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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ごっこでした貴方のこどもでした  酒井かがり

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      淀川・淀

「淀殿の産んだ子の父親が本当に秀吉なのかどうか・・・?」

茶々悪女説のなかでも述べた通り、

当時も多くの人が疑問を抱いていた。

秀吉が亡くなった慶長4年(1599)10月朔日付の書状で、

毛利家家臣・内藤隆春は、

淀殿大野治長「密通」について触れ、

治長は殺されるべきところ、

高野山に逃げたらしいと報じている。

戒律は説いたりしない花の寺  美馬りゅうこ

この大野治長の、高野への逃亡に関しては、

奈良・興福寺の『多聞院日記』にも記述がある。

それによると、秀吉の遺言によって、

「慶長4年9月10日に、
大坂城で、

淀殿徳川家康の”祝言”が、行われる予定であったが、

治長が淀殿を連れ出し、高野山に向かったのだ」という。

弁解はラップに包み持ち帰る  泉水冴子

「淀殿と家康の結婚」については、

当時、伏見に抑留されていた朝鮮王朝の、

官人・姜沆(かんはん)も記しており、
秀吉は、

「家康には、秀頼の母(淀殿)を室として政事を後見し、

  秀頼の成人を待ってのち、政権を返すように」

遺言したと言い、

「家康はまた、この秀吉の遺命をたてに、

  秀頼の母(淀)を室にしようとした。

   秀頼の母は、すでに大野修理(治長)と通じて妊娠していたので、

 拒絶して従わなかった。

   家康はますます怒り、修理をとらえて関東に流した」

と述べる。 

≪秀吉没後のことではあるが、淀殿の恋のお相手として、

  大野治長の名を、具体的に示している≫ 『看羊録』

黒い血のどくどく残酷な穏やかさ  山口ろっぱ

江戸時代に入ると、

真田増誉(ぞうよ)『明良洪範(めいりょうこうはん)』
が、

「豊臣秀頼ハ秀吉公ノ実子二アラズ」

と断言して、

「淀殿、大野修理ト密通シ、捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト也」

と記し、これは占いに長じた法師が、

「いい出したことだ」と述べ、

淀殿は歌舞伎の創始者ともいわれる

「美男子・名古屋三郎とも、不義をはたらいた」

と記す。

どきどきと逢いほっこりとして帰る  片岡加代

そして、天野信景の『随筆・塩尻』には、

「大野治長の子ではないか」

と疑われているが、

実際には鶴松秀頼も、

淀殿と占いの上手な法師との、間に出来た子で、

名古屋三郎とも関係を持ったと記している。

口角をあげて含んだことを言う  別所花梨

さらに、『玉露證話(ぎょくろしょうわ)』になると、

一説として、大野治長・実父説をとりあげつつも、

実際は、名古屋三郎(役者)と不義をはたらいて生まれたのが、

秀頼であると記す。

どこまでも纏わりついてくる因果  桂 昌月

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このように、秀頼の父の名は、次々と変化するが、

同時代史料に名前が挙がるのは、

”大野治長ただひとりである。”

彼は淀殿とは乳兄弟で、

たしかに幼い頃から、実の兄弟のようにして育ち、

特別な関係にあったのは事実であるが、

だからといって、「不義をはたらいた」

ということにはならない。

自分史に向かえばペンが嘘をつく  ふじのひろし

「鶴松と秀頼の父親が、秀吉であるか否か」

は、永遠の謎としかいいようがない。

ただ、秀吉が鶴松や秀頼をわが子として、

溺愛したことは紛れもない事実であり、

淀殿を家康の正室にしてまで、秀頼を守ろうとし、

死に際して、五大老・五奉行に最後の最後まで、

繰り返し、繰り返し秀頼の将来を頼んだこともまた、

動かしようのない、事実なのである。

七曜の顔を持ってる私です  河村啓子

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與杼(よど)神社 ~伏見区・淀の産土神

「淀殿不倫疑惑説について、堂門冬二氏が解く」

大蔵卿局は、茶々の乳母であり、

小谷城落城のときも、お市・三姉妹とともに脱出し、

その後の伊勢での生活、柴田勝家へのお市の再婚、

勝家の滅亡、三姉妹の脱出、そして、大坂城入りなど、

ずっと茶々に従ってきた。

茶々にとって、誰よりも信頼できる存在である。

二幕目はちょっとニヒルなスマイルで  荻野浩子

大蔵卿局は、おのずと大坂城に仕える女性たちの総取締役を任され、

茶々を囲む側近のなかでは、もっとも力を持った。

そしてその息子・大野治長も成長し、

秀吉の寵臣(ちょうしん)に育っていき、

秀吉子飼いの側近にとって、脅威となっていった。

≪治長の弟・治房、治胤(はるたね)のいずれも、

   やがて秀頼の忠実な家来になる≫

太陽を貫く剣を手に入れる  油谷克己

長兄の治長は、秀吉時代からの家臣であり、

ことに、家康を敵視していたことなどにより

ここに、茶々派と家康派という権力闘争が起こる。

角度を変えてみてみると、

石田三成が淀殿相手の対象の一人にされたのも、

  三成は、意識して茶々に奉仕していたことなどから、

  当時の三成が、茶々派とみられていたことの証し。

 三成も徹底した反家康派で、治長ともよく気が合っていた』

と、三成も噂の的にされる。

≪三成はこの時期、戦地におり、淀殿と不倫に及んでいる暇はない≫

大さじ一杯の水っぽい殺意  井上一筒

役者の名古屋三郎も茶々相手の槍玉にあがる。

これら中傷のすべては、

茶々の勢力を揺さぶるためのもので、

家康派か茶々派か、大阪城内の侍女群も両派に別れ、

『噂の発生源は、反茶々派の侍女たちではないかと考えられる』

と言い、

「大阪城内の権力関係に変化があり、茶々の周りに、

  新しい側近が発生したことに、理由があるのではないか」

と堂門氏は分析するのである。

気に入らぬ奴はブスッと串刺しに  嶋澤喜八郎

この説を、深読みすれば、

家康に近かった淀殿のライバル・北政所(おね)が、

反茶々派の頭領だったかも知れませんね。

「秀頼は、ほんとうに秀吉の子なのか・・・?」

はたして、どうなんでしょう。

気にするなそう言っている昼の月  森 廣子

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【余談】ですが・・・。

さて、宝塚歌劇では、

石田三成が茶々の恋人になり、話題を呼んでいる

豊臣家への忠義にその生涯を捧げた三成の、武将としての生き様と、

『茶々を愛した故に、「戦に負けたのではないか」と悔やみながらも、

  愛さずにはおれなかった』

三成の苦悩を描いている歴史ロマン。

宝塚宙組公演ー『石田三成 美しき生涯』

茶々に、野々すみ花   三成に、大空祐飛  

天気図を見ながら漕いでゆくボート  赤松ますみ

拍手[7回]

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あと戻りできないことを知っている  たむらあきこ

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淀古城の石碑がある妙教寺

天正17年(1589)5月27日、淀は淀城で男児を出産した。

53歳にして、初めて我が子を得た秀吉は大喜びで、

捨て子は、よく育つとの俗信から「棄(捨)」と名付け、

まもなく「鶴松」と呼ぶようになった。

その年8月23日、母子は大坂城へ移った。

出来たての名前をもらう新生児  中野六助

多くの側室を差し置いて、

淀殿だけが男児を授かったことに,、疑問を持つ人は少なくなかった。

「彼には、唯一人の息子(鶴松)がいるだけであったが、

  多くの者は、もとより彼には子種がなく、

  子供をつくる体質を欠いているから、

  その息子は、彼の子供ではないと密かに信じていた」 

、『フロイス日本史』にも、書かれている。

臍の緒を切ったナイフは他人です  岩根彰子

出産の3ヶ月前の2月25日の夜には、

聚楽第の表門に、淀殿の懐妊を揶揄する内容の落首が、

貼り出される事件が起った。

これを知った秀吉は激怒して、

門番の者たちを、残虐きわまる方法で処刑し、

多くの人々が死刑となった。

どくだみの花来し方は生乾き  嶋澤喜八郎

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 秀吉が配った天正大判

秀吉は、同年5月20日に、

聚楽第で淀殿の懐妊を正式に披露し、

多くの金銀を諸大名、寺社に分配した。

史上有名な「金賦り(きんくばり)」で、

秀吉は、自らの実子誕生の前祝いを、盛大に演出した。

魂をあげるラッピングは不要  須田さゆり

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豊臣家において揺るぎない地位を確立した淀殿は、

この年の12月、

高野山小坂坊(持明院)において父・長政の17回忌、

母・お市の方の7回忌の法要を営み、

2人の肖像画を奉納している。

やっと交わる私の中の平行線  合田瑠美子

大河ドラマ・「お江」-第22回・「父母の肖像」 あらすじ

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々(宮沢りえ)が懐妊し、

上機嫌で天正17(1589)年を迎えた秀吉(岸谷五朗)は、

秀長(袴田吉彦)に、京と大坂を結ぶ要所にある,

淀城の改築を命じる。

なんとその城を、茶々の「産所」にしようというのだ。

しばらくして、大坂城の茶々を訪ねた秀吉は、

城を用意することを彼女に伝え、

「そなたとややのためならなんでもする」

と約束。

二の腕に今日はお陽さま乗せてゆく  前中知栄

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また、生まれてくるのは男子だと決めつけ、

早くも男の子が使う玩具などを、大量に持ち込む。

その様子を見ていた江(上野樹里)は、

「子を授かっただけでもありがたく思うべき」

とあきれ顔。

時々は横に流れることにする  山本早苗

しかし、茶々は気にすることもなく、逆に真剣な表情で宣言する。

「私は男の子を産む」

さらに秀吉に、

「もし男子を産んだら聞き届けてほしい願いがある」

と訴える。

秀吉は、「なんでも聞いてやろう」 とえびす顔。

同席していた三成(萩原聖人)が願いの内容を尋ねるが、

その問いに、彼女は答えなかった。

スポットライトでさらす神経線維  岩田多佳子

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やがて茶々は、出産に備え、立派になった淀城へ。

そして5月の末、

城の名にちなみ”淀殿”と呼ばれるようになっていた彼女は、

いよいよ産気づく。

秀吉と江は、心配でしかたがないが何もできず、

ただ淀の産室の前をうろうろするばかり。

たまらず江が産室に入ろうとすると、

秀吉は彼女の着物の裾をつかみ、

「わしを1人にしないでくれ」

と懇願する。

腹括る紐が見当たらないのです  高橋謡子

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彼はもう、関白でも天下人でもなく、

不安の中で我が子の誕生を待つ、1人の男にすぎなかった。  

と、そのとき、元気な産声が聞えてくる。

淀が無事に子を産んだのだ。

しかもそれは、秀吉待望の跡継ぎ。

そう、彼女自身も強く望んだ男子だった。

少年のまんまで物を言っている  籠島恵子

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淀が産んだ子を”鶴松”と名付け、

新たな活力源とした秀吉は、

ついに最後の強敵、小田原の「北条攻め」に乗り出す。

だが、一応戦の大義名分は立てたものの、

秀吉はこの戦いを「鶴松のため」と言ってはばからない。

その態度は、大胆な行動力の裏に、

いつも万全の心配りがあった彼らしくない、

露骨なものだった。

赤児を洗う 月の盥で  こはらとしこ

実は、かつて秀吉は、まだ淀のお腹の中にいた鶴松を、

揶揄する落首に激高し、

落首を許した門番など、

数十人を死罪にするという苛烈な処分も下していた。

鶴松誕生は、豊臣家にとって、これ以上ない慶事だが、

子を思うあまり、秀吉の心には、不穏な偏りが生じていたのだ・・・。

蒼天の中でまさかを渡される  斉藤和子

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「お江ーこれからの見どころ」

いよいよお待ち兼ね、現在、№1人気の向井理くんが登場する。

役柄は、家康(北大路欣也)の三男・竹千代、そして、

お江の最後の夫となる、2代目将軍・秀忠である。

りりしい向井秀忠は、明晰な頭脳を持ちながら、

心に屈折を抱える若者として登場し、

まっすぐな性格で、気が強いお江と、衝突を繰り返す。

ここのところ、低迷気味の「NHK/お江」の視聴率に、

向井理(むかいおさむ)くんが、救世主となりえるか?


罪ほろぼしへ時々つかみ洗いする  山本昌乃

拍手[7回]

お日さまに恋した月の物語  杉本克子

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   鶴松坐像

≪鶴松没後すぐに造像されたもの≫

「鶴松誕生」

秀吉、「ここがお江の家じゃ」と言って、

大坂城に部屋を用意し、贅沢な暮らしもさせてくれたが、

お江の心は空しかった。

お江が大野城主・佐治一成との別れに、

やっと踏ん切りがついたのは、翌年の天正16年(1588)。

この年、秀吉は18歳になった次姉・を、

寵愛する側室・松の丸殿の弟・京極高次に嫁がせる。

ほろ苦いほうを選んだ福の神  岡田陽一

お初がいなくなると、頼れるのは長姉・茶々だけになる。

茶々は本心では、夫と引き裂かれたお江を哀れんでいた。

なんと言っても、悲しみを共有してきた姉妹である。

自ずと打ち解け、溝は次第に埋まりつつあった。

その茶々が、ついに秀吉を受け入れ、

妊娠したのは、お江が一成と離婚させられた2年後である。

丹田をトロンボーンで突かれる  湊 圭史

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  鶴松が遊んだ玩具船 

≪全長2mを超える金箔塗りの豪華な玩具。

可動式車輪がついており、実際に台座上に鶴松が乗り、

守り役に曳かせて遊んだという≫

天正17年(1589)5月

淀殿は、「淀城(伏見区)」鶴松を産んだ。

53歳で跡継ぎを得た秀吉は、狂喜乱舞して、

公家や大名に金子4900枚、銀子3万1000枚をばらまいた。

また、我が子のそばに居たいため、

小田原氏討伐を延期した。

初恋でした苺大福でした  前中知栄

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     鶴松の守刀

蒲生氏郷が鶴松誕生を祝って贈ったと伝わる≫

秀吉は、「淀殿には立派な後ろ盾が必要じゃ」

と言い、

「養子の小松秀勝とお江を結婚させたい」と語る。

淀殿もわが子を妹・お江が支えてくれることに、異存はなかった。

ここに天下人・秀吉と姉・淀殿の都合によって、

お江はその年の終わり頃、

18歳で再婚させられた。

守り神みたいに落陽も月も  赤松ますみ

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      淀古城(C/G)

≪正面手前中央に「淀殿御座の間」・「淀殿の風呂」が再現されている≫

「淀古城」

茶々が秀吉の側室となり、

ほどなくして、「茶々懐妊」という知らせが、

秀吉の耳に届いた。

秀吉は正室・お祢のほかにも、数多くの側室をもっていたが、

天下人になってからは、

ただの一人も秀吉の実子を産んだ女はいなかった。

故に、茶々の懐妊を知った秀吉は大喜びで、

彼女の出産のため「淀に築城」を開始する。

あなたへの愛はいつでもピークです  山本明美

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    淀古城址

この淀は、京都と大坂の間に位置し、

宇治川、桂川、木津川が合流して、

淀川となる交通の要所であり、

舟運の陸揚げ地であった淀津は、京都の外港とされていた。

そのため、かねてより政治的にも重視され、

山崎の合戦の折には、

明智光秀が勝竜寺城とともに、両翼としたが、

光秀敗死ののち、秀吉が接収した地である。

カギの無い人2階の窓へ帰る  井上一筒

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  山州淀城府内の図

この淀城は「淀藤岡城」とも呼ばれ、

秀吉は、これを修築したものだが、
工事は、

「このたび、都から三里あまり隔たり、

 淀川の傍にある淀の城において、

   同様な工事を命ぜられております。

  そこでは5万人が集められ、工事に従事しているのです」

と、フロイスが記述しているように、本格的なものであった。

そして、天正17年(1589)3月、

奉行を秀吉の弟・秀長が務め、

本丸・二の丸、そして、天守をも備える立派な城が完成する。

とんでもないことが当たり前のように  平尾正人

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  移築された伏見城の石垣

この淀城こそは、秀吉が茶々出産のために築城した城で、

「産所」として築かれたわが国史上唯一の城だったのである。

出産を控えて城に入った茶々は、以後、

「淀の上様」・「淀の御前様」・「淀の女房」・「淀殿」

などと呼ばれるようになる。

淀城は、この後いろいろな変遷があり、

「淀の古城」という呼称になる。

お届けものですわたくしの心です  八田灯子

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伏見城から発掘された金箔瓦

「淀城の変遷」

この淀古城は、文禄3年(1594)に廃城とされ、

多くの建物が、秀吉の「伏見城(指月城)」に移された。

ところが、この指月城も2年後の、

文禄5年7月の伏見大地震で廃城となる。

秀吉は、この大地震の経験を踏まえ、

その翌日より、
まず築城地に、

地盤の確かな「木幡山(桃山)」の地を選ぶとともに、

新たに耐震性のある構造の城を築城した。

伏見木幡山城である。

ただいまとあとどれぐらい言えるだろう  河村啓子

本丸の西北に、”五重の天守”が建てられ、

そのほかに”二の丸・松の丸・名護屋丸”などを配置し、

出丸を加えると”十二の曲輪”があったといわれる。

(秀吉はこの伏見城中で没している)

すぐさま築かれた伏見木幡山城も、

関が原の前哨戦で落城する。

そしてまた、徳川家康が再建したものの、

元和9年(1623)に廃城となった。

世の掟につまづいて逢う炎天か  森中惠美子

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  園城寺三重塔

≪秀吉築城の伏見城から園城寺(滋賀県)に移された三重塔。

 家康によって園城寺に寄贈されるまで伏見城内にあった。

 伏見城の建物は、これらさまざまな段階で、各地に移築され、

 今も遺構とされる建築がいくつも残る≫

備後・福山城(重要文化財)の「伏見櫓」もそのひとつで、

解体修理の結果、

伏見城の「松の丸東櫓」を移したものであることが、

明らかになった。

福山城はこの他、第二次大戦の戦火で焼失したが、

伏見城から御殿も移築されていて、

そこには、

「淀殿御座の間」
があり、「淀殿の浴室付き物見御殿」 


も残されていた。

喝采の消えた持論を持ち歩く  たむらあきこ

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渦ふたつ擦れ合いながら生きている  たむらあきこ

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御陽成天皇・聚楽第行幸の屏風絵

天正16年4月(1688)、

2年の月日をかけて建てられた「聚楽第」に、

秀吉は、自らの力を誇示するかのように御陽成天皇を迎えた。

実に、このとき警備の者だけで、6千人余りが動員されたという。

しかし秀吉が一世一代をかけて建てた絢爛豪華なこの聚楽第も、

完成から10年も経ずに、秀吉自らが解体してしまう。

そこに何があったのか、興味のある謎がある。

(この謎はドラマの中で、おいおい解決されていくらしい)

順風満帆夢を見ているのだろうか  柏原夕胡

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      聚楽第跡

≪聚楽第の大きさは、東西600メートル、南北700メートルあった。

  だが、今は寂しく石碑が一本があるのみ≫

秀吉は、小谷攻めのおいて、

織田軍で中心的は役割を果たし、

父・長政の命を奪い、

腹違いの兄・万福丸を串刺しの刑に処した張本人。

北の庄攻めでは、

さらに母・お市と義父・柴田勝家の命をも奪った。

盃の数といのちの数が合う  森中惠美子

いくら憎んでも憎みきれない仇敵・秀吉に、

身を任せることになった茶々の心情は、

いかばかりであったろうか。

でも、その後の茶々の行動からすると、

彼女を単純に、

「秀吉の生け贄になった犠牲者・被害者」

ととらえるのは、

決して正しい見方とはいいきれない気がする。

のたうち回ってる確かめあってる  前中知栄

弱者であるがゆえの悲哀を、嫌というほど味わった茶々は、

「力こそが全てであり、どんな正義にも勝る」

ということを身に沁みて、
実感していたに違いない。

だとすれば、秀吉の求めを、

「茶々自身も積極的」に受け入れた可能性がある。

秀吉の側室になることは、

秀吉の持つ圧倒的な「力」を自らに手繰り寄せ、

我がものとする絶好の機会なのだ。

御手付き中臈ジオラマを掠める  井上一筒

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   北野大茶湯図

≪秀吉が天正15年(1587)10月1日、

   北野天満宮境内で、九州平定と聚楽第の竣工を祝って催した茶会≫

2度の落城という、悲惨きわまりない体験を通じて、

茶々はそれくらいの、逞しさと強かさを、

身に付けた強い女性に、成長を遂げていたように思われる。

ラップ剥がして正しい呼吸  富山やよい

天正13年(1585)7月11日に関白に就任し、

9月9日には、新たに「豊臣朝臣」という氏姓を賜った秀吉には、

糟糠の妻である、お祢がいた。

関白正室として、「北政所」と呼ばれるようになった彼女は、

天正16年4月19日には、

「豊臣吉子」の名で、従一位に叙せられ、

位の上では、夫・秀吉に並ぶ存在になっていた。

ちょうちょうはひらがなでとぶ黄でとぶ  河村啓子

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北野茶会に掘られた「太閤の井戸」

他にも、茶々にとっては、従姉にあたる京極竜子(松の丸)や、

前田利家の娘・摩阿(まあ-加賀殿)をはじめ、

秀吉には、たくさんの側室がいた。

けれど彼女たちの内で、子宝に恵まれたものは、

ひとりもなかった。

そうした中、茶々がはじめて懐妊する。

この懐妊により、茶々は、他の多くの側室から抜きん出て、

お祢に次ぐ立場となる。

絶妙の間合いを泳ぐ接続詞  中井アキ

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「大河ドラマーお江・第21回ー『豊臣の妻』 あらすじ

茶々(宮沢りえ)と結ばれたことで、

たちまち元気を取り戻した秀吉(岸谷五朗)は、

京・聚楽第に帝を迎える計画を立て、準備にまい進する。

そして、秀吉は聚楽第に迎えた帝の前で、

諸大名に
「朝廷と関白である自分への忠誠」

を誓わせ、巧妙に支配体制を強化した。

白い器に僕の野心を盛りつける  和気慶一

茶々と秀吉の間で、何があったのかを知らない江(上野樹里)は、

帝の行幸の話を聞き、

「まず先に茶々の縁談を進めるべきだ」

と不満顔。

秀吉をせっついてほしいと頼んで、

事情を知っていたサキ(伊佐山ひろ子)を困らせる。

妹の左手どこかへ行ったまま  桑原鈴代

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やり取りを見ていた茶々は、供の者たちを下がらせて、

江に言う。   

「そなたに話がある」

意を決し、すべてを打ち明けた茶々。

姉の告白に衝撃を受けた江の胸は、

怒りと悲しみでいっぱいになり、

秀吉に対する憎しみを、さらに強くするのだった。

吐き出してごらん心が晴れるから  菱木 誠

そんな折、秀吉が大坂城にやってくる。

すぐさま彼の居場所を突き止め、激しく食ってかかる江。

だが、怒る彼女を止めに入ったのは、ほかならぬ茶々だった。

見れば、茶々と秀吉は、心通じ合っている様子。

江は深く傷つき、以降、茶々と口もきかなくなってしまう。

しあわせが製造ラインからポトリ  清水すみれ

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しばらくしたある日、初(水川あさみ)が大坂城にやってきた。

茶々からの文で、事態を知った彼女は、

2人を仲直りさせるのは、

「自分しかいない」と、使命感に燃えていて、

再会するやいなや江の説得にかかる。

そして最後には、半ば強引に江を連れ出し、

茶々の前へと座らせた。

いもうとの影に咲いてる吾亦紅  八上桐子

実はこのとき、江はもう、茶々を許していい気持ちになっていた。

不条理に思える彼女の心変わりも、

竜子(鈴木砂羽)や初といった年上の女性たちは、

穏やかに受け止めている。

本当は姉を慕っている自分が、いつまでもこだわるのはよくない。

そう思い始めてていた。

俯瞰してみれば些細なことばかり  早泉早人

行幸のあと、秀吉は、家康(北大路欣也)を茶室に招く。

そこで秀吉は、茶々のことを嬉々として語り、

一転して、天下人とは思えないほどの無邪気さを見せる。

家康の際どい嫌みも、気にせずにのろける、

浮かれぶりであった。

いけない人ねいつも尻尾を振っている  酒井かがり

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そんな調子の秀吉から最初に、茶々とのいきさつを聞いたのは、

正妻である北政所(大竹しのぶ)だ。

夫の茶々に対する気持ちを知っていた彼女は、

苦々しく思いながらも、2人の関係を受け入れる。

だがやがて、心の広い北政所ですら、心乱されるときが訪れ・・・。

そして、久しぶりに対面した茶々とお江が、

ようやく和解に至るかと思われたそのとき、

茶々の口から、衝撃的な事実が明かされる・・・。

アレンジが乱れたままの春の音符  北原照子

「茶々の本心」

京極高次に嫁いでまもなく、茶々秀吉の側室になった。

拍手[4回]

三歩ほど後れる美しい誤解  山本早苗

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  淀君錦絵

≪明治時代、坪内逍遥の戯曲・「桐一葉」が、今日一般に思われている、

淀君の、強く雄雄しいイメージおを作り上げている≫

「淀殿悪女説」

淀は、天下人を産んだ女性として、

人々の注目を一身に浴びたが、

その一方でさまざまな噂が囁かれた。

その多くは、

豊臣家を滅亡に至らしめた「悪女」としてのイメージが強い。

その最たるものは、『淀殿淫乱説』である。

針金をぐいと曲げてる嫉妬心  山本昌乃

どれも、江戸時代の書物に記されたもので、

「大阪夏の陣」で、自らの切腹と引き換えに、

淀・秀頼の助命を懇願した大野治長や、

歌舞伎役者・名古屋山三郎との密通が、

まるで現代の週刊誌を見るかのように、

面白おかしく伝えられている。

凶暴な言葉ひしめく裏サイト  浜田さつき

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 上田秋成

『雨月物語』の著者・上田秋成は、

文化6年(1809)随筆・「胆大小心録(たんだいしょうしんろく)」で、

”よどの君もかほよきのみならず 色好むさがありて” 

と記し、

色に乱れて、国を滅ぼした典型という、

とりわけ、女性にとっては屈辱的な姿を伝えている。

スキマの風はおおよそをなぞる  山口ろっぱ

だが、「大坂の夏の陣」では、自ら甲冑をつけて、

「男勝りの活躍をしていた」

と記録する書物もあり、

淀という人物は、

虚実とりまぜて、実にさまざまに語られてきた。

美しい絵と被害者にすぐなれる  森中惠美子

こうした俗説の数々は、

秀吉の寵愛を一身に集めていた嫉妬や、

憎悪から生まれたのか。

多くの側室を抑え、正室・お祢に次ぐ地位を、

確固たるものにした淀は、

幾多の嫉妬や憎悪を生み、

「悪女説」を増幅させていったのだろう。

悪いのは私美しすぎるから  武内美佐子

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「淀殿」「淀君」と呼ぶのも、

路傍にたつ娼婦を指す、「辻君」になぞらえてのことだ。

しかし、「悪女」にしろ、

豊臣の存続を一身に願った、「聖母」にしろ、

その実像は、いまや推測するしかないが、

織田・豊臣という、天下人の系譜に君臨する淀は、

”戦国時代のスーパーヒロインであることは間違いない。”

疑問符が前頭葉に姦しい  喜多川やとみ

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