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川柳的逍遥 人の世の一家言
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城一つ伸びゆく街の灯を見つめ  金子呑風

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大奥での御台所・お江が描かれた錦絵

≪慶長10年(1605)秀忠が2代将軍に就任。

  32歳にして江は、ついに徳川家の御台所となった≫

「江戸城」

秀忠との結婚生活を、伏見で始めたお江は、

婚儀から2年後の慶長2年(1597)に、

豊臣秀頼の妻となる長女・千姫を産む。

その後、生活の場を徳川家の居城・江戸城に移し、

ここに約30年にもわたる、江戸での生活が始まる。

そして江にとって、

江戸城が、54年の波瀾の人生を終える城となる。

石垣を積む一本に骨の音  通 一遍

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東御苑に残る「天主台石垣」

当時の江戸城は、徳川家が天下人となり、

幕府を開いた後の江戸城とは、まるで違っていた。

まず、天守閣がなかった。

江戸城が将軍の居城として面目を一新するのは、

秀忠が将軍に就いてからだった。

慶長9年(1604)に、江戸城増築の方針が打ち出されるが、

実際に工事が始まったのは、

秀忠が将軍に任命された慶長10年のこと。

工事は将軍が住むべき本丸から始まった。

その年、9月に本丸が完成。

慶長12年(1607)に、天守閣が完成する。 

城跡に佇つと聞える鬨の声  有田晴子
 
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      本丸(模擬)

そもそも、徳川家の当主である家康は、

豊臣政権の五大老筆頭として、上方にいることがほとんど。

そのため、江戸城は後継者に擬せられていた秀忠が、

預かる城になっていた。

天下人になった後も、家康は江戸城よりも、

駿府城にいることが多く、終焉の地も駿府城となる。

風生まれ命育む懐へ  合田瑠美子

秀忠は、二代将軍ではあるが、

”将軍のお膝元・江戸” とは事実上、

秀忠の時代に始まるのだ。

お江は、徳川最初の「御台所」として、

上方に行くことも多かった秀忠の留守を、守ったのである。

江戸城とは、

秀忠とお江によって礎が築かれた城だった。

点滅が止んで完成した私  西恵美子

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   「伏見城縄張図」

秀忠の将軍職を祝うため諸大名はこぞって伏見城に登城した。

秀忠が伏見城に朝廷からの使者を迎え、

将軍に任命されたのは、慶長10年(1605)のことである。

”御台所お江” が誕生した年でもあった。

家康の在職期間は、わずか2年に過ぎなかったが、

秀忠は元和9年(1623)まで、約20年間にわたり在職する。 

生きてゆく踏んだり蹴ったりされながら  籠島恵子

 

その間、秀忠は父・家康の路線を維持し、

開府まもない江戸幕府の基盤を、強化することに心血を注いだ。

将軍親政の体制を整え、

「武家諸法度」や「公家諸法度」など、

”幕府統治の根幹に関わる諸法” を定着させたのは、

秀忠の治世であった。

強がりを言ってしまったあほやなあ  新川弘子

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   「皇居東御苑」

≪皇居東御苑は、当時の本丸・二の丸三の丸を中心とした地域で、

    面積は約21万㎡。西の丸(下部囲み左は現在の宮内庁)≫

「恐い妻お江」

2人の正室と15人の側室をかかえた家康の息子でながら、

秀忠は江、一筋。

絵に描いた”恐妻家”として知られている。

お江は、続けざまに3人の子供を産んだが、

みな女子である。

後は世継ぎの男子を生むことだ。

お江は、秀忠を責めたてた。

偉大すぎる父の遺産をどう守るか、

それは胸が苦しくなるほど、難しいことだった。 

「自分にその資格があるのだろうか」

 

秀忠は自問自答の日々だったが、

いつも、お江が後押ししてくれた。 

「能ある鷹は爪を隠すといいます。

  殿さまはじっと周囲を見て学ぶのです」

 

お江の言葉は、胸に響いた。 

虚と実に揺れる女の息づかい  茂本隆子
 
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 ≪皇居東御苑「大奥跡」≫

≪今は広場になっている。奥に天主台を望む≫

その後、珠姫の誕生から、

御水尾天皇の中宮となる和子(まさこ)まで、

お江は、徳川家で2男五女の子宝に恵まれ、

江戸のシンデレラストーリーを描いていくのである。 

ゼブラゾーンを埋め尽くす蛇である  井上一筒

「江と秀忠の子供」 

長女、 千姫(1598) (豊臣秀頼に嫁ぐ)
次女、 珠姫(1599) (加賀藩三代藩主・前田利常正室)
三女、 勝姫(1600) (越前国福井藩主・松平忠直正室)
四女、 初姫(1603) (姉・初の養女になる)

長男、 5人目にして待望の男児誕生(1604)。 竹千代(家光)である。
次男、 秀忠が恐妻・江の目を盗んで出来た異母弟・保科正之
三男、 国松誕生(1606) (後の忠長)異母弟保科正之
五女、 和子(1607)  (東福門院)

 

もういいじゃないかと思うまで産んだ  藤井孝作 

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     保科正之

「秀忠・次男・保科正之について」

秀忠はお江との間に、二男5女を儲けたが、

お江以外の女性との間に生まれた子供は、

記録上は、男の子2人だけである。

それも密かに手を付け、妊娠すると御殿から出してしまった。

それだけお江の目を恐れたわけだが、

秀忠の乳母の侍女・お静の方が生んだ、

幸松丸という男の子こそ、

後の会津藩主・保科正之である。 

噴火する予兆か妻が黙り込む  上嶋幸雀

 

もう1人の男子・長丸は、家光誕生の前に生まれ夭折するが、

その母も侍女の身分であったとおもわれる。

その他、大橋局という、お江の侍女の名前が知られている。

大橋局との間には、子供はできなかった。

秀忠の女性関係は、

侍女などの範囲に限られていたようだ。

真ん中を目指せば嘘のない自分  森田律子

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       江の像と遺品

江は秀忠が浮気をひた隠しにせねばならないほどの、

”鬼嫁”だったのだろうか。

夫婦の実像は、想像するしかないが、

ともあれ、夫婦の仲のよさを証明するかのように、

江は次から次へ子を産んだ。

江は母のに似て、子を宿しやすい体質だったのだろう。  

子づくりのためという、側室を持つ口実を、

秀忠に与えなかったのだ。

  

にこにこと攻めてくるから恐ろしい  嶋澤喜八郎

enngyo.jpg  三田村鳶魚

『余談』

従軍記者として日清戦争にも参加し、

報知新聞記者などを経て、江戸風俗や文化を研究。

「江戸通の三大人の1人」と、いわれる三田村鳶魚(えんぎょ)が、 

「お江は、25歳から35歳までの10年間に、

  男女7人の母になった。

  この分娩と妊娠とを勘定してごらんなさい。

 その忙しいこと」

 

と、芸能ルポの如、やや皮肉を込めて「お江」を評している。

三田村鳶魚・・明治3年、東京八王子生まれ。

歴史考証家・随筆家として、

「御殿女中」「江戸ッ子」「大衆文芸評判記」の著書がある。

囁いてごらん覗いてみてごらん  河村啓子

拍手[3回]

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四隅から四角四角となじられる  酒井かがり

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           三献の茶

「三献の茶」は、江戸時代に入ってからの記録で、

三成という人物を語る上での、創作(つかみ)なのだろう。

いわゆる、14歳にして三成がいかに、聡明で、

「計算の出来る人物」であったか。

それを如実に語っているエピソードなのだ。


すみません藁がお邪魔をしています  松山和代

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「石田三成」

武断派(尾張衆)と文治派(近江衆)。

戦国時代の諸将には、二つのタイプがある。

豊臣秀吉の家臣団の場合、

前者の代表は加藤清正、福島正則

後者の代表といえば石田三成になる。

合理性を重んじ、管理能力に優れ、ときには冷徹非情な官僚。

三成には、そんなイメージがつきまとう。 

蟲一匹殺さぬような顔をして  武曽晴美

 

秀吉が、長浜城の城主となったころから小姓として仕え、

秀吉の台頭とともに、側近として、三成も頭角を現していった。

秀吉軍が強かったのは、

彼が背後で兵站(へいたん)を担ったからといわれ、

世に名高い「太閤検地」も、三成が実質的な推進者であった。 

風除けに辞書がいっぱい積んである  足立玲子

 

秀吉の死後、側室・淀殿、その子・秀頼をかつぎ、

徳川家康に対抗したが、

関が原の戦いに敗れ、

大坂や堺を罪人として、引き回されたあげく、

家康の命により、

京都の六条河原で斬首された。

しあわせをつかみ損ねた木綿糸  森中惠美子

捕らえられたときに、

「なぜ自害しなかったのか」

と問われ、 

「何としても生き延び、家康を討ち滅ぼし、

  秀吉の大恩にむくいるため」

 

と答えたという。

最後まで、秀吉の忠義に生きたのが、

三成という人物だった。 

枯葉舞う古武士の骨の音をして  岩根彰子

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「三成がなぜ嫌われたか?」

秀吉死後、五大老が、相談をした上で、

まず決めたのが「朝鮮からの撤兵」であった。

この差配を見事にやってのけたのは、三成であった。

三成のいつもながらの綿密な計画なくては、

多くの武将たちも、

無事に帰ることが帰ることが出来なかっただろう。

いわば、三成は命の恩人のはずなのだ。 

喋らなければメッキだなんてわからない  八田灯子

 

しかし朝鮮から、

命からがら逃げ帰ってきた武断派の大名たちは、

それまで、軍監として厳しい勤務評定をし、

また、いささか尊大な態度で諸将を迎えた三成に、 

良い感情を持たなかった。

また彼らには、自分たち武断派の活躍があってこそ、

「秀吉は天下をとれた」のだという自負があった。

三成は、戦場での功名という点では二流・三流である。

それなのに三成は、

重用されすぎてきたという屈折した思いが、

 

武断派にはあったのだ。 

おおかたは水分愛も憎しみも  嶋澤喜八郎

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博多の港で、加藤清正を迎えたとき、三成は、 

「ご上洛なされましたら、茶会でも開き、

  おのおのがたをご招待しようと思っております」

 

と言ったところ、 

「われらは長年朝鮮に在陣して苦労し、

  兵糧一粒とて無く、
内地でぬくぬくしておったそこもととは違い、

  茶など持たぬゆえに、
冷え粥ででももてなそうか」

 

といい放った。

人格を計る目盛が酒にある  長野峰明

三成は,朝鮮遠征について、

現地の武将の中でハト派の、小西行長宗義智と近く、

タカ派の清正らとは、意見の違いがあった。 

≪いわば、現代に置き換えてみると、

 三成は会社の総務部長のような立場の人で、

 外交側の立場の人は、営業でひたすら歩き汗水流して、

 仕事をこなしているのに拘らず、

 総務側の立場から、業務のチェックやら、交際費の使いすぎや、

 業務計画をうるさく、こまかく、言われてはたまったものじゃないのだ。

 どうしても、嫌われる仕事をしているのが、総務部長・石田三成なのだ≫

 

おたふくを数える役がぼくの役  井上一筒            

戦いが終わったら、

総務部長は、戦場で臆病だったり、軍規に反した者を処罰し、

功があった者には報いねばならない。

良い報告をしてもらった者は、当然と受け止め、

悪く言われた者は、深い恨みとなる。

しかも、「朝鮮の役」では、

新たに獲得した領土はなかったので、

軍監に悪く報告された者の領土を削って、

功があった者に、配分することになる。 

≪このときの軍監は三成に近い、福原長尭(ながたか)らであった≫

 

内ばかり守り外から攻められる  百々寿子

つまるところ、秀吉が自分の死後にも引き続き、

政権の屋台骨を担がせようとした三成に、

こんな「汚れ役」を兼ねさせたのが、間違いだった。

また、家康が目指した国家像と、

三成が考えていた国の将来像にも、

かなりの違いがあったことも、

確認しておかねばならない。 

相槌をうつたび敵を作ってる  立蔵信子

 

家康は、この「豊臣家臣同士の対立」を利用して、

一気に権力を握ろうと画策し、

武断派大名を懐柔しはじめた。

こうして文治派、武断派の抗争は、

三成VS家康の構図へと変化していく。

 
(歴史が繰り返す、滅びの道の身内同士の対立。見たまえ民主党)

音を聞く音に引っ張られる体  山口ろっぱ

 

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大河ドラマ・お江-第33回‐「徳川の嫁」  あらすじ

慶長4年(1599)を迎えると、ようやく秀吉の死が公にされた。

また、淀(宮沢りえ)秀頼(武田勝斗)が、

「大坂城に移った」という話も伝わってくる。

かなりお腹が目立ってきた江(上野樹里)だが、

相変わらず気がかりなのは、

「上方で何が起きているのか」 ということ。

本多正信(草刈正雄)と話す秀忠(向井理)が、 

「また三成が動いている」

 

と漏らしたのを耳にして、思わず、 

「それはどういうこと?」
 
と割って入る。
 

やすやすと屈服しない貝柱  清水すみれ
 
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口を挟む彼女を少しうるさく感じた秀忠が、 

「なぜ、いちいち首をつっこむのだ」

 

と聞くと、江は迷うことなく答えた。       

「私は、世の中で何が起こっているのかを、
 
  正しく知りたいのです」

どんなにつらい現実も、

まっすぐに見つめてきた彼女の信念だった。

その思いを受け、秀忠は、

三成(萩原聖人)は、父・家康(北大路欣也)が、 

  いずれ豊臣から天下を奪うつもりだと考え、

  対決姿勢を強めているのだ」

 

と、江に上方の状況を解説する。 

妻と私の流れがごめんやすになった  奥山晴生

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それを聞いた江は驚き、不安を募らせた。

義父は、本当に天下を奪おうなどと考えているのか。

もしそうなれば、淀や完はどうなるのか・・・。

だが、しばらくして耳に入ってきた話は、

彼女をさらに混乱させる。

家康が、同僚たちに恨まれて命を狙われた三成を、

窮地から救ったというのだ。 

倒れないようにわたしも揺れている  河村啓子

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その上方の方では、

大老筆頭として豊臣政権の運営にあたる家康が、

ほかの大名家との婚姻を、積極的に進めていた。

それは

「天下取りを見据えた行動」
とも取れる掟破りの行為だ。

かねて、家康を警戒していた三成は、

当然、その行為に激怒。

証拠の書状を突きつけて、家康を弾劾するが、

大老の前田利家(大出俊)になだめられ、

また、家康があっさり頭を下げたことで、

その場は引き下がるしかなかった。

影法師ふらつく足にふらつくよ  時実新子

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怒りの収まらない三成は、

秀吉の懐刀と言われた官兵衛(柴俊夫)に、 

「力を合わせて家康を失脚させよう」
 
と持ちかける。

だが、官兵衛はその話には乗らず、

逆に、三成が人の心の動きに疎いことを、

やんわりたしなめるのだ。 

一コマを掴みそこねて倦む座敷  富山やよい

 

拍手[8回]

出て来いよ目にさわやかな卑怯者  時実新子

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浄土真宗の宗祖・親鸞の思想のキーワードは、

「悪人正機」・「往生」・「本願」

悪人正機―法律や倫理・道徳を基準にすれば、

この世には、「善人と悪人」がいるが、

どんな小さな悪も見逃さない、仏の眼から見れば、

すべての人は、『悪人』だと、親鸞は説いている。

半眼の弥勒の笑みにうろたえる  たむらあきこ

「悪人・家康の企み」

(親鸞展より、家康にコラボしています)

秀吉の死の翌日、

「三成が家康の暗殺を計画している」

という噂を聞き、家康は、

秀忠を密かに江戸へと向かわせた。

畿内から遠く離れた江は、

義父と三成の関係が悪化していると聞いても、

何の手立てもできなかった。

2人の争いは、秀頼を守る姉・と自分が、

敵と味方になることを意味していた。  

反乱の首謀者はブリキのバケツ  加納美津子
 

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   親鸞坐像

親鸞はすべての人の本当の姿は、『悪人』だと述べている。

「善人」は、真実の姿が分からず、善行を完遂できない身である事に

気付くことのできていない、「悪人」であるとする。

「前田利家との対決」

利家は、大坂城で秀頼君のお傳役であり、

北政所茶々と常に側におり、

しかも、信長の家臣だった大名や、

秀吉が取り立てた武将たちとは、旧知の間柄。

ところが家康は、織田家でも豊臣家でもなく、外様である。

家康には、焦りがあった。

そこで、家康は朝鮮から帰った武将達など

に懇ろに、接するように心がけた。

泣くまいぞ一期一会のお節介  村井冨美子

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親鸞布教の姿

三成のことについて、不満を漏らす武将たちに、

利家は、  

「お前たちの気持ちは分かるが、太閤殿下は、

  あの者を信頼されて、

  差配を任したのだからしかたないどろう。

  口が悪いわりには悪い男ではない」

  

と諭し、なだめたのに対し、家康は、 

「武辺の者としては、もっともなことよのう。

  三成はすぐに証拠を示せなどというが、戦場では、

  なぜどうしたなどといちいち記録などとるものではない」

 

不満武将の思いは、よく分かると理解を示した。

こうなれば、彼らの気持ちは、自ずと家康に向いていく。    

時には爆発をする言葉です 温い  神野節子

    

その頃、家康は公然と豊臣政権時の定めを破り、

伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則といった大名方との

姻戚関係を作っていた。

これを聞いた利家たちは激怒し、

大老、奉行を集めて、家康に対して激しく問責をした。

この詰問に家康は、  

「手続きをしていないとは、うっかりしておりました。

  取りやめるのでご容赦を」

  

と、はぐらかし、とりあえず謝ってこの場を取り繕った。  

言葉尻に扇風機をかけている  立蔵信子

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親鸞の旅路を支えた杖

たびたび、こういうことがあり利家は、

家康を討たねばならないと決意。

そして慶長4年(1599)2月29日、

利家は細川忠興らの仲立ちで、伏見に家康を訪ね、

家康の日ごろの無謀を叱咤した。

読みの深い家康は、利家のこの挑発には、

乗らずやり過した。

3月11日、今度は、家康が大坂の利家を訪ねた。

この日の利家は、

見た目にも、長くないといった容体であった。  

やって来るいちばんずるい角度から  八上桐子

  

寿命を悟る利家は、この会談の折、 

「肥前守(利長)のことをよろしく頼む」

 

と言ったという。

これをもって

「家康の天下を認められた」
ようにいう人もいるが、

利家は、このときも、場合によっては家康を、刺す覚悟だった。 

「自分の死後、3年間は大坂に留まるように」

 

と、家康に用心という意味で、利長に言っているのだから、 

「利長を自分の後継者として同じように尊重して欲しい」

 

という意味があった。

焦点のずれた話にけつまずく  皆本 雅

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若き日の修業を伝える装束

利家が亡くなったのは閏3月3日。

その翌日に、とんでもない事件が起こる。

三成に不満を持っていた福島正則ら武断派の七将が、

三成の屋敷を襲撃する事件が起きたのだ。

三成は、命からがら屋敷を抜け出すと、

なにを思ったか、敵対する家康の屋敷に逃げ込んだ。

家康は、居城の佐和山城へ閉居することを条件として、

仲裁をすることにした。 

≪通説ー三成が家康の屋敷に逃げ込み保護を求めたというのは事実に反する≫

 

モザイクをほぐすと見えた舌二枚  上嶋紅雀

このあとはもう、家康のやりたい放題である。

朝鮮の蔚山城攻防戦にて、

合戦をしなかったとされた蜂須賀と黒田

城の放棄を容認したとされた軍監の早川、竹中らなど、

処分した秀吉の裁定は取り消され、

三成と縁戚で、裁定の元となる報告を行った


軍監・福原長尭が処罰された。  

≪この後、名誉を回復された黒田などは、関が原で東軍につく≫

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仏具や生活品を収めて親鸞が背負っていた笈

また家康は伏見では、

自分の屋敷として、閏3月、伏見城本丸に引っ越し、

大坂城では、

北政所が京都へ引っ越したあとの、9月に西の丸に入った。

10月、大野治長、浅野長政が「家康暗殺計画」を理由に、

処罰される。

これで、世の中の人のかなりが、

家康が天下人になったと感じることになる。 

黒幕のひとりは菩薩かもしれぬ  清水すみれ

 

そして家康は再び、公然と大名姻戚関係を作っていった。

その1人が、生まれたばかりの江の次女・子々姫(珠姫)だ。

相手は前田家二代目当主・利長の弟で、

次の当主となる利常だった。

その婚約は事前に、江には知らされてなかった。

そんなことをすれば、

反対されることはわかっていたからだ。

そのことを後で聞いた江が、

激怒したことは言うまでもない。

枯葉一枚さて人間を欺そうか  森中惠美子

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 親鸞が書き綴った仏歌 

「親鸞」

保元・平治の乱などの戦乱や地震などの天変地異が続き、

政治・社会が混迷した平安末期。

来世の「往生」を願った富者は、財を尽くして功徳を積み、

僧侶は教義論争に明け暮れる中、法然が登場する。

民衆を含む万人の救済を考えた法然は、

「念仏をとなえれば誰もが救われる」

「阿弥陀如来の名号」を唱えることを説き、

浄土宗の宗祖となった。

我が庭に吾亦紅あり夜の秋  前中知栄

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阿弥陀如来立像

その教えを受けたのが、親鸞(1173~1262)である。

親鸞は、養和元年(1181)、9歳のとき出家し、

比叡山で20年の修行を積むが、

悟りを得ることができず、京都六角堂に参籠。

遠回りしたのに黒猫に遭った  森田律子

ある日、親鸞は夢のなかで聖徳太子の言葉を授かり、

法然を訪ねて、「専修念仏」に帰する。

40歳年下の親鸞は、法然と同じく、比叡山で修行を積んだ後、

29歳のとき法然に出会い、

たとえ地獄におちようとも、

その教えを信じて、念仏をすると決断した。 

ペダルこぐ沈むな沈むなよ夕日  山本早苗

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恵信尼公坐像(9歳年下の妻)

しかし、「専修念仏」の教えは、既成教団から弾圧を受け、

法然は四国へ、

親鸞は、承元元年(1207)越後へ流罪となり、

赦免後、関東の各地において20年にわたる布教活動を行った。  

≪その後、二人が再会することは叶わなかった≫

  

そのとき親鸞は、「在俗のままでの仏道修行」と、

「民衆に宣布する」という使命を実行するために、

法然を選んだと考えられている。 

≪この時、僧として初めての妻を娶った≫

 

弘長2年(1262)、親鸞は90歳で没する。

もぐら叩きまた増えている薬瓶   桜風子

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『豆辞典』―「悪人正機」

「悪人こそ救われるべきである」

と親鸞は説く。 

『善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや』  

とある。

善人は、自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,

煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は、

仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため,

「阿弥陀仏」に救われるとした思想。 

ふらふらと湯立て神楽の湯を浴びる  岩根彰子

 

「往生」

様々な浄土への往生があるが、

一般的には、阿弥陀仏の浄土とされている「極楽への往生」を言う。

往生とは、『往』は、極楽浄土にゆく事、

『生』は、そこに化生(けしょう)することを言う。

賽銭箱にねじ込んでおく祈り  井上一筒

「本願」

「他力というは如来の本願力なり」

と親鸞は述べている。

現実に生きていることが、

阿弥陀仏の「智慧と慈悲(本願)」のはたらきに、

目覚めさせられることにより、救済されるとする。

春野菜が首飾りになるきっと  蟹口和枝

拍手[4回]

殿中でござるカピバラの残像  井上一筒


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「徳川家累代御台所ノ図」(明治12年作)

 

お江は、左上に描かれている。

二代秀忠・御台所(於江)から時計回りに、

九代家重・御台所(比ノ宮)、十一代家斉・御台所(茂子)、

12代家慶・御台所(楽ノ宮)、

十三代家定・御台所(篤姫)、中央10代家治・御台所(五十宮  

お江与が、特に「大御台」と呼ばれたのは、

お江与の地位・経歴、そして歴史に残した影響力の大きさによる。

     

  

「嫁ぎ先・江戸城のお江」

     

家康の側近であり、江戸城を仕切っていた本多正信が、

丁重にお江を迎えた。

秀忠の大姥局(おおばのつぼね)も、

ひれ伏して、お江に忠節を誓った。    

「これからは、御台所に任せればよい」

    

大姥局は、肩の荷が軽くなった思いだった。

世の中には、育ての親が何かとでしゃばる気風もあったが、

大姥局は、そういう人ではなかった。

末端にちょこんと座るヘビイチゴ  酒井かがり

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お江には、威厳と気品があり、

皆がその気品に圧倒された。

正信は一目見て、

秀忠は完全に尻にしかれていると察知した。

正信は、役人たちに告げた。        

「御簾中(ごれんじゅう)は、さすがは、

  信長公の妹君・お市の方のお腹だけに、

  ご気性はなかなか強い方と拝する。

  あれでは若殿も、御簾中には弱かろうな」

        

すぐ妥協する位置にある桜餅  森中惠美子

家康の側室・阿茶局も、

お江の堂々たる身のこなしに圧倒された。 

「ご幼少から2度も落城の戦火をくぐりぬけられたお方、

 まことにはっきりとしたご性格。

 お仕えする老女・椿井殿も、これまたみごとなお人ですぞ」

 

お江の側に仕える老女・椿井も、

芯の強そうな女性と評価していた。 

物心ついたころから鯨です  谷口 義
 

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「それからのお江の評価」

お江は後世、随分誤解されている。

「ヒステリックな悪女」

という芳しくないレッテルが貼られ、 

「側室は絶対に認めない」

 

と大奥に指示を出したため

”嫉妬深い女”
にされてしまった。

"彼女のプライドが、側室は許さなかった"

のである。   

「中納言(秀忠)さまに、奥女中を近づけてはなりません。

  これは御簾中さまの命令です」 

   

ちらちらと見え隠れする唐辛子  山本早苗

 

お江の側に仕える老女・椿井が心配したのは、

もし奥女中から、お手付きでも出ようものなら、

御簾中さまの怒りが爆発、

いかなることになるか分からない。  

妻が持つ謎には触れぬことにする  江森のり子   

  

「振る舞いはくれぐれも気をつけるべし」

阿茶局すらも、奥女中たちに厳命した。

このような、お江の方の凛々しい様子は、

江戸城大奥を震撼させるものだった。 

揺すらないで楔形文字突き刺さる  山口ろっぱ   

 

史実というもの仮説の上にあり、真実は、どこにあるか分からないが、

上記、江戸入城のお江と、今回、ドラマ描かれているお江は、

 かなり視点の違いがある。

  
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第32回あらすじ「江戸の鬼」

 

秀吉(岸谷吾郎)の死は、その影響の大きさを考慮し、

一部の者以外には、伏せられていた。

だが、豊臣政権中枢には、早くも乱れが生じ、

家康(北大路欣也)を、

亡き者にしようという企ての噂が立つ。

そこで家康は、不測の事態に備え、

跡継ぎの秀忠(向井理)江(上野樹里)を、

江戸へ移すことに。

。。。  

一身上の都合で夜がやってくる  竹内ゆみこ

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江は、内密に進められる江戸への転居を前に、

顔だけでも見ておこうと、親しい人を訪ねてまわる。

初やガラシャ(ミムラ)らには、

突然の訪問の理由を、語らずにとおした江。

だが、淀(宮沢りえ)は、すべてをお見通しだった。

サイフォンの濾過へ頬づえしてひとり  山本昌乃

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  崇源院像(養源院蔵)

肖像画のことで、なんともいえないが、

晩年のお江を描いた「崇源院像」を見ると、

ふくよかで、目元の綺麗な女性である。

 

母の市は、絶世の美人といわれた人である。

お江は、その人の娘であるから、

かなりの、容貌であったものと思われる。

ともあれ、夫にかしずき、

ひたすら忍従に耐えてきた女性像を、

打ち破る、「革新的な女性」であったことは、

間違いないだろう。    

≪徳川将軍・御台所(正室)で、”将軍生母”となったのは、

   後にも先にも崇源院だけである≫

    

運命というタクシーに乗って来た  時実新子

拍手[5回]

化粧しても耳はけもののままである  新家完司

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能面を被った家康のからくり(岡崎城)

「徳川家康」

その腹黒さとしたたかさから

「狸親父」
との異名を持つ徳川家康

表面上では、化けて周囲の目を欺きつつ、

内心では、虎視眈々と逆転を狙っている。

そんな家康のイメージは、

老獪さが身についた、晩年からのものだと考えられているが、

決してそうではなく、若い頃から、

しっかりと将来を見据え、じっくり考え、

行動に移す人であった。

枯葉一枚さて人間を欺そうか  森中惠美子

「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し。

  いそぐべからず・・・」

    

は、徳川家康の遺訓とされている。

その言葉のとおり、

家康はまさに”回り道”の男といえるだろう。

三河の国の一土豪にすぎなかった徳川家(松平)に、

生まれた家康は、
6歳から19歳まで、

織田氏、今川氏のもとで、人質生活を余儀なくされた。   

なにはともあれ進むしかないカタツムリ  加納美津子

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家康が能を踊るカラクリ時計(岡崎城公園)

   

信長と組んで、東海一帯に勢力は伸ばしたが、

信長の死後、秀吉が台頭すると、その臣下となり、

小田原の北条氏滅亡後は、秀吉の命じるままに、

当時はまだ、草深い寒村の江戸に移った。

家康は機が熟すのを、ひたすら待った。

しかし、それは無為の日々ではなく、

来るべき時に備えて、

着々と実力をたくわえる、雌伏のときだった。

だんだんと削って凡人になった  たむらあきこ

秀吉が、伏見城で一生を終えたとき、

いよいよ家康は、天下取りに立ち上がった。

このとき家康は、すでに57歳であった。

跡取りの秀頼は、わずか6歳。

人の好い顔をそろそろ脱ぐとする  牧浦完次

秀吉は、      

「五大老の筆頭・家康が秀頼を補佐して豊臣政権が存続する」

      

ことを願っていた。

五奉行の石田三成らも、同じ考えであった。

つまり、   

「秀吉政権は秀吉によって樹立され、基礎固めも済んだので、

  幼い秀頼ではあるが、世襲してやっていける」

   

という判断である。

「心配」と表札あげて赤とんぼ  時実新子

しかし、家康の考え方は違っていた。  

「まだ、世襲制でやっていけるほど安定はしていない」

  

という考えである。

また、「天下は実力あるもののまわりもち」

という思いもあった。

迷いなく着こなすライバルの黒よ  山本昌乃

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      若き日の家康

家康の頭の中には、本能寺の変後、

秀吉に一歩先を越された苦い思い出があった。

しかし、家康が、秀吉に一歩譲ったのは、

秀吉の器量を家康が、認めたからである。

つまり、家康は、秀吉の器量を認めても、

その子・秀頼の器量を認めていたわけではない。

このあたり、三成の、

「秀頼は名目にしても、まわりが固めれば豊臣政権は存続する」

という考え方と決定的に違う。

四角三角をとどめて石心室  岩田多佳子

「秀吉の臨終の枕で、家康が秀頼の補佐をしたのは汚い。

  腹黒いやり方だ」

とよく言われることがある。

これが、「家康狸説」の発端になっているところだが、

三成以下、豊臣家の方から見れば、そうなるのである。

家康の方から見れば、 

「秀吉だから臣従したのであって、   

  ”実力ある者が天下を盗る”

   という戦国の習いに照らしてみれば、
秀頼より自分が上」

 

という意識があった。

手の内は綺麗な嘘で飾りつけ  谷垣郁郎

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最も男前に描かれている家康

「天下分け目の戦い」といわれた関が原の戦いを制し、

征夷大将軍として江戸に幕府を開いた家康は、

全国支配の手を、次々と打っていった。

わずか2年で、将軍職を子の秀忠に譲ったあとは、

徳川の世を、万全のものにするために、

駿府城で大御所として力をふるい、

家康最後の仕上げは、

依然、大坂城に君臨していた秀吉の遺児・秀頼を、

倒すことだった。

裏切りも絆 心に痛く深く置く  森 廣子

1615年、大坂夏の陣で淀殿、秀頼母子が自害することで、

それは果たされたが、 

「秀吉の死から15年かけた」
 
というその周到ぶりに、
家康の性格の一端がうかがえる。

まさに家康は、沈思黙考の人、

狸に化けていた人間というか・・・?(もしかしてその反対か?)

先の自分の像を見据え、緻密に練り、

それを、実行していく人であった。     

≪周知のとおり、 

 これによって、天下動乱の時代は終わりを告げ、

 

    以後、260年余りにわたって、天下太平の世がつづくことになる≫

    

矢印の通りに進むニシキヘビ  井上一筒

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  地獄門(ロダン)

『余談』―「考える人」

有名なロダンの作品・『考える人』は、

実際は、像の人物は、”考える人”などではなく、

地獄の入口で、地獄へ落ちていく罪人達を、

「上から見下ろしている人」なのだ。

いわゆる、考える人の職業は、地獄の門番だった。

「考える人」の本当の姿は、

現在の世から末の世を睨む「管理人」なのである。

その奥を覗いて帰れなくなった  居谷真理子

”近代彫刻家の父”と呼ばれる、

この”考える人”の作者・ロダンは、

姉の勧めで美術を学び始めたが、彫刻は独学だった。

初めて発表した彫刻・「鼻のつぶれた男」は、

美しいものが評価される時代だったこともあり、酷評を受けた。

そのショックは、しばらく、

創作活動を行うことが出来なくなるほどだった。

わたくしが試されている試練とは  赤松ますみ

しかしその後、ロダンは創作活動を再開し、

「青銅時代」という作品を発表。

これが高い評価を得て、

「国立美術館のモニュメントを作ってほしい」

というオファーが届いた。

そこでとりかかったのが、

”ダンテの神曲”に登場する『地獄の門』を題材としたものだった。

その中の一部が、「考える人」なのである。

真相が漏れるロッカールームから  合田瑠美子

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ところで、「考える人」という題名の由来は、

ロダンとは作品の鋳造を通じて、長い付き合いがある

鋳造家・リュディエという人にある。

この「考える人」も、このリュディエが鋳造した。

この像が生まれた経緯を知らないリュディエは、

「何かを考え込んでいる姿」

と、勘違いして、

『考える人』と、命名したというわけである。

ただ、その経緯を知るも知らぬも、

この像は、「考える人」に違いない。

前頭葉の痛み上書き虫刺され  蟹口和枝

拍手[7回]



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