忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[186] [187] [188] [189] [190] [191] [192] [193] [194] [195] [196]

青空を回せば僕の逆上がり  前中知栄

8e6155e3.jpeg

       彦根城

≪大津城から移築されたといわれる三重の天守がそびえる≫

「初が驚いた夫の寝返り」

初の夫・京極高次は、はじめ三成派(西軍)についていた。

弟の高知は会津攻めに、すでに加わっていたが、

遅ればせながら高次は、三成が挙兵にあわせ、

大谷吉継らと、関が原に向かった。

ところが、

「岐阜城が落ちた」

「家康がいよいよ動き出した」

と、
いった中で、西軍から、 

「大津城を明け渡してもらって、使いたい」

 

という申し入れがあったのを機に、

高次は、 

「これ以上踏み込むと取り返しがつかなくなる」
 
と、思ったのか、湖北からこっそり大津城に戻って、

突然、「東軍に参加する」ことを宣言したのだ。 

風の男に女は念を押すばかり  森中惠美子

 

「運を天にまかすしかない」

というのだから、

高次には、よほど腹をくくってのことだったことなのだろう。

これには、おっとりがた初も驚いた。

しかも、高次は、 

「この戦いは内府(家康)さまの勝だ」 

 

だといいきる。 

一大事明日がどこにも見当たらぬ  岩田多佳子
 

takatugu7.jpg

     京極高次

会津に行く途中に立ち寄った家康は、高次に、

「味方に」と懇々と頭を下げて頼んでくる。

そして、 

「佐和山城にいる三成が、妙な動きをしたら教えてほしい」

 

と、こころを割って話してくる。

それにひきかえ、三成は、

もともとは、京極家の家臣の出身にかかわらず、

日ごろから態度が悪く、今回も何も言って来ない。

高次のどちらに付くかの結論は、

その印象だけで決まっていた。 

つらいのはお互いあの日からである  杉本克子

ef423164.jpeg

 

初もこうなっては、

小谷城や北の庄城での経験を思い出して、

一緒に戦うしかなかった。

初は、姉(茶々)と妹(江)の板挟みになることを、覚悟した。

大坂から説得の使者が来るが、高次は会わない。

夫が出陣した後、三成から, 

「城を明け渡して欲しい」 

 と申し出てきた。

だが、初は身体を張って断固として断った。 

コンニャクの隣に肉は座らせぬ  岩根彰子

 

いよいよ西軍は毛利元康を大将として、

立花宗茂、筑紫広門らの1万5千の兵が、

城を攻めはじめ、園城寺境内の高台から、

大砲を打ち込んでくる。

当時の大砲の玉は、ひょろひょろと飛んでくるものだから、

近在の町民は、これを見物しながら、 

「当るかどうか」

 

賭けたという。 

≪戦が始まる前に高次は、大津の町を焼き払ってしまったものだから、

   町民の間では、高次の評判はさんざんで、

   願いとして、「高次負け」方に賭けた人が多かったらしい≫

 

一言のジョークで悲劇から喜劇  牧浦完次

912edc8c.jpeg

城内では、

武闘派の赤尾伊豆山田大炊が出撃して、

攻め手をさんざん手こずらせたが、

二の丸が破られ、本丸だけになってしまう。

ついに砲弾が、京極竜子の近くにも落ち、

侍女が2人、木っ端みじんに砕かれて死んで、

竜子は気絶をしてしまった。

戦いは9月8日から14日まで続いた。

北政所から孝蔵主が来て、竜子を助けるためにも、

「開城を」といってくる。 

海のほう海のほうへと傾ぐ首  八上桐子

fd93597f.jpeg

 

これには、さすがの高次も、 

「これ以上頑張っても落城しかない」 
 
と悟り、
渡りに船とこれを受け入れた。

大津城に籠城し、毛利軍、立花軍の猛攻に耐え、

結局、落城するが、高次が毛利軍を足止めした働きは、

東軍勝利の要因ともなった。 

右足をあの世に出して失格に  筒井祥文

8a1361de.jpeg


この戦いは、「大津城籠城の戦い」として名が残る。

 

敗戦の将・高次は剃髪して、

宇治から高野山に向かい、

初と竜子は京都に引きあげた。

ところが、大津の城を開城した翌日に、

「関が原決戦」がはじまり、

一日で東側が勝利することとなる。

木漏れ日へピカソ逆立ちしてました  岡本久栄

拍手[3回]

PR
男の罪を風の罪だと思わねば  森中惠美子

19e350e4.jpeg0fb1673c.jpeg

ガラシャと小笠原秀清(槍)と河北石見

「ガラシャの死」

細川ガラシャ(珠-タマ)は、永禄6年(1563)、

明智光秀の三女として越前国で生まれた。

文化人でもあった父の教育を受け、

聡明で美しい娘へと成長した珠は、

15歳で信長の家臣・細川忠興のもとに嫁いだ。

忠興とは、たいへん仲睦まじい夫婦であったが、

平穏な日々は長くは、続かなかった。

自画像のたそがれ華が欠けてくる  たむらあきこ

c0be4bc4.jpeg

珠が幽閉された味土野の山を望む遺跡

父・光秀が本能寺で主君・信長を討ち、

珠は、「逆臣の娘」の烙印を押されることになる。

そして、夫・忠興が羽柴秀吉側についたため、

本来であれば、離縁されるのが当然のところ、

珠を愛していた忠興によって、

丹後の山奥に味土野(みどの)に幽閉されることとなる。  

≪このとき、腹に子を宿していた珠は、男児を産む。 細川忠隆である≫

  

”身を隠す里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥鳴く”

                        *(呼子鳥が何の鳥か解っておりません)

帯封を切って戻れぬ向こう岸  加納美津子

686b0091.jpeg

2年に及ぶ幽閉が解かれ、

大坂の細川屋敷に戻ることが出来たが、

そこに彼女を待ち受けていたのは、

忠興が側室を置いているという事実だった。

そのような辛い日々が、

彼女をキリスト教に向かわせたのだろう。

忠興が秀吉に従って、九州征伐に出向いている間に、

珠は洗礼を受け、「ガラシャという洗礼名」を授けられた。 

≪それを知った忠興は、執拗に棄教を迫ったとされるが、

   彼女の信仰が、揺らぐことはなかった≫

 

まどろみは浮世ばなれになっていく  山本昌乃

秀吉の死後、忠興は苦境に立たされる。

東西決戦の開幕だ。

こうした時、東西のどちらにつくか?

秀吉には妻の命をとらなかった寛大な恩がある。

また嫡男・忠隆が前田利家の娘婿だったこともあり、

家康から警戒される一方、前田利長の屈服後は、

加増を受けるなどして、取り込まれていたのだ。

風に従うほかはなかった。

「ガラシャの辞世」とされている句は、この時を歌っている。 

”ちりぬべき時知りてこそ 世の中の花も花なれ 人も人なれ”

 

「死なねばならないとしたら、

 その時に向かって、人生を全うして無駄に過すな。

 そして桜の花のように 散ってこそよいのです」

と関が原決戦の直前に、細川忠興の妻として、

夫を励ましている。

コロン一滴さっぱり捨てて始発駅  荻野浩子

604b20aa.jpeg


   田辺城の石垣跡

忠興と嫡男・忠隆が会津遠征中、

留守をあずかっていた忠興の父・藤孝(幽齋)は、

本拠の宮津ではなく田辺城(舞鶴)に籠城した。

そして、さんざん西軍をてこずらせたあと、

「古今伝授」の廃絶を心配した後陽成天皇の仲介で、

子も命も失うことなく、開城された。

あしたを唄うのど飴は買ってある  奥山晴生

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが勃発する直前、

夫が徳川方につき、上杉討伐のため不在となったすきに、

伏見の細川屋敷にいたガラシャは、

「人質に」と考える西軍・石田三成の襲撃を受けた。

人質になることを拒んだ彼女は、自害を余儀なくされる。

キリシタンの教えでは、自害を禁じている。

彼女は、自らの身の処し方をどのようにするか、

神父・グネッキ・ソルディ・オルガンティノと相談し、

三成の使者が来ると、侍女たちを退去させ、

邸内の礼拝堂にこもって祈り続けた。 

俄雨隣の布団水浸し  馬杉としこ

 

その翌日、実力行使に出た三成の兵に屋敷を囲まれると、

ガラシャは家老・小笠原秀清河北石見を呼び、

槍で胸を貫かせた。
 
家臣らは、ガラシャに首を切り落とした後、

その遺骸を絹衣で覆い、火薬をまいて全員自害し、

細川邸は火の海と化した。

キリシタンとして、夫に仕えた最期であった。 

”先だつは同じ限りの命にも まさりておしき契と知れ”

 

すすり泣く帯は運河へ捨てにゆく  赤松ますみ

ce6dee13.jpeg

細川邸屋敷跡(大坂玉造)

こうした結果に対して、かねてから忠興は、

舅の藤孝らと、
その手はずを整えていたようだ。

忠興が、ガラシャを愛してなかったわけではない。 

「敵の人質にされるくらいなら、殺したほうがましだ」

 

という、少し歪んだ愛情だった。 

なにしろ、ガラシャの姿を垣間見ただけで、

庭師を殺したという忠興である。

 

着脱の善意の仮面持っている  岩根彰子

一方、忠隆の正室の千代は、逃げ出して無事だったが、 

「なぜ、ガラシャと運命をともにしなかったのか」

 

と忠興からなじられた。

このとき、妻をかばった忠隆は、廃嫡されてしまった。 

泣き言はお止し湿度が高くなる  オカダキキ

 

ガラシャの死の数時間後、

神父は、細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、

堺のキリシタン墓地に葬った。

忠興はガラシャの死を悲しみ、

慶長6年、オルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して、

葬儀にも参列し、

後に遺骨を、大坂・東淀川の崇禅寺へ改葬した。

涙ぐむ小さな小さな草の花  時実新子

d82a66c8.jpeg 81a32002.jpeg

    勝竜寺城正面          細川忠興・ガラシャ像

忠興とガラシャが、

盛大な結婚式を挙げた場所でもある勝竜寺城は、

670年(1339年築城)の歴史があります。

JR長岡京駅東口から南へ、ガラシャ通りを歩いて約8分。

阪急・長岡京市駅からは、約12分で行けます。

谷垣郁郎さん主催の「川柳・たけのこ」は、

この長岡京で開催されています。

句会に寄られる前に、ガラシャの歌心の注入に、

一寸覗いて見られたらいかがでしょう。

入場無料です。場所ー京都府長岡京市勝竜寺13-1。

仏壇へ買った金魚も供えとく  谷垣郁郎

05b6229f.jpeg


大河ドラマ「お江」・第34回‐「姫の十字架」 あらすじ

迫りくる決戦は、徳川や豊臣の者ばかりではなく、

多くの人々の運命を変えていく。

いよいよ戦が迫り、江(上野樹里)には、

徳川と豊臣の関係のほかに、

もう一つ気がかりなことがあった。

それは、

上杉攻め先鋒の総大将を勤める夫・秀忠(向井理)のこと。

彼女には、夫が「戦に向いていない」と分かっていたからだ。 

アツアツの平行線を信じきる  前中知栄

 

そこで江は、今度の戦に不安はないか?

思い切って秀忠に聞いてみる。

すると彼は、驚くほど素直に、 

「自分が戦嫌いである」 

 こと、 

「徳川の跡取りであるがゆえ、戦をしなければいけない苦悩」

 

を打ち明けた。

そして、

「討ち死にすれば二度と戦をせずにすむ」

とまで言い出す。

夫が始めて、真情を明かしてくれたことがうれしく、

勇気を得た江は、秀忠に大胆な提案をする。

菜の花畑終日割箸割れる音  岩田多佳子

b74c7c10.jpeg

三成方と家康方の間に位置する交通の要衝、

近江・大津の地では、高次(斉藤工)、初(水川あさみ)、

そして龍子(鈴木砂羽)が、 

「家康と三成、どちらに組みするか」 
 
決めかねていた。

いざという時には自分信じよう  嶋澤喜八郎

家康は会津へ向かう道すがら立ち寄り、

事が起きたら、「自分に味方するよう」念を押していった。

だが、その家康が、天下を奪おうとしているのなら、

彼につくことは、恩ある豊臣家への裏切りとなる。

悩む初たちに、

残された時間は少なかった。

振りきれてしまうあしたを指す磁石  高島啓子

4184af2c.jpeg

また、家康につくことを明らかにした

細川忠興(内倉憲二)
・ガラシャ(ミムラ)は、

大坂の屋敷で、三成の兵に囲まれる。

三成は、家康方についた大名の妻子を、

人質にとろうとしていたのだ。

しかし、ガラシャは、

自分のために夫が、存分に働けなくなる
のを良しとせず、

事態を収めるため、

ある悲壮な覚悟を決める。

千手観音とジャンケンして笑う  井上一筒

拍手[4回]

城一つ伸びゆく街の灯を見つめ  金子呑風

      930c9e05.jpeg

大奥での御台所・お江が描かれた錦絵

≪慶長10年(1605)秀忠が2代将軍に就任。

  32歳にして江は、ついに徳川家の御台所となった≫

「江戸城」

秀忠との結婚生活を、伏見で始めたお江は、

婚儀から2年後の慶長2年(1597)に、

豊臣秀頼の妻となる長女・千姫を産む。

その後、生活の場を徳川家の居城・江戸城に移し、

ここに約30年にもわたる、江戸での生活が始まる。

そして江にとって、

江戸城が、54年の波瀾の人生を終える城となる。

石垣を積む一本に骨の音  通 一遍

koukyo3.jpg


東御苑に残る「天主台石垣」

当時の江戸城は、徳川家が天下人となり、

幕府を開いた後の江戸城とは、まるで違っていた。

まず、天守閣がなかった。

江戸城が将軍の居城として面目を一新するのは、

秀忠が将軍に就いてからだった。

慶長9年(1604)に、江戸城増築の方針が打ち出されるが、

実際に工事が始まったのは、

秀忠が将軍に任命された慶長10年のこと。

工事は将軍が住むべき本丸から始まった。

その年、9月に本丸が完成。

慶長12年(1607)に、天守閣が完成する。 

城跡に佇つと聞える鬨の声  有田晴子
 
cb8c384f.jpeg

      本丸(模擬)

そもそも、徳川家の当主である家康は、

豊臣政権の五大老筆頭として、上方にいることがほとんど。

そのため、江戸城は後継者に擬せられていた秀忠が、

預かる城になっていた。

天下人になった後も、家康は江戸城よりも、

駿府城にいることが多く、終焉の地も駿府城となる。

風生まれ命育む懐へ  合田瑠美子

秀忠は、二代将軍ではあるが、

”将軍のお膝元・江戸” とは事実上、

秀忠の時代に始まるのだ。

お江は、徳川最初の「御台所」として、

上方に行くことも多かった秀忠の留守を、守ったのである。

江戸城とは、

秀忠とお江によって礎が築かれた城だった。

点滅が止んで完成した私  西恵美子

64ac8a40.jpeg

   「伏見城縄張図」

秀忠の将軍職を祝うため諸大名はこぞって伏見城に登城した。

秀忠が伏見城に朝廷からの使者を迎え、

将軍に任命されたのは、慶長10年(1605)のことである。

”御台所お江” が誕生した年でもあった。

家康の在職期間は、わずか2年に過ぎなかったが、

秀忠は元和9年(1623)まで、約20年間にわたり在職する。 

生きてゆく踏んだり蹴ったりされながら  籠島恵子

 

その間、秀忠は父・家康の路線を維持し、

開府まもない江戸幕府の基盤を、強化することに心血を注いだ。

将軍親政の体制を整え、

「武家諸法度」や「公家諸法度」など、

”幕府統治の根幹に関わる諸法” を定着させたのは、

秀忠の治世であった。

強がりを言ってしまったあほやなあ  新川弘子

edo-tizu.jpg

   「皇居東御苑」

≪皇居東御苑は、当時の本丸・二の丸三の丸を中心とした地域で、

    面積は約21万㎡。西の丸(下部囲み左は現在の宮内庁)≫

「恐い妻お江」

2人の正室と15人の側室をかかえた家康の息子でながら、

秀忠は江、一筋。

絵に描いた”恐妻家”として知られている。

お江は、続けざまに3人の子供を産んだが、

みな女子である。

後は世継ぎの男子を生むことだ。

お江は、秀忠を責めたてた。

偉大すぎる父の遺産をどう守るか、

それは胸が苦しくなるほど、難しいことだった。 

「自分にその資格があるのだろうか」

 

秀忠は自問自答の日々だったが、

いつも、お江が後押ししてくれた。 

「能ある鷹は爪を隠すといいます。

  殿さまはじっと周囲を見て学ぶのです」

 

お江の言葉は、胸に響いた。 

虚と実に揺れる女の息づかい  茂本隆子
 
koukyo1.jpg

 ≪皇居東御苑「大奥跡」≫

≪今は広場になっている。奥に天主台を望む≫

その後、珠姫の誕生から、

御水尾天皇の中宮となる和子(まさこ)まで、

お江は、徳川家で2男五女の子宝に恵まれ、

江戸のシンデレラストーリーを描いていくのである。 

ゼブラゾーンを埋め尽くす蛇である  井上一筒

「江と秀忠の子供」 

長女、 千姫(1598) (豊臣秀頼に嫁ぐ)
次女、 珠姫(1599) (加賀藩三代藩主・前田利常正室)
三女、 勝姫(1600) (越前国福井藩主・松平忠直正室)
四女、 初姫(1603) (姉・初の養女になる)

長男、 5人目にして待望の男児誕生(1604)。 竹千代(家光)である。
次男、 秀忠が恐妻・江の目を盗んで出来た異母弟・保科正之
三男、 国松誕生(1606) (後の忠長)異母弟保科正之
五女、 和子(1607)  (東福門院)

 

もういいじゃないかと思うまで産んだ  藤井孝作 

masayuki.jpg 

     保科正之

「秀忠・次男・保科正之について」

秀忠はお江との間に、二男5女を儲けたが、

お江以外の女性との間に生まれた子供は、

記録上は、男の子2人だけである。

それも密かに手を付け、妊娠すると御殿から出してしまった。

それだけお江の目を恐れたわけだが、

秀忠の乳母の侍女・お静の方が生んだ、

幸松丸という男の子こそ、

後の会津藩主・保科正之である。 

噴火する予兆か妻が黙り込む  上嶋幸雀

 

もう1人の男子・長丸は、家光誕生の前に生まれ夭折するが、

その母も侍女の身分であったとおもわれる。

その他、大橋局という、お江の侍女の名前が知られている。

大橋局との間には、子供はできなかった。

秀忠の女性関係は、

侍女などの範囲に限られていたようだ。

真ん中を目指せば嘘のない自分  森田律子

9b9b40dc.jpeg

       江の像と遺品

江は秀忠が浮気をひた隠しにせねばならないほどの、

”鬼嫁”だったのだろうか。

夫婦の実像は、想像するしかないが、

ともあれ、夫婦の仲のよさを証明するかのように、

江は次から次へ子を産んだ。

江は母のに似て、子を宿しやすい体質だったのだろう。  

子づくりのためという、側室を持つ口実を、

秀忠に与えなかったのだ。

  

にこにこと攻めてくるから恐ろしい  嶋澤喜八郎

enngyo.jpg  三田村鳶魚

『余談』

従軍記者として日清戦争にも参加し、

報知新聞記者などを経て、江戸風俗や文化を研究。

「江戸通の三大人の1人」と、いわれる三田村鳶魚(えんぎょ)が、 

「お江は、25歳から35歳までの10年間に、

  男女7人の母になった。

  この分娩と妊娠とを勘定してごらんなさい。

 その忙しいこと」

 

と、芸能ルポの如、やや皮肉を込めて「お江」を評している。

三田村鳶魚・・明治3年、東京八王子生まれ。

歴史考証家・随筆家として、

「御殿女中」「江戸ッ子」「大衆文芸評判記」の著書がある。

囁いてごらん覗いてみてごらん  河村啓子

拍手[3回]

四隅から四角四角となじられる  酒井かがり

mitu-2.jpg    mitu-3.jpg

           三献の茶

「三献の茶」は、江戸時代に入ってからの記録で、

三成という人物を語る上での、創作(つかみ)なのだろう。

いわゆる、14歳にして三成がいかに、聡明で、

「計算の出来る人物」であったか。

それを如実に語っているエピソードなのだ。


すみません藁がお邪魔をしています  松山和代

aa87a18f.jpeg

「石田三成」

武断派(尾張衆)と文治派(近江衆)。

戦国時代の諸将には、二つのタイプがある。

豊臣秀吉の家臣団の場合、

前者の代表は加藤清正、福島正則

後者の代表といえば石田三成になる。

合理性を重んじ、管理能力に優れ、ときには冷徹非情な官僚。

三成には、そんなイメージがつきまとう。 

蟲一匹殺さぬような顔をして  武曽晴美

 

秀吉が、長浜城の城主となったころから小姓として仕え、

秀吉の台頭とともに、側近として、三成も頭角を現していった。

秀吉軍が強かったのは、

彼が背後で兵站(へいたん)を担ったからといわれ、

世に名高い「太閤検地」も、三成が実質的な推進者であった。 

風除けに辞書がいっぱい積んである  足立玲子

 

秀吉の死後、側室・淀殿、その子・秀頼をかつぎ、

徳川家康に対抗したが、

関が原の戦いに敗れ、

大坂や堺を罪人として、引き回されたあげく、

家康の命により、

京都の六条河原で斬首された。

しあわせをつかみ損ねた木綿糸  森中惠美子

捕らえられたときに、

「なぜ自害しなかったのか」

と問われ、 

「何としても生き延び、家康を討ち滅ぼし、

  秀吉の大恩にむくいるため」

 

と答えたという。

最後まで、秀吉の忠義に生きたのが、

三成という人物だった。 

枯葉舞う古武士の骨の音をして  岩根彰子

c31f9e97.jpeg

 

「三成がなぜ嫌われたか?」

秀吉死後、五大老が、相談をした上で、

まず決めたのが「朝鮮からの撤兵」であった。

この差配を見事にやってのけたのは、三成であった。

三成のいつもながらの綿密な計画なくては、

多くの武将たちも、

無事に帰ることが帰ることが出来なかっただろう。

いわば、三成は命の恩人のはずなのだ。 

喋らなければメッキだなんてわからない  八田灯子

 

しかし朝鮮から、

命からがら逃げ帰ってきた武断派の大名たちは、

それまで、軍監として厳しい勤務評定をし、

また、いささか尊大な態度で諸将を迎えた三成に、 

良い感情を持たなかった。

また彼らには、自分たち武断派の活躍があってこそ、

「秀吉は天下をとれた」のだという自負があった。

三成は、戦場での功名という点では二流・三流である。

それなのに三成は、

重用されすぎてきたという屈折した思いが、

 

武断派にはあったのだ。 

おおかたは水分愛も憎しみも  嶋澤喜八郎

mitu-1.jpg

 

博多の港で、加藤清正を迎えたとき、三成は、 

「ご上洛なされましたら、茶会でも開き、

  おのおのがたをご招待しようと思っております」

 

と言ったところ、 

「われらは長年朝鮮に在陣して苦労し、

  兵糧一粒とて無く、
内地でぬくぬくしておったそこもととは違い、

  茶など持たぬゆえに、
冷え粥ででももてなそうか」

 

といい放った。

人格を計る目盛が酒にある  長野峰明

三成は,朝鮮遠征について、

現地の武将の中でハト派の、小西行長宗義智と近く、

タカ派の清正らとは、意見の違いがあった。 

≪いわば、現代に置き換えてみると、

 三成は会社の総務部長のような立場の人で、

 外交側の立場の人は、営業でひたすら歩き汗水流して、

 仕事をこなしているのに拘らず、

 総務側の立場から、業務のチェックやら、交際費の使いすぎや、

 業務計画をうるさく、こまかく、言われてはたまったものじゃないのだ。

 どうしても、嫌われる仕事をしているのが、総務部長・石田三成なのだ≫

 

おたふくを数える役がぼくの役  井上一筒            

戦いが終わったら、

総務部長は、戦場で臆病だったり、軍規に反した者を処罰し、

功があった者には報いねばならない。

良い報告をしてもらった者は、当然と受け止め、

悪く言われた者は、深い恨みとなる。

しかも、「朝鮮の役」では、

新たに獲得した領土はなかったので、

軍監に悪く報告された者の領土を削って、

功があった者に、配分することになる。 

≪このときの軍監は三成に近い、福原長尭(ながたか)らであった≫

 

内ばかり守り外から攻められる  百々寿子

つまるところ、秀吉が自分の死後にも引き続き、

政権の屋台骨を担がせようとした三成に、

こんな「汚れ役」を兼ねさせたのが、間違いだった。

また、家康が目指した国家像と、

三成が考えていた国の将来像にも、

かなりの違いがあったことも、

確認しておかねばならない。 

相槌をうつたび敵を作ってる  立蔵信子

 

家康は、この「豊臣家臣同士の対立」を利用して、

一気に権力を握ろうと画策し、

武断派大名を懐柔しはじめた。

こうして文治派、武断派の抗争は、

三成VS家康の構図へと変化していく。

 
(歴史が繰り返す、滅びの道の身内同士の対立。見たまえ民主党)

音を聞く音に引っ張られる体  山口ろっぱ

 

fae675a8.jpeg

大河ドラマ・お江-第33回‐「徳川の嫁」  あらすじ

慶長4年(1599)を迎えると、ようやく秀吉の死が公にされた。

また、淀(宮沢りえ)秀頼(武田勝斗)が、

「大坂城に移った」という話も伝わってくる。

かなりお腹が目立ってきた江(上野樹里)だが、

相変わらず気がかりなのは、

「上方で何が起きているのか」 ということ。

本多正信(草刈正雄)と話す秀忠(向井理)が、 

「また三成が動いている」

 

と漏らしたのを耳にして、思わず、 

「それはどういうこと?」
 
と割って入る。
 

やすやすと屈服しない貝柱  清水すみれ
 
1cdeb2c7.jpeg

口を挟む彼女を少しうるさく感じた秀忠が、 

「なぜ、いちいち首をつっこむのだ」

 

と聞くと、江は迷うことなく答えた。       

「私は、世の中で何が起こっているのかを、
 
  正しく知りたいのです」

どんなにつらい現実も、

まっすぐに見つめてきた彼女の信念だった。

その思いを受け、秀忠は、

三成(萩原聖人)は、父・家康(北大路欣也)が、 

  いずれ豊臣から天下を奪うつもりだと考え、

  対決姿勢を強めているのだ」

 

と、江に上方の状況を解説する。 

妻と私の流れがごめんやすになった  奥山晴生

88916cea.jpeg

 

それを聞いた江は驚き、不安を募らせた。

義父は、本当に天下を奪おうなどと考えているのか。

もしそうなれば、淀や完はどうなるのか・・・。

だが、しばらくして耳に入ってきた話は、

彼女をさらに混乱させる。

家康が、同僚たちに恨まれて命を狙われた三成を、

窮地から救ったというのだ。 

倒れないようにわたしも揺れている  河村啓子

66b707ff.jpeg

 

その上方の方では、

大老筆頭として豊臣政権の運営にあたる家康が、

ほかの大名家との婚姻を、積極的に進めていた。

それは

「天下取りを見据えた行動」
とも取れる掟破りの行為だ。

かねて、家康を警戒していた三成は、

当然、その行為に激怒。

証拠の書状を突きつけて、家康を弾劾するが、

大老の前田利家(大出俊)になだめられ、

また、家康があっさり頭を下げたことで、

その場は引き下がるしかなかった。

影法師ふらつく足にふらつくよ  時実新子

6e6a1abb.jpeg

怒りの収まらない三成は、

秀吉の懐刀と言われた官兵衛(柴俊夫)に、 

「力を合わせて家康を失脚させよう」
 
と持ちかける。

だが、官兵衛はその話には乗らず、

逆に、三成が人の心の動きに疎いことを、

やんわりたしなめるのだ。 

一コマを掴みそこねて倦む座敷  富山やよい

 

拍手[8回]

出て来いよ目にさわやかな卑怯者  時実新子

sin-1.jpg

浄土真宗の宗祖・親鸞の思想のキーワードは、

「悪人正機」・「往生」・「本願」

悪人正機―法律や倫理・道徳を基準にすれば、

この世には、「善人と悪人」がいるが、

どんな小さな悪も見逃さない、仏の眼から見れば、

すべての人は、『悪人』だと、親鸞は説いている。

半眼の弥勒の笑みにうろたえる  たむらあきこ

「悪人・家康の企み」

(親鸞展より、家康にコラボしています)

秀吉の死の翌日、

「三成が家康の暗殺を計画している」

という噂を聞き、家康は、

秀忠を密かに江戸へと向かわせた。

畿内から遠く離れた江は、

義父と三成の関係が悪化していると聞いても、

何の手立てもできなかった。

2人の争いは、秀頼を守る姉・と自分が、

敵と味方になることを意味していた。  

反乱の首謀者はブリキのバケツ  加納美津子
 

sin-5.jpg

 

   親鸞坐像

親鸞はすべての人の本当の姿は、『悪人』だと述べている。

「善人」は、真実の姿が分からず、善行を完遂できない身である事に

気付くことのできていない、「悪人」であるとする。

「前田利家との対決」

利家は、大坂城で秀頼君のお傳役であり、

北政所茶々と常に側におり、

しかも、信長の家臣だった大名や、

秀吉が取り立てた武将たちとは、旧知の間柄。

ところが家康は、織田家でも豊臣家でもなく、外様である。

家康には、焦りがあった。

そこで、家康は朝鮮から帰った武将達など

に懇ろに、接するように心がけた。

泣くまいぞ一期一会のお節介  村井冨美子

5bd1e18c.jpeg

親鸞布教の姿

三成のことについて、不満を漏らす武将たちに、

利家は、  

「お前たちの気持ちは分かるが、太閤殿下は、

  あの者を信頼されて、

  差配を任したのだからしかたないどろう。

  口が悪いわりには悪い男ではない」

  

と諭し、なだめたのに対し、家康は、 

「武辺の者としては、もっともなことよのう。

  三成はすぐに証拠を示せなどというが、戦場では、

  なぜどうしたなどといちいち記録などとるものではない」

 

不満武将の思いは、よく分かると理解を示した。

こうなれば、彼らの気持ちは、自ずと家康に向いていく。    

時には爆発をする言葉です 温い  神野節子

    

その頃、家康は公然と豊臣政権時の定めを破り、

伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則といった大名方との

姻戚関係を作っていた。

これを聞いた利家たちは激怒し、

大老、奉行を集めて、家康に対して激しく問責をした。

この詰問に家康は、  

「手続きをしていないとは、うっかりしておりました。

  取りやめるのでご容赦を」

  

と、はぐらかし、とりあえず謝ってこの場を取り繕った。  

言葉尻に扇風機をかけている  立蔵信子

f710b82d.jpeg

  

親鸞の旅路を支えた杖

たびたび、こういうことがあり利家は、

家康を討たねばならないと決意。

そして慶長4年(1599)2月29日、

利家は細川忠興らの仲立ちで、伏見に家康を訪ね、

家康の日ごろの無謀を叱咤した。

読みの深い家康は、利家のこの挑発には、

乗らずやり過した。

3月11日、今度は、家康が大坂の利家を訪ねた。

この日の利家は、

見た目にも、長くないといった容体であった。  

やって来るいちばんずるい角度から  八上桐子

  

寿命を悟る利家は、この会談の折、 

「肥前守(利長)のことをよろしく頼む」

 

と言ったという。

これをもって

「家康の天下を認められた」
ようにいう人もいるが、

利家は、このときも、場合によっては家康を、刺す覚悟だった。 

「自分の死後、3年間は大坂に留まるように」

 

と、家康に用心という意味で、利長に言っているのだから、 

「利長を自分の後継者として同じように尊重して欲しい」

 

という意味があった。

焦点のずれた話にけつまずく  皆本 雅

ff6908f5.jpeg

若き日の修業を伝える装束

利家が亡くなったのは閏3月3日。

その翌日に、とんでもない事件が起こる。

三成に不満を持っていた福島正則ら武断派の七将が、

三成の屋敷を襲撃する事件が起きたのだ。

三成は、命からがら屋敷を抜け出すと、

なにを思ったか、敵対する家康の屋敷に逃げ込んだ。

家康は、居城の佐和山城へ閉居することを条件として、

仲裁をすることにした。 

≪通説ー三成が家康の屋敷に逃げ込み保護を求めたというのは事実に反する≫

 

モザイクをほぐすと見えた舌二枚  上嶋紅雀

このあとはもう、家康のやりたい放題である。

朝鮮の蔚山城攻防戦にて、

合戦をしなかったとされた蜂須賀と黒田

城の放棄を容認したとされた軍監の早川、竹中らなど、

処分した秀吉の裁定は取り消され、

三成と縁戚で、裁定の元となる報告を行った


軍監・福原長尭が処罰された。  

≪この後、名誉を回復された黒田などは、関が原で東軍につく≫

ef8e10c2.jpeg

  

仏具や生活品を収めて親鸞が背負っていた笈

また家康は伏見では、

自分の屋敷として、閏3月、伏見城本丸に引っ越し、

大坂城では、

北政所が京都へ引っ越したあとの、9月に西の丸に入った。

10月、大野治長、浅野長政が「家康暗殺計画」を理由に、

処罰される。

これで、世の中の人のかなりが、

家康が天下人になったと感じることになる。 

黒幕のひとりは菩薩かもしれぬ  清水すみれ

 

そして家康は再び、公然と大名姻戚関係を作っていった。

その1人が、生まれたばかりの江の次女・子々姫(珠姫)だ。

相手は前田家二代目当主・利長の弟で、

次の当主となる利常だった。

その婚約は事前に、江には知らされてなかった。

そんなことをすれば、

反対されることはわかっていたからだ。

そのことを後で聞いた江が、

激怒したことは言うまでもない。

枯葉一枚さて人間を欺そうか  森中惠美子

0a7e6698.jpeg

 親鸞が書き綴った仏歌 

「親鸞」

保元・平治の乱などの戦乱や地震などの天変地異が続き、

政治・社会が混迷した平安末期。

来世の「往生」を願った富者は、財を尽くして功徳を積み、

僧侶は教義論争に明け暮れる中、法然が登場する。

民衆を含む万人の救済を考えた法然は、

「念仏をとなえれば誰もが救われる」

「阿弥陀如来の名号」を唱えることを説き、

浄土宗の宗祖となった。

我が庭に吾亦紅あり夜の秋  前中知栄

amidazou.jpg

阿弥陀如来立像

その教えを受けたのが、親鸞(1173~1262)である。

親鸞は、養和元年(1181)、9歳のとき出家し、

比叡山で20年の修行を積むが、

悟りを得ることができず、京都六角堂に参籠。

遠回りしたのに黒猫に遭った  森田律子

ある日、親鸞は夢のなかで聖徳太子の言葉を授かり、

法然を訪ねて、「専修念仏」に帰する。

40歳年下の親鸞は、法然と同じく、比叡山で修行を積んだ後、

29歳のとき法然に出会い、

たとえ地獄におちようとも、

その教えを信じて、念仏をすると決断した。 

ペダルこぐ沈むな沈むなよ夕日  山本早苗

kei--sin.jpg

 

恵信尼公坐像(9歳年下の妻)

しかし、「専修念仏」の教えは、既成教団から弾圧を受け、

法然は四国へ、

親鸞は、承元元年(1207)越後へ流罪となり、

赦免後、関東の各地において20年にわたる布教活動を行った。  

≪その後、二人が再会することは叶わなかった≫

  

そのとき親鸞は、「在俗のままでの仏道修行」と、

「民衆に宣布する」という使命を実行するために、

法然を選んだと考えられている。 

≪この時、僧として初めての妻を娶った≫

 

弘長2年(1262)、親鸞は90歳で没する。

もぐら叩きまた増えている薬瓶   桜風子

sin-2.jpg

『豆辞典』―「悪人正機」

「悪人こそ救われるべきである」

と親鸞は説く。 

『善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや』  

とある。

善人は、自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,

煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は、

仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため,

「阿弥陀仏」に救われるとした思想。 

ふらふらと湯立て神楽の湯を浴びる  岩根彰子

 

「往生」

様々な浄土への往生があるが、

一般的には、阿弥陀仏の浄土とされている「極楽への往生」を言う。

往生とは、『往』は、極楽浄土にゆく事、

『生』は、そこに化生(けしょう)することを言う。

賽銭箱にねじ込んでおく祈り  井上一筒

「本願」

「他力というは如来の本願力なり」

と親鸞は述べている。

現実に生きていることが、

阿弥陀仏の「智慧と慈悲(本願)」のはたらきに、

目覚めさせられることにより、救済されるとする。

春野菜が首飾りになるきっと  蟹口和枝

拍手[4回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開