膝の水を抜いてレマン湖へ返す 井上一筒
文禄・慶長の役
≪名護屋城に集められた武将たちは、壱岐や対馬を経由して朝鮮半島に上陸≫
「文禄・慶長の役」
天下統一事業を終えた秀吉は、次の標的を中国・明に定める。
その前に、明への陸路ルートにある朝鮮に
対して、服属と明出兵の先導をつとめることを要求した。
しかし、朝鮮がこれを拒否したため、文禄元年(1592)、
秀吉は、1万5000余りの大軍を、朝鮮に送り込んだ。
これが、「文禄の役」である。
呼び鈴を押したら鬼が顔を出す 嶋澤喜八郎
日本軍は当初、鉄砲などのハイテク武器を使って、
順調に勝ち進み、今のソウルやピョンヤンを占領。
しかし、朝鮮の巻き返しにあって、
後半は苦戦を強いられた。
民衆のゲリラ的な抵抗に苦しんだ上、
李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍によって、
海上補給路を、寸断されたためである。
舞台反転 捺印を押すたびに 赤松ますみ
イ・スンシン
≪文禄2年6月、日本水軍の任務は兵や食糧の輸送が主だったが、
イ・スンシン率いる朝鮮水軍に次々と撃破された≫
そのため、一時休戦するが、結局、和睦交渉は決裂し、
秀吉は2度目の朝鮮出兵で、約8万人の大軍を送り込む。
「慶長の役」である。
これでも決着はつかず、
秀吉が1598年に死去したため、
朝鮮出兵は中止された。
何ごともなかったように避けておく 山本昌乃
文禄2年6月、釜山海を進む日本水軍
「秀吉の朝鮮出兵の意味」
さて、秀吉による大陸侵略は、
「名誉欲にかられた秀吉の愚挙」とか、
「思い上がりが生んだ無謀な戦い」
と言われることが多い。
しかし、「支配権を国外まで拡大したい」
あわよくば、「東アジア全体を掌握したい」
という秀吉の野望は、
それにのった大名たちの同調があって、実行されたもの。
「天下一を誇る秀吉軍に加われば、領土を拡大できるかもしれない」
だからこそ、秀吉に従ったというわけがある。
ことごとく腐ってドロドロの正義 石橋芳山
つまり、秀吉は、戦いを続けて、領土を増やさなければ、
支配力を維持することが、出来なかったともいえる。
また、「天下を統一した」とはいっても、
世の中には、戦国の風潮、
「下克上の時代」を知る者が、多数生き残っている。
二番線ホームで待っているチャンス 本多洋子
釜山城攻略・『釜山鎮殉節図』
≪釜山城を陥落させた日本軍は、続いて漢城へと進軍≫
江戸時代の儒学者・林羅山は、
「愛児鶴松が死に、その悲しみからのがれるために、
秀吉は朝鮮出兵を決意した」
と言っている。
しかし、秀吉が「朝鮮侵略」の意図を口にしているのは、
鶴松の死よりもはるか以前、天正13年のことだから、
この考え方は、成り立たない。
行き先を忘れたらしい蝶が一匹 森田律子
天正13年9月3日付、家臣の一柳末安宛て、
秀吉が、「朝鮮出兵」を言い始めた一番早い文献・「秀吉文書」に、
「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候 心に候か」
とある。 解釈は、
”関白として、日本全体の統一支配だけでなく、
唐国までも、そのようにせよと命令された”
といっている。
関白に任官したのは、あくまで日本の関白だが、
秀吉はこのように、拡大解釈していたことがわかる。
≪秀吉が関白に任官した天正13年7月から、2ヶ月後の文章である≫
描きおえて画家は昇天するつもり 筒井祥文
秀吉と日本水軍
とにかく、「朝鮮侵略の意図は、愛児鶴松の死という、
個人レベルの問題ではなく、公的な問題として、
秀吉の領土拡張の意図からはじまった」 (中村栄孝)
秀吉にしてみれば、
実際に九州まで行き、壱岐・対馬を制圧してみると、
そのさきにある朝鮮が近くに、感じられた。
そして、秀吉の頭に、そろそろ、
日本統一後のことが、ちらつきはじめた。
大きく振り被った次の音 蟹口和枝
封建的主従制を保つ手段として、御恩と奉公の関係がある。
「諸大名たちは、恩賞をもらえるから自分についてきているのだ」
という、認識を秀吉は、もっていたはずである。
その裏返しとして、
「与える恩賞がなくなったとき、
果たして彼らは自分についてくるだろうか」
という不安をもった。
それゆえ秀吉は、
九州征伐・関東征伐・奥羽征伐が、終わったあとも、
さらに、明にまで攻めていくことも、
構想していたものと思われるのだ。
刃物を持っての駆け込み乗車はおやめ下さい 吉澤久良
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