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川柳的逍遥 人の世の一家言
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あっごめんあなたの影を踏んでます  山田葉子

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 淀君に、市の方の面影が残る

「秀吉の恋ーこころの内」

秀吉のもとに、茶々、初、江の三姉妹が送られたのは、

天正11(1583)年のこと。

姉妹にとって、秀吉は生家である浅井家を滅亡へと追い込み、

さらに母が再嫁した柴田勝家を母とともに自刃させた、

宿敵ともいえる相手だった。

あの事は水に流してくれますか  信次幸代

結婚が、政治のかけひきに使われた時代、

天下統一を狙う秀吉にとって、

死してなお、カリスマ的存在感を放つ、

織田信長の血を引く三姉妹がもつ意味は、大きかった。

しかし、茶々に対する想いは、それだけではなっかった。

愛のうたらくだに瘤が二つある  森中惠美子

信長に仕えていた時代から、に想いを寄せていた秀吉は、

その面影を、茶々のうちに見出していた。

ちなみに、三姉妹のうち、”誰がいちばん母の市に似ていたか”

といえば、残る肖像画から、

「切れ長」、「蠱惑的な目つき」などが共通する、お江だといわれる。

茶々は、市の面影を残すも、父・長政似であったと見られている。

(* 蠱惑(こわく)的とは― 人の心を惑わし乱すようなこと)

睡蓮かおたまじゃくしかどうでもよいわ  岩根彰子

秀吉はまず、天正12年、大野城城主・佐治一成に三女の江を、

さらに、その三年後の天正15年には、

次女・初を、大溝城主・京極高次と次々に嫁がせたが、

茶々だけは、手放さなかったのである。

一方で秀吉は、天正13(1585)年に関白になると、

着々と「天下統一」への地歩を固めていた。

そして、茶々が秀吉の側室となったのは、

その数年後のことである。

油断してたら大人になってしまったよ  竹内ゆみこ

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金箔や銀箔を刺繍のすきまに摺り詰められた小袖

お江や茶々の気持ちを留め置くため、秀吉は、贅の限りを尽くす。

染色技術が飛躍的に進歩した桃山時代は、目にも鮮やかな繍箔小袖が流行

茶々もこの華麗な生活が、気にいっていたようだ。

市に惚れていたという秀吉が、

なぜ、市に似ているお江でなく、茶々を側室にしたのか・・・?

茶々が秀吉の側室となった時期は、

(・・・正確には判らないが)

天正13(1585)に於次丸(秀勝)が、丹波亀山で亡くなってから、

しばらくのことと考えられる。

マスクの下で夢を温めているところ  赤松ますみ

織田信雄をさしおいて、秀吉が天下に指図できたのも、

信長四男・秀勝を養子にして、跡取りにしたわけで、

天下の政権を、仮に秀信(三法師)に返さなくとも、

少なくとも秀勝に

「いずれ大政奉還するという名目があれば」ということで、

周囲に説得力をもたせていた。

うかつにもワニのなみだにひっかかる  浜田さつき

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  淀君錦絵

明治時代、坪内逍遥の戯曲・「桐一葉」が、今日一般に思われている、

「淀君」の強く雄雄しいイメージを作りあげた。

側室としての狙いをとらえ、その眼光の鋭さが伝わる・・・。

ところが、秀勝が亡くなってしまうと、

秀吉には大義名分がなくなってしまう。

そこで、織田家の血を引く姫を、

「第二夫人として迎えたい」という事情もあったのだ。

そこで、長女である茶々が、最も大事ということになった。

蚊柱が立つ累代の臍の位置  井上一筒

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できたての雲です湯気を上げている  加納美津子

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「秀吉VS家康」

天下人の実母であれば、その権勢を背景にした伝説めいた逸話の、

ひとつもあっていいのだが、

秀吉母・なか(大政所)に関しては、そのような話を聞かない。

なかは、尾張の国・御器所村の鍛冶屋兼野侍の、家の娘として生まれ、

信長父・信秀の足軽だった木下弥右衛門に嫁ぎ、

秀吉を産んだ。

(弥右衛門の病没後、信秀の同朋である竹阿弥と再婚する)

金の卵になりなさい勉強なさい  山口ろっぱ

ただ、さすがに天下人・秀吉の母としての、覚悟はできていたらしく、

再三にわたる上洛の誘いに、応じなかった家康を動かすため、

秀吉に言われるまま、

人質として、家康の居城があった三河の国・岡崎におもむいた。

これにはさすがの家康も翻意せざるを得ず、

上洛に応じたため、

なかは、1ヶ月後に大坂城に戻ることができた。

山ひとつ越えたか蝶の傷だらけ  高田圭子

実は、この間、家康の側近は、

なかの居室の周囲に薪を積み上げ、

なにかあれば、いつでも火をつける用意をしていたというが、

はたして、なかはどんな心地がしていたのだろうか。

過去形で話す私とさようなら  山口美千代

秀吉の正室であるね(北政所)とも、嫁姑関係が良好で、

穏やかな日々を送ったというが、

堅実で素朴で、賢明な女性であったようだ。

が、娘の旭姫、息子の秀長が病で没したときは、さすがに気落ちしたという。

このことからも、子どもに対する愛情が、

いかに深い母であったかが、うかがわれる。

泣くところできっちり涙出すひばり  河村啓子

秀吉が関白になったのを機に、なかは、大政所と呼ばれるようになったが、

秀吉は終生、母であるなかを大切にした。

第一次朝鮮出兵(文禄の役)の最中に、「聚楽第」で亡くなったが、

その報せを、九州に築いた名護屋城で聞いた秀吉は、

ショックのあまり、卒倒したといわれている。

酸欠の青大将であった頃  井上一筒

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「大河ドラマ・第17回・『家康の花嫁』 みどころ」

天正13(1585)年7月、関白の宣下を受けた秀吉(岸谷吾郎)は、

名実ともに天下人となった。

その翌月、羽柴軍は長宗我部元親を下して四国を従えた。

念願の栗きんとんになりました  赤松ますみ

更に、能登の前田利家を動かして、越中の佐々木成政を下し、

九州攻めを前に、背後をおびやかす有力大名は、

徳川家康(北大路欣也)だけとなっていた。

だが家康は、秀吉の何度もの上洛の呼びかけに、

応じることはなかった。

人喰った顔だ涼しすぎる顔だ  安土理恵

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年が明けて、天正14年、

秀吉は家康に正室がいないことに目をつけた。

正室だった築山殿を信長の命によって殺してからは、

正室を娶っていなかったのだ。

秀吉はさっそく自分の妹の旭(広岡由里子)を、家康の正室にと送りつけた。

秀吉にとって、『大事なもの』とは家族だったからだ。

空き箱にいつかをつめているようだ  杉本克子

旭には夫の甚兵衛(住田隆)がいたが、

秀吉は、甚兵衛には、「5万石の大名に取り立てる」という条件で、

強引に離婚をさせた。

その強引な秀吉のやり方に、甚兵衛は怒りを露にして、

城を飛び出して、行方をくらませてしまった。

捏ね回しひねくり回すいい逃れ  坂下五男

やがて、家康は旭を正室として、迎えて厚遇した。

だがそれは形だけの夫婦で、そこに情愛などは欠片もなかった。

  「・・・私を妻として・・・女子として扱って下さりませ。

      でないと、兄に従うたことになりませぬ・・・」

家康 「あなたは男をご存じない。

          そのようなことを言われて、ならばと応じたのでは、

          あなたはまさに人質ではありませぬか」

0と1限り無くあるその間  岡田陽一

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それでも、家康は動こうとしなかった。

秀吉は、旭より大物を人質に出さないと駄目だと思った。

すると、おね(大竹しのぶ)なか(奈良岡朋子)が、

「自分が人質になる」

と言い出し、結局、なかが行くことになった。

まさに秀吉にとって、一番大事なものは母親だったのだ。

さすがの家康も、大政所が人質として来たことで観念してしまい、

10月、京を経て大坂に入った。

山盛りのNOからひとつだけYES  桂 昌月

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大坂城の大広間で、万座の大名衆や家来衆の注目の中、

家康は上段の秀吉に向かって、

深々と頭を下げて、臣下の礼をあらわす。

家康 「不肖家康、関白殿下の御為に忠義の限りを尽くし、

            ご奉公致す所存にござりまする」

溜め池は残ったさらさらと小川  壷内半酔

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実はこれは前もって、秀吉が家康に頼み込んでいたことだった。

そのあと次に家康は、秀吉が着ている陣羽織を所望する。

それは秀吉が、信長から貰ったものだった。

これは打ち合わせになかったことで、

家康唯一の抵抗だった。

酒のさかなにすこうし疼くものを入れ  森中惠美子

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家康との対面も無事に終わると、

秀吉は、茶室に茶々(宮沢りえ)お江(上野樹里)を呼んで

茶を振る舞った。

そこで利休(石坂浩二)は、

秀吉が駿府の家康のところに、妹の旭を送った時から

茶断ちをしていたことを明かし、茶断ちが明けた最初の茶は、

秀吉自らが点てた茶を、

「茶々に振る舞いたかった」
のだという。

秀吉 「何より好きなものを断たねば、おのれを罰することにはならないからにござ

           います。

     ・・・それがしは、妹から夫を引き離して他の男にあてがい・・・

     年老いた母を人質に差し出しました。

            おのれの妹、母親までを政の道具として使うた男にござりますれば・・・」

泥臭く生きて無色に憧れる  吉川 卓

秀吉は泣いていた。

秀吉の点てた茶を飲んだ茶々は、

今度は、茶々が秀吉に茶を点ててやった。

いままでになかったことで、秀吉は感涙に咽ぶ。

利休は、秀吉は茶断ちだけでなく、

「茶々に会うことも、断っていた」ことも明かす。

深々とブドウの垂れて恋ひとつ  前中知栄

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茶々  「前に言うておったな。秀吉は大嘘つきだと・・・」

江  「はい!」

茶々  「でもその中に『まこと』があると・・・」

  「は はい・・・」

茶々  「悔しいが、私にも、それが分かった気がしたわ・・・」

  「だまされてはなりません! あれはあの者の手にござりまする」

これは、茶々が側室・淀殿になる前兆であった・・・。

衝動にかられて握手してしまう  竹内ゆみこ


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折れた矢を集めて今日の火を炊こう  奥山晴生

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勝龍寺公園に建つ細川忠興とガラシャの像(長岡京市)

「たま・珠・玉とも称されるガラシャ」

細川ガラシャ(たま)は、明智光秀の娘として越前国に生まれた。

文化人でもあった父の教育を受け、

聡明で美しい娘へと成長したたまは、

15歳で信長の家臣・細川忠興のもとに嫁いだが、

平穏な日々は、長くは続かなかった。

うっかりとニーチェの森に迷いこむ  浜田さつき

父・光秀が、本能寺で主君・信長を討ち、

たまは、「逆臣の娘」の烙印を押されることになる。

そして、夫・忠興が羽柴秀吉側についたため、

本来なら離縁されるのが当然であろうが、

たまを愛していた忠興によって、丹後の山深くにある味土野に幽閉された。

妊娠中だったたまは、ここで次男を出産する。

運命線ところどころでわらう鬼  赤松蛍子

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隠棲地の碑が建つガラシャ幽閉の地

”身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥啼く”

2年に及ぶ幽閉を解かれ、

大坂の細川屋敷に戻ることが出来たが、

そこで彼女を待ち受けていたのは、

忠興が、側室を置いているという事実だった。

しかも幽閉地で生まれた次男に対する、忠興の態度は冷たかった。

* (呼子鳥ー鳴き声が人を呼ぶように聞こえるところから、カッコウといわれるが・・・)

黒い火に油注いじゃなりませぬ  山口ろっぱ

おそらく、そのような辛い日々が、

彼女をキリスト教に向かわせたのだろう。

忠興が秀吉に従って、九州征伐に出向いている間に、

たまは洗礼を受け、「ガラシャ」という洗礼名を授けられた。

それを知った忠興は、ガラシャに執拗に棄教を迫ったとされるが、

彼女の信仰が、揺らぐことはなかった。

開かない扉むこうの乱気流  合田瑠美子

関が原の戦いの直前、挙兵した石田三成は、

諸大名の妻女を人質に取ろうとするが、

”ガラシャはこれに抵抗し、三成軍に屋敷を取り囲まれると、

ガラシャは、家老に槍で胸を突かせて死んだという”

キリスト教では、自殺は大罪であり、

それを避けるための覚悟の死だったといわれている。

ポリシーを通し続けてきた氷柱  赤松ますみ

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”散りぬべき とき知りてこそ 世の中の 花は花なれ 人は人なれ”

                               (ガラシャの辞世の句)

死なねばならないとしたら、

その時に向かって人生を全うして、無駄に過ごすな。

そして桜の花のように、見事に散ってこそよい。

こうした長く辛い運命と流れて・・・なお、

ガラシャは夫・忠興を励ましているという切ない解釈がされている。

慶長5(1600)年7月17日没  享年・38歳

(ガラシャとは、ラテン語で”神の恵み”という意味)

自分への弔辞自分で書いてある  井上一筒

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「蛇足」

キリスト教の一派イエズス会の創始者の一人、フランシスコ・ザビエルは、

インドのマラッカで、アンジローという日本人に出会い、

その聡明さに心打たれ、日本への布教を決意する。

そして1549年、ザビエルは鹿児島に上陸、

山口・堺・京都と布教の旅を続け、2年3ヶ月の滞在ののち、離日した。

糊代を無視して描いた設計図  井丸昌紀

彼に感化されて、入信した者の数は1000人にも満たなかったが、

以後、続々と宣教師が来日、教徒は急増してゆく。

そして信長の時代に最盛期を迎える。

信長が、仏教勢力を抑制する目的で、

キリスト教を公認したからだ。

貝の口あの手この手を持っている  和田洋子

だが天正15(1587)年、九州を平定した秀吉は、

突如バテレン(宣教師)追放令を出す。

その理由としては、

「教徒の団結を恐れた」

「長崎が教会に寄附されていたのに激怒した」

「宣教師が日本人を奴隷として海外へ売ったのを知った」

など諸説あるが

「南蛮貿易」
は奨励されたので、追放令は不徹底に終わった。

未来図が描ききれない骨密度  上嶋幸雀

また、徳川家康もはじめのうちは、貿易の利を重視し、

キリスト教を黙認してきたが、

慶長17(1612)年直轄地に「禁教令」を出し、

翌年には、適用範囲を全国に広げ、

高山右近ら多くの信徒を国外追放した。

唐突な禁教は、オランダとイギリスがお互いの詰りあいで、

「カトリック系宣教師の目的は、日本侵略にある」

と吹き込んだためとされる。

磨きあげたとたんにワワワッと棘  森田律子

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その以後、寛永14(1637)年、

島原で天草四郎を首領とする農民2万が、反乱を起こした。

明治5(1873)年、キリスト教は、明治政府が公認するまで、

約300年間の、厳しい弾圧と詮索に耐えて、

父祖の信仰を守り抜いたというのは、まさに奇跡的な出来事である。

待つための日めくりを吊る釘を打つ  森中惠美子

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三角波と消臭剤を持ち歩く  岩根彰子

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    足利義昭肖像画

「秀吉は日吉丸が嫌い」

秀吉「関白」となって施工したものに、

「太閤検地」と「身分固定化」というものがある。

太閤検地は、ただ土地の面積と収穫量を調査しただけでなく、

検地帳に登録された耕作者を「百姓」とし、

それを、年貢負担者と定めた。

それまで、実際には耕作していながら「作合(つくりあい)」という形で、

有力農民に中間搾取されていた農民が、

この検地によって、自立したことの意味は大きい。

(百姓出身の秀吉らしい思慮である)

指揮棒が降らせるひらひらの雪  泉水冴子

しかし、農民たちは、それを手ばなしで喜んでいるわけにはいかなかった。

”太閤検地”から矢継ぎ早に、秀吉は”身分統制令”をだす。

これは、侍、中間、小者などが新たに農民や町人になること、

逆に農民が施策耕作を放棄して、

商人になることなどを、禁止したのである。

農民は農民、武士は武士、商人は商人というように、

身分を固定し、それを移動してはならないことを規定した。

次ページのタクトに揺れている呼吸  桂 昌月

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           太閤検地

この身分統制より3年早い、天正16年秀吉は、「刀狩り」の令を出している。

これも半農半士的身分を否定したものである。

それまでの農民の場合、

傭兵という出稼ぎもあり、刀や槍の一本や二本は持っていた。

それは便利でもあり、支配権力にとっては、脅威でもあった。

いわゆる、「いつまた下克上の嵐が吹荒れるかもしれない」

という不安があった。

地平線の向うに折れたボクの影  笠原道子

秀吉は、秀吉自身が貧しい農民の出身でありながら、

関白まで上り詰め、自らが天下統一を成し遂げると、

再び自分と同じ人間が、生まれる可能性をなくしたのである。

(本人が下克上でのし上がりながら、下克上の社会を否定したのである)

幾重にも自分にかける包装紙  久恒邦子

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秀吉の母・なか(大政所)

「秀吉最初の下克上ーエピソード」

秀吉の母・なかは、夫(秀吉の生父)が死ぬと、まもなく再婚する。

秀吉は新しい継父を嫌い、家を出る。

そして、当時の有力武将、今川義元の駿河をめざした。

浜松まで来て、今川の家来で浜松の出城城主・松下嘉兵衛に出会い、

そこで松下の家来になる。

そして、またたくまに財政担当まで出世した。

曲者は柔和な顔を持っている  内藤光枝

すると先輩たちは、その嫉妬を抱き、

「秀吉は公金を横領している」

と、中傷をしはじめたのである。

嘉兵衛は、秀吉と古い家来の関係が、うまくいかないのを悩み。

そして秀吉を呼び、

「おまえが悪いことをするとは思わない。

 しかしおまえがいると、松下家の内部が乱れる。

 退職金をはずむから退職してくれ」

と頼んだ。

ケータイが鳴ってる麺もふきこぼれ  山本昌乃

それに対して、日吉丸は、

「部下の潔白を知りながら、古い家来の圧力に負けて、

 わたしを首にするあなたには、リーダーの資格はない。

 そんなあなたに出城をまかせる今川様も、大した人物ではない。

 わたしから松下家を辞めます。

   退職金はいりません。

 なぜなら、主人のあなたが私を首にするのではなく、

 部下の私が、あなたを首にするのです」

と応えた。

まさに、秀吉は、ここで一番最初の下克上を実践したのである。

傷口を洗いリセットキーを押す  谷垣郁郎

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大河ドラマ・第16回・「お江ー関白秀吉」 みどころ』

秀吉(岸谷吾朗)は、家族を大坂城に呼び寄せ、三姉妹と合わせ、

広間で今後の決意を表明する。

秀吉  「わしも、これだけの城を持てる身分となった。

             朝廷より、内大臣に任ぜられてもおる。

             こうなったからには、わしは、わしは、将軍になろうと思う!」

それには、さすがの家族も、妹の旭(広岡由里子)を除いて、信じるものはいなかった。

勿論、三姉妹も同じだったが、

なぜ突然そんなことを言い出したのか?

綿密に描く摩周湖の展開図  井上一筒

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秀吉は、備後の義昭(和泉元彌)の宿所に秀長を遣いに出す。

義昭  「な、なんたることか。今まで長う生きて参ったが、このように情けなきこと、

            かくも大きな屈辱は初めてじゃ・・・。

            百姓の分際で、源氏を名乗れる道理があるまいが!

           ぬしの如き者、声をかけられるのも不愉快じゃ!」

秀吉にとっては最大の屈辱だった。

「なんとしても、義昭に目に物を見せたい!ひと泡吹かせたい!」

じりじりと間合いを詰めて来る火種  上嶋幸雀

秀吉は、自室に江(上野樹里)宗易(石坂浩二)を呼び、

「義昭に泡をふかせるいい方法はないか」
と聞く。

なかなか妙案は浮かばないとこへ、江がポロッと、

「将軍より偉くなればいいのではないか?」 と言う。

日の本でいちばん偉いのは帝だが、それだけは絶対に無理だ。

では、その次に偉いのは・・・?  

「関白」であった。

おーい夕日これからどこの朝日だい  有田一央

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関白は、公家の五摂家から選ばれるので、武家からは出たことがない。

そこで、秀吉は五摂家の筆頭・近衛家に目をつけた。

近衛龍山(江良潤)に会うと、莫大な財力にものをいわせ、猶子となる。 

次は、関白になる番だ。

そんなとき、大坂城に来た細川忠興(内倉憲二)から、

いい情報が届く。

さあ春だコーヒーカップ回り出す  太田扶美代

現在の関白である二条昭実に対して、

近衛信尹
(のぶただ)が、退位を迫っているというのだ。

信尹は、秀吉が猶子となった龍山の嫡男、

つまり、秀吉と信尹は兄弟ということになる。

さっそく信尹に行くと、やはり莫大な金銀財宝を与えた。

三成  「近衛様と二条様どちらが関白の座を得られましょうと、

      あとには必ずや禍根が残るはず。

      しかしながら、前例なき武家関白であれば、恨みつらみは出ませぬ」

理由はどうであれ、大量の財宝を見せられたら、信尹も断るわけにはいかなかった。

とうとう秀吉は関白になった。

ギャグひとつ許せない日と許せる日  片岡加代

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そのことを聞いて驚いたのが義昭だった。

義昭  「・・・ひひ、秀吉が関白じゃと・・・? 猿が関白? 百姓が・・・。

       そのようなこと、この世にあってなるものか! さ、猿が関白・・・」

京の妙顕寺城で、御所の使者を迎えた秀吉は、

束帯を着けたまま、大坂城の茶々(宮沢りえ)のところに駆けつけた。

さわやかな音符に乗って来た言葉  奥山晴生

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秀吉は、誰よりも先に茶々に見せたかった。

秀吉  「拙者、こたび、関白に任じられることになりましてござりまする」

茶々  「聞き及んでおりまする。・・・おめでとう存じまする・・・」

そんな秀吉を見て茶々は呆れていたが、

その目は明らかに、これまでの秀吉を見る目とは違ってた。                                     

江は、茶々の心変わりを感じ取っていた。

目が合ってしまった 愛してしまった  前中知栄

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酔いがさめると葉桜になっていた  井上一筒

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     緑のさくら

これは「葉桜」ではありません。

造幣局に咲く「緑色の桜」です。


「秀吉と家康」

万事がいい加減な織田信雄に、はしごを外され、

困惑の家康だったが、石川数正を、秀吉のもとに送り、

「信雄、秀吉の両所が和睦は、天下万民のためにめでたい」

と挨拶に言わせた。

それを聞いた秀吉は、家康も「おっつけ上洛する」のだと早合点して、

「家康殿の縁者のどなたかを、養子に迎えたい」

と言った。

さくらさくら空が見えないほど桜  吉田わたる

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通り抜けさくらの枝にかかっていた「吉田わたる」さんの短冊です。


家康は、とりあえず養子にと、

家康の母・於大の方三男・定勝に白羽の矢を立てた。

ところが、困った事に、於大の方がどうしても承知をしない。

於大の方は、

「信康と交換だといって次男の康俊を今川に人質に出したら、

 武田に連れ去られ、逃げ出してきたが、可哀そうに凍傷で両足の指を失った。

 わが兄の水野信元も、信長の指示だと言って切腹させた。

 末っ子の定勝は手元に置いて大事にしているのに、

 それを人質に出すとは、どこまで母を苦しめる気か!」

と烈火のごとく怒ったのである。

開花時期異常気象で狂い咲き  本多智彦

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 本多智彦さんの短冊

そこで家康は、しぶしぶ次男の於義丸(秀康)を出すことにした。

このとき於義丸は、11歳。

三男で6歳の長丸(秀忠)どちらが世継ぎか、確定していなかった。

たまたま手を付けた侍女が、生んだ於義丸は、

はっきりいって、自分の子かどうかすら確信がなく、

しかも気性も気に入らない。

それに比べて、愛妾の西郷局の子で、本人も従順そうな長丸のほうが、

世継ぎにはふさわしいかと漠然と考えていたので、思い切ったのだった。

夜桜よ新入社員群れをなす  伊達郁夫

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伊達郁夫さんの短冊です

家康は、養子として於義丸をさしだしたあとも、上洛の気配がない。

これには秀吉も、かなり気分を害していた、

実は、家康も追い詰められていた。

なにしろ秀吉は、関白になって朝廷をバックに権威も得ていたし、

「小牧・長久手の戦い」の時に、家康と呼応した勢力のうち、

根来・雑賀の衆は殲滅され、四国の長宗我部氏も、下がってしまっていた。

本願寺も天満に広大な土地を得て、大坂復帰を認められた。

しかも、越後の上杉景勝と秀吉の関係も改善していたので、

家康にとっては、八方ふさがりだった。

短冊を提げて桜の得意顔  久米穂酒

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得意顔の桜も今年はライトアップがないのが少し寂しい。

岡崎城代・石川数正らの家臣からも、

「いい加減にしないと、滅亡の危機だ」

という意見も出るが、家康は知らぬ顔。

せっかく獲得した領地の寸分でも、取られるのが嫌だったのだろう。

家康に業をにやした数正は、秀吉のもとに逐電してしまう。

同じ時期に、信濃の小笠原貞慶真田昌幸も離反する。

政界の騒ぎをよそに通り抜け  住田英比古

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    造幣局旧正門

住田英比古さんの句は見つけられませんでした。

 
絶体絶命に陥った家康であったが、

もって生まれた運の強さで、窮地をのりきる出来事が、九州で起きる。

島津氏の躍進である。

九州では、豊後のキリシタン大名・大友宗麟、肥前の竜造寺隆信、

島津義久の三大勢力が争っていたが、

天正12年(1584年)に隆信が敗死。

宗麟も病気がちで、往年の面影はなく、

島津軍は筑前まで迫り、

九州統一王国が、生まれようとしていた。

秀吉は、九州に独立王国が成立して、

海外と勝手に付き合い出したら、

日本という国の統一が維持できないと心配していた。

ケータイの窓に乾燥注意報  前中知栄

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 大坂城の桜はすでに葉桜

そこで秀吉は、天正13年(1585年)、

島津氏に領土拡大をやめるように勧告した。

「惣無事令」という。

しかし、源頼朝の子孫と称する島津氏は、これを無視。

もはや、大友氏の息の根を止める状態になっていった。

まずいと考えた秀吉は、

この際、「家康と和睦」して九州制圧に、力を集中したかったのである。

カーナビがそこはまずいと言っている  吉川幸子

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通り抜けの真ん中辺にある「投句所はこちら」。

なんとそこで秀吉は、妹の旭姫を夫と離縁させ、

家康の継室として、送りこむ決意をした。

実質上の人質としたのである。

さらに、旭姫に会いに行かせるという口実で、

実母の大政所まで、岡崎に送った。

まばたきが枯山水になっている  河村啓子

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緑の桜の名前は「御衣黄」という。

この秀吉のやり方に、さすがの家康も、

「横領した領地を取り戻される心配もなかろう」

と安心して、

天正14年(1586年)の10月に、大坂に赴き、

秀吉の家来になった。

そののち駿府に家康が移り、後顧の憂いがなくなった秀吉は、

天正15年(1587年)、20万の兵で九州へ出陣し、

島津義久を降伏させた。

勝つときの涙をいつも溜めておく  森中惠美子

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