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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ふうぅっと倒立前転 夏木立  河村啓子


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『このたび造る伏見の屋敷は、利休ならどのようにするか よく考えて普請せよ』

「指月伏見城」

文禄3年(1594)、

伏見に太閤秀吉が築いた城ができあがる。

伏見城である。

伏見の町は、

京都から、奈良に向かって下っていく街道が、

宇治川を渡るところにある。

西へ西へ行くと浄土があるそうな  森中惠美子

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            指月伏見城

いまは宇治川の南の広い平野には、

田畑や住宅があるが、

昭和の初めまでは、”巨椋池”という大きな沼で、

いま観月橋がある側の、指月山という丘は、

”月見の名所”として知られている。

嗅ぐだけにする50年目の梅酒  井上一筒

中世までは、琵琶湖から流れ出していた瀬田川は、

山城に入って宇治川と名を変え、

巨椋池にいったん流れ込み、

そこからまた、流れ出て、木津川や桂川と合流して、

淀川となり、大阪湾に繋がっている。

その合流点の少し下流にあるのが山崎で、

瀬戸内海から航行してきた船も、

ここまで遡ってくることが出来る。

≪ちなみに、紀貫之が土佐から帰京するときに、上陸した場所である≫

半径をのばして夢とすれちがう  たむらあきこ

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 洛中洛外図屏風[一部]

≪伏見城はもともと秀吉が隠居所として建造した館。

  地震や戦災による度重なる再建で、

  豊臣期の伏見城が描かれた資料は皆無に近い≫

指月山はもともと、

宇治の平等院を建立した藤原頼道の所有であったが、

中世には、持明院の持ち物になり、

やがて、伏見宮家の邸宅になった経緯がある。

秀吉は、聚楽第を秀次に譲ったあと、

伏見宮邸を京都御所の北に移して、

この地を買い取り、京都に近い邸宅とした。

風流な別荘であったが、

文禄3年、佐久間政家に命じて、

本格的な城を築き始めたのである。

輪を書いて僕の陣地は踏ませない  奥山晴生

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伏見城本丸跡地に造営された明治天皇の「伏見桃山稜」

同時に、大土木工事を起こし、

宇治川と巨椋池の間に、堤を築いて分離し、

大きな船が伏見まで、遡れるようにした。

また、淀川左岸の堤を強化して、

伏見と大坂のバイパスのようにして、

伏見は、「京都港」というべき機能を持つようになったのである。

≪幕末の坂本竜馬で知られる船宿・「寺田屋」はここにある≫

炎天を青いジョッキで退治する  谷垣郁郎

拍手[3回]

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やがてポップコーンは途方に暮れる  酒井かがり

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    羽柴秀勝の墓

「文禄三姉妹年表2年」

文禄元年(1592)

お江 羽柴秀勝に嫁ぐ(二月)。
文禄の役ー秀吉 茶々・肥前・名護屋城へ出陣。
秀勝ー出陣(三月)。
秀吉の母・大政所没(七月)。
秀勝朝鮮の巨済島で病死(九月)。
お江 完子出産。

文禄2年(1593)

茶々 大坂城・二の丸で秀吉の第二子(お拾)を出産(八月)。
浅井長政・21回忌供養を営む(九月)。
この冬、茶々 疱瘡を患う。
初の夫・京極高次 庶長子・忠高誕生。

おたおたと追うニュースの影法師  阪本きりり

「茶々懐妊」

文禄2年(1593)、朝鮮遠征は、

最初のうちは、漢城(ソウル)を電撃的に占領するなど、

戦国で鍛えられた日本軍は、向かうところ敵なしの勢いで、

太閤秀吉茶々を伴って、

名護屋城に入り、

6月には、自ら渡海する準備をしていた。

心中の虫は寝る暇ないらしい  オカダキキ

そんな折、

京都・聚楽第から大政所(秀吉の母)が危篤との報せが入る。

秀吉は、急ぎ京都に戻ったが、

残念ながら、死に目にあえなかった。

この出来事で、秀吉の渡海も先延ばしになった。

≪この戦いで、お江の夫・秀勝は、巨済島で戦病死をしてしまう≫

かげろうが残ったシャボン玉消えて  籠島恵子

「大政所の供養がすんだら、今度こそ渡海する」

と、秀吉はいい続けていた。

ところが、年が明けると、

なんと、茶々がまたもや、

肥前の名護屋で、懐妊していることがわかった。

乳牛の道は牛乳だすことだ  井上一筒

喜んだ秀吉は、茶々を大坂へ返す。

そして8月3日、男子が誕生。

お拾君(秀頼)と名付けた。

秀吉はさっそく大坂に戻り、関白・秀次に、

「お拾に日本の五分の一くらいはやって欲しい」

と望んだ。

天下は、大事な姉の子である秀次にやったのだから

「返せ!」 とは言えない、これは、

「関白秀次としては、拾の将来についてどう考えてくれるのか?」

という問いかけであった。

口笛でオートロックを開けている  杉本克子

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       秀次

ところが、関白・秀次の反応はにぶいかった。

このとき、関白は、秀吉に嫡子が出来たのだから

「お拾君を養子にして、成人の折は関白を譲る」

くらいのことは言うべきだった。

まして、お拾君は、織田家の血も引いているのだ。

「のちのち、拾君が関白を継ぐ」 と思う人も多かった。

借景が牙剥く鳶から啓示  岩根彰子

それなのに秀次は、この年の暮れに太閤が、

「将来、拾君と関白の姫を娶そう」

という提案をしても、すぐには承諾しなかった。

これでは、太閤も安心ができない。

それ以上に、茶々は、疑心暗鬼であった。

太閤に、もしものことがあれば、

拾君は関白秀次にとっては、邪魔者になる。

母子ともに、命の危険すら感じなければならない、

事態になるからだ。

両手で触るもうすぐこれがデスマスク  田中博造

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       高次

余談ー「初の子ども」

この年の9月、

の夫・高次が、名護屋に連れて行ったが懐妊し、

聚楽第に近い安久院(大宮)の京極屋敷で、

男児を産んだ。

結婚5年以上も、子どもができなかった初にとって、

悔しい思いもあるが、仕方なかった。

かごめかごめ今日はどうやら蚊帳の外  北原照子

夫の裏切りに対し、邪推した「徳川実紀」は、

「初がこの子を殺そうとした」 と書いている。

それは家臣・磯野信隆が、八瀬・沖ノ島・菅浦など、

京近江各地を転々としながら、

子どもを匿ったことから起因している。

しかし、この子は3歳のとき、京極家で引き取られ、

初は大事に育てた。

この子が熊麿、のちの忠高である。

≪磯野信隆は忠高の代になってから京極家に帰参している≫

渦ふたつ擦れ合いながら生きている  たむらあきこ

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大河ドラマ・お江-第27回・「秀勝の遺言」 あらすじ

秀勝(AKIRA)の死を知らされてから数ヶ月後、

江(上野樹里)は、無事に元気な女の子を出産した。

しかし、夫を失った悲しみが大きすぎ、

彼女は完と名付けた娘の誕生を、手放しで喜べない。

とにかく、事あるごとに秀勝を思い出し、

泣いてばかりいる日々。

夫とともに抱きたかったという思いに縛られ、

いとしいはずの我が子を、

抱くことすら出来ないありさまだった。

零れ落ちてしまいそうこの世から  平尾正人

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心配した初(水川あさみ)は、江のもとを訪れ、

何かと励まそうとするが、

いっこうに、江の気持ちは晴れない。

「秀勝様のおそばに参りとうございます」

そんなことを言って、いっそう初を不安にさせるのだ。

点滴の時間マクベス不眠症  墨作二郎

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そんな時、秀吉とともに、

九州に滞在していた淀(宮沢りえ)が、大坂城に戻ってきた。

それを知った初は、江を連れて大坂城へ。

かくして江と再会した淀は、憔悴した妹に、

「無理にでも希望を持て」

と助言する。

自分が鶴松を失ったとき、希望を持つことで、

立ち直った経験があるからだ。

忘却が私の今の救世主   井丸昌紀 

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江は、「今はとても希望など持てない」 と思う。

だがその一方で、淀こそ、

「自分の心の内をいちばん分かってくれている」

とも感じるのだ。

もちろん江の不幸に胸を痛めているのは、

初や淀だけでなく、

龍子(鈴木砂羽)ガラシャ(ミムラ)も、

それぞれの言葉で、彼女を慰める。

元気出しなさい再生紙のように  壷内半酔

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江が夫を失ったと知り、慰めの言葉をかけにきたガラシャは、

「本能寺の変」後に、自身が辿った苦難の道について、

初めて詳しく語る。

謀反人の娘として、

山深い地に幽閉されていた折の苦しみ、

許されて、細川家に戻ったあとも続く孤独・・・等々。

おかげで、江の心は少しずつ解れていくが、

やはり悲しみは、去ることはなかった。

喪服着て少し不幸な顔をする  山本昌乃

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そんなある日、遠く朝鮮から、秀勝の遺髪と形見の小刀、

そして、江に宛てた手紙が届く。

遺髪と刀をしっかり抱きしめ、涙を流す江。

続いて彼女が手に取った文には、

自らの死を覚悟した秀勝の、

江に対する赤裸々な思いが、綴られていた。

人はみな一管の笛にすぎない  居谷真理子

拍手[7回]

海が泡だつ人間はいくさ好き  森中惠美子

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 東菜府殉節図

小西行長の軍に取り囲まれる東菜城。

東菜城は、その進路上にあったため、釜山城に次いで攻撃を受けることになった≫

「朝鮮出兵」

朝鮮出兵の緒戦において、渡海した兵力は15万8千余人だった。

軍は9陣に編成され、

秀勝は殿(しんがり)の9陣を、細川忠興軍3千5百とともに任され、

まず壱岐に在陣した。

先鋒の小西行長加藤清正は、釜山に上陸すると、

朝鮮側の攻撃をほとんど受けず、

競うように漢城(ソウル)をめざし、わずか20日で無血入城する。

破竹の日本軍は、北上し6月15日、

平壌(ピョンアン)をも制圧した。

テロリスト回転ドアをすり抜ける  岡谷 樹

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 イ・スンシン

 しかし、朝鮮側も義兵が蹶起し、ゲリラ戦で日本軍を攪乱し、

 海には名将・李舜臣(イ・スンシン)が現れ、

 釜山の西南西にある巨済島(コジェド)の周辺海域で、

 藤堂高虎、脇坂安治が率いる水軍を、次々に破り、

 日本の制海権が危うくなる事態となった。

山頂を極め遭難したらしい  小山紀乃

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       巨済島

文禄2年(1593)、釜山海を進む日本水軍。

秀吉は日本水軍の非力を悟ると、”巨済島”に城を築いて、

陸伝いに、朝鮮水軍を討つことを決めた。

当時、日本の将兵は異国の水が合わず、

また気候にも、なじめなかった。

夏まではよかったが、

秋になると、寒さが将兵を苦しめる。

薄皮を剥いで尻尾を切り忘れ  谷垣郁郎       

羽柴秀勝も病んで、陣中に臥す。

病状は重く、戦地だけに大した治療もできぬまま、

病状は悪化、ついに9月9日、24歳の若さで没した。

戦場での不名誉な病死、

しかも、お江から「稚児(やや)ができた」との、

うれしい知らせが届いていただけに、

秀勝の無念は、やるかたなかった。

この世にはこの世の掟切符買う  小川一子

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       官兵衛

この時、ちょうど黒田如水(官兵衛)が釜山に来ていた。

秀勝の死の後始末を如水がし、

秀勝の兵は、周辺諸城の諸大名に分散して、

再配属された。

そして、秀勝の遺体は海を渡り、京都に戻った。

糸切り歯つらい話しを聞きすぎた  本多洋子

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        秀勝         

秀勝の遺体の帰還と、

お江が娘・完子(さだこ)を産んだのはどちらが先か、

それを知る史料はない。

しかし涙の中で、

お江は完子を、秀勝の生まれ変わりだと信じた。

≪お江は姑・ともと京都亀山の地に葬る。

   ともは、そこに善正寺を建立したが、

   後に彼女自身が、京都市街の岡崎に移した。

  いま善正寺に秀勝の墓は現存する≫

貼り付けたままの笑顔が続く夜  平尾正人

お江は聚楽第の秀勝屋敷を去って、大坂城に戻った。

そして名護屋での姉・淀殿の妊娠を知る。

大坂城に戻って姉は、秀頼を産んだ。

お江は秀勝に死なれ、徳川秀忠に嫁ぐ間の3年間、

大坂城で過ごした。

お江は、わが娘をあやし、

ひとつ違いで生まれた秀頼と、遊ばせるなどしながら、

子育ての喜びを姉・淀殿と、大坂城で共有したのである。

青い鳥のあくびにつきあっている  桂晶月

拍手[4回]

お月さま連れてきたのは水たまり  泉水冴子


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お江が嫁いだ秀勝の居城・丹波亀山城(C・G)

「お江ー二度目の結婚」

秀吉秀次に関白職を譲ってまもなく、

は秀吉から呼び出された。

江の縁談話しだった。

相手は秀次の弟・秀勝

江にとっては、再婚だが、

前の結婚は、完全な政略結婚だったのに比べて、

今回は、好かれての結婚だった。

できちゃった婚を少子化相は褒め  井上一筒

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天正20年(1592)2月、江は秀勝と婚礼の儀を挙げた。

秀勝は24歳、江は20歳だった。

二人は関白・秀次が住む聚楽第に住むことになった。

凸凹の夫婦はパチッと収まった  壷内半酔 

お江が秀勝と結婚した意味合いは、鶴松の死で失われたが、

秀吉の朝鮮出兵の野望に、

さらにお江は、翻弄される。

夫・秀勝にも出陣の命令が下った。

お江と秀勝は、「岐阜城」で出陣の準備を整えると、

聚楽第の敷地内にある、京都の屋敷に戻った。

すでに、結婚2年以上が経ち、お江の妻ぶりも板につき、

江は幸せの絶頂にあった。

小さな幸せみなに話してみたくなる  夏井せいじ

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               岐阜城


金華山山頂の岩山にそびえる、秀勝最後の居城・岐阜城

「美濃を制するものは、天下を制する」 と言われた≫

「一刻も早いご無事なご帰還、お待ちしております」

お江は、心から、そう願える妻になっていた。

岐阜で編成した8千の兵を率いて、

天正20年(1592・文禄元年)3月、

甲冑姿も麗々しく、夫は京都を出立した。

馬上の秀勝が、どこか愛おしく感じられ、

思わず目に涙した。

牙がぽろりと落ちて女になりました  西恵美子

お江は、夫を見送ってから程なく、

さらに、名護屋に出発する秀吉と姉・淀殿らをも見送った。

秀吉は、小田原の陣に淀殿松の丸殿を伴い、

勝利を得たことを吉例として、

このたびも、2人を同道させたのだ。

焼酎とメザシで出来ている翼  新家完司

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金襴の甲冑をまとい、付け髭をつけた秀吉に続き、

100騎余りの、美装の女房衆に守られて、

淀殿は、奥の人となった。

夫が去り、いままた、秀吉と姉を見送って、

お江に寂しさが、こみ上げる。

そんなお江は、体に変調を感じ、妊娠を知るのだ。

新しい命を宿して、秀勝が恋しく感じられた。

さざ波は乙姫さまの計略だ  森田律子           

9月、再び秀吉を不幸が襲った。

聚楽第で永く闘病していた実母の、大政所が亡くなったのだ。

そして、その悲しみは、江にも襲ってきた。

10月、出征していた秀勝が、

「唐島陣中で亡くなった」


という報せが届いたのだ。

幸せの絶頂にいた江は、一気に奈落の底へ落とされた。

鬼が出るわたしの中の水溜り  たむらあきこ

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  丹波亀山城・古写真

昭和初期の亀山城。

慶長15(1610)、藤堂高虎によって、

造られた5層の天守閣が、現存していた頃の貴重な写真。

やがて、江は臨月を待たずに女の子を産んだ。

北政所が、完子(さだこ)と名付けてくれた。

ほかほかだねあったかいねと赤子抱く  道家えい子


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大河ドラマ「お江」-第26回・「母になる時」  あらすじ

京・聚楽第の屋敷で、夫・秀勝(AKIRA)

暮らしはじめた江(上野樹里)は、

妻としての日々に、これまでにはない幸せを感じていた。

彼女は、とにかく秀勝の世話を焼きたくてしかたがなく、

慣れない家事に手を出し、

かえって、侍女たちを困らせてしまう始末。

虫喰いの痕も含めて君が好き  中野六助

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しかし、幸福な時は、長くは続かなかった。

秀勝が、朝鮮での戦に赴くことになったのだ。

「天下を太平に、皆が笑うて暮らせる世の中にしてもらいたい」

という利休最後の願いを、

一緒に背負うと約束してくれた秀勝。

その夫を、戦に送り出さなければならない。

江は、どうにも割り切れない思いだったが、

むろん出陣を止めることはできず、

ついに、秀勝出立の日を迎えてしまう。

追伸の棘のひとつがプロローグ  上田 仁

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別れの時、あえて明るく振る舞う秀勝。

一方、江は不安を隠しきれないが、

「心配は無用じゃ、必ず戻ってまいる」

という夫に、なんとか笑顔を作ってみせる。

「お待ち申し上げております」

そう答えるのが、彼女の精いっぱいだった。

このときから、

愛する人の帰りを待つ江のつらい日々が始まる。

≪しかしやがて、そんな江の心を勇気づける、

  思いもよらぬ事実が判明するのだ・・・≫

ニュースの中から急に飛び出した石  立蔵信子

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     日本水軍

そして、朝鮮に渡った日本の軍勢は、順調に兵を進めていた。

そんな中、秀勝は、後発部隊を率い、

壱岐、対馬をへて朝鮮の唐島に着陣。

秀吉(岸谷五朗)より、

「敵水軍の動きを封じるべし」 との命を受ける。

だが、実は陸上で優勢の日本軍も、

「水軍」を使った戦では、苦戦しており、

案の定、秀勝の部隊も、朝鮮の水軍に手を焼くことに。

アンダーライン引かれ燻り出してくる  谷垣郁郎

異国の地で、思うような戦果が上げられず、

兵たちの心には、いらだちが募っていく。

そんな折、秀勝の部下と唐島島民の間で、

ちょっとしたいざこざが起きた。

島民との衝突を望まない秀勝は、

自ら仲裁に入って事を収めるが、

その際に、脚に刀傷を負ってしまう。

尺八を覗けば風があるばかり  嶋澤喜八郎
 

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膝の水を抜いてレマン湖へ返す  井上一筒


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  文禄・慶長の役

≪名護屋城に集められた武将たちは、壱岐や対馬を経由して朝鮮半島に上陸≫

「文禄・慶長の役」

天下統一事業を終えた秀吉は、次の標的を中国・明に定める。

その前に、明への陸路ルートにある朝鮮に

対して、服属と明出兵の先導をつとめることを要求した。

しかし、朝鮮がこれを拒否したため、文禄元年(1592)、

秀吉は、1万5000余りの大軍を、朝鮮に送り込んだ。

これが、「文禄の役」である。

呼び鈴を押したら鬼が顔を出す  嶋澤喜八郎

日本軍は当初、鉄砲などのハイテク武器を使って、

順調に勝ち進み、今のソウルやピョンヤンを占領。

しかし、朝鮮の巻き返しにあって、

後半は苦戦を強いられた。

民衆のゲリラ的な抵抗に苦しんだ上、

李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍によって、

海上補給路を、寸断されたためである。

舞台反転 捺印を押すたびに  赤松ますみ

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    イ・スンシン

≪文禄2年6月、日本水軍の任務は兵や食糧の輸送が主だったが、

 イ・スンシン率いる朝鮮水軍に次々と撃破された≫

そのため、一時休戦するが、結局、和睦交渉は決裂し、

秀吉は2度目の朝鮮出兵で、約8万人の大軍を送り込む。

「慶長の役」である。

これでも決着はつかず、

秀吉が1598年に死去したため、

朝鮮出兵は中止された。

何ごともなかったように避けておく  山本昌乃

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文禄2年6月、釜山海を進む日本水軍

「秀吉の朝鮮出兵の意味」

さて、秀吉による大陸侵略は、

「名誉欲にかられた秀吉の愚挙」とか

「思い上がりが生んだ無謀な戦い」

と言われることが多い。

しかし、「支配権を国外まで拡大したい」

あわよくば、「東アジア全体を掌握したい」

という秀吉の野望は、

それにのった大名たちの同調があって、実行されたもの。

「天下一を誇る秀吉軍に加われば、領土を拡大できるかもしれない」

だからこそ、秀吉に従ったというわけがある。

ことごとく腐ってドロドロの正義  石橋芳山

つまり、秀吉は、戦いを続けて、領土を増やさなければ、

支配力を維持することが、出来なかったともいえる。

また、「天下を統一した」とはいっても、

世の中には、戦国の風潮、

「下克上の時代」を知る者が、多数生き残っている。

二番線ホームで待っているチャンス  本多洋子

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釜山城攻略・『釜山鎮殉節図』

≪釜山城を陥落させた日本軍は、続いて漢城へと進軍≫

江戸時代の学者・林羅山は、

「愛児鶴松が死に、その悲しみからのがれるために、

 秀吉は朝鮮出兵を決意した」

と言っている。

しかし、秀吉が「朝鮮侵略」の意図を口にしているのは、

鶴松の死よりもはるか以前、天正13年のことだから、

この考え方は、成り立たない。

行き先を忘れたらしい蝶が一匹  森田律子

天正13年9月3日付、家臣の一柳末安宛て、

秀吉が、「朝鮮出兵」を言い始めた一番早い文献・「秀吉文書」に、

「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候 心に候か」

とある。 解釈は、

”関白として、日本全体の統一支配だけでなく、

 唐国までも、そのようにせよと命令された” 

といっている。

関白に任官したのは、あくまで日本の関白だが、

秀吉はこのように、拡大解釈していたことがわかる。

≪秀吉が関白に任官した天正13年7月から、2ヶ月後の文章である≫

描きおえて画家は昇天するつもり  筒井祥文

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 秀吉と日本水軍

とにかく、「朝鮮侵略の意図は、愛児鶴松の死という、

個人レベルの問題ではなく、公的な問題として、

秀吉の領土拡張の意図からはじまった」  (中村栄孝)

秀吉にしてみれば、

実際に九州まで行き、壱岐・対馬を制圧してみると、

そのさきにある朝鮮が近くに、感じられた。

そして、秀吉の頭に、そろそろ、

日本統一後のことが、ちらつきはじめた。

大きく振り被った次の音  蟹口和枝

封建的主従制を保つ手段として、御恩と奉公の関係がある。

「諸大名たちは、恩賞をもらえるから自分についてきているのだ」

という、認識を秀吉は、もっていたはずである。

その裏返しとして、

「与える恩賞がなくなったとき、

果たして彼らは自分についてくるだろうか」

という不安をもった。

それゆえ秀吉は、

九州征伐・関東征伐・奥羽征伐が、終わったあとも、

さらに、明にまで攻めていくことも、

構想していたものと思われるのだ。

刃物を持っての駆け込み乗車はおやめ下さい  吉澤久良

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