攻撃に転じうる態勢を取るよう」に命じた。

ここで何故か、ロシア軍の南下がストップする。

後でわかったことだが、完全主義者のクロパトキンは、

迂回行動を取っていた東部兵団の遅れに、

先行してた西部兵団の歩調を合わせるため、待機を命じたのであった。

すり傷のうちに何とかしなければ  柴本ばっは

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日本軍は攻撃に出た。

いわゆる「沙河会戦」である。

日本軍は、70キロ以上も横に伸びた戦線で、

横一線になって、ひた押しするという作戦に出た。

この曲芸のような作戦が、ほぼ、うまくいったのである。

それでも戦況としては一進一退であった。

10月8日に始まった沙河会戦は、13日に峠を越した。

非常口ふたつギブアップはしない  前中知栄

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≪退却するクロパトキン隊≫

この日、クロパトキンは退却を決意する。 

とはいえ、日本軍が勝ったとは言い難い。

 

ロシア軍は、沙河を渡って退くことはせず、

沙河を背中にして、その南岸に留まっている。

そのうちに11月になった。満州はもう冬である。

両軍とも、「冬営」せざるをえない。

ネジ回し下さい頭はずします  高橋謡子

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   黒溝台の秋山支隊

次なる陸戦が開始されたのは、

年が明けてからの明治38年(1905)1月のことである。

「黒溝台会戦」である。

仕掛けたのはロシア軍のほうだ。

グリッペンベルグ大将率いる第二軍は、日本軍の左翼を攻め、

この攻撃は成功するかに思えた。

日本軍は、「冬季にロシア軍が動くはずがない」

という思い込みから、後手に回ってしまうという不利も大きかった。

しかし、1月29日、クロパトキンは、

グリッペンベルグに作戦中止と退却を命ずる。

都合よい救急箱になっていた  石橋能里子

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  偵察中のロシア軍の騎兵

「司馬氏記」

「あの男の真意はわかっている。

    わしの成功を怖れたのだ。

    わしがこの作戦に成功すれば、あの男の地位があぶなくなる。

    ただそれだけの理由で、ロシア帝国の勝利を、あの男は大山に売った」

と、グリッペンベルグがこの夜、

部下の将官たちの前でクロパトキンを罵ったというのは、

無理もないことであった。

彼は、最初、この命令を無視しようとした。

しかし自分が孤軍になることを恐れた。

命令を無視すれば、クロパトキンは、

たとえグリッペンベルグが、危機におち入っても救わないであろう ≫

釣鐘の中と外とでレスリング  井上一筒

最初クロパトキンは、グリッペンベルグが成功すれば、

クロパトキン自ら第一軍を率いて、出てくると約束していたのだが、

その約束は反故にされた。

もし約束が守られていれば、

日本軍は負けていた可能性が大きい。

とにもかくにも日本軍は勝った。

冬バラを飾る延命拒否である  森田律子

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近代騎兵の父・秋山好古

≪日露戦争で好古(中央)は、騎兵第一旅団長としてコサック騎兵と戦った≫

「典型的な古武士的風格のある武将で、

  こののちは、こういう人間は種切れになるだろう」

と評せられた将軍で、

日本陸軍の「騎兵部隊」を育て上げた偉材である。

黒溝台会戦では、「秋山支隊」として、騎兵第一旅団基幹の部隊を指揮し、

満州軍の最左翼を守りぬいた。

防御正面約30㌔、露軍12・5個師団の攻撃を、

徒歩戦下馬した騎兵-8個連隊で戦い通したのが、

歴史に輝く「騎兵秋山」の武勲である≫

天才の脳には蓋も底もない  嶋澤喜八郎

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「奉天会戦」ー(奉天へ向かうロシア兵)

≪日本陸軍とロシア陸軍が激突したこの大規模な戦闘は、

  奉天という都市を中心に繰り広げられたことから、

  
「奉天会戦」と呼ばれている。

   日本軍の死傷者数は約7万人、ロシア側の死傷者数は約8万人、

   その他に、戦場周辺で暮らしていた多くの民間人も犠牲となった≫

いずれにしろ、部隊は奉天へと移る。

奉天におけるクロパトキンの兵力は、32万人であった。

対する大山・児玉の日本軍は、25万人、

砲の数でも、ロシア軍1200門に日本軍990門、明らかにロシア軍優勢であった。

しかもクロパトキンには、 

「奉天以北には、一歩も退かず」

 

という文字通り不退転の決意があった。

有限実行もうはったりと言わせない  倉 周三         

日本軍の行動開始は2月25日と決まった。

作戦立案は総司令部・作戦主任参謀松川敏胤大佐で、

敵の右を突き、次いで左を突き、揺さぶっておいてから、

中央突破するというものであった。

阿吽の口で黄金糖をなめる  中岡千代美

一方のロシア軍はサハロフ参謀総長が、第一軍で先制し、

これに連携して、第二軍と第三軍が大攻勢をかけるという、

オーソドックスなものであった。

この作戦が敢行されていたら、日本軍は負けていた確立が高い。

しかし、クロパトキンはこの作戦には賛成せず、

「黒溝台」をもう一度攻めることに固執した。 

「ロシア軍の敗因は、もっぱらクロパトキンにある」

 

と言われても仕方がない。

水平線どんな色にも馴染めずに  和田洋子

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       奉天城

ロシア軍は、優勢であるにもかかわらず、

3月9日未明には、総退却が命じられた。

日本軍は、ここぞとばかり追撃をした。

なかでも野津軍の第六師団が、

その日の深夜に運河に渡り、右岸の敵陣地を夜襲、

10日朝には、毛家屯北方に進出した前衛部隊が、

その頂上からついに「奉天城」の勇姿を目にした。 

形の上では日本軍は勝った。

 

しかし、これが限界であった。

誰よりも児玉がそれをわかっていた。

納得の句ができたのは投函後  泉水冴子

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「司馬氏記」

《 「ロシアに対する勝ち目は、普通にやって四分六分というところである。

  よくやって五分々々、よほど作戦をうまくやれば六分四分」

  ということを開戦を決意したあと、他の者に洩らしたのは児玉自身であった。

  いまそれが成就した。

  日本軍が作戦能力において、圧倒的優位にたち、

  兵力の寡少をおぎなって、ようやく六分四分に漕ぎつけたいま、

  この好機をとらえて講和工作を進行しなければ、

  児玉としては、「今後も過去のように日本軍が常勝できるか」

  保証することができなかった。

密封のファイルに入れるナフタリン  オカダキキ

〈中略〉 

「帰ろう、東京の連中に戦いの深刻さを説き、鞭をふりあげてでも、

  連中を講和に走らせねばならぬ」

 

  児玉は思い立ったが、吉日という男で、

  あすにでもこの戦場からこっそり―味方にも知らせず―

  「掻き消えてやれ」 と決心した 》

ウツの実を食べてコンとが裏返る  斉藤和子

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拍手[2回]

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なにほどの快楽か大樹揺れやまず  大西泰世

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    連合艦隊幕僚

「T字戦法」秋山、「瀬戸内水軍」の古文書からヒントを得たものである。

東郷は、それを採用した。

「三笠の艦橋」で、東郷の手が大きく左にふられたとき、

秋山は全身に電流が走ったような衝撃を覚えた。

労があったにせよ、作戦を練るのはまだ易しい。

それを採用して断行することのほうが、はるかに難しいのだ。

秋山の作戦もさることながら、

完全勝利をもたらしたのは東郷の決断である。

「われ東郷に及ばず」

俊秀・秋山真之がなめた生涯で、ただ一度の挫折感である。 

にんげんを呑むにんげんの無限大  土田欣之

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「日本大勝利の瞬間」  40分/7分

幸いなことに、「バルチック艦隊」は対馬へのコースをとった。

それを最初に発見したのは、

沖縄粟国島の奥浜牛という29歳の青年だあった。

彼はその発見を宮古島の島庁に報告、

石垣島の電信局から大本営へと打電された。 

小指ってつぶやいているんだと思う  河村啓子
 

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旅順のシンボル・白玉山塔(旧表忠塔)-(日露戦争の面影)

≪戦没者の慰霊のために日本統治時代に白玉山頂に建てられた≫

それとは別に、第三艦隊の仮装巡洋艦・「信濃丸」も、

長崎五島列島沖で、哨戒任務に当たっているときに、

バルチック艦隊を発見する。

5月27日、午前2時45分のことであった。

信濃丸は後方に回り、左舷に出て敵艦であることを確認し、

「敵艦隊見ゆ」 を打電し続けた。 

「敵の艦隊、203地点に見ゆ。時に午前4時45分」

 

発見地点は、あらかじめ、「203地点」と名づけられていたところで、

奇しくも、「203高地」と同じ数値が冠せられていた。

カタカナを沈める癖が離れない  瀬川瑞紀

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 旅順口ー(日露戦争の面影)

≪旅順港の一部が公園になっている≫

この報告に秋山は、

「シメタ シメタ」 と踊りだしたとも言われている。

ここまで来れば、あとはかねてからの作戦通り、戦うだけである。

大本営に電報が打たれる。  

「敵艦見ユトノ報二接シ、連合艦隊ハ直二出勤、之ヲ撃滅セントス、

  本日天気晴朗ナレドモ波高シ

  

バルチック艦隊は、信号を見誤った艦が出現したこともあり、

変則な陣形を成していた。

対する日本艦隊のほうは、整然たる陣形を組んでいた。

常温で喜怒哀楽を暖める  原 洋志

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203高地から見た旅順港ー(日露戦争の面影)

≪ここから児玉指揮のもと日本第三軍が砲撃した≫

御前1時50分過ぎに三笠から、各艦へ向けて「旗旋信号」が送られる。

後に有名になる「Z旗」である。 

「皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」

 

日本艦隊はT字戦法を取り、敵前回頭を行った。

三笠をはじめ日本艦艇は、当初、一方的な砲撃を受ける。

しかし、日本軍はこれに耐え、

距離6000㍍余りとなった午後2時10分、

ようやく砲術長・安保少佐からの射撃命令が下された。 

泣き出しそうな空へどーんと卵とじ  山本昌乃

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旧関東庁ー(日露戦争の面影)

日本軍の射撃の腕は、鎮海湾における訓練で、熟達の城に達していた。

さらに、「1艦の照尺の統一」という戦術や、

「下瀬火薬」の威力も味方した。

日本海海戦は、日本軍の圧倒的優位の下に進行していた。  

* 「1艦の照尺の統一」=ロシアの艦船は、

各砲座ごとに目標を測定し、砲撃を行っていたが、

日本の艦船は艦ごとに統一されていた。

  

『砲火指揮はできるだけ艦橋で掌握し、射距離は艦橋より号令し、

 砲台にて毛頭これを修正せざるを可とす』 東郷の原則

生き方が正しい犬の牙の位置  井上一筒

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     陥落の旅順

午後7時20分、その日の海戦は一応の終りを見せたが、

暗闘の中でも、「駆逐艦」「水雷水雷艇」による夜襲が行われた。

翌28日にも、海戦は続くのだが、

それは、日本軍の勝利を完璧にするための、

おまけのようなものである。 

坂の上の雲をまだ追っかけています  八田灯子

 

結局、ロシア艦隊の主力艦のすべてが、

「撃沈、自沈、捕獲」のいずれかの運命を辿った。

対する日本艦隊は、わずかに水雷艇3隻の沈没だけであった。 

信じられないほどの日本の大勝利である。

 

歴史に、「もし」 はないが、 

もし日本が敗れていたとすれば・・・。

 

夢のカラオケがポケットでしゃべりだす  杉本克子

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「司馬氏記」

≪日本史をどのように解釈したり、論じたりすることもできるが、

   ただ日本海を守ろうとする この海戦において、

 日本側が破れた場合の、結果の想像ばかりは、

 「1種類しかない」 ということだけはたしかであった。

 日本の "その後 "  "こんにち " も、

 このようには、存在しなかったであろうということである。 

国境を問うだーれも答えなど知らぬ  竹内ゆみこ
 

 
  そのまぎれもない蓋然性は、まず満州において善戦しつつも、

 しかし、結果においては、戦力を衰耗させつつある日本陸軍が、

 一挙に孤軍の運命におちいり、

 半年を経ずして、全滅するであろうということである。

 当然、日本国は降伏する。

我が胸を抱けりブリキの音のする  時実新子

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旧関東庁の建物ー(日露戦争の面影)

≪関東州経営の総本山・現在は中国海軍の施設≫

  この当時、日本政府は日本の歴史の中で、 

  もっとも外交能力に富んだ政府であったために、

 おそらく、列強の均衡力学を利用して、

   かならずしも全土がロシア領にならないにしても、

 最小限に考えて、

 対馬島と艦隊基地の佐世保は、ロシアの租借地になり、

 そして、北海道全土と千島列島は、ロシア領になるであろうということは、

 この当時の国際政治の慣例からみても、

 きわめて高い確率をもっていた≫

 

夕立に後のまつりも仕舞い込む  山本早苗

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                  旧日本人街ー(日露戦争の面影)

≪戦前は鯖江町と呼ばれた。

  周囲は再開発されショッピングセンターなどが建ち並ぶ≫

明治38年9月5日、「日露戦争」は終わった。

朝野を挙げての日本の奮戦は、

西欧の進出に脅威を感じていた19世紀の東洋諸国に、

大きな希望と勇気を与えるものがあった。

作戦期間20ヶ月、

全動員兵力約100万、戦死約8万、負傷約14万である。

アキレス腱伸ばすと叫びたくなった  赤松ますみ

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日本海海戦の後、三笠での記念写真

≪中央に東郷平八郎 前列右端が秋山真之≫

その後、秋山は東郷のために「連合艦隊解散式」の告別の辞を草した。

長文のため、最後の部分だけ引用すると。 

『神明は、ただ平素の鍛錬に力(つと)め、戦わずしてすでに、

  勝てるものに勝利の栄冠を授くると同時に、

  一勝に満足して、治平に安んずるものよりただちに之を奪う。

  古人曰く、”勝って兜の緒を締めよと”』

 

ルーズベルト大統領を感激させた名文である。

彼が推敲したのは、東郷を私淑したからではない。

作戦参謀の最後の任務を果たしたのだ。 

終章を飾るファイルがみつからぬ  八木侑子
 
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         秋山真之記念写真  

≪日露戦争の前年に結婚した真之(36歳)と季(21歳)。

    三笠にての真之の勇姿≫

日露戦争の奇跡的勝利を、

「天佑と神助」のたまものと考え秋山は、

その後、霊力を信じるようになり、

「盲腸炎も精神力で治してみせる」と称して手術を拒みつづけた。

その盲腸炎をこじらせ、中将に昇進の1年後の、

”大正7年(1918)2月4日早朝 "腹膜炎のため死亡。

52歳であった。

もし彼が昭和まで長生きしていたら「日本海軍」は、どうなっていたか、

その死を惜しむ人は多い。 

友が逝く夕立がまたひとしきり  新川弘子
 
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バルチック艦隊司令官・ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督

東郷・秋山のライバルとして、ロジェストヴェンスキーは、

日本海で戦うも、機関故障のため、

駆逐艦・ベドーヴイに移乗している途中、運悪く、

連合艦隊の駆逐艦「漣」に発見され降伏し、捕虜となった。

その時、受けた傷で佐世保の海軍病院に入院。

その折、東郷大将が見舞いに訪れ、

東郷の礼節を尽くした扱いに感銘を受け、

一生東郷を尊敬し続けたという。

終戦後敗戦の責任を問われ、軍法会議にかけられたが、無罪となる。

この裁判で、 

「敗戦の責任は自分にある。

  この裁判は自分とネボガトフだけを、訴追すればいい」

 

と発言。

1906年退役。その3年後、

日本海海戦中に受けた傷が原因で病死。60歳であった。

諍いのダマぽっかりと浮くシチュウ  岩根彰子

拍手[4回]

鴉ひょっこりひょっこり寒いなあ日本海  川上三太郎

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   建造直後の「三笠」

『興国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ』 

の信号旗を真之に「三笠」メインマストに掲げさせた東郷が、

「7段構えの戦法」の第二段から第四段までの攻撃で、

「バルチック艦隊」撃滅に成功したのは周知の通り。

東郷の卓抜なる指揮能力と、島村の側面援助により、

智謀の人・秋山真之の名は、世界会戦史に不滅の輝きを刻んだ。

 

一筋のひとすじの道生きてきた  河村啓子

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「ついにバルチック艦隊来たる」  40分/  5分

明治37年(1904)8月10日の「黄海海戦」、

同月14日の「蔚山沖海戦」、そして38年1月2日の「旅順開城」と、

多少の錯誤と混乱はあったが、

戦略的な諸問題は、次第に整理されてきた。

陸軍の砲弾によってロシア海軍の極東艦隊は、

戦艦・セヴァストーポリ1隻だけを除いて殱烕された。

ただ1隻残されたセヴァストーポリも、水雷攻撃によって仕留めた。

これでようやく日本艦隊は、ドック入りして艦の立て直しをすることができる。 

充電は電気ウナギの口でせよ  井上一筒

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            三笠内部ー1

≪艦首には菊のご紋章が備わり、旗竿には二の丸が、

そして、三笠の有名なZ旗がマストに翻る≫

第3艦隊だけは、陸軍との共同作戦のため残ったが、

第1艦隊は呉へ、第2艦隊は佐世保へとそれぞれ帰港した。

日本海軍にとっての次なる問題は、 

「バルチック艦隊がいつやって来るか」

 

ということである。 

カマ首をときどき起こし風を聴く  森中惠美子

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  バルチック艦隊戦闘絵

その「バルチック艦隊」は、司令長官・ロジェストウェンスキーに率いられ、

明治37年(1904)10月15日に、

バルト海に面したリバウ港を出航していた。

出航早々、北海海上でイギリス漁船を、日本の水雷艇と見誤って、

砲撃するという事件が起こった。 

厄というなら君と出会ったことだろう  本田洋子

 

イギリスのロシアに対する態度は硬化し、

イギリスは、フランスにも圧力をかけたため、

本来ロシアの同盟国であるフランスも、

ロシアへの援助を控えることになった。

これが、バルチック艦隊の長征を、

いっそう苦難に満ちたものにしたのは、言うまでもない。 

夕立が打つ慢心の横っ面  武内美佐子

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    日本海会戦の絵

≪真ん中が東郷、右から三人目が秋山参謀≫

2月14日、東郷が乗る「旗艦・三笠」は呉港を出発、

佐世保港を経て、朝鮮の「鎮海湾」に入った。

バルチック艦隊が来るまでの待機場所である。

5月14日、バルチック艦隊が仏領安南を離れた。

ロジェストウェンスキーが「対馬へ」と針路を定めたのは、

5月25日のことであった。

もちろん日本艦隊は、まだ知る由もない。

コースとしては太平洋から、津軽海峡か宗谷海峡を通って、

「浦塩」へという選択も考えられた。 

さすがの秋山真之も迷った。

 

強力な敵のパンツを干している  清水すみれ

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  三笠内部ー2 

≪秋山真之が指揮をとった場所が示さた上部艦橋≫

 

「司馬氏記」

≪真之の心気はこの時期乱れつづけ、

 敵のコースを予測するについて、不動の判断というものがなかった。

 彼のこのときの神経と頭脳の極度の疲労が、

 その後のみじかい余生を、ずっと支配しつづけるのだが、

 この時期の懊悩ぶりは、

  その行動に常軌を失なわせたほどであった。

天才のまわり孤独の匂いする  武内美佐子

 たとえば、彼は靴をはいたまま眠った。

 彼の上司である加藤友三郎参謀長が、

 『そんなことをしていては体がもたない』

 と、見かねて忠告したが、

  真之はその加藤の顔をじっと見つめているだけで、

 加藤の言葉が耳に入らないようであった≫

三半規管分解しても聞こえない  加納美津子

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            三笠内部ー3

≪ホテルのような司令長官公室と指揮官用のバスルーム≫

秋山作戦参謀は、三笠の作戦室で全神経を集中させていた。

黄海海戦の実績から判断して、

ロシア艦砲の発射速度は、

日本側の大体3分1であることに気がついた。

もう一つ、日本海軍の長所は「火薬の威力」である。

日本の「下瀬火薬」は、

ロシアの「綿火薬」の二倍以上の威力があった。

秋山はこの二つの条件を生かせば、余程の大失敗でもしない限り、

射距離・5000㍍以内に飛び込めば、「絶対勝つ」と考えた。 

パスカルは葦の迷路で戯れる  山口ロッパ

 

問題は、接近経路である。

秋山の天才的頭脳が、世界最初の「独創的な哨戒計画」を編み出した。

可能性のある海域を、碁盤の目のように細分し、

その一つ一つに哨戒用の艦船を配置する構想である。

絶対に見逃すことはない。

そしてさらに、秋山は「七段構え」と称する迎撃計画を策定した。 

天才は渚あたりに居るらしい  徳山泰子

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  三笠内部ー4

≪上甲板の前部と後部には30㌢の主砲を装備してある≫

その構想は、昼間は砲撃、夜間は雷撃、そしてその反復、

作戦予想海面を概定し、訓練と作戦の準備を示すもので、

秋山の必死の考察の成果であった。 

下瀬火薬=海軍技手・下瀬雅允が開発した強力な火薬。

日本の砲弾は、装甲帯をつらぬかぬかわりに、

艦上で炸裂し、
その下瀬火薬によって、

そのあたりの艦上構造物を根こそぎに吹っ飛ばすのみか、

必ず火災をおこしてしまう。

 

「この当時、世界にこれほど強力な火薬はなかった」

二日後の12月20日最終章に続きます。

まっさらの闇から風が生まれます  合田瑠美子    

拍手[2回]

モノトーンの時間を壁が食べている  たむらあきこ

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203高地に立つ銃弾をかたどった慰霊塔(日露戦争の面影)

旅順要塞を攻めあぐねた日本軍は、作戦を変更し、

203高地の奪取を新たな目標とした。

1万6千名もの死傷者を出した激戦の末、

ついに1904年12月5日、高地を占拠。

ただちに28センチ砲で湾内のロシア艦隊を砲撃、

これを壊滅させた。


真っ青な夢に決断迫られる  谷垣郁郎

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「203高地、遂に落つ」  40分/3分

「司馬氏記」

『おぬしのその第3軍司令官たる指揮権をわしに、一時借用させてくれぬか』

 見事な言い方であった。

 言われている乃木自身でさえ、

   この問題の重要さに、少しも気がついていなかった。

 乃木がその性格からして、

   おそらく、生涯このことの重大さに気づかなかったであろう。  

 『指揮権を借用するといってもおぬしの書状が一枚ないとどうにもならん。

 児玉はわしの代わりだという書状を一枚書いてくれるか』

 

 まるで詐欺師のような言いまわしである。

 乃木は、この児玉の詐欺に乗った。

 『よかろう』 と、快諾した≫

ご要望土鍋のフタで受けました  井上一筒

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   28サンチ榴弾砲

かくして、第3軍の指揮権は児玉に移った。

児玉は、重砲隊の移動と、

「28サンチ榴弾砲」による「203高地への連続砲撃」を命じた。 

これまでの作戦とは180度の転換といっていい。
  

 しかし、これが功を奏した。 

暗証番号二回限りのやり直し  山本昌乃

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 203高地を目指す第三軍

旅順包囲戦では28インチ砲が威力を発揮した。

12月5日、午前9時より攻撃は開始され、 

午後2時には、203高地の占領がほぼ確定した。

 

児玉の関心は、 

「203高地から本当に旅順港が見下ろせるか」

 

ということにあった。

児玉からの有線電話に対し、山頂にいる将校はこう答えた。 

「各艦一望のうちに納めることができます」

 

残るは、「山越えに軍艦を撃つことだけ」である。 

まっさらな気持ちで開く第二章  竹内ゆみこ
 
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旅順陥落後、市街後方から湾内を眺める日本兵たち。

≪撃破されたロシアの軍艦が見える≫

砲兵司令官・豊島陽蔵の反対を「命令」の1語で覆し、

砲撃を開始する。

その命中精度は、百発百中といっていいほどのものであった。

その後、数日にわたる砲撃で、

戦艦4、巡洋艦2、その他十数隻の小艦艇を撃沈、

もしくは破壊、港内の造船所も破壊することで、修理も不可能な状況となった。 

明らかな日本軍の勝利であった。

 

その後も戦闘は続くが、

明治38年(1905)1月1日に、敵将・ステッセルはついに「降伏」を決断。

乃木とステッセルとの有名な「水師営の会見」が行われたのは、

1月5日のことであった。

(二日後の12月18日に続きます。)

未来への壁を破ってタクト振る  西村静子

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力むなと言われて河童皿を脱ぐ  岩田多佳子

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           水師営会見所

1905年1月5日、旅順郊外の「水師営の農家」で、

旅順要塞司令官・ステッセルと、日本側の乃木大将との間で、

「降伏文書」の調印が行われた。

≪左ー両将軍が会見した部屋。

   (戦争中は日本運衛生隊の手術室として使われていた)

   右ー当時のままに復元された会見所の建物≫

坂の途中で祭太鼓を待つことに  墨作二郎

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「旅順決戦」  40分/5分

日本陸軍にとって、「旅順」はさして重要視されていなかった。

旅順攻撃を命ぜられた第3軍の乃木希典大将にしても、 

「旅順はたやすく落とせるだろう」

 

と見ていた。

しかし、8月19日にいざ総攻撃を仕掛けてみると、

まるで歯が立たなかった。

死傷者は、16000人にも及び、

「旅順の大要塞」には、かすり傷1つ負わせることができなかった。 

悲しい日もっと悲しい人を見る  松田篤

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  旅順要塞跡ー1

≪内部は、分厚いコンクリートで覆われている≫

逆にいえば、

ロシア軍は、それだけ頑強な大要塞を、造り上げていたということになる。

しかも乃木軍は、なかでも最も堅牢な二龍山東鶏冠山の間を、

「中央突破」する、という作戦に出た。

これは、弱点攻撃が最も有効とされる「要塞戦の原則」の正反対である。

失敗しても不思議はない。 

挫折した下絵に残す熱きもの  富田美義

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   旅順要塞跡ー2

それにもかかわらず、

9月19日の第2次総攻撃でも、同じ攻撃法を採り、

同じ悲惨な結果を得た。

死傷者4900人で、これで既に2万人を超えた。

この責任はもちろん、乃木大将のもあったが、

参謀長・伊地知幸介の頑迷さによるところが大きかった。

「旅順要塞」は、海軍にとってもなんとしても、

落としてもらわなくてはいけない対象だった。

その重要性は、

陸軍よりも、海軍においてより大きいといっていい。 

頂点の椅子の軋みはつぶやきか  笠嶋恵美子

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          水師営の会見

≪乃木大将とステッセルの間で、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結される≫

「司馬氏記」

《 旅順の港とその大要塞は、

   日本の陸海軍にとっての最大の痛点でありつづけている。

 東郷の艦隊は、悲愴を通り越して滑稽であった。

 彼らは陸軍が要塞を落さないため、尚も、この港の口外に釘づけにされ、

 ロシアの残存艦隊が出たきて、

  海上を荒し回ることを防ぐための「番人の役目」を続けている。

 大戦略からみて、これほどの浪費はなく、

 これほど日本の勝敗に関して、あぶない状態はなかった。

 バルチック艦隊は、いつ出てくるか。 

 という報は、欧州からの情報はまちまちでまだ確報はない。

 無いにしても、

 「早ければ10月に日本海にあらわれる」

 という戦慄すべき説もおこなわれていた。

 ・・・・・〈中略〉・・・・・   

 海軍はあせった。

   東京の大本営も、あせりにあせった。》

 

少しずつ老いて狂ってゆく明日  元永宣子

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      203高地

海軍からすれば、「203高地」を攻め落としてほしかった。

203高地を取れば、

旅順港を一望できて、港内のロシア軍艦を陸軍砲で砲撃できる。

しかし、乃木軍は203高地には見向きもせず、正面攻撃に固執していた。

「乃木と伊地知を更迭せよ」

という意見も多かったが、 

「兵士の士気が落ちる」

 

ということで、大山が承知しなかった。 

ドアチェーン外し昨日を蹴り込まれ  谷垣郁郎

 

こうした追い詰められた状況のなかで、

11月26日、第3次総攻撃が行われたが、成功するはずはなかった。

旅順攻撃の象徴的存在ともいうべき「白襷隊」が、

出陣したのもこの時であるが、

いたずらに、死傷者の数を増やすばかりであった。

もちろん、 

「旅順市街へ突入せよ」

 

という命令が実現されるはずもなかった。 

またひとり友を失う寒椿  本多洋子

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       白襷隊

 ≪「白襷隊」=旅順要塞第三次総攻撃時の決死隊≫

隊員は、夜間相互の識別がしやすいように、

右肩から左脇下に白だすきをかけた。
 
そして、1904年11月26日、

午後9時より「夜間奇襲攻撃」を賭けるも、 

白襷隊総勢3100余名のうち、半数近くが一瞬で死傷し、隊は壊滅した。

 

≪この写真は彼らの最後の勇姿となった≫

矢印を信じています非常口  美馬りゅうこ

しかし、この総攻撃の失敗が、

乃木に作戦を変えさせるきっかけになった。

翌27日から203高地への攻撃が開始された。

結果は、203高地に日本兵の屍を積み上げるばかりである。

しかし、30日になって奇蹟が起こる。

香月・村上両隊の約500人が、ロシア軍歩兵1000人と白兵戦を演じ、

わずか50人程度であったが生き残り、

ついには、203高地を占領した。

11月30日午後10時のことである。

だが、この占領はあっという間に取り返されてしまう。

(二日後の12月16日に続きます)

マジシャンじゃないから雲は隠せない  清水すみれ

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