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川柳的逍遥 人の世の一家言
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どの紐を引いたら鐘がなるのだろう  中野六助

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    本能寺焼討ちの図

右端に槍に貫かれた信長、左端に森蘭丸、槍を突くのは安田作兵衛

天正10年(1582)6月2日未明、

わずかな手勢のみで、洛中に滞在していた織田信長とその長男・信忠は、

家臣・明智光秀の軍勢に包囲されて自害した。

この「本能寺の変」、たまたま、

信じられないような、絶好のチャンスが到来したのに気づいた光秀が、

”出来心で実行した”ともいう説があるが、

”光秀が信長・信忠親子を襲った理由”は、今もなお、大きな謎である。

『逆順無二の門 大道は心源に徹す 五十五年の夢 覚来(さ)めて一元に帰す』

                                          〈光秀辞世〉

おとぎ噺の切手が貼ってある別れ  森中惠美子

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 織田信忠

信忠は、優秀な息子であり、信長も家臣からも、将来を嘱望されていた。

天正10年3月には、独力で甲斐・信濃の武田勝頼を制圧し、

信長の正式な後継者と目されていた。

この本能寺の変によって、

二本の柱を失った織田家は、大混乱となった。

封印を剥がすと波が荒れてくる  早泉早人

滝川一益森長可(ながよし)らの重臣は、逃げかえるので手一杯。

柴田勝家は、北陸攻め、羽柴秀吉は、中国攻めで身動きがとれず、

残された息子・信雄(のぶかつ)と信孝は、いずれも凡庸であった。

お江たち三姉妹とは、本能寺の変を安濃津で知るのだが、

身動きはとれなかった。

織田信包が、津城から動かなかったためだ。

光秀討伐を目的として、次男・信雄が出陣したため、

織田の留守居として、残ったためである。

クッキーの袋上手に切れなくて  泉水冴子

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     清洲会議の図

和歌山県すさみ町の王子神社に奉納されている清洲会議の絵馬。

山崎の戦で、光秀が敗北した後の6月27日、

織田の後継者を決める会議が、清洲城で行われる。

「清洲会議」である。

この清洲会議で、信長の跡目について話し合われた。

・・・というのは間違いで・・・。

織田家の家督は、信長が安土に引っ越したときに、

すでに信忠が継いでいたから、

これは、”信忠の後継者を決める会議”というのが正解である。

 出世組消えて2次会盛り上がり  八木 勲       

ただ信忠には、正式な嫡子はいなかった。

永禄10年(1567)信忠11歳の時に、

7歳だった武田信玄の五女・松姫との、婚約がととのっていた。

ところが、元亀3年(1572)に織田と武田が手切れになったことから、

この婚約は、棚上げになってしまう。

しかし、完全に破談になったかどうかは不明である。

というのは信忠が、その後、正室を迎えなかったからである。

亡くなったとき、信忠には三法師丸、吉丸という二人の庶出の男子がいたが、

いずれも幼年で、後継者選びは、すんなりとは運ばなかった。

枝ぶりもながめて紐は思案する  笠嶋恵美子

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織田信雄

そうなると、織田家内の序列では、信長、信忠に次ぐ、

信忠とは同母弟の、信雄という考え方になる。

ところが、この信雄は早くに母の吉乃を失い、お伝役がよくなかったのか、

軽薄で、疑い深く残忍で、勝れているのは、歌舞音曲だけという人物。

父の了解もないまま、伊賀を攻めて大失敗をし、

織田家中でも、「三介殿のされることよ」 とあきれられていた。

本能寺の変のときにも、伊勢のあたりをうろうろしたあげく、

明智軍が撤退したあとになって、

安土城にはいり火を放っただけに終わったという。

うっかりで済まぬ豆腐の角である  山本早苗

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      織田信孝

また、柴田勝家が推していた三男・信孝は、信雄と同年であるが、

正室に準じるような存在だった、吉乃の子と同じ扱いをされず、

叔父の信包よりも、下の扱いだった。

織田家代々の家臣である勝家にすれば、

織田家の家臣という意識はあっても、信長個人の家来とは思っていない。

まして信長が、どの女性を愛していたか、など考えにもいれず、

いちばん出来がよい息子を、跡継ぎにすればよいと考えていた。

≪信孝の母は、斉藤道三の三女・濃姫

 ちなみに信孝から4番目下の、信高という弟が、スケートの織田信成くんの血筋である≫

節穴のまなこのほうを開けている  清水すみれ

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  三法師丸(秀信)

それに勝家にしてみれば、

明智討伐を、秀吉だけの功績にしたくなかった。

信孝こそ総大将であるという理屈で、

秀吉の手柄を矮小化しようとしたのである。

しかし、この勝家の主張には無理があった。

結局、秀吉が推す三法師に、信忠の跡を継がせ安土城に移ることとなる。

信孝は岐阜城へ、信雄は清洲城を継ぐこととなった。

難題次々もぐら叩きの其の侭に  木村良三

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   清洲会議2幕目

清洲会議にこのとき、出席した重臣は、

羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興(つねおき)の4人。

池田恒興は、実績よりも、「信長の乳兄弟」という地位で選らばれたに過ぎない。

丹羽長秀は、山崎の戦で信孝とともに、光秀を討ち果たしていたが、

それも、秀吉の中国大返しがあってのことであり、秀吉派といってよかった。

一方の重臣・滝川一益は上野国で地侍の一揆に大敗したばかりで、

出席の資格がなかった。

暗示から動けぬ腰になっている  たむらあきこ

信包は、会議には同席しなかったが、清洲城の別室で待機しており、

すでに、秀吉派につくことを表明していた。

そして、秀吉が強く推すこととなる信忠の嫡男・三法師もまた、

岐阜城から呼び寄せられ、

三姉妹とお市もまた、清洲城に呼びつけられて待機していた。

つまり

「誰が同席させるか」という準備の段階で、

すでに会議の場は、秀吉派で固められていたのである。

けっして妥協しない男にある狙い  柴本ばっは

拍手[7回]

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一つ目の信号が青だったので   森田律子

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    信長・信忠の碑

「信長死す」の報せは、備中・高松にいる羽柴秀吉の元にも届いていた。

秀吉は、しばらくは子供のように、泣きじゃくっていたが、

突然、泣き止むと、何やら考え込む。

やがて、顔を上げると、軍師の田官兵衛に言う。

秀吉  「官兵衛。お屋形様の首は、まだ見つかっておらんと言うたな。

官兵衛  「は、ははっ。 本能寺は一棟も残さず燃え尽きたと・・・」

秀吉  「帰るぞ」

官兵衛  「帰る?」

秀吉  「近江じゃ。引き返す!

     お屋形様のお命を奪った逆賊、明智光秀めを、この手で討ち果たしてくれる!」

息止めてスポットライトの下に立つ  笠原道子

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   天王山の戦いへ

それからの秀吉の行動は速かった。

織田方の諸将に、『信長無事』との偽の書状を出し、

誰も、明智側につかないようにしながら、

戦闘中の毛利には、和睦を申し出て、後方の憂いをなくしたのだ。

あとは光秀のいる近江まで、駆け抜けるのみであった。 

憤怒いま抑えきれない日の阿修羅  竹森雀舎

秀吉  「行けーっ! 進め進め進めーっ! 馬を乗りつぶすのは今ぞ!

     足軽どもは死ぬ気で走れええーっ!

     ついて来た者には、金銀をくれてやる!

     お屋形様はご無事じゃ。生きておいでじゃ!

     されど、にっくきは、お屋形様に刃を向けた大逆賊・明智光秀!

     あのものを断固討ち果たすのじゃ!

     親方様ああーッ! おのれ― 光秀ええーッ!」

秀吉軍は、猛烈な速さで、中国から畿内に向けて走り抜けていた。

「その速さがどれほどかといえば」

備中・高松からわずか一日半の間に、姫路に到着するほどだった。

いわゆる、『中国大返り』である。

二等辺三角形の波だから  井上一筒

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           山 崎 の 光 秀 軍 陣 地

その報せを聞いた明智勢は驚いた。

まさか、そんなに早く攻め込んで来るとは、思ってもみなかったからだ。

悪い知らせは続くもので、

頼りにしていた摂津の諸大名が、ことごとく明智勢から離反して、

羽柴軍と合流しているという。

だが、光秀は慌てていなかった。

光秀  「慌てることはない。・・・・まずは京に入り、帝にお味方いただく」

白檀の香り漂う敵か味方か  竹内ゆみこ

「光秀の謀叛の行動は、結果から見るほど無謀だったのではない」

浅井重臣・阿閉貞征、京極高次、武田元明など呼応した武将、

また足利義昭、細川藤孝、、毛利輝元などなど、

本願寺・武田、上杉の残党など含め、味方はいくらでもいたが、

あまりにも、羽柴軍の中国からの上洛が早かったことと、

家康が、無事に逃げ帰ったことが

「洞ヶ峠」
を決め込んだ筒井順慶のように、ほとんどの支援が、

形にならなかったのである。

もう誰も冬の桜に目もくれぬ  片岡加代

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         山 崎 の 秀 吉 軍 の 陣 地

天正10(1581)年6月13日。

「山城国・山崎に陣」
を構えた明智軍は、

羽柴軍の京への進軍を阻止すべく対峙した。

片や羽柴軍は、数では明智軍を圧倒していた。

秀吉  「・・・戦は数じゃ!兵の多い方が勝つ」

官兵衛  「しかも陣形は、われらが優位にござりまする」

秀吉  「それよ。勝つなといわれても無理じゃわ」

官兵衛  「どう攻めますかな?」

秀吉  「まずひたすら押しまくるのみ! 

     見ておれ光秀。日暮れまでには片を付けてやるわ」

睨み合いの後、ついに戦端は開かれ、両軍入り乱れて戦った。

どちらが勝ちだろうと素うどんはつづく  壷内半酔

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その頃、清洲城に着いたは、や姉たちと涙の対面を果たした。

江は、母に堺でのことから、命懸けの伊賀越え、

そして、光秀に会ったことまで、すべてを話してきかせた。

市  「まさか明智殿と会うとはな。そちの母でおると、命がいくつあっても足りはせぬな」

  「伯父上を討った相手なのに・・・憎い敵であるはずなのに・・・、

    どうしても、明智様を憎む事ができないのです・・・・」

市  「・・・憎むべきは人ではない。戦であり、戦をもたらす世の中のありようなのじゃ」

江  「私には難しいことはわかりません。

    でも、もう私は・・・・どなたにも死んでほしくはありませんて」

喉元を只今ウツが通過中  谷垣郁郎

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光秀VS秀吉が対峙する山崎の戦い

一方、「山崎の戦さ」は、明智勢の一方的な敗戦で、幕が引かれようとしていた。

敗走する明智勢たち。

その中に、光秀や利三たちもいる。

一旦、坂本城まで戻って態勢を建て直して、

捲土重来を期そうとする利三に対し、光秀は言う。

光秀  「・・・わしは勝ちたいとは願うてはおらぬ。

     ただ、天下が泰平となればよいと思うておった。

     お屋形様が、そうお考えであったようにな・・・・・」

ヨーイドンばかりで終るしゃぼん玉  山本早苗

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光秀の最後(土民に取り囲まれる光秀)

そこに、落武者狩りの土民が現れて、竹槍で光秀の横腹を突く。

光秀は、もはやこれまでと、覚悟を決め、切腹の準備をする。

光秀  「姫様・・・・約束を・・・・果たせませなんだ・・・」

そう言うと、光秀は脇差しを自分の腹に突き立てる。

光秀が自刃したことが、

尾張の江たちのもとに、もたらされたのは、翌日のことだった。

ほな行くわほなさいならと逝けたなら  内藤光枝

信包  「戦場から敗走し、近江へ逃れようとしていたところを落武者狩りに襲われたという」

市  「なんと・・・・」

信包  「束の間の、まさに吹けば飛んでしまう夢であったな。

     皆が、明智の三日天下と笑うておるわ」

江  「おやめください!」

  「江・・・」

江は、持って行き場のない悲しみ、虚しさに、泣いて飛び出すと、

わけもわからず、馬を飛ばす。

そして朝昨日に穴のあいたまま  八田灯子

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 中国大返しの陶板図

【豆辞典ー①】-中国大返し

織田信長の死を知った豊臣秀吉が、3万もの兵を引き連れながら、

一日50キロという驚異的なスピードで、行軍したとされる”中国大返し”。

この早すぎるスピードには、

「信長の死を前もって知っていた」

「秀吉本隊だけ先に行軍していた」

などの理由が考えられているが、

実は秀吉には、これよりさらに速いスピードで、行軍した記録がある。

つむじ風だったと思うキミのこと  加納美津子

それは、柴田勝家と天下を争った”賤ヶ岳の戦い”でのできごと。

このとき、秀吉は、1万5千の兵を引き連れながら、

52キロを、わずか5時間で駆け抜けたのだ。

時速にすると、約10キロである。

一度走ってみれば分かるが、時速10キロはかなりきつい。

そのスピードの甲斐もあり、

秀吉の登場を予想していなかった柴田軍は、

混乱状態に陥り、敗走することになった。

鬼のいぬ時間が少なすぎないか  片岡湖風

「なぜ秀吉は、これほどまでのスピードを実現できたのだろうか?」

それは、行軍に必要不可欠な兵糧・武器を道中で、

調達できるようにしたからだった。

秀吉はまず、先発隊を賤ヶ岳に向けて出発させ、

その道中の村に、協力を要請した。

恩賞と引き換えに、兵糧・武器を準備するように命じたのだ。

我慢力勝機の風が吹いてくる  丹後屋肇

そして、本隊はろくに荷物も持たずに出発。

道中で村人たちから、握り飯や松明をもらい、

休まず行軍した結果、

恐るべきスピードで、戦場まで到達したのだった。

敵は織田家家臣時代にも、鬼柴田と恐れられた勝家の軍勢である。

このスピードがなければ、

山崎の合戦も、勝敗はわからなかっただろう。

革命の彩が沈んでいる歩道  森中惠美子

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  山崎の戦いの石碑

【豆辞典ー②】-洞ヶ峠(ほらがとうげ)

有利な方につこうと形勢を見ること。

「洞ヶ峠をきめる」、「洞ヶ峠を決めこむ」という。

≪京都府八幡町と大阪府枚方市の境にある峠≫

天正10年(1582)の”山崎の合戦”のとき、筒井順慶がここで戦況を眺め、

「秀吉につくか」「光秀につくか」、態度を保留にした故事による。

「日和見の順慶」と呼ばれた。

喝采の消えた持論をもち歩く  たむらあきこ

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1ページだけの絵本に月が出る  井上一筒

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   木造織田信長坐像

「信長の遺産を手にしていた朝廷」

”本能寺の変”から4日後の6月6日、

信長の居城だった安土城に入っていた明智光秀のもとに、

誠仁親王の勅使として、吉田兼見が訪れ、

京都の治安維持を光秀に命じた。

これに対して光秀は、9日に上洛して兼見邸に立ち寄り、

朝廷の勅使派遣に感謝の意を表し、天皇と親王に、それぞれ”銀500枚を献上”。

朝廷は返礼として、兼見を通じて、”女房奉書”を、光秀に手渡したという記録が

残されている。

二番手の野心鋭く爪を研ぐ  碓氷祥昭

献上された銀子は、すべて、光秀が安土城から持ち出した「信長の遺産」である。

それを受け取り、御礼までした朝廷は、

光秀の行動を正当と認めたといえるだろう。

一説によると、誠仁親王は、

9日に兼見を通じて、光秀を”征夷大将軍”に任命していた、

とも考えられているのだ。

 女房奉書=(天皇の命令などを伝えるために、女官が発行した文書)

即効性のある札束という薬  中野六助

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     誠仁親王

「祝杯をあげていた上流公家たち」

6月7日、死を遂げたばかりの信長と、

親交が深かった上流公家の近衛前久は、

誠仁親王の居所で、前久の嫡子・観修寺晴豊らとともに酒宴を催した、

という記録が残されている。

鷹狩りという共通の趣味を持ち、

信長のさまざまな要求を、朝廷に伝える役を担っていた前久でさえ、

信長の死を、歓迎していたのだ。

味方だと思った人が敵だった  西野栄子

”本能寺の変”が光秀の単独犯行であったなら、

光秀は主君殺しの逆賊である。

しかし、こうした変後の公家衆の対応は、

「逆賊に対するものとは思えない」

との指摘がなされている。

さらに『信長公記』には、

光秀軍が信長の嫡子・信忠を襲った際、

二条御所の前にあった”前久の屋敷”から、

「弓と鉄砲で攻め立てた」

という記述もなされている。

前久は、それを黙認したのだ。

にんげんの匂いが鼻についてくる  古久保和子

また前久は、”山崎の戦”で、光秀が討たれたことを知ると、

慌てて嵯峨に逃げ出し、出家している。

この行動は、前久が隠していた「何か」に対する、

「追及を免れるため」

だったと考えられている。

卵かけ御飯にもある勘どころ  緒方美津子

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      豊臣秀吉

「秘密を握った秀吉への厚遇」

山崎の戦で、光秀を討った秀吉と信長の三男・信孝は、

「本能寺の変はなぜ起きたのか?」

「誰が関与していたのか?」 

という捜査を開始。

変後に光秀を歓待し、銀子を受け取っていた兼見を捕らえ、

厳しい取調べを行った。

このとき窮地に陥った兼見は、誠仁親王に懇願し、

朝廷の仲介によって、ようやく疑いを解かれている。

処世術まずは尻尾を切ってみる  佐藤美はる

この後、秀吉が行ったのは、

御伽衆の大村由己『惟任退治記』を書かせることだった。

同書は、「本能寺の変」は、信長への私怨を動機に、

惟任(これとう)こと光秀が、単独で行った謀叛であり、

それを退治した自らをヒーローとする”合戦物語”である。

秀吉は、『惟任退治記』の内容を既成事実として、公家衆に喧伝し、

親王と兼見には、立会いのうえで朗読を読み聞かせた。

もう土俵割っているのに突き飛ばし  元永雅子

ここに、「本能寺の変」は、

現在まで通説とされている、『逆賊光秀の主謀で、引き起こされた謀反』 と、

認定されたのだ。

これ以降、朝廷は秀吉を、”信長の後継者”として認め、

上流公家でなければ就けなかった「関白」の地位を与えるなど、

秀吉からの、度重なる無理を聞き入れている。

いわば、変後の朝廷は、

秀吉の意のままに、動かされるようになったのだ。

玉ねぎを剥きますゆっくりのドラマ  谷垣郁郎

その背景には、取調べによって得た「朝廷関与」という真実を、

秀吉が創作した『惟任退治記』によって、

「隠蔽したという”功績”があったのではないか」

と考える研究家は少なくない。

そう考える事で、なぜ、変後の朝廷が、

「秀吉を前例のないほど厚遇したのか」

という謎が、説明できるからである。

ショートショート的コント的ユートピア  山口ろっぱ

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           慈照寺東求堂

銀閣と共に東山殿の遺構として現存する建物

前久は、信長の死後出家、豊臣秀吉には疎まれ徳川家康を頼り、

晩年は慈照寺東求堂に隠棲した。


我が首とゆかりの寺の花の首  森中惠美子

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ブルータスの役が五人もいる悲劇  中野六助

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「本能寺の変」

5月20日、近江・安土城。

信長は、光秀と作戦会議をしていた。

光秀が、秀吉が陣を張る備中へ出立するのが6月1日。

信長は、

「京を経て、秀吉の元に行くので、到着は5日か6日になるだろう」

という。 すると、光秀が、

「主だった家臣はすべて戦に出ており、京の信長の守りが手薄になるのではないか」

という。 だが、信長に抜かりはなかった。

嫡男の信忠の軍勢を、堺においておくというのだ。

もし、京が攻められたら、即座に、堺から援軍が来るという仕組みだった。

京を攻めるとしたら、同時に、堺をも攻めなければならない。

それだけの戦力を有する大名は、畿内にはいなかった。

それを聞いて光秀は、安堵する。

だんだんと顔が近づく話し合い  和田直美

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すると、信長は光秀に言う。

信長 「こたびの中国攻めを機に、おぬしの領地は召し上げる」

光秀 「今、何と・・・・?」

信長 「丹波一国と近江の領地じゃ。

    代わりに、中国の石見と出雲は好きなだけ取るがよい」

石見、出雲はまだ毛利の領地だった。

つまり、いまだ自分のものでない領地を、

「自分の手で奪い取れ」
ということだった。

それを聞いた光秀は驚き、絶望する。

領地を召し上げられたら、家臣は路頭に迷うことになってしまうからだ。

それを考えると、光秀の手は無意識のうちに震えていた。

昨日まで確かに背中だったのに  谷垣郁郎

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信長 「・・・そうじゃ」

光秀 「は?」

信長 「考えれば、わしを襲うことの出来る者が、一人だけおったわ」

光秀 「そ、それは・・・?」

信長 「誰よりも都の近くにおる者・・・・光秀おぬしじゃ」

光秀 「(絶句し)・・・・・」

信長 「どうじゃ?謀叛でも起こしてみるか?」

光秀 「め、滅相もないことにございます・・・・・」

笑えない錯覚王様の裸    荻野浩子

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小姓の森蘭丸は、信長の側に控えていて、

いつも信長が光秀に対して、辛くあたることが気になっていた。

そして、光秀が帰ったあとで聞いてみた。   

すると、信長は言う。

信長 「光秀は長い放浪の末、足利義昭に、次いでわしに仕えてきた。

    そのためか、安易に人に打ち解けず、目には見えぬ殻をまとうておる。

    それが人物を小そう、窮屈にさせておるのじゃ」

蘭丸 「見えない、殻・・・」

信長 「それに気づき、自らも脱ぎ捨てねばならぬ。

    わしに万一のことあらば、あとを託せるのは、明智光秀ただ一人なのだからな」

生きざまのひとつひとつに灯がともる  森中惠美子

蘭丸 「お心の内、やっとわかりましてございます。

    ・・・ただ・・・、そのお気持ち、明智様に届くものかと」

信長 「(笑い)それは、あの者の器量次第よ」

信長は、光秀の力量を人一倍買っていて、”自分の後継に決めていた”のだった。

蘭丸は、そんな信長の気持ちが、

果たして、”光秀にわかっているかどうか”心配だった。

その問いには答えない予定です   山口ろっぱ

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5月28日、丹波の亀山城では、光秀が悩んでいた。

信長の自分への冷たい仕打ちに、堪えきれなくなっていたのだった。

手の震えも一段と激しくなっていた。

そんなとき、家老の斉藤利三から、

堺に行くはずの信忠が、信長の警護の為に、京に留まるという話を聞く。

信長の手勢はせいぜ100人前後、

信忠の手勢も1千人に満たない人数だった。

それが一ヶ所に集まっている。

それに対して、自分の手勢は1万を越える。

本の背に心を掴む文字がある  泉水冴子

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光秀の様子がおかしいと思った利三は、心配そうに見つめる。

すると、光秀が言う。

光秀 「利三」

利三 「はっ」

光秀 「わしは、途方もないことを考えておる」

利三 「途方もないこと?」

利三は、それまで震えていた光秀の手が、ピタッと止まっていることに気付く。

立聞きをする時息を止めなさい  井上一筒

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6月1日の夜、光秀の軍勢は、中国目指して出立した。

そして、丹波・老ノ坂の別れ道に差しかかった時、

光秀は行軍を止める。

光秀 「皆の者・・・・、これより東へ向かい、桂川を渡る。

     目指すは本能寺なり。

     明智日向守光秀、天に代わりて織田信長を成敗いたす・・・・!

     天下布武の美名のもと、罪もなき民草を殺戮し、神仏を虐げしのみならず、

     不埒にも自らを神に祭り上げ、あまつさえ、帝をもおのれの下に置かんとする、

     所業の数々、許し難し!

     よって、これを誅罰するこそ、天の道にかなうものなり!」

しんと静まり返る一同。

唾を飲む者もいる。

光秀は見回すと声を張って言った。

光秀 「敵は・・・・本能寺にあり!」

光秀の軍勢は、進み始める。

取り立てに行きます夢の中だって  くんじろう

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6月2日、寅の刻。

信長が本能寺の自室で寝ていると、表から激しい物音が聞えてきた。

さっそく、蘭丸に様子を探らせると、

何者かが攻め込んできたことがわかった。

既に寺の周辺は、大軍勢に囲まれているという。

信長 「いかなる者の企てか?」

蘭丸 「明智勢と見受けられます」

信長 「明智・・・・・そうか・・・・ 光秀、お前も天下が欲しかったか・・・」

信長は、決して逃げることなく、家来共々奮戦する。

だが、多勢に無勢。

敵の手に落ちるのは時間の問題だった。

真実を辿れば見えて来た火種    楠原富子

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信長は、坊丸に、

「寺の境内のことごとくに、残らず火を放て」

と厳命すると、一室に蘭丸を連れていく。

信長 「よいか!わしの首、骨、髪の一本もこの世に残すな!」

蘭丸 「承りましてございます」

紅蓮の炎が信長を包む。

炎の海に崩れ落ちる本能寺。

刀を抜いたまま叫び、歩き回る光秀。

謀叛の成功に酔いしれる顔が、炎に照らし出される。

光秀 「首じゃ、首を探せ!信長の首をさらせば天下は変わる。

    この光秀のものとなるのじゃ!」

火と煙と騒音の中、狂ったように笑う光秀・・・。

消し忘れたト書きが笑い始める  森田律子 

【豆辞典】

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    森 蘭丸

織田信長の小姓、近習として知られる蘭丸・坊丸・力丸の森三兄弟といえば、

ドラマや映画では、必ずといっていいほど、

美丈夫の男子として描かれる。

もちろん、彼らが本当に美男子だったということを、

示す信頼できる資料はない。

しかし、「本能寺の変」で、燃え盛る炎の中、

信長に従って討ち死にしたのが、

それぞれ18歳、17歳、16歳という若さの盛りであったという事実が、

彼らを永遠の美男子とみなす伝説に、

寄与しているのかも知れない。

プチトマトむかし私もこうだった  西恵美子

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   森 力丸

彼らが信長の近習になったのは、

父である森可成が信長の家臣だったためで、

三兄弟のさらに、兄である可隆長可も信長に仕えている。

父や兄は、桶狭間の戦いや、姉川の戦いに参戦し、

信長の躍進に大きく貢献したが、

三姉妹の父である浅井長政との戦いの最中に、戦死している。

つまり三兄弟にとって、

浅井三姉妹は、親の仇ともいえるのである。

忘れるというマジックを手に入れる  小山紀乃

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   森 坊丸

信長に対する兄弟の忠誠心はゆるぎなく、

取次や奏者としての仕事にも、有能だったといわれている。

なかでも蘭丸は、

奥州から贈られた白斑(しらふ)の鷹、疲れを知らない青馬とならぶ、

信長の三大自慢のタネであったらしい。

”ぬばたまの 甲斐の黒駒 鞍着せば 命死なまし 甲斐の黒駒”

人づてに聞くと嬉しい褒め言葉  高島啓子

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蘭丸の具足(兼山歴史民族資料館)

蘭丸には、その奉公ぶりを示すエピソードがいくつもある。

たとえば、信長が切った爪を捨てる際、

ひと指分足りないということで探しまわったという話や、

蔵の戸が閉まっていることを承知しながら、

閉め忘れたと思っている信長の機嫌を損わないよう、

そっと開けて、再び閉めたという話などが残されている。

もも苺一粒わたくしの時給  杉本克子           

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むかしむかしの狼藉者を忘れかね  森中惠美子 

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光秀が戦勝祈願をした愛宕神社

逆臣、謀反人の汚名を着せられる光秀だが、果してそう言い切れるのか。

怨恨、野望、恐怖、さらには足利義昭や朝廷の黒幕説など、

明智光秀が、主君の織田信長を本能寺に急襲した理由については、

さまざまな憶測があるが、どれも定かではない。

もしかしたら、本人さえ明確な理由が分からなかったということも、

あり得るのではのではないだろうか。

半分の月へゆりかもめは飛んだ  壷内半酔

細川ガラシャの父で、愛妻家としても知られていた光秀は、

諸学に通じ、和歌や茶の湯にも、秀でた文化人でもあった。

行政手腕にすぐれ、領民からも愛されたと伝えられている。

比叡山焼討ちで武功をあげ、丹波国を平定するなど、

知将として信長の信頼も厚かった。

偉大なる凡人などとほめられて  小寺万世

その光秀がなぜ、と、やはり勘繰りたくなる。

毛利元就が光秀に会ったとき、

「彼の中に狼のような一面が残っている」

と、看破したと伝えられているが、

その狼が牙をむいたのが、「本能寺の変」だったのかも知れない。

彼の心理の一面を光秀研究家が、次のように解析している。

諸説あるがスーダラ節で読め遺言  山口ろっぱ

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建勲神社に伝わる「信長公記」

天承10(1582)年5月27日、

中国出陣を命じられた光秀は、京都の愛宕神社へ参詣し、

なにか思うことがあってか、

「おみくじを、二度も三度も引き直した」という記述が、『信長公記』にある。

この翌日に光秀は、

愛宕山西坊で『愛宕百韻』と呼ばれる連歌会を催した。

「本能寺の変」を目前としたこの日、光秀によって発句されたのが、

「ときは今 あめが下知る 五月かな」

という有名な句であった。

この句は、謀反を決意した光秀が、

連歌会の出席者に向けて行った、意志表明だったと認識されている。

凶が出るまで安心して眠れない  島田握夢

「とき」とは、光秀の出自とされる「土岐氏のとき」であり、

「あめ」を天として、下と合わせて、「天下」

つまり、「土岐氏(私)が、ついに天下を取る」

という解釈である。

吹っ切れたようだな語尾がしゃんとする  鈴木栄子

しかし光秀の発句を、決意表明とする見方には、

かねてから多くの疑問が指摘されてきた。

ひとつは―、

「いくら光秀が動揺していたとしても、

 連歌師や社僧に、”本能寺夜襲”といった大事の計画を見破られるような、

 ヘマなことはしなかったであろう」

と光秀研究の第一人者である桑田忠親さんが解析する。 

嘘つけぬ夫がちょっともどかしい  ふじのひろし

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”国史画帖大和桜」に描かれた”本能寺の変”

もうひとつは―、歴史研究家の津田勇さんによる、

「”ときは今”は、諸葛孔明の『出師表(すいしのひょう)』

からの引用であるとし、光秀の発句を、

”並々ならぬ決意を表明したものだ”とした上で、

「知る」という言葉は、

古代では、「神の力によって土地を知る」という意味であることから、

教養のある光秀が、自分のこととして、

「このような重い言葉を使うとは考えられない」と主張。

そして、「知る」という言葉にあてる主語は

「『天皇』としか考えられない」と結論づけた。

津田さんの解釈による愛宕百韻は、

「朝廷の意向を受けた自分が、信長を討つことの正当性の表明」

だったとする説である。

シロナガスクジラになったしゃぼん玉  井上一筒

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このような解釈は、信長が朝廷との密接な関係を築くために、

「もっとも重用した家臣が光秀だった」という事実と深く関連している。

無骨もの揃いの織田軍団にあって、

和歌を詠み、茶の湯に通じるという粋人で、

教養も高かった光秀は、織田家の代表として、

公家衆との折衝にあたらせるには、打ってつけの人材だったのだ。

結果論針の筵が羽根布団  上嶋紅雀

又かって、光秀とともに、義昭に仕えていた細川藤孝も、

誠仁親王の勅使・吉田兼見の子に、娘を娶らせるほど、

公家衆との交際が広かった。

信長は、朝廷とのコネクションを磐石にするために、

自ら媒酌人となって、

藤孝の嫡子・忠興に光秀の三女・珠(ガラシャ)を嫁がせている。

前ボタンちょっと外して風を入れ  神野節子

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ところが、天下統一を目前とするにつれ、

朝廷を尊重していた信長に、

その権威を否定するような、言動・行動が目立つようになる。

もはや、信長は、朝廷を必要としなくなったのだ。

この政策転換は、この時点で、

完全に信長に依存していた朝廷・折衝役・吉田兼見、近江前久、勧修寺晴豊などの

上流公家、さらには明智光秀、細川藤孝をも、

窮地に追い込んだと考えられる。

シナリオの通りに人間を降りる  和田洋子

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