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川柳的逍遥 人の世の一家言
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獏のされこうべを満月が洗う  たむらあきこ


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茶人の武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休が修行をした南宗寺

「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」

『人生七十 力囲希咄          (じんせいしちじゅう  りきいきとつ)
  吾這寶剣 祖佛共殺          (わがこのほうけん  そぶつともにころす)
  堤る 我得具足の 一太刀      (ひっさぐる  わがえぐそくの  ひとたち)
  今此時ぞ  天に抛』                 (いまこのときぞ てんになげうつ)

≪意味を読み解ければ、利休の死の訳が見えてくるのです・・・が≫

カマ首をときどき起こし風を聴く  森中惠美子

「利休が秀吉に死刑を命じられる原因を探る」

天正18年(1590)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が、

秀吉への口の利き方が悪いとされ、即日処刑された。

奈良の茶人・久保利世が自叙伝の中で、

「茶説・茶話」を収録した原文に、

『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、

  その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。

この事件から、秀吉と利休の間に、思想的対立がはじまる。

もう二度と熱くなれない君と僕  松山和代

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     利休百会記

≪宗易茶の湯会席 八月十七日≫

利休は、最晩年の天正18年(1590)から、

天正19年にかけて、『利休百会記』として、

その記録が伝わる、およそ「百会の茶会」を開いた。

徳川家康毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、

大徳寺の禅僧など、多様な人々が出席した。

また、この茶会記には、

利休七種にもあげられる「赤楽茶碗・木守」や、

利休愛用の「橋立の茶壷」などの道具を用いた。

号外が降ってきそうな日本晴れ  久岡ひでお

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そして、1月13日、黄金の茶碗を所望した秀吉に、

「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、

  禁欲的で緊張感のある茶である」

と主張する利休は、あえて、『黒茶碗』を出した。

これが、秀吉の勘気に触れた。

≪黄金の茶室と利休についても、

   「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は相反するもの」

   という見方があり、利休設計ということに異論がある≫ 

                                                                            【表千家・「伝聞事】

プライドが変なところへ線を引く  北川ヤギエ

 そして、10日後の1月22日、

利休の後ろ盾であった秀吉の弟・秀長が病没。

秀長は、諸大名に対し、

「内々のことは利休が」、

「公のことは秀長が承る」

と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。

それから、1ヵ月後の2月23日、

突然、秀吉から、

「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」

と利休に命令が届く。

2月25日には、利休の木像が聚楽大橋に晒され、

翌26日、上洛を命じられる。

右よし左よし見上げれば雪  酒井かがり

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      利休邸跡     

前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら、

大名である弟子たちは、

大政所北政所が密使を遣わし、命乞いをするから、

秀吉に詫びるようすすめた。

、「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、

      御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」  と断った。
                  
                                 「『千利休由緒書』に残る利休が利家に答えた言葉」

遺言と書いて江戸小噺を一つ  筒井祥文

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       椿の井戸   

そして、2月28日、利休の屋敷がある、

京都葭屋(よしや)町を訪れた秀吉の、使者が伝えた伝言は、

「切腹せよ」

この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。

利休は静かに口を開く

「茶室にて茶の支度が出来ております」

使者に最後の茶をたてた後、

利休は一呼吸ついて切腹した。  享年70歳。

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 利休愛用の袈裟形手水鉢

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、

利休と同じ作法で食事をとったり、

利休が好む「枯れた茶室」を建てさせたという。

転がってみたいと思うまっ四角  合田瑠美子

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       利休像

「死罪の理由にされている諸説」

 大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって、増上慢があったため、

       自身の雪駄履きの木像を、楼門の二階に設置し、

      その下を秀吉に通らせた疑い。

 安価の茶器類を高額で売り、私腹を肥やした疑い。

③ 天皇陵の石を、勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った疑い。

 秀吉と茶道に対する考え方で対立した疑い。

 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、

     「娘のおかげで出世していると思われたくない」

と利休は拒否した。などなど。

落ち着いて話せば解る勘違い  平田愛子

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あしたという字は暗い日と書くのね  喜多川やとみ


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    利休庵の茶釜

「年表・秀吉ー呪われた3年」

「天正18年(1590)」

家康夫人・旭姫死去(一月)。
小田原城に北条攻め。北条氏滅亡。
家康関東へ移封。信雄改易。
 
「天正19年(1591)」

羽柴秀長死去(一月)。
千利休切腹(二月)。
信雄長女・小姫死去(七月)。
鶴松病死(八月)。

甥の秀次に関白職を譲る(十二月)。

「文禄元年(1592)」

お江、羽柴秀勝に嫁ぐ(二月)。
文禄の役ー秀吉茶々を伴って出陣。秀勝も出陣(三月)。
秀吉の母・大政所没(七月)。
秀勝朝鮮の巨済島で病死(九月)。

文禄の役の敗色。 このころ、お江完子出産。

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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    羽柴秀長

「秀長・利休・鶴松、それぞれの死」

天正19年(1591年)、この年は三姉妹の周辺に、

いくつもの不幸が続いた。

1月に、秀吉の弟で右腕と頼んでいた大和大納言・秀長が、

この世を去った。

前年の初めに、徳川家康に嫁いだ妹・「旭姫」が、

聚楽第で亡くなっているから、

秀吉は、妹と弟を相次いで失ったことになる。

〇書いてチョンなら墓石に刻れますか  田中博造

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     千利休

2月には、秀長の協力者でもあった千利休が、

切腹している。

また、小田原の陣で、

北条家に仕えていた利休の高弟・山上宗二が、

利休の仲介で秀吉に面会を許された折、

無礼を働いたとして、打ち首になった。

カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

小田原では、石田三成の舅の兄・尾藤知宣が、

島津攻め「根白坂の戦い」の失敗の、反省もなく、

秀吉の作戦を酷評、

「自分にまかせるべきだ」

などと、大風呂敷を広げ、打ち首になった。

うかつにも直し忘れた未来地図  新川弘子

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                   旭 姫

7月、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫が亡くなっている。

わずか7歳であった。

小姫は、徳川秀忠と結婚することになっていた。

北の果て余白の多い時刻表  ふじのひろし

そして8月、もともと身体が弱かった「鶴松」が、

わずか、3歳で亡くなった。

秀吉の嘆きはあまりに深く、東福寺に入って髷を切った。

主な大名たちも、それにならったという。

幾層の闇 剥がしても剥がしても  赤松ますみ

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  南宗寺内・利休茶室

「茶人・千利休」

千利休は、堺で納屋衆(倉庫業)を営む商家に生まれる。

商家の屋号は、なぜかユニークに魚屋(ととや)という。

父は、田中与兵衛、母の法名は、月岑(げっしん)妙珎、

妹は、、茶道・久田流へと続く宗円

若いころから、茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳(きたむきどうちん)

ついで、武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、

師とともに、茶の湯の改革に取り組んだ。

するめいか焙るとスルメ起き上がる  泉水冴子

その流れから、織田信長が堺を直轄地としたときに、

茶頭として雇われ、

のち豊臣秀吉に仕えた。

利休という名は晩年、天正13年(1585年)10月の、

秀吉の禁中茶会で、正親町天皇から賜った居士号であり、

それまでは「千宗易」という法名を名乗った。

山の端の雲が大人になった雲  井上一筒

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   南宗寺・茶室

利休は、わび茶の完成者で、「茶聖」と称される。

わび茶は、無駄ともいえる装飾性を省き、

”禁欲的で緊張感”のある茶である。

その世界を追求するため、

利休は、草案と呼ばれる二畳や三畳の「茶室」を創出。

また楽茶碗、万代屋釜、竹の花入れ、などの「利休道具」を考案し、

露地の造営にもこだわり、

茶の湯を、「一期一会の芸術」にまで高めたのである。

≪楽茶碗の銘ー(黒の方は「大黒」、赤の方は「道成寺」)

展開は真みどり三重奏の靴  富山やよい

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一時期、利休は、秀吉の聚楽城内に屋敷を構え、

聚楽第の築庭にも関わり、

禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

天正15年(1587)の「北野大茶会」を主管し、

一時は、秀吉の重い信任を受けたが、

その4年後の天正19年1月、

利休は、突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられた。

澄んでしまえば生きにくい白である  前中知栄

蟄居の7ヶ月後、利休は切腹をする。

今もって、謎とされている千利休の死。

秀吉に切腹を命じられたことによるが、

死罪の理由は、定かではない。

しかし、天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、

粛々と受け入れることで、

利休は、世俗の王・信長や秀吉の上に立ったともいえる。

理想論でうごくこの世であるならば  たむらあきこ

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『大河ドラマ・第24回・「お江」―「利休切腹」  あらすじ』

天正19年(1591)正月22日、

戦場を駆けた若き日から、

秀吉(岸谷吾郎)を支えてきた弟・秀長(袴田吉彦)が、

かねてよりの病を悪化させ、明日をもしれぬ状態だった。

秀吉は、すぐに病床に駆けつけるが、

秀長は、もはや虫の息。

秀長は、

「江や利休など耳に痛いことを言う者を信じるべき」

と、最後の力をふりしぼって、兄に言い残し、力尽きる。

虚しさの残る言葉に蓋をする  小川一子

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秀吉と大名たちの、つなぎ役でもあった秀長が、

いなくなったことは、

豊臣政権にとっては大打撃だった。

仲介役の秀長が亡くなったことで、秀吉と利休の関係も、

ますます悪化していく。

秀吉があまりにも、利休を重用することで、

誰もが利休を頼るようになっており、

また利休もそれを利用して、

出世していくことに、懸念を示していたのだった。

添うた背いた花筏の蛇行  岩根彰子

北条攻めに勝利した秀吉は、東国の諸大名を屈服させ、

ついに天下統一を成し遂げて、ほどなく、

京・聚楽第に、いとしい鶴松(大滝莉央)のもとへと急ぐ。

彼は、やっと授かった跡取りが、可愛くてしかたがないのだ。

そんな中で騒動は起きた。

シグナルは点滅行き場に揺れている  山本昌乃

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秀吉が朝鮮の使節と会見する際、

こともあろうに、鶴松を連れて現れたのだ。

朝鮮は礼を重んじる国。

公の場に幼児を同席させるのは、礼を失した行為となる。

しかし秀吉は、

鶴松を見て困惑する使節たちの様子を気にもせず、

「わしは日輪の子である」

と宣言し、さらに、明国を平らげるつもりだから、

「朝鮮は戦に協力しろ」

と言い放つ。

使節たちは、彼の傲慢な態度に怒って席を立ち、

会見は台なしになってしまった。

螺旋の底で水の澄むのを待っている  森 廣子

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このような秀吉の言動に対し、利休(石坂浩二)は、

2人の関係悪化に気をもむ江(上野樹里)が、

冷や冷やするような、遠慮のない言葉を投げかける。

それを聞き、秀吉は、すぐさま機嫌が悪くなる。

だが実は、利休の従順ならざる態度を、

最も苦々しく思っていたのは、

秀吉の忠実な側近・三成(萩原聖人)だった。

石よりも硬い頭が邪魔になり  橋本 康

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そんなことから、同年・2月13日、

石田三成の讒言により、

利休は、大坂城から堺へと追放が決まった。

利休は頑なに謝罪を拒否し、

秀吉も引くに引けなくなり、

2月28日、利休は、聚楽第で秀吉より切腹を命ぜられた。

ゾロゾロと喪服二幕目へと続く  谷垣郁郎

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鍵穴の大きさほどに生きている  森中惠美子

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 小田原城(復元)

「北条氏掃討」

天正18年(1590)3月1日、

天下統一の総仕上げになった「小田原攻め」に、

秀吉は、
当初、北条氏にそれほど厳しいことを、

要求したわけでもなく、

関白としての顔を、立ててくれればよかった。

ところが、北条氏は上洛しないのみならず、

”惣無事令”
も無視した。

これに腹を立てた秀吉は、小田原の「北条掃討」の決意をする。

いつの間に図太くなった豆もやし  合田瑠美子

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     北条氏直

ひとときは北条氏も、

天下統一に積極的に関与した革新大名だったが

五世代百年も経て、名門意識に凝り固まり、

すっかり保守化してしまっていた。

このぬるま湯につかった集団は、世の情勢にもうとくなっており、

結果、北条氏は滅亡への道を歩むことになる。

≪(惣無事令)ー大名間の私闘を禁じた法令≫

跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ

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    北条氏政

秀吉は、石田三成に綿密な兵站計画をたてさせ、

長期戦に耐えられるように図った。

このとき秀吉は、

「長陣となり、退屈であろうから、

  諸将には女房を呼び寄せてもかまわない」

と通達し、その上に自分のことでは、

北政所に、

「お前の次に茶々を気に入っているので、

  こちらに来る手配をしてくれ」

 と手紙を書き送っている。

そして小田原城を見下ろす石垣山に”一夜城”を築かせ、

そこに茶々を呼び寄せた。

恋だって時どき衣替えしたい  泉水冴子

難なく小田原城を落とした秀吉は、

奥州まで平定して、天下統一を果たし、

9月1日、
聚楽第に凱旋する。

竹籠で水仙一本始末する  田中博造

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     徳川家康

「関東移封で家康は大喜び、家臣は泣きの涙」

やがて、戦後の論功行賞がはじまった。

家康には、北条の領地である関八州が与えられ、

転封を命ぜられた。

秀吉としては、あまり関心のない関東は、

好意的にとれば、実力のある家康に、

まかせておきたかったとの言い方をするが、

秀吉の意図は明らかだった。

カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

秀吉は寒村であった江戸を、居城に指定し、

目障りな家康を京・大坂という政の中心から、

遠ざけようということだった。

だが家康は、何も言わずに従った。

≪このとき、秀吉じきじきの指示で、上州箕輪で12万石をあてがわれ

   筆頭家老に躍り出たのが、彦根藩祖になった井伊直政だった≫

ひとつづつ忘れていけばできあがり  加納美津子

この関東移封は、「清和源氏」を名乗る家康にとっては、

新田郡世良田(太田市)を”先祖の地”と自称している上野国や、

源頼朝が幕府を開いた相模国の、主になるわけだから、

気持ちの上で、突拍子なことでもなく、

さほど、嫌悪することでもなかった。

よよよとは泣くに鳴けない糸蚯蚓  岩根彰子

しかし家臣たちは、骨の髄まで三河人で、

「家康が最近になって新田氏の末流」

だと強調しだしたことすら、違和感を持っていたから、

小田原へ移ることには、大反対であった。

とはいうものの、家康が受けた以上は、

その家臣は従わざるをえなかった。

≪戦国大名にとって移封は、家臣の力をそいで、

   中央の力を強くする最高のチャンスでもあった≫

遮断機を下ろし回りを黙らせる  籠島恵子

拍手[6回]

山河あり静かに足を浸けるべし  富山やよい

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   秀忠誕生の浜松城

「徳川秀忠」

お江が三度目に嫁ぐ相手・徳川秀忠は、浜松の城で生まれた。

天正7年(1579)4月7日、

幼名は、長丸、竹千代

徳川家康の三男である。

さわやかな香りを放つ若いって  森下よりこ

家康の長男・信康は、

17歳で、”長篠・設楽ヶ原の戦い”に初陣を果たしており、

家康の後継者として期待を集めていた。

しかし、妻・徳姫との不和が原因で、切腹を命ぜられる。

徳姫は信長の娘だった。

家康といえども、信長に逆らうことはできない。

秀忠が生まれて間もなく、信康は自ら命を落とした。

カサブランカの切り口上に逆らえず  美馬りゅうこ

次男・秀康、「どうも自分に似ていない」という、

家康の思い込みから遠ざけられ、

豊臣秀吉・結城晴朝の養子となった。

そして、三男の秀忠が、

徳川家の世子(あとつぎ)に定められたのである

点線をつたい滴り落ちる湖  岩田多佳子

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   秀忠

「竹千代」

秀忠の”幼名・竹千代”という名には、

家康にとって、特別の意味があった。

いわゆる、秀忠は、「竹千代」という名を冠してから、

すでに、
家康の後継に決まっていたことになる。

そして、天正18年(1590)上洛。

秀吉に謁見して元服し、

偏諱(へんき)により、

秀吉の「秀」の字を受けて「秀忠」と名乗り、

まもなく秀忠の名をもって、北条攻めで初陣を飾る。

≪偏諱ー上位者が下位者に諱(俗名)を、一字与える事≫

最終の器へ確と釘を打つ  吉道航太郎

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家康の家は、三河国(愛知県)の山間部、松平郷出身の松平氏。

代々平野や海を求めて、南下政策をとっていた。

しかし、東(駿河・静岡県)の今川氏と、

西(尾張・愛知県)の織田氏との間に挟まれて、

思うようにいかない。

今川・織田とも、周辺の弱小豪族を、吸収しようと虎視眈々。

松平氏も、この両サイドから狙われていたのだ。

真っ暗闇ひとり一個のカギの穴  前中知栄

そんな状況の中、敢然と勇気をふるい、

大手の圧力にも屈せず、

地域豪族の主体性と自由を実行したのが、

家康の祖父・清康であった。

清康は多くの抵抗をしりぞけ、

松平家の悲願である”南下”を実現して、

三河安城城や岡崎城を確保したのである。

のちにその勇猛さを警戒した家臣に、暗殺されてしまうが、

幼少期から家康にとっては、 

”あこがれの祖父”であった。

外圧に決して負けぬ意志を持つ  足立淑子

尊敬する祖父・清康の幼名が、「竹千代」だった。

そして、家康の幼名も、「竹千代」なのだ。

家康も幼少時代に、今川・織田の人質になって苦しんでいる。

しかし、どんなにつらいときでも、

家康は、竹千代という名にちなんで、

祖父の勇猛心を思い出した。

家康が、息子・秀忠の幼少時、長丸から竹千代と名を改めたとき、

”徳川家のスピリット”を、継げという意思だったのである。

ひょっとしてガラスの靴を試してる  三村一子

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「秀忠とは・・・?」

秀忠の血液型は、”実直”、”うっかり”、”一本気”のO型で、

性格は、地味で温厚で、

父に忠実な律儀な人であったと伝わる。

身長は当時としては、大柄な159cmほどで、

筋肉質であった、と遺骨から推定されている。

また銃創の痕跡が複数見つかっている点から、

敵の攻撃に、直接曝されるような場所で、

指揮を取る戦法を多用していたこと、

骨にまでダメージが及ぶ負傷にも耐え切るだけの体力、

生命力を有していたことが、推定されている

骨密度電圧計で測られる  井上一筒

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秀忠が書き写した壬生忠岑(みぶただたね)の和歌(古今和歌集)

”有明のつれなくみえし別れより あかつきばかりうきものはなし”

「律儀で温厚な秀忠の人柄を示す逸話」
 
-秀忠は律儀でありすぎて、嘘をつけない人柄だった。

少々の嘘は政治には必要なこと。

ある日、家康は本多正信に、

「秀忠は律儀一辺倒だが、それでは、世を治めることはできない」

と漏らした。
 

それを受けた正信は、秀忠に

「秀忠様も、たまには嘘をつかれてはどうですか?」

と言った。
 
すると秀忠は、

「いや、自分は嘘をつけない。たとえついたとしても、

 父上の嘘なら買う者もあろうが、自分の嘘を買う者はいないだろう」

と答えたという。

ひなげしの花の訛りが直らない  十織一返
 
-鷹狩りの好きだった家康のDNAで、秀忠も鷹狩が大好き。
 
鷹狩の出発は、近習の者が太鼓を鳴らして知らせるのだが、

ある日、予定の時間で近習の者が、太鼓を鳴らした。

その時、、秀忠は食事の真っ最中だった。
 
すると秀忠は、「出発の時であるか」と、

食事の途中であるにもかかわらず、

箸を置き、さっさと出発の支度を整え始めた。

人を待たせまいとする秀忠の、律儀を語る一面だ。

ほがらかと言われKYとも言われ  石堂潤子

-秀忠が死の床についた時、家光を枕もとに呼び、

次のように言った。
 
「徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。

  今まで制定した法令も完全なものとはいえない。

  近いうちに、これを改正しようと思っていたが、

  不幸にしてその志を果たすことができない。

   私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。

   これこそが、我が志を継いだことになるのだ」

輪郭をほどよくぼかす和ローソク  山本昌乃

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『大河ドラマ・「お江」-第23回ー「人質秀忠」 あらすじ』

天正18年(1590)正月14日、秀吉の北条討伐が迫る中、

家康は三男・竹千代(向井理)を人質として、大坂城に送った。

そこで竹千代は、江とはじめて出会った。

竹千代12歳、お江18歳だった。

二人は、運命の糸で結ばれているとは、思いもしなかった。

二人の出会いはお互いに、

あまり良い印象でなかったからだ。

電光ニュースチカチカ車停滞す  森中惠美子

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結局、秀吉(岸谷吾朗)は、

竹千代を人質にとらず駿府に送り返した。

更に、秀吉自ら竹千代を元服させ、

「秀忠」という名前まで付けてくれた。

やがて春頃から豊臣勢の北条攻めが始った。

豊臣勢に三か月にわたって、陸と海から完全に包囲されては、

難攻不落といわれた小田原城の北条方も、

降参するほかに道はなかった。

さぬきうどんの軽さで男呑みこまれ  笠嶋恵美子

そして、7月5日、北条家当主・氏直(岩瀬亮)は投降し、

前当主・氏政(清水綋治)と弟・氏照らは切腹、

家康と昵懇だった氏直は、家康の取り成しで、

高野山に送られ、
北条氏は滅亡した。

有様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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お江(上野樹里)は、

家康の後妻となった秀吉の妹・旭(広岡由里子)の病状が、

よくないと聞き、京・聚楽第に駆けつける。

しかし周囲の励ましもむなしく、ほどなく旭は亡くなってしまう。

兄・秀吉の政略で、

半ば強引に家康(北大路欣也)に嫁がされるなど、

波乱の人生を送った人だった。

さらさらと流れる川に逢いに行く  西藤 舞

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そこではじめて、江は、見舞いに来ていた竹千代と出会う。

そして、旭の最期の枕元で、優しい言葉をかける竹千代に、

江は好感を持った。

それゆえ、少し後に再び顔を合わせた際には、

彼の「見舞いをうれしく思った」と伝える。

しかし、竹千代の反応は、

「人質として連れてこられただけで、

  見舞いに来たくて、来たのではない」

という、あまりにそっけないものだった。

初めての印象とは正反対の、竹千代の冷たい態度に、

江はただあぜんとするばかり・・・・。

山で恋に町でこんな人やったん  梅谷邦子

秀吉は、旭が亡くなったあくる日、

竹千代元服の儀が執り行われる。

竹千代は秀吉から一字を授かり「秀忠」と改名。

その後、再び江と顔を合わせた秀忠は、

秀吉や家康への不満をあらわに。

家康らをかばう江と言い争い、二人は決裂する。

目が合って毛穴がひとつ増えました  酒井かがり

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竹千代を秀忠に改名させて、家康との関係を固めた秀吉は、

いよいよ小田原への出陣を決める。

そして、「そちも同行せよ」と、

利休(石坂浩二)
に命ずる。

しかし利休は、「もう長旅はつらい」と従わない。

結局、彼は同行することになるのだが、

このとき2人の間には、かつてない緊張が生じていた。

草庵で浮世の外に転んでる  早泉早人

拍手[9回]

ごっこでした貴方のこどもでした  酒井かがり

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      淀川・淀

「淀殿の産んだ子の父親が本当に秀吉なのかどうか・・・?」

茶々悪女説のなかでも述べた通り、

当時も多くの人が疑問を抱いていた。

秀吉が亡くなった慶長4年(1599)10月朔日付の書状で、

毛利家家臣・内藤隆春は、

淀殿大野治長「密通」について触れ、

治長は殺されるべきところ、

高野山に逃げたらしいと報じている。

戒律は説いたりしない花の寺  美馬りゅうこ

この大野治長の、高野への逃亡に関しては、

奈良・興福寺の『多聞院日記』にも記述がある。

それによると、秀吉の遺言によって、

「慶長4年9月10日に、
大坂城で、

淀殿徳川家康の”祝言”が、行われる予定であったが、

治長が淀殿を連れ出し、高野山に向かったのだ」という。

弁解はラップに包み持ち帰る  泉水冴子

「淀殿と家康の結婚」については、

当時、伏見に抑留されていた朝鮮王朝の、

官人・姜沆(かんはん)も記しており、
秀吉は、

「家康には、秀頼の母(淀殿)を室として政事を後見し、

  秀頼の成人を待ってのち、政権を返すように」

遺言したと言い、

「家康はまた、この秀吉の遺命をたてに、

  秀頼の母(淀)を室にしようとした。

   秀頼の母は、すでに大野修理(治長)と通じて妊娠していたので、

 拒絶して従わなかった。

   家康はますます怒り、修理をとらえて関東に流した」

と述べる。 

≪秀吉没後のことではあるが、淀殿の恋のお相手として、

  大野治長の名を、具体的に示している≫ 『看羊録』

黒い血のどくどく残酷な穏やかさ  山口ろっぱ

江戸時代に入ると、

真田増誉(ぞうよ)『明良洪範(めいりょうこうはん)』
が、

「豊臣秀頼ハ秀吉公ノ実子二アラズ」

と断言して、

「淀殿、大野修理ト密通シ、捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト也」

と記し、これは占いに長じた法師が、

「いい出したことだ」と述べ、

淀殿は歌舞伎の創始者ともいわれる

「美男子・名古屋三郎とも、不義をはたらいた」

と記す。

どきどきと逢いほっこりとして帰る  片岡加代

そして、天野信景の『随筆・塩尻』には、

「大野治長の子ではないか」

と疑われているが、

実際には鶴松秀頼も、

淀殿と占いの上手な法師との、間に出来た子で、

名古屋三郎とも関係を持ったと記している。

口角をあげて含んだことを言う  別所花梨

さらに、『玉露證話(ぎょくろしょうわ)』になると、

一説として、大野治長・実父説をとりあげつつも、

実際は、名古屋三郎(役者)と不義をはたらいて生まれたのが、

秀頼であると記す。

どこまでも纏わりついてくる因果  桂 昌月

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このように、秀頼の父の名は、次々と変化するが、

同時代史料に名前が挙がるのは、

”大野治長ただひとりである。”

彼は淀殿とは乳兄弟で、

たしかに幼い頃から、実の兄弟のようにして育ち、

特別な関係にあったのは事実であるが、

だからといって、「不義をはたらいた」

ということにはならない。

自分史に向かえばペンが嘘をつく  ふじのひろし

「鶴松と秀頼の父親が、秀吉であるか否か」

は、永遠の謎としかいいようがない。

ただ、秀吉が鶴松や秀頼をわが子として、

溺愛したことは紛れもない事実であり、

淀殿を家康の正室にしてまで、秀頼を守ろうとし、

死に際して、五大老・五奉行に最後の最後まで、

繰り返し、繰り返し秀頼の将来を頼んだこともまた、

動かしようのない、事実なのである。

七曜の顔を持ってる私です  河村啓子

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與杼(よど)神社 ~伏見区・淀の産土神

「淀殿不倫疑惑説について、堂門冬二氏が解く」

大蔵卿局は、茶々の乳母であり、

小谷城落城のときも、お市・三姉妹とともに脱出し、

その後の伊勢での生活、柴田勝家へのお市の再婚、

勝家の滅亡、三姉妹の脱出、そして、大坂城入りなど、

ずっと茶々に従ってきた。

茶々にとって、誰よりも信頼できる存在である。

二幕目はちょっとニヒルなスマイルで  荻野浩子

大蔵卿局は、おのずと大坂城に仕える女性たちの総取締役を任され、

茶々を囲む側近のなかでは、もっとも力を持った。

そしてその息子・大野治長も成長し、

秀吉の寵臣(ちょうしん)に育っていき、

秀吉子飼いの側近にとって、脅威となっていった。

≪治長の弟・治房、治胤(はるたね)のいずれも、

   やがて秀頼の忠実な家来になる≫

太陽を貫く剣を手に入れる  油谷克己

長兄の治長は、秀吉時代からの家臣であり、

ことに、家康を敵視していたことなどにより

ここに、茶々派と家康派という権力闘争が起こる。

角度を変えてみてみると、

石田三成が淀殿相手の対象の一人にされたのも、

  三成は、意識して茶々に奉仕していたことなどから、

  当時の三成が、茶々派とみられていたことの証し。

 三成も徹底した反家康派で、治長ともよく気が合っていた』

と、三成も噂の的にされる。

≪三成はこの時期、戦地におり、淀殿と不倫に及んでいる暇はない≫

大さじ一杯の水っぽい殺意  井上一筒

役者の名古屋三郎も茶々相手の槍玉にあがる。

これら中傷のすべては、

茶々の勢力を揺さぶるためのもので、

家康派か茶々派か、大阪城内の侍女群も両派に別れ、

『噂の発生源は、反茶々派の侍女たちではないかと考えられる』

と言い、

「大阪城内の権力関係に変化があり、茶々の周りに、

  新しい側近が発生したことに、理由があるのではないか」

と堂門氏は分析するのである。

気に入らぬ奴はブスッと串刺しに  嶋澤喜八郎

この説を、深読みすれば、

家康に近かった淀殿のライバル・北政所(おね)が、

反茶々派の頭領だったかも知れませんね。

「秀頼は、ほんとうに秀吉の子なのか・・・?」

はたして、どうなんでしょう。

気にするなそう言っている昼の月  森 廣子

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【余談】ですが・・・。

さて、宝塚歌劇では、

石田三成が茶々の恋人になり、話題を呼んでいる

豊臣家への忠義にその生涯を捧げた三成の、武将としての生き様と、

『茶々を愛した故に、「戦に負けたのではないか」と悔やみながらも、

  愛さずにはおれなかった』

三成の苦悩を描いている歴史ロマン。

宝塚宙組公演ー『石田三成 美しき生涯』

茶々に、野々すみ花   三成に、大空祐飛  

天気図を見ながら漕いでゆくボート  赤松ますみ

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