川柳的逍遥 人の世の一家言
出まかせでも言えぬ台詞がありました 生駒さとし
朝廷と幕府の対立はいよいよ深まり、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を呪いに よって滅ぼそうとする「調伏の修法」を相次いで行うようになった。 また「城南離宮の流鏑馬武者揃え」という名目で多くの武士が結集した。
そして承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇はついに挙兵した。
上皇が「北条義時追討の宣旨」を、全国に発したのは、翌5月15日の
ことで、京都守護の伊賀光季を攻め滅ぼしたのと同時であった。 「承久の乱」のはじまりである。
指切りは十年前の生ゴミに 蟹口和枝
「鎌倉殿の13」 承久の乱
後鳥羽上皇と鎌倉幕府軍 「伊賀光季のちょっと泣かせるエピソード」
承久3年5月10日頃のことである。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府討伐を前
に、近臣の三浦胤義を「ちょっと来てくれないか」と、呼び出し、 「鎌倉挙兵に際して、仲間が大いに越したことはない。
京都守護職の両名は引き込めないか」 と、腹の内を晒した。(胤義は,三浦義澄の子で、三浦義村は兄になる)
時の京都守護職は、大江親広(大江広元の子)と伊賀光季である。
「大江はお召しに応じるでしょうが、伊賀は、北条の縁者ゆえ応じます
まい。いずれにせよ形式的に召し出されて、応じなければ、討伐する 大義名分が立ちましょう」 と、胤義は返答した。
戻っても進んでもそう変わらない 立蔵信子
その返答に後鳥羽上皇は、さっそく大江と伊賀の両名に使者を出した。
大江親広は、50騎ばかりの軍勢を率いて直ちに参上してきた。
「よう参った。鎌倉を討つにつき、京と鎌倉のいずれに与するか、
今ここで申せ」 親広は朝廷トップの後鳥羽上皇に面と向かって「鎌倉につきます」とは
言えず、上皇に味方する旨の起請文をその場で書かされてしまった。 哲学はないが真面目に生きている 岡本余光
一方、伊賀光季は上皇の意図を察し、すぐには呼応せず慎重に回答した。
「畏まりました。ただし某(それがし)は、鎌倉の命によって、京都守
護職を預かっているものですから、まずは鎌倉へ指示を仰いでから参 ります」 <やはり胤義の申した通りか…>
と、苦々しく思いながらも上皇は、執こく光季に呼び出しをかけるよう、
胤義に命じた。
「特に変な意味ではないし、難しく考える必要はない。
上皇が直々のお召しであるのだから、つべこべ言わんでさっさと参れ」
<変な意味ではない>と、
わざわざ言っている時点で、変な意味じゃなかった例しはない……。 ここで断れば、命がないと覚悟の上で、なおも光季は、拒んだ。 「では、まずはどんな意味であるのか詳しくお教えいただき、その上で、
鎌倉の指示を受けて参上したく思います」
<伊賀光季め、一度ならず二度までも……>
怒り心頭に達した後鳥羽上皇は、胤義に光季を討てと命じた…のである。
イモタコナンキンに白紙委任状 田口和代
上皇の兵が攻めてくる情報を得た光季は、家来を集め「逃げてもいい」
と、説くも27人の忠臣は、光季と戦う覚悟をしめした。
また元服したばかりの14歳の息子・寿王(光綱)にも「生きて逃げ切
り、鎌倉に尽くしてくれ」と申し付けた。 しかし光綱は、 「弓矢をとる武士の子が、親や家臣が討たれようとしているのに逃げた
とすれば、いくら幼いからといっても、誰も許してくれないでしょう。 親を見殺しにした臆病者と指さされるのは、恥ずかしいことなので、
是非、お供がしたいと存じます」 と、覚悟を語った。
白桃になりたいピーマンの一途 合田瑠美子
息子の覚悟に光季は、一緒に討死することを決め、家臣の治部次郎に命
じて、光綱に武具を着けさせて、討手が攻めてくるのを待った。 夜が明けると、後鳥羽上皇に命じられた800余騎が光季の宿所を取り
囲み、攻撃をしかけてきた。 光季の家臣たちはよく防戦したが、みな討死した。
邸に火をかけられた光季と光綱は「今はこれまで」と言って、腹をかき
切って燃え盛る火の中へ飛び込んだ…、という。 二度とない今日という日が無為に去る 佐藤 瞳
「政子の大演説」
政子の屋敷はこのようなものか 政子の屋敷は、鎌倉の鶴岡八幡宮の東側にあった。
今は住宅街になっていてなんの痕跡もないが、夫の頼朝の屋敷に比べて、
十分の一程度の広さしかなかったらしい。 5月19日正午、上皇挙兵の知らせが鎌倉に届き、政子のもとには、
上皇の密使から「鎌倉討伐の宣旨」が届けられた。
宣旨の知らせを聞いた武士たちは、ただちに政子の館に集まってきた。
それにしても、いまだかつて朝廷に面と向かって弓をひいたものはない。
真向から朝廷に歯向かうことは、許されないと感じる武士たちは、
いずれも動揺を隠せなかった。
爬虫類図鑑で武士の目を探す 酒井かがり
長い道のりを経て、ようやく勝ち得た武士の権利が、いま失われようと
している。 それを許してはならない。 尼御台は、事態の深刻を打破するために毅然として立ち上がり、館の前
に武士たちを集めて語りはじめた。 「政子の大演説」と、伝わるものである。 『皆心を一つにして承るべし。 これ最期の詞なり。
故右大将軍朝敵を征罰して、関東を草創してよりこのかた官位といい、
俸禄といい、その恩山岳より高く、溟渤(めいぼう)より深し、 報謝の志浅からんや。 しかるに今逆臣の謗(そしり)により、非議の論旨を下さる。 名を惜しむ族は、早く秀康・胤義を討ち取りて、三代将軍の遺跡を全 うすべし…』 (『吾妻鏡』) あの人の煙を見てるいつまでも 丸山 進
【要約】
「皆心を1つにしてよく聞きなさい。これは私の最期の詞です。
頼朝公が朝敵を征伐し、関東に幕府を創設して以来、皆の官位は高く、
収入は大きくなった。 その御恩は山よりも高く、海よりも深いものです。ところが上皇は今、 逆臣の言葉に惑わされたか、追討の宣旨を下された。 名を惜しむものは、即座に出陣して、朝廷に味方する侍や裏切り者を 討ち取り、3代の将軍が築いたものを守り抜くのです」 「吾妻鏡」によると、政子の言葉が終わった時、武士たちは涙を流し、
命を捨てて、その恩に報いると誓い合ったという。 遠くから見守る女の心意気 生田頼夫
承久の乱幕府軍進撃図
「政子の大演説」から3日後の5月22日から25日にかけて幕府軍は、
政子の甥・北条泰時を筆頭に時房、朝時、三浦義村、武田信光らを将と して東海・東山・北陸の三道から京に進撃を開始した。 その軍勢は、19万といわれる大軍だった。
後鳥羽上皇は、3万の防衛線を配置する一方で、怨敵降伏の祈祷ばかり
行っていた…という。 仙堂御所では上皇は、幕府の勢力を聞きオロオロするばかり。
「話が違うじゃないか! 宣旨を出したら、たちどころに関東は従うと
言ったではないか」
状況が把握できてていない側近は、上皇を宥めるのに四苦八苦する。
「奴らはただ…血迷って身のほどを忘れているだけです」
「しかし敵は…19万だぞ」
「うっ…数ばかり多くったって、院の威厳にかなうわけはありませんよ」
「尾張川に防衛線を張り、そこで追いかえしますから…」
などと側近は寝ぼけた言をくりかえしている。
恐ろしいイワンの馬鹿を越える馬鹿 ふじのひろし
宇 治 川 の 戦 い
6月5日、幕府軍は、上皇側の第一の防衛線である尾張川をやすやすと
突破する。 さらに美濃の摩免戸(まめど)の防衛線をも、あっさり突破し、 13日には、上皇側の最後の防衛線である宇治川に到着していた。
が、宇治川には、思いもよらぬ敵が待ち構えていた。
大雨のあとの宇治川は、濁流で流れも激しく荒れていたのである。
「はたしてどうしたものか、待つか?…この勢いのままいくか?…」
と、慎重な北条泰時は、進軍することに煩悶した。
そんなところへ「私に先陣を…」と、佐々木信綱名乗りをあげた。
それに奥州の芝田兼能(かねよし)が続いた。
信綱隊と兼能隊の勇にも、宇治川の濁流は、勇猛な兵士を容赦しない。
襲い掛かる波に関政綱以下、900人余が流され溺死した、という。
次々と波にのみ込まれる兵士たちを見て、泰時は自責の念に駆られた。
しかし、無事に川を渡り切った兵士たちが次々に後鳥羽軍を蹴散らして、
宇治川の防衛線を突破してのけた。
過去形にすれば流れもおだやかで 荒井加寿 15日午前10時、ついに、幕府軍は京の都に侵攻。
上皇軍側の総大将の藤原秀康と三浦胤義・山田重忠らは、最後の戦闘は、
後鳥羽上皇のいる御所でと考えた。
上皇と命をともにと考えたのである。 「東寺の戦い」である。 が、そこで後鳥羽上皇が、上皇の兵士たちにかけた言葉は、
「ここにいたら幕府軍が攻めて来る。お前たちはどっかに行け!」
というものだった。
その言葉にあきれかえった藤原秀康は、後鳥羽上皇を見限り、
三浦胤義・山田重忠らの兵は、それでも京の入り口・東寺に籠って最後
まで戦うことにした。 戦意の差もありなすすべもなく三浦胤義軍は敗走。 胤義は「太秦に住まう妻子の姿を一目見て、最期を…」と、考え太秦の
家に向かったが、そこには既に敵がおり木嶋神社の社に身を潜めたいた。 わずかな我が家への道をも閉ざされた胤義父子は、古くから仕える郎党
の藤四郎頼信に「自分たちの首を家まで届けてくれ」と言い、自害して 果てた。 裏も表も舌の根までも見せている 大葉美千代
北条泰時京に入る 後鳥羽上皇は、比叡山の僧兵に援軍を求めたが、それも叶わず、敗北は
決定的となった。上皇は泰時に使者を出し、義時追討の宣旨」を取り消し、 同時に、自分の旗下で戦った「藤原秀康・三浦胤義らを追討」の宣旨を下 した。 倒幕計画の責任を彼らに推しつけ、自分だけ命乞いをしたのである。
「承久の乱」はわずか一ヵ月で終結。
8日後の6月23日、勝利の知らせが鎌倉に届いた。
「合戦無為にして天下静謐」
(大した合戦をするまでもなく、天下は治まった)と。
7月、後鳥羽上皇は、隠岐に順徳上皇は、佐渡に流され、
10月には、土御門上皇が土佐へ配流された。
葉の裏でしがみついてる雨蛙 真継久恵 PR 当たり前に慣れてしまったカタツムリ 奥山節子
京都流鎌倉武士の邸
鎌倉武士の邸宅は「頼朝が京様を学んで造られた」源平盛衰記にある。
「出撃か、迎撃か」(鎌倉殿の13人のドラマに出てくる屋敷のモデルにもなっている) 「宣戦の詔勅」を前に鎌倉は意見が二分した。
最初は上皇軍を待って、足柄・箱根の関所を固めるという「迎撃戦術」
が多数意見であった。 それに対して、老臣・大江広元は、「出撃論」を主張した。 かつて都の官吏であった彼に、朝廷への恐れはなかった。
政子もこれに賛成したが、決定には至らない。
そこに登場したのが、やはり都の官吏出身の三善康信で、
「たとえ大将一人でも出撃すべし」 という、
この老人の気迫の一言で、京への進撃が決った。
「承久記」によると2,3日待つという「慎重論」を唱えたのは、泰時
であり、対する父・義時は、息子を叱咤して即時、出発させたことにな っている。 有言実行に哀しみはいらない 福尾圭司
「鎌倉殿の13人」 承久の乱・前夜ー③
義時(小栗旬)の険しい表情 横には大江広元(栗原英雄) 義時の弱り顔、濡れ犬のような行く先の捨拾に迷う顔。
これはドラマで毎回、小栗旬が見せてきた表情である。
名優は語らずとも顔の表情筋で魅せる「ヨッ!名演技」である。 北条義時の屋敷は、鶴岡八幡宮の参道沿い二ノ鳥居のすぐ傍にある。
他の者が遠慮する中、義時の屋敷だけは臣下で唯一、参道に面した塀に
門が切られている。 夜中、大江広元が参道から門を潜ると、義時の家子は松明を手に広元を
迎え、即座に客間へと通した。 通された部屋でしばしの間待っていると、ややあって義時が現れた。
白の寝間着に、慌てて烏帽子を被ってきた、という風情で、
髪は櫛すら通しておらぬ有様だった。 広元に上座を譲り、どかりと床に座った義時は、項の辺りを指で掻いた。
やっぱり君も欠伸するんやな 山口ろっぱ
「申し訳ござらぬ。すでに休んでおりましたゆえ」
「ああ、夜分すまぬことを」
広元はそう応じたが、内心驚いた。
<これほどの難事を前に夜着に包まる心の余裕がこの男にあったのか>
と。 「して、本日は一体何用で」
「今からでも構わぬ。出兵を勧めに参った」
「兵を?まだ御家人が鎌倉に揃わぬというのに、ですか」
「うむ、今、御家人どもは揺れておる。人は揺れれば、悩むもの。
鎌倉が断固として禁裏と態度を示さぬと、いくら坂東武者といえども
牙が丸くなる。 味方の悩む時を与えぬのも、大将たる者の務めであるぞ、陸奥守殿」 うなだれた言葉がいとり歩きする 落合魯忠
義時は、「はは」と、軽く笑った。
まるで広元の苦言を躱すかのように。
「実は、同じことを、三善殿にもいわれてしもうたのです」
「三善……善信殿か」
三善康信入道善信は、元は、広元と同じ下級貴族の出で、頼朝の乳母の
一族であった。それゆえに頼朝の懐刀としてずっとあり、頼朝亡き後は 鎌倉の御意見番として、常に敬意を払われていた。 下級貴族出身だけあって、考えることは同じだったようだ。
「姉上を通じご意見を求めたのです。
鎌倉の知恵者であるお2人のご意見が揃ったなら、もはや煩いはあり ませぬ。 我が息子泰時を大将とし、即座に京へ送り込みましょう」 屈強な体も心はところてん 磯野真理
対座する義時と大江広元 釈然としなかった、その思いを、広元はそのまま口にした。
「これまで何を悩んでおられた。敵地で戦を開くは、兵法の定石であろ
うに」 しばしの間、義時は口ごもった。 言葉を選んでいるようだった。
しかし、ややあって、考えがまとまったのか、口を開いた。
「実は、前鎌倉右大臣(実朝)様のことを考えておったのです」
「ほう」
それを促しととったのか、義時は続けた。
「本来なら、鎌倉殿の地位は、源氏の血でもって相伝させるのが後腐れ
のないやり方でございました。が、前鎌倉右大臣様は親王将軍を望ま れた。そうなれば、禁裏の思惑に鎌倉が躍らされる懸念が拭えませぬ。 それを知りつつ、あえて親王将軍を迎えんとしたは、前鎌倉右大臣の 強いご希望と心得ておりましたがゆえのこと」 兆しあり壊れた脳の目覚める日 安土理恵
「そして、お亡くなりになられてからも、そのご希望を叶えんとしたわ
けか」 「あの痛ましい出来事の直前、前鎌倉右大臣様は鶴岡八幡宮の中門にて
足を止められ、<ここで待つよう>、某(それがし)に命じたのです。 <君臣の別をつけよ>と、仰せだったのでしょう。 某は頼朝公以来、鎌倉殿の楯でございました。 身体を張ってお守り申し上げねばならなかった。 されど、それは叶いませなんだ。 それゆえに、何としても親王将軍を迎えるという、前鎌倉右大臣様の ご遺志には、お応えしたかったのです」 「なるほど、禁裏に弓を引いては、親王将軍を迎えることなど難しくな
ろうな」 広元は得心した。
どうしても解けぬパズルが胸底に 靏田寿子
実朝(柿澤勇人)と義時 この男を逡巡させていたのは、戦術の是非ではなかった。
<主君の夢を頓挫させてしまうやもしれぬ>
という、懸念のなせる業だった。
誰よりも一段上に立ってものを見渡している。
方向性は違えど、それは亡き源実朝と並ぶ視座だった。
広元は、己が目の曇りを羞じた。 北条義時は、確かに茫洋としている。 <しかし、その内側には、鋼の如き意志がある。 これまで義時は数々の内紛に際し、生き残ってきた。 それは目立たぬからではないし、覇気がないがゆえでもなかった。 一見すると野の石のような男の内奥に、熱く煮えたぎる溶岩のよう な如き魂がある> 唐国の史書でいうところの王佐の才が、この男の危難を払う傘だった。 アバターの黒いタイツに電線が 河村啓子 一方で、興味もあった。 勝っても負けても、これから義時には、真の意味でも主君がいなくなる。
親王将軍を戴いたとしても、それは、鎌倉の武威によって祭り上げたかり そめの主に過ぎない。果たしてこの男の「王佐の才」は、虚ろなる玉座を 支えうるほど破格であろうか。 この男の行く末をも、己が双眸に納めてみたくなった。
広元は、ぽそりと口を開いた。
「年寄りの楽しみが、一つ増えたわ」
「え? 何か仰いましたか」
「いや。…時に、総大将を務めるのは、立場上、そなたかわしとなろうが、
草摺(くさずり)を着るも難儀する有様のわしでは、総大将などとても。 ここは陸奥守殿に総大将を務めてもらわねばならぬな」 「え、てっきり大江殿がやって下さるものとばかり」
「そなたの采配に期待しておる」
弱り顔を貼り付け、さながら濡れ犬のような面をする義時を前に、
広元は愉快な思いに、心を震わせていた。
(歴史街道・谷津矢車ゟ)
廃線は途切れ下弦の月残る 藤本鈴菜 オーイ空五度ほど温度下げて呉れ 石田すがこ
後鳥羽院宸翰御手印置文 乱世に翻弄されながらも歌を詠みつづけた生涯の、終焉の時に 忠臣への深い感謝の念を遺した絶筆 「尼将軍」 摂津国長江倉橋の地頭問題を巡って朝廷と幕府が対立する中、九条道家
の子でわずか2歳の三寅(のちの頼経)が4代将軍として鎌倉に迎え入 れられた。後鳥羽上皇の「摂関家の子なら許可する」という言葉を受け た義時の迅速な対応だった。 三寅は、頼朝の妹のひ孫あたり、父の道家は、親幕府派の九条兼実の孫
でもある。親戚関係は充たしている。 (藤原兼子は実朝の後継者について折衝し、自分が養育した後鳥羽上皇 の息子・頼仁親王を次期将軍にと画策したが、実現しなかった) そして63歳になった政子は、この幼い将軍に代わって政治を執り行う
ようになりそれよえ「尼将軍」と呼ばれた。 少年の手のひらにある花の種 通利一遍 よちよち歩きの幼児と老婆の組合せでは、「将軍の権威」もへったくれ もありはしない。 そこでまず後鳥羽上皇は、寵愛している伊賀局の所領問題を持ちだして ゆさぶりをかけた。 「伊賀局の所領の地頭をやめさせよ」
というゴリ押しを仕掛けてきたのである。
これは朝廷側の常套手段である。
何かと文句をつけて地頭をやめさせようとすることは、これまでも何度 かあった。「また上皇さまはわがままを…」 と、苦虫を噛みながら将軍尼は、後鳥羽の申入れを拒否した。
手拍子もいつか他人とずれてくる 前中一晃
「鎌倉殿の13人」 承久の乱ー② 永井路子ナンバー1論から
後鳥羽上皇にとっての悲願は、鎌倉幕府を打倒することであった。
将軍継嗣が不在する鎌倉は、後鳥羽の眼から見れば、
―鎌倉打倒はいまこそ好機!ーであった。 以後、後鳥羽と鎌倉の間に激しい応酬が続く。
たかが幼児と老婆の寄合所帯と思っていた後鳥羽は、その手強さから、
まざまざと義時の存在を感じとる。
「うぬ、きゃつめだな、張本人は」
ー上皇の命令にも従わないということは謀叛人にも等しいー、
と、勝手に拡大解釈して、後鳥羽は、はっきりと義時に狙いを定める。 翻訳は出来ないウボボイのこころ 合田瑠美子
「義時を討て!」
在京の鎌倉武士にもこう命令する。
それどころか鎌倉の武士にまで密使を飛ばす。
巧妙にも幕府打倒の本心には触れず、 <義時を討てば、莫大な褒美を与える> と、そそのかしたのだ。 <憎いのは義時ひとりだ。幕府を問題にしているのじゃない>
という態度をとり続けた。
こうして鎌倉武士を内部分裂させ同士討ちをさせようという魂胆である。
捨てる場所なくて怒りを持ち歩く 石橋芳山
たしかにこれは作戦としては上策である。 数百年来、その手に握り続けた官職をちらつかせ、恩賞で釣ろうという のも朝廷ならではの甘い罠だ。 かつて義経さえまんまとこれにひっかかっている。 鎌倉武士は、<きっとこれによろめく>、と後鳥羽は踏んだのだ。
今や義時は標的となった。
「ナンバー2面をしているが、ごまかされはせぬぞ!」
「義時、さあ勝負だ!」 後鳥羽は、そう叫んでいる。
自信あればこんなに威張らない 中岡千代美
義時にとっては、「実朝暗殺事件」にまさるピンチである。
<もしかここで御家人たちが、恩賞に釣られ、総崩れになったら>
ーそれを食いとめる力は、さすがに義時も、持ちあわせてはいないはず
だった。が、その生涯の危機にぶちあたると、立往生すると思いのほか、 義時は、ここで後鳥羽にまさる巧妙な手を打つ。 ナンバー2であることをいいことに、ナンバー1代行である政子のロで、 たくみに問題をすりかえさせてしまうのだ。 <義時は別に何も悪いことはしていない。これは不当ないいがかりだ。
上皇の狙いはほかにある。上皇は幕府を潰したいのだ!> 奈落からヌッ親鸞のふからはぎ くんじろう
それから政子は、故将軍・頼朝の業績を長々と述べたてる。
「頼朝公が旗揚げをされる前のそなたたちはどうだったか。
大番という都の警護役に駆りだされて、三年間もただ働き、
まるで都の貴族には、番犬同様の扱いをうけていたじゃないか。 それが大番の期間も短縮され、やっと、人間らしい権利が認められた のは誰のおかげか。 みんな故将軍家のおかげではないか。 そのお計らいでそなたたちの所領も増え、生活も豊かになった。
その恩を忘れる者はよもあるまい。
いや、それでも不服だという者は、この場で鎌倉幕府を見限って都へ
行くがよい・・・そんな恩知らずは相手にしない。 さあ、どちらへつくか、この場で返答するがいい」
塩加減より難しい褒め加減 宇都宮かずこ
後鳥羽の「義時打倒」の声は完全に無視されてしまっている。
すりかえはみごとに成功したのだ。
頼朝のことを持ちだされては、東国武士は反対の言葉を失うのである。 本質的なことを問題にすれば、たしかに政子の言い分は正しい。
後鳥羽の本心を見破っているし、事態把握も正鵠を射ている。
が、より現実的な闘争のテクニックとしてみれば、
これほど厚顔な問題のすりかえはないであろう。 そしてこれがうまく成功したのは、後鳥羽に名指された義時が、
ナンバー2だったという、たった一つの理由による。
勾玉の穴から見える向う岸 笠島恵美子
もし義時が、ナンバー1 であったとしたらー、 どうしても自己弁護になってしまう。 またいくら理屈が通っていても、 「俺のために戦ってくれ」
というわけだから、いまひとつ説得力に欠ける。
が、政子なら、
<義時のために戦えといっているんじゃない。
幕府の浮沈にかかわる、ことだから、幕府のために戦うべきなのだ> ぬけぬけとそういうことができる。
そしてもっと踏みこんでいえば、
この政子の「大演説」を用意したのは、義時だったかもしれないのだ。 もちろん幕府の知恵袋である大江広元もあずかって、力があったとは 思うのだが、根本にあるのは、「ナンバー1の政子とナンバー2の義 時の連携プレー」であろう。 政子は義時と合議の上で「宣戦の詔勅」を読んだのである。
生きていていい作品に仕上げる絵 梶原邦夫 ほーたる来い こっちの水はビールだよ 松浦英夫
屏風絵・洛中洛外図上杉本 (狩野永徳)
洛中洛外図屏風は,京都の市街と郊外を鳥瞰し、そこに有名寺社や名所
と四季のうつろいを追い、上は内裏や公方の御殿から下は町屋や農家の 住まいまで、そこに生きるひとびとの生活と風俗を描いている。 「後鳥羽から後鳥羽院へ」 治承4年(1180)8月17日、源頼朝は伊豆韮山で「平氏打倒」の
ため挙兵した。平家を打倒する最中に即位したのが、後鳥羽天皇である。 治承7年(1183)、木曽義仲が平家軍を破って入京しようとすると、 平家は、安徳天皇と三種の神器を伴って西国に下向した。 天皇と神器の不在を受けて、新天皇として即位したのが、後白河の孫の 後鳥羽であり、当時、数え年で4歳であった。 建久3年(1192)に祖父の後白河が亡すると、若くして「治天の君」
となり、朝廷の頂点に立つこととなった。 渋柿と呼ばれてやっと今日 井上一筒
後鳥羽は治天の君となった当初、自ら政治を主導するには至っておらず、
源通親などの廷臣が影響力を行使していた。 しかし、譲位以降の後鳥羽は、ようやく「治天の君」として成長を遂げ、
院政を担うようになっていった。 後鳥羽院は「治天の君」として日本全土の頂点に立つ者と自任しており、
自身の幼少期に成立した武士の組織・「鎌倉幕府」も当然その配下位置 づけられなければならなかった。 知らぬ間に大きな顔になっている 小林すみえ
後鳥羽上皇が率いる朝廷軍 「鎌倉殿の13人」 承久の乱・前夜-① 実朝の非業の死に北条氏は、さすがに動揺していた。
しかし、その後継者は実は、はなかったわけではない。
以前に子どもの出来ない実朝のために、政子みずからが上京して、
<後継者には後鳥羽院の皇子を> と交渉し、内諾を得ていた。
真っ白な脳にほどよい風が吹く 古賀由美子
建保6年(1218)2月4日にも、政子は京の都を訪れた。
実朝に子どもが恵まれないので、朝廷にかけあって皇族の1人を跡継ぎ
に迎え入れるためであった。皇族を将軍に迎えれば、 <朝廷と幕府の間も、もっとうまくいくようになるに違いない>
という思いもあった。 このとき政子は、朝廷から従三位という高い位を授けられ、
上皇に会うことを許された。しかし政子は 「片田舎の老いた尼が上皇様にお会いしても、何もよいことはございま
せん」 と、答えて辞退した、いきさつもある。 ポケットに入れたい如月のさらさら 宮井いずみ
それから京を辞して鎌倉に戻った政子を待っていたのは、思いがけない
出来事だった。 承久元年(1219)1月27日のことである。 鎌倉の鶴岡八幡宮で将軍・実朝が暗殺されたのである。
政子は政治闘争の渦のなかで、長男の頼家に続いて二男の実朝をも失う
ことになってしまったが、鎌倉幕府もまた征夷大将軍という主を失って、 空白状態になってしまった。 訃報くる空はこんなに青いのに 前岡由美子
北条泰時率いる鎌倉軍 ところが、実朝の惨死の報を聞くと、後鳥羽院は手のひらを返すような
態度に出た。 この際、鎌倉を困らしてやれというのだろう。 言を左右にして、朝廷と鎌倉の婚儀の実現を拒んだのである。
さらに義時の弟・時房が千騎の兵を率いて上京し、無言の示威を行った
のだが効果は虚しく、遂に後鳥羽の許可を引き出すことはできなかった。 そのとき後鳥羽院は、鎌倉の衰退を歓迎するように、伊賀局と卿の局
とともに水無瀬御所に船を浮かべ遊興の席にあった。 後鳥羽「鎌倉が皇子の件は、どうなっているかとせっついてきたか?
源氏の将軍が途絶えて鎌倉も困っているとみえるな…」
卿の局「ですから…先年の尼どのとの約束を是非にと…」
後鳥羽「そうはいかんぞ…情勢は変わった」
卿の局「はァ…?」
背の立たぬ川で泳いでいたなんて 高橋敏子
代りに後鳥羽院が、皇子問題へもち出した答えは、頼朝の姉の血をわず
かにひいている左大臣・藤原道家の子・三寅であった。 2歳になったばかりの幼児だった。
いくら何でも2歳の幼児では、そのまま将軍にするわけにはいかない。
やむを得ず、政子が代りをつとめることになった。 が、彼女は朝廷から、正式に将軍宣下をうけたわけではない。
つまり、将軍代行の形をとった。
鎌倉の実際の実力者は義時だが、彼は二番手が自分の性分だと自覚し、
表立つことはない。 代わりに義時が姉の政子をナンバーワンに推した結果であった。 言いたいこと半分のんで独り言 山本昌乃
「水無瀬御所では」
後鳥羽院は、権威をひけらかすタイプで大の政治好きである。
後鳥羽「もし北条が皇子を奉じたら、どうなる。将来の日本国は二つに
割れることになりかねん」 卿の局「まさか…!」
後鳥羽「第一、北条ごときに天下を左右させるわけにはいかん」
伊賀局「……」
卿の局「……」
後鳥羽「幕府には愈々、政治の舞台から下りてもらう時が来たのだ」
卿の局は返す言葉もなく、伊賀局はずっと無言のままだった。
後鳥羽にとっての悲願は、鎌倉幕府を打倒することである。
つまり頼朝以前の姿に返し、それまでに徐々に獲得してきた武士の権利
を剥ぎとってしまおうというのである。 往復ビンタかこちょこちょの刑か 酒井かがり
調 伏 の 修 法 (葛飾北斎画) まもなく、京の都では後鳥羽上皇の意志が躍動し始めた。
後鳥羽上皇による「反鎌倉幕府運動」である。
「実朝の死によって将軍職が空白となった鎌倉幕府はそうとうに弱体化
している…」 と、院は見て取り
<いまこそ鎌倉の動揺を衝いてわが親政を取り戻すとき…!?>
と、僧侶を集めて、幕府を呪い滅ぼすために「調伏の修法」をはじめた。 調伏の目標は影の義時である。 これで院と幕府の安定的な関係は破れ、両者の間には、緊迫した空気が
高まった。 しっかりと生きのびて来た指の節 山谷町子
調伏に合わせて後鳥羽院は、別件を持ち出し鎌倉を揺さぶりはじめる。
後鳥羽院は白拍子芸がことのほか好きで、しばしば演芸の宴を催した。
白拍子を母にもつ皇子も多かったという。 そして上皇の寵愛を一身に受けた伊賀局亀菊も元は白拍子であった。
上皇は亀菊を愛するあまり、摂津国長江・倉橋の荘園を与えた。 ところが、両荘の地頭が亀菊とトラブルを起こし、亀菊は上皇に泣き ついたのである。 「よしよし分かった。何とかしよう」
それを受けて院は、鎌倉にこの地頭を解任するよう要求したのである。
院は寵愛している伊賀局の所領問題を持ちだして、鎌倉にゆさぶりを
かけてきたのであった。 目が合うとツンデレ天神さんの猫 藤本鈴菜
鎌 倉 御 所
鎌倉御所では、 政子「摂津の長江・倉橋の二荘園の地頭を解任しろなどと…!」
義時「まったく無茶なことをいうお人だ」
政子「皇子将軍は断り、地頭は解任。余りにも勝手です」
義時「その荘園の給主が院の寵愛する伊賀局ときている!」
政子「公私混同などと非常識も甚だしい。絶対に認められません。
それと地頭のことも、幕府の根本に関わることですから、
絶対に譲るわけにはまいりません」
これを仙堂御所で聞いた後鳥羽院は、怒気を口元に露わにしていう。
「地頭解任は絶対に譲らないというのか!」
原則を絶対に曲げない政子と伊賀局にいい格好を見せたい後鳥羽院との
やりとりは終りが見えなかった。 一滴の絵具で四季を変化させ 若林くに彦
「所領の地頭が命令に従わないなら解任せよ」
これは朝廷側の常套手段である。何かと文句をつけて、地頭をやめさせ
ようとすることは、これまでも何度かあった。 一方の鎌倉武士は、「土地こそわが命」と思っているから猛然と抵抗する。
もつれにもつれて、長い裁判沙汰になったことも度々ある。 今回の地頭解任に対して、政子の考えは明白である。
「地頭の任免権は、そもそも源頼朝が後白河法皇から与えられたもので
あります。かつ頼朝によって任じられた地頭職は、重大な過失がない 限り、その子孫に代々伝えられることになっております。 軽々に罷免することはできません」 と拒否をした。
つい本音出したら涙ひと雫 石田すがこ
承久の乱へ集結する武士 この一件も含め、慈円の懸念した通り、院と幕府の関係は、ますます
ギクシャクしていく。 承久3年4月、後鳥羽院は前例を無視して幕府への連絡なしに、順徳天
皇の譲位と4歳の懐成親王(かねなりしんのう)の即位を断行した。 さらに5月14日、後鳥羽院は「城南離宮の流鏑馬揃え」を開催した。 この「流鏑馬」には、後鳥羽院の思惑があった。
幕府との合戦の時期を窺っていた院にとって、今一番必要なのは兵力で
ある。この流鏑馬は秘密裏に兵を募るという企てがあった。 結果、1700人もの兵が集結する。 そのほとんどが、近畿を中心とする武士たちであったが、中には、
鎌倉御家人の顔もあった。 このとき院は、御家人たちの分断作戦に成功したと思い込んだであろう、
まもなく京都守護・伊賀光孝を攻め殺し「鎌倉幕府追討の宣旨」を五畿 七道に下した。 手のひらの汗は正直凍りつく 津田照子 アイスピックで砕いた残念のかたち 山本早苗
御当羽院 戦支度 (歌川国芳画) 三代将軍・実朝が非業の死を遂げた後、さすがに北条氏は動揺していた。 しかし、その後継者は、実は、なかったわけではない。
それ以前に、子供のない実朝のために、政子みずからが上京して、
<――後継者には後鳥羽院の皇子を> と、交渉し、
内諾を得ていたのである。
ところが実朝の惨死の報を聞くと、後鳥羽上皇は手のひらを返すような
態度に出た。この際、「鎌倉を困らしてやれ」というのだろう。 言を左右にして実現を拒んだのである。
こんな時に限って踏切のいけず 藤本鈴菜
今度は義時の弟の時房が上京して交渉にあたった。
千騎の兵を率いて無言の示威を行ったのだが、効果はさっぱりで、
遂に後鳥羽院の許可をひきだすことはできなかった。 代りに選ばれたのは、頼朝の姉の血を僅かにひいている左大臣藤原道家 の子、三寅。まだたった二歳の幼児だった。 いくら何でも二歳の幼児では、そのまま将軍にするわけにはいかない。
やむを得ず政子が代りをつとめることになる。 「尼将軍」といわれるのはこのためだが、断っておくと、
彼女は正式に将軍宣下をうけたわけではない。 つまり将軍代行の形をとったのである。
零した涙に明日を握らせる 上田 仁
かくて、政子は公的にもトップのの座についたわけだが、 しかし真の実力者は、義時であることを見ぬいている炯眼の人物がいた。 後鳥羽院である。 後鳥羽院は歴代天皇の中では、指折りの政治好きだ。
ただし、天皇だから義時のように堪えることは知らない。
スタンドプレーが好きなあたり、むしろ義経型である。
あの人の心の奥をのぞきたい 小西美也子
御 所 池 周 辺 「鎌倉殿の13人」 後鳥羽上皇のスタンドプレイ
摂津・水無瀬離宮。後鳥羽天皇、伊賀局、卿局の3人が水無瀬に舟を
浮かべ、小さな膳に酒を嗜みながら、管絃や舞の催しを楽しんでいる。 そこではこんな会話がなされていた。
後鳥羽「皇子を将軍に欲しいと言ってきたか?
源氏の将軍が途絶えて鎌倉も困っているとみえるな」
卿の局「ですから、先年の二位の尼どのとの約束を是非にと」
後鳥羽「そうはいかんぞ…情勢は変わった」
卿の局「はァ?」
後鳥羽「おそらく、鎌倉はますます北条の天下になる。
そんなところに私の皇子を将軍として下してみよ」 伊賀局「………」
後鳥羽「もし、北条が皇子を奉じたらどうなる。将来の日本国は二つに
割れることにもなりかねん」 卿の局「まさか…」
後鳥羽「第一北条ごときに天下を左右させるわけにはいかん。
今こそ鎌倉の動揺を衝いて、我が親政を取り戻す時」
院と幕府の関係は破れ、両者の間には緊迫した空気が高まった。
言うことがコロコロ変わる活火山 宮井いずみ
鎌倉大倉御所 一方、鎌倉御所。政子と義時が顔を見合わせ苦虫を噛潰している。
義時「摂津の長江、倉橋の二荘園を罷免しろ、などと、無茶な要求を」
政子「皇子将軍はだめ、地頭を罷免せよ!なんて、冗談じゃない!」
義時「その荘園の給主というのが、院の寵愛している伊賀局なんですよ」
政子「公私混同も甚だしい!第一地頭のことばかりは、京都の言いなり
になるわけにはいきません。 幕府の根幹に関わること。絶対に譲ってはいけません」 鳩尾の怒りが弾けだす柘榴 荻野浩子
仙 洞 御 所
仙堂御所では。 後鳥羽「地頭を替えない限り、鎌倉の言い分など聞かん!」
鎌倉御所では。
政子「原則は絶対に曲げられません!」
「地頭改廃」は大きな政治問題化したが結局、双方和解するにいたらず、
皇子将軍はご破算となり、摂関家である左大臣・藤原道家の2歳の子・ 三寅が4代将軍として迎えられることになった。 後の頼経である。
だが、後鳥羽院の反幕府の感情は、ますます強くなっていった。
卓袱台をかえしたやろな親父なら 松浦英夫
藤原頼経(三寅) 承久元年(1219)7月19日、三寅が鎌倉入りすると、ただちに 政所始の儀式が行われ、政子が、幼い三寅と並んで挨拶を受けた。 政子「鎌倉殿がもっと大きくなるまで私が代行します。
私の言葉は、鎌倉殿の言葉と心得るように…」
実朝の死後、将軍の代わりを務めていた政子は、引き続きその任務を
果たすこととなった。名実ともに「尼将軍」として振舞った。 そして義時が補佐して幕府の実権を掌握した。
運命へ畳鰯の独り言 中村幸彦
前大僧正・慈円 比叡山延暦寺。
『コレハ将軍ガ、内外アヤマタザランヲ ユエナクニタマレムコトノ
アシカランズルヤウヲコマカニ申也…』 そのころ 前天台座主・慈円(67歳)は歴史書「愚管抄」を執筆中で
鎌倉を討とうとする後鳥羽院の計画を止めさせようと、痛烈な言葉を
記していた。 僧「前座主さま、相変わらずご執筆ですか?」
慈円「ああ何とか院に世の道理を分かっていただきたいからね」
僧「やはり、院は倒幕をお考えなのでしょうか?」
慈円「この末世では、武士の現在のあり方は当然のことなんだよ。
まして摂関家の九条家から将軍が出たのは、願ってもないこと」
僧「……」
慈円「道理の分からぬ院は何かと武士、特に鎌倉を敵視される。
このままではとんでもない過ちを犯されるだろう。
本来なら、後鳥羽院に降りていただくのが一番なのだが」
僧「…それはまた過激なことを…」
慈円「君のため、世のためには、それが道理というもの」
『愚管抄』は承久の乱が起る直前に書かれており、この中で慈円は、
後鳥羽上皇の無謀な倒幕計画を痛烈に批判している。 愚管抄の目的は、上皇の幕府転覆を阻止することにあった。
地雷踏みましたねよそ見しましたね 本田律子 |
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