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川柳的逍遥 人の世の一家言
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京都駅の雨 竜馬の咳払い  井上一筒

一晩眠れば、その翌日には、考え方が変わっていた後藤象二郎も、

生涯に一度だけ、命をかけた仕事がある。


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『大政奉還前日 後藤に覚悟を迫った龍馬直筆の手紙』  (6/16)

が、見つかったことで、

歴史研究家や坂本龍馬研究家の間では大騒ぎ。

見つかったのは、慶応3年(1867)10月、

江戸幕府が、朝廷に政権を返上した「大政奉還」(10/14) の2日前、

幕府が京都で諸藩の重臣を集めて、意見を聞いた日に、

”江戸幕府が朝廷に、政権を返上する、『大政奉還を実現させるよう』  

、坂本直柔(龍馬)が、

土佐藩の参政・後藤象二郎を激励した、手紙の草案である。

ももいろの肉のなる木に水をやる  小沢 史

学芸員主任・三浦夏樹さんが、、興奮をしながら語る。

「鳥肌が立っています。龍馬の手紙の中でも最高に重要な史料で、

 原本が行方不明のなか、草案が存在するとは、考えてもいなかった。

 当時の緊迫した状況がうかがえる、第1級の史料だ」 と。

それは、その通り。

どえらいプレッシャー胃潰瘍になる  笠原乃りこ

内容は、

「大政奉還に失敗した場合、後藤も生きては帰れない」 としたうえで、

『海援隊一手を以(もっ)て 大樹(将軍)参内の道路ニ 待受(まちう)ケ』 と、

”自分も(将軍襲撃のため) 海援隊を率いる覚悟である” ことを記し、

さらに、二条城での議論の目的は、

「大政奉還の一点のみ」 と明確に指摘。

『生先一身失策の為に、天下の大機会を失(しっ)せバ』 と、

”失敗すれば先生(後藤)の罪は許されず、薩長から責められる”

と緊迫した情勢をつづっている。

そして、

『地下ニ 御面会仕(つかまつり)候』

”墓の下で会いましょう”

と、自らの死の覚悟まで示して、激励する内容になっている。

ただ、その中に、「先生」「生先」 と書き間違えた箇所が一つある。

完全に倒れ完成するドミノ  平尾正人

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書き間違いをしている箇所を指差している発見された手紙

この書き間違いについて、研究主任は

「さすがの龍馬も、この緊迫時に緊張して、書き損じたんじゃないか」

と、分析している。

しかし、それには異義がある。

本当に、龍馬が緊張をして、こんな単純な間違いをするだろうか・・・?

皮肉が得意な龍馬は、意識的に間違えたのではないか? 

と私は思っている。

龍馬にとって、

後藤は、龍馬にとって、

半平太や以蔵や、多くの土佐の仲間を殺した”不倶戴天”の敵である。

後藤は、風見鶏とも、気分屋とか、気まぐれとも言われ、

どこか”ずるい”ところがある人間なのだ。

龍馬が、勝海舟を呼ぶのと同じように、後藤を「先生」と呼ぶはずがない。

網膜に残る想いが揺れはじめ  太田昭 

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龍馬に近づいたのは、後藤の方からだった。

藩の参政となった後藤は、

土佐藩が中央政局で、存在感を増していくためには、

「龍馬の海軍」を無視できない現実に直面していた。

そもそも土佐は、船で海を渡らなければ、

畿内や江戸といった日本の中枢に、出ることが出来ない。

なんとしてでも、海軍を入手しなければならなかったのだ。

人脈の真ン中あたりにある誤解  中井アキ    

片や龍馬のほうも、亀山社中の経営は、危機に瀕していた時でもあり。

龍馬の目指す海軍を、維持するためには、

ぜひとも、土佐藩を後ろ盾にしておきたかった。                     

また大局的な見地からみても、

薩摩と長州だけが、暴走することを抑えようとしていた龍馬にとって、

土佐が海軍力を手に入れて、発言力を増すことは、重要な意味を持っていた。

こだわりが溶けてかすかな紙魚になる  嶋澤喜八郎

慶応3年1月12日、後藤は、長崎の料亭・「清風亭」に龍馬を招待した。

その時、後藤は龍馬が贔屓にしていた芸妓・お元を呼んでいる。

後藤は抜け目なく、龍馬懐柔の下準備をしていたのだ。

そしてついに、恩讐を超えた歴史的な会談がおこなわれ、

後藤は過去にいっさい触れず、土佐藩の今と未来を語った。

利害の共通する二人は、すぐに意気投合をしたという。

後藤は龍馬の、先進的な考えや、藩の枠に囚われない、広い視野に感嘆し、

脱藩の罪を解いて、土佐藩支配下の海援隊隊長に任命したという。

≪歴史の1ページ目になる、「清風亭」の今は、残念ながら、24H駐車場になっている≫

ウイスキーはダブル大人の話する  宮田宣子

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「酢屋」-この2階の左窓のところに龍馬の部屋がある

いわゆる二人は、互いの利害を挟んだ関係で、つながっただけなのである。

龍馬が、ぶれやすい後藤を、心底から信頼したわけではない。

冒頭の龍馬が、「後藤に覚悟を迫った手紙」では、

決して、”あなたを尊敬しているわけじゃない” という、「隠し文字」が、

「先生=生先」 の中にある。

ささやかな抵抗という形で、皮肉ったのではないかと思えるのである。

また龍馬と後藤が、完全な親密でない理由が、

もうひとつある。

土佐藩は、海援隊を傘下に置いたものの、危険に及んだときは、

海援隊を藩から、切り離す気だった。

そのため海援隊は、土佐藩邸に本部を置くことなく、

土佐藩に近い京都・三条の「酢屋」を本拠としていたことである。

信用をしながら揺れる猜疑心   森廣子

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      船中八策

「豆辞典」          

≪龍馬が語る”大政奉還論”は、後藤にとって実に魅力的なアイデアであった。

 その案であれば、主君・容堂も十分納得し、

 また、幕末の政局を大きく動かせると、
大いに興奮した。

 容堂は、この案を受け入れ、

 慶応3年10月3日、後藤は土佐藩の公式案として、

 「大政奉還の建白書」として、幕府の老中筆頭・板倉勝静(かつきよ)に提出する。

 その後、徳川慶喜は、後藤ら四十藩の重臣を集めて意見を聞き、

 朝廷に政権返上を申し出たのである≫

歯車をあわせる器量持ってない  森口美羽

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「後藤象二郎の人物評」

後藤象二郎は、叔父・吉田東洋暗殺後、一時失脚するが、

のちに藩政に復帰して、「大監察」という重職につき、

土佐勤皇党の弾圧を主導し、武市半平太や岡田以蔵ら、土佐の藩士らを、

執念深く、切腹、斬殺、獄死と残忍な死に追いやった人物。

一方では、彼はのちに、互いの利害を合致させ、坂本龍馬と手を組み、

”船中八策”をもって、「大政奉還」を実現させるという一役も担った。

≪「船中八策」は、後年、明治の文筆家・坂崎紫瀾が、つけたと云われている名前≫

基本的な彼の政治姿勢は、維新後も、相変わらずで、

自由民権運動にいったん協力してから、裏切るなど、

ブレの多い人物であった。

とにかく、しぶとく生きるしたたかさだけは、筋金入りだったようだ。

もう少し刻めば男前なのに  本田智彦  

『気まぐれな後藤象二郎を支えた雪子という女』

後藤は、早婚で安政元年(1854)に、17歳で結婚している。

相手の名は、磯子

仲人となったのは、藩の重臣の吉田東洋だった。

彼女は4人の子供を産んでいる。

だが、後藤は磯子への愛を、あまり示さなかったようである。

慶応3年(1867)に、磯子が病没した際、

長崎で外国人と会談中の後藤のもとに届いたが、

彼は眉ひとつ動かさずに交渉を続けた。

会談終了後に、外国人が後藤の妻の死を知り、

あまりに平然とした彼の態度に、驚いたという。

楕円形フリーハンドで描いている  森田律子

まもなく海援隊の「蒸気船・いろは丸」の事件が発生し、

後藤は、妻の葬式にすら出ずに、仕事を進めた。

心の底で涙を流していた可能性もあるが、後藤の性格を考えると、

彼は磯子を、それほど大切に、考えていなかったのかも知れない。

ばらばらに時を刻んでいる家族   村上玄也

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 幕末の志士が多く利用した京都島原の門

磯子の死と前後して、

後藤は、京都で雪子という名の芸妓と知り合っていた。

雪子は、女性ながら豪胆な性格の持ち主。

新撰組の近藤勇後藤が、料亭の二階で会談した際には、

彼女は、階下の新撰組隊士たちが、斬り込んでこないよう、

階段の上に、バリケード代わりの火鉢を置き、万一の際は、

自分の身を盾にして、「後藤を守ろう」 と決心していたという。

後藤が近藤と意気投合したため、隊士たちは斬り込んでこなかったが、

泣く子も黙る新撰組を相手に、

一歩も引かなかった雪子の勇気は、並々ならぬものだった。

大きな声じゃ言えんが内縁の方が奇麗  島田握夢         

そして維新後、雪子は後藤と結婚。

夫婦そろって天皇の訪問を出迎えるなど、妻としての役割を果たした。

借金が多く、気ままな後藤を支えられる女性は、

豪胆な雪子をおいて、他になかったといえるのではないか。

≪蛇足―男が活躍する舞台では、妻は大いなる役目を背負っている。

 そういう意味で、豪胆な菅直人首相の奥さん伸子さん見ると、

 菅さんの今後の施政は、期待出きるのではないだろうか・・・≫

棺桶の中でも伸びる髭である     菱木誠         
 

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地図なんかいらない僕の歩き方  立蔵信子

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 寺田屋登勢

商都大坂と淀川の水運で、直結していた”伏見”は、当時の京の表玄関。

諸国から集まってきた志士たちの、活動拠点でもある。

船着場近辺には、旅籠が軒をつらねていたが、

なかでも「寺田屋」は、彼らの定宿としてよく利用された。

それは、女将である”お登勢”の人柄によるところが大きい。

龍馬も薩摩藩からの紹介で、寺田屋に滞在するようになった。

≪豆辞典ー寺田屋は、山城の国久世郡・寺田出身の出身者が、

 始めた船宿なので、寺田屋という名がついた≫

盛り場で憩う疲れた男たち  長江時子

お登勢は、近江大津の旅籠屋の娘で、龍馬より6歳年上だった。

18歳で伊助と結婚してから、

病弱な夫に代わり、女将として船宿を切り盛りしていた。

そして、気難しい姑によく仕え、姑が病に倒れたあとも、懸命に看病した。

そんなことで、姑は、最後には涙を流し、

感謝しながら、息を引きとったと伝えられている。

この世からあの世へゆれるものばかり  森中惠美子

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男勝りの度胸と気風の良さ、

お登勢は、姉の乙女に似た感じがある。

「彼女は、学問の素養もある一角の人物」 

と、龍馬は、かなり尊敬もしていたようである。

そして、お登勢のほうも、龍馬には、かなりの好感をもっていた。

彼女は、もともと面倒見がよく、

それもあって志士たちに、慕われていたのだが、

なかでも、龍馬について、とくに気をかけていたいたという。

みじん切りしたい男がひとりいる  井丸昌紀

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龍馬という人間、

声高に理想論を語るような、角ばった気負いがなく、

茫洋とした自然体。

そこが、他の志士たちと異質で目立つ。

大人物の片鱗が見え隠れするのだが、

しかし、隙だらけで、どこか危なっかしくて・・・つい世話を焼いてしまう。

いつの間にか、お登勢は京における、『母のような存在』 になっていた。

背中にも目がある母を騙されぬ  玉利三重子

龍馬は寺田屋での暮らしについて、

「お国にて安田順蔵さんのうちにおるような、こころもちにて候」 

と、姉の乙女への手紙に書いている。

安田順蔵は、坂本家の親戚で、龍馬は幼い頃に、

よく乙女に連れられ遊びにいった。

居心地の良い場所だったようだ。

母さんの愛は時々煮えすぎる  山岡冨美子 

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志士にとって京は危険地帯であり、

寺田屋とて、完全に気の許せる場所ではない。

みなが緊張していて、よそよそしいところはあった。

だが、龍馬だけは、まるで親戚の家に遊びにきたように、

こころの底から、くつろいでいる。

無防備で自分の懐に入ってくる相手には、こちらもつい心をゆるしてしまう。

これが、龍馬の甘え上手の秘訣だろうか?

現実を受け止め風に水になる   安土柾子

彼が意識して、それをやったかどうかは解らない。

しかしお登勢は、この子供のような大男を家族同然に・・・というよりも、

本当の家族として世話をした。

その何よりの証拠は、妻のおりょうを、お登勢に預けたことだろう。

お登勢は、おりょうを養女にしたばかりか、

おりょうの母と、弟妹も預かっている。

やわらかくとどくありがとうの角度  森中恵美子

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また、龍馬の危機に際しては、我が身を挺して守ろうとした。

龍馬が幕吏に襲撃された時のこと。

その直前に、お登勢は数回にわたり奉行所に呼ばれ、

厳しく尋問されたが、

質問が龍馬に及ぶと、頑として口を閉ざしつづけた。

これも、”子を守ろうという母の心境” だろうか?

≪お登勢の孫・相部さんによれば、龍馬は土佐風に、「おかあ」と呼んでいたという≫

胸奥の余韻 括弧でとじておく  安土理恵

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寺田屋と、お登勢の名を有名にしたのが、

文久2年(1862)に起きた「寺田屋騒動」である。

この頃、公武合体路線に反発する薩摩藩の志士たちが、

京都所司代襲撃を企んで、寺田屋に集結していた。

薩摩藩主・島津久光は、この企てを察知して、

藩内でも、使い手で知られる9名の刺客を送り込む。

すなわち、薩摩藩士同士の激しい斬り合いが、始まったのだ。

2階の客間からは、刀が激しくぶつかりあう金属音が響き、

足音とともに、怒号や悲鳴も聞えてくる。

お登勢は、女中たちをかまどの中に隠れさせて、

自分は帳場に灯りを点して、平然と2階の乱闘を見守ったという。

忍耐を磨く地獄の一丁目  西美和子

やがて、斬り合いは終わり、

抜き身の血刀を手に持った薩摩藩士たちが、階下に降りてきても、

お登勢は、帳場から一歩も動かず、平然と応対してくる。

この態度には、さすがの剣客たちも驚いた。

薩摩の男は剛胆であることを、ことのほか尊ぶ気風がある。

以後、お登勢は薩摩藩士から、最も尊敬される京女となる。

それ以前からも薩摩藩士たちに、

定宿として利用されてきた寺田屋であるが、

この事件を契機に、いっそう信頼は深まるようになった。

生き抜いた証手のしわ顔のしわ  武内美佐子

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『龍馬伝』・第25回‐「寺田屋の母」 あらすじ

京から神戸村へ帰る途中、

伏見の船宿・「寺田屋」のそばを通りかかった龍馬(福山雅治)は、

おかみ・お登勢(草刈民代)を見て、驚愕する。

幼い頃に亡くなった生母・幸(草刈2役)に、うり二つだったからだ。

思わず寺田屋に泊まることにした龍馬は、

お登勢に、「自分の亡き母親とそっくり」 だと打ち明ける。

脱藩浪士となり、「もう土佐には戻れない」 という龍馬を優しく励ますお登勢。

彼女の言葉に力を得た龍馬は、

新たな気持ちで海軍操練所へ戻っていく。

そうとしか思えぬ幽霊からの手紙  有田晴子

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  燃える京都(禁門の変)

そのころ、京の町を震撼させる大事件が起きる。

池田屋で多くの同志を殺された長州藩が、帝を奪還するため、

京へ攻め入ったのだ。

長州を迎え撃ったのは薩摩、会津ら幕府軍。

激しい攻防の末、長州藩は総崩れとなり、

久坂玄瑞(やべきょうすけ)は自刃。

後に、「蛤御門の変」と呼ばれるこの戦いにより、

京の町は焼け野原と化した。

大風呂敷の中は溶けかけた氷  柿花和夫

「海軍操練所」にも、戦の様子が知らされ、

龍馬は、戦場を見るため京へ向かった。

焼け野原となった京で龍馬は、桂小五郎(谷原章介)と再会する。

彼は、長州の仲間を、死に追いやった薩摩を激しく憎んでいた。

 草笛を吹くとトラウマ疼き出す  清水久美子

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その後、龍馬は、お龍(真木よう子)のもとへ向かう。

幸い彼女の家は焼け残ったものの、働き口だった扇岩は焼けていた。

「どうしてうちらがこんな目に遭わされんの」

はき捨てるように言うお龍に、龍馬はかける言葉もない。

「おまんの言うとおりじゃ・・ こんなことはおかしい」

どうにか、お龍だけでも助けてやりたい。

龍馬は、お登勢に、お龍のことを相談する。

うねる物抱いて竜馬は懐手  菅野泰行

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一方、幕府内部では、長州の決起により、

「長州を徹底的に叩くべき」 だという一橋慶喜(田中哲司)と、

「内戦は避けるべき」 だという勝(武田鉄矢)とが対立する。

そんな中、勝の指揮する海軍操練所の訓練生の中に、

脱藩浪士が多数いること、

池田屋事件に、訓練生の1人であった亀弥太が関与していたことを理由に、

勝は、軍艦奉行を免職となる。

江戸での蟄居を命じられた上、

さらには、操練所まで、閉鎖されることになったのだ。

エンジンの無い自動車に乗っている  井上一筒    

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振り出しに戻った、「日本のために海軍を作る」 という龍馬の夢。

龍馬たち訓練生は、予想だにしない状態に、

驚きを隠せない・・・。

日本の海軍を目指す龍馬たちの、行く末に暗雲がたちこめる。

歩いても歩いてもまだ藪の中  毛利元子

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一枚の舌の謀反を知る夜更け  山本芳男

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    以蔵役・佐藤健

長州が失脚、勤王派の衰退に合わせるように、

岡田以蔵は、しだいに酒色に溺れて、身を持ち崩していく。

「土井鉄蔵」 と名乗って、博奕打ちになり、強盗を働いたりした。

そして、元治元年(1864)、”無宿人狩り”の網にかかり、

幕吏によって捕えられた以蔵は、京から追放される。

寂しくていつもながらの酒に酔う   竹森雀舎 

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これを知った土佐藩に、放たれると同時に、捕えられ送還された。

その頃の土佐では、公武合体推進派の山内容堂による、

土佐勤王党への、弾圧の嵐が吹き荒れ、

武市半平太以下、多くの土佐勤王党士が投獄され、

厳しい取調べ、拷問を受けていた。

以蔵には、特に過酷な拷問が待っていた。

そして以蔵が、1年もの拷問にも耐えるなか、

半平太は、

「もし以蔵が自白した場合、自身や仲間の立場が危うくなるのでは・・・」

と考え、以蔵を毒殺しようと企んだ。

デコボコのボコヘすこうしずつ火薬  東おさむ

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が、半平太の企みは失敗、未遂に終わる。

そのことにより、以蔵は、

「自分が、武市半平太に道具のように、扱われていたんだ」

と気づき始める。

結果、仲間の毒殺計画に失望した以蔵は、次々と自白していった。

以蔵が、すべてを自白して、新たに投獄される者もでる。

また、党員への拷問は、過酷さを増していき、中には獄死する者も出た。

呪縛から解き放たれた赤トンボ  森口かな江

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武市半平太の取調べには、投獄から1年余りの間、

吉田東洋暗殺の犯人探しに、執念を燃やす後藤象二郎が、あたった。

しかし半平太は、最後まで吉田東洋暗殺を、否定し通した。

半平太の自白はないまま、周辺の証言から、罪状が決し、

慶応元年(1865年)5月11日、37歳で、切腹を命じられた。 

≪傀儡師の半平太は、身分の違いから正式な切腹を許され、

操り人形の以蔵の首は、土佐の雁切河原に三日間晒された≫

伝え聞くことは、どこまで正しいのか、二人の胸に悲しい悔恨が残る。

”君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空”

明太子レンジの中で自爆した  井上一筒

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友情は昼の月にも似てぬくい  津田一江

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「それぞれの幕末ー半平太 龍馬 そして以蔵ー」

2006年(平成18年)8月17日、高知新聞朝刊を読む。

三浦夏樹氏執筆、”それぞれの道、貫いた3人”

新聞には、次のような内容が書いてありました。

改革を抱く青雲の志  住田英比古

土佐藩の下級武士の家に生まれた、坂本龍馬、武市半平太、岡田以蔵の3人は、

日本を守るため、短い人生を全力で駆け抜けた。

龍馬は、33歳で暗殺され、

半平太は37歳で切腹した。

以蔵は、28歳で斬首の刑を受けた。

死に方は違うが、みな若くして命を落としている。

形状記憶の黒ネクタイが忙しい  木村良三

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半平太が切腹に使ったと伝えられている短刀

半平太
は、手紙(個人蔵)の中で、

「人は男でも女でも、道を守らねば役には立たない」  

と書いている。

江戸時代には、身分制度があり、身分や立場によっては、

守るべき道が全く違ってくる。

武士の中の武士である、半平太にとって、

”守るべき道は、主君に対する忠義と、親・先祖に対する孝行が、一番だった”

「天皇や日本のために、脱藩する若者が多い中、

半平太はぞれぞれが、主君に忠義を尽くす事が、真の尊王だ」

と主張した。

「脱藩して活動することは、主君や親・先祖に対して不忠・不孝にあたり、

 それに勝る忠義は行なえない」

とも書いている。

レンジでチン反戦論を更迭す  山口ろっぱ

しかし、郷土の次男に生まれた龍馬にとって、

”守るべき道は、家や土佐藩よりも、朝廷や日本そのものだった”

さらに、龍馬の場合は、自分の夢の実現のためにも動いた。

半平太が、土佐藩を勤王でまとめる「一藩勤王論」に、

命を懸けたのに対して、

龍馬は、藩という枠組みを脱し、身分すらも無くそう、と考えていた。

薬かも知れん爆弾かも知れん  谷垣郁郎

以蔵については、資料が少なく、明確には捉えられない。

しかし辞世の句には、

「君がため 尽くす心は水の泡 消えにしあとは 澄みわたる空」

とある。

これを読むと、無学で、信念も無かった人間とは、思えない。

以蔵もまた、信念を持って、剣を振るい続けたのでは、ないだろうか。

また、意外に思うかもしれないが、以蔵は、ピストルを持っていた。

弟のご子孫宅に、伝わるものだ。

ゆっくりと人の字書いてかみしめる  前田洋子

現代の日本は、将来に対する、希望を見出せない若者が、増えている。

やりたいことが見つからず、無気力な若者が多くなっている。

それに比べて、龍馬、半平太、以蔵は、短い人生ながら、

自分の「守るべき道」のために信念を貫き通した。

それゆえに、三人は、死に直面する危険に、追い込まれる事もあったが、

死に、怯えることはなかった。

このように、死をも超越し、信念を貫こうとする姿は、人を感動させる。

誰の考えが正しい、というのではなく、

それぞれが、信念を持って行動を起こしたことを、

資料を通じて知って欲しい。

ファイティングポーズ豆腐が立っている 岩田多佳子

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以蔵が所有していたという、フランス製のピストル

「どのようにして、岡田以蔵は、ピストルを手にいれたのだろうか?」

郷土の岡田家は、以蔵の弟が継ぎ、一族は代々農業を営んできた。

現在は、84歳の岡田義一さんが末裔である。

その義一さんが、語っておられる言葉。

「京都で勝海舟の護衛をしている時に、

『刀の時代は終わった、これからは、ピストルの時代じゃきに』

と、龍馬から渡されたそうです」

龍馬の米製ピストルは、

長州藩の高杉晋作から、護身用と贈られたが、

以蔵は、龍馬から、ピストルを譲り受けていたというのだ。

朝が来たなら人間になりなさい  壷内半酔

「龍馬は、人を殺める以蔵に対し、

『こんなことしてたら いかんきに』

と、心配していましたが、、以蔵は、義理堅く一途な性格だったんです。

龍馬より、3歳年下ながら、

2年も早く砲術を習うなど、実は以蔵には、先見の明があった。

龍馬に導かれていたら、

歴史に違う形で、功績を残していたかもしれませんね」

と、伝説を意味深く聞かせていただいた。

坊さんを引き摺る知恩院の鐘    井上一筒        

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さみしくてコンビニの蛾になっている たむらあきこ
 
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「龍馬とおりょうの恋人時代」

おりょう、龍馬と知り合って間もない頃、

妹が騙されて、大坂の女郎屋に売られる事件が起きた。

この時、おりょうは一人で、女郎屋に乗り込んで妹を救出している。

「死ぬる覚悟にて刃物をふところにして喧嘩をいたし・・・」

と、龍馬も手紙にその詳細を書いている。

彼女の大胆な行動に、よっぽど感心したのだろう。

その痛快な行動は、龍馬が恋に落ちるに、充分な衝撃だった。

センサーの休日知っているカラス  山口ろっぱ

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『おりょうというのは、遊芸は大好きだが家事は苦手、

政治向きのことには、口を出したがる・・・』 と、

当時の男たちには、敬遠されるタイプだった。

だが、女性を男の所有物ではなく、同じ人として向き合う

龍馬には、そこが魅力だったのだろう。

龍馬という男は、むしろ大人しい良妻賢母では、退屈してしまう。

手に負えぬ内弁慶の閉じこもり  薮内直人

龍馬とおりょうは、夜ごとに、鴨川べりをデートしたというが、

男女が寄り添って一緒に歩くなど、当時としては珍事に等しい。

そんなデートの最中にあった”怖い事件”を、おりょうが述懐している。

特ダネを黙っといてと言われても  太下和子

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[新撰組の話]

『伏見に居た時分、夏の事で暑いから、

  一晩龍馬と二人で、ぶらぶら涼みがてら、散歩へ出かけまして、

 段々夜も更けたから、話もって帰って来る途中、5・6人の新撰組と出会いました。

 夜だからまさか、坂本とは知らぬのでせうが、

 浪人と見れば、何でも彼でも叩き斬ると云う、奴らですから、

 故意 私らに突き当たって、喧嘩をしかけたのです。

 すると龍馬は、ぷいと何処へ行ったか、分からなくなったので、

 私は困ったが、ここぞ臍の据え時と思って、平気な風をして、

 「あなたら大きな声で何ですねえ」 と懐手で澄まして居ると、

 「浪人は何処へ逃げたか」などと、ブツブツ怒りながら私には、

 何もせず行き過ぎてしまいました。

目を凝らすとざわざわ白い物が見え  島田握夢

 私は、ほっと安心し、3・4丁行きますと、

 町の角で、龍馬が立ち止まって、待っていてくれましたかね、

 「あなた私を置き去りにして、あんまり水臭いぢゃありませんか」 

 と云うと、

 「いんにゃそういう訳ぢゃないが、きゃつらに引っかかると、
 
 どうせ刀を抜かねば済まぬからそれが面倒で隠れたのだ。
 
 お前も、これ位の事はふだんから、心得ているだろう」

 と云いました。』

口髭に隠してキャビア食べている  井上一筒

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『龍馬伝』・第24回‐「愛の蛍」 あらすじ

京の池田屋に向かった龍馬(福山雅治)は、

亀弥太(音尾琢真)の死を目の当たりにする。

池田屋を襲撃したのは、新選組だった。

怒りに震える龍馬は、引き上げていく新選組に挑もうとするが、

居合わせた桂小五郎(谷原章介)に止められる。

桂は、池田屋で殺された者たちの無念を、いつか必ず晴らすと誓う。

では海はしばらく蓋をいたします  酒井暁美

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龍馬は、新撰組から逃れるため、お龍(真木よう子)の家に身を隠す。

そこには、病弱な母親と4人の弟妹がいた。

お龍は父親亡き後、女手ひとつで一家を支えていたのだ。

そんな彼女に、龍馬は、

「自分は家を捨てた身、好き勝手なことをやって家族に申し訳ない」

ともらす。

横向いて居てくれボクの泣くあいだ  太田扶美代

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反面、亀弥太の死を防げなかった自分自身にも、いらだっていた。

そんな龍馬に、お龍は、

「亀弥太が志を貫いて死んだのだから、誉めるべきだ」 

と龍馬を諭す。

その言葉を聞き、龍馬も自分の志を取り戻す。

こうして、すこしづつ変化をみせる2人の仲。

弱気になった天狗の鼻を撫でられる  奥山晴生

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一方、勝(武田鉄矢)は、

操練所の訓練生だった亀弥太が、池田屋の策謀に加わっていたことで、

幕府の老中に呼び出され、詰問される。

その頃土佐では、以蔵(佐藤健)が厳しい拷問を受けていた。

吉田東洋殺しの犯人を吐かせようという、

後藤象二郎(青木崇高)の追及が、続いていた。

武市半平太(大森南朋)は、以蔵が拷問で苦しむ声を、間近に聞きながら、

じっと堪え忍ぶしかなかった。

消しゴムで消せぬ一行過去一つ  横山達矢

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だが、苦しんでいたのは、獄中の彼らだけではなかった。

半平太の妻・冨(奥貫薫)もまた、夫の苦しみを、我がことのように受け止め、

誰にも助けを求めることなく、それに耐えていたのだ。

それを知る、坂本家の伊與(松原智恵子)は、

武市家を訪ねて、冨を慰める。

幕末期、奔走する男たちの陰で、女たちもまた闘っていた。

ひとりじゃないよとさすりつづけた部屋  浜田さつき

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