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川柳的逍遥 人の世の一家言
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慎ましいエビ天は着痩せする  山口ろっぱ

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[龍馬が、寺田屋で捕り方に襲撃される寸前、

おりょうが、龍馬の部屋に駆け込んで、急を知らせたエピソード]

おりょうはその日、寺田屋に3回も伏見奉行所の与力、見廻組の隊士が、

宿改めに来ていること心配していた。

龍馬の人相書きが、市中に出回っていることも知っている。

しかし、龍馬は変装もせず、

相変わらずその日も、京に出かけていたので、

真夜中に無事に帰ってきた時は、ほっとした。

女将の登勢とお膳と酒を2階に運ぶと、おりょうは風呂に入った。

枕の中のネズミ花火がとまらない  岩田多佳子

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おりょうが入ったとされる風呂(寺田屋) 

風呂は表通りに面しており、窓を開ければ外が見えるようになっている。

窓が開いているのに気が付き、表を見たおりょうは、息を飲んだ。

表通りに槍を構えた捕吏が数十人、息を殺して立っている。

「一刻も早くあの人に知らせなくては」

おりょうは、”全裸のまま”、2階に駆け上がると、

捕吏に囲まれていることを知らせた。

龍馬は、おりょうに逃げるよう伝えると、

おりょうは着物を着ると、裏階段から外に逃げた。

うす衣まるい乳房がはねている  桜 風子

そのとき、入浴中だったおりょうは、

全裸で2階の部屋へ駆け上がった、と伝えられる。

当時、おりょうは25歳。

本当に、

全裸で梯子を駆け上がり、龍馬に危険を知らせたのだろうか?

夜逃げするときのポーズを考える  福力明良

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寺 田 屋

明治時代になってから、おりょうは、龍馬と過ごした日々について、

何件かの取材を受けている。

「寺田屋遭難事件」についても、

書籍や新聞、雑誌の記事としてまとめられているが、

それらを見ると、『千里駒後日譚』では

「わざと平気で、あなたこそ静かになさいよ、・・・中略・・・

 と悠々と衣服をつけて」

と言うように、衣服を着ていた、ことになっているものもあれば。

おつき合いで笑うソプラノで笑う  山本希久子

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龍馬・慎蔵が襲撃を受けた部屋(寺田屋)

『阪本龍馬未亡人』では、

「急いで風呂を飛び出したが、

 まったく着物を引っ掛けておる間もなかったのです。

 じっさい、全裸で、恥じも外聞も考えておられない」

とみずから、全裸だったと証言している、ものもある。

≪一方、おりょうの姿を見たはずの龍馬や慎蔵は、

 その後の手紙や日記のなかで、

 おりょうが全裸であったかどうかについては、まったく触れていない≫

ばあちゃんの裸は許される残暑  井上一筒     

だがひとつ、貴重な証言がある。

その夜、おりょうと一緒に入浴していた寺田屋の娘・力(りき)が、

龍馬が寺田屋から逃げ出すとき、

「お春(おりょうの変名)もつづいて、男の浴衣に男の帯をしめて」

逃げたと話している。

常識的に考えて、

おりょうと力が風呂場へ持っていく着替えは、女物だろう。

恥ずかしいところに貼ってある木の葉  木本朱夏

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 寺田屋秘密の階段

とすれば、風呂場で身につけたなら、

おりょうは女物の浴衣や帯で、逃げているはずである。

ところが、力は、おりょうが男の浴衣を着ていたという。

それならば、その浴衣と帯は、

龍馬たちの部屋にあったと、考えることができる。

つまり、部屋に駆け込んだおりょうが、とっさに羽織ったというわけである。

そう考えれば、宿の裏にあった秘密の梯子を駆け上り、

龍馬の部屋へ駆け込んだとき、

おりょうは全裸だったことになる・・・のだが・・・。

あなたより先には逃げぬ非常口  森中惠美子

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出入口は味方ばかりのものでない 森中惠美子

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汗血千里の駒」・寺田屋遭難の図

慶応2年(1866)1月24日未明、

京都・伏見の「寺田屋」で、龍馬は捕り方に襲撃され、

負傷するという事件が起きた。

世にいう、「坂本龍馬・寺田屋遭難事件」である。

当時、政局は、第二次長州征伐へと向かっていた。

次期将軍と目されていた徳川慶喜が、

みずから京都より出陣するという話も流れ、

京都では、幕府側の警察行動が厳しくなっていた。

京都から底冷えのするラブレター  浜田さつき

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龍馬は、遭難2日前の1月22日、相国寺の薩摩屋敷で、

「薩長同盟」を締結させるという”大事業”を成功させ、

23日の夜、定宿としていた寺田屋に戻ったばかりだった。

警戒中の伏見奉行・林肥守配下の捕り方約20人に、襲われたのは、

ひと風呂浴びて、

寝ようとしていた午前3時ごろのことである。

階下で忍び足の音がし、さらに物音が聞えたが、

龍馬は、薩長同盟の成り行きなどを、三慎蔵吉に話している最中で、

物音に気をとめなかった。

難破船セピア色した雨にあう  稲村遊子

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その二人の部屋へおりょう

宿の裏にあった”秘密の梯子”を上がってきて

「敵が襲ってきました! 槍を持った捕手が、梯子段をのぼってきます」

と告げた。

龍馬は、とっさに袴をつけようとしたが、

隣の間に置いていることを思い出す。

そこで、袴を着けず、浴衣の上に綿入れを羽織った

だけで大小を差し、ピストルを構えて腰掛けに座った。

慎蔵は袴をつけ、大小を差し、槍を構えて、

龍馬と同じように腰掛けた。

言い足りぬ形のままで二歩三歩  山口ろっぱ

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すると、大小を差した男が廊下から障子を開けて、中をうかがった。

龍馬が、

「何者だ!」

と怒鳴ると、男は出ていったが、次の間で、ミシミシと音がする。

龍馬が、おりょうに命じて、襖をはずさせたところ

槍を手にした10人ほどの、男たちが構えていた。

龍馬は、

「薩摩の藩士にたいして、無礼ではないか」

と叫んだ。

≪寺田屋に泊まるときの龍馬は、「西郷伊三郎」という名で、薩摩藩士を偽装していた≫

呼ばれたら返事くらいはしなさいよ  岡田陽一

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捕り方は、

「上意である。座れ!」

という怒声を放ち、じわじわと間を詰めてくる。

慎蔵が槍を中段に構える。

龍馬は、右端の捕り方めがけて、ピストルの引き金を引いた。

相手が逃げたので、

隣の捕り方に向けてピストルを発射すると、その男も逃げた。

捕り方は槍を投げて攻撃し、龍馬と慎蔵は火鉢と槍で応戦する。

そのあいだに、龍馬は三発目を発射した。

力づくでくるなら受けて立ちましょう  中村酔虎

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次の瞬間、障子の陰から躍り出た捕り方が、脇差で斬りかかってきた。

龍馬はピストルで、脇差を受けたが、

右手の親指を削がれ、左手の親指と人差し指も、切り裂かれた。

だが浅手だと思ったのでひるまず、

その男にピストルを向けると、相手は障子の裏へ隠れた。

そこで龍馬は、今度は壁を背に槍を構える男に、狙いを定めた。

慎蔵の肩を台にピストルを構え、ゆっくりと引き金を引くと、

男はまるで眠ったまま倒れるように、ひっくり返った。

このピストルの威力に、捕り方たちは、

怖気づいてるように見えた。

逆境に立つほど燃えている拳  あいざわひろみ

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ドンドンと障子や襖を叩いて、大騒ぎするが、攻撃はしてこない。

そのあいだに龍馬は、弾を込めようと回転式弾倉をはずした。

六連発のピストルに、五発の弾が込めてあったが、

すでに、五発とも発射していたからである。

ところが一発込めたあと、龍馬は弾倉を取り落とす。

両手の指を負傷していたため、思うようにあつかえなかったのだ。

しかも、火鉢を投げ捨てて戦っていたため、床は灰だらけで、

弾倉のありかがわからなくなってしまった。

救急車口笛吹いて乗ってくる  井上一筒      

龍馬が、

「ピストルを捨てた」

と告げると、慎蔵は、

「ならば、敵陣に突撃するのみですな」

と応じた。

しかし、龍馬は、

「いや、違う。いまのうちに逃げる」

といって、ふたりは、宿の外の梯子を使って逃げ出した。

おりょうが、危急を報せに上がってきた秘密の梯子である。

つま先と踵夜っぴて揉めている  河津寅次郎

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    おりょうが走る

捕り方は、宿の外に梯子があるとは気づかず、

宿の中を懸命に探している。

そのあいだに、龍馬らは、隣の家の雨戸を破ってなかへ入り、

家の裏へ抜けた。

その家の者たちは、すでに逃げたあとだった。

ふたりは闇夜を駆けたが、龍馬は指からの出血がひどいことと、

浴衣の裾が脚にからまって、思うように走れなかった。

しかたなく、川端の材木小屋に身を隠し、慎蔵が薩摩藩邸に走った。

薩摩藩邸には、すでにおりょうが事件を報せに来ており、

急を聞いた薩摩藩士が、材木小屋に駆けつけ、

龍馬を藩邸まで連れ帰った。

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   龍馬の脱出ルート

左上太線の囲み「薩摩藩邸」

そのまま下へ右へ曲がった所が、龍馬が避難した「材木小屋」(囲みの斜線部分)

その右下が、「寺田屋」

右下の囲み斜線は、「伏見奉行所」

天と地のはざま儚い戯画を舞う  岡部幹和

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『龍馬伝』・第36回ー「寺田屋騒動」 あらすじ

薩長同盟を成し遂げた龍馬(福山雅治)は、

新撰組に捕らえられていた弥太郎(香川照之)を連れて、

寺田屋へ戻る。

龍馬は弥太郎に、薩長が手を結んだこと、

そして日本の仕組みが大きく変わり、幕府の時代が終わりを告げるであろうこと、

その中で弥太郎が、「何をすべきかを考えてはどうか」と勧める。

弥太郎は、驚きをもって土佐へ帰っていく。

町並みが変わり迷うた久し振り  宮前秀子

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西郷(高橋克実)が、密約を文書にしなかったことを危ぶむ木戸(谷原章介)が、

それを文書化を主張。

龍馬は、証明の裏書きを書くまで、寺田屋に残ることになる。
 
それを終えたら龍馬は、

「もう京うぃ訪れることはない」 という。

今生の別れになるかも知れない龍馬お龍(真木よう子)は、

複雑な思いを抱く。

ジェラシーが繁る人間の小鉢  たむらあきこ

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京都守護職・松平容保(長谷川朝晴)は、薩長の裏に龍馬がいることを知り、

伏見奉行に龍馬を捕らえよと命じる。

捕り方が寺田屋を囲む。

深夜、風呂に入っていたお龍が捕り方に気づき、

風呂を飛び出して、龍馬三吉慎蔵(筧利夫)に知らせる。

外に出されたお龍は薩摩藩邸へと走り、

龍馬と慎蔵は捕り方と激闘。

高杉(伊勢谷友介)から以前にもらったピストルで応戦するが、

右手を斬られ慎蔵と寺田屋を飛び出る。

しかし、龍馬はひどい出血で材木置き場で動けなくなり、

慎蔵を伏見薩摩藩邸に行かせる。

傷物にされたと泣いていたのは男  井丸昌紀

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絵に描いた餅がぺらぺらよく喋る  嶋澤喜八郎

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同志社大学今出川・二本松の薩摩藩邸

薩摩藩邸は、京都/錦小路東洞院(現在の大丸百貨店の場所あたり)にあったが、

文久3(1863)年に、二本松にも新しく建てられた。

「薩長同盟」は、この薩摩藩二本松藩邸で締結された。

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薩長同盟への道筋を作った中岡慎太郎と龍馬

裏表無い友と飲む旨い酒  杉岡東丘

【薩長同盟の裏話し】

小栗上野介の台頭により幕威が上昇し、

長州再征伐の準備が進む慶応元年10月。

龍馬は長州にいた。

桂小五郎との面談のためである≫

打ち合えばいい納得ができるまで  前田咲二

龍馬・「兄さん(桂)、薩摩名義で高杉さんとこに7700挺の小銃も買い付けてもろうた。

   確かに、こん前は薩摩にこけにされたちゅう格好じゃったが、

   一藩の面目如きは、こん際こらえてもらえんじゃろうか。

   日本を救わんがためじゃ。和議結着の件、今度は必ず西郷を説得してみちゃる。」

桂・「孤立無援のために我が長州が幕軍と戦い焦土となっても、

   薩摩藩が後に残ってお国のために図ってくれるんじゃったら、遺憾はない。

   ただし、和議・盟約を願うのは哀れみを請うちょるのも同然、

   士道の意地としてそれはできん」

桂の悲壮感のある表情には、この同盟が上手くいかない場合、

腹を切る覚悟が見えた。

正面から挑む桂馬にある勇気  田井中藤重

龍馬・「もしや兄さんが自害したら、俺は西郷どんを刺して死ぬ。」

そんな決意を秘めて龍馬は、

長州の腹を探るのに懸命な西郷と対峙する。

龍馬・「足下(貴殿)が、無情なんじゃ。

     長州は薩摩との和議を渇望し、ともに手を組んで、

     幕府を打ちのめして、皇国を興さんと目論んじょる。

     しかるに窮乏の極にある長州から、和議の件、持ち出すのは、士道が許さぬところ」

西郷・「薩摩は体面にこだわり過ぎもうした・・・桂どんの決意のほど、どがん意味か、

     よく分かりもうした。

          坂本どん、いますぐ桂どんのところへ案内お頼みもうす」

武装とくようにイヤリングをはずす  森中惠美子

かくして、西郷・桂の間に首脳会議が開かれ、

慶応2年1月22日、京都伏見の薩摩藩邸で、

薩長同盟が成立する。

そして、場面は西郷が席を引いて、龍馬と桂の二人きりになる。

桂・「薩長の盟約がなったのも、坂本君のお陰じゃ。

   この際、証しを立ててくれまいか」

と、朱のインキがたっぷり含んだ筆を差し出す桂。

桂・「もし薩摩が裏切った場合を想定し、なんとか証しを書いてくれ」

龍馬は、黙って、

‘盟約は、毛(すこし)も相違これなく候。

 将来といえども決して変わり候事は、これなきは神明の知る所にござ候‘

と、朱筆でしたためる。

大らかに男の海が凪いでいる  吉川卓

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『 表に御記被成候六条ハ、

小・西両氏及、老兄・龍等も御同席ニて論談セシ所ニて、毛(わずか)も相違無之候、

後来といへども決して変り 候事無之(なきことそうろうこれ)ハ、神明の知る所ニ御座候  

丙寅二月五日  坂本龍 』

≪※文中、小は小松、西は西郷、老兄は木戸、龍は龍馬≫

いわゆる、この「裏書き」の一件で、桂を、「兄さん」と慕ってきた龍馬としては、

「男がチーッとばかし小せえのう」

と、興ざめした。

薩摩が裏切るとしたら、こんな紙切れ一枚では、済まないだろう。

桂は、剣術に優れて男前のわりには、肝が小さいと言われていたが、

ここ一番に地を出したのである。

≪慶応2年1月21日、龍馬立会いのもとに薩長両藩の盟約成立。

 桂小五郎が、龍馬に裏書を求めた。

 2月5日、朱で裏書をし大阪に居た小五郎に届けた≫

斜めから見ればつまらぬ人になる  杉本克子

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てのひらで地球を思いきり絞る  森中惠美子

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  薩長同盟の調印式の場

幕末当時の”薩長の敵対意識”は、

現代のわれわれの想像を、はるかに超越するほど、

凄まじいものだったと思われる。

敵対とはいえば、即座に頭に浮かぶのが、米ソの冷戦。

しかし、米・ソの場合は、あくまでも冷戦。

ところが、薩長の場合は、

実際に戦場でガチンコ勝負しているのだ。

特に、長州の”反薩摩感情”は、相当なものだったはず。

十二指腸にカギ裂きができるまで  井上一筒  

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       禁門の変

幕末の政争で、ことごとく前に立ちはだかり、

藩をこなごなにする直前まで、

長州を窮地に追いやった張本人が、薩摩でしたから・・・。

文久政変、「禁門の変」によって、

長州なりの正義とプライドは完全に打ち砕かれ、多くの人材も失った。

”犬猿の仲” などという代名詞だけでは、言いあらわし難い。

頂点の薩摩に、どん底の長州。

どう贔屓目に見ても、両藩が結びつく要素はなかった。

簡単に結びつくことを許さない、”感情の決裂”があったのは、

歴然としている。

昨日今日生まれたわけでない殺意  片岡加代

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高杉晋作と龍馬(同盟へ一歩前進)

慶応期の、両藩の圧倒的な政治的地位の格差などを、考慮すれば、

薩摩の援助なければ、

長州は何時つぶれても、おかしくはなかった。

その両者が、結びつくことは、まさに予想外のことだった。

目の前のビルは随分遠かった  井丸昌紀

もちろん、”犬猿の仲”の薩摩と長州の仲をとりもつのは、

並大抵のことではなかった。

龍馬も最初は、失敗している。

中岡慎太郎と連携し、龍馬は下関へ向かって、

長州の桂小五郎に薩長同盟の、構想と必要性を力説する。

慎太郎は、西郷隆盛に長州との会見の必要性を説き、

下関に向かわせた。

それがうまくいけば、

慶応元年(1865)5月21日に下関で薩長同盟は、結ばれるはずだったが・・・、

流産となる。

討幕にむけ、いずれ薩長は、結束する宿命にあったとは、思うものの、

下関へ向かうはずの西郷が、

政局の急変を理由に、京都へ向かってしまったのだ。

これで桂小五郎は、薩摩と西郷にたいし、さらに不信を抱くようになる。

不発弾ひとつかかえて旅に出る  早泉早人

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ここから、龍馬は発想を転換させる。

まずは、両者の経済提携からはじめようと考えたのだ。

この経済提携によって、長州が薩摩に対する態度を軟化させると、

龍馬は、政治交渉を斡旋しはじめる。

当初は、かたくなな態度だった長州だが、

しだいに、

「薩摩との交渉に応じてもいい」という姿勢になってくる。

経済提携が効いたのと、

長州をめぐる軍事事情が、一段と切迫してきたからだ。

峰打ちにしよう重荷を真っ二つに  宇治田志津子

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桂小五郎は京都に出向き、「薩摩屋敷」で西郷と交渉に入る。

そこまでお膳立てしたのだから、

龍馬は交渉成立と踏み、遅れて入京したところ、

「依然、交渉に入っていない」
 という現実を知る。

薩摩側は、桂を饗応するばかりで、交渉を始めようとしていなかった。

長州に頭を下げてまで、同盟を組みたくはなかったのだ。

この薩摩の態度に桂は憤激し、交渉はふたたび、

決裂寸前となった。

揺れている人のあたりが生臭い  籠島恵子

決裂の危機にあって、龍馬は、西郷を強烈に説得する。

「桂をはじめ長州が、いかに薩摩にたいして感情的になっているか、

 ここは薩摩側から、譲歩する必要がある」 

と、説くと、西郷も納得。

慶応2年(1866)1月、ついに薩摩と長州は薩長同盟を締結。

まさに、”奇蹟的大回天”を果たしたのである。

プライドを捨てぴったりの面の位置  山本芳男

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  ユニオン号(イメージ)

そして同年6月、”第二次長幕戦争”がはじまる。

関門海峡での攻防は、

長州にとって、重要な鍵をにぎる戦いであった。

対外的な窓口である下関を、幕府に押さえられてしまったら、

おそらく長州は、壊滅的な状況になってしまう。

この接戦の海の戦いに、

商社でもあり、独立海軍でもある、亀山社中がユニオン号(桜島丸)で、

長州を助けるべく参戦し、

長州を勝利に導く一役を買った。

まさに”龍馬の海軍”が、歴史を動かした瞬間だった。

鉛筆はあしたを待っていられない  大倉久子

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 長次郎の遺書と写真

『龍馬伝』・第35回ー「薩長同盟ぜよ」 あらすじ

龍馬(福山雅治)は、桂小五郎改め木戸貫治(谷原章介)が、

護衛にとつけた槍の達人・三吉慎蔵(筧利夫)とともに、京に向かう

その途中、大和屋へ寄った龍馬は、

お徳(酒井若菜)長次郎(大泉洋)を死なせてしまったことを詫び、

写真と遺書を渡す。

信用をされているから胃が痛む  森口美羽

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京に着いた龍馬たちだったが、

薩摩藩邸の周りに幕府方の隠密がいて、なかなか近付けない。

一橋慶喜(田中哲司)が、出兵しない薩摩に疑念を抱き、

不穏な動きはないか、探っていたのだ。

しかたなく、寺田屋を訪れた龍馬は、

お登勢(草刈民代)からお龍(真木よう子)が、

「自分に思いを寄せている」 と聞かされる。

お龍の想いを知った龍馬は、

「命の危険を冒して、日本を変える仕事に取り組んでいるから、もう会うことはない」

と告げる。

しぶしぶと 女は横糸をほどく  たむらあきこ 

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8月18日の政変以来、

反目しあっていた薩摩と長州の間に、

一筋のつながりが生まれた。

西郷(高橋克実)から手紙をもらった木戸(桂小五郎)は、

二藩の盟約交渉のため、京の薩摩藩邸を訪れる。

ついに、両藩のリーダーが、初めて顔を合わせることになったのだ。

薩摩と長州が手を結ぶということ。

それは、260年間続いてきた徳川の世に、反旗を翻そうという、

途方もない計画の第一歩だ。

あしたを引っぱる日付変更線  木村禮子

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彼らの交渉は、幕府には決して知られぬよう、

しかも迅速にすすめねばならない。

そこで木戸は、

「龍馬が来るまで話し合いを始めない」

と言い出す。

西郷は、問う。

「なぜ龍馬なのか」

ついこの間まで、敵対していた薩摩をおいそれと、信用することはできない。

「この話の立会人ちゅうのは、立場云々ではのう、

 何よりも信用できる人間でなくちゃなりません」

木戸の言葉に、西郷も納得する。
 
構想を練る真夜中の古時計  大倉久子

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同じ頃、藩の命令で薩摩の動きを探ろうと、

京に来ていた弥太郎(香川照之)は、龍馬と間違えられて、

新選組に捕えられ拷問を受けていた。

お龍の働きで、小松帯刀(滝藤賢一)邸に、西郷と木戸が移ったことを知り、

急ぎ向かう龍馬は、

途中、新選組から放り出された弥太郎を救う。

薩長を結びつける男として、

新選組や伏見奉行に追われ始めた龍馬だったが、

ついに「薩長の盟約」を結ぶことに成功する。

出来そうもないモットーが奇跡呼ぶ  坂下五男

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大胆な脳が時代を切り開く  鳥居 宏

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亀山社中・名札(空所は近藤長次郎)

長崎で「亀山社中」を設立した慶応元年(1865)の9月、

龍馬は、土佐にいる姉の乙女に手紙を書いた。

その文面によると、

社員というべき仲間の人数は、20人ほどだったようだ。

龍馬のほかに、土佐出身者では

沢村惣乃丞、高松太郎、千屋寅之助、池内蔵太、新宮馬乃助、

石田英吉、中島作太郎、近藤長次郎 らがいた。

口笛を吹くと踵が浮かれだす  河津寅次郎

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沢村惣乃丞は、龍馬より先に脱藩しながら、

土佐勤皇党の武市半平太に現状を報告するため、いったん帰国し、

はじめて脱藩する龍馬に、同行した人物。

龍馬とともに勝海舟の門下生となり、

以後、龍馬と行動をともにした。

書き出してみる死ぬまでにしたい事  楠本充子

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千屋寅之助は、土佐の庄屋の三男として生まれ、

のちに土佐勤皇党に参加。

やはり、龍馬とともに勝海舟の弟子となり、龍馬と行動をともにした。

お龍の妹・君江の夫。

菅野覚兵衛の名でも知られる≫

これからを絵になる彩にしたふたり  中井アキ

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池内蔵太は、土佐勤皇党の結成に尽力するが、

武市半平太と路線が合わなくなり、

長州の桂小五郎らの主張に共鳴して脱藩、

長州の尊攘運動に参加する。

「禁門の変」に長州兵として出撃したあと、亀山社中に加わった。

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新宮馬乃助は、高知で河田小龍に師事して学問や絵を学んだあと、

江戸へ遊学。

そこで龍馬と知り合い、ともに海舟の門下生となった。

バイキングトマトキャベツの暴れ食い  倉 周三

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石田英吉は、土佐藩の医師の家庭に生まれ、医学を学んだ。

同郷の吉村寅太郎にしたがって、「天誅組」に参加。

大和挙兵で敗れたあとは、長州へ行き、禁門の変に参戦。

さらに、高杉晋作の奇兵隊創設にもかかわった。

龍馬との関わりは、亀山社中の創設のころ。

泣き笑い取り散かっている小骨  岩田多佳子

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中島作太郎は、土佐藩郷士の出身で、土佐勤皇党に参加。

ここで龍馬と知り合い、行動をともにする。

維新後には、政府の役人となり、

第一回衆議院議員選挙にも当選し、のちに、

初代・衆議院議長となった。

明日を唄うのど飴は買ってある  奥山晴生

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近藤長次郎は、龍馬の実家近くの饅頭屋の伜。

江戸に出て学問と砲術を学び、その優秀さを認められた。

神戸の海軍操練所で龍馬と知り合う。

社中で実績を認められつつも、イギリス留学の夢から覚めず、

間違いを犯し、家族や龍馬ら仲間を泣かせる、不幸な終を迎える。

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長次郎が家族宛に送った手紙

ぬくい手の仲間がいつもヘマをする  森中惠美子

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高松太郎は、龍馬の姉・千鶴の子で、龍馬にとっては甥にあたる。

19歳のとき、九州へ修業の旅に出て、旅先で半平太と出会う。

そして、土佐勤皇党に加盟し、尊攘運動をはじめるが、

叔父・龍馬の紹介で勝海舟の弟子となる。

海軍操練所で航海術を学び、その後、脱藩。

龍馬と行動をともにした。

≪明治維新後には、坂本家の養子となって家督を継ぎ「坂本直」(なお)と名乗った≫

新しい表札重い荷を背負う  森下鈴子

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坂本家一家・後列右から二人目が”坂本直”

「高松家について」

龍馬には、三人の姉がいた。

乙女については有名だが、

あとの二人については、あまり詳しく知られていない。

坂本家の長女は、千鶴(ちづ)といった。

龍馬が生まれたとき、19歳となっていた彼女は、

すでに安芸郡安田村の郷士・高松順蔵のもとへ、嫁いでいたとみられる。

少年のころの龍馬は、高松家を何度も訪れ、見晴らしのよい縁側で、

一日中、海を眺めて過ごしていたという。

温室の花は季節を忘れてる  森 廣子

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夫婦円満な高松家は、龍馬にとって、居心地がいい場所だったのだろう。

龍馬は、のちに京都伏見の船宿・寺田屋の居心地について、

手紙で、

「お国にて安田の順蔵さんの家にいるような・・・」 

と表現している。

また千鶴から、江戸修行中の龍馬宛に届いた手紙が、

一通残っている。

その中で千鶴は、

「じぶん二きを付んと、今ハきおつける人はいないぞよ」

≪自分に気をつけないと、今のお前には、気をつけてくれる人はいないのよ≫ 

と、母親のような優しさをみせている。

夕焼けの色ふるさとへ帰ろうか  杉本克子

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千鶴と順蔵の墓

その千鶴は、龍馬が脱藩する前年の文久元年(1861)、45歳で病死する。

のちに、千鶴の長男・太郎が龍馬の「海援隊」に参加。

士官として、長州藩船・”ユニオン号”を購入するなど活躍した。

明治4年(1871)、太郎は、

暗殺された龍馬の家督を継ぎ、朝廷から永世15人扶持を給せられ、

名前を「坂本直(なお)」と改めた。

千鶴は、長生きはしなかったが、よい家庭に恵まれ、

当時の女性としては、幸せな一生を送ったといえるだろう。

美味珍味尽くしたボクののり茶漬け  村岡義博

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   陸奥陽之助

社中の、上記・土佐人以外では、

龍馬が最も評価した紀州の陸奥陽之助(宗光)をはじめ、

越前や讃岐、因幡などの出身者もいた。

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