お日さまに恋した月の物語 杉本克子
鶴松坐像
≪鶴松没後すぐに造像されたもの≫
「鶴松誕生」
秀吉は、「ここがお江の家じゃ」と言って、
大坂城に部屋を用意し、贅沢な暮らしもさせてくれたが、
お江の心は空しかった。
お江が大野城主・佐治一成との別れに、
やっと踏ん切りがついたのは、翌年の天正16年(1588)。
この年、秀吉は18歳になった次姉・初を、
寵愛する側室・松の丸殿の弟・京極高次に嫁がせる。
ほろ苦いほうを選んだ福の神 岡田陽一
お初がいなくなると、頼れるのは長姉・茶々だけになる。
茶々は本心では、夫と引き裂かれたお江を哀れんでいた。
なんと言っても、悲しみを共有してきた姉妹である。
自ずと打ち解け、溝は次第に埋まりつつあった。
その茶々が、ついに秀吉を受け入れ、
妊娠したのは、お江が一成と離婚させられた2年後である。
丹田をトロンボーンで突かれる 湊 圭史
鶴松が遊んだ玩具船
≪全長2mを超える金箔塗りの豪華な玩具。
可動式車輪がついており、実際に台座上に鶴松が乗り、
守り役に曳かせて遊んだという≫
天正17年(1589)5月
淀殿は、「淀城(伏見区)」で鶴松を産んだ。
53歳で跡継ぎを得た秀吉は、狂喜乱舞して、
公家や大名に金子4900枚、銀子3万1000枚をばらまいた。
また、我が子のそばに居たいため、
小田原氏討伐を延期した。
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鶴松の守刀
≪蒲生氏郷が鶴松誕生を祝って贈ったと伝わる≫
秀吉は、「淀殿には立派な後ろ盾が必要じゃ」
と言い、
「養子の小松秀勝とお江を結婚させたい」と語る。
淀殿もわが子を妹・お江が支えてくれることに、異存はなかった。
ここに天下人・秀吉と姉・淀殿の都合によって、
お江はその年の終わり頃、
18歳で再婚させられた。
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淀古城(C/G)
≪正面手前中央に「淀殿御座の間」・「淀殿の風呂」が再現されている≫
「淀古城」
茶々が秀吉の側室となり、
ほどなくして、「茶々懐妊」という知らせが、
秀吉の耳に届いた。
秀吉は正室・お祢のほかにも、数多くの側室をもっていたが、
天下人になってからは、
ただの一人も秀吉の実子を産んだ女はいなかった。
故に、茶々の懐妊を知った秀吉は大喜びで、
彼女の出産のため「淀に築城」を開始する。
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淀古城址
この淀は、京都と大坂の間に位置し、
宇治川、桂川、木津川が合流して、
淀川となる交通の要所であり、
舟運の陸揚げ地であった淀津は、京都の外港とされていた。
そのため、かねてより政治的にも重視され、
山崎の合戦の折には、
明智光秀が勝竜寺城とともに、両翼としたが、
光秀敗死ののち、秀吉が接収した地である。
カギの無い人2階の窓へ帰る 井上一筒
山州淀城府内の図
この淀城は「淀藤岡城」とも呼ばれ、
秀吉は、これを修築したものだが、工事は、
「このたび、都から三里あまり隔たり、
淀川の傍にある淀の城において、
同様な工事を命ぜられております。
そこでは5万人が集められ、工事に従事しているのです」
と、フロイスが記述しているように、本格的なものであった。
そして、天正17年(1589)3月、
奉行を秀吉の弟・秀長が務め、
本丸・二の丸、そして、天守をも備える立派な城が完成する。
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移築された伏見城の石垣
この淀城こそは、秀吉が茶々出産のために築城した城で、
「産所」として築かれたわが国史上唯一の城だったのである。
出産を控えて城に入った茶々は、以後、
「淀の上様」・「淀の御前様」・「淀の女房」・「淀殿」
などと呼ばれるようになる。
淀城は、この後いろいろな変遷があり、
「淀の古城」という呼称になる。
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伏見城から発掘された金箔瓦
「淀城の変遷」
この淀古城は、文禄3年(1594)に廃城とされ、
多くの建物が、秀吉の「伏見城(指月城)」に移された。
ところが、この指月城も2年後の、
文禄5年7月の伏見大地震で廃城となる。
秀吉は、この大地震の経験を踏まえ、
その翌日より、まず築城地に、
地盤の確かな「木幡山(桃山)」の地を選ぶとともに、
新たに耐震性のある構造の城を築城した。
伏見木幡山城である。
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本丸の西北に、”五重の天守”が建てられ、
そのほかに”二の丸・松の丸・名護屋丸”などを配置し、
出丸を加えると”十二の曲輪”があったといわれる。
(秀吉はこの伏見城中で没している)
すぐさま築かれた伏見木幡山城も、
関が原の前哨戦で落城する。
そしてまた、徳川家康が再建したものの、
元和9年(1623)に廃城となった。
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園城寺三重塔
≪秀吉築城の伏見城から園城寺(滋賀県)に移された三重塔。
家康によって園城寺に寄贈されるまで伏見城内にあった。
伏見城の建物は、これらさまざまな段階で、各地に移築され、
今も遺構とされる建築がいくつも残る≫
備後・福山城(重要文化財)の「伏見櫓」もそのひとつで、
解体修理の結果、
伏見城の「松の丸東櫓」を移したものであることが、
明らかになった。
福山城はこの他、第二次大戦の戦火で焼失したが、
伏見城から御殿も移築されていて、
そこには、
「淀殿御座の間」があり、「淀殿の浴室付き物見御殿」
も残されていた。
喝采の消えた持論を持ち歩く たむらあきこ
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