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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ジュテームジュテーム試されているのか  前中知栄


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「秀吉悲痛」

秀吉淀殿の期待の星・鶴松は、

体が弱く、生まれつき病気勝ちだったが、

天正19年(1591)8月19日、ついに危篤に陥った。

淀城での医師による、懸命な治療の一方、

秀吉は、京都東福寺に籠って日夜、

快復平癒を祈願したが、空しかった。

ひーと哭いて後頭から襲う鵺の鳴く夜  山口ろっぱ

秀吉は、わずか3歳で逝った鶴松の死に号泣し、

髷を切って喪に服す。

淀殿も、骸となった幼いわが子を、抱きしめた。

鶴松の幻を、秀吉は追う。

初秋、まどろんで鶴松の夢を見、

炬燵の上を涙の海にした。

”亡き人の形見に泪残し置きて 行方知らずも消え落つる哉”

と、突き上げる悲しみを歌にした。

弔電を打つダンラクにある乱れ  森中惠美子

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    名護屋城屏風

その悲しみを、「朝鮮出兵」で忘れようとするかの如く、

肥前・名護屋城(佐賀唐津)の普請を命じ、

「たとえ、息子の鶴松が蘇生し、予の足下に平伏し、

  多くの涙を流し、

 父の慈悲にすがって

   この企てを断念するように嘆願しても、

 決して聞きいれはせぬ」 (フロイス『日本史』)

と宣言し、関白を甥・秀次に譲り、自ら「太閤」を名乗って、

世界に己が”佳名”を知らしめたいと、

諸大名に出撃命令を出した。

ぶれていく月を押しピンで止める  岩田多佳子 

f7840cf7.jpeg   

 山上宗二の墓がある早雲寺

「山上宗二」

利休の一番弟子・山上宗二は、

堺の山上に住んだので、山上を姓とした。

利休に茶を学ぶこと20年、利休茶道の極意を皆伝された。

信長に茶を持って仕え、

信長の死後は、秀吉に仕えた。

天正10年には、

姫路城また山崎妙喜庵の茶会で、茶頭をつとめている。

口に衣を着せぬ宗二は、ある日、

「黄金の茶室」を自慢する秀吉に、

「そんなものなど、茶道の道に外れます」

と、秀吉の成金趣味を笑い、批判した。

洗濯バサミ噛みつくことで仕事する  三上博史

同時に、師匠の利休に対しても、宗二は、

「あんなもの黙認するのは、あなたは堕落している」

と、痛烈な言葉をあびせた。

そして、そのまま大坂城から姿を消した。

逃げた先は、東国の北条一族の北条幻庵のもと。

頼られた幻庵は、宗二の気骨を愛し、客分として遇した。

そこで宗二は、北関東に茶湯を広めたという。

穴を出て蟹よさてさてしあわせか 中野六助

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      宗二の墓

その後、身を隠すでもない宗二は、

秀吉の配下の者にみつかってしまい、

秀吉の前に、引き出せれてしまう破目になる。

「宗二 こんなところに隠れておったのか?」

秀吉はじくじくと、

「おまえは、まだ、わしの黄金の茶室を、

  成金の俗物主義だと思っているのか?」


宗二を責める。

「思っております」

宗二も譲らない。

怒った秀吉は、宗二をいたぶり、

部下に命じて、鼻を斬らせた。

鬼は外言うこと聞かぬ天邪鬼  柴田敬子

その上で秀吉は、また同じことを聞く。

そして、宗二の答えは、また同じ。

秀吉は、次に、宗二の耳を切り落とした。

こうして宗二は、秀吉になぶり殺しにされる。

この一部始終を目撃した利休は、

このとき、何を思ったのだろうか。

利休が、謝罪か切腹か二者のうち、

切腹を選んだ裏には、

秀吉の理不尽な拷問に耐え、

信念を曲げなかった
宗二の姿への、

反省があったのかも知れない。

ナイアガラの滝も袈裟がけに斬った  井上一筒

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大河ドラマ・「お江」-第25回・「愛の嵐」 あらすじ

江(上野樹里)利休(石坂浩二)切腹の命を覆すよう説得するべく

秀吉(岸谷五朗)のもとを訪れる。

だが秀吉は、その話を聞いた途端にいらだち、

席を立ってしまった。

利休を救いたいと焦る江。

秀次(北村有起哉)から、

「利休が詫びを入れさえすれば、切腹は免れる」

という助言も受け、とにかく本人に会って、

秀吉に頭を下げてくれるよう、頼もうと考える。

逆風を奏でる葬送曲を聞く  太田 昭

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しかし、利休は厳しく見張られており、容易に会うことはできない。

そこで彼女は、

同じように、彼の身を案じる秀勝(AKIRA)と、

炭売りに変装。

なんとか、警備の目をかいくぐり、

利休との対面を果たすのだった。

利休は、そうまでして訪ねてきた江の気持ちを、

十分に理解し、
また、うれしくも思った。

だがその上で、自分は死を受け入れると話す。

江は、「切腹などさせませぬ」と食い下がるが、

利休は決然と言う。

「これは、利休が決めた、利休の道なんですわ」

最後の晩餐のり茶漬けサラサラと  中村登美子

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利休切腹の知らせを受けた秀吉は、

人目もはばからず号泣する。

彼は、本心では、今も利休を慕っており、

誰かが切腹を止めることを願っていた。

少しして、さらなる悲劇が彼を襲う。

鶴松(大滝莉央)が病死したのだ。

秀吉は、髷も結えぬまま、亡くなった愛児を思い、

自らの髷を切り落としてしまうほど、嘆き悲しむ。

そして、生きる力を取り戻すかのように、

新たな戦の計画に、のめりこんでいく。

見なければよかった箱の中なんて  佐藤美はる

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獏のされこうべを満月が洗う  たむらあきこ


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茶人の武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休が修行をした南宗寺

「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」

『人生七十 力囲希咄          (じんせいしちじゅう  りきいきとつ)
  吾這寶剣 祖佛共殺          (わがこのほうけん  そぶつともにころす)
  堤る 我得具足の 一太刀      (ひっさぐる  わがえぐそくの  ひとたち)
  今此時ぞ  天に抛』                 (いまこのときぞ てんになげうつ)

≪意味を読み解ければ、利休の死の訳が見えてくるのです・・・が≫

カマ首をときどき起こし風を聴く  森中惠美子

「利休が秀吉に死刑を命じられる原因を探る」

天正18年(1590)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が、

秀吉への口の利き方が悪いとされ、即日処刑された。

奈良の茶人・久保利世が自叙伝の中で、

「茶説・茶話」を収録した原文に、

『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、

  その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。

この事件から、秀吉と利休の間に、思想的対立がはじまる。

もう二度と熱くなれない君と僕  松山和代

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     利休百会記

≪宗易茶の湯会席 八月十七日≫

利休は、最晩年の天正18年(1590)から、

天正19年にかけて、『利休百会記』として、

その記録が伝わる、およそ「百会の茶会」を開いた。

徳川家康毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、

大徳寺の禅僧など、多様な人々が出席した。

また、この茶会記には、

利休七種にもあげられる「赤楽茶碗・木守」や、

利休愛用の「橋立の茶壷」などの道具を用いた。

号外が降ってきそうな日本晴れ  久岡ひでお

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そして、1月13日、黄金の茶碗を所望した秀吉に、

「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、

  禁欲的で緊張感のある茶である」

と主張する利休は、あえて、『黒茶碗』を出した。

これが、秀吉の勘気に触れた。

≪黄金の茶室と利休についても、

   「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は相反するもの」

   という見方があり、利休設計ということに異論がある≫ 

                                                                            【表千家・「伝聞事】

プライドが変なところへ線を引く  北川ヤギエ

 そして、10日後の1月22日、

利休の後ろ盾であった秀吉の弟・秀長が病没。

秀長は、諸大名に対し、

「内々のことは利休が」、

「公のことは秀長が承る」

と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。

それから、1ヵ月後の2月23日、

突然、秀吉から、

「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」

と利休に命令が届く。

2月25日には、利休の木像が聚楽大橋に晒され、

翌26日、上洛を命じられる。

右よし左よし見上げれば雪  酒井かがり

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      利休邸跡     

前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら、

大名である弟子たちは、

大政所北政所が密使を遣わし、命乞いをするから、

秀吉に詫びるようすすめた。

、「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、

      御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」  と断った。
                  
                                 「『千利休由緒書』に残る利休が利家に答えた言葉」

遺言と書いて江戸小噺を一つ  筒井祥文

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       椿の井戸   

そして、2月28日、利休の屋敷がある、

京都葭屋(よしや)町を訪れた秀吉の、使者が伝えた伝言は、

「切腹せよ」

この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。

利休は静かに口を開く

「茶室にて茶の支度が出来ております」

使者に最後の茶をたてた後、

利休は一呼吸ついて切腹した。  享年70歳。

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 利休愛用の袈裟形手水鉢

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、

利休と同じ作法で食事をとったり、

利休が好む「枯れた茶室」を建てさせたという。

転がってみたいと思うまっ四角  合田瑠美子

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       利休像

「死罪の理由にされている諸説」

 大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって、増上慢があったため、

       自身の雪駄履きの木像を、楼門の二階に設置し、

      その下を秀吉に通らせた疑い。

 安価の茶器類を高額で売り、私腹を肥やした疑い。

③ 天皇陵の石を、勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った疑い。

 秀吉と茶道に対する考え方で対立した疑い。

 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、

     「娘のおかげで出世していると思われたくない」

と利休は拒否した。などなど。

落ち着いて話せば解る勘違い  平田愛子

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あしたという字は暗い日と書くのね  喜多川やとみ


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    利休庵の茶釜

「年表・秀吉ー呪われた3年」

「天正18年(1590)」

家康夫人・旭姫死去(一月)。
小田原城に北条攻め。北条氏滅亡。
家康関東へ移封。信雄改易。
 
「天正19年(1591)」

羽柴秀長死去(一月)。
千利休切腹(二月)。
信雄長女・小姫死去(七月)。
鶴松病死(八月)。

甥の秀次に関白職を譲る(十二月)。

「文禄元年(1592)」

お江、羽柴秀勝に嫁ぐ(二月)。
文禄の役ー秀吉茶々を伴って出陣。秀勝も出陣(三月)。
秀吉の母・大政所没(七月)。
秀勝朝鮮の巨済島で病死(九月)。

文禄の役の敗色。 このころ、お江完子出産。

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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    羽柴秀長

「秀長・利休・鶴松、それぞれの死」

天正19年(1591年)、この年は三姉妹の周辺に、

いくつもの不幸が続いた。

1月に、秀吉の弟で右腕と頼んでいた大和大納言・秀長が、

この世を去った。

前年の初めに、徳川家康に嫁いだ妹・「旭姫」が、

聚楽第で亡くなっているから、

秀吉は、妹と弟を相次いで失ったことになる。

〇書いてチョンなら墓石に刻れますか  田中博造

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     千利休

2月には、秀長の協力者でもあった千利休が、

切腹している。

また、小田原の陣で、

北条家に仕えていた利休の高弟・山上宗二が、

利休の仲介で秀吉に面会を許された折、

無礼を働いたとして、打ち首になった。

カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

小田原では、石田三成の舅の兄・尾藤知宣が、

島津攻め「根白坂の戦い」の失敗の、反省もなく、

秀吉の作戦を酷評、

「自分にまかせるべきだ」

などと、大風呂敷を広げ、打ち首になった。

うかつにも直し忘れた未来地図  新川弘子

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                   旭 姫

7月、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫が亡くなっている。

わずか7歳であった。

小姫は、徳川秀忠と結婚することになっていた。

北の果て余白の多い時刻表  ふじのひろし

そして8月、もともと身体が弱かった「鶴松」が、

わずか、3歳で亡くなった。

秀吉の嘆きはあまりに深く、東福寺に入って髷を切った。

主な大名たちも、それにならったという。

幾層の闇 剥がしても剥がしても  赤松ますみ

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  南宗寺内・利休茶室

「茶人・千利休」

千利休は、堺で納屋衆(倉庫業)を営む商家に生まれる。

商家の屋号は、なぜかユニークに魚屋(ととや)という。

父は、田中与兵衛、母の法名は、月岑(げっしん)妙珎、

妹は、、茶道・久田流へと続く宗円

若いころから、茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳(きたむきどうちん)

ついで、武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、

師とともに、茶の湯の改革に取り組んだ。

するめいか焙るとスルメ起き上がる  泉水冴子

その流れから、織田信長が堺を直轄地としたときに、

茶頭として雇われ、

のち豊臣秀吉に仕えた。

利休という名は晩年、天正13年(1585年)10月の、

秀吉の禁中茶会で、正親町天皇から賜った居士号であり、

それまでは「千宗易」という法名を名乗った。

山の端の雲が大人になった雲  井上一筒

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   南宗寺・茶室

利休は、わび茶の完成者で、「茶聖」と称される。

わび茶は、無駄ともいえる装飾性を省き、

”禁欲的で緊張感”のある茶である。

その世界を追求するため、

利休は、草案と呼ばれる二畳や三畳の「茶室」を創出。

また楽茶碗、万代屋釜、竹の花入れ、などの「利休道具」を考案し、

露地の造営にもこだわり、

茶の湯を、「一期一会の芸術」にまで高めたのである。

≪楽茶碗の銘ー(黒の方は「大黒」、赤の方は「道成寺」)

展開は真みどり三重奏の靴  富山やよい

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一時期、利休は、秀吉の聚楽城内に屋敷を構え、

聚楽第の築庭にも関わり、

禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

天正15年(1587)の「北野大茶会」を主管し、

一時は、秀吉の重い信任を受けたが、

その4年後の天正19年1月、

利休は、突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられた。

澄んでしまえば生きにくい白である  前中知栄

蟄居の7ヶ月後、利休は切腹をする。

今もって、謎とされている千利休の死。

秀吉に切腹を命じられたことによるが、

死罪の理由は、定かではない。

しかし、天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、

粛々と受け入れることで、

利休は、世俗の王・信長や秀吉の上に立ったともいえる。

理想論でうごくこの世であるならば  たむらあきこ

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『大河ドラマ・第24回・「お江」―「利休切腹」  あらすじ』

天正19年(1591)正月22日、

戦場を駆けた若き日から、

秀吉(岸谷吾郎)を支えてきた弟・秀長(袴田吉彦)が、

かねてよりの病を悪化させ、明日をもしれぬ状態だった。

秀吉は、すぐに病床に駆けつけるが、

秀長は、もはや虫の息。

秀長は、

「江や利休など耳に痛いことを言う者を信じるべき」

と、最後の力をふりしぼって、兄に言い残し、力尽きる。

虚しさの残る言葉に蓋をする  小川一子

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秀吉と大名たちの、つなぎ役でもあった秀長が、

いなくなったことは、

豊臣政権にとっては大打撃だった。

仲介役の秀長が亡くなったことで、秀吉と利休の関係も、

ますます悪化していく。

秀吉があまりにも、利休を重用することで、

誰もが利休を頼るようになっており、

また利休もそれを利用して、

出世していくことに、懸念を示していたのだった。

添うた背いた花筏の蛇行  岩根彰子

北条攻めに勝利した秀吉は、東国の諸大名を屈服させ、

ついに天下統一を成し遂げて、ほどなく、

京・聚楽第に、いとしい鶴松(大滝莉央)のもとへと急ぐ。

彼は、やっと授かった跡取りが、可愛くてしかたがないのだ。

そんな中で騒動は起きた。

シグナルは点滅行き場に揺れている  山本昌乃

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秀吉が朝鮮の使節と会見する際、

こともあろうに、鶴松を連れて現れたのだ。

朝鮮は礼を重んじる国。

公の場に幼児を同席させるのは、礼を失した行為となる。

しかし秀吉は、

鶴松を見て困惑する使節たちの様子を気にもせず、

「わしは日輪の子である」

と宣言し、さらに、明国を平らげるつもりだから、

「朝鮮は戦に協力しろ」

と言い放つ。

使節たちは、彼の傲慢な態度に怒って席を立ち、

会見は台なしになってしまった。

螺旋の底で水の澄むのを待っている  森 廣子

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このような秀吉の言動に対し、利休(石坂浩二)は、

2人の関係悪化に気をもむ江(上野樹里)が、

冷や冷やするような、遠慮のない言葉を投げかける。

それを聞き、秀吉は、すぐさま機嫌が悪くなる。

だが実は、利休の従順ならざる態度を、

最も苦々しく思っていたのは、

秀吉の忠実な側近・三成(萩原聖人)だった。

石よりも硬い頭が邪魔になり  橋本 康

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そんなことから、同年・2月13日、

石田三成の讒言により、

利休は、大坂城から堺へと追放が決まった。

利休は頑なに謝罪を拒否し、

秀吉も引くに引けなくなり、

2月28日、利休は、聚楽第で秀吉より切腹を命ぜられた。

ゾロゾロと喪服二幕目へと続く  谷垣郁郎

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鍵穴の大きさほどに生きている  森中惠美子

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 小田原城(復元)

「北条氏掃討」

天正18年(1590)3月1日、

天下統一の総仕上げになった「小田原攻め」に、

秀吉は、
当初、北条氏にそれほど厳しいことを、

要求したわけでもなく、

関白としての顔を、立ててくれればよかった。

ところが、北条氏は上洛しないのみならず、

”惣無事令”
も無視した。

これに腹を立てた秀吉は、小田原の「北条掃討」の決意をする。

いつの間に図太くなった豆もやし  合田瑠美子

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     北条氏直

ひとときは北条氏も、

天下統一に積極的に関与した革新大名だったが

五世代百年も経て、名門意識に凝り固まり、

すっかり保守化してしまっていた。

このぬるま湯につかった集団は、世の情勢にもうとくなっており、

結果、北条氏は滅亡への道を歩むことになる。

≪(惣無事令)ー大名間の私闘を禁じた法令≫

跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ

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    北条氏政

秀吉は、石田三成に綿密な兵站計画をたてさせ、

長期戦に耐えられるように図った。

このとき秀吉は、

「長陣となり、退屈であろうから、

  諸将には女房を呼び寄せてもかまわない」

と通達し、その上に自分のことでは、

北政所に、

「お前の次に茶々を気に入っているので、

  こちらに来る手配をしてくれ」

 と手紙を書き送っている。

そして小田原城を見下ろす石垣山に”一夜城”を築かせ、

そこに茶々を呼び寄せた。

恋だって時どき衣替えしたい  泉水冴子

難なく小田原城を落とした秀吉は、

奥州まで平定して、天下統一を果たし、

9月1日、
聚楽第に凱旋する。

竹籠で水仙一本始末する  田中博造

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     徳川家康

「関東移封で家康は大喜び、家臣は泣きの涙」

やがて、戦後の論功行賞がはじまった。

家康には、北条の領地である関八州が与えられ、

転封を命ぜられた。

秀吉としては、あまり関心のない関東は、

好意的にとれば、実力のある家康に、

まかせておきたかったとの言い方をするが、

秀吉の意図は明らかだった。

カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

秀吉は寒村であった江戸を、居城に指定し、

目障りな家康を京・大坂という政の中心から、

遠ざけようということだった。

だが家康は、何も言わずに従った。

≪このとき、秀吉じきじきの指示で、上州箕輪で12万石をあてがわれ

   筆頭家老に躍り出たのが、彦根藩祖になった井伊直政だった≫

ひとつづつ忘れていけばできあがり  加納美津子

この関東移封は、「清和源氏」を名乗る家康にとっては、

新田郡世良田(太田市)を”先祖の地”と自称している上野国や、

源頼朝が幕府を開いた相模国の、主になるわけだから、

気持ちの上で、突拍子なことでもなく、

さほど、嫌悪することでもなかった。

よよよとは泣くに鳴けない糸蚯蚓  岩根彰子

しかし家臣たちは、骨の髄まで三河人で、

「家康が最近になって新田氏の末流」

だと強調しだしたことすら、違和感を持っていたから、

小田原へ移ることには、大反対であった。

とはいうものの、家康が受けた以上は、

その家臣は従わざるをえなかった。

≪戦国大名にとって移封は、家臣の力をそいで、

   中央の力を強くする最高のチャンスでもあった≫

遮断機を下ろし回りを黙らせる  籠島恵子

拍手[6回]

山河あり静かに足を浸けるべし  富山やよい

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   秀忠誕生の浜松城

「徳川秀忠」

お江が三度目に嫁ぐ相手・徳川秀忠は、浜松の城で生まれた。

天正7年(1579)4月7日、

幼名は、長丸、竹千代

徳川家康の三男である。

さわやかな香りを放つ若いって  森下よりこ

家康の長男・信康は、

17歳で、”長篠・設楽ヶ原の戦い”に初陣を果たしており、

家康の後継者として期待を集めていた。

しかし、妻・徳姫との不和が原因で、切腹を命ぜられる。

徳姫は信長の娘だった。

家康といえども、信長に逆らうことはできない。

秀忠が生まれて間もなく、信康は自ら命を落とした。

カサブランカの切り口上に逆らえず  美馬りゅうこ

次男・秀康、「どうも自分に似ていない」という、

家康の思い込みから遠ざけられ、

豊臣秀吉・結城晴朝の養子となった。

そして、三男の秀忠が、

徳川家の世子(あとつぎ)に定められたのである

点線をつたい滴り落ちる湖  岩田多佳子

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   秀忠

「竹千代」

秀忠の”幼名・竹千代”という名には、

家康にとって、特別の意味があった。

いわゆる、秀忠は、「竹千代」という名を冠してから、

すでに、
家康の後継に決まっていたことになる。

そして、天正18年(1590)上洛。

秀吉に謁見して元服し、

偏諱(へんき)により、

秀吉の「秀」の字を受けて「秀忠」と名乗り、

まもなく秀忠の名をもって、北条攻めで初陣を飾る。

≪偏諱ー上位者が下位者に諱(俗名)を、一字与える事≫

最終の器へ確と釘を打つ  吉道航太郎

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家康の家は、三河国(愛知県)の山間部、松平郷出身の松平氏。

代々平野や海を求めて、南下政策をとっていた。

しかし、東(駿河・静岡県)の今川氏と、

西(尾張・愛知県)の織田氏との間に挟まれて、

思うようにいかない。

今川・織田とも、周辺の弱小豪族を、吸収しようと虎視眈々。

松平氏も、この両サイドから狙われていたのだ。

真っ暗闇ひとり一個のカギの穴  前中知栄

そんな状況の中、敢然と勇気をふるい、

大手の圧力にも屈せず、

地域豪族の主体性と自由を実行したのが、

家康の祖父・清康であった。

清康は多くの抵抗をしりぞけ、

松平家の悲願である”南下”を実現して、

三河安城城や岡崎城を確保したのである。

のちにその勇猛さを警戒した家臣に、暗殺されてしまうが、

幼少期から家康にとっては、 

”あこがれの祖父”であった。

外圧に決して負けぬ意志を持つ  足立淑子

尊敬する祖父・清康の幼名が、「竹千代」だった。

そして、家康の幼名も、「竹千代」なのだ。

家康も幼少時代に、今川・織田の人質になって苦しんでいる。

しかし、どんなにつらいときでも、

家康は、竹千代という名にちなんで、

祖父の勇猛心を思い出した。

家康が、息子・秀忠の幼少時、長丸から竹千代と名を改めたとき、

”徳川家のスピリット”を、継げという意思だったのである。

ひょっとしてガラスの靴を試してる  三村一子

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「秀忠とは・・・?」

秀忠の血液型は、”実直”、”うっかり”、”一本気”のO型で、

性格は、地味で温厚で、

父に忠実な律儀な人であったと伝わる。

身長は当時としては、大柄な159cmほどで、

筋肉質であった、と遺骨から推定されている。

また銃創の痕跡が複数見つかっている点から、

敵の攻撃に、直接曝されるような場所で、

指揮を取る戦法を多用していたこと、

骨にまでダメージが及ぶ負傷にも耐え切るだけの体力、

生命力を有していたことが、推定されている

骨密度電圧計で測られる  井上一筒

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秀忠が書き写した壬生忠岑(みぶただたね)の和歌(古今和歌集)

”有明のつれなくみえし別れより あかつきばかりうきものはなし”

「律儀で温厚な秀忠の人柄を示す逸話」
 
-秀忠は律儀でありすぎて、嘘をつけない人柄だった。

少々の嘘は政治には必要なこと。

ある日、家康は本多正信に、

「秀忠は律儀一辺倒だが、それでは、世を治めることはできない」

と漏らした。
 

それを受けた正信は、秀忠に

「秀忠様も、たまには嘘をつかれてはどうですか?」

と言った。
 
すると秀忠は、

「いや、自分は嘘をつけない。たとえついたとしても、

 父上の嘘なら買う者もあろうが、自分の嘘を買う者はいないだろう」

と答えたという。

ひなげしの花の訛りが直らない  十織一返
 
-鷹狩りの好きだった家康のDNAで、秀忠も鷹狩が大好き。
 
鷹狩の出発は、近習の者が太鼓を鳴らして知らせるのだが、

ある日、予定の時間で近習の者が、太鼓を鳴らした。

その時、、秀忠は食事の真っ最中だった。
 
すると秀忠は、「出発の時であるか」と、

食事の途中であるにもかかわらず、

箸を置き、さっさと出発の支度を整え始めた。

人を待たせまいとする秀忠の、律儀を語る一面だ。

ほがらかと言われKYとも言われ  石堂潤子

-秀忠が死の床についた時、家光を枕もとに呼び、

次のように言った。
 
「徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。

  今まで制定した法令も完全なものとはいえない。

  近いうちに、これを改正しようと思っていたが、

  不幸にしてその志を果たすことができない。

   私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。

   これこそが、我が志を継いだことになるのだ」

輪郭をほどよくぼかす和ローソク  山本昌乃

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『大河ドラマ・「お江」-第23回ー「人質秀忠」 あらすじ』

天正18年(1590)正月14日、秀吉の北条討伐が迫る中、

家康は三男・竹千代(向井理)を人質として、大坂城に送った。

そこで竹千代は、江とはじめて出会った。

竹千代12歳、お江18歳だった。

二人は、運命の糸で結ばれているとは、思いもしなかった。

二人の出会いはお互いに、

あまり良い印象でなかったからだ。

電光ニュースチカチカ車停滞す  森中惠美子

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結局、秀吉(岸谷吾朗)は、

竹千代を人質にとらず駿府に送り返した。

更に、秀吉自ら竹千代を元服させ、

「秀忠」という名前まで付けてくれた。

やがて春頃から豊臣勢の北条攻めが始った。

豊臣勢に三か月にわたって、陸と海から完全に包囲されては、

難攻不落といわれた小田原城の北条方も、

降参するほかに道はなかった。

さぬきうどんの軽さで男呑みこまれ  笠嶋恵美子

そして、7月5日、北条家当主・氏直(岩瀬亮)は投降し、

前当主・氏政(清水綋治)と弟・氏照らは切腹、

家康と昵懇だった氏直は、家康の取り成しで、

高野山に送られ、
北条氏は滅亡した。

有様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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お江(上野樹里)は、

家康の後妻となった秀吉の妹・旭(広岡由里子)の病状が、

よくないと聞き、京・聚楽第に駆けつける。

しかし周囲の励ましもむなしく、ほどなく旭は亡くなってしまう。

兄・秀吉の政略で、

半ば強引に家康(北大路欣也)に嫁がされるなど、

波乱の人生を送った人だった。

さらさらと流れる川に逢いに行く  西藤 舞

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そこではじめて、江は、見舞いに来ていた竹千代と出会う。

そして、旭の最期の枕元で、優しい言葉をかける竹千代に、

江は好感を持った。

それゆえ、少し後に再び顔を合わせた際には、

彼の「見舞いをうれしく思った」と伝える。

しかし、竹千代の反応は、

「人質として連れてこられただけで、

  見舞いに来たくて、来たのではない」

という、あまりにそっけないものだった。

初めての印象とは正反対の、竹千代の冷たい態度に、

江はただあぜんとするばかり・・・・。

山で恋に町でこんな人やったん  梅谷邦子

秀吉は、旭が亡くなったあくる日、

竹千代元服の儀が執り行われる。

竹千代は秀吉から一字を授かり「秀忠」と改名。

その後、再び江と顔を合わせた秀忠は、

秀吉や家康への不満をあらわに。

家康らをかばう江と言い争い、二人は決裂する。

目が合って毛穴がひとつ増えました  酒井かがり

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竹千代を秀忠に改名させて、家康との関係を固めた秀吉は、

いよいよ小田原への出陣を決める。

そして、「そちも同行せよ」と、

利休(石坂浩二)
に命ずる。

しかし利休は、「もう長旅はつらい」と従わない。

結局、彼は同行することになるのだが、

このとき2人の間には、かつてない緊張が生じていた。

草庵で浮世の外に転んでる  早泉早人

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